ドラゴンは滅びない




原初の海 後




 還るべき、場所へ。


 訳もなく、泣きたくなった。
 頬を照らす暖炉の炎は暖かく、舌に残るスープの味は塩辛く、父親と母親は下らないことで言い合っていた。
その光景を見ているだけで、胸の奥に痛みが走った。当たり前だと思っていたことは、当たり前ではないのだ。
どこにでもある、仲の良い家族の風景だ。だが、だからこそ、拭いきれない重たい違和感が心中を掻き乱した。
 テーブルを囲んで夕食を摂るダニエルとフローレンス、そしてロイズは、当たり障りのない会話を続けていた。
どれもこれも味付けが濃く、喉が渇いてきそうだった。ダニエルも細々と文句を言うが、最終的には褒めていた。
フローレンスは料理を食べる二人の姿をにこにこしながら見守っているので、おいそれとは残せそうになかった。
出来れば、何一つとして残したくなかった。ロイズは塩辛さを堪えながら、母の作った魚の煮付けを食べていた。

「ロイズ」

 不意に声を掛けられて、ロイズはフォークを取り落として振り返った。そこには、いないはずの兄が立っていた。
この家の扉は、ヴェイパーは通り抜けられないのではなかったのか。だが、鋼の兄はちゃんと食堂に入っていた。

「もう、帰ろう」

「帰るって、どこへ」

 ロイズが訝ると、ヴェイパーは談笑を続ける両親を見やった。なぜか、二人は兄に気付いていなかった。

「帰るんだ」

「だから、どこに帰るんだよ。ヴェイパー」

「解っているだろう、ロイズ?」

 ヴェイパーは、両の拳を握る。

「そりゃ、僕だってこのままダニーとフローレンスと一緒にいられたら楽しいと思うし、こうだったらいいな、あんなことにならなかったらこうなっていただろうな、って考えたこともある。だけど、これは」

「解っているけど」

 解りたくなかった。ロイズは食卓を立ったが、両親は一切気付かずに会話を続けている。それが、異様だった。
両親が生きていたら。両親が死ななかったら。あの戦いがなかったら。こんなことになっていたはずだ、と思った。
ヴァトラス一家との暮らしはとても楽しいが、リリとその両親との姿を見ていると、寂しさに襲われる時もあった。
 そんな時に、いつも夢想した。果たされないまま終わった、釣りを教えてくれるとの約束が守られた後の世界を。
その世界では、いつもこうだった。両親がいて、釣りをして、家族全員で遊んで、団欒をして、そして眠るのだ。
何度も何度も思い描いたので、頭の中に焼き付いたほどだ。だから、目を開けば、それが夢だと解ってしまう。
だから、目を覚ましたくなかった。現実ではないと解れば、夢だと自覚すれば、この世界は崩れてしまうからだ。

「帰ろう、ロイズ。ここにいちゃ、いけないんだ」

 ヴェイパーは、ロイズに手を差し伸べてきた。ロイズはその大きな手に手を重ね、両親に振り向いた。

「さようなら、父さん。母さん」

 ロイズは精一杯の笑顔を、二人に向けた。

「いってきます」

 涙が零れ落ちそうになったが、力一杯奥歯を噛み締めた。周囲の光景が綻び、崩れ、光が差し込み始めた。
ヴェイパーの姿だけが確かで、その手の硬い感触は力強かった。ロイズは兄と共に前に向いて、踏み出した。
足元にあった床も崩れてしまったにも関わらず、土を踏みしめているような感覚がつま先と膝に伝わってきた。
ロイズの周囲を、次々に景色が流れていく。異能部隊としての日々や、幼い頃の光景や、ブリガドーンの記憶が。
そのどれもに目を向けながら、上へ上へと登り詰めていく。閉ざされた意識の世界を揺らがす咆哮が、聞こえた。
 それが、帰るべき世界への標だった。




 教室は、空っぽだった。
 どれほど待っても、子供達は登校してこない。だが、待っていればいずれ来ると信じて、教壇で待ち続けていた。
人数分の真新しい教科書と石版を重ねた教卓に寄りかかり、手入れをしたばかりの大きな黒板を見上げていた。
傍らに立つフリューゲルは、窓の外を見つめていた。ゼレイブと学校を繋いでいる道を歩く者は、一人もいない。
どこまでも広がる草原を風が渡り、波打たせ、海を作る。その風が教室に吹き込み、カーテンがふわりと広がる。

「なあ、リリ」

 フリューゲルから声を掛けられて、リリは俯いた。

「うん。解っているよ」

「これがリリの夢なのかこの野郎?」

「うん、夢なんだ。まだ、誰にも言ってないんだけどね。私、ロイとヴィクトリア姉ちゃんと友達になれて楽しかったし、嬉しかったから、他の子達にもそんな思いをさせてあげたいなって思ったの。お父さんみたいに強くなって、誰かを守りたい。お母さんみたいに優しくて大きな人になって、誰かを支えてあげたいの。だから、先生になりたいんだ」

 すらりと伸びた手足が縮み、身長が低くなり、黒板も教壇も遠くなる。リリの姿は、八歳の幼女に戻っていた。

「ねえ、フリューゲル。私、先生になれるかな?」

「なれねぇわけがねぇだろうがこの野郎! リリだったら、何にだってなれるんだぜこの野郎!」

 フリューゲルは、リリに手を差し出す。

「行こうぜ、リリ」

「フィル婆ちゃんが呼んでいるもんね」

 リリがフリューゲルの手を掴むと、教室の壁が崩れ、屋根も消え、校舎が消え失せて草原の風が吹き付けた。
フリューゲルの手首に結び付けられた、リリのネッカチーフが揺れている。リリは彼の手を、両手で握り締めた。

「うん。オレ様にも聞こえるぞ」

 フリューゲルは身を屈めてリリに近寄り、空を仰いだ。無限大に広がる青は、遠い昔に焦がれていた色だった。
それを震わすように、彼方から咆哮が流れてくる。空に、風に、地に染み渡る力強い声が二人にも伝わってきた。
魂そのものを掻き乱すような、本能を揺さぶる声。軽い畏怖と共に感じるのは、心が奮い立つほどの気迫だった。
 これこそが竜だ。リリはそう確信した。体に流れている竜の血が滾り、熱を含み、心臓から体中に行き渡った。
フリューゲルもまた、魔物の本能で感じていた。凄まじい竜の咆哮は、リリとの夢の中で緩んだ心を締め上げた。
二人は手を繋いだまま身を寄せ合い、願った。美しく素晴らしい未来を描いた夢から、辛辣な現実へ戻る道を。
夢の中は心地良く、傍には掛け替えのない者がいる。誰にも邪魔されない、二人だけしか存在しない世界だった。
二人とも、心のどこかで望んでいたのかもしれない。度重なる苦難と戦いに疲れ、逃げ道を求めていたのだろう。
だが、本当の夢は叶わない。ここにいる限り、先生になれず、友達は増えず、異能の子達を幸せには出来ない。
 だから、飛び立つのだ。フリューゲルはもう一方の手でリリの頭を引き寄せ、その小さな唇にマスクを当てた。
驚いたリリが目を見開いたが、フリューゲルは有無を言わさずに少女を抱き締め、地面を蹴って飛び上がった。
 未来へ、帰ろう。




 微睡みは、長く続かなかった。
 人が入れそうなほど大きな暖炉の前のソファーでは、両親が身を寄せ合って目を閉じて、深く眠り込んでいた。
二人の上には毛布が掛けられていて、幼女の姿をした石人形も主であるグレイスに寄り添って目を閉じていた。
豪奢で広い居間には冷気が忍び寄り、少し熱く思えるほど高まっていた暖炉の熱も下がり始めて空気も重たい。
縦長の窓の外では雪が降りしきり、朝日は昇らない。この夜は終わらないのだ、とヴィクトリアは思っていた。
 あれから、どれほど話し込んだだろう。旅行の話、両親の馴れ初め、父親と母親が若かった頃の話などを。
ヴィクトリアの旅の話だけでは飽き足らず、話せるだけ話した。だが、ふと気付くと会話の内容は一巡していた。
何度も聞いた話を、さも初めて話すかのように話し出していた。それが何を意味しているかを、感じ取っていた。
すなわち、両親と姉に関する記憶が途切れているためだ。あの戦いの日から先の記憶が、一切ないからだ。
両親の話す話は、どれもヴィクトリアが聞いたことのある話だった。忘れるまいと、何度も思い起こした記憶だ。
だから、冒頭を聞くだけでどんな話かが解るほどだった。なのに、解っていないふりをして、声を上げて笑った。
けれど、いつしか苦しくなった。終わらない夜を続けて、在りもしない未来の話をして、作り笑いを続けることが。
 最初から解っていた。両親は死んだ。姉も死んだ。ルーと名の付く一族は、ヴィクトリアの代で終わりなのだと。
受け入れていたし、理解していた。声と魔力を失うほど苦しみ、現実から逃れようとしたが、結局出来なかった。
だが、もう泣かないと決めた。両親が死んだのは自分を生かすためだ。だから、泣いてばかりいては申し訳ない。
それに、立ち上がって前を向いて生きていけば両親だって喜んでくれるだろう。少なくとも、怒りはしないはずだ。
 ヴィクトリアはソファーから降り、スカートの裾を直した。両親と姉が冷えないようにと、暖炉に薪を入れ直した。
燃え尽きかけていた薪が増えたことで、弱っていた炎が力を取り戻した。ヴィクトリアは、眠る両親へと歩み寄る。

「お父様、お母様」

 二人の寝顔は安らかだったが、暖炉の明かりに照らし出された顔色は土気色だった。

「私、もう行かなくてはならないのだわ」

 ヴィクトリアは二人の頬に触れたが、指先に感じた体温は悲しいほど冷たく、肌の手触りも硬くなっていた。

「レベッカ姉様も」

 ヴィクトリアは父親の傍らで眠るレベッカの頬に、口付けを落とした。

「愛しております」

 ソファーに乗って膝を付いたヴィクトリアは、両親の頬にも口付けを落としてから、微笑んだ。

「ごきげんよう。お父様、お母様、レベッカ姉様」

 ヴィクトリアは三人の傍から離れると、丁寧に礼をした。名残惜しく思いながらも、家族に背を向けて歩き出した。
居間の扉に手を掛けると、蝶番が鈍く軋みながら開いた。真っ暗で底冷えのする廊下の奥から、声が聞こえた。
この世で最も強大な獣の放つ、咆哮だった。甘い眠りに弛緩した魂を震わせるほどの力を持った、竜の猛りだ。
 ヴィクトリアは廊下に出て居間の扉を閉め掛けたが、もう一度家族へ向けて礼をしてから、ゆっくりと扉を閉めた。
竜の咆哮と共に風が吹き込み、スカートと髪が舞い上がる。長くなっていた後ろ髪が途切れ、廊下の奥に飛んだ。
髪の重みが失せると、肩に触れない程度の長さにぱっつりと断ち切られた黒髪がなびき、首筋をくすぐってくる。
ヴィクトリアは短い髪に触れ、かすかに微笑んだ。だが、すぐに表情を強張らせ、灰色の城の廊下を駆け抜けた。
 現実へ、帰らなければならない。




 数え切れないほど、愛を交わした。
 互いの肌は熱く火照り、汗ばんでいる。太股の間を伝い落ちる自分のものではない体液が、やたらに熱く感じる。
噛み跡をいくつも付けた肩に頭を預け、気怠い疲れに身を任せる。間近では、汗の玉が浮いた胸が上下している。
その胸に手を這わせ、抱き締める。体を重ね合ううちに乱れた銀髪に指が差し込まれ、優しい手付きで梳かれた。
互いの汗や体液が染み込んだシーツの上で、目を閉じた。二人は浅い眠りを繰り返しながら、愛し合っていた。
何度も精を注がれて、何度も達した。体だけでなく、魂の隅々まで満たされたが、そのたびにひどく悲しくなった。
 悲しくなる理由は解っていた。ここまで彼を求めても、彼とは繋がれない。どれほど求められても、与えられない。
解っているのに、また求めてしまった。けれど、求めれば求めるほど、火照った体とは逆に心の奥が冷たくなった。
この世界で体を満たせても、現実には体を満たせない。体を満たそうとすればするほどに、心が満たされなくなる。
即物的な感情も、愛であると言える。だが、愛とはそれだけではないと解っているからこそ、空しくなってくるのだ。
 ルージュはブラッドの肩から身を起こし、肩から零れ落ちた銀髪を掻き上げた。彼もまた、空虚な顔をしていた。
ブラッドも体を起こし、うんざりしたようにため息を吐いた。ルージュはブラッドの腕に自身の腕を絡め、寄り添う。

「良かったか?」

「良すぎて、なんか萎えちまうんだよな」

 ブラッドはルージュの裸身の腰に腕を回し、抱き寄せる。

「ルージュとしたいのは確かだよ。けどさ、それだけじゃダメだってもう解っているから」

「ああ、私もだ」

 ルージュはブラッドの頬に手を添えて滑らせ、細い指先で顎を引き寄せた。

「求めるだけではいけないんだ。与えなくては、求める資格は生まれない」

「オレらだけが幸せなんじゃ、皆に悪いもんな」

 ブラッドが笑うと、ルージュも笑んだ。

「だから、私はお前が好きなんだ」

「そう言われると、弱いんだよなぁ」

 ブラッドは頬を緩めて、ルージュへと身を傾けた。彼女の冷ややかな唇と己の唇を重ね合い、舌を差し込む。
舌に絡む彼女の舌は、柔らかかったが鉄臭かった。血の味とは違う、生々しくも無機質な金属そのものの味だ。
頬を挟むと、手に触れている肌も硬くなった。寄せ合っている体も、分厚い装甲に包まれた兵器に戻っていく。
目を開くと、間近には武器を携えた兵器の女がいた。ブラッドはもう一度深く口付けてから、ルージュを見つめた。

「今度、本当に抱いていいか? これ以上、我慢出来そうにねぇや」

「私も、お前が欲しい」

 ルージュはブラッドに口付けを返してから、目を細めた。ブラッドは少し照れくさそうにしたが、ふと顔を上げた。
ルージュがそれに倣って顔を上げると、どこかから声が聞こえてきた。覚えのある強い魔力が、込められている。
いつのまにか、二人が体を重ね合っていたベッドが消え失せ、手狭な家もなくなり、藍色の夜空だけになっていた。
足元を支える地面もなかったが、ルージュの背の推進翼からは青い炎が走り、ブラッドの背からも翼が生えた。
 気付けば、ブラッドは礼服を着ていた。闇を切り取ったような黒のマントと上下の姿に、あの戦いが蘇ってきた。
それはルージュだけでなく、ブラッドもそう思っていたようで、少しばかり複雑そうな顔をして礼服を見下ろした。
あの時は互いに必死だったので、評価する暇もなかった。しかし、改めて見ると、手足の長い彼には良く似合う。

「似合っているぞ、ブラッド」

 ルージュが褒めると、ブラッドは気恥ずかしげに口元を曲げた。

「なら、いいけどさ」

「行くか、ブラッド」

「ルージュとなら、どこへでも」

 ブラッドは笑み、手を伸ばしてきた。ルージュは躊躇わずにその手を取り、互いを確かめるように握り合った。
ブラッドが翼を羽ばたかせると同時に、ルージュも推進翼の炎を強めた。星々が瞬く夜空の下を、飛んでいく。
竜の咆哮が聞こえてくる方向へ向けて、一心に飛んだ。決して離さないように、握り合った手に一際力を込めた。
飛び続けるうちに、東の空の端から真新しい光が溢れ出した。白い日差しに照らし出され、世界が姿を現した。
その中に、二人が帰るべき場所はあった。顔を見合わせてから、ブラッドとルージュは降下して向かっていった。
 素晴らしい日々へと帰るために。




 夢は夢でしかない。
 腕に感じる赤子の重みと体温は、頼りなく、尊い。何枚も産着を着せられている愛娘は、ぐっすりと眠っていた。
あまりにもよく眠っているので心配になり、何度も呼吸を確かめる。頭に残る鈍痛を、気にしている暇などない。
あの生温い夢を見続けたおかげで、胸焼けがしていた。あんなに爛れた夢を見てしまうのは、何年ぶりだろうか。
 甘い世界を夢見ていたのは、少女だった頃だけだ。逃亡を続けるうちに大人になった今では、思い描きもしない。
理想は理想であり、現実にはならない。リチャードと十年間も逃亡を続けたキャロルは、身に染みて知っていた。
どれだけ素晴らしく美しい世界を想像したところで、突き詰めてしまえば、それは心中で醜く膨らんだ欲望なのだ。
欲望の固まりである理想の世界は自分自身には一番美しく見えるが、一歩引いて見ればそれは滑稽でしかない。
 何が上流階級だ。何が旧家だ。何が血筋だ。そんなものを必死に守ったところで、リチャードは喜ぶわけがない。
リチャードはヴァトラス家が没落の一途を辿る様を見てきたのだから、守るだけ無駄なのだと誰よりも知っていた。
過去の栄光に意地汚く縋り付いて、当の昔に失った力がさもあるかのように振る舞い続けても、何も始まらない。
むしろ、終わるだけだ。あまりの醜悪さに周囲だけでなく身内からも見捨てられて、更に転げ落ちていくだけだ。
 キャロルは唇を引き締めて、背筋を伸ばして立った。誰の魔法かは知らないが、理想に溺れるほど若くはない。
つまらない夢に魅了されるのは、余程の子供か現実逃避をしたい者だけだ。だが、そんな者はゼレイブにいない。
とりあえず、手近な弟夫婦の家に向かおう、とキャロルがヴァトラス一家の家に向かうと、人影が目に入ってきた。
レオナルドとフィリオラだった。二人はキャロルとウィータの姿に気付くと、一瞬安堵したがすぐに表情を硬くした。

「フィリオラさん、レオナルドさん」

 キャロルが駆け寄ると、フィリオラも駆け寄ってきた。

「キャロルさん、大丈夫でしたか? 私達全員、魔法を掛けられていたようです」

「おかげで寝覚めが最悪だ。言うのも馬鹿馬鹿しくなるぐらい、下らん夢を見させられた」

 レオナルドは、苛立ちを露わにする。フィリオラは母親の顔ではなく、魔導師の顔をしていた。

「私達を眠らせていた魔法は、恐らく夢幻の魔法でしょう。深層意識と魂に直接働きかけるので、どちらかと言えば呪術に近い魔法です。被術者を深い眠りに誘い、心の片隅で思い描いている理想を暴き出し、現実と見紛うばかりの鮮やかな夢を見せる魔法です。私の場合は、十年前にキースさんの魂を取り込んだおかげで耐性が付いていたようで、魂に異物が入り込んでも意識を引き戻せました。レオさんの場合は、生体魔導兵器との戦闘以降は魔力の消費を抑えていたので、魔力が有り余っていたおかげで魔法を掛けられてもレオさん自身の魔力で相殺されてしまったようでして、私が起こさなくても目を覚ましてくれましたよ」

「私は、夢はもう見飽きましたから。夢に酔っている自分にうんざりして、目が覚めてしまったようです」

 キャロルは、腕の中のウィータを見つめる。フィリオラは意外そうに目を丸める。

「そういう解術方法もありましたか」

「要するに、現実逃避をするなってことだな」

 レオナルドは、ブラドール家の屋敷に向いた。すると、屋敷の方からこちらに向かってくる四つの影があった。
先頭はなぜか礼服姿のブラッドとルージュで、後方にはピーターとヴィクトリアが念動力を用いて空を飛んでいた。
ブラッドとルージュは同時に着地し、ピーターは念動力で浮かばせていたヴィクトリアを地面に降ろし、着地した。

「最悪の展開だ」

 ルージュは着地すると、視線を遠くへ投げた。地面が途切れており、その先には強い潮風が吹き抜けていた。

「ブリガドーンの存在していた座標軸とほぼ同じ位置に、ゼレイブ全体が浮かばされている。そろそろ手を下すのではと思っていたが、まさかこんな手で来るとは思っていなかった。正直、油断した」

「道理で、見覚えのある景色だと思ったのだわ」

 ヴィクトリアは上着の襟元を合わせ、呟いた。ブラッドは、うへぇ、と声を潰す。

「とんでもねぇことをしやがるぜ。だが、誰がゼレイブを丸ごと動かしたんだよ?」

「ファイドだ。こんな芸当が出来る者は、他にはいない。一連の出来事の裏で糸を引いていたのは、あの男なんだ。私は、フィフィリアンヌからそれを教えられていたんだ」

 ルージュの述べた真相に、他の面々は言葉を失った。最初に言葉を発したのは、訝しげなフィリオラだった。

「でも、だったら、どうしてルージュさんはファイド先生に何もなさらなかったんですか?」

「私はフィフィリアンヌの駒だからな。分を超えた行動は出来ない。それに、竜と戦って勝てるほど強くもない」

 ルージュは自嘲したが、決意を持って顔を上げた。

「だが、それでいいとは思ってはいない。ようやく人並みの幸せを味わえるようになったというのに、奴の一存だけで殺されるのはごめんだ。私とて吸血鬼の端くれだ、このまま殺されてしまっては我が牙が泣いてしまう」

「そうですか…ファイド先生が…」

 キャロルはウィータを抱き締め、複雑な顔をした。レオナルドは、その肩を支える。

「色々なことを考えるのは、事が終わった後にしよう。今、最優先すべきは生き延びることだけだ。ウィータを死なせちまったら、兄貴からどんなに恨まれるか解ったもんじゃないからな」

「人当たりが良いほど腹の底では何を考えているのか解らない、ということなのだわ」

 ヴィクトリアは、大地から切り離されたゼレイブをぐるりと見渡す。

「けれど、さすがは竜族ね。私達に気付かれずにこれほど大規模な魔法を成せるなんて、なかなか素敵だわ」

「オレ達を眠らせたのは、ただの時間稼ぎだったのかもしれませんね。ただでさえ妙なのばかりがいるんですから、誰かしらが必ず目を覚まします。こんなに大袈裟なことをするからにはそれ相応の理由もあるんでしょうが、事態がどう転んでも確実に全員殺せるように、ブリガドーンを沈めた海峡を選んだように思えます。ゼレイブごと海に叩き付けられるだけでも全員死亡する可能性は高いですが、その上、海中には馬鹿みたいに魔力を含んだ岩石がごろごろしています。そんな爆弾みたいなものの上に落ちてしまえば、いくら我々でも命はないでしょうね。もちろん、竜だって。あの先生は、オレ達全員を道連れにするつもりなんでしょうか」

 ピーターは拳を固め、手のひらに打ち込んだ。

「そうだとしても、ゼレイブが落ち始めたら全力で支えますよ。オレの力はそのためにあるんですからね」

「落ちる前になんとかします。出来なくたって、してみせます」

 フィリオラは、力強く頷いた。その背後で玄関の扉が開き、少年と少女が駆け出してきた。ロイズとリリだった。
皆の目線がそちらに向くと、屋根の上からはフリューゲルが降り、家の裏からはヴェイパーが駆けてやってきた。
レオナルドは集まってきた人数を指折り数えていたが、気付いた。ギルディオスの他に、ブラドール夫妻がいない。

「どうも、良くないことになっていそうだな」

 レオナルドは、眉根を歪める。フィリオラは子供達と目線を合わせ、言い聞かせる。

「リリ、ロイズ。あなた方は家にいて下さい。いざと言う時に守りきれないと、悔しいですから」

「こんな素っ頓狂な状況じゃ、どこにいたって同じですよ。それに、僕は異能部隊の隊長です。部下を守るのが隊長の仕事ですから、僕も前線で戦います。僕は父さんじゃないけど、父さんだったら間違いなくそうするだろうから」

 ロイズは躊躇いもなく、言い切った。リリは己を奮い立てるかのように、声を上げる。

「フリューゲルがいるから大丈夫だもん! ちょっと怖いけど、でも、頑張るから!」

「くけけけけけけけけけけけけ! オレ様は怖くなんかねぇんだぞこの野郎! リリを守るためだったら、どんなことだってしてやるんだぜこの野郎ー!」

 ばさばさと翼を振りながら、フリューゲルが猛る。ヴェイパーは両手を握り、関節から蒸気を噴き出した。

「何がどうなっているのかはよく解らないけど、僕は皆のために戦う! それだけだ!」

「私達が戦うべき相手は、あちらにいるのだわ」

 ヴィクトリアは、ゼレイブの中心に向いた。

「灰色の城から旅立って、ここに来ることを選んだのは私自身なのだわ。だから、何が起きても後悔しなくってよ」

 その視線が据えられた先には、この場にいない者達が集っていたが、並々ならぬ雰囲気を漂わせていた。
黒竜の男、二本の尾を持つ白き獣、異能の女。そして、大剣を携えた屈強な甲冑、竜の少女、魔性の粘液。
それらを、銀色の骸骨が見下ろしている。彼は眠りから覚めた皆に気付いたが、こちらには向かわなかった。
魔導金属糸の銀色のマントを翻し、骨に酷似した機械の体をしなやかに曲げ、竜の元へと飛び込んでいった。
 行こう、と言ったのは誰であったのだろうか。皆はその言葉に促されるまま、人ならざる者達の元を目指した。
だが、怯む者は一人としていなかった。皆が皆、最も旧き竜へと挑む躊躇いや畏怖に負けずに、足を進めた。
 それが、使命であるかのように。





 


07 11/10