ドラゴンは滅びない




灰色の残滓




 淡い微睡みが、強引に押しやられた。
 リリは億劫に思いながらも目を開き、見回した。現実ではないと解っているから何が起きても驚かない。 他者の意志に操られるようにあのメガネを掛けた瞬間に、急に意識が自分の奥底へ引きずり込まれてしまった。 フリューゲルとの感覚の接続は切れていないが、雑念が混じった。その雑念の端々から、状況を理解していた。 メガネの持ち主はヴィクトリアの父親であるグレイス・ルーであり、殺された瞬間の残留思念に憑依されたのだ。 そして今度は、リリの魔力を勝手に使って造り上げた精神世界に三人を引きずり込み、何かをしようとしている。 ロイズの感情からして、ろくでもないことのようだった。正直苛立っていたが、グレイスの思念には逆らえなかった。 残留思念とはいえ、リリよりも遙かに思念の扱いが上手い上に死者とは思えぬほど強烈で、押さえ込めなかった。 後でグレイスに文句を言ってやろう。そう思いながら、次第に光が広がり始めた視界を見渡し、リリは皆を探した。
 光源の解らない光によって浮かび上がったのは、灰色の城だった。少なくとも、フィフィリアンヌの城ではない。 城だけでなく塀までもが灰色の石で組み上げられていて、大きな門にはこれまた大きな跳ね橋が上がっていた。 広い前庭には見事に育った魔法植物の花壇が並んでおり、古びた城の正面玄関には、長身の男が立っていた。

「ようこそ、我が城へ」

 灰色の礼服に身を包んだ男は、丁寧に礼をした。その肩から、太い三つ編みが滑り落ちる。

「オレがこの城の主であり、世界に名を馳せた稀代の呪術師、グレイス・ルーにございます」

 顔を上げた男は、丸メガネを掛けていた。目鼻立ちは整っているが顔立ちは穏和で、二十代後半に見える。 どちらかというと、好青年だった。だが、雰囲気は若くもなければ柔らかくもなく、鋭利な威圧感が感じられた。 リリは顔に手を当てたが、メガネはなくなっていた。他の気配を感じて辺りを見回すと、三人の姿が現れた。
 なぜか異能部隊の戦闘服姿のロイズと、なぜか白いドレス姿のヴィクトリアと、普通のフリューゲルだった。 ロイズは戸惑い気味ではあったが戦闘服の襟を整え、ヴィクトリアも仕方なさそうに純白の扇を広げていた。 フリューゲルは即座に飛び出すと、リリに抱きついた。その勢いに流されてしまい、リリはその場で回転した。

「リリ、リリー! 会いたかったんだぞこの野郎ー!」

「わっ、わっ!」

 フリューゲルの重量に押され、リリは背中から転んでしまった。

「リリだな、リリだぞ、リリだってんだー!」

 余程嬉しいのか、フリューゲルはリリを抱き締めてきた。リリは赤くなりながら、フリューゲルを押し返す。

「嬉しいのは解るけど、ちょっと恥ずかしいよ…」

「相変わらず、ヴァトラスの娘ってのはゲテモノ趣味だぜ。こりゃもう、血筋に組み込まれてんだな」

 グレイスは首を竦めてから、真っ直ぐに歩いてロイズとヴィクトリアの元へとやってきた。

「よう、ロイズ。こうしてツラを合わせるのは、これが初めてだな」

 至近距離まで近付いてきたグレイスに、ロイズは気圧された。見た目は普通だが、雰囲気が普通ではなかった。 本体が死んでいるので魔力があるわけでもないのに、重たい威圧感と明確な敵意が感覚を直接揺さぶってくる。 だが、ここで負けてはダメだと思って見返すも、グレイスは笑顔でありながらも冷ややかな眼差しを返してきた。 魔法で全員の精神を繋いだ状態なので、生々しい怒りや苛立ちが流れ込んできて、それだけでも息苦しくなる。
 外見だけなら、どこにでもいそうな男だった。東方の血が混じっているのか、彫りは浅く、肌の色も薄黄色だ。 長身で手足が長く、体格も悪くない。ヴィクトリアのそれに酷似している長い黒髪は、血の繋がりを感じさせた。 だが、顔立ちはそれほど似ているわけではなかった。グレイスの言葉通り、ヴィクトリアは母親似なのだろう。 グレイスのそこかしこにヴィクトリアとの類似点を見つけるたびに、この男は彼女の父親だと改めて認識する。 それが、妙に嬉しかった。安堵感と軽い羨望を混ぜた思いに浸りそうになり、ロイズは慌ててそれを振り切った。 今は、そんなことをしている場合ではないのだ。少しでも気を逸らしてしまえば、敗因に繋がってしまうのだから。

「オレの可愛い一人娘に手ぇ付けやがって、ただじゃおかねぇからな」

 グレイスはロイズへ顔を近寄せると、邪悪な笑みを浮かべた。

「まだ、手は付けてないんだけど」

 ロイズが半歩後退ると、グレイスはロイズの胸倉を掴み、無理矢理引き寄せた。

「うるせぇ! 触っただけで充分手ぇ付けたことになるんだよ! 覚悟しろ、徹底的に叩きのめしてやる!」

 フリューゲルの下から逃れたリリは白いドレス姿のヴィクトリアに近寄ると、その格好を上から下まで眺めた。

「ヴィクトリア姉ちゃん。その服、何?」

「小さい頃に見た記憶があってよ。お母様の衣装部屋にあったものと、同じドレスなのだわ。なんて懐かしい…」

 ヴィクトリアは純白のスカートをつまむと、懐かしげに頬を緩めた。

「で、私達は何をしていればいいのかな」

 リリが首を捻ると、ヴィクトリアは上流階級の貴婦人が使うような立派な扇で口元を隠した。

「とりあえず、傍観するだけなのだわ。ああなってしまっては、誰であろうとお父様を止められなくってよ」

「くけけけけけけけけけけけけ! グレイスって野郎は子供みたいなんだぞこの野郎ー!」

 リリを背後から抱き締めながら、フリューゲルは可笑しげに笑った。その重みを感じつつ、リリは苦笑する。

「フリューゲルに子供って言われちゃお終いだよねぇ」

「もっともなのだわ」

 ヴィクトリアはくすりと笑みを零すと、二人に目を向けた。グレイスがいきり立つも、ロイズは逆に冷めていた。 グレイスがむきになるに連れて、ロイズは萎えているらしい。その気持ちは、ヴィクトリアにも解らないでもない。 子供の頃、グレイスがヴィクトリアよりも子供っぽい態度でロザリアに絡む様をよく見たが、その時と同じだった。 ヴィクトリアには、この人はそういう人なのだという認識があるからまだ平気なのだが、ロイズは今回が初対面だ。 グレイスはその能力と才能の高さに反比例して、人格が妙に幼い。慣れない者は、その落差に惑わされてしまう。 だが、ロイズも決して素人ではない。グレイスの聞くに堪えない文句を聞き流していたが、不意に表情が変わった。
 空間が歪む違和感が、城の前庭に広がった。グレイスは素早く身を翻して高く跳ね上がり、ロイズとの間を開く。 ロイズは上向けた手のひらのすぐ上に作った湾曲空間を消してから、少しばかり悔しげな面持ちで口元を曲げた。

「一枚目は弾かれたか」

「ブリガドーンの時に遠目で見ただけだが、なかなか面白そうな力じゃねぇか」

 グレイスは立ち上がると、ぐっと右手を握って魔力を高めた。

「訓練不足が気になるけど、これも訓練だと思えば問題はない」

 ロイズは両足を広げて踏ん張ると、左腕を前に突き出し、異能力を放った。

「空間湾曲!」

 ロイズの目の前の空間が、円形に歪む。ロイズは右手を振り上げ、その中に突っ込んだ。

「短縮!」

 直後、グレイスの目の前に開いた湾曲空間から、魔力の光弾が飛び出した。だが、グレイスは怯みもしない。 手も挙げずに魔法を紡ぎ、薄く張った防御壁で弾き飛ばした。ロイズは湾曲空間内から右手を引き抜き、笑う。

「まあ、これが効くとは思ってないけどね」

「もうちょっと応用しろよ。型通りでつまんねぇんだよ!」

 グレイスは身を屈め、右手を地面に叩き付けた。

「魔法ってのを解っちゃいねぇ!」

 グレイスの右手を中心にして、地面が柔らかく波打った。その範囲は一瞬で広がり、ロイズの足元に及んだ。 ロイズは即座に飛び上がるも、水のように波打つ地面から突如現れた手に掴まれ、そのまま引きずり下ろされた。 足首を掴む手はとても小さく、子供のようだった。ロイズは空間を歪めてから断絶させ、その手首を断ち切った。 鈍い音と共に千切れた手は土の中に落ちたので、ロイズは足元の空間を歪めて上昇し、空中に浮かび上がった。 湾曲空間を固定させて足場にしてから、グレイスを見据えた。グレイスは右手を掲げると、ぱちんと指を弾いた。

「出でよ、我が従順なる傀儡!」

 ずぶずぶと粘着質な音を立てながら柔らかな地面を割って現れたのは、濃い桃色の髪を持った幼女だった。

「レベッカちゃーん!」

 グレイスは役者のように両腕を広げ、高らかに叫んだ。幼女の髪色と髪型の異様さに、ロイズは目を剥いた。

「何だよ、あれ…」

「お呼びですかー、御主人様ー」

 幼女、レベッカは紺色のメイド服を着ていた。それからして状況にそぐわないが、髪型が異常極まりない。 目が痛みそうなほど濃い桃色の髪は二つに分けて側頭部で結ばれていて、髪には螺旋状のクセが付いていた。 物理的に有り得ないので、針金か何かで作ったとしか思えない外見だが、魔法で形状を維持しているのだろう。 レベッカの右腕は、膝から先が断ち切れていた。先程、ロイズの足首を掴んで引っ張ったのはレベッカらしい。 地面の中を探って右腕を見つけ出したレベッカは、何事もなかったかのように右腕を肘に付けて元に戻した。

「レベッカ姉様…」

 ヴィクトリアが懐かしげにその名を呼ぶと、レベッカはヴィクトリアに無邪気な笑顔を向けた。

「はいー、お久し振りですー、ヴィクトリアちゃんー。ちょっと見ない間にー、すっかり大きくなりましたねー」

「あの子って、ヴィクトリア姉ちゃんの姉ちゃんなの?」

 リリに問われると、ヴィクトリアは扇でレベッカを示した。

「レベッカ姉様は、お父様の造り上げた人造魂を持つ傀儡なのだわ。だから、レベッカ姉様はお父様の 第一子だと認識しているのだわ。レベッカ姉様は私達家族の従者であるけど、それ以前に家族の一員なのだわ」

「リリがブラッドのことを兄ちゃんって言うようなものか」

 フリューゲルの解釈に、ヴィクトリアはやる気なく返した。

「まあ、そんなところなのだわ」

 レベッカはにこにこと笑っていたが、とんと足元を蹴って浮かび上がり、背から魔導鉱石の翼を生やした。 小さな指先からも、細長い爪が伸びていく。両手合わせて十本もある爪は、彼女の腕より長く、鎌の如く鋭利だ。

「遠慮するな、レベッカちゃん! 好きなように遊んじゃえ!」

 グレイスのいい加減な命令に、レベッカは満面の笑みで答えた。

「了解しましたー、御主人様ー」

 その言葉が終わるや否や、レベッカの顔がロイズのすぐ目の前に現れた。予想以上に移動速度が速い。

「じゃあー、好きなようにしちゃいますー」

「う、わっ!」

 首筋に冷ややかな感触が伝わった瞬間、ロイズは反射的に上体を反らした。その勢いで、首の皮が薄く切れた。 空間を歪めて固定させ、足場を作り、強く蹴って上昇するも、レベッカはそれ以上の速度でロイズの後を追った。

「うふふふふふふ、遊びましょうー」

 その笑い方と口調に覚えがありすぎて、ロイズは戦慄した。空間を歪めて、顔を狙ってきた爪先を飛ばした。 湾曲空間が開いた先は、レベッカ本人の目の前だった。ロイズはその空間を固定して狭めながら、喚き散らした。

「あの女が性格悪くなったのは、あんたのせいかー!」

「えー、違いますよー」

 ぎりぎりと力を込めて湾曲空間から爪を引き抜こうとしながら、レベッカは丸っこい頬を張る。

「ヴィクトリアちゃんはー、御主人様と奥様の影響もー、ばっちり受けたからー、ああなったんですよー」

「非常識な家族だな」

 ロイズが毒突くと、ヴィクトリアは眉を吊り上げる。

「あなたの家族も大概に非常識なのだわ」

「それを言ったら切りがないから、やめておこうよ。ていうか、そもそもこの状況自体が非常識なんだし」

 リリがヴィクトリアとロイズを宥めようとすると、フリューゲルがばさばさと翼を振り回す。

「くけけけけけけけけけけけ! でも、やっぱり一番ヒジョーシキなのはヴィクトリアなんだぞこの野郎!」

「あなたにだけは言われたくないのだわ」

 軽く苛立ったヴィクトリアは魔力を込めて扇をフリューゲルに叩き付けると、フリューゲルは後方に吹っ飛んだ。

「ばーかばーかばーかぁ!」

 負け惜しみを撒き散らしながら、フリューゲルは灰色の城壁に激突した。その衝撃と音に、リリは首を縮める。

「どっちもどっちだよ…」

「うふふふふふふふふ」

 レベッカの薄い唇がにたりと広がり、怪しげな笑みを浮かべた。湾曲空間が軋み、小さな指先が広がっていく。 ロイズは魔力を高めて湾曲空間を押さえ込むも、レベッカはそれ以上の力で爪を広げ、空間を広げようとする。 レベッカはもう一方の手の爪も振り上げたので、その手首に新たな湾曲空間を形成してすぐさま切り離した。 すると、ロイズの背後に影が現れ、振り返るよりも先に背中に強烈な蹴りを落とされ、空間の制御を失った。

「気力が足りねぇな、青二才!」

 それは、グレイスだった。グレイスは空中でよろけたロイズの腹部へ、膝を叩き込む。

「これぐらいのことで力の制御を失うとは、小物もいいところだぜ!」

 ロイズは咳き込みながらも足元の空間だけ歪めて固め、落下を防いだが、今度は側頭部に蹴りが入った。

「ついでに、オレの娘を悪く言うんじゃねぇ!」

 重たい衝撃で視界が揺らぎ、痛みで集中力が途切れた。靴底で肌が切れたのか、生温い液体が頬を伝う。 足元だけでも、と力を出そうとしたが、魔導鉱石製の長い爪が手のひらを突き破り、手の甲から飛び出した。 レベッカの爪に支えられる形で、ロイズはだらりと揺れて空中に止まった。実体ではなくとも、痛みは本物だ。 左目に血が入ってしまい、異物感で瞼が開けない。それでも強引に見開くと、地上ではリリが顔を背けていた。 痛々しくて見ていられないのか、リリの横顔は青ざめている。だが、ヴィクトリアは顔色一つ変えていなかった。 その冷徹さに軽く不満を感じたが、同時に安堵もした。これぐらいのことで慌てるようでは、ヴィクトリアではない。
 戦闘服の襟元を掴まれ、引っ張り上げられた。グレイスは、その外見に似合わぬ悪辣な笑みを浮かべていた。 ロイズは痛みを堪えて口元を歪め、貫かれていない方の手をグレイスの胸へと突き出したが、手首を掴まれた。

「根性見せろ、若造が」

 グレイスの手に、恐ろしいほど力が込められる。ロイズの手首の骨がみしりと軋み、激痛が腕を駆け抜ける。 右手の痛みも相まってじっとりとした脂汗が流れるが、気にしている暇はない。ロイズは、奥歯を噛み締めた。 出来る限り出力を高めて、空間を歪めた。グレイスの胸元の空間を歪めたが、直後、湾曲空間が消え去った。 通常空間と湾曲空間が強制的に閉じられた衝撃で、ばちん、と破裂音に似た音が発生し、鼓膜を揺さぶった。 グレイスの笑みは、一層濃くなっていた。本気でロイズの左腕を折るつもりなのか、手首を捻りながら押してくる。

「ちょーっと空間を操れるぐらいで、いい気になるんじゃねぇぞ。そんなもん、オレ様には子供騙しなんだよ」

「どうしますかー、御主人様ー? 腕からいきますかー、それともー、いきなり首にしますかー?」

 ロイズの首筋にひたりと爪を押し当てながら、レベッカはロイズの背後から顔を近寄せた。

「いきなり死なれちゃ面白味に欠けるからな。腕にしとけ」

「解りましたー」

 レベッカの爪が首筋から外れ、ロイズの肩をするりと撫でて右腕を挟んだ。

「じゃあー、ばっさりいっちゃいますねー」

 鋭利な爪が厚手の戦闘服の袖を易々と切り裂き、肌に食い込んだ。皮を裂いた爪は、肉を切り裂きに掛かる。 流れ出した血が右腕を流れ落ち、地面に赤黒い水滴が散らばった。レベッカは細い指先を曲げ、骨を目指した。 痛みと失血で意識を飛ばしかけながらも、ロイズは腹に精一杯の力を込めて、至近距離へ異能力を迸らせた。
 すると、レベッカの首が根本からずれた。レベッカは骨に差し込もうとしていた爪を止め、大きな目を瞬かせた。 その目がロイズに向いた瞬間、細い首がぶつりと断ち切れて宙に舞い上がり、液体魔導鉱石が溢れ出した。 驚いた表情のままの幼女の首が回転しながら落ちる様に、グレイスは苦々しげに口元を歪めると吐き捨てた。

「レベッカちゃんの首の中の空間を断ち切った、っつーわけか」

「座標さえ固定出来れば、どこにだって発動出来るんだよ!」

 ロイズは魔力を送り込んで右腕の傷を塞ぐと、グレイスの胸に肩から突っ込んで手を緩ませ、左腕を脱した。

「ま、悪くないが、三流だな」

 どしゃっ、との落下音でグレイスは視線を下げて、地面に落下して手足を投げ出した幼女の胴体を見下ろした。 ロイズに切り離された首は花壇の中に転がり落ちて原色の髪が乱れ、血の代わりに液体魔導鉱石が散っていた。 首の根本からはどろどろと青紫の重たい液体が流れ出し、レベッカの紺色のメイド服を更に濃い色に染めていく。

「じゃ、本番と行こうじゃねぇか!」

 グレイスはにっと笑うと、ロイズを見据えた。ロイズは側頭部から流れる血を拭い、強引に笑った。

「僕だって、この程度じゃ物足りない!」

 そして、二人は空中で戦いを続行した。それを見つめるヴィクトリアの瞳は、ガラス玉のように冷ややかだ。 不安になったリリは二人とヴィクトリアを見比べていたが、城壁から戻ってきたフリューゲルとも顔を見合わせた。 父親と恋人が戦い合っているのに、心配ではないのだろうか。それどころか、どこか楽しんでいるようにも見える。 リリはヴィクトリアに声を掛けようとしたが、言葉を飲み込んだ。扇に隠している口元は歪み、血が垂れていた。 ヴィクトリアは横目にリリを見たが、また平然とした目で二人を見上げた。だが、その唇は噛み締めて切れていた。 本当は、二人とも心配でたまらないのだろう。片方は愛する父親であり、もう片方は思いを寄せている少年だ。 リリはヴィクトリアの心情を推し量り、引き下がった。とてもじゃないが、自分であったらここまで意地を張れない。 すぐにでも二人の間に飛び込んで、戦いを止めるように叫ぶだろう。だが、ヴィクトリアは戦いを見つめている。 見ていなければならない、という意志が込められた灰色の瞳は、揺るぎのない眼差しで父親と恋人を見ていた。 この世界と戦いは三人のものだ、邪魔をしては悪い、と思い、リリはフリューゲルを促して後方へと身を引いた。
 上空では、男達が互いの意地を鬩ぎ合わせていた。





 


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