ドラゴンは滅びない




時を紡ぐ糸




 リリは、うきうきしていた。


 この街を訪れるのは一年振りだ。機関車の座席に押し込めていた体を伸ばして関節をほぐし、深呼吸した。 両手に提げたトランクを引きずらないように気を付けながら、熱い蒸気を吐き出している機関車の脇を通り過ぎた。 改札で駅員に切符を渡してホームから出ると、同じ機関車から降りた人々でごった返しており、喧噪に満ちている。 石炭の焼ける匂いに混じって、様々な匂いがする。体に悪いとは思いつつも、妙に嬉しくて胸一杯に吸い込んだ。 薄暗い駅舎から出ると、街灯の傍に見慣れた人物が出迎えてくれた。親友であり義兄であるロイズだった。 仕事上がりなのか、作業着姿だ。ロイズはリリに向けて片手を挙げたので、リリは笑みを返して人混みを擦り抜けた。

「久し振り、ロイ!」

 リリはロイズの前で立ち止まり、見上げたが、少し違和感を感じて彼の頭上に手を翳した。

「またちょっと背が伸びた?」

「かもしれない。成長期なんてとっくに終わったはずなんだけどなぁ。まともに喰っているからかな」

 ロイズはリリのトランクを持つと、歩き出した。リリも、続いて歩き出す。

「学校出てからのロイの生活って、結構ひどかったもんねぇ。食うや食わずだったもん」

「仕方ないだろ、物価が高いんだから。ゼレイブだったら、食べることだけには困らなかったんだけどなぁ」

「だよねぇ。お金を出さなきゃ成り立たない生活って苦しいよね」

「それはそれとして。すっかり先生って感じだな、リリ」

 ロイズは、上品なワンピースを着こなすリリを見下ろした。今年で二十五歳になるのだが、実年齢より若く見える。 顔立ちが少女じみている上に体格もほっそりしているので、遠目に見れば十代後半で通用してしまいそうだ。 だが、表情はすっかり変わっていた。青い瞳は知性の光を帯び、背筋もぴんと伸びていて、歩き方にも力がある。 可愛らしかった声も、いつのまにか凛々しくなっていた。教鞭を握って教壇に立っている姿が容易に想像出来る。
 リリの足元で、影が僅かに歪んだ。その中にいる鋼鉄の鳥人の気配を感じ取り、ロイズは少し頬を緩めた。 リリはロイズに身を寄せてきたので、ロイズが少し戸惑いながら身を引くと、リリは平手でロイズの背中を叩いた。

「私はまだまだひよっこだよ。でも、ロイはお父さんって感じだよ!」

「大声で言うことか?」

 ロイズは叩かれた背をさすりながら、眉根を曲げた。リリは、大きく頷く。

「だって、こんなに嬉しいことってないもん! ロイは私のお兄ちゃんだから、甥っ子になるのかな?」

「ああ、そうだね。でも、こっちじゃそうじゃないけど」

 戸籍が改変されているから、とロイズが小声で付け加えると、リリは不満げに頬を張る。

「なんで義兄妹のままにしてくれなかったのかなぁ。その方がずっといいのに」

「きっと、僕とリリが兄妹だと、あちらには不都合なことがあったんだろうさ」

「ま、そんなところだろうね。でも、これで私は小母ちゃんにはなれるんだよね」

「まあ、そうだな。でも、なんで嬉しそうなんだよ? その歳でそう呼ばれるのって、普通は嫌じゃないのか?」

「だって、誰からも呼ばれたことなかったんだもん。なんか、呼ばれてみたかったんだぁ」

「変わってんなぁ。今に始まったことじゃないけど」

「いいじゃないの、そう呼ばれてみたかったんだから」

 他愛のないやり取りを続けつつ、路地裏に入った。中央通りよりも雑然とした建物の間を、通り過ぎていく。 歩きながら、ロイズは度々挨拶されていた。リリも一緒に挨拶をしながら、ヴィクトリアの店舗兼自宅へと向かう。 しばらく歩き、二階建てでこぢんまりとした家に辿り着いた。一階の窓という窓は、黒いカーテンで覆われている。 店先に掛けられた看板には、黒猫堂、と怪しげな字体で書かれており、文字の下には黒ネコの浮き彫りがある。 リリの元に届いた手紙にもあった通り、店名を変えたらしい。店のいかがわしい雰囲気によく馴染む名である。 店の扉には休業を示す札が掛けられており、その札にも鋭い目を持つ黒ネコの浮き彫りが刻み込まれていた。 すると、裏の庭先から黒い影がするりと現れた。尖った耳と長い尾を揺らしながら、一匹の黒ネコがやってきた。

「よう、ダン」

 ロイズが声を掛けると、ダンと呼ばれた黒ネコは一声鳴いて駆け寄ってきた。

「ほら、お客だ」

 ロイズがリリを示すと、ダンはリリの前にちょこんと座った。リリは身を屈め、ダンの背に手を滑らせた。

「あ、凄い。この子、私のことを怖がらないね」

「ずっと僕らの傍にいるから、魔力に対する耐性が付いたんだよ」

 ロイズはリリに撫でられて喉を鳴らしているダンを見、笑んだ。リリはダンを抱き上げ、滑らかな毛に頬を寄せる。

「ねえ、どうして名前がダンなの?」

「父さんの名前のもじりだよ。父さん、病的なネコ好きだったから」

「でも、ダニエル小父さんの愛称ってダニーじゃなかった?」

「それだとそのまますぎてやりづらいから、ちょっと縮めたんだ。でも、ぴったりだろ?」

「うん、お似合いだ」

 リリはダンを地面に下ろしてやってから、服に付いた黒い毛を払った。ロイズは家を囲む柵を開け、庭に入った。

「ほら、ダンも一緒に来い。あんまり帰りが遅くなると、ヴィクトリアにごねられるからな」

「お邪魔しまーす」

 リリはロイズに続き、庭に入った。手入れが行き届いていて雑草もなく、花壇では色とりどりの花が咲いていた。 その中には普通の花にしか見えないが効力の強い魔法植物もあり、リリは内心で苦笑しつつも裏口に向かった。 ロイズは声を掛けながら扉を開け、中に入った。薄暗く狭い階段を上り、二階に作られている住居部分に入った。 入ってすぐの部屋は居間兼食堂になっており、そこに設置されているテーブルには子供用の椅子が増えていた。 ロイズの手製なのか、背もたれには愛息の名前が刻んであった。だが、ヴィクトリアとその子の姿は見えなかった。 リリの荷物を置いたロイズが寝室へ声を掛けたが、反応がない。ロイズは訝りながら寝室の扉を開けて、覗いた。 リリもロイズの肩越しに、寝室を覗いた。ベッドでは、我が子を寝かしつけていたヴィクトリアが眠り込んでいた。 二人の足元を通り抜けたダンが寝室に入って高く鳴くと、ヴィクトリアは気怠い声を漏らしながら上体を起こした。

「あら…」

 疲労の残る顔をリリに向けたヴィクトリアは、気恥ずかしげな仕草で髪と服を直した。

「リリを迎えに行く前に起こしてくれたら良かったのだわ」

「なんだったら、もう少し寝ていてもいいぞ。昨日の夜もほとんど寝てなかったんだから、無理はするな」

 ロイズの言葉に、ヴィクトリアは少しむっとした。

「あなたに任せると心配なのだわ。お茶ぐらい、淹れられてよ」

「夜泣きがひどいんだよ。だから、サムが生まれてからは、僕もヴィクトリアもまともに眠れた夜はないね」

 ロイズは肩を竦め、リリに目を向けた。

「サミュエル・オズボーン、なかなか良い名前だろ? でも、本当の名前はサミュエル・ルー・ファイガー、 世界一邪悪な呪術師の血と世界一強力な異能者の血を引く、前途有望な愛息だよ」

「異能力はあるの?」

 リリの問いに、ヴィクトリアはベッド脇のタンスから櫛を取り出し、髪を梳きながら答えた。

「生後半年だから魔力中枢の成長も始まったばかりで、今のところは解らないけど、いずれ何かしらの力は 現れると思うのだわ。どんな力であれ、付き合い方を教えていくだけなのだわ。それが私達の役目であってよ」

「だから、成長するのが楽しみだけど不安なんだ。とんでもない能力だったら、僕だって教えきれないからな」

 ロイズは台所に入り、人数分のマグカップを取り出した。かまどに火を入れてポットを掛け、湯も沸かし始める。

「でも、その時はその時だ。力があろうがなかろうが、サムは僕らの子には違いないんだから」

「サムの顔、見てもいい?」

 リリが寝室に入ると、ヴィクトリアは手早く髪をまとめ、髪留めを付けた。

「ええ、構わなくてよ。さっき寝入ったばかりだから、すぐには起きないと思うのだわ」

 リリはベッドに歩み寄り、屈んだ。手製の産着を着せられている赤子はとても小さく、思わず頬が緩んだ。 目を閉じているので瞳の色は解らなかったが、柔らかな髪色は母親に似ており、肌の色には父親の気配がある。 生後半年なので顔付きはまだ出来上がっていなかったが、部品の端々にロイズとヴィクトリアの血が現れている。 そっと指先を伸ばしてふくよかな頬を突くと、儚げな感触が訪れた。甘ったるい赤子の匂いに、胸の奥が詰まる。 軽く握り締められている可愛らしい手に指を伸ばすと、掴まれた。得も言われぬ歓喜に襲われ、リリは弛緩した。

「ああ、可愛い…」

 リリがとろんとすると、ヴィクトリアは自慢げに笑んだ。

「当たり前なのだわ。私の子だもの」

「ヴィクトリア姉ちゃん、お店はどうしているの?」

 リリが振り向きながら尋ねると、ヴィクトリアは顔の脇に垂れた後れ毛を耳に掛けた。

「ロイズが一日休みの時は、ちゃんと開けているのだわ。でも、当分はまともに営業出来なくてよ」

「大きくなって手が離れるまで、大変だよね」

「ええ。でも、充実しているわ」

 ヴィクトリアは、優しげに目を細めた。出産を経験したためか体は全体的に丸みを帯び、顔付きも柔らかい。 美しさ自体は変わらないのだが、纏う雰囲気が違う。以前の冷淡さとは真逆の、温かな落ち着きを持っていた。 白い首筋には、ロイズが結婚を申し込む際に贈った金の首飾りが光っていた。それもまた、幸せの象徴だった。

「リリはどう? 教師の仕事は順調?」

 ヴィクトリアが聞き返すと、リリは苦笑した。

「まだまだ手探りだよ。やっと二年目だもん。人を教えるのって、本当に大変なんだよ。色んな性格の子がいるから、 それぞれに合わせた教え方をしないといけないんだけど、そうもいかなくってね。授業計画もきちんと進めなきゃならないから、 一人の子にだけ集中して教えるなんて出来ないんだよ。だけど、一生懸命教えた分だけちゃんと応えてくれるから、嬉しいよ」

「私達のような子はいるのかしら?」

「今のところはいないよ。こっちの大陸には魔導鉱石の鉱脈そのものがないみたいだから、無理もないけど」

「そう」

 ヴィクトリアは、短い答えの中に僅かな落胆と大きな安堵を滲ませた。リリは、サミュエルの頬を優しく撫でる。

「ちょっと寂しいけど、それでいいんだよね」

「けれど、だからといって私達を滅するのは筋違いなのだわ」

「うん。やっぱり、ギル小父さんが正しいよ。だって、サムはこんなに可愛いんだもん」

 リリが頷くと、彼女の影がぐにゃりと歪み、波紋の中から銀色の頭が現れた。

「くけけけけけけけけけけけけ! 赤ん坊ってのはどこだ、見せろってんだよこの野郎ー!」

「静かにしなさい。起こしたら可哀相でしょ」

 リリが厳しく諫めると、フリューゲルはばつが悪そうに首を縮めた。

「なんだよリリ、オレ様もちょっとぐらい見てもいいじゃねぇか」

「赤ちゃんは寝るのが仕事なんだから、そっとしておいてやりなさい」

 リリが居間に向かったので、フリューゲルは影から上体を出して抗うが、ずるずると引き摺られていった。

「やだー、見たいってんだぞこの野郎ー!」

「相変わらず成長してないな、こいつは」

 無様に引き摺られて居間に入ってきた魔導兵器に、沸いた湯をティーポットに注いでいたロイズは呆れた。

「見たいものは見たいんだぞこの野郎!」

 影の中から上半身を出して駄々をこねるフリューゲルの目の前に、リリはダンを抱えて差し出した。

「ほらぁフリューゲル、ネコだよー、すっごく可愛いよー」

「うわぁ!」

 途端にびくっと震えたフリューゲルは、大きく仰け反って後退ったが影が伸びるだけで逃げ切れなかった。

「にゃっ、にゃんこなんて怖く、怖くないんだぞうこのやろぉう!」

 だが、フリューゲルの声は裏返っており、明らかに怯えていた。ダンが鳴くと、途端に悲鳴を上げて飛び退いた。 影から下半身も出して駆け出したが、足がもつれて転んでしまい、その場でがたがたと震え出してしまった。 フリューゲルのあまりの怯えように、ロイズは呆気に取られた。リリはダンを抱えて撫でながら、ロイズに説明した。

「随分前に、野良ネコに襲われちゃったんだよ」

「…魔導兵器が?」

 ロイズが変な顔をすると、リリは頷いた。

「うん。で、ひどく引っかかれちゃったの。それがあんまりにも怖かったみたいで、それ以来ずっとこうなの」

「鳥、だからかなぁ…」

 ロイズは仔ウサギのように震える魔導兵器の姿に、自分なりの結論を出した。だが、それにしても変な話だ。 以前のフリューゲルであれば、ネコに負けることなど有り得なかった。能力を二十分の一に削られても、である。

「それで、引っかかれた時にラオフーからいじめられていたことも思い出しちゃったみたいで」

 リリの補足に、ロイズは納得した。

「ああ、そうか。そういうことなら、まだ解るよ」

「ラオフーって、結構ひどかったんだよ。ほら、金剛鉄槌って持っていたじゃない。フリューゲルがちょっと ふざけたらあのでっかい鉄槌で叩いたり、戦闘の実力差が物凄いのが解っているのにフリューゲルに無茶苦茶な 戦闘訓練をさせて全壊寸前まで追い込んだり、標的に丁度良いからって金剛鉄槌の新しい技の実験台にしたり、 とか色々とね。昔のフリューゲルはそれが当たり前だと思っていたから何も感じなかったみたいだけど、今は色んな ことが解るようになったから、いじめられていたって解るようになっちゃったの」

 リリはダンを抱えたまま壁際で怯えるフリューゲルに歩み寄り、彼のクチバシに似た頭部装甲に手を置いた。

「フリューゲルが賢くなって大人になるのはいいことなんだけど、そういうのは少し悲しいよね」

「にゃ、にゃ、にゃぁ…」

 赤い瞳の輝きを弱めてぶるぶると弱々しく震えるフリューゲルに、リリはひょいっとダンを乗せた。

「えい」

「あう、あー!」

 頭に黒ネコを乗せられたフリューゲルは、恐怖のあまりに硬直した。リリは、邪気のない表情で笑っている。

「だから、ちょっとずつ鍛えてやろうと思って。ヴィンちゃんのことは平気なんだから、きっとすぐに慣れるよ」

「悪魔ね」

 事の次第を見守っていたヴィクトリアの呟きに、ロイズは頷いた。

「少佐に悪戯した時もそうだったけど、リリって案外えげつないよなぁ」

「だって、弱点を克服するにはこれが一番の近道じゃない」

 リリは悪気の欠片もない笑顔を浮かべているが、それは白々しく感じられるほど爽やかで余計に胡散臭かった。 幼い頃は他意はなかったかもしれないが、大人になった今ではあるだろう。教職としてそれでいいのだろうか。 ロイズは思い悩みつつ、怯え切っているためにぎこちない手付きで顔の上のダンを退けようとする鳥人を眺めた。 フリューゲルは引きつった悲鳴を細切れに零しながら、ダンに触れようとするも、毛に触れた途端に引っ込めた。 ラオフーにいじめられた心の傷とネコに襲われた際の恐怖が余程強いらしく、触ることすら出来ないようだった。 それを、リリは淡々と眺めているだけだった。成長させるためには突き放すことも必要だが、少々やりすぎでは。 ロイズはフリューゲルを助けようとしたが、黒い愉悦に目を輝かせているヴィクトリアに袖を強く引かれてしまった。 苦しむ様が面白いから手を出すな、ということらしい。ロイズは女二人の腹黒さに辟易してしまい、額を押さえた。
 これでは、せっかく淹れた紅茶が冷めてしまう。







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