ドラゴンは滅びない




殺戮の腕、慈愛の手



 ルージュは、立ち止まった。


 無機質な銀髪と血の気のない肌を隠すために帽子の鍔を下げ、目線を逸らすも、一度向いた気は逸れない。 すぐ前を通り過ぎた少年はお使いの帰りなのか、細い腕に似合わない買い物カゴを持ち、足早に駆けていた。 自宅に帰ったら母親から褒めてもらうことを期待しているからだろう、笑顔を浮かべている横顔は嬉しそうだ。 結局、その姿を目で追ってしまった。帽子を押さえて足を速めるも、民家の前に赤子を抱いた女が立っていた。 柔らかな布にくるまれた赤子はくりっとした目を動かしながら、小さな手のひらを懸命に伸ばし、母親を求めている。 我が子を抱く母親はまだ若く、少女と言っても差し支えなかった。その顔からは、惜しみない愛情が溢れていた。 行き交う人間にぶつからないようにしながら商店街を抜け出し、ルージュは歩調を緩めたが、心中は沈んでいた。
 いつの頃からか、子供に目線が向かうようになってしまった。戦っている最中は何も感じなかったというのに。 魔導兵器三人衆としてフィフィリアンヌの配下で禁書収集を行っている時は、躊躇いなく子供でさえも殺していた。 魔導師協会から流出した禁書を隠し持っていた魔導師の家族を殺した際、母親の抱いていた赤子の頭を貫いた。 生後半年も過ぎていなかった赤子は、ルージュの左腕から放たれた魔力砲を受けた直後に爆ぜて肉塊と化した。 我が子と夫の血と肉片を全身に浴びた母親は、我を忘れてルージュに掴みかかってきたが、即座に撃ち殺した。 魔導兵器として目覚めた頃は、自分を虐げて殺したアルフォンス・エルブルスと同族である人間を憎んですらいた。 皆、死ねばいいと思っていた。だからこそ躊躇いなく殺し、禁書を奪い、尋常ではない破壊力に酔いしれていた。 だが、ブラッドと出会ってゼレイブに住まうようになってからは先入観も消えたため、人間への憎悪は消えている。 また誰かを殺せば、ブラッドが悲しむ。生まれて初めて愛してくれた男を悲しませるのは、身を裂くよりも辛かった。
 石畳が敷かれた道を俯いて歩きながら、ルージュは唇を噛んだ。この身が兵器であることが、憎くてたまらない。 せめて生身だったら、彼の子を宿せたものを。改めてアルフォンスへの憎悪が湧き、人造魔力中枢が鈍く軋んだ。 ブラッドからは、数え切れないほどの幸福を与えられた。人の姿を模せるのもブラッドの魔力のおかげだ。
 ブリガドーンが崩壊した今、膨大な魔力を動力源とする人造魔導兵器を維持していくのは並大抵のことではない。 人間から吸収するにしても、昨今の人間は高い魔力を持つ者は少ない。だから、ブラッドから魔力を得ていた。 愛情と共に注がれる彼の魔力は、ブリガドーンの荒々しい魔力よりも心地良く、体に馴染むので使い易かった。 フィフィリアンヌから教えられた人間に変形する魔法を保つには最適で、擬似体温も生み出せるようになった。 だが、それはあくまでも見せかけだけだ。機械仕掛けの体である事実は変わりなく、腹に子が孕めるわけがない。
 切なさを振り払うため、ルージュは歩調を早めた。




 町外れの森の奥にある一軒家に戻り、夕食の支度を始めた。
 井戸水を張った桶で土に汚れたイモを洗っていると、指先が徐々に形を変えてゆき、肌の色が失せていった。 白く細長かった指は四角く膨らんで機械のそれに変化し、手首は太くなって関節が露わになり、装甲が現れる。 泥と水に濡れた機械の手を挙げて頬に触れると、金属の感触が返ってきた。薄暗い窓を見、落胆して肩を落とす。 そこには、強引に服を着た兵器が立っていた。人の姿を模す変形の魔法の効力が切れて、元に戻ってしまった。 変形の魔法は、あまり無理をしなければ一週間は保つように調整してあるが、魔力が尽きてしまったらしい。 ため息を吐きながら、ルージュはエプロンで手を拭き、硬い指を弾いた。一瞬にして、エプロンドレスが脱げた。 中身の抜けたエプロンドレスは床に落ち、だらしなく広がった。それを拾って畳みながら、窓に映る女を見やる。

「いつからお前は、そんなに強欲になったんだ」

 自責を込めて呟いたルージュは畳んだエプロンドレスをテーブルに置き、寝室に入って姿見の前に立った。 ベッド脇のタンスに置いてある鉱石ランプに手を翳し、青白い光を灯すと、鏡の中に兵器の女が浮かび上がる。 女の形を模しているが、決して柔らかくない体だ。乳房はただの外装で、太股も尻も形だけは滑らかな流線だ。 顔も整っているが、本来の顔ではない。瞳から零れて反射した赤い光が銀色の頬に撥ね、返り血のようだった。

「お前は充分幸せだ」

 鏡に手を伸ばし、兵器の女の頬をそっとなぞる。

「これ以上、何を求めると言うんだ」

 鏡に額を押し当て、ルージュは肩を震わせた。この暮らしは、生きている間に叶えられなかった願望なのだ。 森の奥の小さな家に愛する男と住み、慎ましくとも満ち足りた日々を送る。本当に、それだけで良かったはずだ。 穏やかな暮らしは、まだたったの五年しか経っていない。吸血鬼族の時間感覚で言えば、日は浅かった。 だから、飽きることもなければ淀むこともなく、二人で一緒に小さなことを積み重ねていく喜びに満たされている。 ルージュも、それだけでいいと思っている。ブラッドも、それでいいと言ってくれている。なのに、何を考えている。

「お前は、自分が何をしてきたのか、もう忘れてしまったのか?」

 ルージュは唇を歪め、鏡から顔を上げた。鏡に映る兵器の女は、己を嘲っている。

「苦しみと飢えに負けて、どれほどの人を喰った? 殺した? 引き裂いた? それなのに、何を…」

 膝を折って座り込んだルージュは、拳で床を殴り付けた。但し、壊さない程度の力で。

「ルージュ?」

 名を呼ばれ、ルージュははっとして振り返った。いつのまにか帰ってきたブラッドが、玄関に立っていた。

「すまない、帰っていたのか、ブラッド。夕食の支度はこれからなんだ」

 ルージュは立ち上がって笑みを作ったが、ブラッドは訝しげだった。

「一体どうしたんだよ」

「なんでもないんだ。本当に、なんでもない」

 ルージュが平静を保って返すと、ブラッドは表情を和らげる。

「あんまり無理すんなよ、ルージュ」

「すまない…」

 様々な感情が込み上げて、ルージュは顔を伏せた。ブラッドは歩み寄り、その冷たい体を抱き締める。

「変形の魔法、保てなくなっちまったんだな。だったら、また魔力を足してやるよ」

「それは今日でなくてもいい。お前も仕事で疲れているだろう」

 ブラッドの胸に縋り、ルージュは呟いた。ブラッドは、愛する妻の髪に酷似した装甲を撫でる。

「そうでもねぇよ。こっちに来て五年も経つんだ、色んなことに慣れたよ。力仕事は昔からやっていたことだし、 朝早く起きるのも辛くないし、ルージュが何も喰わないおかげでオレが二人分も喰えちまってる。それに、誰とも 戦わなくていいんだ。それに勝ることはねぇよ」

「ああ、そうだな」

 夫の胸から顔を上げ、ルージュは唇の端を綻ばせた。優しい笑みを浮かべる夫は五年前と変わらない。 少年じみた雰囲気が残る整った顔立ちも、長い手足も、適度な筋肉が付いた体も、少し体温の低い手も同じだ。 吸血鬼族は竜族と同様、魔力の高さに比例して老化が極めて遅い。二十五歳になっても十代後半のようだった。 だが、精神的には大分成長していた。初めて出会った時は青年と言うよりも少年で、言動がとにかく青臭かった。 その頃は事実上敵対関係にあったルージュを本気で愛し、愛せないのならば殺してしまおうと戦いを挑んできた。 同じ方向を向いていながらも交わらなかった二人の心は、その時にようやく交わり、それから色々なことがあった。
 十年前の出来事が全て収束してしばらく経った頃、ブラッドはルージュを連れて故郷のゼレイブから飛び出した。 その時は、行く当てもなければ目指す場所もなかった。けれど、戦う相手のいない日々はそれだけで幸福だった。
 ゼレイブを出る前にブラッドの父親のラミアンにだけ外へ出ることを話し、夜明けと共に旅立った。 ルージュが人の姿を模すようになったのは、その時からだ。魔導兵器の姿では、良くも悪くも目立ちすぎるのだ。 共和国戦争の爪痕が色濃く残る街々を通って進みながら、これからどうするか、何をするかを徹底的に話した。 ゼレイブにいる間は話せなかったようなことも全て話し、綺麗なことも汚いことも、嬉しいことも嫌なことも、包み隠さずに 話した。おかげで、今となってはお互いを知り尽くせるようになっていた。 道中で見つけた廃墟の教会で、二人だけの結婚式も挙げた。ドレスも指輪もなかったが、充分満ち足りていた。
 それから何十日も掛けて歩いた末に辿り着いたのが、ルージュが生身の頃に住んでいた家のある森だった。 その家は森の奥深くに建っていたので運良く戦火を免れたが、年月で朽ち果て、残っていたのは壁と土台だけだった。 屋根も崩れかけ、窓は割れ、床板も腐っていたが、修理すれば住めないこともなかったので、二人で直した。 出来るだけ魔法を使わずに直したので何ヶ月も掛かったが、そのおかげで元通りになった頃には愛着が湧いた。 そして、ブラッドとルージュは森の奥の小さな家に住み始めた。もちろん、吸血鬼でも兵器でもなく、夫婦としてだ。

「ほら、ルージュ」

 ブラッドはルージュの顎を上げ、その銀色の唇に唇を重ねた。低い体温と共に、魔力が流れ込んでくる。 ルージュは僅かに戸惑ったが、ブラッドを受け入れた。体の力を抜いて魂も緩め、注がれるままに魔力を浴びた。 力を失っていた人造魔力中枢が熱を取り戻し、少し怠さを感じていた関節に意志が伝わり、魂も冴え渡ってくる。

「構わないと言ったのに」

 ブラッドの唇が離れてから、ルージュは気恥ずかしげに呟いた。

「いいんだよ。オレの方だって、ろくに魔法を使ってないせいで有り余ってんだから」

「熱いな」

 注がれたばかりの魔力に、魂が浮かされそうだ。ルージュが胸の魔導鉱石に触れると、ブラッドは笑った。

「じゃ、後で別のも注いでやるよ。あっちの方も大分溜まってきちまったからさ」

「それは、その…。構わないんだが、中に、というのはちょっと…」

「じゃ、外か」

「そういう意味では、ないんだが」

 ブラッドのあっけらかんとした態度とは反対に、ルージュは体が過熱するほど照れていた。

「正直言って中の方がいいっちゃいいんだけど、あれはルージュの方が面倒だもんなぁ。洗ったりするのが」

「それは、まあそうなのだが、そう、みなまで言わないでくれ」

「何度してると思ってんだよ。今更恥ずかしがることか?」

 にやにやしているブラッドに、ルージュは照れのあまりに強く言い返した。

「おっ、お前に恥じらいがないんだ!」

「解った解った、中には出さねぇよ。外にしてやるよ」

 ブラッドはルージュに素早く口付けし、耳元に口を寄せて囁いた。

「その代わり、また気ぃ失わせてやるからな」

「う…」

 ルージュはブラッドを押し戻そうとするも、気恥ずかしさで俯いた。

「あれは、お前が、悪いんだ…。私はあれ以上は無理だと言ったのに、お前が、強引に…」

「でも、嫌いじゃないんだろ?」

「お前が相手だと、痛みは感じないから」

 ルージュが小声で漏らすと、ブラッドはルージュの華奢ながらも頑強な腰に手を回す。

「これで子供が出来たら最高なんだが、贅沢は言えないしな」

 思い掛けない言葉に、ルージュは魂を握り潰される思いがした。ブラッドにすれば、軽口に過ぎないのだろうが、 今のルージュにしてみれば刃物に等しかった。あれほど高まっていた熱が引き、強い悲しみに襲われた。 体液としての役割も兼任している冷却水が迫り上がってきて、ぼたぼたと目元から勝手に溢れて落ちてしまった。 止めようと思って拭うも、止まらなかった。ブラッドが心配してきてくれたが、悲しすぎて上手く聞き取れなかった。 己の強欲さと身勝手さに腹が立って、ますます涙が出る。顔を覆った手は、どれほどの血に汚れたと思っている。
 なのに、なぜ命を欲する。




 泣き止んだ頃には、外は真っ暗になっていた。
 ルージュが泣いている間、ブラッドは根気良く付き合ってくれていた。以前にもこんなことがあった気がする。 その時も、ブラッドは最後まで付き合ってくれた。気持ちが落ち着くまで、余計なことは言わずに、ただ傍にいてくれた。 それだけで充分だった。むやみやたらに謝罪されたり言及されても、上手く答えられる自信はなかったからだ。 自分でも驚くほど動揺していて、しないはずの呼吸が苦しく感じたほどだ。思ったよりも、執着は強かったようだ。
 二人は、火を入れた暖炉の前で寄り添っていた。赤々とした光が艶やかな装甲に反射し、窓に小さな光を落とした。 ルージュは夫の肩に頭を預け、虚ろな眼差しを投げていた。ブラッドは妻の肩を抱いたまま、黙していた。

「大したことじゃ、ないんだ」

 涙と悲しみで声を詰まらせながら、ルージュは暖炉の中で燃え盛る薪を見つめた。

「本当に、大したことではない。いつか、お前も私も考えることだったんだ。こうして二人でいるだけで充分だと 思っていたのに、いつのまにか欲が出てきたようなんだ。私は普通の女ではない。生きていた頃から、普通ではなかった。 だが、その頃には考えなかったことだ。むしろ、生きていた頃は女であることが嫌だった。あんな穴が付いているから、 汚いもので何度も何度も抉られた。すぐにでも塞ぎたいとも思ったし、内臓ごと潰したいとも思った。どうせ子など孕まないし、 うんざりするほど腹を割かれて内臓を千切られていたから、きっとまともな子など出来なかっただろう。だから、こんな思いを するわけがないんだ。いや、しないと思っていた」

 ルージュは冷ややかな角張った手で、ブラッドの手を掴む。

「なのに、お前の傍にいるとお前の子が欲しくなってしまう。そもそも孕むことすら出来ないのだから、叶わない願いだと 最初から解っている。けれど、考えてしまうんだ。他の子供に目が行くんだ。どうしようもないくらいに」

「ごめんな、ルージュ」

 話を聞き終えたブラッドが沈痛に漏らすと、ルージュは首を横に振る。

「ブラッドは悪くない。私がいけないんだ。身の程も弁えない願いなど抱いてしまった、私が馬鹿なんだ」

「オレも、子供は欲しいよ。好きな女を自分の種で孕ませたいって思うのは、男なら当たり前だ」

 ブラッドはルージュを抱き寄せ、その装甲を付けた肩に額を押し当てる。

「嬉しいよ、ルージュ。愛してる」

「私もお前を愛している。だが、どうにもならないんだ」

 ルージュはブラッドの背に腕を回すも、下げた。魔力砲と刃を備えた両腕を、だらりと床に落とした。

「どれほど魔法で見た目を繕っても、この腕は人を殺す腕だ。禁書を集めるためだけに、数え切れないほどの 人を殺したんだ。魔導師や兵士だけでなく、その場にいた女や子供も殺してきた。そんな腕で抱いたところで、 どんな子も喜ばない。むしろ、悲しませるだけだ。だから、きっと、これでいいんだ」

「でも、今のルージュは誰も殺さないだろ?」

「殺す必要もないし、殺す意味もない。それに、誰か一人でも殺したらお前を悲しませてしまう」

「だったら、それでいいじゃねぇか」

 ブラッドはルージュの肩を押して間を開かせ、目を合わせた。

「これから、ずっとそうしていけばいい。オレ達の時間は長いんだし、どうにでもなる」

「だが、それは償いにはならない。ただの自己満足に過ぎない」

「そうかもしれねぇな。でも、それしかないんだよ」

 ブラッドはルージュの頬に手を当て、滑らかな肌をゆっくりと撫でた。

「とりあえず、夕飯作ってくれ。さすがに腹が減っちまった」

「解った」

 ルージュはブラッドの手と己の手を重ねていたが、外して立ち上がった。離れる前に、身を屈めて口付けをした。 ブラッドに見送られながら台所に入ったルージュは、白墨を取り出して床に魔法陣を手早く描き、その上に立った。 フィフィリアンヌから教えられた呪文を紡いで魔力を高めると、魔法陣に付いている足から肌色へと変化し始めた。 角張っていた装甲が色素の薄い肌に変わり、しなやかなふくらはぎから太股が出来ると、尻と細い腰が生まれた。 硬いだけだった乳房が人並みに柔らかくなり、肩からも装甲は消え、腕の武器も吸い込まれるように消え失せた。 暗い窓にぼんやりと映るのは、銀色の長い髪をだらしなく垂らした女だった。見た目だけは兵器ではなくなったが、 手を腹部に当ててみると歯車の軋みが感じ取られた。ますます悲しくなったが、もう涙は出てこなかった。
 冷却水が切れていたからだ。







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