ドラゴンは滅びない




獣道




 ブラッドは、待っていた。


 背中から伸ばした翼に孕む夜風は凍えていて、これから起こるであろう戦いに高揚する血を冷ましてくれていた。 夜空はきんと冷え切り、星々は眩い。硬質な真冬の風を全身に浴びながら、広大な森を満たす闇を見つめた。 この目には闇など意味はない。風に乗って流れてくる濃密な獣の匂いと魔物の気配が、神経を逆立たせてくる。 これまで、何度彼を追い詰めただろう。そして、何度逃げられただろう。だが、これ以上長引かせたくはなかった。
 人の智を持つ獣、ヴォルフとの戦いを始めてから三ヶ月が過ぎた。その間も、人ならざる子は産まれ続けた。 そのたびに女達は絶望の淵に沈み、我が子を殺した。獣の耳と尾の生えた子を育てる人間などいないからだ。 ヴォルフは知っている。その屈強な肉体に宿る力は魔力であり、並大抵の人間では歯が立たないということを。 そして、同族がこの世にいないことも知っている。ブリガドーンの余波による突然変異が起きたのは彼だけだ。 だから、ただの獣と交わっても意味がない。ごく普通の獣の子が産まれるだけで、人の知性は保っていないのだ。 故に彼は思考した。獣と交われば獣しか生まれないのであれば、人と交われば人の智を持つ獣が産まれる、と。 だが、産まれたのは獣でもなければ人でもない異形の赤子だった。ヴォルフ自身も、それに気付いているのだ。 だからこそ、縄張りの中に住まう女達を襲って魔力で変質させた精を注ぎ、望んだ姿の子を産ませようとしている。 しかし、それが上手く行ったことはない。生まれるのは悲しみだけであり、殺された赤子の数も増える一方だった。
 ヴォルフを殺せるのはブラッドしかいない。ルージュを戦わせるわけにはいかないのだから、戦う他はなかった。 それに、これ以上ローガンの兄弟達を死なせたくなかった。耳と尾の生えた息子、ローガンの父親もヴォルフだ。 ヴォルフが女達に産ませた子は、ローガンの異母兄弟になる。赤子を殺されないためには、産ませなければいい。
 最初は簡単に終わると思っていた。だが、ブラッドにはヴォルフを捕らえることは出来ずに、逃げられてしまった。 ヴォルフは呪文も魔法陣も使わずに本能で魔法を操り、ブラッドを翻弄し、派手な手傷も負わされたこともあった。 おかげで右腕を切断して再生させなくてはならず、その間仕事が一切出来なくなり、稼ぎが随分と減ってしまった。 ルージュが再生のための魔力供給を手伝ってくれたおかげで、今では右腕は骨も神経も筋肉も完璧に再生した。 だが、それで怯むわけにはいかなかった。ブラッドが右腕を再生している間にも、ヴォルフは女を襲い続けていた。 ヴォルフは人は喰わないが、家畜は喰う。ヴォルフに多数の家畜を喰われた牧場は破産し、心中した家もあった。 あらゆる意味での害悪を撒き散らすヴォルフは悪魔そのものだ。だから、ヴォルフを殺す以外の解決策はない。

「ん」

 ブラッドは耳に届いた音で、顔を上げた。耳に馴染んだ、遠吠えが聞こえた。

「来たな」

 ブラッドは翼を広げ、木の枝を蹴って上昇した。深い森を真上から見下ろして感覚を研ぎ澄まし、声の主を捜す。 遠吠えが起きた箇所から森に生きる動物達が散っていき、魔性の気配に怯えたコウモリが何十と逃げ出した。 ブラッドの眷属であるコウモリも混じっていて、彼らはブラッドの脇を過ぎる際に鋭く鳴き、細かな報告をしてくれた。 ヴォルフの居場所は森の北西。移動中。他に人影は無し。それだけ伝えたコウモリ達は、夜空の彼方に消えた。

「いつもありがとな」

 ブラッドは小さな眷属達に礼を述べてから、森の北西に向いた。

「さあて」

 大きく開いた翼に風を受け止めて体を前傾姿勢に傾け、自分自身の体重と風の勢いを利用し、滑空する。 全身に吹き付ける風に混じる獣の匂いが、一層濃さを増す。ブラッドは再生した右腕を握り締め、魔力を高めた。

「今日で決着を付けてやるぜ、化け物が」

 ブラッドの右手には魔力で成した光の刃が生まれ、月光に似た光を放った。滑空しながら、ヴォルフらしき 足音を追い続ける。ざざざざざざざざざざ、と草が掻き分けられ、枯れ葉が舞う。その間を、巨大な黒い影が滑り抜ける。 ブラッドは高度を保ったまま、その影に添って飛んだ。森の木々がまばらになり、途切れた瞬間、影が消え失せた。 木々の枝を折りながら、巨大な影が跳躍した。一瞬にしてブラッドの高度まで上昇したそれこそが、獣の悪魔だ。

「また貴様か、吸血鬼!」

 鈍い声を放ったヴォルフは大きく口を開き、喉の奥から咆哮と共に火焔の球を吐き出した。

「身の程を知るがいい!」

「それはこっちのセリフだってんだよ!」

 ブラッドは右手の光の刃で火焔の球を受け止めると、切り裂き、星空に似た大量の火の粉に変えた。

「ただ魔力の固まりをぶつけるだけが魔法じゃねぇんだよ、オオカミさん」

「ふん」

 ヴォルフは空中に四つ足で立つと、一笑した。

「あのまま死んでおけば良かったものを。今度は右腕ではなく、頭を焼き尽くしてくれるわ」

「その薄汚い血を一滴残さず吸い出して、吐き出してやるよ!」

 ブラッドは両腕に光の刃を纏わせると、飛び出した。

「我が牙に喉を破られることを尊べ!」

 同時に、ヴォルフも空中を蹴って駆けた。ブラッドと真正面からぶつかる直前で身を翻し、牙の並ぶ口を開く。 ブラッドの左腕が長い顎の間に入り、噛み付かれた。だがその直前、ブラッドは左腕全体に光の刃を纏わせた。 凶悪な牙が貫いたのは、魔法で成した外装だけだった。ブラッドはヴォルフを放り捨ててから、左腕を軽く振る。

「お前の方こそ、いい加減にしろ。イヌの分際で、べらべらべらべら喋るんじゃねぇよ」

「姑息な」

 ヴォルフは魔法を用いて木の上に柔らかく着地すると、前足で木の枝を蹴って再度上昇した。

「今度は首だ!」

「我が声を聴け、天空の星々よ!」

 ブラッドは高く突き上げた右手を、ヴォルフへと振り下ろす。

「眩き雨となり、大地を照らさん!」

 その声に従って、魔力が凝固した無数の光球が出現した。それ自体の威力は小さいが、数が非常に多かった。 空中へと飛び出したヴォルフの周囲の空間に隙間なく現れた光球に、ヴォルフは僅かに躊躇って足を止めた。 その一瞬をブラッドは見逃さなかった。高めていた魔力をヴォルフに集中させ、光球を全てヴォルフへと撃ち込む。 分厚い体毛を貫き、骨を砕き、目を焼け焦がす。いくつかはヴォルフの肉体を貫通し、血飛沫と臓物が飛び散る。 獣の荒い咆哮を放ちながら、魔力の制御を失ったヴォルフは、いくつもの枝を折りながら森の中へ落下した。 だが、これで勝ったとは思えなかった。前は勝利を確信して油断したからこそ、右腕を焼き尽くされてしまった。 ブラッドはヴォルフの血の匂いを嗅ぎながらゆっくりと高度を下げて、ヴォルフが落下した周辺をじっと見回した。 落下した地点には、既にヴォルフの姿はない。血溜まりこそ残っていたが、黒い巨体の影も形も残っていない。 となれば、上か。ブラッドが背後に振り返ると、全身の傷口から血をぼたぼたと垂らしている巨体が浮いていた。
 魔力弾の一つが肺を貫通したのか、ひゅるひゅると吐息は掠れている。右目も潰れ、瞼ごと吹き飛んでいた。 だが、残された左目はぎらぎらと不気味に輝いていた。ヴォルフは背中を引きつらせ、ごぶりと血を吐き出した。

「貴様ぁ…」

 牙の間から流れ落ちた血が、砕けた顎を伝う。だが、魔力弾の直撃を受けて折れた顎の骨が、元に戻っていく。
体毛の間に隠れた深い傷や、折れた手足や、抉れた右目も蘇り、数分もせずにヴォルフは元の姿を取り戻した。

「激しき炎をその身とし、熱き滾りをその心とし、我が力を喰らいていざ現れん!」

 ブラッドは高めていた魔力を込めた右手を、再度ヴォルフへと振り下ろす。

「炎竜、爆来!」

 ブラッドの魔力を糧にして生まれた炎の竜が、身をくねらせながら巨体の獣に飛び掛かり、頭から食らい付いた。 炎の顎が獣の頭を飲み込み、めらめらと燃え盛る朱色が包んだ。が、炎の竜は内側から膨らみ、散らされた。

「子供騙しが!」

 火の粉を振り払いながら現れたヴォルフは、体毛は若干焼け焦げたものの傷は負っていなかった。

「雷竜、轟来!」

 ヴォルフの背中に、強烈な圧が落下した。再生したばかりの背骨が砕け散り、総毛立つほどの痺れに襲われる。

「がっ、ぐっ…」

 痺れに震える目を動かし、ブラッドの姿を探した。ヴォルフが炎に包まれた一瞬の間に、遥か上空へ昇っていた。 その右手は薄く帯電し、魔法を放った余韻を残していた。半月の青白い逆光の中、ブラッドは両腕を前に出した。

「我が手に宿れ、父なる戦神の魂よ! 今こそ甦れ、竜をも滅ぼす猛き力よ!」

 両手の中に生まれた魔力の固まりが形を成し、質量を持ち、分厚い刃を持った幅広の大剣へと変化していく。

「ちょっと真似させてもらうぜ、おっちゃん!」

 ブラッドはヴォルフへ向けて矢のように降下し、巨大な剣を横たえた。

「真っ二つにしてやらぁあああああっ!」

「ぐおっ!?」

 ブラッドの大剣が腹部を裂き、臓物の切れ端が血と共に散る。ヴォルフは牙を開くも、上顎を刃に貫かれた。 それは、ブラッドが左手から伸ばしていた刃だった。みしみしと骨を軋ませながら動いた光の刃が、眉間に触れた。

「なんでぇ、おっちゃんほど上手くいかねぇや」

 ヴォルフの上顎と胴体を切り裂きながら、ブラッドは唇に付着した返り血を舐めた。

「結構不味いな、お前の血は」

「この、吸血鬼がぁあああああ!」

 ヴォルフはブラッドの左腕を砕くために下顎を閉じようとしたが、ブラッドの左腕の肘が入り、閉じられなくなった。 その間にも、ブラッドは腹部に叩き込んだ大剣を押してくる。再生したばかりの臓物が千切られ、血が迫り上がる。 顎の端から胃液混じりの血をだらしなく零しながら、ヴォルフはまだ自由の効く目で半吸血鬼の男を睨み付けた。

「貴様…。我が獣の王であると知っての狼藉か」

「獣の王なら、結構前に本物に会ってるんでな。たかだかワンコロに王様気取りされたって、つまんねぇだけだ」

 ブラッドは右手を大剣から離すと、切り裂いた胴体の中に右手を突っ込み、血と体液に満ちた体内を探った。

「んー…」

 ぐじゅぐぶと粘ついた水音を立てながら、獣の臓物を掻き混ぜていく。程なくして、目当ての臓器が見つかった。

「お、あったあった」

 ブラッドの手に、大人の拳大の心臓が握られた。これほど負傷しても未だに鼓動はあり、どくどくと脈打っている。 心臓があれば、魔力中枢もその近くにあるはずだ。ブラッドは心臓をきつく締め上げながら、魔力中枢の位置を探った。 案の定、心臓の傍に一際魔力の高い部分があった。ブラッドは口元を歪め、口の傍に伝った血を舐めた。

「あばよ、オオカミ」

 ぶぢゅり、と心臓を握り潰すと、傷口から流れる血の量は一気に増して開け放たれた喉からも溢れ出した。 ヴォルフの瞳はわなわなと震えていたが、そのうちに光を失い、巨体は力を失ってだらりと四肢が垂れ下がった。

「よっ、と」

 ブラッドはヴォルフの心臓だけを引っこ抜き、死体を投げ落とした。その拍子に魔法が切れ、大剣も消えた。

「まず」

 手に付いた血を舐めて味わってみたが、案の定口に合わなかった。ブラッドは唾と一緒に、獣の血を吐き捨てた。 ベルトに差し込んでおいた布でかすかに鼓動するヴォルフの心臓を包み、その上から魔力を抜く魔法を掛けた。 魔力が抜けきると、ようやく鼓動は消えた。ブラッドはヴォルフの死体の落ちた傍まで降下して、翼を折り畳んだ。
 闇の中に転がる巨体の獣は、息絶えていた。黒々とした血の海が広がっていたが、つま先で触れると沸騰した。 過剰な魔力が宿っていたせいで、その血は毒にも等しい液体と化したらしく、死体の周辺の草が枯れ始めていた。 道理で血が不味いわけである。ブラッドは納得しつつも、悪しき獣を倒せた安堵に浸り、ゆっくりと息を吐いた。

「いんやいんやぁ、お見事でごぜぇやした」

 物陰から聞こえた訛りの強い言葉に、ブラッドは身構えもせずに振り返った。

「やっぱり見てたのかよ」

「それがあっしの仕事でさぁ」

 ヴィンセントはにたにたしながら獣の死体に歩み寄ったが、ぐつぐつと煮え滾る血に気付き、足を引っ込めた。

「おっとこいつぁいけねぇ」

「ほい、証拠」

 ブラッドはヴィンセントの目の前に、ヴォルフの心臓を差し出した。ヴィンセントは、恐る恐る前足で小突く。

「こいつぁ大丈夫なんでやんすか?」

「魔力は全部抜いてあるから、まあ平気だろうぜ」

 ほらよ、とブラッドはヴィンセントの背中に獣の心臓を載せた。ヴィンセントは毛を逆立て、ぶるりと身震いする。

「うっへぇ!」

「なんか、疲れたな」

 ブラッドは手と顔を布で拭い、手近な倒木に腰掛けた。ヴィンセントは、うへぇ、を連呼してぐるぐると回っている。 それを横目に見つつ、獣の死体を眺めた。半月の頼りない月光に照らされている臓物は、てらてらと鈍く光っている。 あれだけ手こずった相手なのだから達成感はあるが、晴れやかな気持ちにはならず、心中は重たかった。 ヴォルフを殺しても、根本的な解決にはならない。殺される赤子はいなくなるが、ローガンの未来は未だ拓けない。 ヴォルフとの戦いを持ちかけられた時から暇さえあれば考えていたが、何一つとして良い考えは思い浮かばない。 中途半端な考えで動いても、中途半端な結果しか生まれない。ブラッドはがしがしと髪を乱しながら、眉を下げた。

「マジでどうすりゃいいんだか…」

「で、では、あっしは御主人や他の方々への報告に参りやすんで、これで」

 ヴィンセントは白い体毛の腹の部分を血で赤く汚しながら、小さく頭を下げた。

「二度と来るなよ」

 ブラッドは手で払うと、ヴィンセントは足早に歩き出した。二本の尾が草むらに入ったかと思うと、気配が消えた。 いつものように、空間移動魔法を使ったのだろう。ブラッドは血の匂いが満ちた夜気を吸い込み、緩く吐き出した。 今頃、妻も息子もよく眠っていることだろう。帰るためには、一度体を綺麗に洗って、服も着替えなくてはならない。 入念に洗わなければ、ローガンは血の匂いに感付く。その中に獣の匂いが混じっていたら不審がられてしまう。 三歳とはいえ、息子は人外だ。夜間の視力こそブラッドらには劣るが、聴覚と嗅覚はローガンの方が優れている。 ナタリア・アンドリューズの時のように、自分の近い匂いだと気付いてしまったら、もしも父親だと知ってしまったら。
 今夜の出来事は、いつか妻子に話さなければならない。だが、息子が幼いうちは決して話すわけにはいかない。 息子が全てを受け止められるほど大人になったら、心も体も大きく成長したら、自分の口から話してやらなければ。 その時、息子はきっと動揺し、取り乱すだろう。それを受け止め、支えてやるのが、父親である自分の役目なのだ。 しかし、考えるほど簡単にはいかないだろう。ブラッドでさえもひどく戸惑ったのだから、本人は相当苦しむはずだ。 その時のことを考えれば考えるほど気が重くなるが、逃れることは出来ない。覚悟など、とっくに決めたというのに。
 だが、今は家に帰ろう。ブラッドは腰を上げ、首を回して関節を鳴らした。眠気は感じていないが、疲労感はある。 歩きかけたところで足を止め、ヴォルフの死体に手を翳して魔法を放ち、高温の青い炎で死体を燃やし尽くした。 獣の死体が一山の灰と化したことを確認してから、ブラッドは再び足を進め、翼を背中に戻し、欠伸を噛み殺した。 朝になれば仕事が待っている。一昼夜眠らずとも活動出来る体力はあるが、戦闘を終えるとさすがに疲弊する。 それでも、働かなければならないのだ。ローガンを育てるためにも、きちんと食べさせなければならないのだから。
 生きることは楽しいが、苦労は絶えない。







08 5/20