ドラゴンは眠らない




目覚めの朝



誰かの、記憶が夢に混じる。


断末魔。絶叫。悲鳴。高笑い。鮮烈な赤。鈍く光る内蔵。それらが一挙に色を失い、さらさらと灰になる。
声は聞こえる。だが、言葉にはならない。影は見える。だが、その正体は何一つ見えてこない。
影は笑う。灰を握り締めて楽しげに口元を上向け、床を塗らした血に舌を滑らせて味わい、悦んでいる。
けたけたけたけた。げらげらげらげら。影は笑う。げたげたげたげたげらげらげらげらげたげたげたげた。
笑う。笑う。笑い続けている。気の触れたような声を上げて、がくがくと肩を震わせて、げらげらげらと。
影は振り向いた。その顔は。




そこで、目が覚めた。
瞼を開くと、天井が目に映った。朝日に焼かれて眩しい天井から目線を動かして、周囲を見回してみる。
鉢植えの載った窓枠、昨夜の薪が炭となって残っている暖炉、小綺麗に整えた本棚、そしてベッドの上。
自分の体を見下ろしてから、両手を布団から出した。ぺたぺたと自分の頬を撫で回し、慎重に感触を確かめる。
上体を起こして、ベッドの傍らに立て掛けてある鏡に身を乗り出した。短いツノの生えた、少女が映り込む。
黒に近い濃緑の髪は寝乱れていて、青い目の瞳孔はぎゅっと縦長に細くなっている。一度、その目が瞬きした。
体が意思と添った動きをしたことで、ようやく落ち着きを取り戻した。フィリオラは、鏡の中の自分に安堵した。
大方、寝ている間にやってきた浮遊霊の意識でも掠ったのだろう。霊媒体質であるため、何かを呼んでしまうのだ。
魔力を消耗してしまった日には、取り憑かれたまま目覚めたこともあったのだが、今回はそうならずに済んだ。
鏡に映る少女は、まだ眠たそうな顔をしていた。とろんと目が虚ろで、焦点があまり定まっていなかった。
フィリオラは一度大きく欠伸をしてから、ぐいっと体を伸ばした。んー、と唸りながら両腕を真上に突き上げる。
ぶはっ、と息をしながら腕を下ろし、ベッドから下りた。白く柔らかな寝間着を一気に脱ぎ捨て、下着姿になる。
縦長のタンスの下段を引っ張り出し、着替えを取り出し、二つの服を見比べた。どちらも、黒いローブだった。
片方はスカートが短く、片方は長かった。フィリオラは二つのローブを掲げていたが、首をかしげて眉をひそめた。
どちらでも良いような気がするが、どちらでも良くないような気がする。しばらく迷っていたが、ふと思い立った。
彼に聞けばいい。迷った時は、あの人に聞きさえすれば悪いようにはならない。そう思い、寝室の扉を開けた。

「おーじさまっ」

がちゃりと扉を開けたフィリオラは、居間兼食堂の部屋に顔を出した。だが、そこには誰もおらず、静かだった。
暖炉に火は入れられているが、人の気配はなかった。フィリオラは二枚のローブを抱えたまま、居間に入った。
小振りなテーブルの上には、伏せた食器が並んでいる。その一つに、書き付けと思しき紙が挟まれていた。

「ありゃりゃ」

フィリオラはその書き付けを引っ張り出し、丁寧に広げた。顔を寄せて、彼の書いた荒っぽい字を読む。
少し外を走り回ってくる。そのついでに牛乳も買ってくる。ギルディオス。とだけの、たった三行の文章だった。
乱雑で読みづらいギルディオスの字を何度も読み直していたが、フィリオラは肌寒さを感じて、ぶるりと震えた。
暖炉に火が入っているとはいえ、下着姿では寒くて当然だ。フィリオラは背を丸めながら、寝室に戻った。
片手に抱えていたローブの片方を、ベッドに放り投げた。掛け布団の上に落ちたのは、スカートの短い方だった。
フィリオラは抱えていた方のローブを畳んで椅子に置いてから、ベッドに広げた方のローブを取って持ち上げた。
まだ少し迷ったが、決めることにした。短い方のローブを着て腰をベルトで縛ると、長い髪を首から引き出す。
櫛を取ると、姿見の前に立って髪を梳いていく。かつっ、と櫛の歯が時折ツノに当たり、硬い音を立てた。
入念に髪を整えて二つに縛ってから、カーテンを開いた。鋭い朝日が眩しかったが、外の景色はぼやけていた。
霧と蒸気が、世界を満たしている。レンガ造りの建造物を柔らかく包み込む白い闇が、ゆったりと動いていた。
窓を開けたフィリオラは、冷たい空気を深く吸い込んだ。工業排気の匂いが色濃く残っていて、むせてしまった。
けふ、と空咳が静かな住宅街に響いた。




彼は、白い世界を、駆けていた。
規則的に鳴る金属の擦れる音が、重たく響く。レンガ造りの街並みと石畳は、冷ややかに音を跳ね返していた。
吐息は漏れない。がしゃがしゃがしゃ、と腕を振るたびに肩と腕の関節が擦れ、背中に剣の鞘が当たって鳴る。
霧を越えて注ぐ朝日が、長い影を伸ばした。トサカに似た頭飾りをなびかせた影が、静かな街を走っていく。
人通りのない中央通りを抜けて角を曲がり、がしゃ、と足を止める。行く道を塞ぐように、歩道に黒が落ちていた。
ギルディオスは何の気なしに立ち止まり、まじまじと黒い物体を見つめた。袖と足があり、服のようだった。
中身だけがすっぽりと抜けた状態で、黒い服が歩道に落ちていた。同じく黒いマントも、歩道に広がっている。
だが、その大きさはあまり大したことはなかった。子供の着る大きさなので、歩道を完全には占領していない。
服は上下ともあり、靴と左右が揃っている。これでは、服の持ち主は丸裸のはずだが、近くにそんな人間はいない。
ギルディオスはかなり不可解な気分になりながら、そっと服を摘み上げた。すると、中で小さな何かが動いた。

「ん?」

ギルディオスは腕を上げ、黒服を持ち上げてみる。ころころと内側を転げてきたものは、石畳に落下した。
灰色の小さな固まりが、冷たい石の上に丸まっている。一見するとネズミのようだったが、羽根が付いていた。
ギルディオスは服を置いてから、その物体を掴んだ。両端を摘んで引っ張ると、骨張った腕と皮が広がった。
顔はネズミに似ているが、前歯の代わりに牙が生えている。小さな目は固く閉じられていて、僅かに震えている。
それは、ほんの小さなコウモリだった。手のひらに入れて握ったら、すぐに潰せてしまいそうなほど小さい。

「そういやぁ」

ギルディオスはコウモリを目線まで持ち上げ、昨夜の会話を思い出した。フィリオラが、こんなことを言っていた。
コウモリの血と骨の粉末を使った魔法薬って作ったことがないんですよねー、と、薬を調合しながら呟いていた。
そういえば、走っている途中に牛乳屋を通り過ぎてしまったので、牛乳を買ってくるのを忘れてしまっていた。
言い訳の材料ぐらいにはなるだろう、と思い、黒服を掻き集めて丸め、その中に小さなコウモリを包み込んだ。
きゅう、とコウモリが小さく鳴いたが、気にせずにまとめた。黒い布の固まりを脇に抱え、立ち上がる。
軽い足取りで、甲冑は共同住宅へと向かっていった。




中央通りから裏路地に入り、やや奥まった場所に、三階建ての共同住宅がある。
色味が暗い周囲の建物から浮いた、赤レンガの建物だった。決して大きいわけではないが、それなりに新しい。
両開きの扉の前には幅広の階段があり、そこには鉢植えが並んでいた。咲きかけの花が、朝露で輝いている。
その鉢植えに、ポットを使って水を注ぐ人影があった。赤レンガと同じ色のエプロンドレスを着た女性である。
ギルディオスは玄関に近付くにつれ、歩調を緩めた。彼女はギルディオスに気付き、立ち上がって振り向いた。

「おはようございます、ギルディオスさん。また早朝訓練ですか?」

「だったんだけど、色々あって中断しちまったんだよ」

ギルディオスが返すと女性は、はぁ、と不思議そうにしたが、柔らかな笑顔を浮かべた。

「あら。その子は、お客様ですか?」

「あ、ああ。良く解ったな、サラさん」

ギルディオスは黒い布を広げ、中に丸めていたコウモリを見せた。女性、サラは小さなコウモリを覗き込む。

「生き物の気配がしましたから。私は魔法は使えませんけど、それくらいなら解るんです」

すると、頭上で窓の開く音がした。道に面した三階の窓が開かれ、そこからツノの生えた少女が顔を出した。

「ギル小父様ー、お帰りなさいー! サラさん、おはようございますー!」

「おうー。フィオ、お土産あるぞー」

ギルディオスは階段を数段昇ると、黒い布の固まりを振り回した。なんですかー、と問われたので答える。

「コウモリだよコウモリ。欲しがってただろ? これで魔法薬でも作れや」

「わー、ありがとうございますー!」

フィリオラは喜々としながら、窓から身を乗り出した。

「そうですね、まずは血抜きをして皮を剥いで身を煮詰めて、それから骨を砕いちゃいましょう!」

「おー、頑張れよー」

ギルディオスが手を振ると、はいー、とフィリオラは上機嫌に頷いた。部屋の中に体を戻すと、窓を閉めた。
玄関の扉に甲冑の姿が消えると、サラは一息吐いた。空になった金属製のポットを抱えると、階段を昇っていく。
管理人の仕事は、いくらでもある。近日中に入居してくる者のために、空き部屋も掃除しなくてはならない。
今日も忙しくなりそうだ。そう思いながら目を上げ、近くの建物の屋根を見上げた。すると、そこに影が立っていた。
逆光の中に、銀色の輪郭を纏った何かがいる。サラはじっと目を凝らしてみたが、それはすぐに消え失せた。
サラは影のいた位置から目を外し、首をかしげた。気のせいだろうし、気にするほどでもないと思った。
彼女の後ろ姿が扉の中に入ると、ぱたんと閉められた。




フィリオラの部屋は、共同住宅の三階にある。
縦型のコの字型になっている建物内部の、コの中心を貫いた階段を最後まで昇った先の、右手にある部屋だ。
右手の扉には、三○一、と表記がある。飴色の横長の板が、扉の上部に填めてあり、数字は金で出来ていた。
部屋番号の下には、金属製の表札がある。フィリオラ・ストレイン、と滑らかな字体で書き記されていた。
ギルディオスは、その名前の部分を手の甲で軽く叩いた。金属同士のぶつかる音が、静まっていた廊下を乱す。
すると、すぐに応答があった。がちゃりと取っ手が回されて開けられ、フィリオラがひょいっと顔を覗かせた。

「お帰りなさい、小父様!」

「おう」

ギルディオスは部屋の中に入り、後ろ手に閉めた。フィリオラは、甲冑の抱えた黒い布の固まりを指す。

「その布、なんですか? 服みたいですけど」

「なんか知らんが、コウモリと一緒に落ちてた。なんとなく拾ってきちまったんだよ」

ギルディオスは黒い布にくるまれたコウモリをフィリオラに渡すと、食卓から椅子を引き、腰を下ろした。
一息吐いてから、居間を見回した。台所からは暖かな空気と湯気が漂っているので、朝食を作り終えたようだ。
野菜の煮える甘い匂いと、小麦の焼ける香ばしい匂いがしていた。ギルディオスは足を組み、頬杖を付いた。

「悪ぃ、フィオ。牛乳買ってくるの忘れちまった」

「いいですよ、昨日の分が残ってますし。あんまりあっても、私だけじゃ飲み切れませんから」

壁に据え付けられた棚の戸を開き、フィリオラは薬瓶をいくつか取り出した。両手に抱えると、小走りになる。
居間の奧に置いてある作業台に持って行くと、ごとごとと並べた。その隣に布の固まりを置くと、また戻ってくる。
今度は、薬品棚の引き出しを開けて、解剖用の小刀やシャーレ、骨を粉砕するための乳鉢などを取り出している。
がちゃがちゃと引き出しを探るフィリオラの横顔を見ながら、ギルディオスは、ちったぁ似てるな、と思っていた。
知性を含んだ鋭い瞳、しなやかでクセのない長い髪、短い竜のツノ。フィフィリアンヌの血が、彼女に現れている。
フィリオラは、ハーフドラゴンの魔法薬学者、フィフィリアンヌ・ドラグーンの血を引く竜族の末裔である。
といっても、彼女の家系で竜の血を持っているのはフィフィリアンヌだけなので、竜の血は僅かしか流れていない。
ドラグーン家と血縁関係にあるストレイン家、すなわちカイン・ストレインの末裔は、人間と血を連ねたからだ。
フィフィリアンヌの血を濃く持つ者達は竜としての力を備えていたが、代を重ねるごとに薄らいでいってしまった。
当然と言えば当然の結果だった。だが、竜の血が発現する者も、全くいなくなってしまったわけではなかった。
フィリオラは、数十年ぶりの竜の発現者だ。ここ最近は生えていなかったツノが生え、竜への変化も可能な人間だ。
ギルディオスが、そのフィリオラと共同生活をしている理由は、先祖であるフィフィリアンヌからの命令ではない。
家を出て魔導師稼業を始めたがっていたフィリオラは、最初は、フィフィリアンヌの城に住む、という話だった。
だが、当のフィフィリアンヌがそれを遠慮したため、旧王都内での下宿となった。だが一人ではダメだ、となった。
フィフィリアンヌは放任したいらしいのだが、フィリオラの母親が心配し、気を回さずにはいられなかったらしい。
何分、旧王都は物騒であるため、十代の娘を一人暮らしさせるのは、親として不安になるのも当然のことだろう。
ギルディオスはその気持ちが解らないでもなかったし、フィリオラ自身から懇願されたため、共同生活を始めた。
五百二年前と状況は似ているが、訳が違う。借金も背負っていないし、記憶もあるし、なにより顎で使われない。
ギルディオスは、作業台の前に突っ立って小さなコウモリを睨んでいるフィリオラの後ろ姿に、声を掛けた。

「オレも手伝おうか?」

「いえ、いいです!」

振り向いたフィリオラは、解剖用の小刀を握り締めていた。

「解剖ぐらい、一人で出来ますから」

「貧血起こすなよ」

「はい!」

頷いたフィリオラは、身を屈めた。息を詰めて背を曲げ、目を閉じたままのコウモリに顔を近付ける。
灰色の薄い毛に覆われた胸元は、かすかに上下していた。フィリオラはコウモリの腕をつまみ、翼を広げた。
体長は小さく、まだ子供のコウモリのようだった。これといった外傷はない様子だが、目覚める気配はない。
気を失っているのだ、と思ったフィリオラは、コウモリの首に小刀を当てた。薄い刃を、皮へと滑らせるようとした。
だが動かす直前、コウモリは急に首を起こした。口を目一杯開くとフィリオラの指に噛み付き、牙を突き立てる。

「あいたっ」

小刀を放したフィリオラは、反射的に手を引いた。コウモリの牙の痕がくっきりと残り、穴から血が滲んでいる。
フィリオラはその傷口を舐め、魔力を強めた。穴はすぐさま塞がったが、ずきずきとした痛みは残っていた。
人差し指を銜えて顔をしかめるフィリオラに、ギルディオスは立ち上がり、彼女の背後からコウモリを見下ろす。

「生きてたのか?」

「危うく生体解剖するとこでしたねー。とどめ刺しましょう、とどめ」

フィリオラは口から指を外し、コウモリに手を翳した。魔法を放つために気を張り詰め、じっとコウモリを見る。
低威力の魔法を放とうとすると、コウモリが身動きした。フィリオラの手の下から、ずりずりと身を下げる。
コウモリは細かく身を震わせていたが、かっと目を見開き、ぎぢぃ、と吠えた。声と共に、丸まった背が跳ねる。
僅かに、魔力が発せられるのを感じた。フィリオラはギルディオスに振り向いたが、甲冑は首を横に振る。

「オレじゃねぇ」

「じゃ、これですか?」

フィリオラは、自分の唾で濡れた人差し指でコウモリを指す。コウモリは牙を剥き、毛を逆立てた。



「オレに決まってんだろ!」



唐突に、幼い声が聞こえた。しかしそれは音ではなく、二人の感覚に直接響いた、魔力を含んだ声だった。
フィリオラはコウモリを指していた指で、ちょんとコウモリを小突いた。コウモリはぎいぎいと威嚇し、背を丸める。
ギルディオスは、フィリオラの肩越しにコウモリを見下ろした。コウモリは二人を睨んでいたが、咆哮を放った。
錆びた金属を擦れ合わせたような、耳障りな叫び。その声と共に、小さな灰色が体積を増し、膨らんでいく。
灰色の毛が消え、小さかった骨が太く伸び、黒だけだった目に白目が生まれ、肩が出来、足が出来、腕が出来た。
首に繋がる胴体は筋肉がなく、つるりと滑らかで肋骨が浮いていた。成長途中の体を、色白な肌が包んでいる。
コウモリの名残であった鋭い牙が、薄い唇の下に隠れた。唇を舐めてから、少年は先程の声と同じ声を発した。

「気付けよな、ばーか」

金に近い銀髪は、少年の目元を覆っていた。少年が顔を上げると、髪の隙間から黒々とした瞳が覗く。

「鈍すぎんだよ、馬鹿女。オレはコウモリじゃなくて、吸血鬼だっつの」

少年は作業台に立ち上がると、胸を張って声を上げる。

「よくもオレを殺そうとしやがったな! 覚悟しろ!」

フィリオラはぽかんとしていたが、きゃっ、と背を向けた。ギルディオスは、作業台に立つ少年を見上げる。
少年は、言動と牙からして、吸血鬼らしかった。フィリオラに仕返しをするつもりらしく、意気込んでいる。
ギルディオスは、今にもフィリオラに掴み掛かりそうな顔をしている少年の下半身を、銀色の指で指し示した。

「なんでもいいけどさぁ…。お前、フルチンだぞ」

両手で顔を覆ったフィリオラは、こっくりと頷いた。少年はおずおずと目線を下げていき、顔を引きつらせた。
ギルディオスは少年の矮小な一物から目を外し、彼の絶叫じみた悲鳴を聞き流しながら、出窓へと顔を向けた。
朝靄は失せたが、今度は蒸気で景色がぼやけている。遠くに見える煙突からは、黒い排気が吹き出していた。
ギルディオスは内心で遠い目をしながら、考えていた。フィフィリアンヌの城とここと、どちらが良かっただろう。
どっちでも変わらないな、とすぐに結論を出した。


少年は、ひどく不機嫌そうだった。
太めの眉を吊り上げて口元をひん曲げて背を向け、ばさりと黒いマントを羽織った。マントの襟を立て、整える。
着替え終わった少年に、フィリオラは顔を向けた。ティーセットの載った盆をテーブルに置き、椅子に腰掛ける。
反対側には、ギルディオスが足を組んでいた。バスタードソードは背中から下ろされ、壁に立て掛けてある。
少年は二人に振り向き、フィリオラとギルディオスを見比べていたが、フィリオラに生えたツノに目を留める。

「道理でまずいと思った」

少年は袖の余った部分を折り返しながら、ティーポットに茶葉を入れる竜の少女を一瞥した。

「お前、竜だろ。竜のはすっげぇまずいって評判だったけど、マジにまずかったぜ」

「で、どんな味だ?」

ギルディオスが問うと、少年はべろっと舌を出した。

「苦くて渋くて超最悪。ゲロまず」

「マジですか」

フィリオラは、情けなさそうに眉を下げた。少年は、マジも大マジだよ、と言いながらテーブルに近付いてきた。
空いている椅子を引いて腰掛けると、フィリオラを見上げた。これ見よがしに、思い切り顔をしかめた。

「おまけに効率も超最低。変化するために無理矢理飲んだけど、二度とごめんだね」

「しかしなぁ、フィオ。お前、魔導師だろうが。こいつが吸血鬼だってこと、感覚で解らないもんなのか?」

ギルディオスは頬杖を付き、フィリオラに向く。フィリオラは気恥ずかしげに、頬を掻く。

「普通の生き物よりはちょっと魔力が高いかなーとか思ってはいたんですけど、まさかなーとか思ったんですよ」

「そのまさかだったんだよ! すっげぇ恐かったんだからな、死ぬかと思ったんだからな!」

少年がテーブルに手を叩き付けると、ばしゃん、とティーカップが揺れる。フィリオラは、その音に首を縮めた。
フィリオラはティーポットを取ると、二つのティーカップに紅茶を注いだ。注ぎながら、目線を彷徨わせる。

「うっかりしていたとはいえ、すいませんでした。あなたを殺しかけてしまって。その上…、その、見て、しまって」

「ま、未来があるさ、未来が!」

にやけた声のギルディオスに、少年は絞り出すように呟いた。

「…中途半端に励まされると余計に嫌だ、なんか」

フィリオラは、少年の前に紅茶の満ちたティーカップを差し出した。自分の前に引き寄せると、椅子に座り直す。
少年は紅茶を一口飲んだが、熱っ、と小さく声を上げた。砂糖壷を開けて二杯注ぎ、スプーンで掻き回した。
フィリオラは何も入れずに飲みながら、少年を眺めてみた。窓から差し込む日差しで、白い頬が光っている。
甘くした紅茶に更にミルクを注ぐ彼を見ながら、その手を遮りたくなった。紅茶は、味を変えるべきではない。
優雅で華やかな香りを楽しんでこそのものなのに、と思ったがフィリオラは言えず終いで、紅茶を飲み続けた。
少年は喉が渇いていたのか、一気に紅茶を呷った。飲み干した途端にむせたが、身を乗り出して手を伸ばした。
テーブルの中央に置いてあった皿からケーキを掴み、口に押し込んで頬張った。飲み込む前に、更に押し込む。
もごもごと顎を上下させてケーキを咀嚼する少年は、少しだけ顔が穏やかになる。空腹が納まってきたらしい。
昼間の暖かさを持ち始めた日光が、少年の髪を照らしていた。僅かに金色掛かった銀髪は、煌めいている。
微妙な色合いだった。両親のどちらかが吸血鬼なのだろうが、双方の血が程良く混じり合っているようだった。
吸血鬼にありがちな死体のような肌色ではないが、しっかりと鋭い牙が二本生えていて、吸血能力もある。
肌の色と雰囲気からして、大方、ハーフヴァンパイアなのだろう。魔力の気配も、それほど強いものではない。
少年の黒い瞳が、ギルディオスに向けられる。ギルディオスは、彼の名を聞いていなかったことを思い出した。

「お前、名前は? オレはギルディオス・ヴァトラスってんだけど」

「あ、私はフィリオラ・ストレインと申します。どうぞよろしくお願いします」

フィリオラは勢い良く頭を下げてしまい、ごっ、テーブルに額を当てた。少年は少々面倒そうに、答えた。

「ブラッド・ブラドール」

「んじゃあラッド、なんでお前はコウモリになって歩道に転げ落ちてたんだ?」

「オレにも、良く解らないんだけどさぁ」

少年、ブラッドは皿に手を伸ばし、もう一つケーキを掴み取った。一気に半分も囓ると、飲み下す。

「この街に来たところまでは覚えてるんだ。で、気が付いたら、この女にばらされそうになってて」

と、ブラッドは食べかけのケーキでフィリオラを示すと、打ち付けた額をさすりながらフィリオラは苦笑いする。

「ばらしてませんよ。未遂ってだけですよ」

「未遂でも充分だよ」

あーびびった、とブラッドは嫌そうにした。ギルディオスは、ブラッドへ身を乗り出す。

「んで、ラッド。お前はどうして旧王都に来たんだ?」

「色々あるんだよ、色々と」

二つめのケーキを食べ終えたブラッドは、紅茶のお代わりを注いだ。それを少し飲んでから、眉を曲げる。

「だけど、なんであんたらはそんなに馴れ馴れしいわけ?」

「ん、ああ。他にやることもねぇからさ」

ギルディオスの答えに、ブラッドは素っ頓狂な声を出した。

「はぁ?」

「えと、私は、迷子になっていた方を放ってはおけないかなー、と、思いまして」

おずおずと答えたフィリオラに、ブラッドは不愉快げに言い返した。

「迷子じゃない。ただ、ちょっと行き先が解らなくなっただけだ」

「それを迷子っつーんだよ。で、お前の目的地はどこなんだ?」

ギルディオスが笑うと、ブラッドはやりづらそうに目を逸らしたが、甲冑に戻す。服を探り、封筒を取り出した。
古びて黄ばんだ封筒には、見覚えのある神経質な字で宛名が書いてあった。ラミアン・ブラドール様、とある。
ブラッドは封筒を裏返すと、二人の前に向けて見せた。そこには、フィフィリアンヌ・ドラグーン、とあった。

「こいつを探しに来たんだ」

「ラミアン、てのはラッドの親父の名前か?」

「そうだけど」

ブラッドがギルディオスに頷くと、ギルディオスは訝しげに首を捻る。

「聞いたことねぇなぁ。フィルと付き合いのある奴は大体把握してるが、吸血鬼なんざ客にいたかなぁ…?」

「おっちゃん、このフィフィリなんたらって奴、知ってるのか!?」

いきなり立ち上がったブラッドに、ギルディオスは一瞬憶したが、頷く。

「ああ。長ぇこと付き合いのある相手で、知り合いっつーよりもオレの娘みてぇなもんで」

「案内しろ! そいつを殺してやるんだ!」

牙を剥いたブラッドは、封筒を強く握り締める。フィリオラは目を丸め、瞬きさせた。

「はい?」

「確かにまぁ、フィルの奴は他人に殺されそうなことばっかりしてるが、関係が見えねぇぞーおい」

ギルディオスは、椅子の背もたれに体重を預けた。フィリオラは、もっともだと言わんばかりに頷く。

「そうですよねぇ。大御婆様って、とってもあくどい人ですから、誰に恨まれていてもおかしくはありませんけど」

「なんでもいい! こいつはオレの父ちゃんを殺したんだ、だから殺してやるんだ!」

「まぁ待て、ラッド。フィルは並大抵の魔法と悪知恵じゃ、太刀打ち出来ないぜ」

手を翳し、ギルディオスはブラッドを諫めた。ブラッドは奥歯を噛み締めていたが、悔しげに唸った。

「…けど」

「オレに良い考えがある」

ギルディオスは人差し指を立て、少年の顔を指した。



「オレも、お前の復讐に付き合わせてくれや」



どうだ、とギルディオスはにやりとした声を出した。ぽかんとしたフィリオラは、徐々に表情を崩壊させていった。
かなり困惑しながら声を上擦らせ、ええ、ええ、ええー、と連呼してギルディオスとブラッドをしきりに見比べている。
ブラッドは目を見開くと、大柄な甲冑を凝視している。ギルディオスは深く頷くと、がしゃりと太い腕を組んだ。

「悪い話じゃねぇだろ? オレはちったぁ腕に覚えがあるんでね、使えねぇこともないぜ?」

「本当に、本当なのか?」

ブラッドはごくりと唾を飲み下し、声を僅かに震えさせた。おうよ、とギルディオスは内心で目を細めた。

「料金は百ネルゴ。ガキでも払える値段だぜ」

「だっ、だけど、小父様と大御婆様って、ずっと仲良しだったはずじゃああ」

青い目を潤ませたフィリオラは、悲しげに顔を歪めた。ギルディオスは、泣き出しそうな少女の頭に手を置く。
ブラッドは上着のポケットに、慌てながら手を突っ込んだ。小銭を掴み出すと、ばん、とテーブルに叩き付ける。

「百、あった! あったから、頼む、甲冑のおっちゃん、フィフィリアンヌって女を一緒に倒してくれ!」

「おう。領収書、あとで切っといてやらぁ」

ギルディオスはテーブルに散らばった小さな銅貨を、指先で集めた。白銅貨と銅貨が、合わせて六枚だけあった。
十ネルゴ銅貨が五枚に、五十ネルゴ白銅貨が一枚。それらをガントレットの手の中に納め、ちゃりっと鳴らす。

「ラッド。面倒だから、お前、このままフィオの部屋にいろ。どうせ宿も取れないだろうしな」

「え、で、ですけど」

フィリオラが言葉を詰まらせると、ギルディオスは手の中の小銭を握り締める。

「なんだ。フィオは迷子を放っておけないんじゃなかったのか?」

「そりゃ、まぁ、そうですけど…でも」

ごにょごにょと口の中で呟いていたが、フィリオラは上目にギルディオスを見、肩を縮める。

「小父様がそう言うなら、仕方ない、です…」

「よっしゃ、決まりだな」

ギルディオスは、小銭を握っている方の拳をブラッドに向ける。ブラッドは、その拳を両手で掴んだ。

「ありがとう、おっちゃんありがとう!」

歓喜するブラッドと、どこか楽しげな様子のギルディオス。フィリオラは、二人を横目に眺めているしかなかった。
ギルディオスの思考が、全く解らない。フィリオラの知るギルディオスは、寛大で優しく父親のような存在だった。
だが、今のギルディオスは、五百年来の間柄であり無二の友人であるフィフィリアンヌに敵対しようとしている。
復讐などに手を貸すような人ではない。増して、吸血鬼とはいえ幼い少年の殺人を幇助などするはずがない。
しかし、ギルディオスははっきりと言った。傭兵としての賃金までもらっているのだから、彼は本気なのだ。
フィリオラは混乱の真っ直中である頭を落ち着けるため、紅茶を傾けた。温くなっていて、あまりおいしくなかった。
何が、どうなってしまうんだろう。胃が痛みそうなほどの強い不安に襲われながら、フィリオラは目を伏せる。
そして肩を落とし、小さくため息を吐いた。




不死の重剣士の真意は、吸血鬼の少年の復讐劇の真相はいかに。
竜の末裔の少女の不安だけを掻き立てて、ゆっくりと、事は動き始める。
これが、新たなる日常の始まりであり、そして。

三人の、出会いなのである。






05 10/15