ドラゴンは眠らない




不器用な贖罪



レオナルドは、焦燥感に苛まれていた。


机に広げてある捜査資料に集中しようとしていたが、どうしてもそちらに気が向かず、口元を押さえていた。
まだ、あの感触が残っていた。簡単に潰せるほど柔らかく、ほのかに甘い少女の匂いを伴った彼女の味が。
数日前に、フィリオラに勢いで口付けてしまった。飽和した魔力を発散させるためだけに、彼女を利用したのだ。
ただ、それだけのことだった。口付けた時は何も考えていなかったし、溜まった魔力を抜きたかっただけだ。
だが、その余韻は未だに色濃く残っていた。女と口付けた経験など、一度や二度ではないはずだというのに。
青臭いガキじゃあるまいし、と思ってみたが、一向に消えることはなかった。力任せに、唇を手の甲で拭った。
幸い、意識が紙に向かっていないので、そちらに力を放つことはなかったが、やりにくいことには変わりなかった。
粗く印刷された捜査資料と、要所要所に書き込まれた自分の字を何度も読んでいたが、頭に入ってこなかった。
ええいくそ、という悔しげな呟きが、捜査一課の騒がしさに紛れた。




わだかまりを抱えたまま、レオナルドは家路を急いでいた。
連続猟奇殺人事件の捜査は、やはり進展していない。目撃証言はおろか、物証も少なすぎるのがその原因だ。
普通はあるはずの足跡も、最小限しか残っていない。空でも飛んでいったのか、もしくは一息で逃げられるのか。
そのどちらでもあるのかもしれない。グレイスの言っていた機械人形、アルゼンタムの仕組みにもよるのだろうが。
何にせよ、犯人像が普通でないことは確かだ。やはりあのことを上司に言うべきか、とレオナルドは考えていた。
惨殺された死体には、恐ろしいほど残留魔力が少ないことを。大抵は、どんな死体にも少しは魔力が残っている。
元々の魔力数値にもよるが、死して一日二日では、魂を繋ぎ止めていた魔力が肉体から抜けてしまうことはない。
だが、どの事件のどの死体も、ごっそりと抜き取られたかのように魔力が減っており、まるで奪われたようだった。
前に一度、密かに魔力測定器を現場検証に持って行ったことがある。その際、測定器の針は動かなかった。
それを持って行く前に自分の魔力で動くことを確かめていたし、空間の魔力に作用するように調整もしていった。
しかし、動くことはなかった。レオナルドの感じていたことは間違いではないと、魔力測定器は証明してくれた。
だが。完全に魔法による犯罪だと認定出来るまでは魔法で捜査は出来ないし、魔導師としての発言も無理だ。
あからさまに魔法を使った痕跡があればすぐにでも魔法捜査に移れたのだが、どの死体にも、そんな痕跡はない。
そして、目撃証言が少ないせいで、犯人像が普通の人間である可能性を、捜査本部は捨てきれないでいる。
むしろ、そうあって欲しいと願っているようだ。国家警察は近代化を進める一方で、過去の技術を認めていない。
故に、魔法捜査が行われることは少なかった。今回も、その状態で終わってしまいそうな気配が感じられる。
思い切り、初動捜査を誤っている。捜査主任に意見したいが、地位が巡査部長では、聞き入れられないだろう。
このままでは、この事件は迷宮入りしてしまうが、グレイスから得た情報を鵜呑みにするのは危険極まりない。
先入観を作ってしまい、そうでない事件までそうであると思い込んでしまうからだ。それだけは、いけない。
考え事をしながら歩いていたので、いつのまにか共同住宅に到着していた。通り過ぎそうになり、立ち止まった。
内心で情けなくなりながら、レオナルドは正面玄関の階段を昇っていった。両開きの扉を開き、中に入る。
建物を中心を貫いて階を繋いでいる階段を上に上に昇っていき、一番上の三階の廊下に出ると、足が止まる。
右手奥の三○一号室の扉に、目線が引き付けられた。金属板に書かれた彼女の名が、明かりで光っている。
以前であれば、ここであからさまにわざとらしい間合いで出てきて、彼女はレオナルドに挨拶をしてきた。
だが、朝も夜もそれがない。楽といえば楽なのだが、何か物足りなかった。もう、習慣と化していたからだろう。
付きまとわれないのであれば、都合が良い。レオナルドはポケットから鍵を取り出し、自室の鍵穴に差し込んだ。
じゃきり、と錠前が外れる金属音が響いた。




翌朝。レオナルドは、頭痛の残る頭を押さえていた。
どうやら悪酔いしてしまったらしく、ずきずきとした鈍痛と重みが頭全体にあり、腹の中には不快感が満ちていた。
目線を泳がせてテーブルに向けると、空になった蒸留酒の瓶が置いたままだった。丸々一本、空けてしまった。
気が晴れないから飲み始めたら、いつのまにか全部飲んでいた。レオナルドは自己嫌悪に陥りながら、起きた。
吐き戻すほどではないが、気分が悪いことには変わりない。ベッドから下りてカーテンを全開にし、窓を開け放つ。
湿気を帯びた朝の空気が淀んでいた空気に混じり、爽やかな冷たさを広げていた。レオナルドは、項垂れた。

「なにやってんだ、オレは…」

二日酔いでぐったりしながら、窓枠にへたり込んだ。なぜこんな状態になっているのか、よく解らなかった。
いや、理由は解っている。だが、それを理解したくないのだ。レオナルドは寝癖の付いた薄茶の髪を、掻き乱す。

「くそぉ」

忌々しく思いながら、レオナルドは右側に迫り出している出窓を睨んだ。それもこれも、フィリオラのせいだ。
あれだけしつこくまとわりついてきたのに、こうもぱったりと近付かれないと、いっそ不審ですらあった。
だからといって、こちらから接触するのも嫌だった。フィリオラが嫌いであることには、変わりがないのだから。
明るいというよりも幼い高い声。ちょっと責めればすぐに泣き、嫌うと怯え、付き合うと喜ぶ、単純な少女。
そして、人の世界から魔法を衰退させ、ヴァトラスを喰らい続けている竜族の末裔。あれは、それだけの女だ。
気にする価値もないし、気にしているべきではない。そんな女のことよりも、考えることはいくらでもある。
進展しない事件の真相、これ以上被害者を増やさないための策、上司に魔法捜査の実施を進言することなどを。
だが、思考はそちらに移行してくれなかった。払拭しようとしても、蘇るのは数日前の彼女の表情ばかりだった。
力任せに口付けて魔力を流し込み、舌を押し込んだ。強く掴んでいた細い顎が、抵抗も出来ずに震えていた。
こちらの魔力が抜けてから離すと、息苦しさからか、泣いていた。動揺と慣れない行為で、頬が染まっていた。
きらいです、だいきらいです。レオさんなんて、ほんとうにきらい。口元を押さえて俯き、か細い声を出していた。
その弱々しい言葉は、耳の底に残っていた。今まではどうということのなかった言葉が、鋭く突き刺さってくる。
どれだけ嫌いだと言われても、気にならなかった。何度泣かせても、それほど強い罪悪感は覚えなかった。
だが、今は違っていた。じりじりとした焦燥に隠されていたが、罪悪感と心苦しさが、胸中を占めていた。
レオナルドは痛みの響く頭を押さえながら、奥歯を噛み締めた。今度ばかりは、こちらが悪いのは確かだ。
焦燥が、苦しさを燻らせていた。




その日の夜。レオナルドの部屋で、ブラッドはきょとんとしていた。
いきなり引っ張り込まれて、訳も解らずにいた。レオナルドは食卓の椅子に深く腰掛けて、押し黙っていた。
テーブルの上で煌々と輝くランプに照らされたレオナルドは俯き加減で、目元には曖昧な表情を浮かべている。
ブラッドはとりあえず食卓の椅子に腰掛けると、マントの裾を整えた。疲れた様子の隣人に、問い掛けてみる。

「どうかしたの、レオさん?」

だが、レオナルドが答えなかったので、ブラッドは心当たりを口に出してみた。

「フィオが大人しくなったのは、いいことじゃんか」

この数日間、フィリオラはレオナルドに対して過剰に接近したり、強引に関わろうとはしなくなったのである。
だが、それ以外は至って普通なので、ブラッドはフィリオラがレオナルドと仲良くなるのを諦めたのだと思った。

「あいつの様子は、どうなんだ?」

目線を上げたレオナルドに問われ、ブラッドは足の間に両手を付いて背を丸める。

「どうって…別にどうってことないよ? 相っ変わらずおっちゃんにべったべたしてるし、きゃるきゃる笑ってるし」

それがどうかしたの、とブラッドに再度尋ねられ、レオナルドは肩を落とした。拍子抜けと同時に、脱力した。

「…オレだけか」

「何が?」

「いや、なんでもない」

レオナルドは急に馬鹿馬鹿しくなって、顔を上げた。苦々しげな笑みを浮かべ、隣室との間の壁に目を向ける。
思い悩まされていたのは、こちらだけのようだ。当のフィリオラは、別に気になどしていないのだろう。
なんということだ。レオナルドは妙に腹立たしくなってきて、立ち上がった。あの罪悪感は、無駄だったのか。
いきなり立ち上がったレオナルドに、ブラッドは少し驚いた。そのまま扉に歩いていく彼の背に、声を上げる。

「って、どこ行くのさ!」

「決まっている。なじりに行くんだ」

意気揚々としながら、レオナルドは廊下に出た。ブラッドは何か言おうと思ったが、何も言えず終いだった。
一人、部屋に取り残されたブラッドは、不可解な気分になった。レオナルドは、彼女をなじるのが楽しいらしい。
確かにフィリオラはいちいち反応が大きくて面白いかもしれないが、あそこまで楽しそうにすることもないだろう。
レオさんって、結構歪んでんのな。そう思いながら、ブラッドは見慣れないレオナルドの部屋を見回してみた。
薄暗いせいですぐには解らなかったが、至るところに白墨で魔法陣が描いてある。どれも、同じものだった。
ざっと数えただけで十個以上描かれている。壁と言わず床と言わず、手当たり次第に書いた、といった感じだ。
魔法の知識に疎いブラッドには、魔法陣の意味は読めないが、この数と位置からして何らかの封じには違いない。
それがレオナルドの部屋にある、ということは、必然的に、この魔法陣は彼の炎の力を封じるものなのだろう。
レオナルドの念力発火能力は、相当厄介なのだろう。それこそ、魔法陣に頼らなければならないほどに。
ブラッドも、人としては異能である吸血鬼の能力を持っているが、半分が人間であるため、制御も抑制も楽だ。
吸血の欲求も、理性で抑えられないほどではない。だがレオナルドの場合は、理性を酷使しても力が暴発する。
彼があそこまで捻くれた原因は、そこにあるのかもしれない。ブラッドは漠然とであったが、そう感じていた。
三○一号室からは、そのレオナルドの声が聞こえていた。


三○一号室に踏み込んできたレオナルドに、ギルディオスは剣を磨く手を止めた。
帰ってきて間もないのか、茶色のコートを羽織ったままだった。その裾を翻しながら、大股に歩いてくる。
ギルディオスはバスタードソードを下ろし、レオナルドを見上げた。彼は暖炉の前に座る甲冑を、見下ろした。

「部屋にいるんですか」

「ああ、フィオは部屋にいるぞ。だが珍しいなー、レオ。夕飯の残りなら台所にあるぞ」

ほれ、とギルディオスが布を持った手で台所を示すと、レオナルドは不愉快げに唇の端を歪める。

「別に、食い物をたかりに来たわけじゃないんですが」

「じゃあ、なんだ?」

ギルディオスに問われ、レオナルドは言葉に詰まった。まさか、彼女に口付けてしまったからだとは言えまい。
そして、その後も変わりない彼女をなじりに来たとなど言えるはずもない。改めて考えてみると、無茶苦茶だ。
だが、今更引き返す気も起きなかった。レオナルドはフィリオラの寝室に向かうと、その扉を数回叩いた。

「おい」

返事はない。レオナルドが少々乱暴に叩くと、小さな声で返事があり、そっと開かれた。

「なんでしょうか?」

眠たげな目をしたフィリオラが、扉の隙間から顔を覗かせる。レオナルドは、その隙間を強引に広げた。

「平気なら平気なのだと言え。そうでないのであれば、そうでないと言ったらどうなんだ!」

「私は、大丈夫ですよぉ? 気にしてませんからぁ」

ふにゃりと笑ったフィリオラに、レオナルドは神経を逆撫でされ、余計に苛立ってしまった。

「嘘を吐くな嘘を! オレがあれだけのことをしたんだ、平気でないはずがないだろう!」

「レオさん、何をそんなに怒ってるんです? 私は別に、なぁんにもしてませんよ?」

困ったように、フィリオラは眉を下げた。レオナルドはその表情に更に苛立ちが増し、彼女の肩を掴む。

「怒るなら怒れ、泣くなら泣け! お前が至って普通であることは、不自然極まりないんだ!」

そのまま寝室に押し込み、後ろ手に扉を閉めた。レオナルドに押されて数歩下がったフィリオラは、肩を縮める。
肩を握り締める手の大きさと力の強さに、フィリオラは臆していた。だがそれを打ち消し、笑顔を作った。

「あのことは、本当に、私は気にしてませんから」

「じゃあどうして、オレを避ける?」

レオナルドは、フィリオラとの間を詰めた。両肩を押さえられながら、フィリオラは瞼を伏せる。

「ただ、ちょっと、間が合わなくなっちゃっただけですよ」

フィリオラの声からは、覇気が失せていた。無理に笑おうとしているのか、口元は不自然なまで上向いていた。
両手の下で、頼りない肩は震えている。吊り上がり気味だがきつさのない目元には、澄んだ水が溜まっている。
声を堪えたらしく、白い喉が小さく引きつった。レオナルドはそれにぎくりとして、彼女の肩から手を放す。
フィリオラはすぐさま後退し、レオナルドとの間を広げた。両手を握り締めて身を縮め、呼吸を整えている。
明らかに、彼女は怯えていた。レオナルドが片手を挙げようとすると、ぎゅっと目を閉じて顔を背けてしまった。
レオナルドは、伸ばし掛けた手を下ろした。寝室は、机の上に置かれたランプの柔らかな光で照らされていた。
強く締められた瞼の端から、小さな光が滲む。あっという間に膨らんだそれは、白い頬を伝って顎に滴る。

「…そうか」

レオナルドの声に、フィリオラは手が白くなるほど握り締めた。



「怖いんだな?」



僅かに、フィリオラは頷いた。頷いたことで張り詰めていたものが緩んだのか、涙の流れる量は増した。
押し殺した嗚咽を漏らしながら、少女は身を固めていた。その姿は、弱り切った小動物のようだった。
途端に、罪悪感は膨れ上がった。彼女にどれほどの仕打ちをしてしまったのか、レオナルドは強く思い知った。
たとえ、程度は小さくとも、その理由がいかなるものであろうとも、合意でない行為が暴行でないはずがない。
レオナルドは静かに泣いているフィリオラを、見つめた。華奢で小柄で、竜というには弱々しすぎる女だった。

「すまない」

その言葉に、フィリオラは目を開いた。目を動かしてレオナルドに向けると、彼は唸るように言った。

「オレが悪かった」

濡れた目元を擦ったフィリオラは、少しだけ肩から力を抜いた。レオナルドは、額を押さえる。

「責めるなら、責めてくれ。今度ばかりは、お前は、何も悪くないんだ。だから、堪える必要もない」

怒るなら怒ってくれ、と、力なくレオナルドは漏らした。フィリオラにはその意味が解らず、何度か瞬きした。

「どうしてそんなに、それを言うんですか?」

「すっきりしないんだ」

額から手を外したレオナルドは、扉に背を預けた。

「確かに、訳も解らずにあんなことをされたら避けたくはなるだろう。だが、どうしてお前は怒ろうとしない? 怒るより先に怯えが来るのは解るが、だからといって、全く怒っていないわけではないだろうに」

「だって」

フィリオラは、上目にレオナルドを見上げた。

「怒っちゃうと、レオさん、もっと私を嫌いになっちゃうと思うんです」

「なぜだ」

「私は、感情が高揚すると、竜への形態変化を促進してしまうんですよ」

泣いていたせいで、彼女の声は上擦り気味だった。フィリオラは、両手でツノを押さえる。

「小父様やレオさんみたいに、魔力だけならまだいいんですけど、私はすっごく怒っちゃうと簡単に竜になるんです」

「竜人などではなく?」

「はい。完全な竜になっちゃうんです。でっかくてウロコびっしりで、目がぎょろぎょろしたのになるんです」

フィリオラは、レオナルドの表情を窺っていた。言いたくなかったが、ゆっくりと言葉を続けた。

「レオさんは、竜が嫌いですから。もし、怒ってうっかり竜に戻っちゃったら、レオさんはもっと私を嫌いになるんじゃないかと思って。そしたら、仲良くなるどころじゃないなぁって思ったんです。だけど、あんなことされちゃったせいで恐くなっちゃって、だけど仲良くなりたいし、って思ってたんですけど…怖い方が、どんどん強くなっちゃって…」

「だからか」

レオナルドは、怯え切った様子で目を伏せているフィリオラを見下ろした。これで、ようやく腑に落ちた。
はい、と小さく答えがあった。フィリオラは骨に似た硬い手触りを持つ短いツノから手を外し、両手を組む。
祈るように、胸の前で細い指を絡めている。余程不安になっているらしく、どちらの手も互いを掴んで離さない。
フィリオラは、レオナルドの表情を慎重に窺った。後悔しているのか、それとも苛立っているのか、解らない。
元々の表情がきつめだし、苛立っている時以外の表情はほとんど見ていない。だから、比較しようがなかった。
一度だけ見た笑い顔も、意地の悪いものだった。レオナルドの感情を知る術など、フィリオラには皆無だった。
レオナルドが非を認めたのも初めてだったが、意地の悪くないであろう声を聞くのも、表情も、全てが初めてだ。
それが嬉しいはずなのに、やはり怖かった。ただの一度とはいえ、無理に押さえ付けられた恐怖が残っている。
怖がってはいけない。怖がっていては仲良くなどなれはしないし、レオナルドの嫌いな部分が増えてしまう。
嫌いだけど、嫌いたくない。これ以上、嫌われたくない。フィリオラが涙を堪えていると、レオナルドが言った。

「竜自体は、嫌いではない」

フィリオラが目を上げると、レオナルドは淡々と続けた。

「オレが嫌いなのは、竜族が人間の世界に攻め入った事実と攻め込まれたことによる結果だ。竜を狩り続けていた帝国は当然ながら悪辣な国家だが、だからといって、竜王軍が帝国に報復攻撃を行うことが、正しいはずがない。戦いは戦いを呼び、人はより竜を憎むようになり、竜も人を憎むという構図が出来上がってしまったからだ。そして、竜王軍に魔法で太刀打ち出来なかったからと言って、何千年も連ねてきた魔導技術を安易に捨てて、近代文明を発展させることで世界を制した気分になっている大衆と上層が気に喰わんのだ。そして、その発端を作った竜族の侵略行為が嫌いなだけだ。その末裔であるからというだけで現代の竜族を毛嫌いするほど、オレは愚かじゃない」

レオナルドは演説でもするかのように、語気を強めていく。

「しかし。竜の力が脅威であった中世の時代ではなくなったにも関わらず、ヴァトラスの先祖であり偉大なるランス・ヴァトラスの父親であるギルディオス・ヴァトラスを未だに私物化し、その所有者のように振る舞っているのがお前のような頭の軽い若い女であるということが腑に落ちないし理解出来ない! だからオレは、お前が嫌いなんだ!」

強い口調に、フィリオラは肩を竦めた。気が立ってきたのか、レオナルドはフィリオラを睨む。

「いいか。ギルディオスさんがああだからといって、他のヴァトラスが全て同じだと思うなよ。そりゃオレの両親や兄弟はお前らドラグーンを受け入れてはいるが、オレは今後も認めないし受け入れるつもりもない。本当なら、近付きもしたくないところだ」

「あ、あの」

「なんだ」

彼女の問い掛けに、レオナルドは眉根を歪めた。フィリオラは、おずおずと隣室の方向を指す。

「でしたら、どうして、私のお隣になんて住んでいるんですか?」

「兄貴のせいなんだ」

「はい?」

「兄貴の野郎が勝手にオレの部屋を片付けて屋敷から追い出した挙げ句、ここを見つけてきやがったんだ」

レオナルドは、悔しげに吐き捨てる。

「竜に慣れろとかいっそ仲良くなれとかほざきやがって、丸々一年分の家賃も先払いしてやがった」

「あの、でしたら、出ていったらどうなんですか?」

「お前は金を無駄にする気か。すぐに出ていってしまっては、先払いされた家賃がもったいないじゃないか」

「払い戻せると思いますけど」

「手続きが面倒だろうが。おまけに、もう一度、三階から荷物を運び出すのは億劫じゃないか」

「結構、我が侭なんですね」

「悪いか」

「いえ」

反射的に、フィリオラは首を横に振った。レオナルドは、憎らしげに口元を歪める。

「今度会ったら、兄貴の野郎にくたばるほど文句を言ってやる。ついでにちょっとは燃やしてやる」

今はヴェヴェリスに逃げてやがるんだがな、とレオナルドはつまらなさそうにした。フィリオラは、手を緩めた。
竜に変化しても嫌われないらしい、と解り、少し気が抜けた。途端に緊張も緩んでしまい、へたり込んでしまった。
ぺたっと床に座ったフィリオラに、レオナルドは変な顔をした。背を丸めて項垂れる少女を、正面から見下ろす。

「どうした」

「いえ、なんか、安心しました」

フィリオラは自然と口元が広がっていくのを感じながら、力の抜けた笑顔になった。

「レオさんが、レオさんだったから」

「意味が掴めないが」

「えと、つまりですね、ガンガンに文句を言ってこないレオさんも変だったんですよ」

「そうだったか?」

「そうですよ。だって、挨拶しなくなったって言っても擦れ違うぐらいはしたのに、何も言わないんですもん」

だらしなく笑うフィリオラに、レオナルドは思い出してみた。考えてみれば、そうであったかもしれない。
朝と夜の挨拶をしなくなっただけで、階段でフィリオラと擦れ違うことは何回かあった。だが、何も言わなかった。
以前であれば彼女が何か言ってきたので、切り返していた。しかし、何も言われないので、切り返せなかったのだ。

「まぁ、そうだったな。だが、お前が何も言わないのだから、こちらも何も言えなくて当然だ」

「何もなかったら、文句は言えないんですか?」

「当たり前だ。引っかかる部分がなければ、揚げ足を取る部分がなければ文句は言えない」

やはり言って欲しいのか、とレオナルドがにやりとすると、フィリオラは慌てて手を振り回した。

「違いますよ違いますよ、そうじゃないですよ!」

「言われたくなければ、揚げ足を取られないようにしろ。それと」

レオナルドはやりづらそうに、フィリオラを見下ろした。

「二度とあんなことはしないから、怖がらなくていい。むしろ、怖がられるとやりづらくて仕方ないんだ」

「私も、もう平気です。だって」

フィリオラはどこか気恥ずかしげなレオナルドを見上げ、笑った。

「いつものレオさんの方が、ずうっと怖いんですもん」

「褒めているのか、皮肉なのか、それともけなしているのか?」

「…どれでもいいです」

フィリオラは急にげんなりしてしまい、顔を背けた。一つ何かを言えば、レオナルドは数倍にして返してくる。
先程の言葉は、フィリオラとしては安心したことを示しただけだったのだが、彼はそう受け取らなかったようだ。
レオナルドが普段通りの物言いになったことが、良かったのか悪かったのか、フィリオラには解らなくなった。
フィリオラが悶々としている姿を見、レオナルドは焦燥が消えていることに気付いた。苛立ちも、失せている。
それが妙に嬉しくて、レオナルドは笑っていた。また、以前のようにからかえるかと思うと、楽しくなってくる。
だが、今度からはあまり泣かせないようにしようと思った。あの、重たい罪悪の感覚だけは、どうにも頂けない。
数日ぶりに苛立ちと焦燥が消えた感覚は、清々しかった。


二人の会話を、彼らは扉越しに聞いていた。
三○一号室に戻ったブラッドは、ギルディオスと共にフィリオラの部屋から漏れる二人の声に聞き入っていた。
ブラッドとしては、さっぱり訳が解らなかった。レオナルドがしおらしくなったと思ったら、いきなりいきり立った。
その後には、なぜか嬉しそうなフィリオラと、やはりなぜか楽しそうなレオナルドの声が聞こえてきた。
会話の内容も、あまり理解出来ていなかった。ギルディオスに尋ねても、やる気のない返事しか返ってこない。
ギルディオスは二人の行く末にそれほど興味がないらしく、黙々とバスタードソードの手入れを続けていた。
ブラッドは、暖炉の前で身の丈ほどもある剣を磨いている甲冑に向いた。彼女の寝室を指し、不思議そうにする。

「なぁ、ギルのおっちゃん。結局、どうなっちゃったわけ?」

「んー?」

きゅっ、と錆止め油を染み込ませた布を刃に滑らせてから、ギルディオスは顔を上げた。

「まぁ要するに、これからも仲良くしましょう、ってことだろ」

「どこが? また前みたいに、文句言い合う関係になっちゃったじゃん」

ブラッドが首をかしげると、ギルディオスはバスタードソードを掲げ、滑らかな銀の刃を見つめた。

「それでいいんだよ、それで」

その答えは不可解でしかなかったが、ブラッドはそれ以上問わないことにした。理解出来そうにないからだ。
文句を言い合うだけの関係の、どこがいいのだろうか。ブラッドとしては、元に戻らなくても良かった気がする。
それに、フィリオラがレオナルドを避けていた理由も解らず終いだ。一体、二人の間に何があったのだろう。
ブラッドは想像を巡らせてみたが、これまたさっぱりだった。そのうちに考えるのに疲れ、大きく欠伸をした。
寝室からは、フィリオラをなじるレオナルドの声が聞こえてくる。フィリオラも、いちいちそれに返している。
それは、吸血鬼の少年が眠る頃まで続いていた。




器用でない彼の、あまりにも器用でない償い。
その罪は消えることはないが、彼女の浅からぬ傷は埋められ、塞がれた。
彼と彼女の日常は、以前と変わらぬようでいて、変わりつつあった。

変化の兆しは、ほんの些細なものなのである。






05 11/9