ドラゴンは眠らない




過去の息づく屋敷



フィリオラは、家計簿を睨んでいた。


今月の中盤から、一挙に出費が増えていた。以前は数字が並んでいた収入欄には、ゼロが連なっている。
その代わりに、出費欄には隙間なく数字が詰め込まれていた。些細なものから大きなものまで、様々だ。
中でも額が大きいのは、賠償金・返済、と添えてある数字だった。五万ネルゴ、貯金から引き出したのだ。
その次の日の欄には、がくんと生活費が減っていた。貯金の大半を引き出したので、支えがなくなったのだ。
賠償金の次には、レオさん・弁償、家賃、ブラッドさん・仕立屋の代金、小父様・機械用整備油、と続いている。
他にも、食費、水道代、燃料代、魔法植物代、魔導師協会会費、など、出費欄は赤い字で埋め尽くされていた。
フィリオラは赤インクを浸した羽根ペンを、どぼっとインク壷に差し込んだ。背を丸めて頭を抱え、唸ってしまう。

「いーやぁーん…真っ赤っかぁ…」

「なにしてんの」

食卓で項垂れるフィリオラを、ブラッドは背伸びして横から覗いた。その手元の、家計簿を見下ろす。

「うわぁひでぇ」

「誰のせいだと思ってるんですか」

頭から手を外したフィリオラは、ブラッドを睨んだ。ブラッドは曖昧な笑顔になって、後退る。

「か、稼げばいいじゃんかよぉ。魔法使ってさぁ」

「だから、それが出来ないんですってば。私は今、魔法を使えば即免許剥奪の位置にいるんですから」

頬杖を付いたフィリオラは、人差し指で家計簿の端を叩いた。とん、とん、と神経質に繰り返される。

「いいですか。謹慎処分というものは、その謹慎を守ることが大前提なんです。ということは、それを破ってしまえば無条件で協会規則の全てに違反したことになって、せっかく会長さんから頂いた温情も、何もかもがパァなんです。たとえ、調薬や占いであっても魔導行為には変わりませんし、一般の仕事であろうとも業務中に魔法を使えばその時点でダメなんです。せめて、厳重注意とか注意勧告だけでしたらまだ良かったんですけどね。魔法薬の製造販売だけなら出来ますから。でも、それすらも出来ないんですよねぇ…」

はぁ、と全身でため息を吐いたフィリオラに、ブラッドは言い返す。

「ばれなきゃいいだけじゃんか。どうせ協会の人間なんて、そうごろごろいるもんじゃないんだろ?」

「ですからぁ。魔導師協会規則は共和国法規の魔導師免許規則とほぼ同列の扱いにされているんですよ」

「だから?」

「ですから、共和国国家法規を違反したことになっちゃうんです。つまり、簡単に言えば犯罪なんです。私が免停中であると言うことを知っている警官に見つかれば、その場で即逮捕なんですよ。ですから、魔法を使って商売なんて出来るわけがないんですよ。前科者になっちゃいますから。それに、小父様もいますし」

「おっちゃん、魔導師協会の人間なん?」

そんな感じには見えないけど、とブラッドが首をかしげると、フィリオラは椅子の背もたれに体重を預ける。

「人型魔導兵器、稼働時における原則許可事項。第二項目。魔導兵器は法規違反を行う魔導師を発見した場合、国家警察と魔導師協会の許可を得ずとも、魔導師を拘束或いは攻撃することが出来る。つまり、魔導兵器、小父様のように人間外の体を持つ人間の方は、その存在を魔導師協会と政府に登録した時点で、魔導師に関してはある程度の警察行為が可能なんです。まぁ、それと同じように、私達魔導師も、意味もなく暴れ回る魔導兵器や破壊を繰り返す魔導兵器に関しては、攻撃と破壊が許可されていますけどね」

この間のアルゼンタムみたいなのが対象です、とフィリオラが補足すると、ブラッドは更に首を曲げた。

「…わっかんねぇ」

「要するに、相互関係にあるんですよ。魔導師と魔導兵器は。きちんと説明すると時間が掛かりますけど」

「しなくていいよ、もう」

これ以上小難しい単語を聞きたくないので、ブラッドはフィリオラを遮った。フィリオラは、少し残念そうにする。

「そうですか。面白いんですけどねー、魔導兵器誕生の経緯とその発展に伴う機械技術と魔導技術の向上って」

フィリオラは喋るのを止め、家計簿へと目線を戻した。徐々に下げていき、現在の生活費の合計額を見つめた。
今日、サラに家賃を支払ってしまえば、手持ちの金は五百ネルゴを割っていた。貯金も含めた額が、それだった。
久しく痛んでいなかった胃が、ちくりと痛んでくる。フィリオラは腹を押さえると、あー、と力のない声を漏らす。
暖炉の前に胡座を掻いて座っていたギルディオスは、魔導拳銃の弾倉を銃身に叩き込み、構えてみせる。

「そんなにひでぇのか」

「ひどいっていうか、もぉ…」

家計簿を押しやったフィリオラは、崩れ落ちるようにテーブルに突っ伏した。額を打ち付け、ごっ、と鈍い音がした。
ギルディオスは魔導拳銃の黒光りする銃身を磨いていたが、顔を上げた。丸まっている彼女の背を見上げる。

「だが、まるっきり働き口がないってわけじゃねぇだろ?」

「まぁ、そーなんですけどねー…」

フィリオラは体を起こし、もう一度ため息を吐いた。そしておもむろに、ブラッドの襟首を掴む。

「んじゃ、ブラッドさん、来て下さい」

「なんで、オレが」

ブラッドは逃げ腰になったが、襟を掴まれているせいで動けない。フィリオラはにやりと笑い、少年を見下ろす。

「逃げるんだったら、変身しちゃいますよー? でもって、地獄の果てまで追いかけますよー?」

「…うぇ」

ブラッドは、声を潰した。半月前の騒動の際に感じた、竜に対する本能の畏怖と変身した彼女の恐ろしさが蘇る。
竜の力を全て解放していなくとも充分に溢れていた威圧感、感覚を逆撫でする圧倒的な恐怖、赤い瞳の輝き。
そして、刺々しく遠慮のない物言いと、鋭利な爪が首に当てられる感触。ブラッドは、それらを一気に思い出した。
あの恐怖を味わうくらいなら、逆らわない方がいい。むしろ、逆らってしまったら、もっと悪いことになるだろう。
ブラッドがぎこちなく頷くと、フィリオラは満足げに頷いた。インクの乾きを確かめてから、家計簿を閉じる。

「じゃ、行きましょうか。準備しますから、ちょっと待ってて下さいね」

ブラッドの襟首から手を放したフィリオラは、立ち上がって家計簿を本棚に差し込むと、小走りに寝室に向かう。
彼女の姿が寝室に消えると、ブラッドは苦々しげな顔になる。ギルディオスは少年を見上げ、笑い気味に言う。

「ま、頑張れや、ラッド。働くってのも悪いもんじゃないぜ?」

ブラッドは、頷いてしまったことを後悔した。正直言って、働く気など欠片もなかったし働いたこともなかった。
半分は吸血鬼ということもあり、本来であれば食事に頓着する必要はない。適当に、血を飲んでいればいいのだ。
旧王都に来た時だって、金はほとんど持っていなかった。毎日毎日、必死に空を飛び続けてここまでやってきた。
だから、金がなくても、魔力さえ回復すればいつもなんとかなっていたし、これからもそうするつもりでいた。
フィリオラの部屋にいるのも、なんとなく出そびれているからだ。頃合いを見計らって、出ていく気持ちはある。
本来、ここにいるはずのない自分が、いつまでも居てしまっては、フィリオラにもギルディオスにも悪いと思った。
なのに、働いたりしてしまっては、余計に出づらくなってしまう。ますます、住人らしくなってしまうではないか。
そんなことを考えながらブラッドが悶々としていると、フィリオラが戻ってきた。魔導師の服装では、なくなっていた。
地味な草色のエプロンドレスを着ていて、片手には小さめの服を抱えていた。それを、ブラッドに差し出してくる。

「着替えて下さい。その格好は素敵ですけど、動きづらいですから。特にマントが」

「えぇー…」

ブラッドは、思い切り嫌そうな声を出した。フィリオラが持っている服は、彼女のものなのか、色合いが明るい。
フィリオラは服の袖とズボンの裾を折り曲げてから、再度少年に差し出した。ブラッドは、その服から顔を背ける。

「どうしても?」

「はい、どうしてもです。お掃除をする時にマントの裾が汚れちゃいますし、黒って特に汚れが目立つんですよねぇ」

フィリオラは細い眉を下げ、息を漏らす。

「毎度毎度、私がそのマントを洗うのに、どれだけ面倒な思いをしていると思っているんです? 綺麗に染めてあるから乱暴に扱うと色が抜けてしまいそうですし、立っている襟の形を崩さないようにしなくてはならないし、意味もないのに一日中着ているものだから、裾の端っことか腰掛ける時に下にしちゃう部分とかが汚れちゃって、綺麗さっぱり洗ってしまいたいのに、ブラッドさんたらそれを着ない日はなくて、ていうか体の一部にしちゃってて…」

ブラッドが反論する間も与えずに、フィリオラはまくし立てる。

「しかも、その黒の上下も着っ放しだから、肘とか膝の部分が薄くなっちゃいそうで怖いんですよね。そうでなくとも、関節の部分は減りが早いのに。そんな上等な服を普段着にしているなんて恐ろしくてたまりません。たまーに襟元と袖口が食べこぼしが付いてるし、靴だって一つしかないからおちおち干せないし…。ただでさえ男の子って服を汚すんですから、いっそのこと、ずっとこういうのを着ていてもらいたいんですよ。その方が、お洗濯もずぅっと楽ですし。なんなら作ってしまいましょうか、私のお下がりを仕立て直して」

「…わかったよぉ」

仕方なしに、ブラッドはフィリオラの差し出している服に手を伸ばした。フィリオラは、にんまりする。

「それでいいんです、それで」

「オレ的には良くないんだけど」

フィリオラのお下がりを抱え、ブラッドは自分の部屋に入った。扉を閉めてから、マント留めに手を掛ける。
ばさり、と足元に黒が崩れ落ちると、床に降り積もった埃が舞い上がる。袖を抜いて上着を脱ぎ、下も脱ぐ。
やる気なく着替えながら、ブラッドは次第に不機嫌になっていった。面白くないことばかりが、続いているからだ。
共同住宅を出る頃には、すっかり無口になっていた。




三人は、かつての王宮の前にいた。
五百年ほど前は栄華を誇っていた王国の、確かな名残だった。いくつもの塔を建てた巨大な城が、そびえている。
堀も跳ね橋も健在だったが、そこを歩くのは王国軍兵士達ではない。書類を抱えた役人や、実業家達ばかりだ。
以前は衛兵が守っていた城門も、今は警察官が挟んでいる。軍部の人間らしき制服を着た者も、数人通った。
その王宮、現在は共和国政府旧王都分所、という名だが、その前には一際背の高い時計塔と広場があった。
彼らは、城門のすぐ手前に並んでいた。ギルディオスは慣れたものなのか平然としているが、彼女は違っていた。
フィリオラは、先日の失態のこともあってか、気を張っているようだった。唇を引き締め、肩を縮めている。
そんな彼女を、ブラッドは見上げていた。働きに行くはずなのに、なぜここに来るのか、まるで解らなかった。
しばらく突っ立っていても、誰もこちらに来る気配はない。暇潰しに、ブラッドは時計塔と広場を見渡した。
街並みを抉ったかのような円形の広場には石畳が敷かれているが、旧王都の道路とは違い、石の色が白かった。
踏んだ時の硬さは変わらないのだが、少しばかり滑らかだった。雨の日は滑りそうだな、とちょっと心配になる。
広場には、休憩用のベンチが並んでいて、そこかしこに人々が座っている。先日の、公園の光景に似ていた。
だが公園と違うのは、人々は休憩ではなく、仕事の続きをしているようだった。誰も彼も、書類を広げている。
中には普通の市民と思しき人間も幾人かは座っていたが、仕事をしていない方の人間の方が明らかに少ない。
そして、そのベンチと時計塔の中間辺りに露店があった。菓子や軽い食事などを売っているらしかった。
時計塔を見上げてみたが、文字盤は見えなかった。城側と街側に向けて付いているのだが、どちらも見えない。
数歩下がってみても、同じことだった。見えるのは、時計塔を成し上げている赤茶けたレンガの壁だけだ。
すると、がちり、と何かが噛み合う音がした。数秒後、体に染み入る重たい震動が、塔の内側から滲み出た。
規則正しい鐘の音が、何回か繰り返された。人々は少し足を止め、フィリオラとギルディオスも塔を見上げる。
八回、音がして終わった。ブラッドは間近に感じた鐘の余韻でぼんやりしていたが、人の気配に気を戻した。
いつのまにか、近くに誰かが立っていた。通りすぎるというわけではなく、足を止めて、二人に並んでいる。
黒よりも明るく青よりも暗い、藍色の長いコートを羽織った男だった。その顔立ちは、誰かに似ていた。
目は細く、身長も肩幅もあり、体格が良い。やはり見覚えのある薄茶の長髪を、後頭部で一括りにしている。

「君があれか」

男は、ブラッドを見下ろした。細い目は更に細められ、薄茶の瞳はほとんど隠れてしまう。

「フィオちゃんを赤貧にしてくれちゃった張本人だね?」

思い掛けない言葉に、ブラッドは言葉に詰まった。言い返そうとしても、言い返すべき文句は思い付かない。
間違ってはいないし、事実、そうであるからだ。だが、なぜこの男がそれを知っているのかが解らない。
見たこともない男だし、知らないはずなのに、顔立ちに見覚えのある気がすることが余計に不可解だった。
ブラッドが戸惑っていると、フィリオラは一度男に礼をした。それからブラッドの元へ寄ると、男を手で示す。

「えと、ここに来たのはですね、先生をお待ちしていたからなんです」

「先生?」

ブラッドは、フィリオラと男を見比べた。男は、うん、と頷いてみせる。

「四年前まではね。んで、どうだい。あいつの様子は。相変わらずつんけんして、文句ばっかり言ってるかい?」

それが誰かブラッドが問おうとすると、男は笑う。

「レオナルド、レオは元気にしてるかい?」

「え、てー、ことは」

ブラッドは、ギルディオスに振り向いた。腕を組んで壁に寄り掛かっていた甲冑は、男を指した。

「うん。オレの末裔でレオの兄貴だよ。レオよりも大分まともだから安心しろー」

「紹介が遅れたね。僕は、リチャード・ヴァトラス。魔導師協会の役員と、魔法大学の講師をしているんだ」

よろしく、とリチャードは温和な表情で微笑んだ。ブラッドは少し躊躇っていたが、返した。

「ブラッド・ブラドール、です」

「んで、ヴェヴェリスの方はどうだった?」

ギルディオスは壁から背を外し、リチャードに尋ねた。リチャードは、両手を上向ける。

「もうじき、学生達に招集が掛かりそうな感じがしますよ。なんせ、隣町に軍の兵営がどっさり出来ましたからね」

終末戦争も近そうだ、と、リチャードはやたらと明るく言った。フィリオラは、少し不安げにする。

「変なこと言わないで下さいよぉ」

「まぁ、半分ぐらいは本気だけどね。この頃の軍の動きは気色悪い。狙いが掴めそうで掴めないしなぁ」

リチャードはギルディオスに向き、人差し指を立ててみせる。

「元軍人さんとしては、どういうお考えで?」

「どうだっていいさ。今のオレにゃ関係のねぇ話だからな」

素っ気なく返したギルディオスを、ブラッドは意外に思いながら見上げた。従軍経験があるとは、知らなかった。
だが、違和感はなかった。彼の話によれば、死してからもずっと戦い続けてきたらしいので、しっくり来る。
しかし、なぜ軍を辞めてしまったのだろう。ブラッドは想像してみたが、まるで思い付かないので諦めた。
フィリオラは、やけに楽しげな様子のリチャードに振り向いた。機嫌の良さそうな柔らかい笑顔を、見上げる。

「あの、それで。どうして、先生はこちらに戻ってこられたんですか? 役員議会の時期のはずですけど」

「ああ、うん。そのはずだったんだけどね、切り上げざるを得なくなったから」

リチャードは旧王都を見渡すように、広場を囲む街並みを仰いだ。

「ほら。二ヶ月半くらい前から、旧王都で殺しが続いてるだろ? その犯人が魔導兵器らしいって聞いて、やっとこさ国家警察本庁がやる気になったんだよね。今までがだるだるっていうか、田舎に構ってられるかって態度だったんだけどさ、その魔導兵器の造り手がグレイス・ルーだと知るや否や、僕みたいな魔導師を旧王都に送り込むぐらい、気合いを入れて取り掛かり始めちゃったんだ。現金だよねー、滅茶苦茶。いくらグレイス・ルーの口を塞ぎたいからって、何も僕を使うことないのに。今まで散々グレイス・ルーを利用してきた、自分達がいけないのにねぇ。まぁ、元を正せば、政府やら警察やらにちょっかい出して引っ掻き回しまくってるグレイス・ルーが一番悪いんだけどね」

参ったもんだよ、とリチャードは首を横に振る。フィリオラは、おずおずと片手を挙げた。

「あの、私、この間、その魔導兵器と戦いました」

「うん。知っているよ。わざわざ、君が報告書を書いて送ってきてくれたからね」

リチャードは、短いツノの生えた少女を見下ろす。

「いい参考になったよ。形状は人型、動作の速さと腕力の強さからして機械式だね。なかなか厄介そうだよ」

「どれくらい、こっちにいるつもりなんだ?」

ギルディオスが尋ねると、そうだなぁ、とリチャードは腕を組む。

「その魔導兵器、アルゼンタムとやらの素性と正体がはっきりするまでだ。僕の仕事は、あくまでもアルゼンタムの起こした事件とアルゼンタムそのものの調査であって、破壊とかじゃないし。魔導師協会からもらった調査期間は、一ヶ月ちょいだけど、それよりもいるかもしれないなぁ。グレイス・ルーが相手となると、さすがに手間が掛かるし」

「じゃ、大分働けますね!」

急に、フィリオラは表情を明るくした。両手を胸の前で組み、リチャードの前に詰め寄る。

「それでは先生、いつもの通りお願いします! というより、働かせてくれなければ本当に飢えちゃいますんで!」

「そういえばそうだったねぇ。フィオちゃんの稼ぎで、賠償金二十五万ネルゴはきついもんね。じゃ、いつもの通りで」

「はい!」

心底嬉しそうに、フィリオラは頷いた。ブラッドが説明を求める前に、フィリオラは少年を見下ろす。

「と、いうことですので、ブラッドさん。これからしばらく、私達は先生の助手というか小間使いになります」

「働く当てって、それのことだったの?」

「ええ、そうですよ。先生が戻ってきている間は、いつもそうしていたんです。魔法の修業も兼ねて」

にこにことするフィリオラに、ブラッドは反応に困っていた。リチャードは屈み、ブラッドと目線を合わせる。

「と、いうわけだから。しばらく、よろしく頼むよ」

ブラッドは逆らうことも出来ず、頷くしかなかった。ちらりとギルディオスを窺ってみるも、何も言わない。
それどころか、うんうんと深く頷いている。ギルディオスは、とりあえず働いてみろや、と言いたいらしかった。
結局、ブラッドは何も意見することが出来なかった。というよりも、意見しても無駄であるという雰囲気だった。
肩幅が若干広くてずり落ちそうな上着を直し、ブラッドは目を伏せた。また、次第に機嫌が悪くなってくる。
何か、無性に面白くなかった。




古びた屋敷を、彼らは見上げていた。
鉄柱の門が行く手を塞ぎ、その先にある前庭では淡い花弁が日光に撫でられている。重厚で大きな屋敷だった。
大分前から存在しているらしく、壁のレンガは色が少し褪せている。両開きの正面の扉には、家紋があった。
大きく花弁を開いたスイセンの家紋が、浮き彫りにされている。その紋には、ブラッドには見覚えがなかった。
リチャードが門を押し開くと、前庭にいたメイドが気付いた。急いで駆け寄ってくると、深々と頭を下げる。

「お帰りなさいませ! お出迎えもせずに、申し訳ありません!」

「いや、いいよ。僕が早く来ちゃっただけだし」

リチャードが先に進むと、フィリオラはそれに続いて入り、メイドの少女に頭を下げる。

「お仕事、御苦労様です」

「ほれ、さっさと入れ」

ギルディオスに急かされたが、ブラッドは進めなかった。明らかに金があると解る家に、おいそれと踏み込めない。

「だ、だけどさ」

「オレんちなんだから、そんなに気にすることはねぇよ」

ほれ入れ、とギルディオスはブラッドを押した。つんのめった少年は、よろけながら屋敷の敷地に踏み入った。
途端に、空気が変わった。穏やかだった春の日差しに鋭さが増し、心地良かった風が冷え、足元が固くなる。
何者かの気配が肌を刺す。背筋に触れてくる。視界が鮮烈になる。とにかく、感覚という感覚が冴え渡った。
目を見開いていると、フィリオラが戻ってきた。多少心配げな顔をして、呆然としているブラッドを見下ろす。

「大丈夫ですか?」

「慣れてねぇんだろ。この感じに」

ギルディオスは二人の脇を通り過ぎ、ぎち、と首を軋ませながら屋敷を仰いだ。

「ま、当然と言えば当然だよ」

リチャードは、ヴァトラスの屋敷を見上げた。穏やかな光の輪郭を纏った建物は、無言でこちらを見下ろしていた。

「紹介しよう。彼の名は、まぁ通称なんだがね、こういう名前なんだ」



「ヴァトラ・ヴァトラス」



リチャードが言うよりも先に、ギルディオスが言っていた。

「オレらのご先祖と同じ名前だ。人造魂なんだが、屋敷に埋め込まれちまってるんだよ、こいつは」

「あのスライムと違って喋れはしないが、それでも上出来なものだよ。意思があり、多少の魔力を持っている」

リチャードの口調は自慢気であり、楽しげでもあった。

「彼はね、三十年前に僕とレオの父さんが造ったんだよ。そして、政府に登録したんだ」

細い目が開かれ、どこかを見据えた。


「魔導兵器、一号としてね」


吹き付けてきた風が、一度だけ鳴り響いた鐘の音を広げていた。大分薄らいだ震動が、鼓膜を揺らして消える。
無機物であるはずの屋敷が、生き物でないはずの屋敷からの、視線を感じていた。じっと、少年を見ている。
声のない声が、音にもならない音が、感情をなぞって伝えてくる。ブラッドの感覚に、誰かの意思が掠った。
その意思は言う。何度も繰り返して言う。私をその名で呼ぶな。私はその名で呼ばれたくない。私は。
私は、兵器ではない。







05 11/18