ドラゴンは眠らない




吸血鬼の家出



ブラッドは、不機嫌だった。


十数日ぶりに羽織ったマントを広げ、風を切って大股に歩く。石畳は脆弱な月明かりに照らされ、光っている。
しんと静まり返った旧王都の街中は、誰の声も聞こえなかった。時折、獣の猛りがどこかから響いてくるだけだ。
街灯の明かりもほとんど消えていて暗闇も同然だったが、魔力を高めれば視界が強くなり、見えないことはない。
重たい闇に沈んだ街を、黒に身を包んだ少年は一心に歩いていた。目的などない、ただ、苛々して仕方なかった。
フィリオラの弟子となってから、一週間と数日が過ぎた。その間、フィリオラはキャロルとばかり親交を深める。
それでなくてもこの街では疎外感があるのに、彼女の関心が逸れてしまったことで、一層それは強まっていた。
面白くない。面白くない。ブラッドはそればかりを胸中に渦巻かせながら歩いていたが、いつしか、駆け出した。
乾いた軽い足音を響かせながら、黒衣の少年は走っていた。どうしようもない憤りと情けなさが、原動力だった。
息を弾ませて石畳を駆け抜けながら、必死に払拭した。沸き上がってくる虚無と、襲い掛かってくる寂しさを。
走り続けながら、必死に寂しさを押し込めていた。


走って走って走った先は、旧王都の塀の外だった。
さすがに上がってしまった息を整え、いつのまにか汗ばんだ額を拭う。火照った顔に反し、手は冷たかった。
中世の時代と違って、現在は四六時中開け放たれている門から外に出た場所に、ブラッドは見覚えがあった。
なだらかな丘陵に繋がる広大な土地には、工場街が並んでいる。その右手奥には小高い丘、共同墓地があった。
以前、ギルディオスに連れてこられた方向だ。ブラッドは共同墓地を見ていたが、そこから先が気になってきた。
深い森に包まれて迫り上がっている山があるのは解るが、その木々の隙間から城と思しき影が見えているのだ。
妙に惹かれるものを感じて、ブラッドはそちらに向けて歩き出した。今度は走らずに、前を見て歩いていく。
一度、後方へ振り返ってみた。だが、門の奧に伸びている通りには人影はなく、誰も来てはいないようだった。
内心で落胆しながらも、納得していた。所詮、自分は異物なのだ。この街にとっても、彼女達にとっても。
再び起きてきた寂しさに苛まれ、涙が滲んできそうだった。ブラッドは自然と早足になり、逃げるように進んだ。
父親に会いたかった。なぜか急に、父に会いたくて仕方なかった。それと同時に、空しさが押し寄せてきた。
ただ一人の父親は、もう、いないのだから。




西へと歩いた先に、森があった。
誰かの足跡と歩いた痕跡が残っている場所を辿って、なだらかだが傾斜のある山道を、黙々と進んでいた。
歩いているうちに流れてきた涙を拭って、嗚咽を堪える。しゃくり上げてしまうのだけは、我慢出来なかった。
前に比べて夜風は温かさを増しているが、森の中なので湿気を多く含んでいた。土と草の匂いが、足元から昇る。
枯れ葉で足を滑らせそうになりながら、うねった木の根を踏み越えた。転びそうになったが、なんとか踏ん張る。
木に手を付いてから、顔を上げた。大分上だが、木々に隙間がある。あの城と思しき重厚な影も、垣間見えた。
目標が出来たことで、ブラッドは萎えかけていた気力を取り戻した。力の抜けた足に力を込め、土を踏み締める。
一歩一歩、近付いていった。開けているからなのか、森の中に比べて、城の近くは少し明るいように見えた。
まばらになってきた木の間を抜け、足跡の残る道が終わった先で立ち止まった。そこには、湖が広がっていた。
淡い光を放つ半月を映し、藍色の星空と古びた城を映し込んだ広大な湖面が、静かに音もなく波打っている。
ブラッドは湖を見渡していたが、湖の浅瀬で目を留めた。音のない湖面に、小さな影が波紋を作っていた。
白い輪郭を纏った、小柄な裸身。翼の生えた背をこちらに向けて、整った横顔を上向けて、薄い唇を開いていた。
美しくもおぞましい光を帯びた赤い瞳が、虚空を見つめる。濡れて乱れた髪の間から、尖った耳が突き出ている。
すらりとしたツノを持った、竜の少女だった。彼女はブラッドに気付いたのか、水滴の滴る指で髪を掻き上げる。

「貴様か」

華奢を通り越して折れそうなほどの腕が上げられ、肩から緑髪が滑り落ちた。平たい胸に、幾筋もの水が伝う。

「私を殺しにでも来たのか」

ブラッドは、慌てて首を横に振る。そうか、と竜の少女、フィフィリアンヌは少年に目を向ける。

「上がれ。時間が時間だから、ろくな持て成しは出来んがな」

「…いいのか?」

ブラッドが恐る恐る答えると、フィフィリアンヌは皮肉混じりの表情を目元に浮かべる。

「子供とはいえ男が泣きながらやってきたのだ、無下には出来まい。戦いたいのであれば、戦ってやるが?」

「え、あっ、なんで」

ブラッドが濡れた頬を押さえると、フィフィリアンヌは湖から上がり、頭からローブを被ってベルトを締めた。

「解るとも。声の調子と水の匂い、それと呼吸の具合だ。暗ければ暗いほど、変調は感じやすいものなのだ」

来るなら来い、とブーツを履いたフィフィリアンヌは歩き出した。ブラッドはあることが気になり、尋ねてみた。

「あのさぁ」

「なんだ」

城の正面玄関に向かいかけたフィフィリアンヌは、面倒そうに振り返る。ブラッドは、彼女の下半身を指す。

「下着…着ねぇの?」

「私は別に気にならんが」

「オレが気になるんだよ!」

ブラッドは、変に赤くなりながら喚いた。よく見ると、闇色のローブのスカートの両脇には深いスリットが入っている。
その隙間から、ちらちらと覗いている白く滑らかな太股が気になって仕方なく、訳もなく動揺してしまっていた。
フィフィリアンヌは、さも不可解そうに眉を曲げた。唇を締めて服を握り締めている、吸血鬼の少年を眺めた。

「多少風通しが良いだけだろうが」

「気にしてくれよ…」

美少女なんだから、とブラッドは言い掛けてやめた。小さなドラゴンの翼を生やした彼女の背は、遠ざかっている。
まとめられていない長い緑髪は濡れたままで、薄い背に水が伝っている。体が、冷えてしまいそうに思えた。
だが、濡れた髪をまるで気にすることもなく、フィフィリアンヌは城の正面玄関に繋がる幅広の階段を昇っていった。
ブラッドは彼女の後に続いて歩いていたが、途中で足を止めた。湖面に波紋は広がっているが、風は出ていない。
不思議に思いながら、波紋の中心である湖の中心に目を向けた。先の見えない暗闇から、何かが聞こえていた。
穏やかで優しい、歌声にも似た音だった。ブラッドが聞いたことのない言葉だったが、美しい流れを持っていた。
少年が立ち止まっているので、玄関の扉に手を掛けたフィフィリアンヌは、湖面に目を向け、僅かに目を細める。

「聞こえるのか」

ブラッドが頷くと、フィフィリアンヌは分厚い扉を軋ませながら開いた。

「あの子の歌が聞こえているとなると、貴様の感覚はなかなか鋭敏に出来ているようだな」

それが誰なのかブラッドが問う前に、フィフィリアンヌは続けた。

「そこには、セイラが眠っている。心の優しい異形の歌い手でな、今でも時折歌って聞かせてくれるのだ」

懐かしげな、それでいて愛おしげな声だった。あの突き放したような冷徹な口調ではなく、温かみがあった。
フィフィリアンヌは、扉の片側を広げ切った。ぼんやりしているブラッドを見下し、不機嫌そうに口元を曲げる。

「入るなら入れ。入らぬなら閉めるぞ」

本当に閉めてしまいそうな言い方だったので、ブラッドは急いで駆け出して階段を昇り切り、城の中に入った。
扉のすぐ裏に、ランプが置かれていた。それに照らされた少年の影は、正面の末広がりの階段まで長く伸びた。
見るからに重たそうな扉を片手で閉めたフィフィリアンヌは、ランプを取った。すると、その隣にフラスコがあった。

「これはこれは珍しいことであるぞ、フィフィリアンヌよ。真夜中に貴君に夜這いを掛ける男がまだいたとはな」

はっはっはっはっは、とフラスコの中で赤紫のスライムは震えた。ブラッドは、言葉の意味が解らなかった。

「ヨバイ?」

「はっはっはっはっはっはっは。我が輩の知的な冗談を理解するには、少しばかり年齢が低かったようであるな」

「本気で伯爵の相手をするな。付け上がるからな」

フィフィリアンヌは細い指でフラスコの円筒部分を掴むと、ランプと一緒にぶら下げて階段に向かい、昇る。

「我が輩らに付いてくるが良いのである、少年よ」

「どこに行くんだよ」

フィフィリアンヌに続いて階段を昇りながら、ブラッドは伯爵を見上げた。伯爵は、ぐにゅりと柔らかな身を捩る。

「そうであるな。我が輩が思うに、二階の書庫と化している広間であろう。あそこはこの女の気に入りである」

「貴様が好きなだけだろう、伯爵」

奴の名残が多いからな、とフィフィリアンヌが呟くと、伯爵は気泡を吐き出した。

「まぁ、それもそうなのであるがな」

何かを含めたやりとりに、ブラッドは二人を見比べた。彼女らも、ギルディオスと同じように過去を抱いているのだ。
それがどういうものであるかは、解らなかった。聞いたところで、その全てを理解することなど出来ないのだろう。
どんな出来事も、当事者でなければ知り得ないことの方が多い。ブラッドは階段を昇りながら、そう思っていた。
だから、この寂しさも自分以外には解らないだろう。


竜の少女に通された部屋は、壁が本で出来ていた。
そう思えるほど、高く大きな本棚が、緩く曲がりながら壁に沿って並び、その全ての棚を分厚い本が埋めていた。
大きな暖炉の前に、申し訳程度に置かれたソファーとテーブルの回りには、これまた無数の本が積み重ねてある。
フィフィリアンヌの読みさしらしい古びた本が、ワイングラスの傍に伏せられていた。彼女は、顎でソファーを示す。

「座れ」

ブラッドは、言われた通りにテーブルに向かった。一人掛けと三人掛けのソファーが、テーブルを挟んでいる。
フィフィリアンヌが一人掛けの方に座ったので、ブラッドは三人掛けの方に座った。マントを直し、腰掛ける。
テーブルに、乱暴に伯爵が投げられた。ごろり、と半回転しながらフラスコは板を滑り、落ちる前に止まった。
温かなランプの光に浮かぶ室内をブラッドが見回していると、フィフィリアンヌは足を組んだ。太股が、滑り出る。
スリットから出た細い太股の付け根には、下穿きはない。ブラッドはそちらに行きそうになる目を、逸らした。

「着てくれよ…」

「その気になったらな」

フィフィリアンヌはやる気なく返し、手首に巻き付けていた紐を外した。クセのない長い髪をまとめ、簡単に括る。
水気の残る緑髪を整え終えた彼女は、栓が抜いてあるワインボトルを取った。どぼどぼと、ワイングラスに注ぐ。

「飲むか?」

「それ、渋いし口が痛くなるから嫌いなんだよ」

ブラッドが嫌そうに顔をしかめると、フィフィリアンヌは少年を一瞥する。

「それが旨いのだがな。子供には解らぬか」

「はっはっはっはっはっは。所詮は生後十年程度、我が輩達には遠く及ばぬのであるぞ」

笑い声と共に震えるスライムに、ブラッドは尋ねた。少し、気になっていたことを。

「なぁ。あんたらって、実のところいくつなん? ギルのおっちゃんと同じくらい生きてんだろ?」

「私と伯爵はニワトリ頭よりも大分年上だ。まぁ、五百年も過ぎてしまえば微々たる差でしかなくなったが」

フィフィリアンヌの答えに、ブラッドは驚いて目を丸める。

「へぇ…。父ちゃんも長く生きてたと思ったけど、もっと上なんだ」

「ラミアンは三百と十数年、生きていたからな。人から見れば長くとも、私から見れば大したことはない」

ワイングラスを持ち上げたフィフィリアンヌは、軽く揺らした。赤紫の液体が波打ち、波紋が生まれる。

「ブラッド。貴様は知らんだろうが、私と貴様の父親は知り合いでな。多少の交流もあったのだ。どこぞの輩が貴様を謀った時に使った封筒も、私がラミアンと文通の際に使った手紙の封筒なのだ。まぁ、手紙の中身は割に下らん話だったがな」

「それじゃあ、さ」

ブラッドは若干緊張しながら、フィフィリアンヌを見据えた。整った顔立ちの少女が、こちらを見ている。

「あんたは、オレの母ちゃんのことも知ってたりするのか?」

「知っていると言えば知っているとも言えるし、知らんと言えば知らんとも言える」

「なんだよそれ…」

期待に反した言葉に、ブラッドは拍子抜けした。知っているのか知っていないのか、どちらなのか解らない。
フィフィリアンヌはワイングラスを静かに傾け、唇の隙間にワインを流し込んだ。白い喉が動き、飲み下される。

「して。貴様はなぜここにいる。フィリオラの部屋で厄介になっているはずではなかったのか?」

その理由を話そうとして、ブラッドは口を噤んだ。疎外感を覚えたから、など、情けなさ過ぎて言えなかった。

「ふむ。ならば我が輩が想像してしんぜようではないか、少年よ。ニワトリ頭の話に寄れば、フィリオラは貴君と共に十四の少女を弟子にしたという話である。思えば、あの子には珍しい同年代の友人であるぞ。フィリオラはその才覚と外見のせいで、まともに同じ年頃の者達と戯れたことがないのであるから、あの子が夢中になるのも当然である。してその上、かつてフィリオラを教えていたリチャードが帰ってきているとなれば、話は簡単である。かつて、あの子はリチャードを慕い好いていたのであるからして、何かの切っ掛けでそれが蘇らぬとも限らぬのである。となれば、至って解りやすい話である。慣れぬ土地で友人知人のおらぬ貴君が頼れるのはフィリオラとギルディオスのニワトリ頭だけであるが、近頃のフィリオラは新しい友人とかつての思い人に気を取られているし、ニワトリ頭はああいう男であるから、遊び相手としてはあまり相応しくないのである。さすれば、貴君が寂しいと思うのは子供として必然的な心理であり、思考なのであるぞ」

はっはっはっはっはっはっは、と伯爵は誇らしげに笑う。ほとんど言い当てられ、ブラッドはぎょっとした。

「理知的な我が輩の推理は素晴らしかろう、少年よ! さあ、存分に讃え尊敬するが良いのである!」

「単に、同じようなことが過去に何度もあっただけだろうが。子供が家出をする理由など、たかが知れている」

アルベールも似たようなことをした、とフィフィリアンヌは少し遠い目をしたが、すぐに少年に気を戻す。

「浅ましいことだ。逃げたところで、何も始まらんし解決もせん」

「にっ、逃げてなんか」

ブラッドが反射的に言い返すと、フィフィリアンヌは鋭さを持った赤い瞳を強める。

「現状からの逃避、現実からの逃亡、己を向き合うことからの離脱だ。それでなければなんだと言うのだ」

ブラッドが言葉に詰まると、フィフィリアンヌは頬杖を付いた。

「貴様は弱い。何もかもから逃げている。第一、貴様はなぜこの旧王都に来た。私を殺すためではなかったのか。父親を滅ぼした者を屠るために来たにもかかわらず、私がそうでないと知るとあっけなく断念したではないか。本当にその気があるのであれば、私でないと解ったら真犯人を捜しに行くものではないのか? だが貴様は何もせず、ただ自堕落にフィリオラの世話となっている。その挙げ句に、あの子の手を煩わせるだけの弟子などになりおった。それも、リチャード如きに言いくるめられてな。貴様の意思など、どこにもないではないか。状況に流されているだけで、行動したつもりになどなるな。貴様は、何もしていないのだからな」

辛辣な言葉は続く。

「この状況を寂しいと思うのは勝手だが、それは貴様の我が侭に過ぎない。寂しいならば、なぜその状況を変えようとしない。現状が嫌なのであれば、なぜ己の力で乗り越えようとしない。貴様はまだ乳飲み子のつもりでいるのか。いくら父親が死に母親がいないからといって、その境遇に甘えているだけではないか。確かに貴様は、あの二人に同情されたかもしれんが、それだけで何もかもが許されるわけがなかろう。貴様がいなくなったことを知れば、フィリオラはどうなると思う? あの子の性格は、貴様も知っているはずではないのか?」

そう言われて、初めて気が付いた。ブラッドが両の拳を握り締めると、フィフィリアンヌは語気を強める。

「あの子は全てに優しくあろうとする子だ。貴様が出ていった責任と理由は己にあると思い、泣いてしまうのが目に見えているぞ。貴様の身勝手で幼い我が侭のために、だ。あの子はいつも笑っているから解らぬであろうが、傷を負っていないはずがなかろうに。ギルディオスはこういう出来事に慣れているから平然としているが、だからといって平気であるはずがなかろうに」

様々な言葉が、ブラッドに突き刺さってきた。悔しかったが、情けなかったが、そのどれもが間違っていなかった。

「復讐ごっこにしてもそうだぞ。貴様は、父親の死を認めたくないだけだ。父が死んだその場から逃げる口実として、死した事実を受け入れたくないがためにそんな方向に走ってしまっただけだろう。とりあえず目先に解りやすい敵を作って、それを見て現実から目を背けていたに過ぎんのだ。ならば、教えてやろうではないか、ブラッド。貴様の父、ラミアン・ブラドールは死んだ。一握の灰と化して、死んだのだ。誰を倒しても蘇りはせんし、何をしても生き返っては来ん。逃げたところで父親が戻るはずもないし、事実は真実であり、真実は現実なのだ」

そして、とフィフィリアンヌは薄い唇を開く。


「現実から逃れることは、不可能なのだ」


事実。真実。現実。それらの言葉によって、情景が浮かんでくる。薄暗い部屋の中に散らばる、細かな灰の姿が。
崩れ落ちて倒れていたのか、両腕と思しき形状で薄い色の灰が溜まっている。胴体の部分には、山となっている。
机の上には読みさしの本があり、半分程まで飲んだワインが残っていて、柔らかなランプの光が地下室を照らす。
影が伸びていた。ぐしゃぐしゃに歪んだ長い黒いマントと、中身がなくなって萎んでしまった黒の上下から。
それに触れると、冷ややかだが体温が残っていた。持ち上げると、布目に入り込んでいた灰がはらはらと落ちた。
胴体と思しき灰の小さな山には、赤い水が流されていた。血ともワインとも付かない液体で、灰が凝固している。
手を伸ばして、指を当てると、容易く崩壊した。父は、父であったはずのものは、もう父親ではなくなっていた。
音が聞こえなくなったが、叫んでいたのは覚えている。必死に、何度も何度も、灰と化した父に呼び掛けていた。
なんで。どうして。どうしてなんだよ。そればかりが頭を駆け巡り、訳も解らず、何をしたらいいか解らなかった。
父がいないか、生きてないか、少しでも無事な部分があれば。そんなことを考えて、父の部屋を捜し回った。
出てきたのは、魔法の掛かった便箋が入った封筒だけだった。それでも、それさえあれば父に繋がると思った。
国家警察が来て、雑な捜査をされている間に、家を飛び出した。父の着ていた服を着て、父を殺した女の元へ。
旧王都に行きさえすれば、フィフィリアンヌ・ドラグーンを倒しさえすれば、全て、元通りになると思った。
いや。元通りになって欲しかった。何もなかったかのように、父親が蘇ってくれることを、どこかで願っていた。
父がいなければ、母がいないのだから、他に縋る者がいない。誰もいない。だから、淡い幻想を抱いていたのだ。
復讐は魔法の言葉だった。復讐さえすれば敵はいなくなり、復讐を願えば敵は現れ、復讐を果たせば願いは叶う。
ずっと、そう信じていた。信じていたかった。ブラッドは込み上げてくる自分への腹立たしさで、肩を震わせた。
本当に、馬鹿だ。有り得るはずがないことを信じて、何も見ようとしないで、逃げてばかりだったのだから。
先程とは違う意味で、涙が出てきた。頬を伝って顎を滴る涙を拭わないまま、ブラッドは目を見開いていた。

「そうだ」

ブラッドは、手を広げて目の前に出した。父の灰に触れた感触は、指に残っている。

「そうなんだよ」

ずきずきと胸が痛かったが、寂しさと苦しさで息が詰まりそうだったが、そのおかげで一層強く実感した。



「父ちゃんは、死んだんだ」



途端に、押し込めていたものが溢れた。堪えようとしても無理で、様々な感情が涙と声になって迫り出てきた。
格好なんて、気にならなかった。何も気にすることが出来ないほど、ブラッドは無心になって泣きじゃくった。
背を丸めて拳を握り、何度も膝に打ち付けた。拳と足にじんとした痛みが広がり、甘えたい心を戒めてくれた。
フィリオラに縋りたいし、ギルディオスに慰めてもらいたかったが、これは自分だけの問題であり自分の弱さだ。
全部認めて、全部見つめられるようにならなければならない。今まで進めなかった分を、進んでいくためにも。
叫びながら泣き続ける少年を、フィフィリアンヌは静観していた。グラスにワインを注ぎ足すと、飲み干した。
刺激のある渋みを味わいながら、目を細めていた。ブラッドの顔立ちはラミアンに似ているが、瞳の色は母親だ。
彼女は、内心で懐かしさに浸っていた。




夜が明ける頃。ブラッドは、静かな街中を歩いていた。
散々泣き喚いたせいで、瞼は腫れぼったく、喉に多少の痛みを感じていた。あんなに泣いたのは、初めてだ。
霧と蒸気を擦り抜けて注いでいる朝日が、目に染みてくる。身も心も大分疲れていたが、気分は清々しかった。
自分が弱いんだ、と認めたことで楽になっていた。それどころか、取り繕っていたことが馬鹿馬鹿しくなる。
もう、フィリオラの部屋から出て行く気はなくなった。むしろ今は、彼女らの元に帰りたくて仕方ないほどだった。
足取りは軽かったが、次第に遅くなっていった。共同住宅が近付いてくるにつれ、申し訳なさが湧いてきた。
こつ、と石畳の上で足音が止まる。フィフィリアンヌの言っていた通り、フィリオラはかなり心配しているだろう。
三○一号室に帰ったら、まず、最初に謝ろう。心配を掛けたことや逃げ出してしまったことや、我が侭だったことを。
ブラッドは足に力を込め、歩き出した。まばらに人通りが出てきた歩道を進み、角を曲がり、住宅街に向かった。
何軒か並んだ共同住宅の中で、一際目立つ赤レンガの建物。ブラッドはその手前で止まり、正面から見上げた。
三階の右端の窓は、フィリオラの寝室の窓だ。だが、カーテンは開いておらず、物音もせずにひっそりとしている。
まだ、眠っているのかもしれない。そう思いながらブラッドは正面の階段を昇り、玄関の扉を開けて中に入った。
一階の広間には、サラがいた。床掃除をしていたのか、水の入ったバケツを足元に置いてモップを持っていた。

「あら」

ブラッドの姿に、サラは不思議そうにした。ブラッドは軽く頭を下げてから、中央の階段を昇る。

「おはようございます」

「ブラッド君。フィリオラさん、凄く心配していたわよ」

サラは、階段を半分ほど昇った少年を見上げた。ブラッドは一度三階を見上げてから、サラに返した。

「フィオ、そんなに心配してましたか?」

「してたわよ。だから、早く戻ってあげなさい。フィリオラさんね、あなたのこと、弟みたいに思っているのよ」

「弟?」

ブラッドがきょとんとすると、ええ、とサラは頷く。

「彼女、兄弟の一番下なのよ。だから、下の子が出来たみたいで嬉しいって言っていたの。ちゃんとしたお姉さんになりたい、ともね。だから、余計に心配していたんじゃないかしら。自分がちゃんと出来ていないからあなたがいなくなったんだ、と思ってしまいそうだもの、フィリオラさんは」

その言葉が終わる前に、ブラッドは駆け出していた。居ても立っても居られなくなり、階段を駆け上っていく。
黒いマントを翻して昇っていく少年の背を、サラは見送っていた。足音は上に向かっていき、三階で止まった。
扉を勢い良く開ける音などを聞き、サラは笑んだ。どうやらブラッドも、フィリオラのことを姉と思っているようだ。
これから、二人はもっと仲を深めるに違いないだろう。その様子を想像したサラは、微笑ましい気分になっていた。
三階からは、少年の声が響いていた。


三○一号室の扉を開け放ったブラッドは、息を荒げていた。
その正面には、枕を抱えて毛布を被ったフィリオラが床に座っていた。ずっと、ここで待っていてくれたようだった。
頬には幾筋もの涙の筋が付いていて、枕は大分歪んでいた。目元が赤らんでいるフィリオラは、何度か瞬きした。
ブラッドは呼吸を整え、フィリオラの背後を見た。食卓に座っているギルディオスは、こちらを見下ろしている。
二人とも、ブラッドが何か言うのを待っているようだった。ブラッドは顔を上げ、フィリオラを見、強く言った。

「ごめんなさい」

ギルディオスを見上げ、ブラッドは声を上げる。

「勝手なことして、心配掛けて、本当にごめん!」

ブラッドが続きを言おうとすると、フィリオラは少年に飛び付いた。ブラッドが傾くほど体重を掛け、抱き締める。

「ごっ、ごめんなさい。わたし、ちっとも、ブラッドさんの気持ちとか考えなくて、自分が楽しいばっかりでぇ」

「違うって! 悪いのはオレ、全部オレなの!」

泣きじゃくるフィリオラを引き剥がし、ブラッドは彼女と向き直った。こう呼ぶべきだ、と思った。

「フィオは、フィオ姉ちゃんは全然悪くねぇんだよ!」

「ねーちゃん…?」

フィリオラは、目を丸くした。すると今度は、やけに嬉しそうに顔を綻ばせ、ブラッドを抱き締めた。

「うわぁ嬉しいです、すっごく嬉しいですー! ありがとぉございますー!」

力一杯抱き竦められ、ブラッドは正直苦しかったが抵抗出来なかった。それほどまでに、彼女は喜んでいた。
薄手の寝間着越しに感じられる胸の感触は小さかったが、それでも柔らかで、ブラッドは無性に気恥ずかくなった。
少々乱暴に頭を撫でられていると、扉の開く音がした。ブラッドが振り返ると、隣室の扉が開き、彼が出てきた。
レオナルドは眠たげな上に苛立ったような顔をしていたが、ブラッドの姿を認めると、少しだけ目元を緩ませた。

「帰ってきたのか、ブラッド」

ブラッドが気恥ずかしげに苦笑すると、レオナルドはフィリオラを睨むように見下ろした。

「それでなくては困る。お前がいなくなったせいで、こいつがどれだけ泣き喚いたと思う。心配だの不安だの気掛かりだのなんだのって延々と喋って、オレの部屋にまで飛び込んでくる始末だ。あんまりにもやかましいもんだから、ろくに眠れやしなかったじゃないか。安眠妨害もいいところだ」

「そっ、そういうレオさんだって、すっごく心配してたじゃないですかぁ」

フィリオラが情けない顔で言い返すと、レオナルドはどこかやりづらそうに目を逸らす。

「まぁ…それはそうだが」

「ま、良かったじゃねぇか。ちゃんと帰ってきたんだからよ」

笑い気味に言い、ギルディオスは前傾姿勢になる。フィリオラの肩越しにブラッドを見下ろし、少し首を曲げる。

「んで、まだ言ってねぇことがあるんじゃねぇのか、ラッド?」

「まぁ、うん」

ブラッドは照れながらも、フィリオラとギルディオスを見上げ、笑ってみせた。

「ただいま」

「おっかえりなさぁーい!」

再度、フィリオラはブラッドに飛び付いた。ブラッドがよろけてしまいそうになると、肩を支える手があった。
振り返ると、レオナルドが立っていた。いつになく嬉しそうな表情をして、彼は少年の頭に手を置いてくる。
そして、目線を前に向けると、食卓に座る甲冑は満足げに頷いていた。ブラッドは、また泣きそうになっていた。
だが、今度は寂しさからではない。フィリオラから感じる体温とレオナルドの手から伝わる温かさが、嬉しいからだ。
それは、墓場でギルディオスの手から感じたあの感覚と似ていた。とても心地良く、いつまでも感じていたかった。
この感覚の名を考えたブラッドは、ある言葉が思い当たった。差し当たって相応しいのは、愛情しかなかった。
今、それを一身に受けている。いや、前から受けていたのに、下手な自尊心のせいで感じていなかっただけだ。
なんて馬鹿だったんだろう、とブラッドは内心で自虐しながらも、胸中に流れ込んでくる温かさに顔を緩ませた。
虚無も寂しさも、愛情の温かさで全て溶けていた。




一夜限りの離別は、吸血鬼の少年に自覚を与えた。
己の幼さと己の愚かさと、そして、彼女らから愛を受けていることを。
父親の死を認め、現実を受け入れ、愛を知り得てこそ。

少年の成長は、始まるのである。






05 11/27