ドラゴンは眠らない




傷心を癒す薬



フィリオラは、痛みの最中にいた。


体中が、ずきずきする。昨夜の戦闘で酷使したためか、関節が重たく、あらゆる場所の筋肉が強張っていた。
中でも痛いのが背中で、破られた翼の側、右側が熱を持っている。あの翼は、背中を変化させたものなのだ。
自分の肉体で作ったのだから、負傷すれば当然痛みがある。再生して繋がったばかりの皮が、引きつっていた。
包帯を巻いた両手で布団を掴み、背を丸めようとしたが、皮がびっと突っ張ってしまい、鋭い痛みが走った。
だが、それぐらいの痛みであれば堪えられた。鎮痛剤も飲んでいるし傷薬も塗ったので、じきに治るだろう。
しかし、胸中の痛みばかりはどうにもならなかった。昨日の夜、ベッドに入ってからというもの、苦しかった。
かなり暴れ回ったことで、押し込めていた過去の記憶が蘇ってきていた。それは、ずっと目を逸らしていたことだ。
人ではないから、竜だから、人に見えるけど竜だから、本当はトカゲだから、恐ろしい生き物の末裔だから。
様々な人の言葉が、耳の奧に残っていた。そのどれも、竜であるフィリオラを恐れ、忌み嫌う言葉ばかりだった。
特に辛い記憶が、底から現れる。幼い日、まだ年端も行かない頃、竜の力を制御し切れていなかった頃のことだ。
近所の子供らと、外で遊んでいた。だがそのときに、些細なことで怒ってしまった。結果、竜の血が暴れ出した。
気が付いたら、辺りで皆が泣いていた。木が倒れていた。土が抉れていた。花が散っていた。血が、出ていた。
何が起きたのか解らなかったが、それでも、爪に付いた血は自分のものではないということだけは解っていた。
それから、誰も遊びに来なくなった。ストレインの屋敷には、フィリオラの機嫌を取る大人ばかりがやってきた。
父も母も兄も姉も、態度が変わってしまった。以前は叱ってくれたのに、ただべったりと甘いだけになった。
皆は優しくしてくれているのだ、怒らせないようにしているのだ、とは理解出来たが、疎外感が生まれてきた。
自分は人間じゃない。人間とは違う生き物なんだ。竜なんだ。ドラゴンなんだ。そう、一層強く感じてしまった。
何度、フィフィリアンヌを呪っただろうか。何度、先祖であるカインを恨んだだろうか。数え切れないほどだ。
どうして人間じゃない血を混ぜたの。どうしてその血が私に出るの。どうして、私だけが竜になっちゃうの、と。
父も母も兄も姉も、誰もツノも生えていないし、瞳孔も縦長ではないし、魔力もそれほど高い方ではないのに。
居るべき場所を見失って、どうあるべきかが解らなくなって、頭に生えているツノが嫌で、毎日泣いた。
今はもう、ツノに対して嫌悪感はないが、昔は凄かった。触れるのも見るのも嫌で、ずっと帽子を被っていた。
部屋に引き籠もって、本ばかり読んで、魔法の知識ばかりを増やして、どうすれば竜でなくなれるか探した。
だが、様々な魔法を深く知れば知るほど、体から竜の血を抜くことが出来ないことを知って、絶望したものだ。
けれど、それで泣くことはしなかった。あまり泣いたら皆が心配するし、またべたべたと甘やかされるだけだ。
だから、笑った。出来る限り明るく、出来る限り元気に振る舞っているうちに、いつしかそれが馴染んでいた。
リチャードにちゃんと魔法を教えてもらって才能も見つけることが出来たので、竜の血を嫌悪する暇がなくなった。
ギルディオスがストレインの屋敷にやってきて、半ば住み込みのような状態で遊んでくれたので、気も晴れた。
彼に自制心を鍛える術を教えてもらったので、竜の力を生かして戦うための、変身もなんとか出来るようになった。
過去には何度か理性が失われそうになったけど、それでも臨界点は越えなかった。越えないように出来ていた。
だが、昨夜はもう、ほとんど理性がなくなっていた。戦いを楽しんで、破壊を楽しんで、笑っていたのだから。
変身後の形態は戦闘のために肉体強化をし、闘争本能を剥きだしているので、理性を失った状態に近い。
つまり、あれが本性ということになる。戦いを好み、人を見下し、他人を嘲笑するような女が本当の自分なのだ。
間違いなく、レオナルドに嫌われただろう。以前にも増して、彼は竜の女を、竜の血を持つ自分を嫌悪するだろう。
フィリオラは、涙の跡が残る頬を枕に押し当てた。もう涙は枯れていたが、それでもまだ出てきそうな気がした。
寝入ってしまいたい。そう思いながらため息を吐くと、扉が叩かれた。体を起こして、居間に繋がる扉に向いた。

「はい」

ぎぃ、と蝶番を軋ませながら扉が開くと、心配げなブラッドが中を覗き込んでくる。

「悪ぃ、起こしちまった?」

「いえ。ちょっと前に、起きたばっかりです」

フィリオラが首を横に振ってから、タンスの上にある置き時計を見、少し残念そうにした。

「レオさん、もうお仕事に出ちゃいましたか」

「うん。フィオ姉ちゃんが起きるよりも前に」

ブラッドは扉を押し開いた。その奧から、盆を抱えたキャロルが顔を出す。

「あの、朝ご飯作りましたので、持ってきました」

キャロルはブラッドに続いて、フィリオラの寝室に入った。片隅には、昨夜の名残のように衣装が投げてある。
鏡台の前には化粧品が出しっ放しで、髪留めの入った引き出しも開いたままだ。どれも、片付けていないようだ。
キャロルは胸苦しくなりながら、朝食を載せた盆をベッド脇のテーブルに置いてから、フィリオラを見上げた。
体の各所に巻かれている包帯が痛々しく、やつれた表情が苦しげだった。フィリオラは、力なく笑いかけてきた。

「ありがとうございます、キャロルさん」

「いえ」

その気遣いに、キャロルは切なくなった。明らかにフィリオラの方が辛いであろうに、それでも笑顔を作る。
余程、昨夜のことを気に掛けているのだろう。竜への畏怖の感覚と、アルゼンタムに怯えてしまったせいだ。
リチャードがいてくれたおかげで気を失うことはなかったが、それでも相当に恐ろしく、混乱してしまっていた。
本当なら、怯える必要などない相手なのに。どれだけ姿が変わっても、フィリオラはフィリオラなのだから。
キャロルがそれを謝ろうとすると、フィリオラはにっこりと微笑んだ。ずっと泣いていたのか、瞼は腫れている。

「キャロルさん。私が怖いんでしたら、無理に弟子を続ける必要はありませんから」

穏やかで優しい口調だったが、声は掠れていた。フィリオラは、笑っている。

「竜は、人じゃありませんからね。怖いのは当たり前ですよ」

フィリオラは、表情を崩さない。

「ですから、嫌だったら、もう来なくても良いんですよ」

微笑むフィリオラに、ブラッドは目を向けていられなかった。昨夜何があったのか、レオナルドから聞いていた。
襲撃してきたアルゼンタムと戦ったフィリオラは、翼を貫かれながらも機転を利かせ、アルゼンタムに勝利した。
だが、そんな単純な話ではないというのも聞いた。一晩経って、ようやくブラッドは何が起きたのかを理解していた。
二人が戦い合うのはリチャードの策略であるというのも、リチャードはフィリオラを利用しただけだということも。
それを話すレオナルドが悔しげだったのが、いやに印象に残っていた。あんなに、辛そうな姿の彼は初めてだ。
確かに、リチャードの策略は成功した。アルゼンタムは警察に回収され、グレイス・ルーの犯罪の物証が出来た。
数日中に、グレイス・ルーの城の家宅捜索という名目の襲撃を行えるのは、間違いなくリチャードの功績だ。
だが、そのためにフィリオラは利用された。フィリオラもそれを解っているはずなのに、彼女はこうして笑っている。
無理をしているのは明白だ。ブラッドはフィリオラに何か言いたかったが、ろくな言葉が思い付かず、俯いた。
フィリオラはリチャードに裏切られた。だが、リチャードが全て悪いわけではないし、元を正せばグレイスが悪い。
しかし、裏切られたことに変わりはない。ブラッドは以前にギルディオスに裏切られたが、それとは訳が違う。
ギルディオスの場合は良心故の裏切りだったが、リチャードの場合は自分と警察の利益のための裏切りだ。
なのにフィリオラは、一言もリチャードを責めるようなことを言っていない。それが、不思議でたまらなかった。
ブラッドは、フィリオラを見上げた。普段と変わらない、いや、普段のような表情を作ったフィリオラがいた。

「なんですか、ブラッドさん?」

「フィオ姉ちゃん」

「はい」

「解ってるんだろ、リチャードさんに利用されたってのは」

「はい。充分に」

「じゃあ、なんで、怒らないのさ?」

ブラッドが訝しみながら尋ねると、フィリオラは少し悲しげな目をした。

「いつものことですから。先生は、私を有効に使って下さってるだけなんです。竜の力なんて、普通は持て余しちゃうものを使うべき場所で使うようにしてくれているんですから、それを責める理由はありません。負傷してしまったのは私の至らなさからですし、理性が弱まって歌劇場を壊しちゃったのも、私が弱いからなんです。ですから、先生は、悪くないんです」

キャロルは、そう言ったフィリオラの横顔を眺めていた。彼女は、裏切られたと信じないようにしているようだった。
気持ちは、痛いほど解る。好きな相手が自分を裏切ってしまうなど、考えたくもないし考えただけで苦しくなる。
ならば余計に、フィリオラの傍を離れるべきではない。そう思ったキャロルは、真剣な顔でフィリオラに向いた。

「あの、私、弟子を辞めたりしませんから。魔導師になるまで、あなたの下に付いていますから」

「オレも。途中で放り出されても、困っちまうしな」

と、ブラッドはフィリオラに笑ってみせた。フィリオラは笑っていたが、細い眉は下がっていた。

「ですけど、私は」

「大丈夫です。私が怖かったのは、あのアルゼンタムっていう機械人形の方ですから」

だから、とキャロルは精一杯笑顔を見せた。

「フィリオラさんのことが、怖かったわけじゃありません」

「で、ですけど、あんなにひどいことを言っちゃったのに」

「あれ、言い回しがきついだけで、よくよく考えたらそんなにひどい言葉じゃなかったですよ?」

思い出してみれば、あれはキャロルの身を案じる言葉だった。姿形と態度が変わっただけで、その中身は同じだ。
だから、大丈夫。だからもう、彼女を怖がってはいけない。キャロルは必死に、そう自分に言い聞かせていた。
自分は、彼女の近くに居場所を見出した。ならば同じように、フィリオラの居場所になれるようになるべきだ。
フィリオラの顔から、取り繕っていた笑顔が消えた。腫れた目を見開いて、まじまじとキャロルを見ている。

「そう、思うんですか?」

「はい」

「本当に、そう思うんですか?」

「はい。だって、フィリオラさん、あの機械人形から私達を守ってくれたじゃないですか」

キャロルの言葉に、フィリオラはぎゅっと手を握り締めた。

「で、ですけど」

それは、上辺だけだ。そう思いたくないのに、今までの経験でそう思ってしまいそうになった自分が嫌になった。
キャロルは、そういう人間ではないと解っているはずなのに。フィリオラは情けなくなってきて、涙が滲んできた。
彼女の言葉が、本当であって欲しい。そう強く願いながら、フィリオラはキャロルを見上げ、恐る恐る言った。

「じゃあ、また、来てくれるんですか? また、私と一緒にいてくれますか?」

キャロルは、フィリオラの包帯を巻いた手を取る。

「当たり前ですよ。もっと、色んな魔法を教えて下さい。今度は、共和国語だけじゃなくて計算も教えて下さいね」

キャロルの背後で、ブラッドも頷いた。言うべきことを先に言われたので、何も言えなくなってしまったのだ。
フィリオラは、指先の冷えたキャロルの手を感じていた。打撃による痛みが残っている手を、彼女の手に重ねる。

「じゃ、じゃあ、キャロルさん。今度は、一緒に、お買い物でも行きませんか?」

「次の休みにでも、連れていって下さいね。私、あんまりお店とか知らないから」

「…ふぁい」

笑いたいのに泣けてきたフィリオラは、変な声を出した。

「調子良くなったらさ、なんかお菓子作ってくれよ! ここんとこ、作ってくれなかったじゃんか」

ブラッドはキャロルの隣から、ベッドに身を乗り出した。フィリオラは、少年に振り向く。

「あー、そうでしたね。何が、いいですか?」

「何でもいいや。フィオ姉ちゃんが作るのって色んなのがあるから、覚えられねぇんだよ」

ブラッドは、いやに情けなさそうにする。フィリオラはそれが可笑しくなったが、また嬉しくもあった。

「それじゃ、私の好きなの作りますね。甘ーいのを作っちゃいますよ?」

「あの、私も食べたいです」

キャロルが片手を挙げると、フィリオラは頷く。

「いいですよぉ。一杯作りますから」

「あ」

ブラッドは思い出したように、置き時計に目をやった。もう、ヴァトラスの屋敷に行く時間だった。

「そろそろ行かねぇとじゃねぇの、キャロル」

「ホントだ」

フィリオラの手から自分の手を抜いたキャロルは、名残惜しげだったが、ぺこりと頭を下げた。

「それじゃ、私達はお屋敷に行ってきますので」

「はい。行ってらっしゃい」

フィリオラが二人に手を振ると、キャロルはもう一度頭を下げてから、扉に向かった。ブラッドも、それに続く。
行ってきまーす、と声を上げながらブラッドは扉を閉めた。二人と入れ替わるように、ギルディオスが入ってきた。
ギルディオスは鏡台の前から椅子を引き摺ってくると、ベッドの傍らに置いて座り、がしゃり、と太い足を組む。

「具合、どうだ?」

「あんまり、良くないです。昔のこと、ごちゃごちゃ思い出しちゃって、それで」

フィリオラは、あまり血色の良くない頬を押さえる。ギルディオスは、彼女のツノの生えた頭に手を乗せた。

「まぁ、無理もねぇよ。大分、暴れちまったみてぇだからな」

「小父様」

フィリオラは銀色の手の下から、甲冑を上目に見る。ん、とギルディオスは首をかしげた。

「なんだ」

「先生は、どうしてましたか?」

不安げに、フィリオラは眉を下げていた。ギルディオスは怯えを含んだ少女の眼差しに、内心で顔を歪めた。
リチャードは、アルゼンタムを回収したその足で警察の捜査本部に向かい、そのまま屋敷にも帰ってきていない。
家宅捜索の段取りをするからだ、とレオナルドを通じて聞いたが、その行動の冷徹さに怒りを覚えてしまった。
リチャードは、良くも悪くもレオナルドと真逆だ。理想を貫きたいが故に意固地な弟と違い、兄は極めて現実的だ。
魔法でもなんでも、効率を一番に重視する。仕事の確実さには定評があったが、そのためには犠牲を厭わない。
この分だと、グレイスの城の家宅捜索も凄くなりそうだ。援軍に駆り出されるのは間違いない、と確信していた。
ギルディオスが答えないのでフィリオラは、あの、と更に不安げになった。ギルディオスは、彼女に意識を戻す。

「リチャードは警察署だ。さっさとグレイスの城に突っ込みてぇとかで、捜査本部の連中と作戦会議の真っ最中だ」

「わたし、は」

それに駆り出されるんでしょうか、と言い掛けて、フィリオラは口を噤んだ。また、彼に利用されるかもしれない。
ギルディオスはフィリオラの肩に手を掛け、引き寄せた。寝間着姿の少女を腕の中に納め、軽く叩いてやる。

「ああ、心配すんな。出なくてもいいようにしてやる。フィオの代わりに、オレが戦ってきてやらぁ。グレイスの野郎を相手にするのなんざ、慣れてるからな」

胸に頬を押し当ててくるフィリオラにヘルムを寄せ、ギルディオスは安心させるように声を和らげた。

「だから、良い子にしてろ。な」

答える代わりにこっくりと頷いたフィリオラは、深く深く息を吐いた。戦わなくていいと思うだけで、安堵した。
戦うことは出来るが、好きにはなれない。他者を傷付けるのは何度やっても慣れないし、殴るたびに心が痛む。
アルゼンタムは、無事だろうか。あの魔導兵器が人を殺して喰っているのは知っているが、それでも殺せない。
どれだけ邪悪な存在であろうとも、その者にはその者だけの命があると解っているから、殺してしまえないのだ。
甘い考えだとは思うが、変えられなかった。だから、グレイスの城で戦わなくていいと思うと、心底安心した。
安心したからか、眠気がやってきた。横になってから、と思ったが、動くより先に瞼が下がって閉じてしまった。
そのまま、フィリオラは深く寝入っていった。




その夜。レオナルドは、家路を急いでいた。
半日ほど掛かってしまった捜査会議で心身共に摩耗していたが、それすらも気にならないほど気が急いていた。
昼間の温かさが残る石畳を歩き、街灯の下を小走りに行く。あれから、フィリオラは目を覚ましたのだろうか。
昨夜、歌劇場から共同住宅に連れて帰ったあとに、一度目を覚ましたと聞いたが、そのすぐ後に出勤した。
彼女の様子を知るよりも先に捜査会議が始まり、兄と同じく主要の位置付けにいるため、抜けられなかった。
次第に歩調は早まって、駆けていた。息を弾ませながら赤い壁の共同住宅に着き、正面の階段を駆け上る。
玄関に入り、扉を閉じるのすらも億劫に思いながらも閉じてから、建物の中央を貫く階段を昇っていった。
三階まで駆け上がって廊下で足を止め、すっかり荒くなった呼吸を整えた。やけに焦る自分が、不可解だった。
つい先日まで、彼女を相手にするのが本気で嫌だったのに、自分でも呆れてしまうほどの心変わりぶりだ。
それを情けなく思いながら、レオナルドはうっすらと汗の滲んだ額を拭った。三○一号室の扉を、軽く叩く。
少年の声で返事があり、すぐに開いた。ブラッドはレオナルドを見上げると表情を綻ばせ、奧の寝室を指差す。

「お帰り、レオさん。フィオ姉ちゃん、起きたよ」

「それで」

息が上がっているせいで、レオナルドは言葉を続けられなかった。その続きを察し、ブラッドは笑う。

「最初は様子が変だったけど、もう大丈夫そうだよ」

「…そうか」

深く息を吐いたレオナルドに、ブラッドは彼の手を取って中に引っ張り込んだ。

「顔、見せてやんなよ」

レオナルドは少しよろけ、少年に引っ張られて三○一号室の居間に入った。姿勢を直してから、寝室に向いた。
暖炉の前では、ギルディオスが胡座を掻いていた。レオナルドを見上げると、顎をしゃくって寝室を示す。

「さっさと行ってやれや、レオ」

レオナルドはブラッドに掴まれていた手を放してから、再度深く呼吸した。だが、すぐには動けなかった。
やむを得なかったとはいえ、またフィリオラに口付けてしまった。今度は前とは違い、下心も混じっていたものだ。
それに対する申し訳なさがあり、躊躇ってしまっていた。レオナルドはしばらく迷っていたが、吹っ切った。
口付けたことを言わなければいいし、平静を装えばいい。胸の痛みを自分に感じさせないよう、強く出ればいい。
そう内心で念じながら、レオナルドは寝室の扉に手を掛け、開いた。ひゃう、と変に高い声が中から聞こえた。
レオナルドは、目を上げた。ベッドの上では、包帯を手や腕に巻いたフィリオラが座っていて、小さくなっていた。
下着だけを身に付けた少女は、脱いだばかりの寝間着を胸に押し当てた。ランプの光に照らされた頬は、赤い。
フィリオラは困り果てたように眉を下げ、おずおずとレオナルドに向いた。レオナルドは、慌てて扉を閉めた。
背中で寝室の扉を押さえながら、レオナルドは、胸の中でどくどくと暴れている鼓動に、更に動揺してしまった。
彼女の体形では、欲情しないはずだったのに。一度、女として意識してしまったせいで、女として見てしまう。
包帯を巻いた二の腕と滑らかな肩、薄い背、そして白い首筋。レオナルドの目に、それが焼き付いてしまった。
目元を押さえているレオナルドを見上げたブラッドは、ギルディオスに向き、不思議そうに首をかしげてみせた。
ギルディオスはちょっと肩を竦め、首を横に振る。ブラッドはますます訳が解らなくなってしまい、変な顔をした。
構うな、ということだろうが、なぜ構ってはいけないのだろう。いきなり動揺しているレオナルドなど、変だ。
ブラッドは腑に落ちなかったが、ギルディオスに従うことにした。理由はなくとも、従うべきだと思ったからだ。
レオナルドが背を当てている扉越しに、いいですよぉ、と気恥ずかしげな声がしたので、レオナルドは背を外した。
扉に手を掛けて慎重に開けると、ベッドに座ったフィリオラは新しい寝間着を着ていて、背筋を伸ばしていた。
寝室に入ったレオナルドは扉を閉めてから、フィリオラに歩み寄った。近付くに連れて、彼女の表情が曇った。
口付けたことを、知っているのだろうか。レオナルドが途中で立ち止まると、フィリオラは、小さく呟いた。

「レオさん」

フィリオラは喉の奥から、辛うじて聞こえるほどの声を絞り出した。

「私のこと、嫌いになりましたよね?」

レオナルドの脳裏に、昨夜の戦闘と彼女の表情が蘇った。己の力に酔い、人を見下しきった態度の女だった。
赤い瞳には竜の威圧感が宿っていて、事実、恐怖を覚えた。だが、それとこれとは別だ、とレオナルドは思った。
もう、嫌いではない。むしろ、その逆だった。レオナルドは胸の奥に、鋭くも熱い痛みがあるのを感じていた。

「いや」

フィリオラは、そっと顔を上げた。レオナルドは強気な表情を変えないように、気を張っていた。

「あの程度のことで、お前を無条件に嫌悪するほど、オレが馬鹿だと思っているのか。オレがお前を嫌いな部分は、前に言った部分だけであって、戦闘形態時のお前じゃない。あの時のお前は一種の興奮状態にあったんだろうし、戦闘による高揚もあっただろうからな。あれぐらいの罵倒でどうにかなるほど、オレは柔じゃない。むしろ、ああして言い返してくれた方が、オレとしても張り合いがあるんだがな」

「意地悪しないで下さいよぉ」

そうは言いながらも、フィリオラは嬉しさが湧いた。言葉は悪いが、嫌っていない、という意味だったからだ。
レオナルドはベッドの傍らに立ち、にやりとした。少しでも気を抜くと、顔が緩んでしまいそうだった。

「いつものことだろうが」

フィリオラは、上目にレオナルドを見上げた。彼は勝ち気な笑みを浮かべていたが、どこか優しげでもあった。
それがまた嬉しくて、ふにゃりと表情が緩んだ。フィリオラは背を丸めようとしたが、治りかけの皮が突っ張った。

「いっ!」

「まだ、治り切ってないのか」

レオナルドは、痛みに顔を歪めるフィリオラを見下ろした。フィリオラはテーブルに目を向け、落胆した。

「あ…」

その視線の先を見、レオナルドは小瓶を見つけた。魔法薬が入っていたと思しき瓶の中は、空になっていた。
レオナルドはその瓶を取ると蓋を開け、匂いを確かめた。薬草の調合からして、鎮痛剤だというのが解った。

「切れたのか。少し待て、作ってやる」

「レオさん、作れるんですか?」

フィリオラは多少不安げに、机の脇の魔法薬の棚を開けたレオナルドを見上げた。彼は、心外そうにする。

「お前はオレをなんだと思っているんだ。オレも政府から免許をもらった正式な魔導師だぞ、薬ぐらい作れる」

「あ、そうでしたね」

ごめんなさい、とフィリオラは苦笑した。レオナルドは材料の入った瓶を取り出して机に並べ、道具も取り出した。

「解ればいい」

レオナルドは、机に魔法薬の瓶を並べた。乾燥された魔法薬草が粉末になっているので、それをスプーンで掬う。
調合用の小鉢に何種類かを入れて混ぜ、水差しを取ってコップに注いだ。その中に、赤い粉末を入れて混ぜた。
すぐに水は真っ赤に染まり、毒々しい色合いになった。レオナルドは赤い水の中に、混ぜた薬草を入れる。

「魔力安定剤も入れた方がいいだろう。お前も入れていただろうしな」

「あ、はい」

フィリオラが頷くと、レオナルドは水薬を混ぜていたスプーンで少し掬い、口に含んで顔をしかめた。

「相変わらず苦いな、この手の薬は」

レオナルドは赤紫色の薬が入ったコップを、フィリオラに差し出した。フィリオラは、それを受け取る。

「ありがとうございます」

フィリオラは水薬を飲み、ぎゅっと眉間をしかめた。自分で作るものよりも調合がきつく、効果も強そうだった。
そして、苦みも強かった。恐らく彼は、キイロニガイチゴの粉末を、フィリオラが入れるよりも多く入れたのだ。
それでも、ないよりはマシだった。フィリオラは苦みを我慢して半分ほど飲むと、コップを下ろし、息を吐いた。

「レオさんのって、すっごく苦いですね…」

「すまん」

レオナルドは、涙目のフィリオラに苦笑いした。作れるとはいえ、あまり作らないので調合の加減を忘れていた。
フィリオラは、まだ薬の残っているコップをベッド脇に置いた。舌が痺れているような感覚が、口の中にあった。
眉根を歪めて口元をひん曲げているフィリオラを見、レオナルドは申し訳なくなったが、少しばかり安心もしていた。
この分だと、彼女はまた口付けたことを知らないらしい。そのままずっと知らないでいてくれ、と内心で願った。
改めてフィリオラを眺めてみると、小さな手や腕、膝に巻かれている包帯は多く、所々赤黒い染みが滲んでいる。
竜の力を表に出した姿から元に戻れば、強固なウロコの皮膚に付いた傷は、そのまま元の薄い皮膚に付くのだ。
その上、今の彼女は、魔力をほとんど出し切ったせいで魔力の回復も遅い。故に、竜の再生能力も鈍っている。
明日にならなければ、傷は癒え切らないだろう。レオナルドはまた兄への怒りが起きてきたが、押し込めた。
レオナルドはその怒りが表情に出る前に、フィリオラに背を向けた。無駄に、彼女を不安がらせてはいけない。

「あまり長居をする理由もないからな。オレは部屋に帰る」

背を向けたレオナルドを見上げ、フィリオラはベッドから身を乗り出した。

「あの、レオさん」

「なんだ」

少々面倒そうに、レオナルドは彼女に振り向いた。フィリオラは、昨夜の出来事を思い出し、口元を押さえた。

「私、変身が解けた後のこと、ちょっとだけ、覚えてます」

不意のことで、レオナルドはぎょっとした。フィリオラは、レオナルドの熱い魔力と舌の感触を思い出し、俯く。

「レオさんの魔力を私に下さって、ありがとう…ござい、まし、た…」

途切れ途切れに言ったフィリオラは、すっかり真っ赤になってしまった。尖り気味の耳まで、紅潮させている。
まさか、覚えているとは思わなかった。レオナルドは彼女と同じように口元を押さえると、目線を彷徨わせる。

「仕方なかったんだ。本当に、仕方なかったんだ。あのままだと、お前の魂が離れるかもしれんと思ったんだ」

「はい。ですから、あの、ありがとうございます」

「…怒りたければ、怒れ」

「いえ。とっても嬉しいです」

首を横に振り、フィリオラは照れくさそうに笑った。レオナルドは焼け付く痛みを感じたが、炎にはならなかった。
それどころか、満ち足りていた。嬉しいのだが、それを素直に表す気にはなれず、レオナルドは扉を開けた。
無言でフィリオラの寝室を出ると、足早に三○一号室を後にした。急いで、自室である三○二号室の鍵を開けた。
中に入ると、ずるりと玄関に座り込んでしまった。やりづらい感情の奔流が、炎の力を乱してしまっている。
試しに暖炉を睨んでみたが、炎は出なかった。鼓動は高まって気持ちも高ぶっているのに、熱すら発せられない。
こんなことは初めてだ。レオナルドは混乱しそうになりながらも、フィリオラの笑顔を思い出し、自然と笑った。
やはり、泣かせるよりも笑わせた方がいい。その方が、彼女にとっても自分にとっても、良い方向に進むようだ。
レオナルドは感情とは真逆に穏やかになっている魔力を体内に感じ、心地良くなった。これも、初めてのことだ。
胸の痛みすら、心地良くなりつつあった。


レオナルドが帰った後、フィリオラはベッドに横たわっていた。
口中には、まだ苦みがある。だが、レオナルドの作った鎮痛剤のおかげで、体中の痛みは落ち着いていた。
胸の痛みも、和らいでいた。彼に嫌われていない、と知っただけで、あれだけ苦しかったのが嘘のように消えた。
このまま、レオさんと仲良くなれますように。そう願っていたが、同時に、また別の苦しさが生まれ始めてもいた。
リチャードに利用されるのは、いつものことだった。だが、こんなに手酷いのは初めてで、苦しいのも初めてだ。
信じているから好きなのに。好きだから信じているのに。なのにあの人は、戦いの道具として扱っている。
戦うためだけに、それだけのために、戦いのためだけに歌劇に誘われたのだとしたら。考えただけで、嫌だ。
フィリオラは震えてしまいそうになったが、ベッドの傍らを見た。コップの中には、レオナルドの薬が残っている。
それだけで、気分が安らいだ。レオナルドが助けてくれた、優しくしてくれた、その嬉しさが震えを打ち消した。

「レオさん」

もっと、近付いてほしい。もっと、心を開いてほしい。フィリオラは、まだ体温が戻っていない頬に手を触れた。
レオナルドの手のように温かくはなかったが、その感触を思い出すことは出来た。大きくて熱く、優しかった。
鎮痛剤の薬効で、とろりとした眠気が訪れてきた。先程は、過去の記憶の混じった嫌な夢を見てしまった。
だが、今度はそんな夢は見ないだろう。キャロルにも、ブラッドにも、レオナルドからも、嫌われなかったのだから。
これからは、体に流れる竜の血を、あまり憎まずに済みそうだ。さすがに、すぐには好きになれないだろうが。
フィリオラは天井を見上げていたが、目を閉じた。嬉しくて、嬉しすぎて、泣けてしまいそうな気分だった。
とても、幸せだと思った。




心と体に傷を負った竜と、その弟子達と隣人。
彼女に与えられたものを返すために、彼らは竜を優しく包み込む。
その慈しみは、どんな薬よりも確実に、どんな魔法よりも穏やかに。

竜の傷を、癒すのである。






05 12/12