ドラゴンは眠らない




繋がる手、触れる心



三人が出掛けた後、ギルディオスもストレインの別邸を後にした。
巨大なバスタードソードを背負い、腰に魔導拳銃を提げ、足音をなるべく殺しながら薄暗い裏通りを歩いていた。
猥雑とした街には、あまり裕福とは言い難い人々が暮らしている。首都と軍の恩恵を、受けられない者達だ。
武装した甲冑を物珍しさと恐ろしさを混ぜた目で見ていた子供達は、汚れた服を着ている痩せた体を引っ込めた。
ここもまた、別世界だ。高層建築の上に更に家を積み重ねた建物が左右に連なり、頭上の空は細長くなっている。
貧相な野菜や古びた道具を売る店が、間隔を開けて並んでいた。ギルディオスは、視線だけそちらに向けていた。
旧王都が王都と呼ばれていた頃、こんな光景はしばしば目にした。自宅のあった裏通りも、こんな状態だった。
金も力もない人々が自然と寄り集まって、一つの社会を築き、息を殺しながらも飢えに満ちた暮らしをしている。
歩いていくと、自然と道が開いた。人々は素早く道を開けたので、ギルディオスは通りの中央を進む形になった。
空間の開けた先に、人影が二つ立っていた。片方は小柄だが、もう一方はずんぐりとした巨大なものだった。
軍の紋章が縫い付けられた作業着を着た金髪の女性と、全体的に丸い機械人形が、甲冑を待ち受けていた。
機械人形は、がしゅり、と踏み出した。蒸気釜に似た丸い胸部と腕を持った彼の胸には、青い魔導鉱石がある。

「たいちょう」

機械人形は、重たく鈍い声を発した。ギルディオスは、おう、と片手を挙げる。

「久しいな、ヴェイパー。元気してたか」

「うん」

ヴェイパーと呼ばれた機械人形は、ぎちり、と頷いた。その手前に立っていた女性、フローレンスは笑う。

「隊長こそ。姫君の動きはどうです?」

「ああ。大体、予想通りだ。後は皆の配置をするだけだ。作戦も、昨日話した通りで行こう」

ギルディオスは、フローレンスに顔を向けた。フローレンスは、軍手を填めた手で親指を立ててみせる。

「んじゃ、それを皆に伝えておきますね。この私の精神感応通信で!」

「部隊以外の人間に誤射すんなよ」

「解ってますってぇ」

フローレンスはへらへらと笑った。ギルディオスはその態度に不安を覚えたが、口には出さないことにした。
どうせ、言わなくても解る。フローレンスの精神感応能力はかなり敏感なので、細かな思念も掴み取れる。
フローレンスは両耳に填めていた耳飾りを外した。ヴェイパーに手を当てると、ヴェイパーは一瞬びくりとした。
快活な表情を見せていた青い目が伏せられ、フローレンスは表情を消す。ヴェイパーは空を仰ぎ、動きを止めた。
直後。フローレンスの意思が、精神感応波として照射された。ギルディオスは、その一つをまともに喰らう。
意識の奧から彼女の声が響き、今し方伝えた命令と同じ内容を話す自分の姿が過ぎり、声のない声を聞かせた。
フローレンスはヴェイパーに当てていた手を外し、一息吐いた。両耳に魔導金属製の耳飾りを、付け直す。

「こんなもんですかね」

「ああ、問題ねぇ。お前らも、そろそろ配置に付いておけ」

「上手く行くといいですねぇ、隊長。姫君は、あたし達の仲間になってくれますよね?」

「そうなることを信じようぜ」

「でも、きっとなってくれますよね。あの子は、あたし達と一緒だから」

フローレンスは、作業着に包まれた大きな胸元に手を当てた。嬉しそうでもあったが、物悲しげでもあった。

「あの子も、人間じゃないから」

「たいちょう」

ヴェイパーは、ギルディオスの前に一歩踏み出した。大きな体を傾けるようにして、甲冑を見下ろす。

「ひめぎみ、きっと、みんなと、なかよくできる。う゛ぇいぱーも、ともだちになる」

「そうだな」

ギルディオスは少し笑い、ヴェイパーの胸の辺りを軽く叩いた。ヴェイパーは、笑い声のような声を漏らした。
フローレンスは、上官と機械人形を眺めていた。この作戦が、姫君の奪取が成功してくれなくては、本当に困る。
異能部隊が存続してくれなくては、手塩に掛けて造り上げたヴェイパーはもとい、自分の生きる場所がなくなる。
それが、恐ろしくてたまらない。フローレンスは精神感応能力の出力をかなり下げてから、固く手を握り締めた。
精神感応能力で、この不安が他の隊員達に伝わってはいけない。そうなってしまっては、士気が落ちてしまう。
だが、他の皆も同じ気持ちだろうと思った。異能部隊にいる者達は、皆、同じように人ではない人だからだ。
過剰な魔力や特殊能力を持っているせいで、人の世界に生きられず、流れ流れて異能部隊に入隊している。
フローレンスも、そうだ。精神感応能力のせいで、意図せずとも他人の心が読めてしまい、それを恐れられた。
なるべく他人の心を読まないようにしても、絶え間なく飛び交っている人々の思念を、無意識に掴んでしまう。
能力を押さえていても、人々はフローレンスを避けた。避けられていても、その嫌悪の思念を感じてしまった。
あれは人間じゃない。あれは人の心を読む。心を読まれたら溜まったものじゃない。だから、決して近付くな。
様々な人々の蔑みを全て感じて、親兄弟や友人からも感じて、フローレンスは居たたまれなくなって逃げ出した。
住んでいた町から逃げて、出来るだけ遠くに逃げた。それでも、通りすがった人間の思念を読んでしまった。
走り続けてくたびれ果てたフローレンスは、そのまま死んでしまおうと思ったが、そこに、甲冑が現れた。
どこで情報を得たのかは解らないが、ギルディオスは手を差し伸べてきた。フローレンスを起こし、抱き締めた。
不安だったろうな、怖かったろうな、もう逃げなくていいんだぜ。頭を撫でられ、優しい声で語り掛けられた。
その際に読んだギルディオスの思念も、同じく優しかった。大きくて温かくて、父親のような愛情を持っていた。
嫌悪されていない、と解ると、フローレンスは嬉しくて泣いた。すると余計に、抱き締めてくる腕の力は増した。
フローレンスにとって、異能部隊は、その時のギルディオスの腕の中と同じだ。心地の良い、温かな場所だ。
共和国軍の特殊部隊としての仕事は、時として辛いものがあるが、それでも能力と自分を必要としてくれる。
その異能部隊は、現在、軍の上層に潰されかかっている。なんでも、必要性が見当たらなくなったからだそうだ。
一部隊を潰す理由としては、曖昧すぎる。故に、その裏に本当の目的が隠されているのは、どう見ても明らかだ。
その目的がなんであるのか、ギルディオスだけは知っているようではあったが、一度も話してはくれなかった。
心を読んでしまえば早いのだが、ギルディオスにそれだけはやりたくなかった。彼を、裏切るような気がした。
この力を恐れずに受け入れてくれたギルディオスの心に、土足で踏み入るような真似をしてしまいたくはない。
フローレンスは、ヴェイパーを見上げた。大切な鋼の相棒を守るためにも、竜の少女は手に入れなくては。
異能部隊を守るためにも、生きる場所を失わないためにも、異能部隊は使える者達だと軍の上層に示すのだ。
そのためには、手段を選んでいる暇はない。フローレンスは、仲間から帰ってきた思念を感じ、笑んだ。
作戦は、順調に進んでいる。




首都の大通りを、三人は歩いていた。
ギルディオスの言った通りに横一列に並んで、手を繋いでいた。中央にブラッドを挟んで、歩道を歩いていた。
フィリオラは右側で、レオナルドは左側にいた。傍目から見ると親子のようで、レオナルドは気恥ずかしくなる。
ブラッドは両手を上げた格好で、にこにこしていた。子供らしい無邪気な笑顔を、しきりに二人に向けてくる。

「なんか、楽しいな!」

「そーですねー」

フィリオラも同じように笑いながら、ブラッドに向いた。ブラッドは、レオナルドを見上げる。

「レオさんは?」

「変な気分だ」

レオナルドは、複雑そうに眉を曲げる。手の中にあるブラッドの手は小さく、握った感触は頼りない。

「確かにこうしているとはぐれないかもしれないが、横幅が広がってしまうだけじゃないか」

「そうですか?」

フィリオラは、首をかしげた。短いツノを隠すために被っている、白い帽子のリボンが軽く揺れる。

「私は、こういうことをしたことがなかったので楽しいなぁーって思いますけど」

「うん、オレも。母ちゃんがいなかったからさ、両方いっぺんに手ぇ繋いだことなんてなかった」

だからすっげぇ楽しい、とブラッドは満面の笑みになる。レオナルドは、通りの両脇に連なる店を眺める。

「んで、どうする。この辺りを回るのが適当だと思うんだが」

「入るお店は、私が決めていいですか?」

フィリオラが言うと、ブラッドは頷いた。

「いいんじゃねぇの? オレ、そういうのよく解んねぇし」

途端に、フィリオラは嬉しそうに表情を緩めた。ブラッドの手をぐいっと引っ張りながら、通りの向かい側を指す。

「それじゃですね、あの雑貨屋さんに行きましょう! その二軒先の本屋さんにもその隣のお菓子屋さんにも!」

いっきましょー、とフィリオラは二人を引き摺るように歩き出した。二人は抵抗も出来ず、連れられていった。
人通りの多い歩道を出ると、蒸気自動車や馬車が通り掛かる前に、通りの向かい側の歩道へと向かっていった。
いつになくはしゃいでいるフィリオラは、にこやかに笑っていた。レオナルドは、その横顔を見つめていた。
普段通りの明るい表情に、陰りはない。だが、白亜の屋敷を出る前に、彼女は憂いのある表情を見せていた。
レオナルドはそれが気に掛かっていたが、フィリオラの笑顔は嬉しそうで、憂いなど微塵も滲ませていない。
以前、無理に口付けてしまった時のように、恐らくは無理をしているのだろう。彼女は、そういう人間だ。
レオナルドは、フィリオラがなぜそんな態度を取るのか理由を考えてみたが、思い当たる節は一つだけだった。
やはり、名を呼ぶべきなのだ。




日が陰り始めた頃になって、ようやくフィリオラの買い物は終わった。
旧王都での切り詰めた生活から逃避するかように、これでもかと言わんばかりに、様々なものを買い漁った。
雑貨屋で買ったいくつかの食器、本屋で買った新刊の恋愛小説数冊、菓子屋で買った菓子の数々、他にもある。
服を仕立てるのだと言って買った可愛らしい色合いの布が包装紙に包まれて、買った物の上に載せられていた。
レオナルドは、横目に大量の買い物を窺った。これを持って帰らなければならないと思うと、ぐったりする。

「買いすぎだと思うぞ」

「そうですかねぇ」

フィリオラは、膝の上で眠っているブラッドを撫でていた。彼女に振り回されて、疲れてしまったらしい。
黒衣の少年はマントを背中の下に敷いて仰向けになり、彼女の膝に頭を載せ、心地良さそうに眠っている。
ブラッドの銀に近い金髪は、西日で色が赤らんでいた。少年の髪を、フィリオラの華奢な指が軽く梳いていた。
三人は、大通りから離れた広場のベンチ座っていた。広場の石畳の中央には、水を湛えた人工池があった。
ほとんど波打つことのない人工池の水面は、西日を撥ねて眩しかった。レオナルドは足を組み、頬杖を付く。

「お前なぁ。こんな量を、一人で持って帰れると思うのか」

「思っていません。レオさんが一緒だから、これだけ買っちゃったんです」

フィリオラは、情けなさそうに笑う。

「小父様が一緒の時も、よくそうなっちゃうんですよね。荷物を持ってくれる人がいる、って思うと」

「そのためにオレを連れてきたのか」

心外そうなレオナルドに、フィリオラはちょっと肩を竦める。

「それもあります。本当に、ちょっとだけですけど」

全く、と苦々しげに漏らしたレオナルドの横顔を、フィリオラは窺った。鋭さのある薄茶の瞳が、陰っている。
結局、レオナルドがこの服や姿に関して何か言うことはなかった。今日はずっと、不機嫌そうなままだった。
ブラッドが一緒だったからか、普段の意地の悪さは薄らいでいたが、文句は相変わらず並べ立てられた。
フィリオラが何か買うごとに細々としたことを言って、フィリオラもそれに条件反射で言い返してしまった。
だが、それだけだ。普段と相違のないやりとりに安心はしていたが、朝の引っ掛かりが消えることはなかった。
やはり、一度も名前を呼んではくれなかった。それとなく言ってみたりもしたが、お前、のままだった。
フィリオラは、ブラッドを撫でていた手を外した。レオナルドから見えない位置で、手を固く握り締める。

「レオさん」

もう、嫌いだとも言ってくれないのだろうか。フィリオラはそれが恐ろしくて、溜まらなくなった。

「なあ」

フィリオラが言うよりも先に、レオナルドが口を開いた。

「はい?」

フィリオラがきょとんとすると、レオナルドは眼差しを遠くへ投げた。

「お前の姉貴から、お前がどれだけタチの悪い存在か、教えてもらったよ。竜に戻った時のお前は、ただの生き物になるんだな。本能だけで、感情だけで暴れ回ってたんだそうだな」

「あ…」

思わず、耳を塞ぎたくなった。フィリオラが顔を歪めても、レオナルドは続ける。

「お前も、力の固まりなんだな。自分で制御出来ないくらいの、馬鹿みたいにでかい力に振り回されて生きている。必要あろうがなかろうが、使い道があろうがなかろうが、一生それに付き合わなきゃならないんだ」

力がなければ、力さえ持っていなければ、人生は違っていたはずだ。そう思ったことは、一度や二度ではない。
念力発火能力さえなければ、両親からも疎まれずに済んだ。首都に連れてこられることも、なかったはずだ。
レオナルドは、この十数年で様変わりした首都を見上げた。この街には、苦い記憶と痛みしか感じない。

「オレも、そんなもんだ。ガキの頃は、しょっちゅう屋敷の中や外を焼いちまってた」

静かだが、苦しげな言葉が続く。

「親父はオレを持て余して、軍に売ろうとしたぐらいだからな。簡単に力が起きて、ちょっとでも感情がぶれると熱になった。自分の力で死にかけたのも一度じゃないし、親父や兄貴の魔法がなかったら、オレは無事じゃなかった」

レオナルドは、左腕の袖を捲った。筋肉質な腕には、家宅捜索の際に受けた弾痕と、火傷の痕が残っていた。
余程深い火傷だったのか、その部分だけ皮膚の色が変わっていた。魔法で治した痕跡もあるが、消えていない。
フィリオラは、その傷痕を見つめていた。レオナルドは袖を戻してから、フィリオラに顔を向けると、少し笑った。

「似てると思わないか。オレとお前は」

「なんでいきなり、そんなお話をするんですか?」

訝しげなフィリオラに、レオナルドはベンチの背もたれに背を預けた。

「お前の言う通りだな。オレとお前は、仲良くしておいた方が良かったな。こうも共通する部分が多いと、共感もするだろうしそれでなくても隣人同士だ、毛嫌いするより友好的にするべきだった」

フィリオラは、レオナルドの表情を食い入るように見ていた。珍しく、レオナルドの表情は柔らかかった。

「ギルディオスさんから聞いたんだが、お前があの人を使役しているわけでもなくて、お前のために傍にいたんだな。つまり、オレの嫌っていた部分は最初から見当違いの思い込みだったというわけだ。頭ごなしに否定して、何もかも否定して、お前という人格すら認めようとしていなかった。今までその理由を知らなかったというより、オレは知ろうとしていなかった。自分の考えばかりで、お前の言うことを聞こうとすらしていなかったんだからな」

レオナルドは、声を落とした。低音の響きは、ギルディオスのものとどこか似ていた。

「だが、お前は違うな。端っからオレに接してきて、どれだけなじろうが責めようが毒突こうがオレの元に来やがる」

「…すいません」

「責めちゃいない。褒めているんだ」

レオナルドは、フィリオラの瞳を見据えた。青い虹彩は茜色の西日によって、若干色が変わっていた。

「レオさんは、私に何を仰りたいんです?」

「前提だ」

「何のです?」

フィリオラの問いに、レオナルドは少し言いづらそうにしたが、声に力を込めた。

「いきなり心変わりしてしまうと不自然極まりないから、なぜオレがこうなったのか先に教えてやったんだ」

「あの、それって」

「つまり、なんだ。オレは、もう」

レオナルドは照れと気恥ずかしさと胸の痛みを、無理に押し止めた。


「フィリオラ。お前を、それほど嫌悪していない」


徐々に、彼女の目が見開かれていった。目一杯開かれた大きな目は、照れくさそうに顔を歪める彼を映していた。
手が、震えてしまいそうだった。フィリオラは先程とは違う意味で手を強く握り、口元が緩んでいくのが解った。
嫌われていない。それどころか、名前も呼んでくれた。フィリオラはあまりにも嬉しくて、涙が少し滲んできた。

「ほんとう、ですか?」

「嘘を言ってどうなる」

「そうですよね、そうですよね、レオさんですもんね」

フィリオラは手の甲で涙を拭うと、込み上げてくる嬉しさで笑った。

「ありがとうございます、レオさん」

レオナルドは顔が緩んでしまいそうになったが、なんとか理性で保っていた。嬉しいのは、こちらも同じなのだ。
フィリオラの笑顔は、心底嬉しそうだった。無理をしているものとは違って、実に清々しげな顔で笑っている。
その表情を彼女に生じさせたのが自分だと思うと、ますます嬉しくなった。フィリオラは、頬まで紅潮させている。

「なんか、もう、すっごく嬉しいです。それじゃ、これからはレオさんのお部屋に行っても良いですか?」

「またどうして」

「だって、レオさんのお部屋のお台所って使ってないじゃないですか。だから、少しは使ってあげないと」

お料理一杯作りますよ、と微笑むフィリオラに、レオナルドはぎくりとした。それは、理想的すぎる展開だった。

「それは、本気か?」

「当たり前じゃないですか。せっかくレオさんと仲良くなれたんだから、もっと仲良くなりたいんです」

フィリオラは膝の上のブラッドを落ちないように支えてから、レオナルドに身を寄せてきた。

「いけませんか?」

「いけなくはない。いけなくはないが、その」

狼狽えるレオナルドに、フィリオラはくすくす笑う。

「ああ、朝のあれですかー? でも、レオさんなら平気だと思いますよ。だって、私には色気なんてないですし。昨日の夜だって、レオさんは私になんにもしてこなかったんですから」

馬鹿かお前は、と言おうと思ったが言えなかった。レオナルドはいつになく近付いたフィリオラから、目を逸らす。
昨夜はしてこなかった、ではなく、出来なかった、が正しいのだ。欲情しそうになるたびに、理性を強めていた。
必死に他のことを考えて傍らで眠る彼女から意識を逸らし、なるべく離れて触れないようにしていただけなのだ。
気を抜けば、すぐに理性は飛んでしまう。今後、フィリオラが自分の部屋に来たら、どうなってしまうことか。
レオナルドは高ぶった鼓動に苦しんでいると、フィリオラは身を下げた。淡い桃色の服の、胸に手を添える。

「あの、一つ訊いても良いですか?」

「何をだ!」

「これ、似合ってますか? ブラッドさんが選んでくれたんですけど、私はそうは思えなくて」

不安げなフィリオラを、レオナルドは改めて眺めた。優しい色合いのワンピースは、色白の肌に合っている。

「いや。充分、良いと思うぞ」

「あ、じゃあ、これはどうですか? レオさんが悪くないって言ってくれたから付けたんですけど」

フィリオラは、銀の髪留めに手を触れる。レオナルドはまた嬉しくなってにやけそうになったが、堪えた。

「同上だ。悪くない」

「わぁい!」

子供のような声を上げたフィリオラは表情を緩ませ、レオナルドに向けて両腕を伸ばし、身を乗り出してきた。
レオナルドが戸惑うより先に、フィリオラはレオナルドの腕に縋っていた。細い腕で、力一杯抱き締める。

「ありがとうございますー!」

「おっ、お前なぁ!」

レオナルドが身をずり下げると、フィリオラはそれに引っ張られながらも笑う。

「いけませんかー?」

「いっ、いけないとかいけなくないとかそういう問題じゃない!」

レオナルドは、自分の頬が紅潮しているのを自覚していた。辺りが薄暗いので、彼女に見えないのが救いだった。
昨夜と同じく、彼女はギルディオスを相手にしているのと同じ感覚なのだろうが、レオナルドとしては大事だ。
あれだけ触れてはいけないと思っていた相手から触れられてしまったため、激しい動揺と混乱が起きていた。
フィリオラは体を傾げているので、あまり大きさのない胸が腕に触れる感触があり、更に混乱は増してくる。
レオナルドは出来るだけ後退しようと、腰を下げた。フィリオラも彼に引っ張られてしまい、ずれてしまった。
すると、彼女の膝に頭を預けていたブラッドがずり落ちた。ごっ、と後頭部がベンチにぶつかる鈍い音が響く。

「でっ!」

「あ」

フィリオラはレオナルドの腕を放さないまま、不機嫌そうな顔で起き上がったブラッドに振り向く。

「大丈夫ですか、ブラッドさん」

「大丈夫じゃねぇよ、痛ぇよ後ろ頭が!」

ブラッドはむくれたが、すぐに、二人が妙に近付いていることに気付いた。

「何してんの、二人共?」

「なんでもないっ!」

レオナルドは慌ててフィリオラの腕から自分の腕を抜き、立ち上がった。ブラッドは、にたりと笑う。

「オレ、邪魔だった?」

「え、あ、違いますよそうじゃないですよ、ただ私はその、嬉しくなっちゃって」

ねぇ、とフィリオラは混乱しながらもレオナルドに向いた。レオナルドは、何度も頷く。

「そうだ、それだけだ!」

「へー」

明らかに疑っている顔で、ブラッドは変に高い声で返事をした。寝ている間に、二人に何かあったのだろう。
それが何かは解らないが、下世話な想像をしてしまう。ブラッドは、照れくさそうなレオナルドを見上げ、拳を握る。

「頑張れよ、レオさん!」

「何をだ!」

レオナルドは気恥ずかしさで強く言い返してから、フィリオラの買った物を持てるだけ持ち、二人に背を向ける。

「とっとと帰るぞ! 日が暮れてしまうからな!」

「あ、そうですね」

フィリオラは立ち上がると、抱えられるだけ荷物を抱えた。ブラッドもベンチから下りると、軽い物を抱えた。
レオナルドが歩き出そうとすると、片手が何かに引っ張られた。振り向くと、フィリオラが手首を掴んでいる。

「最後の最後で、はぐれちゃいたくありませんから」

レオナルドは反応に困ったが、そのまま歩き出した。下手に振り解いてしまうのも悪いし、なにより惜しかった。
ブラッドは、二人の背に続いていった。やけに浮かれているフィリオラと、動きがぎこちないレオナルド。
誰がどう見ても、レオナルドはフィリオラを意識している。ブラッドにも解るのだから、相当なものだった。
ブラッドは紅茶の葉の包みが入った紙袋を両手に抱え、にやにやした。これから、どうなるのか楽しみだ。
前を行く二人の影が、傾いた西日で長く伸びていた。




日が落ちた頃、フィリオラは一人で道を急いでいた。
帰ってくる途中、スイセンの髪留めが滑り落ちて外れてしまったのだ。ストレインの別邸に戻った頃に気付いた。
レオナルドは、明日探せばいい、と言ってくれたが、それでは遅い。あの髪留めは、純銀製で値の張るものだ。
その上、ギルディオスからもらったものだ。尚のこと、なくしてはいけない。息を弾ませながら、夜道を走った。
家々がまばらな道が終わり、建物が密集した街中に入った。昼間とは違い、細い路地には深い闇が満ちている。
人の気配はあるが、あまり多くはなかった。フィリオラは少しばかり不安になりながらも、石畳に目を凝らした。
手に提げていた鉱石ランプを掲げ、辺りを見回す。すると、右手の細い路地に、僅かながら光る物があった。
フィリオラは街灯の下を抜けて、その路地を覗き込んだ。鉱石ランプを差し出すと、銀色の光が返ってきた。
身を屈め、手を伸ばして拾うと、覚えのある感触が指にあった。スイセンの花弁を模した、銀の髪留めだった。

「良かったぁ」

フィリオラが髪留めを胸に押し当てると、背後の光が消えた。何事かと思って振り返ると、壁になっていた。
街灯の弱い光が遮られ、真っ黒な障壁になっている。フィリオラが戸惑っていると、壁が低い声を発した。

「ひめぎみ。いっしょ、きてほしい」

「え?」

フィリオラは鉱石ランプを掲げ、壁を照らしてみた。壁だと思ったのは、ずんぐりとした巨大な物体だった。
球体状の胸部が特に大きく、丸太のような腕と末広がりの形をした両足が、見上げるほどの巨体を支えていた。
頭部と思しき部分には、仮面のような顔が付いていた。目元には、横一線の隙間があるが、光はなかった。
フィリオラが後退すると、背中に何かが当たった。柔らかな人の感触がしたと思ったら、鼻と口を布に塞がれる。

「良い子にしてね。悪いようにはしないから」

押さえてはいたが、溌剌とした女の声だった。フィリオラが後ろへ目を動かそうとすると、急に意識が薄らいだ。
何かに遮られるかのように、意思に反して遠のいていく。体の自由も奪われて手が緩み、だらりと下がった。
かしゃん、と石畳に髪留めと鉱石ランプが落ちた。フィリオラは髪留めを拾いたかったが、身動きが取れなかった。
早く拾わなければ。早く帰らなければ。レオナルドが、ブラッドが待っているのに。なのに、少しも動けない。
焦りと悔しさの中、フィリオラの意識は混濁した。震える瞼が静かに閉じ、崩れ落ちるように女性に身を預けた。
女性はぐったりしたフィリオラを受け止めると、その鼻と口を押さえていた布を外し、作業着のポケットに入れる。

「ごめんね」

女性、フローレンスはフィリオラの耳元に小さく囁いた。路地の奧から歩み出てきた戦闘服姿の男に、振り向く。

「副隊長。このまま連行しますか、それともポールに瞬間移動してもらって、一緒に連れていってもらいます?」

「ポールに来てもらおう。その方が安全で確実だ」

褐色の肌をした戦闘服姿の男、ダニエルはフローレンスに抱かれているフィリオラを見下ろした。

「隊長の話通り、小さいな。本当に、これが竜なのか」

「本当みたいですよ。さっき、意識を失わせるために精神波を送ったときに覗いてみたら、その記憶がありました」

フローレンスはフィリオラをダニエルに渡してから、肩を竦めて両腕を抱く。少し、顔が引きつっている。

「馬鹿でっかいトカゲの視点の映像とか、獣の本能みたいな思念とか…」

「そうか」

ダニエルはフィリオラを抱えていたが、その重みの無さに顔をしかめた。こんな小娘が、役に立つのだろうか。
フィリオラに張り付いていた隊員からの報告では、すぐに泣いたり笑ったりする、どこにでもいる少女だそうだ。
竜族の末裔を引き入れることは、異能部隊にとっては有益かもしれないが、個人的は無益だと感じていた。
規律の取れた戦闘部隊にとっては、年頃の少女など異物でしかない。せめてもう少し年齢が下ならば、と思った。
まるきり子供であったなら、完全なる兵士としての教育が可能だろうが、十八歳になれば自我は成長した後だ。
使える兵士には出来ないかもしれないが、やれるだけやるしかない。ダニエルは、暗闇の路地の奧に向いた。
巨大な剣を担いだ大柄な甲冑が、レンガ造りの壁に背を預けている。銀色のヘルムが、ダニエルに振り向いた。

「不満そうだな、ダニー」

「解りますか」

ダニエルは、冷徹ながらも面白くなさそうだった。解るさ、とギルディオスは肩を竦める。

「オレとお前らが何年付き合ってると思ってる。だが、安心しろ、フィオは必ずお前らの役に立つ」

「あたらしい、なかま。あたらしい、ともだち」

巨体の機械人形、ヴェイパーが鈍い声で呟いた。そうだ、とギルディオスは頷いてから、壁から背を外した。
ダニエルに抱えられたフィリオラの前まで歩み寄ると、石畳に落ちていた髪留めを拾い、少女の手に握らせる。
甲冑の大きな手には、少女の手は軽く納まってしまう。ギルディオスは、フィリオラの柔らかな手を握り締める。

「フィオ」

これで、彼女を楽にしてやれる。こうすることが、彼女のためなのだ。ギルディオスは、内心で目を細めていた。
竜は、近代の人の世界では生きられない。中世であれば別であっただろうが、この時代には合っていない。
故に、フィリオラは幼い頃から苦しみ続けていた。力を持て余し、竜の血を憎み、泣き腫らす姿を何度も見た。
異能部隊は、彼女のような者のためにある。だからこそ、フィリオラはこちらの世界に引き入れるべきなのだ。
ギルディオスはダニエルからフィリオラを受け取ると、肩と膝の裏を掴み、大切そうにそっと抱き上げた。

「さあ、帰るぞ」

了解、と三人から声が上がった。直後、ギルディオスの背後で空間が僅かに歪み、体重のある着地音がした。
ダニエルと同じく戦闘服を着た男は、彼らを見回した。ギルディオスが頷いてやると、彼は頷き返してきた。
戦闘服姿の男が腕を伸ばすと、細い路地の空間がほんの少し歪んだ。その歪みが消えると、彼らも消えていた。
石畳の上に倒れていた鉱石ランプも消失していて、狭い路地には静寂が戻り、再び重たく厚い闇に沈んだ。
首都の夜は、穏やかに更けていく。




彼と彼女が、不器用ながらも心を繋げたその日の夜。
闇に蠢く異能の者達は、不死の重剣士に率いられ、竜の末裔を拐かした。
人ならざる彼らの、人ならざる世界を守るために。

人ならざる少女は、異能の庭へと誘われるのである。







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