ドラゴンは眠らない




異能者達の箱庭 後



レオナルドは、戦慄した。


薄い雲の広がる空の下、灰色の壁に囲まれた箱庭のような島。そこに、異様な巨体が立ち上がるのが見える。
鋭いツノ、力強い顎、ずらりと並んだ牙、巨大な翼、太く長い尾、若草色の厚い肌。そして、理性を失った紅の瞳。
空気が、震えている。魔力と共にあらゆる激情が込められた竜の猛りが、全身に染み入り、揺さぶってきていた。
灰色の箱庭の島に繋がる跳ね橋は、上がっていた。それらを守るために配置された兵士達は、皆、倒れていた。
いずれも、致命傷とは行かなくとも炎によって負傷していた。熱気の籠もった空気を、潮風が薄らがせていく。
それらは全て、レオナルドの所業だった。フィリオラが異能部隊にいる、と察した彼が、衛兵達を倒したのだ。
レオナルドは額に滲んだ汗を拭ってから、呼吸を整えた。間近に感じる竜の気配が、畏怖を呼び起こしていた。
倒れている兵士達も同様らしく、負傷の痛みとは別の呻き声を上げている。彼らも、竜が恐ろしいのだろう。
レオナルドは兵士達を一瞥してから、上げられている跳ね橋へと向かった。身を乗り出し、島を見据える。
緑竜は、繰り返し、空へ吼えていた。その度に伝わってくる魔力と感情は、レオナルドの炎の力を強めさせた。

「あいつ…」

あの緑竜は、フィリオラは心の底から怒っている。レオナルドは、その怒りの感情を受け止め、怒りが増した。
怒るのを嫌う彼女をそこまで怒らせたのは何だ。なぜ、彼女がそこまで怒らなければならない。理不尽だ。
基地の中で、異能部隊に何かしらのことをされたのかもしれない。レオナルドは、焦燥感から舌打ちする。
昨日の夜、一緒に行ってやれば良かった。そうすれば彼女は、軍になど攫われずに済んだかもしれないのに。
攫われたとしても、一人にはならなかったかもしれない。自分への憤りと悔しさで、レオナルドは奥歯を噛む。
どうして、肝心な時に役に立たない。どうして、力になってやりたい時に傍にいてやることが出来ないのだ。
脳裏には、昨日のフィリオラの表情ばかりが蘇る。むくれて、はしゃいで、拗ねて、困って、そして、笑っていた。
その、彼女が。レオナルドは握り締めた拳を、跳ね橋を支えている支柱に叩き付けたが、怒りは収まらない。

「どちくしょうっ!」

レオナルドは跳ね橋を吊り上げている鎖を、睨んだ。太い鎖の一点が次第に赤らみ始め、熱が立ち込めてくる。
強烈に熱せられて真っ赤になった鎖は柔らかくなり、跳ね橋の自重で斜めに傾き始め、太い鎖が重たく軋んだ。
片方の鎖が引き千切れる寸前で力を止めてから、レオナルドはもう一方の鎖を睨み、今度は溶けるまで熱した。
溶けた鎖は重たい跳ね橋を支えきれなくなり、赤く溶けた鉄が飴のように長く伸びていき、そして、断ち切れた。
直後、跳ね橋は落下した。着水した先端は海面を力強く叩き、海水が高く跳ね上がって降り注いでくる。
飛び散った海水が限界まで熱せられた鎖を冷やし、じゅっ、と水が爆ぜる激しい音と、白い蒸気が上がった。
レオナルドは反対側の跳ね橋を支えている鎖も、同じように見据えた。怒りと焦燥を熱に変え、力として発する。
感情が高ぶっているおかげで、どちらも簡単に断ち切れた。傾いてきた反対側の跳ね橋が、海面を殴り付ける。
どぉん、と水柱が上がり、レオナルドは少し海水を被ってしまった。濡れた体から、水が湯気となって昇る。
胸中どころか、全身が熱している。こんな状態で彼女に触れたら火傷させてしまいそうだな、と思っていた。
鎖を焼き切られた跳ね橋は、両方とも先端が沈んでいる。下手に足を滑らせれば、海に落ちてしまいそうだった。
だが、躊躇っている暇はない。レオナルドは傾斜の付いた跳ね橋を一気に駆け下りると、力一杯踏み切った。
前方に体重を傾け、出来るだけ高く跳躍した。目の前に迫ってきた向かい側の跳ね橋に、片膝を付いて着地する。
板が濡れていたせいで少し滑ってしまったが、足を踏ん張って立ち上がる。荒げていた息を、多少整えた。
レオナルドは勢いを付けて跳ね橋を駆け上がり、基地へと繋がる桟橋に立ったが、足を止めざるを得なかった。
固く閉ざされた基地の入り口を、数人の兵士が守っていた。彼らの戦闘服は暗赤で、いずれも身構えていない。
一見して、彼らが一般の兵士でないということは解った。異能部隊である証の、赤い戦闘服を着ているからだ。
レオナルドが力を高めようとすると、背後に着地音がした。前方に立っていた一人が、いつのまにか背後にいる。

「ここは民間人の立ち入る場所ではない。即刻退避しろ」

レオナルドの背後を取った男は、レオナルドの首を腕で締めてきた。レオナルドは、笑う。

「そういうわけにはいかねぇんだよ」

目線を動かし、首を締め上げている男の手を捉える。力を集中させて放つと、途端に男の右手は燃え上がる。
一瞬のうちに炎が袖を燃やし、皮膚を焦がした。男は突然のことに顔を引きつらせ、すぐさま海に飛び込んだ。
男の腕が浸かっている波間から、湯気が昇っている。それを見た残りの数人は、レオナルドとの間を狭める。

「炭になりたくなきゃ、そこをどけ! オレはあいつに用がある!」

レオナルドが声を荒げると、若い兵士が身構え、銃を抜いた。

「そうはいかん! 竜の少女は我々の希望だ、お前の目的がなんであろうと渡すわけにはいかない!」

「しゃらくせぇ!」

レオナルドはその兵士の銃を睨み、吹き飛ばした。熱の視線で溶けた鉄は塀に衝突し、めり込んで煙を上げる。

「オレは惚れた女を助けに来ただけだ! お前らこそ、あいつに余計なことをしたんじゃねぇだろうな!」

「お、オレは何もしてない。あの竜の少女に関わっていいのは隊長に副隊長、それに技術主任だけだから」

銃を吹き飛ばされたために痺れている右手を押さえ、若い兵士は身動ぐ。レオナルドは、口元を歪める。

「じゃ、その隊長とやらがあの女に何かやらかしたってことだな?」

「それはない! 隊長は、あの竜を娘のようなものだと言っていたし、我々にも変なことはするなと命じていた」

有り得ない、とでも言いたげな若い兵士に、レオナルドは訝しむ。

「嘘臭ぇな」

「嘘ではない! 隊長は副隊長と共に外出されている!」

「じゃ、技術主任か。そいつがあの女に手ぇ出したんだな」

レオナルドは、にたりと歪んだ笑みを作る。するともう一人の兵士が、慌てて手を振り翳す。

「ち、違う! 技術主任は女性だ!」

「なんでもいい。オレを通せ!」

レオナルドは目元を強め、二人の兵士に照準を合わせた。炎の力を高め、集中して放射するために気を張る。

「ああもう…どうすりゃいいんだよ、こんなの。オレらじゃどうにも出来ねぇよ…」

困り果てた様子で、若い兵士は灰色の塀を見上げた。竜の巨体が闊歩するたびに、地面が軽く揺れている。

「ああ…なんでこんなときにいないんだよ、ギル隊長は…」

「ギル?」

聞き覚えのある言葉に、レオナルドは若い兵士に目を向けた。兵士は、狼狽えながら答える。

「あ、ああ、うちの隊長の名前だ。それだけだ」

「やはりか」

レオナルドは、疑念を確信に変えた。やはり、今回の誘拐劇の中心にギルディオスがいたのは間違いない。
フィリオラをよく知る彼が一枚噛んでいなければ、こうも簡単にフィリオラを攫うことなど出来ないはずだ。
それに、彼女がいなくなる直前から姿を消している。そして、この異能部隊の隊長の言動も、引っ掛かる。
いかにも彼の言いそうなことだった。ギルは珍しい名前でもないが、ここまで噛み合うと、もうそうとしか思えない。
レオナルドは、怒りを通り越して呆れてしまいそうだった。あの人は、一体何がしたくて彼女を攫ったのだ。
だが、今はそれを考えている場合ではない。どうにかして基地の中に突入し、フィリオラを鎮めなくては。

「おい」

レオナルドは、困り果てている若い兵士に乱暴に声を掛けた。

「オレはその隊長の血縁だ。つまり関係者だ。門を開けろ、そして中へ入れろ」

「だ、だが、そんなことをしたらあんたは死ぬぞ、間違いなく死んじゃうぞ!?」

だって竜が、と若い兵士はやけに気弱な顔になって塀の中を指す。もう一人の兵士は、変な顔をしている。

「だがな、あんた。隊長の血縁ったってそれだけじゃ関係者とは言えんし、基地に入るためにはまぁ色々と」

「うるせぇ黙れ吹っ飛ばすぞこの野郎!」

レオナルドは一本調子で喚き、もう一人の兵士の襟首を掴んで引き寄せ、間近から睨む。

「だから、さっさとオレを中に入れりゃいいっつってんだろうがよ。ギルディオス・ヴァトラスの許可なんか得る必要はねぇ、今はそれどころじゃねぇしそんな暇があると思うか、あるはずがねぇだろうが!」

苛立ちが、熱となっていた。服に染み込んだ海水を蒸発させるレオナルドの背を、見上げる目があった。
焼け焦げた右腕を押さえて海から這い上がってきた男は、レオナルドの背を見ていたが、慎重に呟いた。

「…レオ、か?」

「あん?」

目を据わらせたレオナルドが振り向くと、火傷を負った右腕を下げながら、男は歩み寄ってきた。

「やっぱりだ。お前、レオナルド・ヴァトラスだろう。オレだ、ポール・スタンリーだ。瞬間移動の」

レオナルドは、その男を眺めた。ポール・スタンリーという名は、異能部隊でいた頃に聞いた名前だった。
あの念動能力者の少年と共に、実戦配備されていた。あまり交流はなかったが、言葉を交わすことはあった。
二十年ほど前は十二歳ぐらいだった。その分の年齢を足してみると、確かに、彼の面影がないわけではない。
薄めの眉に色の暗い瞳、幅のある顎。ポールと名乗った兵士はレオナルドに歩み寄り、懐かしげな顔になる。

「そうか。お前、生きていたんだな」

「お知り合い、ですか?」

兵士はポールに尋ねると、ポールが答えるよりも先にレオナルドは顔を背ける。

「二十年も昔の話だ」

「これ以上やり合うのは時間の無駄だ。早くレオを、そいつを中に入れてやってくれ」

ポールの言葉に、若い兵士はレオナルドと彼を見比べる。

「で、ですが。今度のことは出来るだけ内密に、って命令が隊長から…」

「これだけの大事になっちまったんだ、内密になんて出来やしねぇよ」

ポールは苦々しげに顔を歪めていたが、レオナルドに向く。

「頼む、レオ。お前の力だったら、あの竜を倒せるはずだ。だから、倒してくれ」

「馬鹿を言うな。オレはあいつを助けに来たんだ、お前達からな」

レオナルドが声を荒げると、ポールは悔しげにする。

「あの竜を攫ったことは謝ろう。だが、こうなるとは思ってもみなかったんだ」

「お前ら、どうしてあの女に手ぇ出したんだ。どうして、こんな下らねぇ場所に引き摺り込みやがったんだ」

腹立たしげなレオナルドに、ポールは多少躊躇していたが、答えた。

「隊長の算段だ。我々異能部隊は、政府と軍の上層に圧力を掛けられていて、解散させられそうになっているんだ。隊長は、異能部隊が使える部隊だと上に示すためだと言って、即戦力とするために、竜の少女を連れてきたんだ。だが、それが」

「あいつがぶち切れて大暴れ、か。当然の結果だ」

レオナルドが吐き捨てると、ポールは塀の向こうで猛り狂う緑竜の姿を見上げた。

「頼む、レオ。あの竜を止めてくれ。このまま基地を完全に破壊されてしまっては、我々の解散は決定的だ」

「いっそのこと、全部壊しちまえよ。その方が、ずっと楽になれるぞ」

レオナルドはポールに背を向け、閉ざされている門へ歩き出した。

「こんな馬鹿みてぇな場所に閉じ籠もってるよりか、全部ぶっ壊して外に出た方が余程気分が良いぜ」

門へと近付いたレオナルドは、太い鉄柱で出来た門を睨んだ。レオナルドの睨んでいる範囲が、熱せられていく。
赤々と色を変えた鉄柱は自重でぐにゃりと折れ曲がり、門がひしゃげる。レオナルドは、片手を挙げて叫んだ。

「清き流れよ、涼やかなる潤いよ、我が手の元に!」

その手から、勢い良く水が放出された。レオナルドが熱した鉄に水が触れて爆ぜ、蒸気を上げながら冷えていく。
急激に冷却された門は、奇妙に歪んで形を止めていた。レオナルドは水に濡れた地面を踏み締め、中に進む。
門の中に入ってから、一度振り返った。彼らは、レオナルドを止めることもせず、追うこともしてこなかった。
先程のレオナルドの言葉で迷っているのだろうか、それとも、止めたところで無駄だと思ったのだろうか。
そんなこと、どちらでも構わない。今は、フィリオラが最優先だ。レオナルドは、瓦礫の散る基地へと駆け出した。
怒りのままに吼え続ける緑竜の赤い瞳は、何も映していなかった。




その頃。魔導師協会の会長室。ダニエルは、言葉を飲み込んだ。
今し方まで言おうとしていたことを反射的に押さえてしまうほど、強烈なものが感覚を逆撫でしてきていた。
発信源は離れてはいるが、空気が震えている。感情と言うには荒々しい激情が込められた、咆哮が聞こえる。
二人を窺うと、フィフィリアンヌとギルディオスは動きを止めていた。フィフィリアンヌは、ギルディオスに叫ぶ。

「貴様、フィリオラに何かしたのか!」

「何もしてねぇよ。オレはただ、フィオを連れてきただけだ。今は、フローレンスが相手をしているはずなんだが…」

何があったんだ、とギルディオスは戸惑っている。フィフィリアンヌは、ぱちんと指を弾いて乾いた音を放った。
途端に、閉ざされていたカーテンがしゃっと引かれて窓が大きく開いた。竜の咆哮は、更に強くなって聞こえた。
フィフィリアンヌが身を乗り出すよりも先に、ギルディオスが開いた窓へと向かい、上半身を出して辺りを見回す。
そして、南西側にヘルムを向けた。手招きされたダニエルは、フィフィリアンヌと共にその方向に視線をやった。
基地島から、煙が上がっている。塀の中では巨大な緑竜が猛り、火を噴き、尾を振り回して破壊を行っている。
フィフィリアンヌは、大きな目を限界まで見開いていた。怒りに満ちていた表情が崩れ、悲しげなものとなった。

「…貴様ら、なんということをしたのだ」

「フィル、解るのか? フィオがなんて言っているのか」

ギルディオスに問われ、フィフィリアンヌはカーテンを握り締める。

「私を何だと思っているのだ、解るに決まっている。あの子は、怒っている。それも、貴様らのせいでだ」

「死にたい、苦しい、もう嫌だ、怖い、辛い、逝きたい、生きたい、逝きたくない…」

淡々と、伯爵が言葉を並べた。肩を震わせているフィフィリアンヌに代わり、伯爵が竜の咆哮を訳した。

「なぜ、なんで、どうして、どうしてなんだ、助けてくれ、逃がしてくれ、死なせてくれ。あの子は、このような言葉を繰り返し繰り返し吼えている。だが、それはフィリオラの声だけではない。無数の人間の、男も女も魔物も混じった声である。ギルディオス、貴様に向けられた恨み言もあるのであるぞ。信じていたのに、信じていたから付いていったのに、どうしてこんなことをするの、とな」

伯爵の沈痛な口調に、ギルディオスははっと顔を上げた。

「まさか! あいつ、あいつらの石に触ったんじゃねぇだろうな!」

「石、と言いますと、魔導兵器として流用する予定の魂が入った魔導鉱石のことですか?」

ダニエルが問うと、ギルディオスは拳を握って壁を強く殴り付けた。壁が打ち砕かれ、破片が飛び散った。

「フローレンスの馬鹿が、なんでフィオをそんな場所に近付けちまったんだよ!」

「だが、ギルディオス。なぜ、そんなものが貴様ら異能部隊の基地にあるのだ。本来、魔導兵器開発は他の部隊の仕事ではなかったのか」

フィフィリアンヌが訝しむと、ギルディオスは苦々しげに漏らした。

「使え、って上から言われたのさ。死んだ連中が生体魔導兵器に変えられちまったのとかと一緒に、押し付けられちまったんだ。オレは当然はねつけたんだが、保管しておくだけだから、って言われてよ、仕方なく」

「なぜ、早く壊してやらなかったのであるか」

伯爵の声は、咆哮を受けて震えていた。ギルディオスは壁にめり込んでいる拳を緩め、俯いた。

「…壊せなかったんだよ。壊した方がいいとは解っちゃいたんだが、どうしても、壊せなかったんだよ!」

「やはり貴様はニワトリ頭だ。優しさと甘さは、似てはいるが根本から違うのだ」

フィフィリアンヌは項垂れていた頭を起こし、額を押さえた。目元に、うっすらと僅かに涙が滲んでいる。

「あれだけの量の魂と感情を受けた上での変化だ、あの子はかなり苦しんでいるのが声で解るぞ。可哀想に…」

「どうにかして変化だけでも収めねば、フィリオラの体は持たぬのである。あの子は竜の末裔ではあるが完全な竜ではない。故に、唐突な変化によって、相当な過負荷が掛かっているはずである。早々に、人の姿に戻してやらねばなるまい。して、フィフィリアンヌよ」

「ああ」

伯爵に頷いたフィフィリアンヌは、上着を脱ぎ捨てた。翼を広げて羽ばたかせると、一気に大きさが増した。
ワイングラスの中に満ちているスライムは、ぐにゅりと身を歪めたかと思うと、ガラスの器から姿を消す。
直後、ごとん、と机に落下音がした。本の隙間に隠れていたフラスコの中に、赤紫のスライムが移動している。
フィフィリアンヌはそのフラスコを取ると、窓べりに足を掛けた。飛び立とうとしたが、二人へと振り向いた。

「さっさと飛ばんか。あの子の元に行くぞ」

「ダニー。飛べるか」

ギルディオスに振り向かれたダニエルは頷いたが、あまり気が進まなかった。

「外に出られれば飛べます。ですが、隊長。あの状態の竜に近付くのは、危険でしかないと思われますが」

「馬鹿野郎、姿形がどうなってようがフィオはフィオだ! 飛べったら飛べ、これは命令だ!」

「了解しました」

ダニエルは、仕方なく頷いた。フィフィリアンヌは窓から外へ出ると羽ばたいて浮上し、ぱちんとまた指を弾いた。
直後、ダニエルとギルディオスは窓の外に移動していた。ダニエルは落下しかけたが、すぐに力を解放した。
ダニエルは念動力で、ギルディオスと自分自身を浮上させた。空中に留まった二人に、竜の少女は背を向ける。

「さっさと行くぞ。遅れるな」

小柄な姿は、あっという間に遠ざかっていった。灰色の壁に囲まれた島へと、風を切って一直線に向かっていく。
ダニエルは力を制御し、前進させた。ギルディオスに向けて片手を翻し、甲冑を加速させて前進させ、後に続く。
甲冑の肩に掛けられた赤い軍服がはためき、それを押さえるように載せられている巨大な鞘が、目に付いた。
ダニエルは最後尾を滑空しながら、基地に近付くに連れて、徐々に強まってくる感覚的な恐怖に苛まれていた。
巨体の竜が恐ろしげな咆哮と共に暴れる姿は、視覚的な畏怖をもたらすが、それ以上の恐怖が沸いていた。
絶対的な力。圧倒的な力。そして、強烈な怒りの感情。ダニエルが表情を歪めると、手前の上官が言った。

「なぁ、ダニー」

風を切る音がうるさかったが、その声は良く聞こえた。ダニエルは顔を上げ、返事をする。

「なんでしょうか」

「お前はさっき、何を言いたかったんだ?」

ギルディオスは、横顔だけ振り向かせた。ばさばさと強い風に揺れる赤い頭飾りが、銀色の兜を叩いている。
ダニエルはそれを見上げていたが、目線を落とした。自分の中では答えは出ていたが、言えなかった。

「別に、何も」

ギルディオスは、そうか、とだけ答えてそれ以上は聞いてこなかった。ダニエルは、目線を下に落とした。
眼下を通り過ぎる首都の街並みは、人々の喧噪と叫びが聞こえていた。皆が皆、竜の恐怖に戦いているのだ。
騒ぎ立てて怯えきっている人々の様相に、ダニエルは先程出していた答えを払拭し、押し込めることにした。
ああ、やはり。人を越えた力を持っている存在は、それが本来いかなるものであろうとも、恐れられるのだ。
僅かでも思ってしまった、外へ出たいという願望は、言葉にするべきではない。言葉にしたら、願望は強まる。
ダニエルは、次第に近付いてくる基地島に視線を据えた。中にいると広いが、上から見ると大きな箱だった。
それを箱庭だと称したのは、彼だった。炎の力を小さな体に満たした、いつも不機嫌な顔をしていたあの少年だ。
彼もまた、竜の少女と共に首都へと来ている。ならば、彼もこの異様な事態には気付いているはずだろう。
彼の炎の力は優れた戦力だが、共に戦いたいとは思わなかった。戦えるはずがない、と知っているのだから。
竜の少女を攫うまでの間、ずっと竜の少女と一緒に彼も監視していたが、彼の表情は昔に比べて明るかった。
不機嫌そうなのは相変わらずのようだったが、それでも、楽しそうだった。人らしい人として、生きていた。
十九年前、彼と共に外へ出てしまえば良かったかもしれない。ダニエルは内心で苦笑しながら、滑空を続けた。
ダニエルの表情は、軍人のものに戻っていた。




灰色の箱庭の中は、めちゃめちゃになっていた。
整然と並んでいた倉庫を中心に破壊が始まっていて、その近くの訓練場、格納庫、塀の一部が壊されていた。
フィリオラが吐き突けた炎が至るところで燃え盛っていて、轟々と黒煙が噴き上がり、灰が舞っていた。
大量の瓦礫に埋め尽くされた基地の中では、兵士達が逃げ惑っている。攻撃したくとも、出来ないようだった。
武器を向ければ竜が吼え、戦闘態勢を取れば竜の尾が飛んでくる。そんな状態では、いくら軍隊でも無理だ。
レオナルドは遠巻きに混乱しきっている兵士達を眺めていたが、ふと、その中で動いていない者を見つけた。
直立不動の、巨体の機械人形だった。ずんぐりと丸い体形で、両手両足は太く、胸に青い魔導鉱石がある。
その機械人形は、レオナルドに気付いたようだった。兵士達の間を縫って、瓦礫を踏み越えて、近寄ってきた。
レオナルドが身構えると、機械人形は深く頭を下げてきた。重たい動きで上半身を上げてから、緑竜を指す。

「ふぃおの、ともだち?」

「というか、隣人だ」

レオナルドがぶっきらぼうに答えると、機械人形は抑揚の少ない低い声で喋った。

「だったら、ともだちのともだち。だから、う゛ぇいぱー、おれい、いう。ふぃお、みんな、たすけてくれたから」

「皆?」

「そう。みんな。みんな、しんでいたのに、みんな、まどうこうせきに、とじこめられて、ないていた」

ヴェイパーという名前らしい機械人形は、フィリオラを見上げた。とても、嬉しそうに見えた。

「だから、う゛ぇいぱー、みんな、たすけたかった。だけど、う゛ぇいぱー、どうぐだから、ひとのたましい、こわせない。だから、ふぃおのちから、かりた。ふぃおに、みんなみんな、こわして、たすけてもらった」

レオナルドは、目を見開いた。ヴェイパーの言っていることは要所だけだが、それでも概要はすぐに掴める。

「つまり、あの女は、死んだ奴らの魂が入った魔導鉱石に近付いたってことか!? あの体質のくせに!?」

「うん。う゛ぇいぱー、ふぃおを、みんなのところに、あんないした」

「お前のせいか木偶の坊! お前のせいで、あの女がどれだけ苦しんでいると思っているんだ!」

レオナルドに叫ばれて、ヴェイパーは一瞬身動ぎした。

「…ごめんなさい」

「謝るぐらいだったら、最初っからするんじゃねぇよ!」

レオナルドはヴェイパーに言い捨ててから、駆け出していった。躊躇いのない足取りで、竜へと向かっていった。
ヴェイパーは、その背を見送っていた。崩壊した倉庫の傍では、フローレンスが両腕を抱いてしゃがみ込んでいる。
フィリオラに流れ込んだ死者達の思念を、もろに受けてしまったのだ。辛うじて、全部は受け止めずに済んだ。
それでもフローレンスの心を乱すには強すぎて、フローレンスは動けなくなっていた。怯えきって、震えている。
ヴェイパーはフローレンスが心配でもあったが、それよりも、フィリオラがどうなってしまうのか気掛かりだった。
自分が差し向けた結果とはいえ、これは壮絶過ぎた。最初は、フィリオラに石を砕いてもらうつもりでいたのだ。
竜である彼女はフローレンスとまではいかなくとも感覚が鋭いので、死者達の意思を読み取れるはずだと思った。
その上で、意思を汲んで欲しいと思っていた。それだけだった。そして、ヴェイパーは彼らに従っただけだった。
異能部隊の所有物の機械人形である以上、部隊の兵士達の命令には従わなくてはいけないし、それが仕事だ。
だから、魔導鉱石を破壊して欲しい、という死者達の言葉のままに動いて、フィリオラをあの棚に案内した。
それが間違っているとは、思っていなかった。彼らがそう言うのだからそれが正しいのだ、と思っているのだ。
今回も、そう思っていた。破壊して欲しい、という死者達の願望を、フィリオラが竜となって叶えただけだ。
だからこそ、なぜレオナルドに怒られたのかよく解らなかった。謝ったのは、条件反射での反応でしかない。
ヴェイパーは、軽く握り締めていた左手を開いた。淡い光を放つ緑色の魔導鉱石が、巨大な手のひらにある。

「あるぜんたむ。しにたくない、って、いったから、あるぜんたむは、たすけたけど、それで、よかった?」

「サァーナァー。マジな話ィ、死んだ方が良かったかもシィーレネェーって思ったりもするケェドヨォー」

緑色の魔導鉱石の内側から、アルゼンタムはヴェイパーを見上げていた。

「ケェードー、オイラぁまだ死ぬわけにはイィカネェーンダァヨナァアアアア!」

「よく、わかんない」

首をかしげたヴェイパーにアルゼンタムは、うかかかかかかか、と高笑いした。

「オイラもワッカンネェヨォーウ」

アルゼンタムはヴェイパーの手中から、破壊されし尽くした基地を眺めていたが、爽快な気分になっていた。
この基地の雰囲気は、好きではなかった。ギルディオスの手からあの棚に移ってからは、息苦しかった。
死者達の絶望と苦しみを間近に感じて、己の過去を知りたいという願望が薄らぎそうなほどになっていた。
だから、破壊される様は心地良かった。もう、あの棚で物のように扱われずに済むかと思うと、気分が良い。
アルゼンタムはまた高笑いをしていたが、声を止めた。上空に、フィリオラとは違う竜の気配を感じたのだ。
視点を上げるよりも先に、ヴェイパーが見上げていた。視線の先には、竜の少女と甲冑と男が飛んでいた。
ギルディオスとダニエル、そしてもう一人。アルゼンタムは、美しく整った顔立ちの竜の少女を、見つめた。
視点を、外すことが出来なかった。





 


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