潮騒が、穏やかに二人を包んでいた。 傍らのフィリオラは、両腕を握り締めている。白い頬は西日で朱色に染まり、赤らんでいるように見える。 レオナルドは、その隣に座っていた。何度、フィリオラの肩に手を伸ばそうと思っても、出来なかった。 壊れて閉まらない扉の先には、夕焼けで煌めく海面が見えていた。波音に、小さくしゃくり上げる声が混じる。 異能部隊の基地島を出た後、最初はストレインの別邸に帰るはずだった。だが、途中で彼女は立ち止まった。 竜に変化したことによる肉体的な疲労と、今になっての罪悪感で、前に進むことが出来なくなってしまった。 なので二人は、海岸沿いにある小さな廃屋の中にいた。かつては住居だったらしいが、もうその名残はない。 埃を被って古びたベッドに座ったフィリオラは、背を丸めている。その隣で、レオナルドは海を見つめていた。 竜の姿でフィリオラがレオナルドに並べ立てた文句を、反芻した。思い当たる節が、あったりなかったりだった。 だが、その大半は恋心故の態度だ。目を合わせられないのも、近付かれたくないのも、悟られたくないからだ。 傍にいると、嫌でも鼓動は高まる。彼女の心情を考えるといいことではないが、このままでいたい気分だった。 何度も伸ばそうとしたが挙げられなかった右手を、握り締めた。竜であった彼女に、触れた感触が残っている。 滑らかで冷ややかな、トカゲのウロコだった。以前に触れた細い顎とは違い、柔らかさも温かさもなかった。 それでも、彼女は彼女だ。レオナルドが目線をフィリオラに向けると、フィリオラは涙を拭い、小さく呟いた。 「レオさん」 「なんだ」 レオナルドは声を落ち着けて、返事をした。フィリオラは赤らんだ目元を擦り、上目に見上げてくる。 「ありがとうございました」 「何がだ」 レオナルドが不思議そうにすると、フィリオラは上着の胸元を掻き合わせた。 「あんなこと、言われたの初めてでした。怒れ、なんて。いつも、怒っちゃダメって言われていたから」 「ああ、オレもだ。あんなこと、言ったのは初めてだ」 「はい。ですから、なんか、その、なんていうのかなぁ」 フィリオラは上着の裾を引っ張って白く滑らかな太股を隠そうとしたが、少しも隠れなかった。 「変な話ですけど、嬉しかったです。ああ、怒っても良いんだなぁって思って」 レオナルドは、フィリオラを見下ろした。フィリオラは体をこちらに傾げていたが、手を付いて踏み止まっていた。 「別に構わんぞ」 レオナルドが言うと、フィリオラは嬉しそうに頬を緩め、レオナルドに寄り掛かった。軽い体重が、掛かる。 「昨日はレオさん、逃げちゃったから。いけないのかなぁって思ってましたけど、いいんならいいですよね」 頭を傾けたフィリオラは、レオナルドの肩に乗せた。レオナルドはその距離のなさに、ぎくりとしてしまった。 服越しにも、フィリオラの頬の柔らかさが解る。甘ったるい花のような少女の匂いと、温もりが伝わってくる。 その上、フィリオラが着ている服は上着一枚で、前は締めていないも同然なので、起伏の少ない胸元が見えた。 レオナルドが内心で動揺していると、フィリオラはレオナルドの腕に縋ってきた。細い腕が、絡められる。 「それと、ごめんなさい」 フィリオラは、目を伏せる。 「一杯一杯、心配掛けましたから。また、一杯一杯、いけないこともしちゃいましたし、言っちゃいましたし」 破壊され尽くした基地と、逃げ惑う兵士達。苦しみを吐き出し続ける死者の魂達と、彼らを納めていた石の破片。 そのどれも、罪の証だ。今までで一番大きく、そして深い罪だ。フィリオラは、レオナルドの腕を抱き締める。 彼から嫌われていないと解っても、それでも怖かった。少しでも離れてしまったら、と思うと恐ろしくてならない。 レオナルドがいてくれるから、少し泣いただけで済んだ。一人であったなら、どうなってしまっていただろう。 上目に彼の横顔を見上げてみると、レオナルドは表情を固めていた。何かを考えているようにも、見える顔だ。 素肌には着心地の良くない上着からは、渋い煙の匂いがした。レオさんは煙草を吸うのかな、とちらりと考えた。 煙そのものであればむせてしまうので好きではない匂いだったが、僅かだけ感じるのであれば悪くなかった。 フィリオラは、レオナルドの体温を感じていた。竜の姿の時に触れてくれた手は熱かったが、今は温かかった。 それが、とても心地良かった。ああして竜になってしまった後でも、この人は、こうして傍にいてくれる。 ずっと、こうだったらいいのに。ずっと、レオナルドがこうだったら、もっともっと好きになってしまいそうだ。 フィリオラはそう思いながら、目を閉じた。とても幸せな気持ちになり、穏やかな笑みが口元に浮かんできた。 レオナルドは、落ち着いた様子のフィリオラを見下ろしたが、すぐに目を逸らした。白い肌が眩しすぎる。 どうかこのまま眠らないでくれ、と内心で願った。彼女が寝入ってしまったら、本当に理性が飛ぶかもしれない。 フィリオラは変化した際に身につけていた服の全てを破ってしまったので、下着は何も着ていない状態なのだ。 上着さえ脱いでしまえば全裸だし、その上着は大きさが合わなくて前も下も緩い。かなり、無防備なのだ。 礼儀正しくぴったりと閉じられている白い太股は艶やかで、上着の裾で辛うじて付け根の当たりは隠れている。 動かないでくれ、とも思わずにはいられない。裾が少しでもはだけてしまったら、下が絶対に見えてしまう。 だが、気を逸らそうとすればするほどそちらが気になる。レオナルドは情けなくなって顔を押さえ、項垂れた。 すると、フィリオラは目を開けた。必死に欲情を押し止めているレオナルドを見上げ、不思議そうにする。 「どうしたんですか、レオさん」 「なんでもない。本当に、なんでもない」 レオナルドが押し殺した声で答えると、フィリオラは身を乗り出してくる。 「あの、レオさん」 「なんだ」 「ここじゃちょっと寒いので、そっち、行ってもいいですか?」 フィリオラは眉を下げて首をかしげ、見上げてきた。レオナルドは逆らえるはずもなく、即座に頷いた。 それでは、とフィリオラはレオナルドの腕を放すと、体をずらしてレオナルドの足の間に腰を下ろした。 レオナルドが動転している間に、フィリオラは彼の胸に背中を預け、身を縮める。少し、拗ねたように言う。 「だって、寒いんですもん」 「お前なぁ…」 レオナルドは呆れ果ててしまい、深くため息を吐いた。腰を後ろに下げ、彼女との間隔を開けた。 「いい加減に警戒心を持て、警戒心を。どうしてそう、オレに近付きたがるんだ」 「レオさんだからですよぉ」 フィリオラはレオナルドの胸に後頭部を当てると、真下からレオナルドを見上げた。 「せっかく近付いても怒られないようになったんですから、近付かないと損だと思うんです」 「全く」 レオナルドは苦々しげに笑い、フィリオラの肩に腕を回して引き寄せた。これぐらいなら、いいと思った。 「後でどうなっても知らんぞ」 「どういう意味です?」 「解らなくていい」 レオナルドは、素っ気なく返した。フィリオラは彼の腕を掴むと、むくれる。 「じゃあ、余計に知りたくなりましたー。ちゃんと教えて下さい」 「しつこいぞ」 「レオさんほどじゃありませんよーだ」 フィリオラは唇を尖らせて、頬を膨らませた。レオナルドは真下にある短いツノの生えた頭を、見下ろした。 手の中には、小さな肩がある。胸には、重みのない体重が掛かっている。力を込めて、抱き竦めてしまいたい。 だが、まだそこまでは出来ない。ちゃんとした態度を示していないのに、力任せに事を進めてはいけない。 泣かせてしまいたくはないし、悲しませたくもない。レオナルドは黒に近い緑髪の間から突き出た、ツノに触れた。 思い掛けないことに、フィリオラは瞬きしている。その表情が愛らしくて、胸を満たしている痛みが熱くなる。 レオナルドは、小さなツノに唇を寄せた。硬くもあるが少し温かなツノに、微かに触れるだけの口付けをした。 フィリオラは、何をされているのかすぐには理解出来なかった。ツノの生えている場所の傍に、彼がいる。 そして、触れている。ツノそのものに触覚はなくても、感覚的に解った。何で触れられているのかも、解った。 途端に、フィリオラの鼓動が速まった。とても気恥ずかしくて照れくさくなって、頬が勝手に紅潮してしまう。 どうしよう、どうしよう、と思うばかりで思考はまるでまとまらない。強い緊張が関節を固め、動けなくなった。 レオナルドの言葉の意味が掴めたと同時に、動揺していた。まさか、とは思うが、そうとしか思えなくなった。 フィリオラは、唇を震わせた。冷え切っていたはずの体は緊張で熱く火照ってきて、どくどくと胸の内が痛い。 「れお、さん」 「すまん」 レオナルドは顔を上げてフィリオラから離れ、顔を逸らした。唇に残ったツノの感触を消すように、押さえた。 フィリオラは背中を丸めて胸の前で両手を組み、ぎゅっと目を閉じた。白かった頬は、朱色に染まっている。 固く目を閉じたフィリオラは、泣きそうにも見えた。レオナルドは罪悪感が湧いたが、後悔はしていなかった。 フィリオラは、上着の上から胸を押さえた。今までにないほど、心臓が激しく動いており、その音がうるさい。 二人に聞こえているのは、自分自身の鼓動と波音だけだった。 日が暮れた頃、ブラッドは夜空を見上げていた。 なかなか、レオナルドはフィリオラを連れて帰ってこない。心配でもあったが、捜しに行く気にはならなかった。 待っていろ、というレオナルドの言葉に従った方がいい、と思ったからだ。ベランダから、星空を見つめていた。 白亜の邸宅は、藍色の闇に沈んでいる。ブラッドはベランダの手すりに腰掛けて足を揺らし、南西に目を向けた。 昼間、南西側にある島で、緑竜が暴れていた。それがフィリオラであることは、ブラッドは感覚で理解していた。 荒々しい猛りや気配などで、解っていた。少なくともフィリオラが無事であると解り、多少なりともほっとした。 そして、市街地へと目をやった。ずらりと並んでいる背の高い高層建築の窓からは、柔らかな光が零れていた。 街は、突然現れて暴れ回った竜のおかげで大分混乱していた。戦争が起きるのでは、との噂も聞こえたほどだ。 竜が破壊した場所が軍の基地だったので、余計に噂は誇張されていることだろうが、すぐに粛正されるだろう。 軍が事実をねじ曲げてしまうのは良くあることだし、今回のようなあからさまな大事であれば尚のことだ。 ブラッドは、冷えてきた夜風に闇のようなマントをなびかせていた。開け放した扉の前で、足音が止まった。 振り返ると、部屋に入るか入るまいかを迷っている、ルーシーが立っていた。ブラッドは、眉根を歪める。 「来るなら来たら?」 ルーシーは躊躇っているようだったが、恐る恐る歩み寄ってきた。ブラッドは、ベランダの手すりから下りる。 「で、何の用?」 ルーシーは、明らかに怯えているようだった。取り繕った笑顔は浮かべているが、目線は彷徨っている。 ブラッドは、それが癪に障った。フィリオラを恐れているのだろうが、この態度はないだろうと思ってしまった。 「そんなにフィオ姉ちゃんが帰ってくるのが怖い?」 ブラッドは、嫌悪感を剥き出しにして顔を歪める。 「そりゃ、フィオ姉ちゃんはあんたと違って本物のドラゴンだよ。けどな、そこまで怖かねぇよ」 「だけど、あの子は」 声を震わせたルーシーにブラッドは、けっ、と変な声を出した。 「だから何だってんだよ。そんなの、あんたが勝手に怖がってるだけじゃねぇか」 「あなたは解っていないのよ。あの子がどれだけ恐ろしいか!」 引きつった声を上げたルーシーを、ブラッドは目一杯睨んだ。 「そっちこそ解ってねぇ。なんにも解ってねぇ。ここんとこあんたをずっと見てたけど、すっげぇ変だよ。フィオ姉ちゃんが近付くときだけへらへらして、ちょっと離れたらびくびくして、そんなんじゃフィオ姉ちゃんが可哀想じゃねぇか!」 「仕方ないでしょう! そうしなきゃ、私達はあの子に殺されて」 「だから、それがいけねぇんだよ!」 ブラッドは小さいが鋭い牙を剥き、ルーシーに力を込めて怒鳴った。 「フィオ姉ちゃんが人を殺したことなんてあったのかよ、そんなことあるわけねぇだろうが! ちったぁ信用しやがれ、実の妹なんだろ! なのに、あんたと来たらフィオ姉ちゃんをお客みたいに扱ってさ、ちっともフィオ姉ちゃんを家族扱いしてねぇじゃねぇか! そんなんじゃ、良くないに決まってんだろうが!」 ブラッドに気圧されたルーシーは、半歩下がった。ぐっと手を握り締めると、ブラッドに言い返す。 「あれをどう家族扱いしろってのよ! ギルディオスさんがいなきゃ、大御婆様があれを置いておけって言わなきゃ、とっくに外へ放り出していたわよ!」 ルーシーのいきり立った言葉に、ブラッドはぎょっとした。言うに事欠いて、フィリオラをあれと呼び捨てた。 ブラッドは、憤りでぎりぎりと歯を食い縛った。己の牙が唇に食い込む痛みがあり、真新しい血の味がした。 「…そりゃあ、ねぇだろう!」 「子供の分際で、解ったふうな口を利くんじゃないわよ。あんなトカゲと付き合うなんて、最初から無理なのよ」 ルーシーは、歪んだ笑みを作った。ブラッドはずかずかと彼女に歩み寄ると、思い切り叫んだ。 「無理じゃねぇ! 最初から無理だって決め付けてりゃ無理だろうけどな!」 力一杯拳を握り締めたブラッドは、肩を上下させた。身長が足りていれば、迷わずルーシーを殴っていただろう。 どうして、血を分けた家族なのにこんな態度を取るのか、解らなかった。理解したくもないし、出来なかった。 通りで、フィリオラが家族の話をしないわけだ。一度だって彼女は、自分から家族の話をしたことはなかった。 こんなもの、家族でもなんでもない。余所余所しい態度の他人の中に、危険物扱いされて暮らしていただけだ。 よくもまあ、こんな状況でフィリオラが歪まなかったものだ。ブラッドは血の滲んだ唇を舐め、背を向けた。 ルーシーが安堵しているのは、見なくても解った。それがまた腹立たしくて、ブラッドはむかむかして仕方ない。 結局、人外は全て恐ろしいと思っているのだ。少しでも人と懸け離れているだけで、おぞましいと決め付けている。 ストレイン家の先祖のカインは、半竜半人のフィフィリアンヌを愛した素晴らしい人間かもしれないが、末裔は別だ。 ブラッドは急にルーシーへ振り返ると、大股に近付いた。後退ろうとするルーシーの、手首を掴んで強く握る。 「何怖がってんだよ。オレはあんたなんか死んでも喰いたくねぇよ。腹が壊れちまうからな」 顔を引きつらせたルーシーを見上げ、ブラッドは牙を剥いてみせる。 「だがな、それ以上フィオ姉ちゃんを悪く言ったら、考えないでもないんだぜ?」 「どうして、どうしてあんた達はあんな化け物に深入りするのよ! そんなの、イカれてるわ!」 必死の形相で叫んだルーシーに、ブラッドは声を落とし、なるべく邪悪げな口調で言った。 「イカれてんのはどっちだよ」 「触らないで穢らわしい!」 ルーシーはなんとかブラッドの手を振り解くと、廊下に駆け出した。おぼつかない足音が、遠ざかっていった。 ブラッドはズボンの裾でルーシーの手首を掴んだ手を何度も拭うと、けっ、とまた変な声を出して吐き捨てた。 ブラッドは再びベランダへと戻ると、手すりに昇って腰掛けた。ルーシーの言葉を忘れたかったが、無理だった。 あれが、本当に家族なのだろうか。家族というものは、温かくて愛情に満ちているものだとずっと思っていた。 ルーシーの態度が上辺だけであるというのはすぐに解ったが、根底にはちゃんと愛情があるのだと信じていた。 だが、彼女はフィリオラを妹どころか人間として見ていない。ブラッドは苛々してきて、手すりを殴り付けた。 白い石柱の手すりは壊れもせず、拳だけが痛くなった。だが、フィリオラの受けた痛みはそんなものではない。 早く、フィリオラに帰ってきて欲しい。レオナルドと一緒に戻ってきたら、すぐにここを出るように言おう。 白いだけで中身のない邸宅になど、これ以上いる意味はない。一刻も早く、外へ出てしまいたくて仕方なかった。 夜空には、青白い月が光っていた。 廃墟の基地を、月光が照らし出していた。 六つ並んでいた倉庫は、特に激しく破壊され尽くされていて、まともな建物はおろか壁すらも残っていなかった。 焼け焦げた土から独特の匂いが立ち上っていて、さながら戦場のようだったが、血の匂いはしていなかった。 基地の中に燻っていた火は全て消されたが、至るところが黒く煤けていた。灰色の中に、黒が散らばっていた。 灰色の壁の破片を押し退けると、砕け散った魔導鉱石が出てきた。瓦礫だけでなく、竜の足でも破壊されている。 ギルディオスは、その艶やかな魔導鉱石の欠片を手にした。小さな青い破片を握り締めると、簡単に砕け散った。 瓦礫の中に立つ上官を、巨体の機械人形が見下ろしていた。ヴェイパーは、剣を背負った甲冑の背に、言った。 「たいちょう」 「ありがとな、ヴェイパー」 ギルディオスはガントレットに残った色鮮やかな細かい破片を見下ろしていたが、背後の機械人形に振り向く。 「アルゼンタムを助けてやってくれてよ」 「あるぜんたむ、しにたくない、って、いったから。だから」 ヴェイパーが答えると、ギルディオスは少しばかり笑ったような声を出した。 「そうか」 言葉を交わす異形の者達を、ダニエルは遠巻きに見ていた。溶けて歪んだ門に寄り掛かり、腕を組んでいた。 破壊が終わると、静かになった。いつもであれば塀に阻まれていた波の音も、壊れた今では良く聞こえる。 壊れに壊れた箱庭の中では、兵士達はそれぞれで事態を飲み込もうとしていた。皆、押し黙っていた。 ダニエルは、ギルディオスを眺めていた。表情が出ないはずの甲冑は、いつになく、痛々しく見えた。 彼が、死者達の魂が込められた魔導鉱石を処分していれば、フィリオラは取り憑かれることはなかった。 フィリオラを攫わなければこうはならなかったし、先に魔導師協会の意見を受け入れていてもこうならなかった。 だが、後悔しても何も元には戻らない。破壊された基地も、開かれた外への出口も、外への羨望の感情も。 レオナルドが、羨ましくてならなかった。彼の勇気も行動力も、そして立場も、どれもダニエルにはないものだ。 長い間、燻っていた感情は表に出てしまった。実際、魔導師協会の会長室で、口に出そうとしてしまった。 出来ることなら外へ出たい。出来るならば、軍人でない生き方もしてみたい。だがそれは、言えず終いだった。 ダニエル自身が築いてきた異能部隊副隊長としての立場と、軍人としての理性が邪魔をしてしまったのだ。 表向きではギルディオスに従って、彼の指示のままに異能部隊を守るべく動いていたが、本心は別だった。 ここ最近、ギルディオスに対して刃向かうような言動を取ってしまっていたのも、それが原因なのだろう。 噛み合わない体面と本心に合わせ、元から潜んでいた僅かな野心のようなものが、全面に現れていたのだ。 人としては素晴らしいが軍人としては甘いギルディオスを越えて、異能部隊に相応しい隊長になりたかった。 それ故に冷徹になり、感情を以前にも増して押し殺すようになっていたが、レオナルドはそれすらも破壊した。 ダニエルは、外へ出たくてたまらなかった。フィフィリアンヌが言っていたように、未来を切り開いてみたくなった。 そして、レオナルドと会って、色々と話がしてみたい。かつての少年が、どんな男に成長したか知りたくなった。 様々な欲求が溢れてきて、ダニエルは笑いそうになった。そんなに押さえ込んでいたのかと思うと、可笑しくなる。 ダニエルの傍に、フローレンスがやってきた。顔色はあまり冴えていなかったが、足取りはしっかりしていた。 「副隊長」 フローレンスは快活さを失っていて、力なく漏らした。 「あたし達、これからどうなるのかな。どこに行けば、いいのかな」 悲痛な面持ちのフローレンスは、項垂れた。ダニエルはその言葉に返す言葉を、すぐには思い付けなかった。 自由ではなくとも、最低限のものは揃っていた場所だった。仕事もあり、寝床も食事もあり、仲間もいた。 だが、その全てが破壊された。救いとなるはずだった竜の少女によって、何もかもがぶち壊しになってしまった。 灰色の塀の内側で、壊されていないのは人間だけだ。あれだけの大事だったのに、彼女は誰も傷付けなかった。 それに内心で感心しながら、ダニエルは門の外へと目をやった。ぐにゃりと曲がった鉄格子の先に、海が見える。 今度も、彼は外へ出ていった。だが、またそれを追えなかった。ダニエルはレオナルドの行く末を、考えてみた。 竜の少女の手を取って、彼はどこへ行ったのだろうか。二人が歩いて行く先には、灰色の箱庭などないのだろう。 ダニエルは、フローレンスを見下ろした。フローレンスの見事な金髪は乱れていて、砂埃に白く汚れている。 「お前は、どうしたいんだ」 「え」 フローレンスは、ダニエルらしくない言葉に驚いた。普段であれば、他人を見下ろした言葉しか言わないのに。 部下に意見を求めることなんてなかったし、威圧感のある態度を取っていた。それが、当たり前だったのだ。 フローレンスが答えに詰まっていると、ダニエルは穏やかな声を出した。彼の目は、門の外へと向けられていた。 「私は、外へ出ようと思う」 「だけど、外は」 フローレンスは、肩を縮めた。外へ出れば、見知らぬ人間達の身勝手な思念を読み、苦しむ日々がまた始まる。 ダニエルは、藍色の夜空を眩しくさせている月明かりの下、笑っていた。軍人の顔では、なくなっていた。 「せっかく、あの無謀な男が外への出口を開けてくれたんだ。出なくては、勿体ないだろう」 「けど、副隊長。あなたは、異能部隊を守る気でいたんじゃ」 急に考えを変えたダニエルが不思議で、フローレンスは変な顔をした。ダニエルは、少し笑い声を上げる。 「気が変わったんだ。それだけだ」 「なんか、らしくないですよ」 「私も人間だ。そしてお前も人間だ。気が変わることぐらい、あってもいいだろう」 「そりゃまぁ、そうかもしれませんけど」 そうは言ったものの、フローレンスは釈然としていなかった。本当に、職業軍人であるダニエルらしくなかった。 余程、あのレオナルドという青年に感銘を受けたのだろう。だが、そう考えたにしても、早急すぎておかしい。 思念を読めば理由が解るのだろうが、今度も彼の心は読めなかった。解るのは、嬉しそうだと言うことだけだ。 ギルディオスは、歪められた門の傍に立つ二人を見ていたが、歩き出した。もう、これ以上ここにはいられない。 瓦礫を蹴飛ばして、がしゃがしゃと金属音をさせながら歩いていく。その後ろに、巨体の機械人形が続いた。 門の手前までやってくると、立ち止まった。ダニエルとフローレンスに背を向けてから、兵士達を見渡した。 「おい、お前ら」 上官の声に、彼らは条件反射で振り向いた。ギルディオスは肩に引っかけていた赤い軍服を、肩から外した。 「ここから先は、お前らが決めろ。オレは何も命令しねぇ」 軍服を脱いだ甲冑は、張りのある声を発する。 「外へ出るか、中に残るか、それとも別の部隊に行くか。他にも、色々と選択肢はある」 兵士達が顔を見合わせたりしているのを見、ギルディオスは軍服を高々と放り投げ、背中から剣を引き抜いた。 「オレは、こうだ」 直後。銀色の一線が、赤い軍服を切り裂いた。上下に分かれた軍服はひらひらと舞いながら、瓦礫に落ちる。 ギルディオスは剣先を下げ、がっ、と階級章に突き立てた。翼に挟まれた星一つ、少佐の証が貫かれた。 「ありがとな。ずっと、オレに付き合ってくれて。だが、もういい。もう、これ以上は無理なんだ」 ギルディオスは剣を鞘に収めると、赤いマントを付けた背を部下達に向けた。 「頭ぁ冷やしてみたら、フィルの言う通りなんだよな。今だけお前らの居場所を作ったって、いつかは壊れちまうもんなんだ。放っておいてもこの国は戦争をやらかすだろうし、そうなったらお前らが死んじまうのは確実だ。だが、死ぬときぐれぇは、兵隊じゃない方がいいに決まってるよな。お前らは立派な人間なんだから、お偉いさんの道具なんかじゃなくて、人として生きていた方が幸せなんだよ」 「そんな…」 気力の抜けた呟きが、兵士の一人から漏れた。ギルディオスは俯く。 「ああ、無責任もいいところさ。けどな、そうするべきなんだよ。そうしなきゃ、いけねぇんだ」 「隊長がいなくなったら、部隊がなくなったら、明日っからどうしていけばいいんですか!」 立ち上がった兵士は、ギルディオスの背に叫んだ。 「せっかくオレの力をまともに使える場所を見つけたのに、それをなくしてしまうんですか!」 「力なんざ、使いようでどうにでもなるもんだぜ。どうすりゃいいかなんてことは、自分で考えろや」 ギルディオスは、こんこん、と側頭部を小突いてみせた。 「オレのは空っぽだが、お前らの頭にはしっかり中身が詰まってるし、足も手も二本あるじゃねぇか。違うか?」 あばよ、とギルディオスは後ろ手に手を振った。ダニエルと擦れ違い様に、滑らかなヘルムが向けられた。 そこに映った男の顔は、見たこともない顔をしていた。それはやけに柔らかで、別人に思えるほどだった。 ギルディオスの背は遠ざかり、そして見えなくなった。藍色の闇の中に、潮騒の奧に、甲冑は消えていった。 兵士達は、誰も追おうとはしなかった。追いかける素振りを見せた者もいたが、結局は足を止めている。 箱庭に出来た出口は、もう閉じることはない。ダニエルは崩れかけた塀から背中を外すと、歩き出した。 外へと、足を進めた。 異能者達を囲んでいた箱庭は、姫君によって砕かれる。 破壊に次ぐ破壊の末に訪れたのは、別の場所への出口だった。 人でない人であった彼らに与えられたのは、人としての自由と、そして。 無限大の、未来なのである。 06 1/14 |