ドラゴンは眠らない




月下の廃墟



ダニエルは、瓦礫の上にいた。


彼の周囲には、月明かりの青白い輪郭を帯びた壁の破片が浮かび上がっており、音もなく宙に留まっている。
その中心に、ダニエルは立っていた。積み重なった瓦礫の頂点に、表情もなく、目を見開いて直立していた。
基地は塀をほとんど失っているため、潮風がもろに吹き付けてくる。襟や服の裾が、体に叩き付けられて鳴る。
視線を動かしてみても、動く者は目に入らない。竜の少女が破壊し尽くした後に、兵士達は外へ出て行った。
ギルディオスが、彼らに未来は己で決めるよう命じたからでもあるのだが、彼らの願望だったのかもしれない。
ダニエルも外へは出たのだが、また基地に戻ってきていた。どうしても、探しておきたいものがあったのだ。
目線を下に向け、浮かばせた瓦礫の下をぐるりと見回した。だが、求めているものはそこには見当たらなかった。
ダニエルは落胆し、片手を下ろして念動力の放出を止めた。浮かんでいた瓦礫は一塊になり、落下した。
どん、と軽い震動が起き、砂埃が舞い上がった。砂埃が潮風ですぐに掻き消されると、その向こうが見えた。
崩れた倉庫の傍に、座り込んでいる姿があった。巨体の機械人形と隣り合い、作業服姿の女が膝を抱えていた。
フローレンスの青緑色の瞳は、虚ろだった。隣に座るヴェイパーは、心配げに上半身を傾げて彼女を覗き込む。

「ふろーれんす。そと、いこう。みんな、そと、いった」

「行きたきゃ行きなさいよ、あんただけ」

投げやりな態度で、フローレンスは言い返した。ヴェイパーは、ぎちり、と顔を上げてダニエルに向いた。

「ふくたいちょう」

ダニエルは別の瓦礫を持ち上げようとしたが、念動力を切った。浮かび掛けた瓦礫が、静かに落ちる。

「そっとしておいてやれ、ヴェイパー」

「でも」

ヴェイパーが悲哀を滲ませた声を出すと、ダニエルは首を横に振る。

「私にもフローレンスの気持ちは解る。だから何もするな、ヴェイパー。命令だ」

「りょうかい」

ヴェイパーは敬礼し、上半身を戻して崩れた壁に寄り掛かった。フローレンスは、震える唇を噛み締めていた。
フローレンスの心中は、裏切られた、という気持ちで一杯だった。ギルディオスに、隊長に、捨てられた。
あれだけ、この部隊を守り抜くと言っていたのに、それをあっさり覆した。それが、どうしても許せなかった。
信じていたのに。信じていたからこそ、許せなかった。噛み締めた唇が僅かに切れて、血の味が口中に広がる。
ギルディオス。彼は、初めてまともに接してきてくれた相手であり、初めて子供として扱ってくれた人だった。
本当の父親のように思えて、彼もまた本当の娘のように愛してくれた。それが、とても幸せで嬉しかった。
物心付いた頃から、親からは避けられていた。恐らく、記憶がないほど幼い頃に、両親の心を読んだのだろう。
そのせいで気味悪がられ、触れられることは滅多になかった。だからこそ、ギルディオスに撫でられて幸せだった。
一生、この人の娘でいたい。何があっても、この人に付いていく。命を捧げることも、惜しまないとすら思った。
なのにギルディオスは、全てを放り出した。部下も、基地も、皆からの信頼も、何もかもを投げ捨てていった。
頭ごなしに罵倒したいとも思ったが、言葉が出てこなかった。今まで一度も彼を、罵ったことなどないからだ。
フローレンスは、怒りと共に空虚感に苛まれていた。明日からどうすればいいのか、まるで解らないからだ。
夜空が白んで日が昇り、朝が訪れたら、どうやって生きていけば良いのだ。普通の生活など、ほとんど知らない。
目線を上げてみると、ダニエルは黙々と瓦礫を浮かばせている。それを砕いたりすることもないので、静かだ。
一体、彼は何を探しているのだろう。フローレンスは目元に滲んだ涙を拭い、ダニエルの思念を読んでみた。
だが、やはり読めなかった。フローレンスは少し悔しくなったが、精神感応の力を強めることもしなかった。
あまり他人の心を読んでも、面白くはない。フィリオラの思念を読んだのは、彼女に力を示すためだった。
異能部隊という場所はどういうところなのか、異能部隊にいるということはどういうことなのか、教えるためだった。
それぞれが持って生まれた特異な力を、際限なく発揮出来る素晴らしい場所。そういう意味で、力を使った。
しかし、フィリオラにそれを教える前に、彼女は全てを破壊した。フィリオラにも、裏切られたような気分だった。
部隊に希望をもたらすはずだったのに、この場所を守ってくれるはずだったのに、仲間になるはずだったのに。

「…なんで、壊しちゃったのよ」

フローレンスは、苦しげに漏らした。

「なんで、全部全部壊しちゃったのよ!」

「全てではない」

ダニエルが呟くと、フローレンスは立ち上がって声を荒げる。

「全部じゃないの! 基地も、あたし達の期待も、何もかもぶち壊しにされたじゃないの!」

「何もかもではない。私達はこうして生きているではないか」

ダニエルの淡々とした口振りが、フローレンスの苛立ちを煽った。

「生きていたって、どうしようもないじゃない! あたし達が暮らせる場所なんて、どこにもないじゃないのよ!」

「探しもしないで、そんなことは言うものじゃない」

ダニエルは大きな瓦礫に手を向け、念動力を放った。見えない手で持ち上げられるかのように、瓦礫は浮かぶ。

「フローレンス。お前は人の心は読むくせに、他のことは何も見ていないな」

「何が言いたいのよ」

フローレンスが唇を震わせると、ダニエルは彼女に目を向ける。

「あの男、レオナルド・ヴァトラスを見ていなかったのか。あいつは、私達と同じだ。だが、外で生きている」

「あの人は、特別なんでしょ」

「能力は我々の中でもずば抜けていたが、人間としては特別でもなんでもないな。根は心の優しい男なんだが、万年反抗期というか、機嫌が悪いのが常だった。そんな性格だから異能部隊にいた頃もそれほど友人はいなかったし、怒ればその分念力発火能力の出力も増してしまうせいで、異能部隊の中でも多少遠ざけられていたほどだ」

ダニエルが手を上げると、瓦礫は徐々に持ち上がっていく。巨大な破片に、淡い月明かりが遮られる。

「だが、外へ出た。どうしても逃げ出したかったんだそうだ。全く、今も昔も無謀な男だよ」

「だけど、あの人、刑事で魔導師って話じゃなかった? そんな経歴、知らなかったわよ」

フローレンスが訝しむと、ダニエルは浮かべていた瓦礫を離れた位置に落とした。ずん、と衝撃と共に砂埃が舞う。

「無理もないさ。二十年以上異能部隊にいないと、知らないことだ。レオがここにいたのは、二十一年前から十九年前までの二年半程度だし、お前が入隊したのは十五年前だ。知らないのが当然だ」

「でも、あんなに凄い力の持ち主なのに、どうして軍は、レオナルド・ヴァトラスを連れ戻さなかったわけ? その頃、隊長は異能部隊にいなかったの?」

「隊長は異能部隊にいたにはいたんだが、二十五年前にある失態をしたとかで、十五年ほど前まで左遷されていたんだ。軍は、レオを連れ戻せなかったのさ。私も何度か彼の確保に出動させられたが、捕まえられなかった」

ダニエルは瓦礫を浮かべる作業を一旦止めて、フローレンスに向き直った。

「捕まえようとするたびに、隊員が何人も燃やされてね。私も、何度か死にそうになったほどだ」

「だから、手出し出来なくなったの?」

「そうだ。危険すぎるからな。ならば殺そうかという話も少し出たんだが、それは当然ながら隊長が反対した」

ダニエルは瓦礫の上に腰を下ろし、足を組んだ。妙に悠長な語り口で、炎の力を持つ男の過去を話した。

「外へ出たレオは、ヴァトラス家に戻ってもやはり人として扱われなかったらしい。唯一、まともに接してくるのは兄であるリチャード・ヴァトラスぐらいだったそうだ。だが、兄が魔導師となってヴェヴェリスに留まるようになると、レオは再び一人になった。十代前半は、ひどく荒れたそうだ。ほぼ毎日ケンカに明け暮れて、生傷が絶えなかったらしい。だが、レオが十四歳になったある日、転機が訪れる。旧王都のヴァトラスの屋敷に、隊長がやってきたんだ。あの竜の末裔、フィリオラ・ストレインを連れてな」

ダニエルは言葉を一度切ってから、また続けた。

「隊長は、境遇の似た二人は仲良くなれると踏んだらしいんだが、そうでもなかったらしい。レオはフィリオラが隊長を従えて使役していると思って毛嫌いしたし、フィリオラも態度の悪いレオが怖くて、嫌いになったそうだ。だが、レオにとっては、悪くない出来事だった。八つも年下なのに魔法に長けているフィリオラが妬ましくなったのか、それとも似たような境遇の彼女に負けたくなかったのかは解らないが、恐ろしい勢いで勉強に励んで、魔法大学に受かり、そのまま一直線に魔導師免許を取得した。そして、荒れることもなくなった。隊長は、レオは魔導師になるものだと思っていたが、レオは別の道を考えていたんだ。今まで散々世の中に迷惑を掛けたのだから今度は奉仕するのが筋なんだ、と言って刑事になったそうだ。そう、以前に隊長から話を聞いたことがある」

「でも、それは、レオナルド・ヴァトラスが強いからじゃ」

「確かにレオは強いが、そう特別に強いわけじゃない。実際、一度は過去と自分に負けて荒れているからな」

ダニエルは、レオナルドの炎の力で歪められた門を見上げた。太い鉄柱が、奇妙に歪んで鈍く光っている。

「だが、レオはこうして我々に刃向かうほど強くなっている。それは、レオが生き続けていたからだ。生きている限り、未来なんてどうにでもなるという見本のような男だ」

不意に、足音がした。金属の擦れ合う重たい足音が、砕けた石と砂を踏み締めながら近付いてきていた。
覚えのある歩調、そして影。フローレンスは歪んだ門へと振り向いたが、苦々しげに顔を歪めて目を逸らした。
ダニエルは、そちらに向いた。青白い光を受けて銀色の装甲を輝かせた大柄な甲冑、ギルディオスが立っていた。

「隊長」

「よう」

ギルディオスは、いつもと変わらぬ挨拶をした。躊躇いのない足取りで、廃墟の基地へと踏み入ってきた。

「お前ら、何してんだ?」

「私は捜し物です。フローレンスは現実逃避で、ヴェイパーはその付き添いです。隊長は?」

ダニエルに問い返され、ギルディオスはがりがりとヘルムを掻いた。

「ん、ああ。ちょっとな」

フローレンスは、様々な思いが入り混じった目でギルディオスを睨んでいた。拳を握り締め、肩を小さく震わせる。
ギルディオスは、フローレンスの目線に気付いた。がしゃがしゃと歩いて近付いていくと、彼女は後退する。
フローレンスはヴェイパーに背中を当て、肩を上下させた。ギルディオスは彼女の前を塞ぐように立ち、見下ろす。

「フローレンス」

「…う」

色々なことをぶつけてやろうと思っていたが、言葉として出てこなかった。フローレンスは、涙が滲んできた。
なんで裏切ったの、どうしてあたし達を捨てたの、どうしてなのよ。言葉ばかりが、胸中を渦巻いている。
口に出そうとしても、出来なかった。ぼたぼたと涙を落とすフローレンスを、ギルディオスは腕の中に納めた。

「すまねぇ」

頬に押し当てられた装甲は冷たかったが、奥底から熱が滲み出ていた。フローレンスは、上官の胸に縋る。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、何一つとしてまとまらなかった。拳を握り、厚い装甲を殴り付けた。
がしゃん、と装甲が殴られて揺れ、ギルディオスはフローレンスを抱く腕に力を込めた。甲冑は、項垂れる。

「だがな、これが正しいって思ったんだ。お前らを守るためには、生かすためには、これが一番だって思ったんだ。最初は本当に、フィルの奴と相打ちになる覚悟ですらあったんだ。何が何でもお前らを守り抜いて、居場所を守ってやるって思っていたんだ。けどな、フィオが大暴れしてるのを見たら、その原因が何だか解ったら、目ぇ覚めたんだ。オレぁよ、ちょいと思い違いをしていたんだ。居場所ってのと、いる場所ってのは違うものなんだよな。オレはお前らに居場所を作ってやってたつもりだったんだが、そうじゃなかったんだよな。いつのまにか、皆が皆同じようなもんだと思って、一括りに考えちまってて、お前らが一人一人で別の人間だっつうのを、忘れちまってたんだ。力を使えて暮らせる場所さえあれば皆が幸せなんだとか、馬鹿なこと考えてたんだな」

ギルディオスは、静かながら苦しげに話していた。

「死んだ連中の魂も、そうなんだとか思っちまっててよ。オレは死んでも生きていて、それが幸せだから他の連中もそうに違いねぇとか思っちまったんだ。けど、違うんだよな。皆が皆、死んでも生きたいわけじゃねぇ。死ぬことで楽になれる奴もいるし、死にたかった奴もいるだろうし、死んでいることが苦しくて仕方ねぇ奴もいるんだよな。お前らもそれと同じなんだよ。幸せってやつはよ、一人一人で違うもんなんだもんな」

フローレンスが拳を固く握り締めていると、ギルディオスは冷たいマスクを彼女の金髪に触れさせる。

「オレは幸せだったんだよ。お前らを部下にして、子供みてぇなのが一杯出来て、凄ぇ幸せだったんだ。けど、お前らが幸せだったとは限らねぇ。事実、レオの野郎はここから逃げ出したし、今だって他の連中は全部外に出ちまってるもんな。フィオも、ここに来たら幸せになるんだと思ってたが、そうじゃなかったもんな。あいつはあいつで、ちゃんと生きているんだしな。しっかり生きていられりゃ、それが一番幸せなんだもんな」

ギルディオスはフローレンスの髪を、ぐしゃりと乱暴に乱した。

「悪かったな。オレの勝手な我が侭に、ずうっと付き合わせちまってよ」

フローレンスの頭から手を外したギルディオスは、潔く、言った。



「本当に、すまなかった」



その言葉を最後に、ギルディオスは押し黙った。鋼で成された体の重みが、フローレンスにのし掛かってきた。
中身がないとはいえ、その重量はかなりのものだった。フローレンスは押し戻そうとしたが、戻らなかった。
ギルディオスは、崩れ落ちそうな体をフローレンスによって支えているのだ。それに気付くまで、少し掛かった。
それはまるで、彼の罪の重さのように思えた。読もうと思わなくとも読めてしまう思念が、頭に響いてくる。
取り返しの付かないことをしちまった。誰も悪くない、悪いのはオレだ。間違っていたのは、オレだけだったんだ。
フィルにはやっぱり勝てねぇや。オレは負けてばっかりだ。全く、佐官になった程度で思い上がりもいいところだ。
他にも、様々な感情が渦巻いていた。どれもこれも痛々しく、フローレンスにとっては初めて知る彼の弱さだった。
ギルディオスは、絶対だと思っていた。中世から生き長らえている不死身の存在で、どんな者よりも強いのだと。
けれど。過ちを犯し、それを悔いて苦しんでいる。フローレンスはひどく落胆すると同時に、ほんの少し安堵した。
彼が真正面から謝ってくれたことで、本当に僅かだが気が楽になった。苦しいのは、どちらも同じなのだ。
ギルディオスの過ちをすぐに許せはしなかったが、彼を信じていた心は、ほんの少しだけだがまた戻ってきた。
フローレンスは、拳を緩めた。慎重に手を伸ばし、ギルディオスの背中のマントに触れると、握り締めた。
小さく、息を飲むのが聞こえた。ギルディオスは傾けていた体を少し起こすと、フローレンスの耳元に呟いた。

「ありがとな」

押し殺して掠れた声だったが、嬉しそうだった。フローレンスは何も言えずに、甲冑の胸元に額を押し当てた。
冷え切っていた装甲にフローレンスの体温が移り、ほのかに温かくなっていて、それは彼の体温のようだった。
ダニエルは横目に二人を見ていたが、また作業に戻った。魔力を高めて念動力を強め、周囲に一気に放った。
ずっ、と土から引き抜かれた巨大な瓦礫が、高々と浮かぶ。いびつに砕けた灰色の破片が、男を取り囲む。
大量の破片の中心で、ダニエルは破片の影に目を配らせた。銀色の輝きを持ったものがないか、探した。
すると、左側の地面に銀色がめり込んでいた。ダニエルは右手をくるりと回して、浮かんだ瓦礫を一塊にする。
瓦礫の固まりを後方に落としてから、銀色の元に寄った。銀色を歪めている石を取り除き、銀色を引き抜いた。
押し潰されて伸びてしまった銀の花びら、折れ曲がった宝石留め、砕けた青い宝石。スイセンの髪留めだった。
ダニエルはハンカチを取り出して壊れたスイセンの髪留めをくるむと、ポケットに収め、光を放つ月を見上げた。
白く眩しい月は真円ではなく、少し掛けていた。




月光の下、三人は身を寄せていた。
首都から外れると、じんと音がするほど静まっていた。背後の森からは、重たい湿気のある空気が漂っていた。
春らしく、空気は柔らかく温かかった。青い草と土の匂いがする地面がすぐ近くにある、倒木に腰掛けていた。
フィリオラは、遠くの首都を眺めていた。昼間でも色彩の少ない都市は、夜になると明暗だけになっている。
南西側へと目を向けたが、建物に遮られて基地島は見えなかった。潮騒も聞こえず、風もほとんど来ない。
フィリオラは普段の服装である、スカートの短い魔導師の衣装を着ていた。黒なので、暗がりに馴染んでいる。
裾を引っ張ってから、フィリオラは少し笑った。やはり、豪奢な服や戦闘服よりも、この服の方がしっくり来る。
左にはレオナルド、右にはブラッドが座っていた。ブラッドは、フィリオラの手を固く握り締めて離さない。

「オレ、いけないことしたかな」

ブラッドの色白な頬は、月明かりで青白く見えていた。フィリオラの手を握る手に、力が籠もる。

「フィオ姉ちゃんの姉ちゃんに、あんなこと言っちまって」

レオナルドは、フィリオラ越しにブラッドに目を向けた。申し訳なさそうに、半吸血鬼の少年は目を伏せている。
ストレインの別邸に帰るなり、ブラッドが玄関に突っ立っていた。三人の荷物を引き摺りながら、叫んできた。
こんな場所にはいられない、このうちの姉ちゃんは悪魔だ、フィオ姉ちゃんは悪くない、なのに悪く言ったんだ。
他にも様々なことを叫んでいたが、言葉が上手く聞き取れなくなってしまうほど、ブラッドは激しく怒っていた。
荷物を抱えて首都を出る道々、ブラッドは何があったのか話してきた。それは、フィリオラの姉の言動だった。
フィリオラを人と見ず、あれとまで言い放った。血縁なのに他人のように毛嫌いし、恐れてばかりいる、と。
それは、聞いているだけでも腹の立つ話だった。レオナルドは、昼間に散々怒っていてもまた怒りそうになった。
だが、当のフィリオラはあまり気にしていないようだった。ずっと以前から、覚悟していたのかもしれない。
いつかそうなってしまう日が来ると、解っていたのだろう。残念そうではあったが、泣きも怒りもしなかった。
フィリオラは、ブラッドの小さな手を握り返した。柔らかくも温かなブラッドの手を持ち上げ、頬に当てる。

「いいえ、ブラッドさんは悪くありませんよ。ただ、お姉様には余裕がなかっただけなんだと思います」

フィリオラは少年の手の感触に、愛おしげに目を細めた。

「私達みたいな生き物がいる、っていうことが認められないんですよ、きっと。そういう人は、いるんです」

「けど、オレ…」

ブラッドが泣き出しそうになると、フィリオラはブラッドの手を下ろし、微笑む。

「私は嬉しかったですよ? ブラッドさんがそこまで怒ってくれて。好かれているんだなぁって思いましたから」

「うん、まぁ」

若干照れくさそうに、ブラッドは頷いた。レオナルドは、にこにこしているフィリオラの横顔を見つめた。
もっと落ち込むかと思ったが、そうでもないようだった。表情に無理がないので、空元気でもなさそうだった。
むしろ、色々な出来事が一斉に起こりすぎて、突き抜けてしまったのだろう。レオナルドも、そんなものだ。
たった二日の間に、物事が激変した。フィリオラが攫われ、ギルディオスの正体が判明し、異能部隊が壊滅した。
そして、彼女に触れた。レオナルドはフィリオラのウロコの感触が、未だに右手に残っているような気がした。
形はどうあれ、彼女に触れられて嬉しかった。レオナルドは足を組んで頬杖を付き、嬉しさを噛み締めていた。
フィリオラは、左隣に座るレオナルドに向いた。首都の方向を見ているレオナルドの、横顔に声を掛けた。

「レオさん」

レオナルドが反応しないので、フィリオラはレオナルドの腕をいきなり掴んだ。

「えいっ!」

「うぉわっ」

急に腕を引っ張られ、レオナルドはよろけた。フィリオラはレオナルドの腕を、抱き締める。

「くっついていいんでしたら、いいんですよねー?」

「だ、だからってなぁ!」

逃げ腰になったレオナルドに、フィリオラは迫った。

「そんなに逃げないで下さいよぉ」

「逃げているわけではないんだが、その、あんまり近付くとだな」

レオナルドは態度を取り繕うことすら忘れ、狼狽えていた。フィリオラは、レオナルドをじっと見上げていた。
彼がツノに口付けたのは、夢ではないのだろうか。あの時の鼓動の速さも、苦しいほどの嬉しさも覚えている。
だが、あれ以降、彼はあまり近付こうとしていない。今だって、多少距離を開けて座っていたほどなのだ。
夢でないのなら、どうして近付いてきてくれないのだろう。どうして、少し近付いたくらいで逃げてしまうのだろう。
フィリオラは、レオナルドの腕をより強く抱き締めた。また触れてきて欲しい、もっと、彼に触れていたかった。
レオナルドは、もう抵抗しなかった。というより、出来なくなった。フィリオラの手が、手を繋いできたからだ。
華奢な指が己の手に触れて、柔らかな手のひらが握ってきている。フィリオラは、照れくさそうな顔をしている。

「こっちの方が、いいですから」

レオナルドが急に顔を逸らしたのを見、ブラッドは居たたまれなくなった。ここにいては、いけない気がした。
だが、急に離れてしまうのはわざとらしいし、せっかくまた会えたフィリオラと離れてしまいたくはなかった。
横目にフィリオラとレオナルドを見上げると、フィリオラは嬉しそうでもあったが気恥ずかしげな表情をしていた。
対するレオナルドは、顔をしかめていた。だがそれが、嫌悪感からではなく、照れであるというのは知っている。
ブラッドも、レオナルドと付き合っているので彼がどういう人間か知っている。とにかく、彼は素直ではない。
言うこともやることも大分捻くれていて、表情もそうだった。レオナルドは、普通に笑うことなどあまりない。
嬉しかろうと可笑しかろうと、まともには笑わない。ブラッドには理解しがたかったが、それが彼の性格なのだ。
だからこそ、表情を歪めている時は彼が本当に嬉しい時なのだ。ブラッドは、レオナルドに言ってやりたかった。
嬉しいなら嬉しいで普通にしたらどうなのさ、と。だが、言ってしまったら、せっかく取り繕っている彼に悪い。
それに、これはこれで幸せだ。平常通りとは行かなくても、フィリオラもレオナルドも無事に帰ってきたのだから。
後はギルディオスさえここにいれば、と思ったが、ギルディオスもそのうちまた戻ってきてくれることだろう。
ブラッドはレオナルドに寄り掛かっているフィリオラに、そっと寄り掛かった。心地良い、優しい温度が伝わる。
誰かが傍にいてくれるだけで、ありがたかった。夜に外に一人でいると、旧王都までの旅路を思い出してしまう。
一日中空を飛んで、夜は身を縮めて眠るだけの日々。それが、十歳であるブラッドには寂しくないはずがない。
だから、誰かが傍にいることはとても幸せだった。その相手が、自分を愛してくれている相手だと尚のことだ。
ふと、ブラッドは思った。ギルディオスは、寂しくはないのだろうか。こんな夜に、一人でいては寂しかろうに。
今頃、ギルディオスはどうしているのだろう。あれだけの大きな出来事があっても、現れないのは何かおかしい。
ブラッドは疑念を持ったが、気にしないことにした。帰ってきたら話してくれるだろうから、それまで待とうと思った。
その頃には、月はもっと欠けていることだろう。




破壊の終わった静かな夜に、月光が降り注ぐ。
未来を見失った部下に重剣士は罪を認め、吸血鬼の少年は竜の末裔らと再会する。
そして竜の末裔は、炎を滾らせし若き刑事に、徐々に心を向け始めていた。

破壊の果てにあるものは、始まりなのである。






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