首都から旅立つ前日の夜。レオナルドは、ダニエルと共にいた。 宿屋からそれほど離れていない酒場の一角に、向かい合って座っていた。二人の間には、蒸留酒の瓶がある。 それはレオナルドの好きなもので、味もきつければ酒精も濃かった。ダニエルは少し飲んだが、顔をしかめる。 「体に悪いぞ、レオ。よくもまぁ、こんなものを飲むな」 「調子が良ければ、軽く二本ぐらいは空けられるが」 レオナルドは瓶を取ると、グラスにだくだくと酒を注ぐ。ダニエルは、感心するやら呆れるやらで苦笑した。 「ヴァトラスの血統だな。隊長も、生身だった頃はザルで酒が飲めたんだそうだ」 「おまけにちっとも酔わないもんだから、嫁さんによく怒られていた。飲む意味がないから飲むんじゃない、ってな」 グラスを軽く揺らし、レオナルドは返した。ダニエルは自分のグラスを手にしたが、飲まなかった。 「やはり、レオも知っていたか。あの人は好きだからなぁ、自分の家族の話をするのが」 レオナルドはグラスを傾けていたが、ダニエルを窺った。薄暗くざわついた酒場の空気に、馴染んでいなかった。 慣れていないのがよく解る。挙動は不審ではないのだが、落ち着かないのか、目線が彷徨いてしまっている。 レオナルドは事件捜査や息抜きに、こういった安い酒場によく来るのだが、ダニエルはあまり来ないのだろう。 ダニエル・ファイガー。その名を聞くのも久しければ、顔を合わせて言葉を交わすのも、かなり久しかった。 異能部隊基地に乗り込んだその日、ちらりと顔を見掛けただけだったが、その気配で彼ではないかと直感した。 大陸北部の都市である首都では少々目立つ褐色の肌に彫りの深い顔立ち、そして、強烈な異能の気配があった。 炎の力で歪めた門から、フィリオラの手を引いて出る時に一瞬だけ擦れ違ったが、すぐに感じ取れていた。 ダニエルは、レオナルドの異能部隊での友人だった。八つも歳上だったが、彼とは不思議と気が合ったのだ。 異能部隊から逃げ出してからというもの、任務でレオナルドを確保しにやってきた時以外には会えなかった。 会えたとしても復交出来るとは思えなかったし、レオナルドはダニエルとの再会を半ば諦めている節もあった。 だから、こうしてまたダニエルに会えて嬉しかったが、その経緯が経緯だけにあまり素直には喜べなかった。 ギルディオスに連れられて宿屋にやってきたダニエルと顔を合わせた際も、すぐに気を許せなかったほどだ。 ダニエル自身もそう思っていたようで、気にしてはいるのだが距離が出来ていて、まともな会話はしなかった。 だが、数日を共にするうちに、わだかまりは多少なりとも薄らぎ、向かい合って話が出来るほどになった。 さすがに、全てのことを許しているわけではないが、かつての友人と復交したい気持ちは強かったのだ。 レオナルドのグラスの酒が半分以下になった頃、ダニエルは自分のグラスに口を付けたが、すぐに下ろした。 「レオ。お前は変わらないな」 「オレとしては、大分変わっちまったつもりだけどな」 レオナルドは苦々しげに言い、グラスをテーブルに置いた。ダニエルは、すぐにその意味を察した。 「まぁ、私も意外だったよ。まさかお前が、あそこまでフィリオラに惚れているとは思ってもみなかった」 「まぁ、な…」 気恥ずかしげにレオナルドが顔を逸らすと、ダニエルは茶化した。 「そう照れるな、いいことじゃないか。それで、あの子とはどんな具合だ」 「どうもこうもない。進んでいるのか後退しているのか、解らないんだ」 レオナルドはダニエルに目を戻すと、やりづらそうに眉根を歪めた。 「最初の頃はどっちも嫌いだと言い合っていたんだが、そのうち、その、なんだ、オレの方がほだされてきちまった。だが、オレの性格がこんなんだからろくなことはしていないんだが、なんでか解らないうちに、あっちの方もその気になっているみたいなんだ。この間の買い出しの帰りに、新しい髪留めを買ってやったら…」 照れてしまって言い渋ったレオナルドを、ダニエルは急かした。 「買ってやったら、どうなったんだ?」 「嫌いじゃないならこっちを見ろ、とか言われて、背中に張り付かれて、それで、思わず」 「押し倒したのか?」 「違う! あの女の体温とか感触とか声とかで堪えきれなくなって、思わず、やっちまったんだ。…口付けを」 居たたまれなくなり、レオナルドは額を押さえて項垂れた。ダニエルは、弱り切ったレオナルドが可笑しかった。 ダニエルの知るレオナルドは、滅多に弱みを見せない。気の強い彼がここまで弱るのは、かなり珍しかった。 しかもそれが、十八歳の少女に対する恋心だというのだから余計に可笑しかった。だが、笑ってはいけない。 堪えようと思っても浮かんできてしまう笑みを誤魔化しながら、ダニエルは項垂れているレオナルドを覗き込む。 「それで、彼女の方は?」 「いやに細かく聞くな」 嫌そうにしたレオナルドに、ダニエルは手を横に振る。 「悪い。お前があまりにも弱っているのが面白いから、ついな。それ以上は聞かないでおくよ、彼女のためにも」 「最初からそうしてくれ、ダニー」 レオナルドはグラスに残っていた酒を一気に煽り、ごん、とグラスの底をテーブルに打ち付けた。 「それで、本当に旧王都に来るのか」 「ああ。それが一番良いと踏んだんだ」 ダニエルは蒸留酒の瓶を取ると、レオナルドのグラスに注いだ。どぼどぼと、薄茶色の液体が流し込まれる。 「異能部隊が壊滅してしまった今、このまま首都にいてもどうしようもないし、軍に戻るつもりもないからな」 「意外だな。生まれも育ちも軍属のあんたらしくないな」 「生まれも育ちも軍属だから、離れてみるも悪くないと思ったんだ。それに、フローレンスを放っておけるか」 「部下として心配なのか? それとも、女として心配なのか?」 「部下として、だろうな。今のところは」 ダニエルは少々迷ってから、答えた。レオナルドは二杯目の酒を飲んでいたが、グラスを口から離す。 「気を付けろよ、ダニー。女ってやつは、本当に恐ろしいからな。どこまでも男を堕落させちまうんだ」 「ご忠告ありがとう」 ダニエルはそう返し、自分のグラスに少しばかり口を付けた。焼け付くように強い酒精と、辛い味が口に広がる。 レオナルドに合わせて飲んだら、間違いなく悪酔いするだろう。よくもまあ、こんなものをがばがば飲めるものだ。 ダニエルはあまり酒に強い方ではないので、グラスに半分も飲み進んでいないのに、酔ってしまいそうだった。 だが、レオナルドは至って平然としていて、顔色も変わっていない。凄いというよりも、むしろ恐ろしく思えた。 気が強く、口が悪く、態度が大きく、酒にも強い。そんな男を陥落したフィリオラに、素直に感心してしまう。 確かに、ダニエルが見ても彼女は可愛らしいと思う。幼い顔立ちと体形に、性根の優しさが滲み出ている笑顔。 これから二人が添うようになれば、ますますレオナルドは弱っていき、ますますフィリオラは微笑むのだろう。 その光景は、想像しただけでも面白かった。どうせなら進展させてやろう、とダニエルは思い、ポケットを探る。 ポケットから手を出し、ハンカチに包んだものをテーブルに置いた。ごとり、と硬いものが板に当たる音がした。 「レオ」 「ん?」 レオナルドは、ダニエルが差し出してきたものを見下ろした。ダニエルはハンカチを開き、中身を彼に見せた。 中には、薄く泥に汚れた銀色のものが入っていた。かなり歪んで潰れているが、これの以前の姿は思い出せる。 ねじ曲がって押し潰された銀色の花びら、砕かれた青い宝石。フィリオラが付けていた、スイセンの髪留めだった。 「あの瓦礫の中から、わざわざこいつを探し出したのか?」 レオナルドは、壊れた髪留めとダニエルを見比べる。ダニエルは頷く。 「ああ。返してやろうとは思って探し出したんだが、ここまで壊れていては、渡してもがっかりさせるだけだ」 「それで、オレにどうしろと」 レオナルドが訝しむと、ダニエルは壊れた髪留めを彼の前に押し出す。 「彼女を呼び出す口実に使えるだろうが。私が見つけてレオに渡したからそっちに行け、とでも言えば誘導出来る」 レオナルドはやけに慎重な手付きで、壊れた髪留めを手に取った。 「だが、あの女を呼び出したところで、オレは別にどうにも」 「素直になれば、大分楽になれるぞ。それともなんだ、レオは彼女に何も言わないで強引に抱くつもりか?」 ダニエルの言葉に、レオナルドは渋面を作った。 「そんなわけがあるか。泣かせでもしたら、後味が悪くて仕方ないんだ」 「だったら、さっさと好きだとでも言ってしまえばいい。後ろめたいことがないんだったらな」 「…言えるわけがないだろうが。顔を合わせるだけで困っちまうんだから、言ったらどうにかなりそうだ」 レオナルドは顔を手のひらで覆い、俯いてしまう。ダニエルは、笑い出しそうなのを堪えた。 「じゃあ、どうにかなっちまえばいいさ」 「今だって充分どうにかなっちまっているのに、これ以上はなぁ…」 困り果てている声を漏らしたレオナルドは、押し黙ってしまった。ダニエルは、レオナルドが心底羨ましくなった。 どうにかなるほど惚れてしまう相手がいるというのは、幸せなことだ。これも、彼が外の世界にいたからだ。 箱庭の中にいては、知り得なかっただろう。そして、レオナルドがフィリオラに出会うこともなかっただろう。 ダニエルは、基地島と首都を去ってしまうことに多少の寂しさはあったが、名残惜しいとは思っていなかった。 むしろ、楽しみだった。任務でしか行ったことのない旧王都の表側、当たり前の日常を暮らすのは面白そうだ。 どれだけ自分が常識から外れていたのかも解るし、軍隊という世界の狭さも目の当たりに出来ることだろう。 ダニエルは明日の旅立ちが楽しみで仕方なく、早く旧王都に向かいたかった。外の様子を、一刻も早く知りたい。 興味はもうレオナルドから外れていて、上の空に近かった。レオナルドは、壊れた髪留めを手にして悩んでいる。 恋心をきちんと示すべきか、それとも今まで通りの関係でいるべきか。本気で悩んでいるらしく、唸っていた。 ダニエルはきつくて辛い酒をまた少し飲み、胃に染み渡る鋭い刺激に辟易しながらも、気分は高揚していた。 酒による酔いではない、未来への期待による高揚だった。 翌々日。客船から夜行寝台列車に乗り継いだ彼らは、旧王都に向かっていた。 フィリオラは、寝台車両から一般車両に向かっていた。大きな駅を通りすぎたので、客車の中は閑散としている。 旧王都に向かう途中にも大きな都市があり、大抵の乗客は商業都市であるその都市で下りてしまうからである。 人の姿のない車内には、規則正しく線路を踏む音が響いていた。他に聞こえるのは、自分の足音だけだった。 フィリオラは寝台車両から二つの客車を通りすぎた先にある、一般車両にやってくると、その扉を開けた。 西日の差し込む客車は、誰もいなかった。空っぽの座席が窓際に二列に並んでいて、妙に寂しい光景だった。 フィリオラはそっと扉を閉めてから、座席の間を歩いた。列車の揺れで転ばないようにしながら、進んでいく。 歩きながら、先程ダニエルに言われたことを思い出していた。ダニエルは、スイセンの髪留めを拾っていた。 それを返す、と言われたのだが、なぜか髪留めはレオナルドに渡してあり、更にレオナルドは客車にいると言う。 明らかに作為的なものを感じるが、フィリオラはダニエルの真意を疑うよりも先に、緊張の方が先に立っていた。 レオナルドと二人きりになる。それを意識しただけでどきどきしてきて、体も心も固まってしまいそうだった。 先日の帰り道、レオナルドに抱き締められ、口付けられた。その際に、何を思ったのか、彼の舌に舌を絡めた。 思い出すだけで頬が熱くなり、転げ回りたくなる。なんていやらしいことをしたんだろう、と幾度も後悔した。 口付けられた時は驚きと嬉しさで思考など失せ、とろけてしまいそうだったので、意図してしたわけではない。 だからこそ、余計に恥ずかしかった。フィリオラは頬を紅潮させながら口元を押さえ、足を進めていった。 「うあーん…」 フィリオラは目線を落としていたが、人影を感じてそちらに向けた。車両の中程の座席に、彼が座っていた。 レオナルドは窓の外に向いていて、紙巻き煙草を銜えていた。薄い煙が立ち上り、周囲に立ち込めていた。 やっぱり、レオさんは煙草を吸うんだ。フィリオラはそう思いながらレオナルドに向き、おずおずと声を掛けた。 「あの、レオさん」 「ん、ああ」 レオナルドは紙巻き煙草を口から外すと、床に落として踏みにじった。 「とりあえず、座れ」 「あ、はい」 フィリオラは、レオナルドの隣に腰掛けた。つんとした刺激のある煙が残っていたので、それを吸ってしまった。 けふ、と押さえた空咳をしたフィリオラに、レオナルドは申し訳なくなった。やはり、吸わない方が良かった。 手持ち無沙汰だったこともあるが、緊張を解すために吸っていたが、案の定彼女にとっては良くなかったようだ。 レオナルドは軽い自己嫌悪に陥りながら、フィリオラに目を向けた。フィリオラは背筋を伸ばし、足を揃えている。 緊張し切った顔で、ぎゅっと唇を結んでいる。膝の上に置いた手も握り締められており、固まってしまっている。 ちらりとレオナルドに目を向けたが、すぐに逸らしてしまった。赤らんでいる頬は、西日を受けて更に紅潮している。 レオナルドは、フィリオラの肩に手を触れてみた。するとフィリオラはびくっと肩を震わせて、身を引いてしまう。 「すっ、すいませんでしたぁ!」 「何がだ」 いきなりの大きな反応に、レオナルドは戸惑いながらも返した。フィリオラは、唇を押さえる。 「だ、だって、私、あんなことしちゃいましたもん。レオさんの、その、舌に、舌…」 あう、と顔を背けたフィリオラは、泣き出してしまいそうなほど困った顔になる。 「そんなつもり、なかったんですけど、勝手に、そうなっちゃって。あんな、いやらしいこと、するつもりは…」 「オレもだ」 レオナルドは、フィリオラに伸ばしていた手を下げた。 「オレもあそこまでするつもりはなかったんだが、お前にあんな目で見られちゃ、我慢なんか出来るものか」 「はい?」 きょとんとしたフィリオラに、レオナルドは素っ気なく言った。 「それに、あれぐらいのことで喘ぐんじゃない。オレが困るんだ」 「え、あ、すいません」 フィリオラはますます頬を赤く染め、肩を縮めた。レオナルドは、出来る限り顔を逸らす。 「後で大変だったんだぞ、オレの方は。たったあれだけだってのに妙に耳に残っちまって、おかげでろくに眠れやしなかった。処理しようにもお前とブラッドがいるもんだから、やるにやれないし…生殺しだ」 言い切ってから、レオナルドは全身から息を吐き出した。思わず、言うつもりのなかったことまで言ってしまった。 フィリオラはすぐには意味が掴めなかったのか、目を丸くしていたが、徐々にその目が大きく見開かれていった。 「え、あ、えええっ!?」 「仕方ないだろう! オレも男だ! そういう気分になっちまったんだよ!」 レオナルドはフィリオラの両肩を掴んで向き直らせ、気恥ずかしさを堪えながら声を上げた。 「フィリオラ、お前のせいでだ!」 「わ、私だって、レオさんがいきなりあんなことするから、すっごく困っちゃったんですから!」 フィリオラは気恥ずかしさと緊張で、目を潤ませていた。 「苦しいぐらいどきどきしてきちゃうし、レオさんから離れたらもっとどきどきしてきちゃうし、近付きたいなぁって、またぎゅってされたいなぁって思っても、変に近付いたら怒られちゃいそうだし、それに、また、あんないやらしいことして嫌われちゃったら嫌だし、でも傍にいたくてどうしようもなくなっちゃうし!」 叫ぶように言い終えたフィリオラは、涙が溢れ出しそうなほど潤んだ目を伏せる。 「やだなぁもう…。恥ずかしくて、死んじゃいそう」 彼女の表情は、情けなくはあったが愛らしかった。薄い唇を引き締めて、必死に欲情を押し止めている。 レオナルドは手の中にある小さな肩を、握り締めた。フィリオラの強張った体に、更に力が込められる。 膝の上で固く握られている手が、僅かに震えていた。レオナルドは、彼女に贖罪した時のことを思い出した。 あの時は、フィリオラはレオナルドへの恐怖で震えていた。だが今は、恥ずかしさで身を震わせているのだ。 恋心は、情欲に繋がっているものだ。フィリオラは見るからにうぶだから、欲情するのは初めての経験なのだろう。 それが、無性に愛おしくなってしまった。レオナルドはフィリオラを引き寄せて腕の中に納め、抱き締めた。 温かな吐息が、胸元に感じられる。彼女の華奢な指先が、力一杯服を握り締めている感触が伝わってくる。 「もう、やだ…」 フィリオラはレオナルドの胸に顔を埋め、か細く呟いた。 「レオさんって、やっぱり意地悪です。レオさんのせいで、私、本当に困っちゃっているんですから」 「お前の方がひどいぞ、フィリオラ。散々オレを悩ませておいたくせに、その言い草はないだろうが」 レオナルドはフィリオラを放し、顔を上げさせる。フィリオラは、しゅんと眉を下げる。 「…すいません」 「これ以上お前に惚れちまったら、本気でどうにかなっちまいそうなんだよ」 レオナルドの言葉に、フィリオラは目を見開いた。ただでさえ高ぶっていた鼓動が、一気に跳ね上がった。 初めて、直接的な言葉を言われた。先日だって、いつだって、決まってレオナルドは遠回しに言っていた。 嫌いじゃない、とか、嫌ってはいない、というものばかりで、面と向かって真っ正直なことは言ってこなかった。 そうであったらいいな、と思っていたことを、彼が言ってくれた。フィリオラは嬉しさで綻んだ口元を、押さえた。 すると、その手が掴まれた。レオナルドはフィリオラの手を掴んだまま、表情を強張らせ、睨んできた。 「それで、お前はどうなんだ」 「いっ、言わなきゃ、ダメですか…?」 フィリオラが身動ぐと、レオナルドは顔を伏せた。 「言ってくれ。でないと、オレも死んでしまいそうなんだ。…恥ずかしくて」 不意に、フィリオラは吹き出した。レオナルドが反応に困っていると、フィリオラはくすくす笑っている。 「なんか、レオさん、すっごく可愛いです」 「また、それを言うのか?」 「だって、本当に可愛いんですもん」 フィリオラは笑いを堪えてから、レオナルドを見上げた。レオナルドは、やけに情けなくなってきた。 「そう言わないでくれ。オレとしては、頑張っている方なんだぞ」 「だから可愛いんですー」 フィリオラは楽しげに、にこにこしている。レオナルドは頬を紅潮させ、目線を彷徨わせた。 「そういう、お前の方が可愛い」 「はい?」 フィリオラが聞き返すと、レオナルドは慌てた様子で顔を逸らした。 「なんでもないっ!」 レオナルドはやりづらそうに口元を歪め、座席に座り直した。フィリオラもそれに倣い、前を向いて座り直した。 体を横にずらして、レオナルドとの距離を詰めた。彼の真横にぴったりと座ると、そっと寄り添って手を握る。 一瞬、レオナルドの手は反応したが、抵抗はしなかった。フィリオラが彼の手を握ると、軽く握り返してきた。 フィリオラは、何度か深呼吸した。先程の言い合いで忘れかけていた緊張が、また戻ってきてしまったのだ。 繋いでいるレオナルドの手は、熱かった。体温の違いかもしれないが、彼の力が放出されているのかもしれない。 せっかく、レオナルドは本心を言ってくれたのだ。だから次はこちらから、彼に気持ちを示さなくてはいけない。 フィリオラは、意を決してレオナルドの手を固く握った。レオナルドの手も、それに合わせて強く握ってきた。 「レオさん、私。レオさんが」 「好きだ」 フィリオラが言うよりも先に、レオナルドが言った。フィリオラは真っ赤になりながら、こくんと頷いた。 「はい。好き、です」 「馬鹿だなーオレは…」 自分で言っちまってどうするんだよ、とレオナルドは半笑いになっている。フィリオラは、ちょっとむくれる。 「そうですよぉ。言ってくれって言ってきたのはレオさんなのに、先に言っちゃわないで下さい」 「全くだ」 可笑しげに笑ってから、レオナルドはフィリオラに目を向けた。フィリオラは、彼と目を合わすべきか迷っていた。 嬉しいのだが、嬉しいからと言ってすぐに近付いてしまえなかった。また、あんな情欲に駆られたくはない。 求めたら求めた分だけ返ってくるとは思うのだが、求めてしまう自分がいやらしくてたまらず、恥ずかしいのだ。 フィリオラがどうしようかと迷っていると、レオナルドはフィリオラに向き直った。フィリオラは、顔を逸らす。 すると、レオナルドは何を思ったのか首筋に顔を埋めてきた。フィリオラがぎょっとしていると、妙な感触がある。 温かく柔らかなものが、首を撫でていく。今まで感じたことのない得も言われぬ感覚に、フィリオラは混乱する。 「え、あ、レオさん、何を」 彼を押し退けようとしたが、力が入らない。背筋を逆撫でする心地良い感覚が、体の奧から迫り上がってくる。 レオナルドの舌は、丹念にフィリオラの首筋をなぞっていく。それが徐々に上に昇り詰め、耳に触れてきた。 途端に心地良い感覚が強まり、フィリオラは脱力しそうになる。とろんとした目になり、気の抜けた声が漏れた。 「あ、ぅん」 「もう少し色気のある声は出せないのか、お前は」 耳元でいきなり文句を言われ、フィリオラはむっとした。 「そんなこと言われたって、どうしたらいいのか解らないんですもん」 「これからじっくり教えてやるさ」 「何をです?」 「まぁ、色々だ」 レオナルドは、フィリオラの首筋から顔を上げた。フィリオラは嫌な予感がして、身を半分下げた。 「レオさん…なんか、変なこと考えていません?」 「そりゃ考えるとも。オレは男だ、そしてお前はガキだが女だ。やることやらなきゃ損だろう」 「あっさり開き直らないで下さいよ!」 「それだけ溜まっていたってことだ。ちったぁ勘弁してくれ、これでも自制している方なんだから」 レオナルドは逃げ腰になっているフィリオラを、引き寄せた。フィリオラは恐る恐る、レオナルドの首に腕を回す。 ちょっと待て、とレオナルドはポケットを探り、小さな包みを取り出した。それを、フィリオラの足の上に載せた。 「あの髪留めだ。返す」 「そんなところに、置かないで下さい…」 壊れた髪留めの入った包みは、丁度フィリオラの太股の上にある。レオナルドは、彼女の腰に腕を回した。 「他に思い付かなかったんだ」 「嘘です、絶対に嘘です!」 フィリオラは必死に言い返したが、腰を抱き寄せられると黙った。間近に、煙の残り香と彼の匂いがしてきた。 真っ直ぐに見下ろされると、どんどん体の中が熱くなる。まるで、内側から燃やされているような感覚がある。 先程の陶酔感がはっきりと残っているせいで、見つめ合っているだけで、力が抜けていってしまいそうだった。 あんなに嫌いだったのに、こんなに意地悪なのに、好きで好きでどうしようもない。フィリオラは、腰を浮かせた。 腰に回されていた手の片方が外れ、後頭部を押さえ付けられる。そのまま、レオナルドに深く口付けられた。 下唇の内側に、ゆっくりと舌が這わせられる。ほんのりと伝わってきた苦い味は、恐らく煙草の煙の味だろう。 フィリオラは身を乗り出し、彼の口内に舌を滑り込ませた。互いの唾液が絡み合う、粘着質な水音がする。 「ん、ふぅ」 息は苦しくなかったが、胸が苦しくなり、フィリオラは息を漏らした。また、いやらしいことをしてしまっている。 とてもいけないことをしている気分だったが、心地良さと欲動に負け、フィリオラは彼にされるがままになった。 もう、抗いたくない。いやらしいけれど、こんなに幸せで気持ちの良いことを途中で止めてしまいたくはない。 これで、レオナルドと口付けるのは四度目になる。だがこれからは、その回数は際限なく増えていくのだろう。 レオナルドはフィリオラの柔らかな舌をなぶってから、己のものを抜いた。彼女は息を荒げ、もたれかかってくる。 こく、と白い喉が動いた。自分の唾液が彼女に飲み下された、と解り、レオナルドは抑えたはずの情欲が湧いた。 列車が線路を踏む単調な音と、互いの荒い息だけが客車の中に聞こえていて、それが余計に扇情的だった。 ここが寝台車両でなくて本当に良かった、とレオナルドは心底安堵した。そうだったら、どうなっていたことやら。 彼の胸に頬を押し当てたフィリオラは、肩を上下させていた。体を傾けたので、太股から髪留めが滑り落ちた。 かしゃん、と硬い金属の音が響いたが、フィリオラはそれを拾おうとはせず、レオナルドにしがみ付いていた。 「レオさん」 精一杯の思いを込め、フィリオラは囁いた。 「大好きです」 その小さくも愛おしげな声が消えた頃、レオナルドはフィリオラを抱き締めた。力を込めれば、折れてしまいそうだ。 黒に近い緑髪の間から突き出した小さなツノに唇を当ててから、髪に頬を触れる。愛おしくて、たまらなかった。 背中に回されている腕の力は弱かったが、フィリオラなりにレオナルドをきつく抱き締めていて、離れそうにない。 締め付けるような痛みとは違った痛みが、胸の底に広がる。熱く、強く、確かな熱が、彼女から染み込んでくる。 炎よりずっと柔らかい、愛情の熱だった。彼女が愛しくて、彼女からの愛しさで、魂も何もかも満たされていく。 レオナルドはフィリオラを抱いた腕を緩めずに、目を閉じた。意地も体面も失せて、心からの言葉が出てきた。 「フィリオラ。愛してる」 私も、と小さく聞こえたが、彼女は動かなくなった。同じように目を閉じて、レオナルドの熱を味わっていた。 夜行寝台列車は止まることもなく、真っ直ぐに旧王都に向かっていた。いつしか、窓の外の空は暗くなっていた。 夜が訪れても、二人が離れることはなかった。お互いの思いを与え注ぎ合うかのように、長く、抱き合っていた。 心を繋ぐために、抱擁を続けていた。 単調に、確実に、機関車は進んでいく。 煙と蒸気に包まれた旧王都と、そして、未来を目指して。 恐れや期待を抱きながら、恋心から生まれ出た愛を深め合いながら。 未知なる世界へ、向かうのである。 06 2/4 |