ドラゴンは眠らない




恋と愛の狭間



何が起きたのか、解らなかった。
レオナルドは指に挟んでいた紙巻き煙草が半分ほど焼けていることを、指の熱さで思い出して慌てて消した。
彼女は、なんと言ったのだ。確かに聞こえたのだが、頭が理解しようかするまいか迷っていて上滑りしていた。
耳の奧には余韻があり、恥じらいながらもきっぱりと言い切った彼女の声が残っていた。抱いて下さい、と。
レオナルドは、まじまじとフィリオラを見上げた。エプロンを握り締めて肩を縮める少女は、真っ赤だった。
余程緊張しているのか、縦長の瞳孔を持った青い瞳が潤みがちで、エプロンを握っている手は震えている。
哀れに思えるほど、緊張している。レオナルドは、何かひどくいけないことをしたような気分に駆られた。
フィリオラの小刻みに速く浅い呼吸と、ちりちりと紙巻き煙草の葉が燃える音だけが、耳に聞こえていた。
レオナルドは状況を理解しようと努力してみたが、出来なかった。なので、慎重に、彼女に問い掛けた。

「どういうことだ?」

フィリオラは深く息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。

「いけませんか?」

「いや、いけなくは…ないんだが、な」

レオナルドが戸惑うと、フィリオラは目線を落とした。

「私、ずっと、レオさんに悪いことしちゃってましたから」

「まぁ、な」

生殺しどころか生き地獄だったぞオレは、とレオナルドは内心で付け加えた。この状況では、言うべきではない。
フィリオラは、耳まで紅潮させているので首筋もほんのり赤らんでいた。噛み痕の傷は、他よりも赤くなっている。
レオナルドは、もう限界まで来ていた。あんなことを言われてそんなものを見せられたら、理性はかなり危うい。
半分まで焼けてしまった紙巻き煙草を灰皿に押し当てて消してから、立ち上がった。彼女は、ちょっと身動いだ。
レオナルドが近付くと、フィリオラは俯いてしまう。目線は左右に揺れていたが、そろりと上目に見上げてきた。

「あの、レオさん。私」

「本当に、いいんだな?」

レオナルドは、やれる限り理性的な声を作った。フィリオラは、こくんと頷く。

「はい。レオさんが、相手でしたら」

「後悔するなよ。お前がいいって言ったんだからな」

「はい」

フィリオラが顔を上げると、レオナルドはすぐさま首筋に顔を埋めた。うっすらと汗ばんだ肌に、唇を押し当てる。
舌を緩く滑らせていき、噛み痕に触れた。ほんの少しだが、新しい血の味がした。その部分を、強く吸った。
フィリオラの体が、びくっと震えた。レオナルドの肩を掴んでいる手に力が入ったが、膝は少しずつ曲がっていく。
背中に回していた手を下にずらし、細い腰を抱き締める。服の上から脇腹を撫でてやると、膝が更に曲がった。

「ふあ、ぅ」

どこを触られても、困ってしまう。痛いほど速まった鼓動がもっと激しくなって、頭の芯からくらくらしてしまう。
体の芯に、じんとした疼きが生まれていた。彼の舌が這い上がると疼きが高まり、思わず、内股を擦り合わせた。
崩れ落ちないようにレオナルドの肩に必死にしがみついていても、その手すら、緩んでしまいそうになるほどだ。
レオナルドは痕が付くほど首筋に強く口付けてから、顔を上げた。半開きになっている薄い唇を、貪った。
鼻に掛かった喘ぎが漏れ、絡めた舌が水音を立てる。フィリオラの唇が、レオナルドのそれを柔らかく噛んだ。
レオナルドは彼女の唇を吸ってから顔を離し、見下ろした。幼さの残る青い瞳は、熱っぽい視線で見上げてきた。
だが、表情は強張ったままだった。手の下の肩も力が入れられていて、彼女の緊張は解けていないようだった。
このまま立っていても、こちらもやりづらいし、彼女がこの状態では先へ進めない。そう思い、抱え上げた。

「ひゃう!」

いきなり横抱きされたフィリオラは、動転した。レオナルドはフィリオラを抱え、歩いていく。

「ちったぁ楽にしろ。そんなことでは、入るものも入らん」

「だ、だってぇ」

フィリオラは、散々口付けられた首筋を押さえた。レオナルドは半開きになっていた寝室の扉を、蹴り開けた。

「抱けと言ってきたのはお前の方だろうが、フィリオラ」

「そうですけどぉ」

そんなことを言われても、簡単に解れるものでもない。フィリオラが言い訳しようとすると、放り投げられた。
ひゃっ、と小さく悲鳴を上げた後、背中に柔らかなものが当たって軽く跳ね、広めのベッドの上に転がった。
レオナルドは寝室の扉を閉めると、机の上にある鉱石ランプを見据えた。炎の力を炎とせず、魔力として放った。
フィリオラは起き上がって座ると、レオナルドに向き直った。レオナルドはネクタイを緩め、しゅるっと引き抜いた。
そのネクタイをぞんざいに床に放り投げてから、フィリオラに目を向けた。何かを、言いたそうな顔をしている。
そういえば先程、彼女は言い掛けていたようだ。事を始めたらそれどころではないので、先に聞いた方がいい。
レオナルドは、鉱石ランプの逆光の中に座っているフィリオラを見下ろした。青い瞳は、情欲に潤んでいる。

「言いたいことがあるなら、先に言っておいたらどうだ」

「怒り…ませんか?」

「内容によるぞ」

「あんまり、怒らないで下さいね。私、結構、真剣だったんですから」

フィリオラは、敢えて茶化した言い方をした。拒み続けていた理由に、彼が怒るかもしれないと思ったら怖くなった。
だが、きちんと言わなくてはならない。気付かないうちに、レオナルドを傷付けていたのかもしれないのだから。

「私、今まで、レオさんがこういうことしようとしても逃げちゃってましたよね。それには、一応、理由があったんです。そういうことをしたことがなかったから、ちょっと怖いのもあったんですけど、先に進んじゃったら後には戻れないなぁって思ったんです。レオさんと、その、えと、あの、繋がっちゃったら、もっともっとレオさんを好きになっちゃいます。でも、そうなったら、離れちゃったりした時が辛いなぁって、思ったんです」

もしも、離れてしまったら。そう考えただけで悲しくなって、フィリオラは涙が出てきた。

「私、こんな体じゃないですか。竜だけど人間で、どっちでもあってどっちでもない体なんですよね。だから、レオさんと一緒になっても、子供が出来ないかもしれないって思ったんです。レオさんは、子供はお好きみたいですし、きっと欲しがると思うから、私に子供が出来なかったら、レオさんを悲しませちゃうなぁ、離れちゃうかもしれないなぁって、思ったんです。だから、これ以上前に進まなかったら、私に子供が出来なくてもレオさんを悲しませなくて済むかなぁって思ったんです。進みさえしなければ、がっかりするのも少ないかなぁって。ですけど、ですけどね」

フィリオラは、ぐいっと涙を拭う。

「進んじゃいけないって、進まない方が楽だって思っても、気持ちが納まらないんです。私、レオさんの子供、欲しいんです。レオさんとずっと一緒にいたいんです。だから、私」

フィリオラは、レオナルドを見上げた。緊張や悲しさを上回るほどの恋心に、胸が締め付けられる。

「い、いやらしいって思うかもしれませんけど。レオさんにもっと近付きたくなっちゃって、仕方ないんです」

ベッドに膝立ちになると、フィリオラはレオナルドの胸に縋った。口にしているだけで恥ずかしいが、止まらない。

「いけないって思えば思うほど、ダメで、もう本当に」

「どうにかなっちまいそうだ!」

レオナルドはフィリオラを胸から離すと、強引に口付け、そのまま押し倒した。ぎしっ、とベッドが軽く軋む。
視界と唇を塞がれたフィリオラは、口中に滑り込んでくる舌を受け入れ、彼の口中へ自分の舌を差し入れた。
体に、レオナルドの重みがのし掛かる。放り投げていた両の手首が、シーツに埋めるかのように押さえられた。
彼の舌の動きが、荒っぽい。いつもに比べて力任せで、押さえ付けられている手首も、力強く握られている。
息苦しくなってきて、フィリオラは喘いだ。レオナルドの下で身を捩ったが、それでも、彼は離れようとしない。
膝を上げて彼の体を押し上げようとすると、やっとレオナルドは顔を離した。息を荒げながら、見下ろしてきた。

「怒るどころか、嬉しいぞ」

「はい?」

意外な答えに、フィリオラは目を丸める。レオナルドは、フィリオラの頭の脇に顔を埋めた。

「そうか、そうかぁ、お前はオレと結婚してくれるのか」

「私、そんなこと、言いましたっけ?」

フィリオラが不思議がると、レオナルドはすぐ隣にいる彼女へ顔を向けた。

「だってそうだろう? オレの子が欲しいってことは、結婚してくれるってことだろうが」

照れくさそうだが嬉しそうなレオナルドを見ていたフィリオラは、しばらくしてから目を大きく見開いた。

「あ、あ、あえあああ!」

フィリオラは、自分の思考が飛躍していたのだと自覚した。無意識に、レオナルドとの結婚を前提に考えていた。
というより、行為を行えば結婚する、と思っていたのだ。だから、繋がってしまえば結婚したも同然だと。
だがよくよく考えてみれば、行為をしたからといって結婚するというわけでもないし、するのが必然でもない。
しかも、それを遥かに飛び越えて、子供の心配までしていた。出来るか出来ないか、本気で不安になっていた。
悩むにはまだ早すぎる悩みだったんだ、と思った途端にフィリオラは急に情けなくなって、うぅ、と低く呻いた。

「恥ずかしいよぉ…」

「しかし、気が早いに程があるな。オレはまだ、その辺のことは何も言っちゃいなかったんだがなぁ」

可笑しげに肩を震わせるレオナルドに、フィリオラはむくれる。

「私もそう思いますよぉ! で、でも、悩んじゃったんですからね、すっごく!」

「本当に可愛いな、お前って奴は」

レオナルドは、フィリオラの上で笑いを噛み殺している。あまりにも彼が笑うので、フィリオラは拗ねてしまった。

「笑わないで下さい! 私は、本当に、本当に、真剣だったんですからね!」

馬鹿みたい、とフィリオラは小さな唇を尖らせている。レオナルドはその横顔を見下ろし、また笑ってしまった。
愛おしくて、嬉しくて、可笑しくて、笑いが止まらなかった。子供が欲しくなるほど、彼女は愛してくれているのだ。
笑いが落ち着いてくると、レオナルドは彼女の頼りない手首を押さえていた手を外し、フィリオラの頬を挟んだ。

「馬鹿が」

「レオさんの」

意地悪、と言おうとした唇を、レオナルドは塞いだ。情欲に任せた先程とは違い、愛しさを込めて口付ける。
フィリオラの手が、おずおずと背中に伸びてくる。レオナルドはフィリオラの唇を解放すると、耳元に囁く。

「それじゃ、続きと行こうじゃないか」

レオナルドの手が、フィリオラの襟元を引き摺り下ろした。白い素肌を覆っている下着ごと、ずり下げる。

「あ、やっ」

膨らみの小さい胸が露わにされると、フィリオラは目を閉じて顔を逸らした。彼の背の上で、手を握り締める。
つんと上向いている先端を、ついばまれた。太股の内側を撫でていた指先が上り、潤った部分をまさぐってくる。
フィリオラは声を漏らしてしまいそうだったが、ぎゅっと唇を締めて気を張り詰めさせ、辛うじて堪えていた。
だが、いつまでもそれは続きそうにない。レオナルドの手や唇は、至るところを刺激して、甘い感覚を起こす。
吐息混じりの声が上がるまで、そう時間は掛からなかった。




翌朝。フィリオラは、倦怠感を感じていた。
起き上がってから周囲を見回すと、いつもと光景が違った。家具の少ない寝室に、鋭い朝日が差し込んでいる。
下腹部に残る異物感と痛みに、昨夜を思い出さずにはいられない。ベッドの周囲には、二人の服が落ちている。
枕元には、早々に外されてしまった竜の髪留めが輝いている。髪の結い方に手を掛けたのに、呆気なく解かれた。
髪留めには気付いてもらえたようだったが、髪の結い方にまでは気付いてもらえなかったのが、残念だった。
胸元を見下ろすと、いくつも赤い痕が付いている。フィリオラは紅潮してきた頬を押さえると、項垂れ、唸った。

「あーうー…」

初めての情交は痛くて苦しかったが、それ以上に嬉しかった。思っていたよりもずっと、乱れてしまった。
何度も何度も彼の名を呼んだし、涙が出るほど高揚した。全身を突き抜ける陶酔感も、ありありと覚えている。
どんどん、いやらしくなってしまっている。フィリオラは物凄く恥ずかしくなりながら、ベッドからそっと下りた。
自分の服を取ろうとしたが、背後のベッドで衣擦れの音がした。フィリオラは慌てて、その場にあった服を掴む。
何も着ないままで顔を合わせてはいけないと思い、せめて、と足元に落ちていたレオナルドのシャツを羽織った。
大きさが合わないので肩がずり落ちたが、素早く前を掻き合わせ、様子を窺いながらベッドへと振り返った。
眠たげな顔のレオナルドが、起き上がっていた。何も着ていないので、がっしりとした体付きが良く解った。
骨格も太く、均整の取れた筋肉が付いている。昨夜は暗がりの中だったので、まともには見えていなかった。
フィリオラは、ついその体に見取れてしまった。フィリオラがぼんやりしていると、レオナルドは苦笑いした。

「…やっちまったな」

「やっちまい、ましたね」

フィリオラはベッドに昇ると、正座する。レオナルドはやりにくそうに、寝癖の付いた髪を乱した。

「何回だったか?」

「三回ぐらい、だったような気がしますけど」

そう言いながら、フィリオラはシャツの前を留めていった。下まで全部留めると、ワンピースのようになった。

「よくもまぁ、そんなにしたな」

自分のことながら感心してしまい、レオナルドは少し笑った。フィリオラは、長すぎる袖を左右とも折り曲げた。
裾を整えて座り直すと、レオナルドに向いた。彼はフィリオラに目線を戻したが、またすぐに逸らしてしまう。
あまりまともに見ると、昨夜に散々放ったはずの情欲が起きそうだった。よれた襟から、鎖骨が覗いているのだ。
それでなくてもシャツが大きすぎるので、留められているボタンの間が折れ曲がり、隙間の奧に素肌が見える。
礼儀正しく揃えてある滑らかな太股が、朝日を受けて艶やかに光っている。昨夜は、その太股も充分堪能した。
今まで寸止めされていたせいか、時折力を入れすぎてしまい、フィリオラから文句を言われてしまったほどだ。
フィリオラは寝乱れた長い髪をいじっていたが、レオナルドを見上げた。落ち着いてくると、言いたくなった。

「あの、レオさん。なんで、その、何から何まで舐めるんです?」

「そういうもんなんだよ」

「で、ですけどね、いくらなんでも下までは…」

言葉を濁らせるフィリオラに、レオナルドはにやりとする。

「それをやらなきゃお前が痛いんだ、お前のためなんだ。それともなんだ、そんなに下手だったか?」

「え、あ、いえ、そうじゃなくってですねぇ。ただ、その、別に、そんなにいいものじゃないと思うんですけどぉ」

「その割には、散々鳴いていたようだが?」

「我慢しようと思ったけど、我慢出来なくなっちゃったんです!」

「オレとしては我慢してくれた方がいいがな。ぎりぎりまで堪えさせた後に、これでもかと鳴かせるのが好きだ」

レオナルドはフィリオラの頬に、ぺたりと手を当てた。その頬の温度が、すぐさま上昇する。

「なあっ、なんですかそれ!」

「オレの趣味に決まっているだろうが」

楽しげに笑うレオナルドに、フィリオラは後退しながら言い返した。

「レオさんのスケベ! 変態! ケダモノ!」

「他には?」

フィリオラの反応が面白くて、レオナルドは可笑しくなった。フィリオラはベッドの端まで下がったが、止まった。
出来るだけレオナルドとの間隔を開けてから、フィリオラは文句を考えようとした。だが、上手く出てこなかった。
なんでもいいから言おうとしても、力の抜けた唸り声が出ただけだった。レオナルドのようには、行かなかった。
朝日を浴びているレオナルドの表情は、いやに明るいものだった。屈託のない、少年のような表情で笑っている。
やることをやったので、気が晴れているようだった。フィリオラは、ずっとそうだったらいいのに、と思った。
ベッドから下りたら、どうせまた元に戻ってしまう。意地っ張りで捻くれた、素直でない彼になってしまうだろう。
考えてみれば、こんなに良く笑うレオナルドは初めてだ。昨夜も、そして今も、珍しく笑顔になってくれている。
フィリオラは後退っていた姿勢を戻し、座り直した。気恥ずかしかったが、彼の笑顔を見ていたくて、向き直った。
レオナルドは、緩んだ顔を元に戻せなかった。一ヶ月半、いや、それ以上堪えていたのだから、当然だろう。
念願であった事が遂げられて、おまけに彼女には結婚の意思があると解った。これが、嬉しくないはずがない。
そこまで惚れられていると思うと、にやけてしまう。理性のたがが外れたためか、感情のたがも外れていた。
フィリオラは、いつのまにか表情が緩んでいた。レオナルドが本当に嬉しそうなので、それに釣られて微笑んだ。

「大好きです」

レオナルドは身を乗り出して、フィリオラの肩を引き寄せた。薄布越しに、その肩の小ささが手に伝わってくる。
顔を近付けると、フィリオラは瞼を閉じた。長い睫毛の影が落ちた目元に口付けを落としてから、唇を重ねた。
胸に納めると、着ている服が少ない分、距離が近かった。高まり始めている気温よりも、互いの体温が熱い。
恋よりも熱いが愛よりも即物的な感情を、二人は共有していた。触れ合う場所を増やせば、すぐに高ぶりそうだ。
フィリオラは、腰から下の倦怠感と下腹部の痛みがまだ残っていたが、それすらも愛おしい気分になっていた。
何度も内側に放たれた彼の熱が、嬉しかった。大した体でもないのに、人間ではないのに、愛してくれている。
本当に、レオさんの子供が出来たらいいのに。フィリオラが切なくなっていると、頭上からレオナルドの声がした。

「フィリオラ」

「はい?」

厚みのある胸に縋りながらフィリオラが聞き返すと、レオナルドはやけに気弱に呟いた。

「本当に、オレなんかでいいのか?」

「はい!」

フィリオラは声を弾ませ、頷いた。レオナルドは込み上げてくる愛しさで、彼女を抱く腕に力を込めた。

「子供、出来るといいな」

「あ、だからって、朝っぱらからはやめて下さいね。朝ご飯、作らなきゃなんですから!」

フィリオラはぐいっとレオナルドの胸を押して、腕の中から脱した。レオナルドは、ちぃ、と舌打つ。

「今日は非番だから、そう出来ると思ったんだがな」

「しないで下さい。私の体が持ちませんから。あんなに痛いこと、そう何度も出来ませんよ」

むっとしながらベッドを下りたフィリオラは、自分の服とレオナルドの服を掻き集め、レオナルドのものを分けた。
レオナルドは、服をベッドに乗せるフィリオラを指した。彼女は、大きさの合わないシャツを着たままだった。

「おい、それ」

フィリオラは、あ、とシャツの胸元を引っ張った。

「着ちゃってましたね、そういえば」

「脱げ。脱がなきゃ脱がすぞ」

にたりと口元を上向けたレオナルドに、フィリオラは慌てふためいて扉を開け、寝室から出た。

「だから、やめて下さいってば!」

ばん、と乱暴に扉が閉められ、居間からはフィリオラの文句が聞こえてくる。なんでもう男の人って、と嘆いている。
レオナルドはベッドの上に散らばっている自分の服を取ると、生暖かい体温の残るベッドから下り、着込んだ。
タンスから新しいシャツを取り出して羽織ってから、窓を開けた。清々しくも蒸し暑い空気が、流れ込んできた。
こんなに気分の良い朝は、初めてだった。




三○一号室では、二人がまんじりともせずにいた。
壁にもたれかかって呆然としているフローレンスと、その傍らで項垂れているダニエルを、ブラッドが眺めていた。
昨夜、いきなり部屋に入ってきたかと思えば、二人ともこの様だった。ほとんど喋らないので、事情が掴めない。
寝不足による充血した目で虚空を見上げていたフローレンスは、がくんと項垂れた。疲れ果てた声を、漏らした。

「二人とも、張り倒していいよね?」

「いいと思うぞ。というか、私もレオをどうにかしたくて仕方ない」

珍しく弱った様子のダニエルに、ブラッドは尋ねてみた。

「ダニーさんもフローレンス姉ちゃんも、なんでそんなに疲れてるん?」

「決まってんでしょーが…。レオさんとフィオちゃんのイチャイチャ思念が強烈すぎてたまんないのよ…」

もーいやー、とフローレンスはずるりと壁からずり落ちた。

「二人とも魔力は高いわ力はあるわで、思念が強いのよ。ただでさえ興奮したところであんなことこんなことやったんじゃ、それがもうビンビン放出されて、それがぜーんぶあたしの頭に響いてきて…。うんざりしちゃうのよ」

「だがな、フローレンス。だからといって、私にまで二人の思念を流してくることはないだろうが」

ダニエルが口元を引きつらせると、フローレンスはしれっと返した。

「副隊長、欲求不満かと思ってぇ」

「余計なお世話だ!」

やけに慌てたダニエルは、フローレンスに言い返した。フローレンスは眠たげに目を擦り、欠伸をした。

「あー、やっと収まったー。これから二人とも朝ご飯みたいだから、あたし、寝るぅー」

「私もそうしよう。全く、他人の恋愛に付き合わされるのがこんなにも疲れるとは思わなかった」

ダニエルは頭痛を堪えるように額を押さえ、立ち上がった。フローレンスも目を擦りつつ、立ち上がった。

「じゃーねーブラッド君、夜まで起こさないでねー」

「あ、うん」

ブラッドは訳も解らずに頷いたが、不思議に思ったので、部屋から出て行こうとするフローレンスを呼び止めた。

「ていうかさ、なんでこの部屋に来たわけ? 近付いたら、余計に思念が凄くなるんじゃね?」

「そりゃそうだけどさぁー。一人だけでいたり、副隊長とだけ一緒にいたんじゃ、その気になっちゃいそうだったのよ。だから、ブラッド君がいればその気にならずに済むって思ったの。いくらなんでも、副隊長なんかとやっちゃうほど、あたしは見境ないわけじゃないけど、もしもってこともあるじゃない? だから、そのための保険みたいなもん」

フローレンスは欠伸混じりに言い、さっさと出ていった。ブラッドはまた訳が解らなくなって、首をかしげた。
ダニエルを見上げると、彼はかなり複雑な表情をしていた。ブラッドは一向に理解出来ないので、彼に問うた。

「ダニーさん。今の、どういう意味?」

「解らなくていい。今のところはな」

心なしか沈んでいるダニエルは、部屋を出ていった。二人がいなくなると、居間は途端にがらんとしてしまった。
壁の向こう、三○二号室からはフィリオラとレオナルドの声がしていた。それが、いやに楽しげに聞こえた。
ブラッドは疎外感と共に、空腹を覚えていた。フィリオラが帰ってこないので、朝食が出来ていないのである。
隣の部屋に催促に行きたかったが、二人の邪魔をしてはいけないと思った。それに、どんな状況か解らない。
フローレンスの口振りからして、ブラッドの知らない世界が繰り広げられているらしいが、それが解らない。
解りたいような、解りたくないような。解るべきのような、解るべきでないような。そんな、微妙な気分だった。
だが、いずれにせよ、腹が減っていた。ブラッドは、なんでもいいから、フィリオラに帰ってきて欲しかった。
しかしこの分では、当分フィリオラは帰ってこないだろう。彼女がレオナルドの部屋に行くと、いつもそうだ。
今回は、特に長引きそうな気がする。ブラッドは残り物を漁るべく台所に向かいながら、がっくりと肩を落とした。

「恋愛って、超傍迷惑」

本人達は至極幸せかもしれないが、その周囲が面倒なことになっているのに、まるで気付いていないようだった。
ブラッドは台所の戸棚を開いて昨日のパンを取り出しながら、自分が恋をする時には気を付けよう、と思っていた。
なるべく周りを見て、あまり他人に迷惑を掛けないようにしよう。そう決意しながら、固くなったパンを囓った。
隣の部屋から聞こえる二人の声は、普段よりも明るかった。




恋を経て、その先の、愛に至るまでの合間。
若さ故の欲動を満たすために、互いの未来を成すために、二人は体を重ねた。
例えその身が、竜と化すものであろうとも、炎を放つものであろうとも。

心も体も、繋げることは出来るのである。







06 2/11