ドラゴンは眠らない




猛り狂う本能



ブラッドは、空腹だった。


夜中に、不意に目が覚めてしまった。ベッドに横たわって真っ暗な天井を見上げていたが、寝返りを打った。
物足りなさと切なさで、目が冴えてしまった。汗でじっとりと湿ったシーツが鬱陶しくなってきて、起き上がった。
本棚に囲まれた狭い部屋は、物が散乱していた。ベッドから下りて、まずは足元にあったものを蹴飛ばした。
その拍子に本の山が崩れ、埃を舞い上げた。ブラッドはそれを気にすることもなく、カーテンを引いて窓を開けた。
工場の煙が残留する風が滑り込んでくると、少しだけ暑さが和らいだ。ブラッドは、寝乱れた髪を掻き上げる。

「足りねぇ、ってことはねぇと思うんだけどなぁ」

昨夜の夕食は、しっかりと食べた。フィリオラの作るお菓子まで平らげて、普段通りに腹を満たしていたはずだ。
彼女の血も、一昨日に飲んだばかりだ。それでなくてもフィリオラの血は魔力が濃いので、もう数日は持つ。
なのに、足りない。こうしてぼんやりしている間にも、腹は鳴る。苛立ちそうなほど、腹が減って仕方なかった。
窓の外の夜空は、月明かりで明るかった。まるで昼間のようだが、差し込む光は冴え冴えとした青白いものだ。
見慣れているはずの旧王都が、まるで別の世界のように見えている。ブラッドは、こんな夜は特に好きだった。
半吸血鬼だから元々夜は得意な方だが、月明かりがないと、魔力を高めて目を凝らさなければ視界が悪いのだ。
純血の吸血鬼であれば何もせずとも見えるのだろうが、ブラッドはそうはいかないので、多少は苦労している。
なので、目を凝らさなくても良く見え、なおかつ清々しい色合いの光の注ぐ、満月の夜はとても気持ち良い。
外に出たいな、とブラッドはちらりと思ったが、また空腹を思い出した。その前に、何か食べた方が良さそうだ。
寝ている間にずり落ちそうになっていた寝間着のズボンを引っ張り上げてから、部屋の扉を開け、居間に入る。
台所へ向かおうとして、足を止めた。ひっそりとした居間の奧には、フィリオラの寝室の扉があるのが見えた。
出窓から差し込むうっすらとした月明かりを受け、下半分だけ明るくなっていた。今日は、彼女はこちらにいる。
レオナルドと一夜を共にした後から、フィリオラは彼の部屋に泊まるようになったが、昨夜はそうではなかった。
なんでも、明日はフィリオラの仕事が朝早いからだそうだ。確かに、レオナルドは彼女をなかなか離さないのだ。
フィリオラの仕事が始まる時間が遅めなのを良いことに、自分の出勤ぎりぎりまで、引き留めているのだそうだ。
ブラッドは、その時間がどれだけ甘ったるいか想像しただけでげんなりした。とてもじゃないが、見たくない。
ブラッドとしては、ぴんと張り詰めた鋭い雰囲気を持ったレオナルドと、優しくも温かなフィリオラが好きなのだ。
その二人がでれでれになっている姿は、どれだけだらしないことか、考えただけで嫌になってきてしまう。
ああやだやだ、とブラッドは首を振り、フィリオラの寝室から目を外した。だが、またすぐに、目が向いた。
ぞくりと、背筋が逆立った。彼女の寝室から感じられる竜の気配が、漲った魔力が、血が、欲しくなった。
いつのまにか、息を荒げていた。唾を飲み下し、唇を舐め、牙を剥いた。腹が、どうしようもなく減っている。
喰いたい。喰うんだ。喰らわなくてはいけない。次第に思考が失せていき、空腹は飢えになりつつあった。
一歩一歩、フィリオラの寝室へと近付いていく。ぎしっ、と床が軽く軋み、月明かりで少年の影が伸びている。
そして、扉を開いた。




翌朝。レオナルドは、訝っていた。
自室で着替えを終えてから、時計を見た。本来であれば、この時間になればフィリオラはやってくるはずだ。
鋭い朝日に照らされた居間のテーブルは、何も置かれていない。灰皿に、紙巻き煙草の吸い殻があるだけだ。
明らかに、おかしかった。隣の部屋から何も音が聞こえてこないのもそうだが、気配が感じられなかった。
ネクタイを締めてから上着を手に取り、壁に掛けておいた三○一号室の合い鍵を手にして、部屋を出た。
廊下も、静かだった。下の階から聞こえてくるはずのフローレンスの声もなく、妙な静寂に包まれている。
夜中に何かあったのであれば、気付いているはずだ。レオナルドは首をかしげながら、隣室の扉を叩いた。

「おい」

だが、返答は返ってこなかった。フィリオラがいなくともブラッドがいるはずだが、少年の声はしてこない。
扉の取っ手を回してみたが、鍵が掛かっていた。レオナルドは合い鍵を差し込んで錠を外し、扉を開けた。
三○一号室の居間も、静まっていた。こちらもやはり、テーブルの上にはあるはずの朝食が何一つなかった。
ブラッドの名を呼んでみるも、彼がいる気配はない。レオナルドは刑事の習性で、ホルスターから拳銃を抜いた。
慎重に部屋を見渡してから、足音を殺して進む。かち、と弾倉を回して引き金に指を掛け、撃てるようにしておく。
左右に目を配ると、右手奥にあるフィリオラの寝室の扉と、左手奥にあるブラッドの部屋の扉が開いていた。
レオナルドはどちらに行くか一瞬迷ったが、フィリオラの部屋に向いた。拳銃を下ろして歩幅を狭め、近付く。
隙間の開いている扉の脇に背を当て、音が聞こえないのを確かめてから、中を覗いた。ベッドに、彼女がいた。
乱れた髪に顔が隠れ、白い首筋が露わだった。事件現場で見慣れた赤黒い染みが枕にあり、鉄の匂いがする。

「フィリオラぁ!」

レオナルドは急いで扉を開け、ベッドに駆け寄った。拳銃を布団に投げ捨て、青ざめている少女を抱き起こす。
べっとりと血の付いた首筋には、二つの穴が開いていた。髪を払って顔を出させると、苦悶に歪んでいた。
フィリオラの首筋から胸元に、幾筋か血が流れている。白い寝間着には、ぽつぽつと赤い点が散っていた。
半開きになっている乾いた唇に手を当てて、息をしているか確かめる。微かだが、温かな吐息が漏れている。
レオナルドはそれに安堵したが、彼女の顔が冷え切っていることに気付いた。いくら竜でも、これは低すぎる。
血と共に、魔力までごっそり抜かれたようだった。レオナルドはフィリオラの頭を支えてから、深く口付けた。
体内の魔力を一挙に高めると、彼女の内側へと注ぎ込んでいく。焦る心を押さえながら、舌を差し込んだ。
しばらく続けていると、レオナルドの方がへばってきた。思っていた以上に、彼女の魔力は大量に抜かれていた。
レオナルドの魔力は高い方であるとはいえ、竜を補填するのには無理がある。それでも、出来るだけ注いだ。
目眩が起こりそうなほど魔力を注ぎ込んだレオナルドは、唇を離した。真新しい血の匂いが、鼻を突いてくる。
息を荒げたレオナルドは、フィリオラを寝かせてからベッドの脇に座ったが、力が入らず崩れ落ちてしまった。

「まずいな…」

頭がくらくらして、視界が揺れ動いている。炎の力を撃ちすぎても、ここまで魔力が減少したことはなかったのに。
目元を押さえて目眩を堪えていると、ベッドの上で衣擦れの音がした。うあー、と力ない呻き声が聞こえてきた。
フィリオラはひどい頭痛と貧血に苛まれながら、目を開けた。すぐ傍に血の匂いがして、気分が悪くなりそうだ。
魔力の抜けた嫌な感覚と、注がれたばかりの熱い魔力が中にある。目を動かすと、ベッドの傍に彼が座っている。
かなりぐったりしていて、肩を落としている。フィリオラは何度か瞬きして、明瞭でない視界をはっきりさせた。

「レオさん…?」

レオナルドは、すぐには反応しなかった。間を置いてから顔を上げたが、その顔からは血の気が引いていた。

「起きたか、フィリオラ」

フィリオラは体を起こそうとしたが、首筋に鋭い痛みが走った。

「痛っ」

「あまり、無理をするな。その分じゃ、当分はろくに動けないだろうからな」

オレもだが、とレオナルドは自虐的に呟いた。フィリオラはだるく重たい体をずり動かし、彼に近付く。

「何か、あったんですか?」

「オレの方が聞きたい。お前が来ないもんだから見に来たら、血まみれになって死にかけてたんだからな」

レオナルドは拳銃を拾って脇のホルスターに戻すと、心配げな目をしている竜の少女を見上げた。

「おまけに、ブラッドもいないと来たもんだ」

「ブラッドさんが?」

「ああ。扉に鍵が掛かっていたから、窓から出ていったんだろう。あいつは飛べるからな」

レオナルドはそこまで言ったが、目眩に襲われて眉間を歪める。フィリオラは、ベッドから身を乗り出す。

「また、魔力を私に下さったんですか?」

「決まっているだろう。お前に魔力を注ぐのが、オレの役目だからな。最近は、魔力だけじゃないが」

レオナルドの含みのある言い回しに、フィリオラは青ざめた頬に色を戻した。気恥ずかしげに、うぅ、と小さく唸る。

「レオさんのスケベ…」

「だが、当分はお預けだ。オレもお前もこんなんじゃ、やろうにも出来やしない」

レオナルドは、やたらと残念そうにする。フィリオラはちょっとむくれたが、レオナルドを引き寄せる。

「お礼、してもいいですか?」

「くれるならもらってやる」

にやりとしたレオナルドに、フィリオラは顔を寄せた。おずおずと間を詰めて、ぎこちないながらも唇を重ねた。
舌を絡めることはしないまでも、時間を掛けて重ね合った。フィリオラはレオナルドの肩を押し、顔を放した。
ベッドに上半身を戻すと、唇を押さえて俯いた。こんなときになんてことをしたのだろう、と恥ずかしくなる。
レオナルドは腰を落として足を投げ、満足げに息を吐いた。こんな状態でなかったら、抱き締めていただろう。

「悪くない。が、もう少しやってくれても良かったんじゃないのか?」

「そんな余裕ないですよぉ」

フィリオラは自分の血が染み付いた枕に顔を埋めたが、すぐに上げた。いくら自分のものでも、気分は良くない。
仕方ないので枕をベッドの脇に押しやって、布団に直に寝た。レオナルドの魔力が、内側から染み渡ってくる。
確かな熱を持った、力強い魔力だった。すぐに傷は癒されないが、時間が経てば傷も埋まって血も戻るだろう。
熱い飲み物を飲んだ直後のような熱が、胸の内からじわじわと全身に広がっていく感覚があり、心地良かった。
貧血は治らないものの、冷え切っていた体は次第に温まっていき、血の巡りも少しずつだが戻ってきた。
これなら、もう少しすればまともに起き上がれる。そのことをレオナルドに言おうとすると、足音がした。
部屋に駆け込んできた足音はかなり慌てていて、寝室まで直行してくると、開け放たれた扉の前で止まった。
それは、ダニエルだった。ダニエルは疲れ果てているレオナルドと血にまみれたフィリオラを見、目を見開く。

「…やはりか」

「まさか、フローレンスもか?」

レオナルドは、ベッドに歩み寄ってきたダニエルを見上げた。ダニエルは、二人を見下ろす。

「ああ。起きてこない上に思念がおかしいから様子を見に行ったら、血と魔力を大分抜かれてぐったりしていたよ。傷は浅いし動脈には掠りもしていないから死にはしないだろうが、回復するまで何日か掛かりそうだ」

「それで?」

「とりあえず、応急処置として治癒の魔法を掛けてきたんだが、私の腕では大した効果は望めない。だから、お前達のどちらかに手を貸してもらおうと思ってやってきたんだが、この状態ではそういうわけにはいかないな」

「オレもフィリオラも、しばらくは魔法どころか動けやしない。一眠りしないと、歩くのも辛いな」

レオナルドがぼやくと、フィリオラは首だけ起こしてダニエルに向く。

「あ、私でしたら、あと一時間ぐらい眠れば、簡単な魔法なら使えるようになると思います。レオさんから一杯注いで頂きましたし、傷の回復だけは早いので」

「朝っぱらから元気だな、お前達は」

ダニエルが呆れると、フィリオラは途端に真っ赤になった。

「そういう意味じゃありませんよダニーさん! 魔力のことですよ!」

「冗談だ」

ダニエルは、にやりと口元を上向けた。だがすぐにそれを消し、表情を強張らせる。

「だが、状況から判断して、これはブラッドの仕業と見ていいだろう。二人の傷痕からして、吸血されたのは明白だ。この近くにブラッドの他に吸血鬼がいる様子もないし、その上、奴は逃亡している。正気に戻って己の所業に怯えているのか、もしくは、吸血鬼の本能に従って捕食を行うために外へ出たのかもしれないな。どちらにせよ、ブラッドを捜し出さないことには始まらない」

「当局も軍も、動いていなければいいんだがな」

レオナルドはふらつく頭を押さえ、ベッドで体を支えながら立ち上がった。よろけたが、姿勢を保つ。

「当局はアルゼンタムの事件を教訓にして、人外の犯罪には実力行使も厭わない方針になってきたからな。だから下手をすれば、ブラッドは殺されちまう。ブラッドが何かしらやらかす前に、オレ達でなんとかしないと」

「レオ。動いて平気なのか」

ダニエルが心配げにすると、レオナルドは苦しげながらも笑みを作った。

「こういうときに動かなくて、何が男だ。自分の女を喰われて、黙っていられるはずがないだろう」

「フィリオラ。随分と愛されているみたいだな」

ダニエルに茶化され、フィリオラは薄手の掛布を引っ張り上げて顔を隠した。嬉しいのだが、照れくさい。

「…あう」

「動けるようになったら、メシの用意でもしておいてくれ。帰ってきたら、すぐに喰えるようにな」

寝室から出かけたレオナルドが言うと、フィリオラは顔を出し、小さく頷いた。

「はい」

じゃあな、とレオナルドは手を振って出ていった。ダニエルは寝室の扉を閉めつつ、フィリオラに笑った。

「まるで新婚だな」

「あ、えっ、まだですよぅ!」

フィリオラは慌てて言い返したが、ダニエルの笑い声と共に扉が閉められた。もう一度、扉が閉まる音がした。
二人の足音と気配が遠ざかると、途端に静かになった。フィリオラは力を抜いて、ベッドに横たわり直した。
首筋には、ずきずきとした裂傷の痛みがある。肌にこびり付いた血が乾いてきて、触れるとがさがさしている。
慎重に指を動かして、傷口を確かめた。薄いながらも皮膚が再生を始めていて、もう穴は開いていなかった。
それでも、牙の窪みはまだ残っていた。その傷口は、普段のブラッドの噛み痕に比べて随分と大きかった。
まるで、獣の噛み痕だ。フィリオラは嫌な予感を覚えたが、今は回復する方が先だ、と思って目を閉じた。
全身に貧血の倦怠感があったが、とても眠れやしなかった。レオナルドとダニエルの、行く末が心配でならない。
これで、ギルディオスがいてくれたら。そんな考えがちらりと頭を過ぎったが、フィリオラはすぐに払拭した。
ギルディオスは、もういないのだ。心の中であっても、簡単に頼ってはいけない。自分でなんとかしなくては。
それに、早く回復しないとフローレンスの命に関わるかもしれない。彼女は、自分と違って、普通の人間なのだ。
異能者とはいえ、竜に比べて回復力が低い。相当血と魔力を抜かれたのであれば、一刻も早く処置をしなくては。
こうなれば、仕方ない。フィリオラはあまり気は進まなかったが、フローレンスを救うためだ、と腹を決めた。
ベッドから起き上がり、床に下りた。血の染みが付いた白い寝間着を脱ぎ捨て、下着も脱いでから、目を閉じた。

「へんーっしんっ!」

見開かれた瞳は、青から深紅に変わっていた。縦長の瞳孔がぎゅっと細められ、髪の色が濃緑へと変化する。
背中から若草色の皮に包まれた骨が突き出し、皮が張り詰めて翼となり、滑らかなウロコが胸と下半身を覆う。
肘から先と膝から下の骨格が太くなり、竜の手と足と化す。短かったツノも長さを増して、すらりと伸びた。
変化が収まると、フィリオラは一息吐いた。傷痕が完全に埋まった首筋を拭ってから、吊り上がった目を細める。

「良い度胸じゃありませんか、ブラッドさん。子供のくせに、この私に牙を突き立てたんですから」

フィリオラは、にたりと笑む。竜の力を表に出したせいで、気分が高揚していた。

「さあて、どう料理してあげましょうか」

高らかに笑いながら、竜の女は部屋を出た。フローレンスの部屋に向かって歩きながら、高ぶった気分を宥める。
すると、以前よりも自制が効いてきた。戦いに対する欲動もそれほど激しくなく、高揚感も少しは落ち着いた。
考え得るに、竜に変化した際に理性を取り戻すことに成功したので、体がその感覚を覚えていてくれたようだった。
これならきっと、ブラッドを殺さずに済む。アルゼンタムのように、徹底的に痛め付けてしまうこともないだろう。
早くフローレンスを治して、二人に合流し、ブラッドを捜し出そう。そして、助け出してやらなくてはならない。
凄絶な、獣の本能の中から。




血の、味がしていた。
腹一杯に満ちている二人の血が、体に染み渡っていく。血肉へと変わる感覚が、ありありと感じられていた。
とても、心地良かった。関節が軋むような痛みが全身にあるので、それが癒されていくようで、気分が良い。
鉄錆の味が、口の中に残っている。今までは義務感で飲んでいた血液を、初めて、とても美味しいと思った。
フィリオラの血の味がこんなにもいいものだなんて、なんで今まで気付かなかったのか、不思議でならなかった。
竜の血がまずいなんて嘘だ。力強くて重たくて、食べ応えのある血だ。もっと、飲んでおくべきだったかもしれない。
惜しいことをした。フローレンスの血の味も悪くなかったが、やはり、フィリオラのものに勝るほどではなかった。
ごきゅり、と血の混じった唾を飲み下した。腹に溜まっている血が消化されれば、また、あの飢餓感に襲われる。
気が狂いそうなほど凄まじい飢えが満たされた瞬間の恍惚感は、極上だ。あれほど、気持ちいいものはない。
アルゼンタムもこんな気分だったのだろうか。あの機械人形も血を啜っては、気持ちよさそうに笑っていた。
あれと遭遇した時は剥き出しの本能が恐ろしくて仕方なかったが、今となっては、本能の解放は楽しくてならない。
今なら、彼の気持ちが良く解る。体が動くまま、欲望のまま、手当たり次第に、血という血を喰い散らかしたい。
高層建築に挟まれた路地から見える、細長い空を見上げていた。ゆったりと風が吹き、柔らかな雲が漂っていく。
壁に当てていた背中を外し、翼を広げる。マントで作ったものとは比べものにならないほど、使い勝手がいい。
背中から突き出した骨と皮が繋がっている、正真正銘の己の肉体、自分自身の翼なのだから当たり前だ。
関節の軋みと体の痛みも落ち着いたので、立ち上がった。今までよりもずっと視界が高く、不思議な感覚だった。
一歩踏み出すと、また、飢えが起きた。腹一杯に詰め込んだはずの血が、あっという間に消化されてしまった。
もう一歩踏み出すと、我慢出来なくなってきた。すぐにこの狭い路地から出て、魔力の満ちた血を喰わなくては。
牙の隙間から滲み出た血の混じった唾液が、べしゃりと足元に落ちる。それを拭ってから、路地から体を出した。

「がっ!」

突然、体が空中に固定された。脱しようと身を捩るが、指先一つ動かすことが出来ず、微動だにしなかった。
この力は、この気配は、この感覚は。白銀色の瞳を左右に巡らせると、案の定、褐色の肌の男が立っていた。
表情を固めているダニエルは、片手を前に突き出していた。その手が上に向くと、体が、勝手に浮かび上がる。

「悪く思うな」

高く浮かばされると、再び固定された。翼を広げようと思っても、声を張ろうと思っても、何も出来ない。
顎に力を入れて強引に開き、牙を剥いた。喉を押し潰されているせいで咆哮にもならない掠れた声を、発する。
早く解放しろ。腹が減ってんだよ。喰いたいんだ、喰わせてくれ、喰わなきゃならないんだ、喰いてぇんだよ。
何度も何度もそう叫んだが、出てくるのは言葉ではなかった。野獣のような低い唸り声しか、出せなかった。
すると、背後で足音が止まった。ちゃきり、と拳銃を上げる音もする。目を動かし、背後を窺うと、彼が立っていた。
レオナルドは、いやに顔色が悪かった。普段は片手で扱っている拳銃を両手で支えていて、足を踏ん張っている。

「全く、何がどうなってやがるんだ」

「私にも解らん。だが、面倒なことであるのは確かだな」

ダニエルの手が、軽く握られる。途端に、全身にとんでもない重みが加わって、石畳に激しく叩き付けられた。
びしっ、と顔の脇で石畳が砕け、石の破片が散る。翼を上げようとしても、重みによってすぐに落ちてしまった。
体の周囲で、石畳のヒビは増えてどんどん大きくなっていく。このまま行けば、地面にめり込んでしまうだろう。
何しやがんだ、ダニーさん。喉を開いて牙を剥き、叫んだ。掠れていた声に力が入り、ざらついた咆哮となった。
頭上に近付いてきたレオナルドは、拳銃を下げた。少し歩いただけなのに、辛そうに顔を歪め、肩を上下させた。

「ああ、間違いないな。ここまで近付くと、さすがにオレでも解る」

「フローレンスの奴が動けたら、もう少し楽に事が運んだな」

ダニエルは念動力を切らぬまま、レオナルドの隣にやってきて、同じように見下ろしてきた。

「これからどうする、レオ。いくらなんでも、このままというわけには行くまい」

「だが、これといって良い方法も思い付かんな」

レオナルドは、拳銃をホルスターに戻した。ダニエルは屈み、こちらに手を差し出してきた。

「とりあえず、連れて帰るしかないな。フィリオラが回復していたら、どうにか出来るかもしれない」

フィリオラ。その名に、血が滾った。またあの血を喰いたい、喰うんだ、喰らうんだ。激しい衝動が、魂を揺さぶる。
渾身の力で、翼を広げた。念動力の圧で骨が折れてしまうかと思ったが、ある程度まで上げると加圧が消えた。
どうやら、念動力には領域が決まっているようだ。これならいける。そう確信し、両腕を力一杯突っ張った。
咆哮と魔力を放ち、念動力を中和していく。圧力が震え始めたかと思うと徐々に弱くなり、ダニエルが後退った。
ダニエルが目を見開いた直後、空中に躍り出た。翼を広げて滑空し、近くの建物の上に降りて二人を見下ろした。

「ぅかかかかかかかかか」

甲高く、裏返った声。銀灰色の体毛に覆われた腕で、口元を拭う。

「けけけけけけけけ」

喰う。喰うんだ。そのためには、この二人が邪魔だ。喰っても旨そうにないし、この二人がいては面倒になる。
倒すべきだ。そう思い、屋根を蹴って高く跳んだ。身動いでいる二人の間に着地すると、素早く飛び出した。
長い爪の生えた手を振り回し、レオナルドとの間を詰める。レオナルドは一回二回は避けたが、足がもつれた。
すかさず、彼の胸に拳を埋めて吹き飛ばした。思いの外容易く彼の体は浮かび上がり、壁に向かって飛んだ。
だが、壁に当たる寸前で彼の体は止まった。ダニエルの仕業か、と察した瞬間、砕けた石畳の破片が浮かんだ。

「このっ!」

弾丸のような速度で飛んできた石の破片が、真正面にやってきた。身を翻すと、びっ、と顔の脇の毛が切れた。
他にもいくつか飛んできたが、全て避けることが出来た。これも、竜の血を飲んだおかげなのかもしれない。
楽しい、楽しすぎる。ダニエルの石の弾丸が止まったので足を止めると、ダニエルを見据え、にたりと笑った。
こっちの番だ。拳を固めて腰を落とし、石畳を踏み切った。応戦するべきか迷っている彼に、一直線に向かう。



「待ちなさい!」



頭上から、高い声がした。ざっ、と足を擦ってダニエルの前で止まり、辺りを見回すが声の主は見当たらない。
だが、気配はあった。圧倒的な力の感覚、本能をざわめかせる畏怖。目を動かしていたが、真上を見上げた。
空と街の間に、女の姿が浮かんでいた。竜の翼を生やした小柄な女が、赤い瞳で、こちらを強く睨んでいた。

「私があなたの相手をします」

「おっ、お前、動いて大丈夫なのか!?」

座り込んでいたレオナルドが、竜の女に叫んだ。竜の女は長い緑髪を掻き上げ、にやりと笑む。

「ええ、動けますよ。私は竜ですから」

翼を畳んで、竜の女はふわりと舞い降りてきた。二人の男を一瞥すると、ふん、と息を漏らした。

「どうしてこう、あなた方は肝心な時に役に立ちませんかねぇ。こういう場合はですね、足腰が立たなくなるまで徹底的に痛め付けてしまえばいいだけのことですよ。それが一番安全かつ確実じゃないですか。そんなことも解らないんですか、あなた方は」

竜の女、フィリオラの偉そうな物言いに、ダニエルは変な顔をした。それを見、フィリオラは言う。

「ちょっと口調と態度が変わったぐらいで、人格まで変わったとか思わないで下さいね、ダニーさん」

フィリオラはダニエルを一瞥してから、呆れたような顔をした。

「それと、あなたがフローレンスさんに施してきた中途半端な出力の魔法を解除して、数段上のものをフローレンスさんに施してきたのでご安心を。思っていたより、魔法の方はお上手じゃないんですねダニーさん。床に残っていた魔法陣も魔法文字の組み合わせがいい加減だし、使った魔法もあの状況では的外れです。今回のように血と魔力をごっそり抜かれている場合では、被術者の体力を高める回復魔法ではなく、術者の魔力を被術者に移す魔法を使うべきなんですよ。ただでさえ消耗した魔力と体力を、強引に回復させたところで、逆に消耗が激しくなってしまうだけですからね。馬鹿じゃないですか、あなた」

一息にまくし立てられて、ダニエルは反論する隙を失った。フィリオラの言うことはもっともだし、正しいと思う。
だが、何もここまで偉ぶることはないだろう、とは思ったが、強い雰囲気に圧倒されてしまって言えなかった。
以前にギルディオスから、竜の力を戦闘能力に昇華させたフィリオラの性格の変わり様は、聞いたことはあった。
しかし、ここまでとは思っていなかった。普段が気弱で可愛らしい少女なので、ここまで変わるといっそ別人だ。
この状態のフィリオラに慣れてしまえば平気なのだろうが、ダニエルは慣れていないので、かなり戸惑っていた。

「だが、フィリオラ。あいつは」

レオナルドは銀灰色の獣を見、苦々しげに漏らした。フィリオラは澄ました表情で、獣に顔を向けた。

「解っていますよ。殺しはしません」

三人の目が向けられた先で、獣が唸っていた。銀灰色の毛に全身を覆われ、翼を生やした、巨体の獣だった。
鋭く太い牙の並ぶ口元からは、赤い唾が滴っている。体毛の下には、固い筋肉が張り詰めているのが解る。
理性を失った白銀色の瞳は嫌な光を帯びていて、三人を見ていなかった。ただ、欲望だけが漲っていた。
フィリオラは太く逞しい竜の手を上げ、ばきり、と指の関節を鳴らした。薄い唇の下から、鋭利な牙が覗いた。

「覚悟なさい。徹底的に、料理してあげますからね」

竜の女の冷たい眼差しが、銀灰色の獣の視線とぶつかった。



「ブラッドさん?」







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