ドラゴンは眠らない




人で在るために



フローレンスは、うんざりしていた。


天井越しに伝わってくる二人の思念が、頭にがんがんと響いている。幸せで甘ったるい、言葉と感情の数々だ。
意識せずとも感じられてしまうほどに、フィリオラとレオナルドの、お互いに対する愛情は深く強くなっていた。
それ自体は良いと思うのだが、二人はそれぞれの魔力が強いことを、そして、フローレンスの存在を忘れている。
フローレンスの精神感応能力は、いくら押さえても常に思念を受信してしまう。そのことを、失念しているようだ。
うあー、と力なく唸りながら、フローレンスはベッドの中で転がった。窓の外からは、朝日が差し込んでいる。
枕元にある書きかけの設計図を押しやってから、枕を頭に被せてみた。だが、一向に二人の思念は途絶えない。
レオさんの意地悪、でも好き、この馬鹿が、ああもう可愛いなぁこいつは、などと、延々と繰り返されている。
それでなくても、他人の思念には困らされているのに、こうも毎日のように浴びせられると体に悪い気がする。
フローレンスは枕を上げて体を起こし、寝癖の付いた長い髪を撫で付け、ベッドから下りて部屋履きを引っ掛けた。
欠伸をしながら、工具や機械部品が散らばる部屋を歩き、台所に入った。調理台にまで、部品が載せられていた。
半分ほど中身が残っている牛乳瓶を取ると、コップに注いで飲み干した。フローレンスはコップを置き、呟いた。

「恋って」

二人のいる三○二号室の方向を、見上げてみた。すると、更に強く思念が受信されてしまった。

「そんなにいいものなのかなぁ」

フローレンスは精神感応能力で他人の感情を感じ、擬似的に恋愛感情を知ってはいるが、体験したことはない。
なので、二十五歳になった今でも、男性経験は皆無だった。付き合ったことはおろか、体を繋げたこともない。
以前に異能部隊の他の女性隊員の思念から、恋愛感情の美醜も情交の快感も痛みも、知り得てしまっている。
そのせいもあり、今更することもないかな、とも思っているが、一度ぐらいは恋をしてみたいという気はあった。
だが、その相手は見当たらない。そもそも、恋心を抱くほど素敵な男性が目の前に現れたことなど、皆無だ。
異能部隊という閉鎖的な環境にいたということもあるが、今まで、身を捧げても良いと思った男はただ一人だ。
それは当然ながらギルディオスだが、ギルディオスは甲冑の身である上に、己の妻以外の女には興味がない。
それに、ギルディオスに対する感情は、恋というよりも、父親に対する信愛と上官に対する忠誠心なのだ。
だから、厳密には恋ではない。フローレンスは自分の色気のなさが嫌になってきて、あー、と変な声を出した。

「やんなっちゃう」

白く汚れたコップを水を張った桶に浸し、台所から出た。着替えるために、床に放り投げていた作業着を取った。
寝間着を脱ぎ捨てて下着を着、作業着を着込む。その際に、足首や腰に、外から見えないように武器を仕込む。
薄いナイフを両足に付け、ベルトの後ろには折り畳み式のナイフを仕込み、物入れには小型の拳銃を入れる。
いざというときに使えるように身に付けておかないと、落ち着かなかった。もう、十何年もそうしてきたからだ。
軍靴に似たブーツを履き、とんとんとつま先を打ち付ける。靴底には、厚めの金属板が埋め込んである。
蹴りを放った際に破壊力を増すために、改造してあるものだ。靴底の金属板に、フローレンスは苦笑した。

「恋なんて出来るはずないよね、あたしなんかが」

こんな、武器の固まりの女が、人ではなく機械をまず愛するような女が、他人の心を読む化け物が、恋愛など。
誰かに惚れたところで、愛を告白する前に、相手の感情を勝手に読み取って失恋してしまう方が先だろう。
作業着を上まで着てから、櫛を取って髪を梳く。背中の中程まである長い金髪は、いつも邪魔だと思っている。
だが、切る気は起きなかった。以前にギルディオスに、髪ぐらいは女らしくしとけ、と言われて伸ばしたからだ。
手入れなどあまりしないし、戦闘の際には鬱陶しくて仕方ないのだが、なんとなく切れずに伸ばし続けている。
縛り紐を取って、後頭部に高く持ち上げて一括りにする。鏡に映して、結んだ位置がずれていないか確かめた。
テーブルに放置してあった、昨日の食べ残しのパンを取って囓りながら、扉を開けて廊下に出、鍵を閉めた。
三階からの思念は、止むことはない。フローレンスは乾いて固くなったパンを、強引に口の中に押し込んだ。
作業着のポケットから魔導金属製の耳飾りを取り出して付けると、魔導金属で思念が阻まれ、少しは薄らいだ。
フローレンスはパンを飲み下してから、階段を下りていった。玄関前の広間には、ヴェイパーが立っていた。
その隣で待っていたダニエルは、フローレンスを見上げてきた。彼女のよれた作業着を見咎め、顔をしかめた。

「少しはきちんとしないか」

「面倒なんだもん」

フローレンスはダニエルの隣を過ぎ、玄関の扉を開けた。ダニエルは、呆れている。

「お前はそれでも女か」

「だってさー、どうせ仕事で汗と油で汚れちゃうんだから、綺麗にしたって意味ないじゃん」

フローレンスは、軽い足取りで階段を先に下りた。ダニエルは、その後に続く。

「それはそうかもしれないが、それとこれとは別だろうが」

「今更女らしくしたって、どうしようもないじゃんか。それぐらい、副隊長にも解るでしょ?」

フローレンスは、ダニエルの言い回しが妙に癪に障り、苛立ってしまった。歩調を早め、先に行ってしまった。
ダニエルはヴェイパーの隣で立ったまま、怪訝そうにしていた。なぜ、そこで彼女が苛立つのかが、解らなかった。
ただ、ごく一般的な注意をしただけだ。身嗜みを整えろ、ということは異能部隊時代からも良く言っていた。
ダニエルとしては、ごく当たり前のことをフローレンスに言っただけなのに、なぜ今日に限って怒るのだろうか。
ダニエルはさっぱり訳が解らず、足早に歩道を進むフローレンスの背を見ていたが、機械人形を見上げる。

「どうしたんだ、あいつは?」

「うーん…」

ヴェイパーは、朝靄の中に消え行くフローレンスの背を見つめ、その思念を掴んで読んでみた。

「よく、わからない」

「まぁ、大方下らないことだろうがな」

面倒だな、とぼやきながら、ダニエルはフローレンスを追った。ヴェイパーは、その背に大きな手を振る。

「いってらっしゃい、ふくたいちょう、ふろーれんす」

ダニエルは、ヴェイパーに手を振り返してから歩調を早めた。彼の大きな背は、朝靄の中に遠のいていった。
ヴェイパーは振っていた手を止め、また直立の姿勢に戻った。先程読んだ彼女の思念は、意味が解らなかった。
フローレンスは、恋、すなわち、恋愛をしてみたいと思っていたらしいが、それを恐れている理由が掴めなかった。
彼女もれっきとした女である以上、男性を求めるのは生き物としては当然の本能であるし、自然の摂理でもある。
だが、なぜそれが怖いのか、全く解らなかった。恋愛とはとても幸せなものだ、とフィリオラは言っていたのに。
幸せになれる恋愛を求めることに恐れる理由などない、と思うのだが、ヴェイパーにはそれ以上は解らなかった。
ただでさえ人間の心理は複雑だというのに、些細なことで揺れ動く女性の心理など、理解し切れるはずがない。
ヴェイパーは思考のし過ぎで、胸の青い魔導鉱石が過熱してきた。その熱は、頭痛に似た鈍い痛みと化してきた。
うー、と唸りながら、ヴェイパーは玄関から外へ出た。関節の隙間を開き、どしゅう、と白い蒸気を吐き出した。
視界が真っ白くなり、辺りは蒸し暑くなったが、風が抜けると途端に冷えた。近頃、めっきり気温が下がってきた。
階段の両脇に目をやると、サラが熱心に手入れをしていた花の鉢植えが置いてあり、寒さで葉が縮こまっていた。
色鮮やかだった花びらも縮れてしまっているが、その下には種子が詰まった膨らみがあり、触れれば爆ぜそうだ。
もう、すっかり秋だ。ヴェイパーは蒸気機関の冷却のために吸い込む空気の温度で、季節の移り変わりを感じた。
旧王都はまだほんの少しだけ夏の気配が残っているが、首都はもう秋の真っ直中で、じきに冬が訪れるはずだ。
首都は旧王都より大分北寄りに位置しているので、季節の進み具合も早く、空気の冷え込みも違っている。
だが、もう、それを感じることはない。その首都が滅びてしまったのだから、二度と帰ることは出来ないだろう。
帰ることが出来ないと思うと、不意に空虚な感覚に襲われた。それが、寂しい、であると解るまで間があった。
寂しさは、人造魂が締め付けられるような感情だった。




翌日。フローレンスは、サラの部屋にいた。
共和国全体の深刻な不況と物資不足、鉄の輸入制限の影響をまともに受け、鉄工所の仕事が減ったせいだ。
当初は残業まで行うはずだったのだが、部品に加工するための鉄材がなくなってしまい、仕事にならなくなった。
なので、午前中で切り上げて帰ってきてしまった。だが今日に限って、フィリオラもブラッドもいなかった。
レオナルドがいないのは当然なのだが、フィリオラの仕事の時間帯はまちまちなので、たまにいることがある。
だから今日もいるのではないか、と思っていたが、今日に限ってフィリオラは朝から魔導師の仕事に出ていた。
ブラッドも、新婚早々に夫が出征してしまったキャロルの相手をするために、ヴァトラスの屋敷に行っていた。
その際に、どういうわけだかヴェイパーまで連れていったらしく、玄関先の広間に機械人形は立っていなかった。
そんなわけで、暇を持て余したフローレンスは、一階にあるサラの部屋に入り、彼女と共に紅茶を飲んでいた。
初めて入ったサラの部屋は、彼女の清楚で落ち着いた印象そのままで、きちんと整頓されていて上品だった。
居間の食卓には可愛らしい花が飾られていて、窓辺には鉢植えが置いてあり、こぢんまりとした家具が並ぶ。
フローレンスは、部屋が片付いていることが妙に落ち着かなかった。自分の部屋が、荒れすぎているせいだ。
自分の部屋は、所構わず服が脱ぎ捨ててあり、工具も散らばっていて、機械の設計図もぞんざいに重ねてある。
まるで男の部屋のような惨状で、最近では、むしろそうであった方が落ち着くようにすらなってしまっていた。
だから、潔癖なサラの部屋はある意味では異様だった。フローレンスは居心地が悪くなって、肩を縮めた。
目の前に置かれたティーカップからは、華やかな香りの湯気が立ち上り、透き通った紅茶が満ちている。
場違いだよなぁあたし、と思いながら、フローレンスは紅茶を飲んだ。見た目に違わず、とてもおいしかった。
向かい側に座るサラは、久々の来客に上機嫌だった。年齢を感じさせない目元を綻ばせ、優しく笑んでいる。
今年で三十二歳になる、と言っていたが、そうは見えなかった。まだ、二十代前半と言っても通用しそうだ。
美人というよりも可愛らしさのある顔立ちは、少女時代の名残を残していて、仕草からも育ちの良さが窺えた。
深みのある茶色の長い髪は、後れ毛も残さないほど丁寧に結ってあり、後頭部にきちんとまとめてある。
派手ではないが品のある草色のエプロンドレスには、手製と思しき花の刺繍が、さりげなく施されてあった。
フローレンスは紅茶を飲み下してから、ケーキの載った皿を引き寄せると、フォークで崩して口に運んだ。

「やっぱ、そういうもんだよねぇ」

「何がです?」

サラは紅茶を飲む手を止め、フローレンスに尋ねた。フローレンスは、柔らかなケーキを半分に切った。

「サラさんって、女らしいなぁーって」

「そうかしら。私は、フローレンスさんも充分女性らしいと思うわ」

穏やかに微笑んだサラに、フローレンスはケーキの半分を一気に食べた。

「そういえば、サラさんって結婚とかしないんですか? 相手なんてすぐに見つかりそうなもんですけど」

「今も昔も、私は一人よ。だから、ここの大家をしているようなものよ」

サラはティーカップを下ろすと、膝の上で手を重ねた。

「この建物は、私の両親の財産だったの。けれど、両親はどちらも早くに死してしまって、私にはこの共同住宅と少しばかりの遺産が手元に残ったのよ。最初はここを売ってお金にしてしまおうかって思ったんだけど、せっかく両親が残してくれたものだし、頑張れるだけ頑張って守っていこうって思って、大家になったのよ。そりゃあ、最初は上手く行かなかったし、今も試行錯誤の日々だけど、フローレンスさん達が住んで下さっているから、まるで家族が増えたみたいで楽しいから、今はもう寂しくはないわ」

サラの微笑みが、僅かに陰った。

「私は、結婚はしないのよ。というより、出来なかったのよ。ずっと昔から好きだった人がいたんだけど、その人は私よりずっと身分が高くて、貴族の生まれだったの。彼は私と結婚したいって言ってくれたんだけど、彼の両親が反対して、そのまま別れてしまったの。その彼が、この間、志願兵として出征してしまったんだけど、その時に彼と約束をしたのよ。生きて帰ってきたら結婚しよう、って。だから私は、彼が帰ってくるまで結婚しないって決めたのよ。帰ってこなかったら、一生、だけどね」

フローレンスは、憂いを含んだ笑顔のサラを見つめた。彼女の思念には、彼に対する思いと悲哀が滲んでいた。
戦争の実情を知っているので、きっと生きて帰ってくる、という気休めの言葉を軽々と言えるはずもなかった。
志願兵は兵士かもしれないが、ほんの少し前までただの民間人でしかなかったのだから、素人に過ぎないのだ。
そんな人間が、実戦に置いて役に立つわけがない。志願兵や徴兵は、あくまでも白兵戦の数合わせでしかない。
数と数をぶつけ合うだけの単純な戦闘で、どちらも素人でしかないのだから、どちらもほとんど生き残らない。
運良く生き長らえたとしても、次の戦闘で死してしまうことも多く、戦後に家へ帰れる兵士はかなり少ないのだ。
無論、兵士に限らず、過酷な訓練を繰り返した軍人達も、いついかなる時にやられてしまうのか予測出来ない。
リチャードもそうだ。彼がどれほど優れた魔導師であろうとも、不意を突かれては、戦死してしまうだろう。
だから、サラの言う彼が帰ってくる可能性はほとんどない。遺体か遺品が戻ってきたら、まだいい方と言えよう。
フローレンスはそれを言うべきか迷ったが、言わないことにした。下手に、現実を見せ付けるべきではない。
サラはフローレンスの沈黙を気遣いだと察し、微笑みから憂いを消した。膝の上の手を、軽く握り締める。

「もちろん、覚悟はしているわ。でも、自分の身に降り掛かると、やっぱり困ってしまうものね」

「普通はそうですよ。でも、万に一つってこともあるかもしれませんから」

フローレンスが笑ってみせると、そうね、とサラは頷いた。

「期待し過ぎちゃいけないけど、期待しないでいるのも彼に悪いわね」

「もしかしたら、うっかり戦闘の才能が芽生えてバリバリに活躍してるかもしれませんしね」

フローレンスは、出来る限り明るく言った。サラはティーポットを取り、二杯目の紅茶を自分のカップに注いだ。

「そうね。そうだったら、とてもいいわね」

「あ、あたしにも下さい」

フローレンスがソーサーを押してティーカップを差し出すと、サラは彼女のカップの中にも紅茶を注いだ。

「どうぞ。いくらでも飲んで下さい」

「あたし、紅茶淹れるのとか料理とか下手だから、サラさんとかフィオちゃんは尊敬しちゃうなぁ」

フローレンスは、八分目まで紅茶の入ったティーカップを自分の元へ引き寄せると、琥珀色の水面が揺れた。
サラはティーポットを置くと、スカートを整えて座り直した。卵色の柔らかなケーキを、フォークで切る。

「私もそんなに上手い方じゃないわ。一通りのことは出来るけど、突出して得意なものなんてないのよ」

フローレンスは二杯目の紅茶に、砂糖を入れた。二杯ほど砂糖を入れて紅茶を掻き回しながら、ふと思った。
このご時世にも関わらず、なぜサラの元には砂糖があるのだろう。大抵は、闇から闇に流れてしまうはずだ。
だが、あまり深く考えないことにした。大方、その彼が出征する前に渡していったのだろう、と結論を出した。
フィリオラも、やたらと大量に砂糖の備蓄をしていたので、今になっても、事ある事にお菓子を作っている。
きっと、この砂糖は彼のサラへの愛情に違いない。そう思いながらフローレンスは、濃いめの紅茶を口に含んだ。
サラは自作のケーキの出来を確かめているらしく、味わって食べている。彼女もやはり、恋をしていたのだ。
しかもその恋は、戦争によって引き裂かれてしまった。見た目は辛くなさそうだが、内心はかなり辛いだろう。
彼女の思念は明るいものとなっているが、その端々には暗さがあった。その間からは、恋の記憶が垣間見えた。
フローレンスは、昨日感じた恋愛への興味と羨望を思い出した。出来ないと思えば思うほど、してみたくなる。
やはり、一度ぐらいは恋をしてみたい。嫌味のない甘さのケーキを食べ終えてから、フローレンスは呟いた。

「サラさん。恋をするのって、どんな感じなんです?」

「そうねぇ…。具体的に説明するのは、難しいんだけど」

サラは気恥ずかしげに小さく笑み、ティーカップの持ち手を指で押し、くるりと回した。

「とても、楽しくて苦しいわ。人を好きになるのって、そういうことだと思うの」

「フィオちゃんの思念も、そういえばそんな感じだったなぁ」

フローレンスは背もたれに体重を預け、ぎっ、と軋ませた。穏やかな昼間の日が差し込む、天井を見上げる。
フィリオラの思念と共に読んでしまった彼女の記憶を、思い出した。レオナルドに恋をしたばかりの頃のものだ。
その頃の記憶には、熱と痛みばかりがある。レオナルドに近付くたびに、彼女は胸を強く締め付けられていた。
フローレンスにとっては苦しいだけとしか思えなかったが、フィリオラは、その苦しさすらも恋に昇華していた。
苦しくても辛くても、好きで好きでたまらない。心臓が壊れそうなぐらい高まっても、近付かずにはいられない。
どれほど強い衝動なのか、解らなかった。そして、どれほどその気持ちが熱いものかも、想像が付かなかった。
とても、知りたくなった。けれど、恋をしてしまっても、その相手の思念を読んでしまったら意味がないのだ。
恋は、相手の気持ちが解らないからこそ苦しくて楽しいものだ。だが、精神感応能力は、それを許さない。
意識しなくても、他人の思念が読めてしまう。魔導金属で妨害しても、魔力鎮静剤を飲んでも、押さえ切れない。
好きになるよりも先に、嫌われていることが解ってしまったり、他人を好いていることを知ってしまうだろう。
やっぱり、化け物は恋なんて出来ないんだ。フローレンスは姿勢を元に戻して、ティーカップに手を伸ばした。
せめて、思念を読めない相手がいれば、恋が出来るかもしれないのに。そんな人間なんて、どこにもいない。
落胆しながら紅茶を一口飲んで、はたと気付いた。思念を読めない相手なら、すぐ傍にいるではないか。
だが、その相手を恋愛対象として捉えたことはないし、相手もそうは捉えていないだろうから、無理だろう。
それでも、やるだけやってみるのは悪くないかもしれない。一時の遊びとして、ダニエルに恋をしてみよう。
フローレンスは、なんだか楽しくなってきた。紅茶を飲み干してから、どうやれば恋になるか、考えを巡らせた。
フィリオラやキャロルから読み取った記憶を参考にして、男に対する接し方や女らしい仕草などを思案した。
それだけで、恋をしているような気分になった。




日の暮れかかった頃。ダニエルは、ネコと戯れていた。
路地裏の狭い一角にいた野良で、濃い灰色の縞模様が付いたネコだった。まだ子供で、鳴き声も可愛らしい。
撫で回すとごろりと寝転がり、腹を出して身を捩る。その様が強烈に愛らしくて、無意識に顔が緩んでいた。
ふにゃふにゃと甘えて転げ回るネコを、ダニエルは撫でていた。時折爪を引っかけられるが、気にならない。
ネコはひとしきり石畳に背中を擦り付けていたが、起き上がった。ふみゃあ、と鳴いて足に擦り寄ってきた。
ダニエルの脛の辺りに、乱暴に額を擦り付けてくる。ダニエルはすぐ手前にあるネコの背に、手を滑らせる。
砂埃に汚れた毛を撫でていると、背後に足音がした。ネコを撫でる手を止めないまま、後方に振り返った。

「なんだ」

緩んでいた表情を固めてから、ダニエルは人影を見上げた。西日の逆光の中に、フローレンスが立っていた。
ダニエルの手の下から脱したネコは、するりと足の下を抜け、とたとたと駆けて彼女の元に近寄っていった。
フローレンスは屈むと、ネコを抱き上げた。うみゃあ、と気の抜けた鳴き声がし、ネコは尾を振っている。
ダニエルは作業着に付いたネコの毛を払ってから、立ち上がった。フローレンスの影絵に、違和感を感じた。
いつもは後頭部で一括りにされている長い金髪が下ろしてあり、作業着姿ではなく、武装もしてないようだった。
ネコを腕に抱いた彼女は、こちらに歩いてきた。靴音も違っており、靴底からは金属板の音はしてこなかった。
無防備も良いところだ、とダニエルは内心で毒づいた。一つ二つでもいいから、武器は仕込んでおくべきなのに。
逆光を脱して西日の中に出てきたフローレンスは、減り張りの付いた体の線が良く出る、ワンピースを着ていた。
たっぷりと大きな胸から下、腰の部分を紐できつく絞られているため、大きな胸がより強調されて目立っていた。
下ろしてある髪も綺麗に整えてあり、うっすらとだがそれなりに化粧をしている。ダニエルは、かなり困惑した。

「なんて恰好をしているんだ、お前は」

「…やっぱ、似合わない?」

フローレンスは、大きく広がっている襟刳りを押さえた。赤ワインに似た色合いのスカートが、軽く揺れる。

「サラさんのを借りてみたんだけど」

「武器は、どうした」

ダニエルが呆気に取られていると、フローレンスはネコを足元に下ろしてから答えた。

「外してきた。こういう恰好になると、隠しようがないし」

「外してきた、ってお前、今がどういう状況なのか解っているのか?」

ダニエルは呆れ果てて、額を押さえた。戦況が悪化してただでさえ治安が悪い上に、特務部隊の件がある。
いつ何時、誰に襲われてしまうのかも解らないのに、丸腰でいたのでは間違いなく命を落としてしまうだろう。
フローレンスはダニエルと違って攻撃に使える異能力ではないのだから、特に気を付けておくべきだというのに。
ダニエルがそれを注意しようとすると、フローレンスは体を前に傾げた。何事かと思っていると、体重が掛かる。
胸に、フローレンスが顔を埋めていた。背中に腕が回されると距離が完全に失せ、柔らかな体が密着してくる。
いきなりのことに、ダニエルはぎくりとしてしまった。どうするべきか解らないので混乱していると、彼女が言った。

「ダーメだぁー」

やたらと残念そうにしながら、フローレンスはダニエルから離れて顔を上げた。

「全っ然どきどきしない」

「なにが、だ」

ダニエルが動揺で声を上擦らせると、フローレンスは首を捻る。

「やっぱり、副隊長なんかじゃダメだぁ。なんか、こー、ぐっと来るものがないっつーか」

「だから、何がだ」

「ていうかあたし、副隊長に男を感じたことなんてないんだよね、そういえば。ずーっと近くにいたわけだし、どちらかって言えば兄弟みたいなもんだし、まず好きになるような系統じゃないし、眼中にないっていうか、あーもう…」

「とりあえず、理由を言え、理由を」

平静を装い、ダニエルはフローレンスを見下ろした。押し付けられた胸の感触が、腹の辺りに残っていた。
ダメだぁー、と嘆くフローレンスは、項垂れている。艶やかな金髪の間からは、白い首と鎖骨が見えていた。
また、ダニエルはぎくりとした。胸の辺りに残る胸の感触と今し方目にしたものを払拭するため、目を逸らす。
フローレンスは落胆した様子で、髪を掻き上げた。身動いでいるダニエルを見上げたが、はあ、と息を零す。

「あたしさー、ちょっと思ったわけよ」

少々言い淀んでから、フローレンスは呟いた。

「恋、してみたいなぁって」

「なんだそれは」

ダニエルは、ますます訳が解らなくなった。フローレンスは口元を引きつらせ、自嘲する。

「一度ぐらいはしてみたいなって、思ってみちゃったのよ。らしくないけど。でもさ、あたしの力は精神感応じゃない。だから、恋なんてする前に相手の心が解っちゃうから、しようと思っても出来ないわけよ。したことないけどさ。でも、なんでか解らないけど心が読めない副隊長だったら、恋が出来るかなって思ったんだけど、考えてみたら副隊長はあたしの好みと全然違うわけよ。フィオちゃんの真似してみようって思って副隊長にへばり付いてみたけど、どきどきどころか意識すらしなかったわ、あたし」

「つまり、恋愛ごっこか?」

「うん」

フローレンスは頷いた。ダニエルは、途端に馬鹿馬鹿しくなった。何かと思えば、ごっこ遊びとは。

「フローレンス、お前は馬鹿か。そんな下らないことのために、武装を外すんじゃない」

下らない。その言葉に、フローレンスは無性に腹立たしくなった。そして悔しくなってきて、唇を噛み締めた。
確かに、そうかもしれない。ついこの間まで、戦いにだけ生きてきた女が、いきなり恋など出来るはずがない。
増して、自分は化け物だ。人の心を読む力と、人の精神を掻き乱す力を持った、人間であって人間でない存在だ。
ダニエルの言うことはもっともだし、彼の懸念も解っているが、ささやかな願いを否定されたような気分になった。
人間でいることはおろか、女でいることさえもいけないのか。いつのまにか涙が出てきて、頬を伝い落ちていた。

「…もういい」

フローレンスはぎっとダニエルを睨むと、強烈な思念と共に言い放った。

「副隊長なんか、好きになんかならない!」

激しい感情の奔流を受け、ダニエルはよろけた。崩れかけた足元を保った頃には、彼女の背は遠ざかっていた。
目元を押さえて脳髄に響く痛みを堪え、呼吸を落ち着ける。頭の中には、フローレンスの感情が残っていた。
いいじゃないの恋ぐらいしても、あたしだって女だ、それなのになんで、ひどい、それぐらいはいいじゃないの。
そりゃあたしは化け物だけど、少しぐらいはいいじゃないの、羨ましいんだ、凄く羨ましいんだ、なのに、なのに。
だいっきらい。その言葉を残して、フローレンスの感情の思念は弱まり、ダニエルの内側で、崩れて消えた。
とても、いけないことをした。そう気付いたが、もう遅かった。フローレンスの姿は、どこにも見えなかった。
陰った夕日は西に没してしまい、建物の狭間にだけ満ちていた深い闇が徐々に広がり、街を侵食し始めた。
ダニエルは歩き出そうとして、足を止めた。不思議そうな顔をしているネコがダニエルを見上げ、一声鳴いた。
ネコはしばらくダニエルの様子を窺っていたが、構ってくれないと解ると、細い路地の隙間を駆け抜けていった。
ダニエルは近くの壁に、力なく寄り掛かった。思念は消えても、フローレンスの強い感情の残滓は残っている。
罪悪感ばかりが駆け巡る。何をどうしたらいいか解らない。追うべきかもしれないが、足が動いてくれない。
そんなにひどいことを言ったつもりはない。普段通りに、上官として締めるべきところを締めていただけだ。
以前であれば、彼女は笑って返していた。そりゃそうだよねぇ、あたしなんかには似合わないよねぇ、とでも言って。
だが、そうではなかった。いつのまにか、フローレンスは変わっていたのだ。それに、一切気付いていなかった。
ほとんど毎日一緒に行動して、異能部隊にいた頃よりも、接する時間も増えて距離も狭まっていたはずなのに。
上官失格だ。ダニエルは脱力してずるりと座り込むと、胸の奥底が締め付けられるような感覚に、気付いた。
出来たばかりの裂傷を抉られるような、痛みだった。







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