ドラゴンは笑わない




二人きりの地下迷宮




人間の死体は地下三階よりも少なかったが、代わりに魔物の死体が多かった。
ギルディオスは、足元を塞いでいたナガテムカデの死体を蹴飛ばし、辺りを見回す。壁を覆う、カビも増えた。
この階のどこかに、地下で大暴れしている魔物がいるはずだった。それが、今回の本来の目的だ。
外に出てくるわけでもなし、地下迷宮を破壊するでもないのだが、暴れるせいで地面が揺れるのだそうだ。
この地下迷宮の近辺には、貴族の別荘がある。その持ち主が、僅かな地面の揺れも我慢が出来ないらしい。
だから、地下迷宮を住み処にしている魔物を倒してくれ、というのが今回の仕事の依頼理由だった。
割に下らない依頼理由を思い出したギルディオスは、げんなりしながら呟いた。

「理由がしょーもないと、金払いも悪いんだよなぁ…」

「いいと言えばいいかも知れぬぞ。魔物一匹を倒した手取りが、金貨十枚なのだからな」

「割に合わねぇんだよ。大体、地下四階まで行くのがまず骨だってのに。十じゃ少な過ぎる」

「されど金貨十枚だ。貴君のもらう報酬にしては、かなりいい方ではないのか?」

「あーもうこんちきしょー! 戦うのがオレ一人だからって、報酬を差っ引きやがったなー!」

あらぬ方向に喚き散らしたギルディオスを、伯爵はとりあえず宥めた。

「借金の九十分の一は返せるのだから良いではないか」

「どこがだよ」

腹立ち紛れに、ギルディオスは床を踏み付けた。仕事の内容と報酬が、釣り合わないことに苛立ってしまう。
お、と伯爵が不意に声を上げた。ギルディオスが立ち止まると、伯爵は苔の溜まった壁の角を指す。

「ほれほれ、ここを掘りたまえギルディオス」

「ミミズがいるんだろ?」

やる気はなかったが、ギルディオスは足でたっぷりとした苔を払った。埃が散り、乾いた土が舞い上がる。
枯れた苔を蹴散らすと、その中からうねうねと動く、太く長い灰色のものが現れた。これが、イワミミズだ。
床と壁の境目を埋めるかのように、乾いた苔は続いていた。ギルディオスは、それをどんどん蹴飛ばしていく。
ギルディオスはずりずりと前に歩いていって、立ち止まった。振り返ると、辺りにイワミミズが散乱している。
いきなり放り出された彼らは、何をするんだと言わんばかりに身をくねらせ、しゅうしゅうと警戒している。
目のないイワミミズの頭らしき方向が持ち上がり、口が開かれた。小さな牙の隙間から、煙が立ち上った。
ギルディオスは革袋を下ろし、中を探ってもう一つの麻袋を取り出した。ばん、と袋を広げる。

「今度のは楽そうだな」

うねうねと土の中をのたうち回るイワミミズを、ギルディオスは掴んだ。が、手応えがない。
ざらついた手触りを指が通り抜け、ざぁ、と砂が流れ落ちる。一瞬、何が起きたのか解らなかった。
イワミミズの掴めていない手と、足元で煙を吐き出しながら警戒するイワミミズを、ギルディオスは見比べる。

「…え?」

床に付けた膝には、ばちばちとイワミミズが体当たりしてきていた。群れを成し、攻撃してくる。
ギルディオスは今度こそ、と思い、その中の一匹を握り締めた。するとまた、指の間を砂が滑り落ちてしまう。
しゃらしゃらと砂は零れ、床に山となった。確実にイワミミズを掴んだはずなのに、またもや砂を手にしていた。
ますます混乱しながらも、ギルディオスは膝に食らい付こうとする一匹を殺すつもりで、拳を打ち付けた。
どごん、と衝撃と同時に砂埃が舞い上がる。固く握り締めていた拳を上げると、その下には何もない。
あるのは、やはり砂の固まりのみ。ギルディオスが訝しんでいると、砂の固まりは、ざわりと動いた。

「お?」

次第に寄せ集まっていった砂粒は、きちきちと擦れ合いながら形を作っていく。太く、長い体が出来る。
両脇に縦筋の付いた胴体をくねらせながら、イワミミズの前半分は、ずりずりと這って周囲の砂を集める。
しばらく動くと、羽根のような膜の生えた後ろ半分も出来上がり、潰したはずのイワミミズが蘇った。
そして、そのイワミミズはギルディオスへ煙を噴き上げる。よくも潰してくれたな、とでも言いたいのだろう。
ギルディオスは感心すると同時に、納得した。こういう生き物ならば、捕まえられなくて当然だ。

「なーるほど。砂が体になってんのか、こいつ。掴んでも掴んでも、すぐに壊れちまうわけだぜ」

「イワミミズはミミズという名だが、実際は鉱物系スライムの変種でな。魔力を用いて、砂の体を成しているのだ」

「んじゃ伯爵みてぇなもんか、イワミミズは」

「こんな野生物と、素晴らしく美しく知的で優雅で気高い我が輩を一緒にしないでくれたまえ!」

「うるせぇ」

ギルディオスは、腰でがたがたと揺れるフラスコを叩いた。中では、伯爵がまだ何か叫んでいる。
少し離れた位置に置いていた革袋を引き寄せ、ギルディオスは中を探る。確か、何か持たされていたはずだ。
きっちり折り畳んで差し込んであった、フィフィリアンヌの書き付けを出した。広げると、かさりと紙が鳴る。
角の立った神経質な字を読んでいったが、ギルディオスは首を捻る。時折、読めない字があるからだ。

「えー…白色の薬は、魔力…固? なんだこりゃ」

「貴君は本当に学がないな」

フラスコを開け、コルク栓を先端に乗せた伯爵が伸びてきた。ワインレッドのスライムが、紙を撫でる。

「二番の袋に納めた白濁色の薬剤は、魔力凝固剤。イワミミズの捕獲に用いるべし」

「伯爵、よく読めるなー」

素直にギルディオスが伯爵を褒めると、伯爵はコルク栓で甲冑を殴った。ばこん、と硬い音がする。

「我が輩でも読める文字を、なぜ貴君は読めないのだ! このニワトリ頭め!」

「なんでそこで怒るんだよ」

「三十四歳にもなって他人に書き付けを読ませる貴君に、無性に腹が立ったからである!」

「仕方ねぇだろ。学校さぼって剣術の稽古をしてたんだから、読めない字があるのは当たり前だろ」

「激しく学費の無駄遣いである! というか、開き直ってどうするのだ!」

「親父とおふくろにも、似たようなこと言われたなぁ。もう十何年も前の話だけど」

「よくもまぁこんな父親から、あの息子が生まれたものだな。トカゲがドラゴンを生んだようなものであるぞ」

先端を縮めた伯爵は、フラスコの中に納まった。ぎゅっ、とコルク栓を硬く押し込める。
ギルディオスは書き付けの紙を畳み、革袋に入れる。書き付けの通り、二番と書かれた袋を取り出した。
紐できつく縛られていた口を解くと、中に詰まっていた小さな薬瓶がぶつかり合い、小さく鳴った。
ラベルと中身の色を確かめ、ギルディオスは白濁色の薬液が入っている薬瓶を出した。

「ランスは特別さ。あいつは生まれてすぐから、オレの親父とおふくろが手を掛けて英才教育したんだ」

「そういうことであるならば、納得も出来るというものだ」

「オレとメアリーとしては、ランスには自分で道を決めて欲しかったんだが、そうもいかなくてよ」

「魔導師一族に生まれた天才であれば、生まれたその時点で、進むべき道が出来上がってしまっている」

「そういうこと。血筋と家系がなんであれ、ランスはランスだと思うんだがねぇ」

ため息を吐きながら、ギルディオスは薬瓶を開ける。蓋を手のひらに納め、瓶をゆっくりと傾けた。
ぱたり、と白い水滴がイワミミズの一匹に落ちた。途端にイワミミズは湿っていき、動きが鈍ってくる。
ぎしぎしと砂の体を軋ませていたが、体を捩らせて固まった。ギルディオスが突くと、ごとん、と横に倒れる。

「閉鎖的なんだよなー、オレんちは。だから血も濃くなってきて、オレみたいなのが生まれるってわけだ」

「近親婚か?」

「ああ。オレの親父とおふくろは従兄弟同士なんだけど、おふくろの両親は兄妹でさ。もうひでぇの」

「いやはや、いやはや。個体数の少ない竜族でも、そこまで近い親族とは子は成さぬぞ。異形が生まれてしまう」

「オレはその異形なのさ。魔力がない原因は、血の濃さだとお医者がね。外見じゃ解らないから、まだ良いが」

イワミミズに薬液を垂らして固めながら、ギルディオスは伯爵を見下ろした。

「他の一族と交わるとヴァトラの血が薄くなるーとかなんとか、年寄り連中が言うんだよ。全く、大した一族だぜ」

「ギルディオスよ」

「なんだよ」

「貴君の人生は、貴君には似合わぬ荒れ具合であるな」

「まぁな。でも、生きてみると大したことねぇよ。オレとしちゃ、幸せだと思ってるし」

「それもそうであるな」

とぽん、と伯爵は伸ばしていた先端を縮め、本体に落とした。半透明のワインレッドに、弱い波紋が広がる。
ギルディオスが、イワミミズに薬液を落とす音だけが続いていた。僅かな薬で、砂の生き物は石と変わる。
湿り気を帯びて固まったイワミミズが、また一つ、ごとりと床に倒れた。




地下四階の構造は、上の三階に比べればかなり単純だった。
それは迷宮というよりも、大きな部屋を順序良く作って繋げただけのものだった。迷うわけがない。
全部で九つの部屋が三つずつ縦と横に並べられ、その中央の部屋が、空間移動魔法の施された部屋である。
ギルディオスが開けた部屋は、その中央の部屋の真後ろにあった。方角で言えば、真南側となる。
鉱石ランプを翳すと、ちきちきちきっとスナイロバッタが鳴き、慌てて逃げる。床から天井へ跳ね、張り付いた。
ギルディオスは砂っぽい室内を歩きながら、辺りを見回す。立ち止まると、ずぶりと足が埋まった。

「あとはクサラセゴケと、魔物退治ってとこか」

「クサラセゴケは、貴君の足元と壁一面に生えている。脆い植物であるから、簡単に採れるであろう」

「へいへい」

ギルディオスは鉱石ランプを高く持ち上げ、壁を照らした。言われてみれば、今までの石壁とは様子が違う。
壁の繋ぎ目の輪郭がぼやけていて、どこか柔らかい。触れてみると、ぼろぼろと崩れ落ちてしまった。
崩れ落ちたクサラセゴケの隙間から、奧の石壁が覗いた。だが石壁は、腐食したように小さな穴が開いていた。
鉱石ランプの薄青い明かりに照らされながら、伯爵はにゅるりと蠢いた。ごとり、とフラスコが揺れる。

「こいつの名の由来は、至って簡単だ。時間を掛け、まるで腐らせるかのように無機物を喰らうからである」

「んじゃ、オレも時間を掛けたら喰われちまうのか」

そう言いながら、ギルディオスは片足を挙げた。銀色の足から、ぼろぼろと崩れた苔が落ちる。
フラスコの内側を舐めるように、伯爵はゆっくりと粘着質を動かしている。ぺちょり、と水音がした。

「一二時間ばかり触れた程度では影響はないが、一日二日となるとダメだ。と、フィフィリアンヌは言っていたぞ」

「手っ取り早くしろってことだな」

背中から革袋を下ろし、ギルディオスは新しい麻袋を取り出した。まだ、いくつか予備がある。
割と大きめの麻袋を、先程蹴った部分の壁に貼り付けた。口を開き、その上に生えたクサラセゴケを叩いた。
面白いように崩れてきたクサラセゴケは、すぐに袋に降り積もった。ギルディオスは、麻袋の口を紐で縛る。

「たっぷりと、って、どのくらいだ?」

「とりあえず、三つは満量の袋を作るべきではないかね?」

「あーもう…荷物ばっかり増えやがって…」

ギルディオスはぼやきながらも、もう一つ新しく麻袋を出し、壁に当てた。ばさばさと払い、落としていく。

「こんなんじゃ、倒せる魔物も倒せねぇぞ。襲われたときに、動きが鈍っちまうじゃねぇか」

「かといって、捨てるわけにも行くまい。フィフィリアンヌの言い付けであるからな」

「逆らえねぇもんなー、フィルには。借金の相手だし」

ギルディオスは、苔を払う手を止めた。無表情ながらも威圧感のある、少女の眼差しが思い出される。
クサラセゴケを麻袋に詰め込みつつ、数日前の彼女を思い出した。この仕事を、命じられたときだ。
何の脈絡もなく、朝起きた直後に言われたのだ。仕事を持ってきてやったから、魔物を討伐してこい、と。
荷物を持たされ、伯爵を押し付けられ、そして地下迷宮に追いやられた。その間、抵抗することが出来なかった。
考えてみれば、何事に置いても主導権はフィフィリアンヌだ。あの家の主が、彼女であるからということもある。
蘇らされたその日から、立場は下僕に近い。ギルディオスとしては友人になりたいのだが、なれるわけがない。
というか、フィフィリアンヌ自身が友人を求めてはいないのだ。好意的なカインでさえ、邪険に扱う。
だが、いくら馬鹿にされようとも顎で使われようともけなされようとも、彼女を嫌う気にはなれなかった。
ギルディオスはその理由を考えたが、明確な答えは出なかった。クサラセゴケを押し込み、袋の口を縛る。

「ガキだからかな」

「何がであるか」

「いや、オレがフィルを嫌わない理由。心当たりはそれくらいかなーってよ」

三つ目の袋を広げたギルディオスは、壁に当てた。上の部分を、軽く叩いてクサラセゴケを払い落とす。
壁から苔を落とすたびに、乾いた植物の匂いがする。長年喰われ続け、脆くなった石壁から破片が落ちた。
ふむ、と伯爵は同意したような声を洩らした。ギルディオスは、三つ目の袋にクサラセゴケを詰め込む。

「あいつにゃ否定されたんだけどな、やっぱりオレにとっちゃ、フィルはガキでしかねぇ」

「娘として見ているということか?」

「というか、どうしても女だと思えねぇんだよ。妹っぽくもねぇし、かといって姉貴でもダチでもねぇ」

「だから、娘というわけか。いやはや、なんとも短絡的であるな」

「フィルに話したら、まーた馬鹿にされちまうんだろうなぁ」

自分の言葉を茶化すように、ギルディオスは笑った。彼女は、細い眉根を曲げて嫌そうな顔をするだろう。
その様子が、容易に想像出来た。読んでいた分厚い本を膝の上に置き、突っぱねるように言うのだ。
勝手に貴様の血族にするな、とでも。実際には、もう少しきつい言い方かもしれないが。
三つ目の袋の口をきつく縛りながら、ふと、ギルディオスは震動を感じた。天井が揺れ、苔が落ちてくる。
壁と床を伝わって、ずん、と足音が感じられる。相当に体重があるのか、足音の間隔が広く重たい。
クサラセゴケの詰まった三つの袋を、満杯に近い革袋に無理に押し込んでから、ギルディオスは剣を抜いた。

「近ぇな」

苔の無くなった部分の壁に、ギルディオスはヘルムを当てる。壁に伝わる震動で、音の方向を掴むためだ。
どずん、とまた強く揺れた。天井から落ちた石の破片が、からからと小さく床を叩き、転がった。
足元に置いておいた鉱石ランプを掴むと、伯爵の入ったフラスコの隣に下げた。がつん、とガラスが当たる。
眼下からの明かりを眩しく思いながら、ギルディオスは壁から頭を外し、バスタードソードを構える。
目の前の壁から徐々に身を引き、かちりと刃を立てた。ぎらついた銀色に、同じく銀色の顔が映った。
どずん、と再び強い揺れが起きた。石壁を喰っていたクサラセゴケが、一斉に外れて落ち、煙幕となった。
一瞬失われた視界に、ギルディオスは内心で舌打ちをした。後退しながら、前方を睨み付ける。
不意に、石壁が波打った。きっちりと組まれていた灰色の石が、後ろから押され、いくつかずり出てきている。
また、壁の向こうが押された。ずり出た四角い石は、あっけなく落下し、ただの土塊のように砕けた。
ギルディオスは、片足を前に出して腰を落とす。緊迫した高揚感が、どこか心地良い。

「さぁーて…」


ばきり、とクサラセゴケの煙の向こうで、石の一つが踏み砕かれた。


脂ぎった鼻をひくつかせ、その両脇で長いヒゲが上下した。爪の伸びた前足が、どん、どん、と床を掴む。
魔力を宿した三つの目が、赤黒く輝いていた。筋肉質で巨大な体躯のせいで、元の動物が何かが解りにくい。
血と脂、そして砂に汚れた体毛の色は、灰色を通り越して黒ずんでいる。肌色の長い尾も、同様だ。
細長い鼻先と顎の間に、二本の鋭い前歯があった。ぎしゃあ、とその前歯が持ち上がり、それは吠えた。

「なんだよ。ヒトクイネズミか」

剣先を持ち上げながら、ギルディオスはヒトクイネズミを睨んだ。だが、これはどうにも大きすぎる。
普通のヒトクイネズミであれば、体格は人間大ほどにしかならない。大人でも、せいぜいそんな程度だ。
だが、この獣は違っていた。這い出るように侵入してきたヒトクイネズミは、ギルディオスより遥かに大きい。
尾の長さを除いても、馬以上はある。いくら食料が豊富な場所にいたとはいえ、これは少しおかしかった。
とてもじゃないが、まともな成長をしたとは思えなかった。ギルディオスは、訝しみながら呟く。

「魔法かなんか使われてそうだぜ」

「うむ、我が輩もそう思うのである。僅かながら、このネズミから魔力が感じられる」

ごぼり、と伯爵が気泡を出す。マジかよ、と嫌そうに言ってから、ギルディオスは少し後退する。

「斬った後に、再生しやがったら嫌だなー」

威嚇なのか、ヒトクイネズミは声を上げた。唸りの混じった高い声を、石の空間に反響させる。
ギルディオスはちょっと肩を竦め、殺戮の欲望に満ちたヒトクイネズミの目から、視線を外してしまう。
なんとか気を張り詰め、ヒトクイネズミに目を戻す。この魔物が、正気ではないのは明らかだった。
口の端から、血の混じった涎をべちょりと落とし、ヒトクイネズミは叫ぶ。そして、後ろ足で床を蹴った。
ギルディオスは反射的に身を翻し、後退しながら駆けた。足が少し滑ったが、剣を床に突き立てて止まる。
苔の煙と粉塵を巻き上げ、ヒトクイネズミは頭から床にめり込んでいた。砕けた石が、がちりと落ちた。
前足を突っ張って、ヒトクイネズミは頭を出す。土と埃にまみれた顔の上で、三つの目がぎょろりと回る。
それが、ギルディオスを捕らえた。がぁ、と低い唸りを上げたかと思うと、こちらへ駆け出してきた。
煙った視界のせいで、ギルディオスは動きが遅れた。身を引くと、がきん、と床に立てた剣が揺さぶられた。
手で目前の埃を払い除け、ギルディオスは状況を確認する。剣に、ヒトクイネズミの額の目が当たっていた。
剣の側面なので傷は深くないが、ヒトクイネズミは思い切り額の目を当て続けた。目を、潰す気なのだろうか。
ギルディオスは少しぞっとしたが、バスタードソードを握り締める。ぎちぎちぎちっ、と石の隙間で剣が軋む。

「やべっ」

このままでは、バスタードソードを折られてしまう。そう思い、ギルディオスは力強く地面を蹴り上げた。
直後、銀色の甲冑は天井近くまで跳ね上がっていた。その勢いで、ぴん、と剣を床から引き抜いていく。
真正面に跳ねてしまったため、着地点は一つしかなかった。剣を構え、仕方なしに膝を曲げた。
がしゃん、とギルディオスはヒトクイネズミの背に着地した。べっとりした毛の感触が、膝と手に来る。
思い掛けない重みに、ヒトクイネズミは頭を上げて振り回す。ギルディオスは、剣先を真下に向けた。

「ちぃと痛むぜ!」

バスタードソードの剣先が、ばずん、と皮を突き破った。ギルディオスは前傾し、体重を全て剣に掛ける。
深い傷口から、ぶしゃりと生温い血が噴き上がる。赤黒い飛沫が天井まで届き、ぼたぼたと滴り落ちてきた。
ギルディオスはバスタードソードの柄を握り、力を込めた。横に捻って傷を深め、刃を押し込んでいく。
ヒトクイネズミは身を捩り、ばたんばたんと尾を振り回す。だが、背中のギルディオスには届かない。
暴れれば暴れるほど血は流れ出し、ギルディオスの足元とその周囲を、赤黒く染めていった。
べっとりと汚れたガントレットを見つめながら、ギルディオスは、もう一度剣に体重を掛けて押し込んだ。
骨の隙間を通り抜けた剣先が、どん、と心臓を貫いた。後方で、ヒトクイネズミの尾が力を失い、落ちた。
絶命したのだと確信し、ギルディオスは一息吐いた。立ち上がり、ずぶずぶと剣を引き抜いた。
血にまみれたバスタードソードを下げ、ヒトクイネズミの背から飛び降りた。どん、と床に両足を落とす。
腰のベルトに挟んだ布を出し、返り血に汚れた剣と体を拭きながら、ギルディオスはヒトクイネズミを眺める。

「倒してみりゃ、やっぱり普通のヒトクイネズミだな。でかいだけかよ」

「そのようであるな。奴の鼓動が失せたおかげで、我が輩でも魔力を感じやすくなったぞ」

「んで、でかくなった原因はなんだと思う?」

「額の目だ。あの中に…恐らくは、うむ、そうだな。呪術の掛かった魔導鉱石が仕込まれているぞ」

「うえ」

呪術と聞いて、ギルディオスは変な声を出した。グレイスの飄々とした笑顔が、なぜか思い出される。
ヒトクイネズミの頭へ回り、ギルディオスは身を屈めた。確かに、額の目に何かが埋められている。
剣先で小突いてから、ざくりと貫いた。潰れた眼球の中から、水と血と共に、小石のような魔導鉱石が落ちた。
かつん、と床で跳ねた魔導鉱石を拾い、ギルディオスは鉱石ランプに翳す。銅貨よりも小さな、青紫の石だ。

「…こんなんで、このネズミをでかくしてたのかよ?」

「魔法とはそういうものだ、とフィフィリアンヌなら言うであろうな」

「凄ぇなおい」

感心しながら、ギルディオスはその魔導鉱石を布で拭き、革袋に投げ入れた。かん、と中に転がり落ちた。
様々な魔物の血に染まった布をベルトに挟み、ギルディオスは顔を上げた。中央の部屋を、探すためだ。
前後左右を確かめてから、真正面に向かった。錆び付いた扉を、どごん、と力任せに蹴り飛ばして開ける。
ぎしっと軋んだ蝶番が、外れて扉が奧へと倒れ込んだ。ギルディオスは、朽ちかけた扉の上を歩いていった。
すると、部屋の四隅に光が現れた。ぼぅ、と埃を燃やしながら、独りでに燭台へ火が灯る。
弱々しい四つの炎によって、床に刻まれた魔法陣が浮かび上がった。汚れてはいるが、文字は無事だ。
ギルディオスはその中央まで歩いて止まり、屈んだ。フィフィリアンヌによれば、ここに石が填っているそうだ。
確かに、魔法陣の中心に、赤い魔導鉱石が填め込まれている。ギルディオスは、それを軽く押した。
直後、足元が消えた。頼りない風の流れが、ふわりと床から立ち上ってきた。




気付くと、足元が変わっていた。魔法陣には違いないのだが、石畳の隙間には枯れた草が生えている。
ギルディオスは腰を上げ、立ち上がる。厚く雪の積もった白い光景が、延々と魔法陣の周りに続いていた。
ひやりとした風が、頭飾りを軽く揺らした。間を置いて、ようやく実感が沸き起こる。

「外だーっ!」

ギルディオスが駆け出そうとすると、足に何か引っかかった。その勢いのまま、がしゃんと倒れ込む。
強かにヘルムを石畳にぶつけ、体の中で魔導鉱石が揺さぶられた。何事かと思い、起き上がってみる。
足元には、並々と淡い空色の液体を湛えた、平たく大きな桶が置いてあった。いわゆる、洗濯桶のようだ。
なぜここに洗濯桶があるのか、ギルディオスは首をかしげる。すると、洗濯桶の中身が持ち上がった。


「力の宿りし浄化の水よ、我が意の形となれ!」

高く、少女の声が響いた。

「発動!」


竜の如くうねった液体が、ギルディオスに襲い掛かる。口を大きく開けた水の竜は、だばんと噛み付いてきた。
薬臭い液体が、関節やヘルムの隙間を通って全身を巡っていく。それは、妙にくすぐったい感触だった。
鋼で出来たギルディオスの体を嘗め回した水の竜は、飛び込むように彼の腹に入り、がぼっと頭から出てきた。
頭上に現れた水の竜は、最初に比べてすっかり汚れていた。色もくすんで、浮遊物も混じっている。
そして、洗濯桶に頭から突っ込み、元の液体に戻った。びしょ濡れのギルディオスは、呆気に取られてしまう。

「…あ?」

「消毒液だ。どうせ貴様は、汚れて戻ってくると思ってな」

その声に、ギルディオスは振り返った。鼻と口を布で覆ったフィフィリアンヌが、眉をしかめている。
先の尖った帽子を上げ、鋭い目元を歪めた。弱い風に、背中の黒いマントがなびく。

「それで、ちゃんと採ってきたのだろうな?」

「あ、まぁ」

ギルディオスは、背負っていた革袋を下ろした。腰のベルトを外し、伯爵と鉱石ランプも外す。
慎重に近付いてきたフィフィリアンヌは、鼻と口を覆った布を押さえながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。
もう一度深呼吸してから、くいっと布を外す。寒さのせいか、白い頬が少し赤らんでいた。

「ご苦労だったぞ、ギルディオス。これが、報酬の金貨十枚だ」

幅広の袖の下から、フィフィリアンヌは小さな布の包みを差し出した。それを、ちゃりっと握る。

「が、私が頂くぞ。これで貴様の借金の残りは、金貨八百九十枚になった」

「あーはいはい」

「やけに物解りが良いな」

意外そうに、フィフィリアンヌが目を丸める。石畳の上で、伯爵はごろりとフラスコを回す。

「この男は、ニワトリ頭であるからな。外に出られたことで、全てがどうでも良くなったに違いあるまい」

「うん」

こくんと頷き、ギルディオスは空を見上げた。薄曇りだったが、時折、澄んだ青が垣間見えた。
実際、どうでも良くなってしまったのだ。地下で話した過去のことも戦友のことも、報酬の少なさも借金の多さも。
あまりにも暗いところにいたため、外に出た瞬間の開放感で、一気に突き抜けてしまったようだった。
この時ばかりは、ギルディオスも自分の単純さに感謝していた。切り替えは、早い方がいい。
消毒液のつんとした匂いに包まれながら、冷たく白い野原とその奧に見える高い塀、城下町を眺めていた。
ギルディオスは、日光で濡れた甲冑が温まるのを感じ、悦に浸る。外の世界の、なんと素晴らしいことか。
かちり、とフィフィリアンヌは手の中で金貨の包みをいじった。傍らの甲冑を、不思議そうに眺める。

「そういうものなのか?」

「そういうもんなの」

至極幸せそうに、ギルディオスは笑った。フィフィリアンヌは理解しがたいのか、腕を組み、彼の視線を辿る。
銀色のヘルムが見つめる先には、薄い雲の奧で煌々と照る太陽があった。雲は、風で緩くほどけていく。
弱々しかった日光は力を得、ギルディオスの座る石畳に温かさをもたらす。じわりした熱が、石から感じられた。
くっきりと濃くなった二人の影の先で、伯爵はフラスコを開ける。ぽん、とコルク栓が内側から抜かれた。
半透明の体を突き抜けた光が、ワインレッドの影を作る。それが、ぐにゃりと曲がった。

「いやはや、いやはや…」

ギルディオスの短絡的な思考に、伯爵は笑う。それが羨ましくもあり、少し物悲しくも思えた。
四日間の内に彼と交わした言葉を、ワインで成された体に沈めていく。久々に、忘れたくない話を聞いた。
燦々とした日差しを浴びて体温を高めながら、スライムはうねる。にゅるり、とフラスコの中を巡った。
地下迷宮とは違い、出口などない道を進む彼女らの背を見、ごぼり、と大きな気泡を吐き出した。
冷たいが鮮やかな青を広げた冬の空は、世界の果てまで続いていた。




ギルディオスが地下迷宮から帰還してから、数日後。
ごろごろと荷車を引きながら、ギルディオスは無性に腹が立って仕方なく、内心でむくれていた。
時間が経てば経つほど、理不尽な気がしてならない。というか、したはずの納得が出来なくなっていた。
二三日晴れが続いたため、少し雪の減った細い道を進んでいく。奧には、木々に囲まれた彼女の家がある。
石造りの家に近付きながら、ギルディオスは振り返った。荷台の上で、フィフィリアンヌが袋を抱えている。

「なぁフィル、せめて金貨五枚はくれよー。オレの稼いだ金なんだから、いいだろ?」

「ギルディオス。貴様はあの時、確かに了承した。今更渡せと言われて、渡すはずがなかろう」

「オレも色々と欲しいものがあるんだよ。少しくらい、いいじゃねぇかよ」

「私とて、貴様の借金に苦しめられているのだ。金を貸したままでいるのも、楽ではないのだぞ」

「そりゃそうかもしれねぇけど、ヒトクイネズミを倒したのは間違いなくオレなんだぜ?」

「その仕事を割り当てたのは私だ。必要な薬剤や道具を用意したのも、脱出後に消毒をしたのも」

「あ」

と、ギルディオスは立ち止まった。突然止まったせいで、がくん、とフィフィリアンヌは前のめりになる。
荷車を引いた格好のまま、ギルディオスは上半身を曲げる。出来るだけ、顔を突き出す。

「そうだ、フィルにしちゃ変だと思ってたんだ! なんで消毒薬とか他の薬とかの経費、請求しないんだよ!」

「請求したところで、貴様に払える額ではない」

「てことはなんだ、金貨十枚じゃ足りないぐらいの薬を使ったんだな?」

「珍しく察しが良いな、ギルディオス」

「つーことはなんだ。薬をざばざば使っても平気なくらい、採算が取れて、その上儲かる算段があったってことだ」

荷車の持ち手を支えながら、ギルディオスは体を後ろへ向けた。少女は、眉を曲げる。

「なぜ、そう思うのだ」

「さっき、フィルが貴族連中に売り捌いた薬で採算が取れたわけだな。元出はタダなんだから、黒字で当然だ」

「そうだ」

「その材料を、集めてきたのはオレだ。だがオレの報酬は、借金の返済に全額分当てられちまった」

「そうだ」

「あー、なんか理不尽だ。せめて金貨三枚、いや、二枚でいいから寄越してくれよ」

ギルディオスが迫ろうとすると、フィフィリアンヌは荷台から下りた。大きな袋も、一緒に下ろす。
がちゃん、と雪の上に落ちた麻袋が鳴った。金貨の詰まった麻袋を担ぎ、フィフィリアンヌは歩き出した。
脇を通り過ぎたフィフィリアンヌを追い、ギルディオスはがらがらと荷車を引く。だが、彼女は立ち止まらない。

「なぁおい、いいだろ? フィルだけごっちゃり儲けるなんて、めちゃくちゃずるいぞ!」

「さあて、私には何も聞こえんな」

素知らぬ顔で、フィフィリアンヌは玄関を昇っていった。金貨の袋から片手を外し、扉を開けた。
扉の隙間へ滑り込む黒いマントの後ろ姿に、ギルディオスは、少々恐れながら尋ねる。

「…もしかして、最初っからこのつもりで、オレに仕事を持ってきたのか?」

締めかけた扉に手を掛けたフィフィリアンヌは、ちらりとギルディオスを窺った。

「さあて。聞こえんな」

ばたん、と扉が重たく閉じられた。年季の入った色合いの扉を、思わず見つめてしまう。
ギルディオスが荷車を手放すと、ごとん、と持ち手が落ちる。あまりの事実に、力が抜けてしまった。
怒る気にもなれない。怒りたいことには怒りたいが、向けるべき相手が悪すぎるからだ。
ギルディオスは、がしゃりと荷車に腰掛けた。項垂れながら、小さく漏らす。

「好きだけど、どちらかってーとフィルは好きな方なんだけどさぁ…」

ぎちりと拳を握り締めたギルディオスは、声を張り上げた。

「そういうとこだけは、大っ嫌いだぁ!」




迷宮は、地下だけにあるものではない。
今まで生きてきた道、これから生きるべき道。そして、今生きている道。
だが、不運で愚かな重剣士にとっての、最大の迷宮は。

彼女との日々に、違いないようである。







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