ドラゴンは笑わない




竜神祭の夜 前



血の、匂いがしていた。
それは間違いなく、弟のものだった。エドワードは、息を飲む。
むせそうなほど強いセイラの血の匂いに混じり、コルグの血が感じられる。あの人間達が、弟を殺したのだ。
エドワードは剣を握り締め、引き抜こうと腕を上げた。しかし、誰かの手に押さえ込まれて遮られた。
振り向くと、傍らで同僚の竜騎士が首を横に振っている。悔しげに口元を歪め、牙で唇を噛み締めている。
悔しいのは、辛いのは、皆が同じなのだ。同族の仇を討てないのは、竜族であれば辛くて当然だ。
ならば、なぜ竜王は、戦いのお許しを下さらないのだろうか。なぜ、人間と戦うなと命ぜられているのか。
エドワードは、竜王の座る玉座を見上げた。本城の壇上に座っている老いた竜王は、項垂れている。
ああ。やはり、皆、辛いのだ。エドワードは今になってようやく、竜王の考えを理解することが出来た。
人間と戦えば、人間と戦争が始まる。戦争が始まれば、今まで以上に同族は死んでいってしまうことだろう。
そうなってしまうことは、今以上に辛い。そうならないためにも、人間への憎しみは、押し込めなければいけない。
エドワードは、フィフィリアンヌを見上げた。彼女の怒りは、この中の誰よりも強いように見えた。
どうか、気を静めてほしい。エドワードはそう呟いたが、フィフィリアンヌに届いた様子はなかった。


「殺してやる」

再度、フィフィリアンヌは叫んだ。牙を剥き出し、猛った。

「殺してやるぅ!」


あれは、竜だ。殺意と怒りに身を任せている、一匹のドラゴンだ。
ギルディオスは欄干に座ったまま、唸っているフィフィリアンヌを見つめた。本気で、怒っている。
セイラを傷付け、歌を止ませ、化け物と罵った人間達を殺そうとしている。ちょっとまずいな、と思った。
ギルディオスは自分を無視して城門へ入った若人達を、後ろから見てみた。小柄な男、盗賊の武器がまずい。
小さな背にある矢筒と弓。矢筒から出ている十数本の矢羽根には、赤い色が染められている。
火矢とまではいかないまでも、熱を発する類の矢だ。体温の低いドラゴンにとっては、それだけでも強力だ。
地形もそうだが、相手が五人と多い。感情的になっているフィフィリアンヌには、分が悪すぎる戦いだ。
なんとかして止めなきゃな、とギルディオスは欄干から下りた。浅い息をするセイラと、不意に目が合った。
セイラは、笑っていた。それも、とても幸せそうに。セイラは少し首を振り、牙の覗く口を僅かに動かした。
口の動きから察するに、嬉シイ、とセイラは言ったのだろう。ギルディオスは、内心で少し笑った。
それは自分にも、良く解る。自分のために怒ってもらえることは、実に嬉しいことだからだ。
だが、それとこれとは別だ。フィフィリアンヌを止めなければ、冷静でない彼女は、やられてしまうだろう。
フィフィリアンヌはやぐらから飛び上がり、何度か羽ばたいて下りてきた。ふわり、と弱い風が起こる。
セイラの前に舞い降りた竜巫女は、涙を顎に伝わせていた。瞳の色が強まり、真紅に炎が映っている。
構え直した人間達を見据えていたが、背後のセイラへ手を伸ばした。白く小さな手が、血に汚れた肌を撫でた。

「貴様ら。私の友人を斬り付けておいて、生きて帰れると思うな」

「友人?」

手前にいた女魔導師が、変な顔をした。すぐに、可笑しげに笑う。

「そんな役立たずの化け物が友達なの? さすがにドラゴン、趣味が悪いわ」

「この者には名がある。セイラ・サリズヴァイゴンという、立派なものがある」

「化け物は化け物よ。戦いの出来ない、ダメな元契約獣。どこに逃げたかと思ったら、ここにいたのね」

エリスティーンは、やれやれと言いたげに顔を逸らす。フィフィリアンヌは腹立たしげに、女を睨む。
手に付いたセイラの血を、強く握った。強く締められた指から、ついっと赤が零れ落ち、地面で弾ける。
聖職者の男が、はっとしたように顔を上げた。パーティの中心に立つ騎士に、駆け寄った。

「もしかして、とは思いますが…。バロニス、あれがそうじゃないですか?」

「確かに、奴の言う通りだ。見た目は十二歳ぐらいで、目付きが悪い子供の女だ。髪が緑だから、緑竜族だな」

重戦士は腰を落とし、斧を前に据える。その後ろ姿を見たギルディオスは、腰が浅いな、と思った。
盗賊は、ぎっとフィフィリアンヌを睨んだ。短剣を突き出して構え、怒りに満ちた叫びを上げる。

「間違いねぇ! こいつが、シルフィーナを殺したんだ! こいつが、オレらの仇だ!」



「このガキが、フィフィリアンヌ・ドラグーンなんだぁ!」



これは、仕組まれたことだ。フィフィリアンヌはすぐに誰が裏にいるか解ったが、言わなかった。
たとえ問い詰めたところで、奴らが話を聞き入れるはずがない。それ以前に、まともな話などする気はない。
セイラを斬り付けた。セイラの歌を止めた。セイラを、化け物と言った。そんな相手と話す意味はない。
ばきり、とフィフィリアンヌは指を鳴らした。細い手首が太くなり、緑のウロコに覆われ、爪が鋭く伸びる。
それを見ていたエリスティーンは、恐れたのか、表情を強張らせる。フィフィリアンヌは、ふん、と息を漏らす。

「シルフィーナを殺したのは私ではない、愚か者め。それで、あの女は貴様らの何なのだ。答えろ、下衆共」

「げっ、下衆はそっちよ! そんな化け物に名前なんて付けちゃってさ! シルフィーナは、私達の大事な仲間よ!」

フィフィリアンヌに飲まれそうになりながらも、エリスティーンは言い返した。

「優しくて、綺麗で、強くて、仲間思いの人だった! なのに、なんであんたなんかに殺されな」

とん、と少女は踏み出した。

「黙れ。一度ならず二度までも、セイラを侮蔑するとは」

一瞬で間を詰めたフィフィリアンヌは、エリスティーンの懐に入った。真っ直ぐ、竜の右手を突き出す。
ずぶり、と、中指の爪がエリスティーンの喉に埋まった。返り血が巫女の衣装を濡らし、じわりと染みていく。
翼と女の影の下、怒りに充ち満ちた赤い瞳はぎらついていた。骨張ったドラゴンの手が、僅かに動く。
フィフィリアンヌは足を下げ、身を引きながら爪を抜いた。長く鋭い爪には、赤い筋が絡んでいる。

「案ずるな、動脈はまだ切っておらん。だから貴様は、まだ死ねん」

エリスティーンの喉には、指一本分の穴が開いていた。そこから、幾筋もの血が流れ落ちていく。
だが、一気に吹き出ることはない。急所である頸動脈を外しているせいで、致命傷にはなっていないのだ。
すとんとしゃがみ込んだエリスティーンは、震える手で喉を押さえた。声を出そうとしても、血と空気しか出ない。
つまり、魔法の詠唱が出来ないのだ。フィフィリアンヌは彼女を戦力外とみなし、目線を外した。
四人の男達は、身動いでいる。魔導師が役に立たなくなってしまったことで、大幅に戦力が落ちたからだ。
次には誰が。フィフィリアンヌは目を動かして、次に手を掛ける相手を誰にするか、考えた。
誰でもいい。誰でもいいから、一時でも早く、殺してしまおう。思考は、あってないようなものだった。
エリスティーンの血に汚れた右手を、フィフィリアンヌはすいっと掲げた。魔法を使うような、相手ではない。
掲げた右手に、何かが触れた。フィフィリアンヌが振り向くと、血濡れた大きな手が、伸ばされていた。
仰向けに倒れているセイラは、指先を少女に添えた。力の入らない指先で、竜となった彼女の手を撫でる。


「イケナイ」

セイラは、歌い疲れた喉から、声を絞り出した。

「フィリィ、殺ス、イケナイ」


「…いけないはずがない。お前を痛めた愚者共を、殺していけないはずがない」

乱れた緑髪の間から、少々殺気の失せた瞳が覗く。フィフィリアンヌは、それを愛おしげに細める。

「それに奴らは、私を殺しに来ているのだ。殺し返してやらねばならん」

「イケナイ」

「なぜ止める、セイラ。奴らは、お前を物以下として扱っていたのだぞ?」

「解ッテ、イル。デモ」

げほ、とセイラは咳き込んだ。血溜まりに、べちゃりと胃液混じりの唾が吐き出された。
何度か激しく咳き込んで、大きく胸を上下させる。荒い息が繰り返され、ぜいぜいと喉が鳴っている。
フィフィリアンヌの右手を押さえていた手も、どしゃり、と力を失って落ちる。深く、セイラは息を吐いた。

「イケナイ」

あくまでも、殺すなと言いたいようだ。たとえ昔に痛め付けられた相手でも、セイラは、殺す気などない。
それ以前に、戦うことすらしなかった。だからいいように攻撃されても、歌い続け、抵抗しなかった。
どんな相手でも生者は生者であり、殺す権利はない。恐らく、セイラはそんな考え方をしているのだろう。
フィフィリアンヌは、なんとかセイラに背を向けた。涙に歪む目を拭ってから、四人の男達を見据える。

「だが、私は、奴らを許せんのだ!」

思わぬことばかりが、起きている。バロニスはすっかり動転していたが、辛うじて平静を装っていた。
剣を構えながら、喉を押さえて震えているエリスティーンの背を見た。幾筋もの血が、白い衣装に付いている。
それなりに頼りにしていたのに、なんでこんなに簡単にやられてしまうのだ。これだから、女はダメなんだ。
すぐに感情的になるし、調子に乗って挑発をした挙げ句、喉を潰された。魔導師としての、自覚が足りなさ過ぎる。
後衛になれ、と前から言っていたのに。前がいいと我が侭を言って、前衛をし、その度に負けそうになった。
そういえば、シルフィーナもそうだった。あの女は自己顕示欲が強くて、あまり言うことを聞かなかった。
そんなことも思い出してしまい、バロニスは苛々した。勇者になるには、もっといい仲間を見つけなくては。
残っている仲間を見渡し、戦略を考えた。だが、いいものはない。前衛と、後衛が釣り合わない。
ナヴァロとランドは自分の支援にさせればいいとして、問題はゼファードだ。彼は、戦闘の役に立たない。
回復魔法の腕は良いもの、それだけで、支援魔法は得意ではない。呪文の詠唱も遅いし、武器の扱いも下手だ。
仕方がない。勝ち目はないかもしれないが、攻めて攻めて攻めるしかない。それしか、戦略はない。
バロニスは、橋に立っている甲冑が気になった。先程から微動だにしないが、あれも竜族なのだろうか。
戦うことがなければいいな、と思った。戦闘を期待してはいたが、長時間続けるのはごめんだ。
前方に立つランドが、背中の矢筒を探っていた。手早く数本の矢を握り、弓に一本をつがえて、引き絞った。

「その前に、お前を殺してやる!」

ランドが矢を放ち、びん、と弓が震えた。直線上の先で、フィフィリアンヌは衝撃を受けて揺らいだ。
よろけたフィフィリアンヌは、足を下げて姿勢を保つ。大きくなった右の翼に、下から矢が刺さっている。
薄い皮は突き破られ、血が薄く滲んでいる。矢から熱が発され始め、じり、と皮膚の焼ける音がした。
矢を抜こうと、フィフィリアンヌは右手を挙げる。すかさずランドは弓を引き、びん、と矢を放つ。
どずん、と肩に矢が埋まった。フィフィリアンヌは熱と痛みに表情を歪め、小さく声を漏らす。

「…ぐ」



とん、と背後に足音がした。ギルディオスはバスタードソードに手を掛け、すらりと抜いた。
しゃりん、と刃が鞘に擦れて鳴った。月光を跳ねた銀色に、幼女を引き連れた灰色の影が映り込む。
どこからか現れたグレイスは、非常に楽しげな顔をしている。その足元のレベッカも、無邪気に笑っている。
ギルディオスは、ちゃきりと巨大な剣を下ろした。ぎちりと首の関節を軋ませて、二人にヘルムを向けた。

「…楽しいか、変態野郎」

「ああ、楽しいねぇ」

けらけらと笑い、グレイスは欄干に背を預けた。橋に残るセイラの血痕と足跡を、ずりっとつま先で擦る。

「あの人造魔物も、なかなかいい動きをしてくれる。カッコ良いと思わないか、え?」

「セイラを知ってるのか?」

「知ってるも何も。あいつを逃がして竜王都に放り込んだのは、このオレだからな」

「なーるほどな。で、お前は何がしてぇんだよ」

「仮面舞踏会の続きっつーか、なんつーか、まぁ、ちょっとした仕上げかな」

ギルディオスの肩越しに、グレイスは城門内を見た。矢を射られたフィフィリアンヌは、動いていない。

「これでどっちかが死んだら、そりゃあもう面白いことになるからね」

ぎちり、とギルディオスは剣の柄を握り締めた。グレイスの考えていることが、漠然とだが予想出来た。
グレイスの考えそうなことだ。フィフィリアンヌを殺させて竜族をあおり、戦争でも起こすつもりなのだろう。
あのパーティは、ドラゴン・スレイヤーの印を付けていた。ならば、更に話は面倒だ。帝国が絡んでくる。
帝国は、攻め込んできた竜族を王国へ向かわせるはずだ。ドラゴン・スレイヤーはあちらにいる、とでも言って。
そして乱れた王国と竜王都を、帝国はここぞとばかりに攻めてくるはずだ。帝国とは、そういう国だ。

「ぐっちゃぐちゃの戦争なんざ、起こしたって楽しくもなんともねぇだろ」

けっ、とギルディオスは吐き捨てた。グレイスは不満げに眉を下げ、むくれる。

「面白いのになぁー、それが。解っかんねぇかなぁ」

「解りたくもねぇよ」

ギルディオスは、あからさまに嫌悪した。あの五人に対する憤りに、グレイスへの怒りが積み重なっている。
伯爵はごぼごぼと気泡を吐き出し、赤紫の泡を作った。フラスコの中は、たちまち泡に満たされた。

「全くであるな」

竜王城へ歩き出そうとしたギルディオスを、あ、と高い声が止めた。レベッカが、小さな手を挙げている。

「剣士さんがあっちに行く必要って、あるんですかぁー?」

小さな唇に指を添えて、レベッカは続ける。眉を曲げ、さも子供らしい表情を作る。

「剣士さんはぁ、死んでるけど人間だしー。ドラゴンじゃないのに、ドラゴンを助ける意味ってあるんですかー?」

「そうとも。お前さんは人間だぜ、ギルディオス・ヴァトラス」

グレイスは、いやに親しげな口調になった。穏やかに、たしなめる。

「フィフィリアンヌは、あんたにとっちゃ何でもないだろ? 助けたところで、借金が増えるだけかもしんねぇぞ?」

言い返そうと、ギルディオスは振り返った。灰色の男は、丸メガネを直している。
それが上げられ、銀色の甲冑が映り込んだ。青白い光と薄い影をまとった、死んだ重剣士がいる。
メガネの下で、グレイスは瞼を上げた。人懐っこい灰色の目が、邪悪な光を帯びていた。



「ここは、竜の世界だ。あんたの世界じゃないぜ」



「郷に入れば郷に従え。この言葉を知らないのか?」

灰色の呪術師は、笑う。

「竜族が何もしないってことは、それがこの世界の流儀なのさ」


神々の目の、届かぬ闇は。
どこでもないが、どこでもある。
地上そのもの。


「だからよ、ギルディオス・ヴァトラス。フィフィリアンヌを、助けちゃいけねぇんだよ」


灰色の男は、灰色だ。どちらの味方にも付かず、どちらの助けもせず、どちらにもならない。
冷たい夜風が抜けた。満月が薄い雲に包まれ、月光が弱まった。灰色の影も陰り、徐々に闇に没していく。
足元に、べっとりと濡れた感触があった。甲冑越しに、血溜まりに残るセイラの体温が、僅かに伝わってきた。
グレイスは、立場を考えろ、と言いたいらしい。考えてみなくとも、ギルディオスは元々どちらの味方でもない。
人ではある。だが、あの連中に味方する気はない。だが、竜族の世界に踏み入る権利も理由もない。
ギルディオスは踏み出し掛けた足を止め、竜王城を見上げた。巨大な城は月を背負い、静寂に沈んでいる。
手の中のバスタードソードが、いつになく重たかった。幾人もの人間を殺してきた剣が、鈍く光った。
死んだ人間に、生きている人間を殺す権利があるのだろうか。否、あるわけがない。ある方がおかしい。
この世は生者の世界だ。五年も前に死に果てた自分の居場所など、世界など、最初からあるはずがないのだ。
戦うべきか、否か。助けるべきか、否か。守るべきか、守らざるべきか、否か。
そして、自分にとって、彼女とは何なのか。グレイスの戯言に流されているな、と解っていたが止まらない。
一度迷えば、迷いは広がる。ギルディオスは自分らしくないと思ったが、迷いをすぐには断ち切れなかった。
城門の向こうは、戦場だ。橋を越えたら、そこは完全なる竜の世界であり、決して人間の世界ではない。
フィフィリアンヌが、泣いているのが見えた。射抜かれた翼を下げて肩を押さえ、セイラに背を預けている。
薄緑の衣装が、赤に染まっている。更に数本打ち込まれ、背後のセイラにも、矢の影が刺さっていた。
確かにここは竜の世界であり、人の世界ではない。だが、それ以前に。
自分にとっての、彼女は。


「あいつは」

フィフィリアンヌは、もう一人の子供だ。年上だと解ってはいるが、子供だとしか思えない。
血の繋がりも縁も何もなくとも、自分がそう思っている限り、彼女は。
ギルディオスは、力一杯叫んだ。迷いをかなぐり捨て、弱まった戦意を高ぶらせるために。

「オレの娘なんだぁあああっ!」


荒い息を落ち着けながら、ギルディオスはバスタードソードを持ち上げる。がしゃん、と肩に乗せた。
竜王城へ、足を進めていった。がちゃり、がちゃり、と甲冑の擦れる音が規則正しく響く。
背後の呪術師に、もう振り返ることはない。これ以上足止めをされては、フィフィリアンヌとセイラが持たない。
久々に漲ってきた戦闘意欲が、なんだか懐かしかった。ギルディオスは、竜王城の門を見定めた。

「ここがどんな世界だろうが、なんだろうが」

ぐいっと、ヘルムを押さえ込んだ。指の隙間から、戦場を睨む。

「オレはオレの娘を助ける。それだけだ」

思い掛けない理由に、グレイスはちょっと肩を竦めてみせた。足元のレベッカは、面白くなさそうにしている。
そんな彼女を撫でてやりながら、グレイスは笑った。こうでなくては、そう来なくては、面白くない。
良い遊び相手が出来た。そう思いながら、戦いへ向かうギルディオスを見送っていた。




「どきやがれ」

バロニスの肩を、いきなり甲冑が押し退けた。身の丈もありそうなバスタードソードを担ぎ、歩いていく。
橋に立っていた奴だ。すぐにそう思ったが、バロニスは、ランドへ近付く甲冑を眺めるしかなかった。
甲冑が背後に立った途端、ランドは振り返って矢を射ろうとした。だが、弓ごと腕を掴まれ、投げられてしまう。
ぐるっと捻られたランドは、背中から強く叩き付けられた。どん、と体重の軽い落下音がした。
甲冑は弓と矢筒を拾うと、地面に投げた。肩から剣を下ろすと、勢い良く振り下ろし、ぐしゃっと叩き潰した。
打撃と同時に、地面が揺さぶられた。砕けた矢筒と折れた矢が、弦の切れた弓の傍に転がっていた。
甲冑は剣を引き抜き、真っ直ぐにフィフィリアンヌへ向かっていった。竜の少女が、銀色の影に隠れる。
あれは、一体なんなんだ。敵が増えたようだった。人間みたいだが、あれは、人間ではないような気がする。
どうやって倒すべきか、バロニスは混乱し始めた頭で考えた。作戦らしい作戦は、浮かんでこなかった。


目の前に出来た影を、フィフィリアンヌは見上げていた。
かがり火の明かりを背に受けているせいで、逆光となっている。銀色の輪郭が、朱色に照っていた。
元々表情のないヘルムから、表情が失せている気がした。感情的な彼の、感情が少しも見えない。
ギルディオスはしゃがみ込むと、フィフィリアンヌに刺さった矢を掴んだ。それを、ぎちりと強く握り締める。

「抜いてやるから、ちょいと我慢しな」

ずっ、と矢が脱する。熱を持った肩と腕に鋭い痛みが走り、フィフィリアンヌは悲鳴を飲み込む。
目を上げると、肩から抜かれた矢がギルディオスの手にあった。ガントレットは、べきっと矢を折り曲げる。

「ひでぇことしやがるなぁ、もう。翼のは切ってからじゃねぇとダメだから、後でやってやる。セイラのもな」

誰も、貴様になど。フィフィリアンヌはそう言おうとしたが、泣いているせいで、言えなかった。
喉が痛く、詰まっている。目の前のギルディオスに言ってやりたい文句は、いくらでも思い付いていた。
助けろなどと言った覚えはない。私は貴様の娘などではない。私が戦う。私が、奴らを殺すべきなのだ。
ここは、竜の世界だ。だから、貴様は手を出すな。出してはいけないのだ、ギルディオス。
フィフィリアンヌは、変化の解けた右手を握る。爪は人間のものに戻っていて、ウロコも消えていた。

「…馬鹿め」

絞り出せた言葉は、これにしかならなかった。言い慣れたことしか、言うことが出来なかった。
ギルディオスは矢を放ってから、フィフィリアンヌの頭に手を置く。くいっと上向けさせ、目を合わせる。

「なぁ、フィル」

「なんだ」

銀色のヘルムに映る自分の顔は、情けなかった。フィフィリアンヌは、目元を拭う。
ギルディオスは左手の人差し指を立てて、普段の明るい声で言った。

「金貨十枚」

「何の話だ」

「オレの報酬。お前がオレに請求したように、オレもお前に請求してみる」

「そういえば、貴様は傭兵だったのだな」

状況に似つかわしくない会話に、フィフィリアンヌは変な気分になった。まるで、場の空気を読んでいない。
ギルディオスは、フィフィリアンヌの髪を慎重に撫でた。改めて触れると、少し緊張する。

「そうだ。だから、後払いで良いからさ」

「一人頭で十枚か?」

「いんや。全部で十枚。簡単そうな仕事だし、何より」

フィフィリアンヌの頭を、ぽんと軽く叩いた。ギルディオスは立ち上がり、城門へ向いた。
バスタードソードを高く持ち上げ、ちゃきりと刃を横にした。鋭い切っ先を、騎士に突き付けた。



「私情入りまくりだから、五割引なんだよ!」



あからさまに。そして、思い切り馬鹿にされている。
バロニスがそれに気付くまで、あまり掛からなかった。傭兵らしき甲冑に、完全に舐められている。
確かに、こちらは人間だ。だが、今は押しているではないか。周囲の竜族も動かないし、攻めていた。
それにこちらは、四人もまだ残っている。相手は一人、やろうと思えば勝てない戦いではない。
バロニスは、剣の重たさで痺れてきた手を強く握った。緊張と恐怖で裏返りそうな声を、どうにか整えた。

「貴様、一体何者だ! 名を、名を名乗れ!」

甲冑はバスタードソードを構え、腰を落とす。頭頂部の赤い羽根飾りが、ゆらりと動いた。

「ギルディオス・ヴァトラス。そこのハーフドラゴンに雇われた、傭兵だよ」




伯爵は、コルク栓を押し上げて体を伸ばしていた。
ひやりと冷たい夜風の中に、覚えのある血の匂いがある。様々な種族の混じった、彼の血も感じられる。
こういう事態になると、本当に役に立てないことを実感する。昔から、幾度となく経験した焦燥だ。
下手に動くわけにもいかないし、下手なことを言うわけにもいかない。何も出来ないなら、しない方がいいのだ。
後方のグレイスとレベッカは、見物するつもりなのか、悠然としていた。相も変わらず、趣味が悪い。
ねっとりとした表面に月光を浴びていると、余計に冷えが染み入ってきた。高山にある竜王都の、夜は寒い。

「娘、か…」

ならば、自分にとっての彼女はなんなのだろう。伯爵はコルク栓を落とさないようにしながら、考えた。
主でもなく、友でもなく。娘でもなく、妻でもなく。どういう存在なのか、あまり考えたことがなかった。
いや。存在自体が、彼女なのだ。離れることもなく、過度に近付くこともなく、適度な距離を保った存在。
好きと嫌いという概念もなく、ただ、そこにいるのみ。それが、自分にとってのフィフィリアンヌという者だ。
だから、世界がどうの戦争がどうのは関係がない。彼女と共にそこにいれば、それだけでいいからだ。
グレイスのように言えば、それがスライムの世界だ。ガラス容器の中と、その周囲の僅かな範囲が全て。

「いやはや、いやはや」

セイラの歌に、浮かされたのかもしれない。こんなことを考えてしまうとは、どうかしている。
伯爵はそう思いながら、城門の向こうで睨み合っているギルディオスを見た。彼のせいも、あるかもしれない。
どうしようもなく短絡的な思考で、後先考えずに戦いへ赴いた。他のやり方も、あるだろうに。
全くもって、器用ではない。やはり馬鹿な男であるな、と、伯爵は少し笑った。

「なぁ、ゲルシュタイン」

夜空の頂点に昇った満月を、丸メガネに映し、グレイスは呟く。

「どっちが勝つと思う?」

「愚問である」

伯爵は、うにゅりとワインレッドを伸ばした。

「勝利の凱歌を歌うのは、ニワトリ頭に決まっているではないか」




神事の夜に、似合わぬ戦い。戦場は、神も見知らぬ世界の隙間。
魂の願うまま、体の動くまま。竜の娘は友のために怒り、重剣士は戦いを求める。
そして、呪術師は笑う。戦いの行く末を、楽しみに思いながら。

竜の女神を祀る夜は、もうしばらく続くのである。





 



05 3/20