ドラゴンは笑わない




竜神祭の夜 後



「…いやはや、いやはや」

ごぼり、と伯爵は大きな気泡を作った。遠くに見える城門の奧の光景が、フラスコの球面に映っている。
状況は芳しくない。それどころか、一旦は納まるかと思われた事態が更に悪くなっている始末だった。
後方に、とん、と重みのある着地音がした。伯爵がそちらへ視点を向けると、グレイスとレベッカが立っていた。
レベッカは不機嫌なのか、血の付いたエプロンを握り締めている。グレイスは、伯爵に片手を挙げる。

「よぉ。また会ったな、ゲルシュタイン」

「我が輩としては、貴君にはもう会いたくもないのである」

「そう言うなよ」

ひょいと肩を竦めてから、グレイスは近付いてきた。伯爵の入ったフラスコの隣で、立ち止まる。
その後ろを、少し遅れてレベッカが付いてきた。背中には、魔導鉱石を再結晶化させて作った翼があった。
伯爵は、レベッカの手足から漂ってくる強烈な竜の血に嫌悪感を覚えた。殺したばかりらしく、匂いが新しい。
血の匂いからして、赤竜族と青竜族のようだった。アンジェリーナではないことを知り、僅かに安心する。
伯爵はフラスコの内側に体をへばりつかせながら、視点を欄干すれすれにまで下げた。苦しげに、呟いた。

「グレイスよ。なぜ貴君は、そこまで他人を軽く扱えるのであるか?」

「ゲルシュタイン、お前らしくねぇぞー。あの連中に、感情移入してんのか?」

「そうではない。なぜ、レベッカを使って竜族を殺してきおったのか、と聞いておるのだ。一人二人ではないな」

「まぁ、割とな。でも、そんなに大した数じゃないぜ? 兵士三人に魔導師二人、たったの五人さ」

「大したことがあろうがなかろうが、命は命である! 再び問おう、なぜ殺してしまうのであるか!」

激昂する伯爵に、グレイスは物珍しげな顔をした。少し考えてから、返す。

「そうだなぁ、理由があるとすりゃあ、手っ取り早いんだよ。その方が、色々とさ」

「貴君の腕ならば、眠らせることも記憶を消すことも簡単ではないか!」

「簡単じゃないから、一番確実な手段を使ってるんじゃないか。何をそんなに怒ってるんだよ、ゲルシュタイン」

「怒るべきところだからである。ギルディオスの怒りが、移ったのやもしれぬがな」

高ぶった口調を、伯爵はどうにか落ち着けた。ごぼり、とスライムが泡立つ。

「グレイス。貴君は、誰かが死んで悲しく思ったことがないのであるか?」

「あるよ」

「あるのであれば、なぜ殺すのである。殺した者の周囲の者達が、悲しみ苦しむとは思わぬのかね!」

「そうなるって解ってるから、オレは他人を殺すんだよ」

グレイスは、少し笑った。いつもと変わらぬ、飄々とした口調だ。

「呪術師ってのは、因果な商売でさぁ。呪いってのも、結構面倒な魔法でねぇ。掛けたら掛けっぱなし、ってわけにも行かないんだよ。知ってるだろ?」

「呪いを確実に持続させるためには、術者の念が欠かせないというやつであるな」

「そうそう、それ。でな、オレって割と腕が良いじゃん? だから、次から次へと呪詛の仕事が来るんだよ」

自分で言うのもなんだけどさ、とグレイスは謙遜の欠片もなく言った。

「でも、一人でいくつもの呪いを維持させるのは、骨身どころか魂が削れて削れて仕方がねぇんだ。そこで、だ」

グレイスの目が、メイド姿の人造魔導兵器へ向かう。

「レベッカに使ったのと同じ術を流用して、他人の怨念やら情念やらを集めることにしたんだ。そしたらまぁ、これが楽なんだ。オレの思念で呪詛を維持させてるわけじゃないから、いくらでも出来る。だが、他人の恨みの感情なんてそうごろごろ転がってるわけじゃないんだ。だから適当に殺して、その関係者から集めることにしたわけよ」

「目的のためには手段を選ばぬ、ということであるか」

「いんや、ちょっと違うな。オレは手段も目的も選んでない、楽しんでるだけさ」

ちゃりっ、とグレイスは胸元に下げた金のペンダントを握り締めた。

「おおう、いい感じぃ。竜王都の連中の人数が多いから、面白いくらいに溜まってくれてるぜ」

「グレイスよ…。貴君は絶対に、ろくな死に方をせぬぞ」

「あーそれ、ゲルシュタインで百七十二回目だな」

「解っていて言ったのである。貴君のような輩には、一度は言ってやりたい定番の文句であるからな」

「だけどさぁゲルシュタイン」

「なんであるか」

「ろくな死に方って何だろうな? ろくでもない死に方ってのも何だろうな? オレ、いっつも気になるんだよ」

「我が輩に聞くでない。そのようなこと、我が輩に解るはずがなかろうが」

「だろうなぁー、オレも解らねぇんだから。めちゃくちゃ不毛なやり取りだったな」

「ならば、聞かないでくれたまえ。気力の無駄である」

そう切り返してから、伯爵は熱の上がった体を伸ばした。ひやりとしたフラスコに、軟体を這わせていく。
怒りという感情は、体内の温度を過度に上昇させるものだ。あまり熱が籠もってしまうと、煮えてしまう。
フラスコの中は、外気温との差で白く曇った。球体に添ってうねるワインレッドから、グレイスは目を外す。
城門の向こうでは、ギルディオスが戦い続けている。赤いマントを背負った大きな背に、グレイスは目を細める。
この状況を、どうやって彼が乗り切るのか。様々な想像を巡らせながら、甲冑の肩越しに、彼女を見つめた。
フィフィリアンヌは、唇を噛み締めている。白い頬が血に汚れていて、化粧のようで美しかった。
グレイスは、胸中にぞくりとした快感を覚えた。舐めてもいないはずの血の味が、口の中に広がっていた。




ぱちり、とかがり火が爆ぜた。
生き物のように揺らいでいる炎の明かりで、甲冑は赤く染まっていた。目の前の盗賊は、笑っている。
余裕を示すためと、己の自信を失わないために笑っているのだ。自分の勝ちだ、と信じるためでもあるだろう。
勝ち目はあるだろう。ギルディオスはバスタードソードを握り締めていたガントレットを、少し緩めた。
盗賊は、めざとくそれに気付いた。おっと、と盗賊はフィフィリアンヌの首筋に刃を当てる。

「下手に動くなよ。動いたりしやがったら、この場でこいつの首を切り落として、解体しちまうからな」

ギルディオスは頷くような気持ちで、僅かに顔を伏せた。盗賊は、短剣を少女の肌に押し付けた。

「お前の娘なんだろ? 誰だって、娘を目の前でばらされたくはねぇよなぁ」

がちり、と体重のある足音が、ギルディオスの背後でした。ん、と盗賊は甲冑の背後に目を向ける。
ギルディオスが振り向くと、重戦士が巨大な斧を握り締めている。兜の下で、眉間が歪められていた。
その表情は、悲しげでもあり悔しげだった。聖職者が彼を止めたが、重戦士はそれを振り解いて歩み出てきた。

「…ランド」

「ナヴァロ。丁度良い、手伝ってくれよ」

親しげに、ランドと呼ばれた盗賊は声を掛ける。ナヴァロと呼ばれた重戦士は、腹立たしげに叫んだ。

「オレはお前に手は貸さん! 仲間を殺したお前なんざ、もう仲間じゃねぇ!」

「それじゃあ何か、ナヴァロはその木偶の坊と竜族に味方するってのか?」

可笑しげなランドに、ナヴァロは奥歯を噛み締めた。ぎりぎりと斧の柄が締められ、肩が怒っている。

「出来るわけがねぇよなぁ? 黒竜族に一族を殺されたお前が、ドラゴンの味方になんてなれるはずがねぇ」

だから、とランドはフィフィリアンヌの顎を少し撫でる。

「元々仲間だった、オレの味方になるしか、道はないってことよ。積年の恨みも晴らせて、ドラゴン・スレイヤーとしての功績も挙げることが出来て、都合がいいじゃねぇか」

ナヴァロは顔を歪め、唇をぐっと噛み締めた。彷徨っていた目線が、地面に落とされる。
何が正しいのか、何が正義なのか、何を信じるべきなのか。彼はそれを、迷ってしまっていた。
仲間を殺したランドは許せない。だがそれ以前に、ドラゴンは許せない。何年も、追い続けてきた敵だ。だが。
ナヴァロの迷いを見て取り、ランドは内心で喜んだ。一度迷ったナヴァロを、味方に付けるのは簡単だ。
だが、彼をこちらに付けるのは後でいい。フィフィリアンヌのを殺してからの方が都合が良い、とランドは思った。
ギルディオスは、戦意の失せたナヴァロの目から顔を逸らした。今一度、ランドに向き直る。

「おい、てめぇ」

「このドラゴンを渡せー、ってならまず、武器を捨てろよ。話はそれからだ!」

先手を読んだランドの言葉に、ギルディオスは少し詰まったが、気を取り直した。

「取引しようじゃねぇか」

「今更なんだよ。つかお前、ドラゴンと相応な値の物でも持ってるって言うのか?」

「お前こそ、元出はあるのか?」

ギルディオスは、剣先でランドの胸元を指した。ランドは一瞬面食らったが、すぐに表情を戻す。

「んなもん、なくてもいいんだよ! 竜族の死体があるって言えば、盗賊連中はすぐに集まってくる!」

「その逆も然り、だぜ」

先程とは打って変わって、ギルディオスの口調は冷静だった。思考も、割と落ち着いているようだ。
ランドに掴まれた顎に痛みを感じながら、フィフィリアンヌは彼の策を考えてみたが、予想が付かなかった。
もし失敗したら、自分が暴れるまでだ。しばらく動かなかったおかげで、大きな傷の大体は癒えている。
フィフィリアンヌは呼吸を浅くさせながら、甲冑を見つめた。柄にもなく、彼を信じてみたくなっていた。
ランドは横目にフィフィリアンヌを見ていたが、すぐにギルディオスを睨んだ。心配を、言い当てられてしまった。
ドラゴンに対する畏怖は、根がかなり深い。ドラゴン・スレイヤーになった者の中にさえ、恐れる者は多い。
それは盗賊も同じことで、怖がらないはずがない。金になるからと誘われても、我が身を大事に思うのが普通だ。
人出が集まらなければ、解体したドラゴンを運ぶことは出来ない。ギルディオスは、それを言っているのだ。
ランドは、取引の内容が気になり始めていた。何と何を、引き替えさせるつもりなのだろうか。
ギルディオスは、がしゃん、と剣を地面に放り投げる。開いた両手で頭を持つと引き上げ、すぽんと外した。

「いいことを教えてやろう」

兜を脇に抱えた首のない甲冑は、胴体の上に開いた穴を指し示す。

「オレの魂を繋ぎ止めているのは、フィルの魔力と、金貨五百枚はする上物の魔導鉱石だ」

「…本当か?」

確証を得るため、ランドはフィフィリアンヌに尋ねた。フィフィリアンヌは、小さく頷く。

「あの男は、嘘だけは吐かんぞ」

「ランド、とかいったな。さっきの感じだと、お前にはまだ、解体したドラゴンを運ぶための手下はいねぇな?」

首がないせいか、ギルディオスの声はやけに通っていた。ランドは、言葉に詰まる。

「…まぁな。だが、これから」

「そこで、だ。フィルを離してくれたら、オレの魔導鉱石をやろう」

ぽん、とギルディオスは手の上で、兜を軽く投げた。首を弄び、死人は続ける。

「オレの魔導鉱石を下界で売れば、金貨五百枚前後にはなる。それを元出にすれば、その場しのぎの手下なんざ、いくらでも集められるはずだ。小娘一人の解放と金貨五百枚、どうだ、悪い話じゃねぇだろ?」

確かに、悪い話ではなさそうだった。だが、ランド側に利益が大きすぎて、それが逆に怪しく思えていた。
その上、ギルディオスの取引には穴がある。魔導鉱石を受け取ったあとに、彼女を殺す場合を考えていない。
この取引と戦い、どちらにも勝てる。ランドはそう確信し、今一度、迷っている様子のナヴァロを見た。
グレイスのやり方でナヴァロを惑わして配下にすれば、全部とはいかないまでも、ドラゴンの血肉は運び出せる。
ランドはフィフィリアンヌとギルディオスを、素早く見比べた。だが、すぐに取引に応じてしまうのはまずい。
判断は、魔導鉱石の値踏みをしてからの方がいい。そう思い、ランドはギルディオスを手招く。

「解った。だがその前に、お前の魔導鉱石、見せてもらおうじゃねぇか」

「用心深ぇのはいいことだ」

ギルディオスは地面に膝を付き、背を曲げた。肩を上げて出来るだけ腕を伸ばし、首の穴に突っ込んだ。
胴体は広く、胸と背の間隔は広い。慎重に手を当てて感触を確かめながら、納められている魔導鉱石を探した。
背中の中央辺りで、かつん、と指先が何かに当たった。厚い金属板が、ベルトで固く止められている。
腹に触れたような感覚もあり、これが魔導鉱石だと確信した。金属板の下部に指を掛け、ぐいっと上に引く。
だが、ベルトに遮られて外れない。ギルディオスは思い切り力を込めて、金属板を引き剥がす。
意外に容易くベルトは千切れ、金属板は無事に外れた。だが、外れた途端に勢いが余ってしまった。
どごん、と胸の内側に手がぶつかった。ギルディオスは鈍い痛みと震動に痺れたが、なんとかそれを堪える。
首の穴から、穴より一回り小さい金属板が取り出された。魔法陣が刻まれた、銀色に輝く楕円形の板だ。
ギルディオスは、その金属板を出して眺めてみた。銀色の中心には、拳大の魔導鉱石が填っている。
真紅の魔導鉱石が、ぎらりと輝いている。ギルディオスは立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
魔導鉱石を体から引き離したせいで、意思の疎通が鈍っているのだ。よろけそうになったが、立ち直る。
ギルディオスは意識を強め、手足に集中した。いつも以上に強く念じながら姿勢を戻し、立ち上がった。
感覚は、なんとか取り戻せてきた。普段よりも意識を強めて気を張っていれば、遠隔操作は可能だ。
傍らに転がしていた首を取り、しっかりと填めた。これなら、思った通りのことが出来る。
前方に立つランドは、勝利を確信しているらしい。表情に余裕が滲んでいて、欲に目がぎらついている。
ギルディオスはランドに向かいながら、フィフィリアンヌを窺った。顔色は悪いが、先程よりも生気がある。
さすがに、ドラゴンの血は伊達ではない。この短時間で、傷だけでなく、体力も少しは回復しているようだ。
勝機はこっちにある。ギルディオスは内心でにやりとしながら歩き、ランドの目前に止まった。
ランドはフィフィリアンヌを抱えたまま、短剣を持った片手をギルディオスへ伸ばした。

「早く見せろ」

ギルディオスは、魔導鉱石の填った金属板を差し出した。ランドは短剣を持った手で、それを受け取る。
ずしりとした銀の板に、澄んだ輝きを放つ、赤い魔導鉱石が填められている。入念に眺め、本物だと確信した。
不意に、がしゃり、と甲冑が崩れ落ちた。背を曲げて倒れ込んだ銀色の巨体は、力が抜け、動いていない。
ランドは手の中の短剣を、足元に投げてみた。ギルディオスの頭上に落下し、どん、と短剣が突き刺さる。
だが、ギルディオスは微動だにしなかった。魔導鉱石から離れたからだ、とランドは察し、嬉しくなった。
魔導鉱石も手に入り、怪力の甲冑とも戦わずに済む。その安堵感に気が緩み、魔導鉱石に見入ってしまった。
突然、甲冑は息を吹き返した。素早く上体を起こして拳を握り、低い姿勢から、ランドの顔へ殴り付けた。

「だっ!」

ごしゃっ、と骨が砕ける音が響いた。ギルディオスは深く踏み込んでいて、腕を伸ばしきっている。
ランドの顔であった部分に、銀色の拳が埋まっていた。首が後方にへし折れて、砕けた顎が上向いている。
ギルディオスのガントレットに血が伝い、腕まで届いていた。赤い滴が一滴、薄い影に落ちて消えた。
フィフィリアンヌの顎を持っていた手が緩み、ずるりと落ちる。ギルディオスが拳を抜くと、盗賊は膝を折った。
右手が緩み、どごん、と金属板が落ちた。ギルディオスが金属板を拾ったのとほぼ同時に、ランドは倒れ込んだ。
拳の大きさと同じ大きさで、顔に窪みが出来ている。顔の部品らしきものが、溢れ出ている血に沈んでいる。
ギルディオスはランドの血に汚れた右手を、だらりと下ろした。生温くぬるりとした流れが、指を這う。

「力、入れすぎちまった」

不意打ちで殴り倒し、気を失わせるだけのつもりでいた。しかし、怒りが納まらず、全力で殴ってしまった。
原形をとどめていないランドの顔を見、ギルディオスは右手を握った。剣以外で殺すと、さすがに気分が悪い。
拳にはまだ、人間を殴り倒した感触が残っている。その手応えは、魔物よりも柔く獣よりも弱かった。
怒りは、左手に持った魔導鉱石の中で未だにくすぶっていた。ランドを殺しても、すぐには消え去らない。
とん、とフィフィリアンヌが膝を付いた。気が抜けたかのように座り込みながら、深く、息を吐いた。

「そういう、手筈か。確かに貴様なら、魔導鉱石を外しても、動けないことはない」

「要するに、レベッカの真似事さ。心配したか?」

左手を裏返したギルディオスは、手の甲でフィフィリアンヌを小突いた。こん、と軽い音がする。
手の影の下で、フィフィリアンヌは目線を落とす。言いづらそうにしていたが、呟いた。

「…少しはな」

すると突如、場に合わぬ音がした。乾いた破裂音が、何度も続いている。
それが拍手であると気付くまで、しばらく掛かった。こんな状況で、他人を褒める者などいないからだ。
ぱん、ぱん、と拍手は近付いてきた。竜王城の巨大な門の下を、灰色の影が通ってやってきた。
親しげな笑みで、呪術師は両手を打ち合わせている。ギルディオスの背後、ランドの死体を見て楽しげに言う。

「お見事お見事、さすがはギルディオス・ヴァトラス。不意打ちってのは、それぐらいやらねぇとなぁ」

ギルディオスが黙っていると、グレイスは饒舌に続けた。

「ま、そいつが甘かったせいもあるんだがね。戦闘時での取引なんて、応じた方が負けるのさ」

「それが、常識ってもんでーす」

グレイスの後ろから、ひょいっとレベッカが顔を出す。白いエプロンが、赤黒い飛沫に汚れている。
温度の残る、新しい血臭がした。ギルディオスは右手で顔を抑えてしまい、人と竜の死臭にえづきそうになった。
フィフィリアンヌは口元を押さえ、身をずり下げた。どん、とセイラに背を当てながら、眉根を歪めている。
ないとは解ってはいるが、胃の辺りが重苦しい。鋭い頭痛と吐き気を堪えながら、ギルディオスは洩らした。

「…殺したな」

「赤竜族の魔導師とー、青竜族の魔導師とー、兵士さんを三人ですー。だからぁ、大した人数じゃないですよぉー」

えへ、とレベッカは可愛らしく首をかしげた。頭の両脇で、縦に巻かれている髪が上下に揺れる。
手を叩き続けるグレイスと、微笑むレベッカを見つめていたバロニスは、徐々に目を見開いていった。
ギルディオスの言っていたことが、彼の脳裏に蘇ってきた。シルフィーナを殺したのは、グレイスだ。
三日前に、グレイスと握手を交わしたことも思い出した。生理的な嫌悪と、自己に対する嫌悪が起きてくる。
ざりっ、と右手で土を掻き集めて握り締めた。シルフィーナを殺した男の、汚れが移っているような気がした。
わなわなと震える肩を、なんとか押さえた。バロニスは強烈な怒りで恐怖を誤魔化しながら、立ち上がった。
傍らに落ちていた剣を取り、構えた。本当の敵であるグレイスに、バロニスは叫んだ。

「グレイス! 貴様、我らを騙したな!」

「やーっと気付いたか。お前らが、勝手にオレを信用しただけだろ」

拍手の手を止め、グレイスは面倒そうに返した。その態度に、バロニスは激昂する。

「シルフィーナを殺した裏切り者め! ランドを惑わせたのも、貴様だろう!」

「なんでもかんでも、オレのせいにしちゃいけねぇなぁ。物事ってのは、きっちり見定めねぇとダメだぜ」

人差し指を立てて振りながら、グレイスは首も振ってみせる。

「シルフィーナは用済みだったから、殺したまでさ。ランドに至っては、オレはちぃーとも関わってねぇよ」

「ならば、なぜランドは!」

「それくらい、自分で考えろよ。頭の悪い男だな」

グレイスは嫌そうに、眉をしかめた。馬鹿は嫌いだな、と顔を背ける。

「ランドの野郎は、さっき自分で言ってただろ? お前らは利用されてた、それだけのことさ。だから、オレはお前に恨まれる筋合いは欠片もない。八つ当たりはしないでくれよ、バロニス」

「…八つ当たりだと?」

「そうさ。オレは別に、お前を裏切っちゃいない。騙してはいたが、寝返ってはいないじゃないか」

「だが、貴様は私達を罠に填め、現にこうして」

「この状況に突っ込んでいったのは、バロニス、お前自身の行動じゃないか。オレは、情報を渡しただけだ」

「だが、しかし…しかし!」

「恨むんなら、自分の浅はかさを恨むことだな。勇者どの」

にぃ、とグレイスは口の端を上げた。バロニスは、唸るように叫ぶ。

「…グレイス!」

怒りに満ちた叫び声を上げながら、騎士は駆け出していった。やめろ、とナヴァロが叫んだが止まらなかった。
綺麗に磨かれた剣を振り上げ、獣のような咆哮と共に、バロニスはグレイスに斬り掛かっていった。
バロニスは、怒りに任せて剣を振る。滅茶苦茶に振り回される刃を、灰色の男はするすると避けていく。
嫌な笑みを顔に貼り付けて、グレイスはくるりと背を向けた。その背に、バロニスは剣を振り落とす。

「でぇあ!」

どずん、と滑らかな刃が埋まった。ふわりと広がる紺色のスカートが、バロニスの視界に現れた。
グレイスとバロニスの間に、いつのまにかレベッカが入っていた。幼女の右腕に、剣がめり込んでいる。
細い腕は皮が破け、中身が覗いていた。血のようだが血ではない、でろりとした青紫の液体が零れている。
レベッカは剣を押し上げながら、バロニスへ顔を寄せた。驚愕している彼へ、にっこりと笑む。

「弱ぁい」

スカートが広がり、レベッカの足が振り上げられた。底の厚い靴が剣を叩き、ぎん、と割ってしまう。
くるりと一回転してから、レベッカは着地した。バロニスはその衝撃と動揺で、二三歩後退ってしまった。
幼女は右腕から折れた剣を抜き、放り投げた。小さな両手を前に出すと指先が破れ、鋭く大きな爪が伸びた。
青紫の太い爪は、フィフィリアンヌのそれと似ていた。彼女の手よりも遥かに大きく、腕ほどの長さがあった。
とん、と軽く、レベッカは踏み出した。バロニスの目前に浮かび上がり、右手の爪を腹部に当てた。

「うふふ」

レベッカの小さな影が、バロニスの背後へ抜けた。バロニスの上半身が次第にずれて、ごとんと転げ落ちた。
高く昇った血飛沫が、雨のように降り注いできた。ぼたぼたと落ちてくる赤を浴び、幼女は振り返る。
しゃりん、と硬い爪を擦り合わせ、鳴らしてみせた。赤黒く濡れた爪先を、ぺろりと舐める。

「お次は、だぁーれだー?」

「こ…この、悪魔がぁあっ!」

斧を振り上げ、ナヴァロが駆け出した。グレイスに向かって、突進していく。
グレイスが顎で示すと、レベッカは重戦士の前に躍り出た。ナヴァロはレベッカに、一気に斧を振り下ろす。
頭上の斧を、レベッカは容易く避けた。レベッカは傍らの地面に突き刺さる斧と彼を見、にっこり笑ってみせた。
一瞬、ナヴァロはたじろいだ。レベッカは軽く跳び跳ねると、とん、と斧の柄につま先を乗せて立った。
ナヴァロは後退し、斧から手を放そうした。レベッカは左手の爪で、どん、とナヴァロの手と斧の柄を繋ぐ。

「いっけないなぁー。御主人様に、そんなこと言っちゃあ」

右手が上げられ、しゃりん、と爪先が擦れた。青紫の切っ先が、ナヴァロの鼻先に突き出される。
まだ温かさが残るバロニスの血が、ついっと滴った。重戦士の襟元を汚し、爪先が、少し頬を撫でた。

「怒っちゃうぞ」

爪が横にされ、どっ、と首筋に埋まった。青紫の爪が装甲と服を切り裂き、硬い感触が骨を割った。
レベッカの腕が、徐々に引かれていく。ナヴァロの首に出来た傷が深まっていき、新たな血が吹き出した。
ただでさえ汚れていたレベッカは、更に血に汚れた。真っ赤になった右手を下げると、ナヴァロの首が揺らぐ。
レベッカはくるりと背を向け、斧の上から降りた。長い爪を手の中に納め、小さな手をエプロンで拭う。
首のない重戦士が、前方に傾いていく。先に落ちた首に目掛けて、ずしゃりと倒れ込んだ。
振り返ったグレイスは、レベッカの頭を軽く撫でてやる。レベッカは嬉しそうに、主を見上げた。
ほんの、数秒の間だった。セイラの血と足跡が残っていた地面には、更に二つの血溜まりが出来上がっていた。
ギルディオスは、手にしている金属板を握り締めた。炎に似た熱が、板からガントレットに流れてきていた。
怒りは、納まることはない。バロニスだけならまだしも、ナヴァロまで手に掛けて、その上で笑っている。
グレイスは、まるで子供のようだと思った。気に入った玩具で遊び倒し、用が済んだらその手で壊すまでだ。
ただ、己が暇であるという、それだけの理由で他人を乱す。ギルディオスは、嫌悪感の上に憎しみすら感じた。

「…てんめぇ」

「そう怒るなよ、ギルディオス・ヴァトラス」

屈んだグレイスは、返り血を受けたレベッカの頬を撫でた。彼の指先に、ナヴァロの血が移る。
ギルディオスに笑うグレイスは、今まで以上に、親しげだった。そして、楽しげだ。

「あんたの仕事を省いてやったんだ。感謝されこそすれ、怒られる謂われはないぜ?」

「…そういう問題じゃねぇ」

「報酬は分けてくれなくてもいいぞ。金貨五枚なんて、オレに取っちゃはした金だ」

「そういうんじゃねぇっつってんだろ馬鹿野郎があ!」

雷鳴にも似たギルディオスの絶叫が、竜王城に轟いて揺らがした。自分の荒い呼吸が、うるさかった。
しんとした静寂に、じりっと焼ける音が混じった。ギルディオスは、手元の金属板をちらりと見た。
赤い魔導鉱石が、強く輝いていた。落下した際に付着した土を焼け焦がしながら、熱した鉄の如く燃えている。
この熱は魔力のようだ、と思った。自分にはないはずの魔力が、怒りによって、生まれたのかもしれない。
ギルディオスは金属板を、フィフィリアンヌに放った。ごとん、と銀色の楕円がフィフィリアンヌの前に落ちた。
フィフィリアンヌは金属板を拾おうとしたが、かなりの熱さを感じ、弾かれるように引っ込める。

「熱っ」

「フィル。オレの魂、預かっといてくれ」

ギルディオスは手前に放っていた、バスタードソードを掴み取った。がちゃり、と甲冑が背を伸ばす。
ヘルムが真っ直ぐに見据えた先に、灰色の呪術師がいた。血濡れた幼女と共に、来るのを待っている。
ギルディオスは、じゃきりとバスタードソードを構えた。幅広の側面に、無表情なヘルムが映り込んだ。

「バロニスは、奴らは戦意なんざ失っていた。それを、どうしてそそのかしやがった!」

グレイスは、答えない。ギルディオスは、叫ぶ。

「そりゃあどうしようねぇ連中だったが、わざわざ殺す意味なんてねぇだろ!」

がしゃり、がしゃり、と、重々しい足音が行く。血溜まりを引き摺って歩きながら、グレイスへ向かっていく。
レベッカが前に出ようとしたが、グレイスは幼女の肩に手を置いて首を振った。そして、立ち上がる。
両腕を組んで、胸を張る。長い黒髪の緩い三つ編みが、肩から背に滑り落ちてふらりと揺れた。
グレイスは組んでいる腕の下で、手のひらに指を動かしていた。レベッカの受けた返り血で、二重の円を描く。
だがギルディオスは、その動きに気付けなかった。怒りが強すぎて、注意力が鈍ってしまっていた。
手のひらの中に、グレイスは魔法陣を描き終えた。右手を握らないようにしながら、腕を解いた。

「意味はあるさ」

グレイスは右手を挙げて、真正面の甲冑に狙いを定めた。

「色々とね」

ギルディオスが避ける前に、グレイスは呪文を唱え終えていた。口の中で小さく、言葉を紡ぐ。
途端に、彼の周囲に強い風が巻き起こり、砂埃が渦巻く。その風に戒められ、ギルディオスは動けなくなった。
なんとか風を跳ね飛ばそうとしても、四肢に絡んでくる。剣を上げようとしても、抑え付けられてしまった。
視界も乱れ、ばさばさと背でマントが鳴っている。ギルディオスは、風に何かを奪われていく気がした。
熱が、失せていく。全身に充ち満ちていた強烈な感情が風によって冷やされ、どんどん外に抜けていった。
不意に、風が止まった。喪失感と脱力感に襲われ、ギルディオスはがしゃりと膝を付いた。

「…何を」

「奪ったか、って? 解ってるくせに、わざわざ聞くなよ。あんたの怒り、感情だよ」

満足げに、グレイスは胸元のペンダントを握る。

「あんな連中でさえ、理不尽な殺され方をしたら怒るぐらい、気持ちいいほど真っ直ぐな怒りをさ」

「オレを、怒らせるためだけに?」

「そうさ、ギルディオス・ヴァトラス。あんたの方が、フィフィリアンヌよりも効率がいいって解ったんでね」

丸メガネに甲冑を映し、グレイスは目を細めた。ギルディオスは立ち上がろうとしたが、立ち上がれない。
長年の友人を見るような、久々に会った兄弟へ向けられるような、愛しい相手を、見るような。
ギルディオスを見下ろすグレイスの目には、親しげな愛情が、滲んでいた。


「あんたに逆上してもらうためだけに、バロニスとナヴァロには死んでもらったのさ」





 



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