ギルディオスは、悶々としていた。 竜王城の中庭は、柔らかな日差しで温まっている。そこで、セイラがフィフィリアンヌに文字を教わっていた。 傷が大分良くなったとは言っても、二人はまだ包帯を巻いている。動けないなりの暇潰し、なのだそうだ。 フィフィリアンヌは石版を地面に置いて、胡座を掻いたセイラの足に座っていた。白墨を鳴らし、文字を書く。 西方諸国の、つまり王国周辺の言葉だ。セイラが得意な東方の言葉と並べて、じっくりと教え込んでいる。 フィフィリアンヌは感情の籠もらぬ声で、今し方書いた文字の発音をした。セイラは、同じように言う。 こうして、一つずつ音を教えて、徐々に教え込んでいくのだそうだ。確かにその方が、セイラは効率が良い。 言葉ではなく音として覚えておけば、音感の鋭い彼は扱いやすいだろう。しかし、教える方は手間だ。 東方諸国の言葉と違って、西方諸国の言葉は母音が多い。東が十と少しに対し、西は三十近くある。 それらの一つ一つを石版に書いて、言って、復唱させ、その上で言葉の意味も教える。考えただけで面倒だ。 だがフィフィリアンヌは、それを苦と思っていないらしい。それどころか、少女の横顔はどこか楽しげだった。 石版を手で擦って文字を消してから、削れた白墨で別の文字を書く。こん、と彼女は石版を小突いた。 「これは何と読む」 「ウェイ。東ノ、言葉」 少し考えてから、セイラは読み上げた。そうだ、とフィフィリアンヌは頷く。 「では、隣に書いたこれはなんだ?」 「ラァ、違ウ…リ? コッチ、西」 「そうだ」 フィフィリアンヌは足元から布を取り、石版を擦って文字を消した。漆黒の石版は、すっかり白く汚れている。 セイラは金色の単眼を上向けて空を眺めながら、口の中で復唱している。低い声で、リー、と繰り返す。 そんな二人の光景を見つつ、ギルディオスは悩んでいた。腕を組んで胡座を掻き、足の間を睨んでいる。 彼の胡座の間には、金貨が二枚置いてあった。城とギルディオスの影の中にあるので、金は光を失っている。 フィフィリアンヌは石版をごしごしと布で拭っていたが、顔を上げた。ギルディオスに目を向け、言った。 「貴様、なぜ己の股間を凝視しているのだ。発情でもしたか?」 「股間じゃねぇよ! ついでにさらっと品のねぇこと言うなよ!」 反射的に反論し、ギルディオスは足の間を指し示した。金貨を掴み、ほれ、と見せる。 「こいつだよ」 「いやはや、いやはや。まだ使わずに持っていたのかね?」 日なたに置かれたワイングラスが、ごとりと身動きした。ぬるぬると、大振りなグラスから伯爵がはみ出る。 身を乗り出したセイラは、じっとギルディオスの手を見つめた。ちかりと輝いた金貨に、単眼を細めた。 「金貨、二枚。ギリィ、オ金、イツ、稼イダ?」 「ああ、セイラは知らなかったもんな。竜神祭で戦った分の代金、フィルから貰ったんだよ」 「雹、降ル」 セイラは真顔になった。かなり心配げに、薄い雲の散らばる青空とフィフィリアンヌを見比べる。 フィフィリアンヌはセイラを見上げ、なんともいえない表情になった。不愉快げに眉を曲げ、腕を組んだ。 「ギルディオスは働いたのだ。その分の報酬をやるのは、当然ではないか。セイラまで何を言うのだ」 「はっはっはっはっは。セイラまでおかしく思うほど、貴君らしからぬ行動であったということだよ」 うにゅりとワインレッドを曲げ、伯爵は体を日光に透かす。しなやかな先端を、大柄な甲冑へ向ける。 「しかしギルディオスよ、なぜ金を使っておらんのだ? 以前に使いたいと言っていたではないか」 「いやー…それがなぁ」 ちゃりん、と金貨を投げ、ギルディオスは受け止めた。金獅子の描かれた表が、手の中に落ちる。 「いざ使うとなると、これが結構悩むもんでさぁ。なんていうかー、そのー、出来れば有意義に使いたいんだよなぁ」 「半端な金ほど、使い道に困るものはないからな」 白墨に汚れた袖を払いながら、フィフィリアンヌはギルディオスへ目を向けた。そうなんだよ、と甲冑は俯く。 「金貨だから安いわけでもねぇけど、二枚だけじゃ大金じゃねぇんだ。せめて、もうちょいまとまった金だったらなぁ」 「追加はないぞ。二枚だけだ」 「解ってるよ、うん」 愛想も慈悲もないフィフィリアンヌの返事に、ギルディオスはがりがりと頬の辺りを掻いた。要求する気はない。 セイラはギルディオスを見下ろしていたが、フィフィリアンヌと石版に目線を戻した。また、リー、と呟く。 彼女から教えられた文字と単語を、反芻しながら口に出した。即興の節を付け、歌のようにしてみた。 アン、イェウ、ウェイ、ケェ、オー、ラオ。東の言葉には慣れているため、セイラはこれらを難なく発音した。 エィン、ヴァル、スェー、ディン、ヨォ、フィ、ギィ、リー。西の言葉は、少々詰まったがなんとか言うことが出来た。 どれも単語ではなく、音の一つに過ぎない。これらを組み合わせると、意味を持った言葉、単語となる。 だが、そこまで行き着くまで長そうだ。セイラは内心で少しばかりぐったりしたが、気を取り直した。 せっかく、フィフィリアンヌが教えてくれているのだ。ケガが治りきっていないのに、自分の元まで来てくれたのだ。 それに文字を覚えれば、彼女に頼らなくとも歌の意味が解る。するべきは感謝であり、遠慮ではない。 今まで使っていなかった頭を使うから、それなりに疲れるが嫌ではなかった。セイラは、彼女を見下ろす。 フィフィリアンヌは、また新たな文字を書いていた。石版と白墨がぶつかり、こつこつと硬い音を立てている。 それをどう発音するのか考えていたが、セイラは足音に思考を中断した。城に繋がる渡り廊下を、騎士が来る。 エドワードは長いマントを翻し、やぁ、と片手を挙げた。セイラは、にぃっと口元を上向けてみせた。 「エド」 「何の用だ、エドワード。竜王都の周辺警備に忙しいのではなかったのか?」 石版から顔を上げ、フィフィリアンヌはエドワードに向いた。エドワードは、手厳しいな、と苦笑する。 エドワードは四人の元へ歩み寄ってくると、ギルディオスと伯爵に挨拶してから、フィフィリアンヌに向き直った。 「警備は私の範疇ではないよ。あれは軍部の仕事であって、騎士団の仕事とは違う。関わってはいるがね」 それで、とエドワードは、芝生に座り込むギルディオスに振り向いた。 「私が用があるのは、ギルディオスだよ」 「オレ?」 ギルディオスは、きょとんとしながら自分を指し示した。エドワードは頷く。 「今、竜王都にいる人間族はあなただけだからね。死んではいるが」 「まぁ、そりゃそうかもしれねぇけど。だからってなんでオレ?」 「竜神祭の戦いの生き残りが、一人いただろう。聖職者の男なんだが、どうにも塞ぎ込んでいてね」 「裏切り裏切られー、だったからなぁ。そりゃあ来る」 「困ったことに、名乗りもしないんだ。刑に処すわけではないが、名前が解らないことにはやりづらくて」 「なんだ。あいつ、生かすつもりなのか」 ギルディオスは意外そうに言い、金貨を手の中に納めた。腰のベルトに付けた物入れ袋を開け、そこに入れる。 「殺しといた方が後々楽じゃねぇか? 竜王都の場所も知られてるわけだし」 「確かに私もそう思ったのだが、竜王様がね」 と、エドワードは辟易したように肩を竦めてみせる。ギルディオスは、中庭を取り囲んでいる竜王城を見上げた。 天に突き刺さらんばかりに、城がそびえている。鋭い槍の如く尖った屋根が、太陽を切り取るように隠していた。 なかなか攻撃的な外見の城だというのに、その主は至って平和主義だ。むしろ、事なかれ主義かもしれない。 そのことは、竜神祭の夜に思い知らされた。ハーフドラゴンとはいえ竜族である彼女を、同族達は助けなかった。 ギルディオスは、後でその理由をエドワードに聞き、多少なりとも腹が立った。いや、呆れてしまった。 人間と竜族が戦えば争いが起きる、かもしれない。だから、フィフィリアンヌを助けてはならない。と、いうものだ。 竜王の考えも、まるきり解らないわけではない。だが、その保守的な姿勢のおかげで、彼女とセイラは傷付いた。 ドラゴン・スレイヤーがのさばる原因も、恐らくはこれだ。戦うな、と教えられるせいで、竜族は無抵抗なのだ。 全く持って、愚かだと思う。竜王城に掛けられた竜王家の旗を見つめ、ギルディオスはげんなりしてきた。 ドラゴン・スレイヤーは、竜族を人格者とは欠片も思っていない。あくまで狩る対象であり、獲物の一頭に過ぎない。 そんな相手が、ドラゴンが戦わない理由を考えるものか。考えたとしても、弱っている、としか思わないはずだ。 竜族も竜族だ。王の権限が強いのは感覚的に解るのだが、そこまで忠実に従う意味はどこにあるのだろうか。 己の命が危機に晒されたら、抵抗するのが普通だ。それすらするな、と竜王は命じているのだろうか。 娘を人間の世界へ投げ出したアンジェリーナの判断は、正しかったのかもしれない。少なくとも、誤ってはいない。 実際、フィフィリアンヌは逞しく成長した。多少性格に難はあるが、それも見ようによっては愛嬌ですらある。 ギルディオスは、エドワードへ意識を戻した。穏やかな顔立ちをしているが、目付きは鋭い。 「んで、その竜王様が死人風情にどういうご命令を下すったのかな?」 「その聖職者の男と、会ってほしいんだ。同じ人間と話せば警戒心も緩んで、名乗ってくれるかもしれない」 「緩むどころか、却って殺意を抱かれちまいそうな気がするがね」 ギルディオスは右手を拳にし、ぱん、と左手に当てた。聖職者の男の目の前で、仲間であった盗賊を殺したのだ。 彼の仕草でそれを思い出したエドワードは、そうなんだよなぁ、と難解そうに言いながら眉を顰めた。 「だが、あなたの他に人間がいないんだ。仕方がないよ」 「抜かるな、ギルディオス。気落ちしているとはいえ、相手は聖職者だ。魔法を扱う輩だ」 腹筋が硬く割れたセイラの腹部にもたれながら、フィフィリアンヌは目線を合わさずに言った。 「貴様の魂は魔導鉱石に繋ぎ止めてはあるが、それでも、貴様が死者であることには変わりない。浄化魔法辺りを掛けられてしまえば、多少なりとも痛手を受けるはずだ。私の魔力はほぼ満量に注ぎ込んではあるが、魔力解放の術を掛けられれば話は別だ。魔導鉱石から完全に魔力が抜けてしまえば、その時点で貴様の魂は戒めとなる力を失い、ヴァルハラへ戻ることだろう。念のために魔法返しでも施しておいてやりたいところだが、生憎、それに必要な物が揃っておらんのでな」 「つっても、その魔法返しの代金は請求するんだろ?」 「当然だ」 フィフィリアンヌは、ちらりとギルディオスを見た。ギルディオスは、少女に手を振ってみせる。 「まぁ、そんなに心配すんな。どうせ鉄格子越しだろうし、もし何かあっても、聖職者なんざ拳で充分倒せる」 「ならばいいのだが」 すいっと、赤い瞳が逸れた。フィフィリアンヌは白墨を動かし、石版に新たな文字を書く。 「だが私は、別に心配などしていない。貴様を蘇らせる際に使った金が、無駄になるのが嫌なだけだ」 ギルディオスはエドワードと顔を見合わせ、ひょいと肩を竦めた。それでは、とエドワードは渡り廊下へ向かう。 白いマントを羽織った背を追って城内を歩きながら、ギルディオスはフィフィリアンヌの横顔を思い出していた。 形の良い細い眉は、いつもとは表情が違っていた。困っているような、やりづらいような雰囲気だった。 やはり、彼女は自分を心配していたのだ。最後の文句は、取って付けたようなものだったし、言い訳に違いない。 心配していたことを悟られたことが、気恥ずかしかったのだろう。ギルディオスは、更に嬉しくなった。 気に掛けてもらえるということは、好かれているということだからだ。 地下牢は、思いの外湿気が少なかった。 ギルディオスはエドワードに案内されて、竜王城の地下牢へやってきた。といっても、完全な地下ではない。 半地下で、明かり取りと換気の窓が多めに造られている。そのおかげか、あまりカビ臭さがなかった。 階段を下りて、ギルディオスは室内を見回した。空の牢がいくつか並んでいて、奧の牢の前に看守がいる。 これより下はないのか、階段は見当たらなかった。あると思ったんだがなぁ、とギルディオスは拍子抜けした。 体面の良い領主というものは、決まって何か裏で発散している。今までに、そんな貴族を何人か見てきた。 だから今回もそうだと思ったのだが、違っていた。竜王の顔は、竜族に見せているものだけのようだった。 エドワードの翼を折り畳んだ後ろ姿に付いて歩きながらギルディオスは、こいつは厄介だな、と思った。 二面性がない、すなわち、己を作っていたりはしていない。ということは、己が真っ当であると信じているのだ。 だから、己を疑うことはしないのだろう。また、他の竜族も、竜王の判断を疑うことなく信じているのだ。 そういう相手の意見を曲げさせることは、極めて面倒だ。価値観そのものを、崩してやらねばならない。 ギルディオスは、竜王都の行く末が見えた気がした。閉鎖的な世界が行き着く先は、歪みの末の滅びだけだ。 だが、この都の未来など知ったことではない。薄情すぎると思ったが、ギルディオスにとってはそれきりだ。 ここは自分の、人間の世界ではない。だから過度に関わっても、住む世界と価値観の違いを痛感するだけだ。 ギルディオスは珍しく物思いに耽っていたが、奧の牢に着いたので思考から戻った。男が一人、うずくまっている。 聖職者の服は着ていなかった。色のない地下牢に馴染む灰色の、だぶついた囚人服を着せられていた。 明かり取りの窓から差し込んでいる日光を避けて、影の中、壁に向かっていた。横顔は、ひどくやつれていた。 竜神祭の夜で見たときは整っていた髪も乱れ、無精髭が伸びていた。胸元で、何かを握り締めている。 男はギルディオスに気付き、淀んだ目を向けてきた。乾いた唇を少し開いたが、ぎゅっと結んだ。 看守の兵士はエドワードと一言二言交わした後、ギルディオスの横に立った。青竜族の看守は、牢の中を指す。 「竜神祭の後に捕らえたはいいんだが、ああして神に祈ってばかりでね。こちらを見ようともしないんだ」 「気持ちは解るぜ」 「まぁな、オレも解らんでもない。が、このままじゃどうにもならんのだ」 後はエドワードどのが話しただろう、と看守は牢を見る。ギルディオスは、ああ、と頷く。 「オレは中に入るべきかね」 「入らない方がいいんじゃないのか。あんたは奴の仲間だった人間を殺したんだから」 「だよなぁ」 入った方がいいような気もするけど、と、ギルディオスは太い鉄格子を握った。 「おい」 ギルディオスは、少し強めに声を出した。それは壁や鉄格子に反響して、いやに大きな音に聞こえた。 男は、振り返ることすらしない。両手に握っているのはロザリオなのか、時折小さな金属音がする。 ちゃり、と静まり返った地下牢に鎖の擦れる音がした。男は薄汚れたロザリオを額に当て、口の中で祈っている。 聞き覚えのあるそれは、神へ救いを求める言葉だった。ギルディオスは祈りを聞き流しつつ、言った。 「とりあえず、名乗っちゃくれねぇか。お前はオレの名を知ってるだろうが、オレはお前の名は知らないんでな」 男は祈り続けている。ギルディオスは、がしゃりと鉄格子に寄り掛かる。 「オレは別に魔導師でも呪術師でもねぇから、お前の名を知ったところでどうこうはしねぇよ。けどな」 腕を組み、こん、とヘルムを鉄柱に当てた。 「名前が解らねぇと会話がやりづらくて仕方ねぇんだよ。それぐらい、解るよな? 神学校出てんだろ?」 反応はない。仕方がないので、ギルディオスは独り言を続けることにした。 「竜王は、お前を殺す気はないそうだ。ありがたい話じゃねぇか、侵入者を生かしてくれるんだからな。まぁオレは、狂気の沙汰だと思うがね。祭りを乱した上に同族を傷付けた連中の仲間なんざ、普通は生かさねぇもんな」 看守が一歩踏み出たが、エドワードがそれを止めた。 「黙ってるってことは、処刑されてぇってことか? されてぇなら言うがいいさ、エドはその気みたいだしな」 エドワードは一瞬ぎょっとし、看守へ向いた。看守は慌てて口に手を当て、こくこくと頷いた。 黙っている、と言うことらしい。エドワードはギルディオスと看守を見比べ、やりにくそうに苦笑する。 ギルディオスはエドワードに向けて片手を挙げ、悪ぃ、と小さく謝った。そしてまた、男へ向く。 「見た感じ、お前はまだ若い。死にたくはねぇだろ。処刑されるぐらいだったら、話した方が良くねぇか?」 虚ろな目が、動いた。のろのろと目線が上がり、鉄格子の向こうに立っている大柄な甲冑を捉えた。 男は、ギルディオスを眺めていた。右手を見ないようにしながら、次第に目線を定めてヘルムに向かう。 深い疲労の滲む、掠れた吐息が洩れた。ちきり、とロザリオの鎖が僅かに擦れて鳴った。 「…いいえ」 男は目線を落とし、声を絞り出した。 「殺して下さい」 「やーっと喋ったか」 はぁ、とギルディオスは軽く息を吐いた。男は横顔だけギルディオスへ向け、慎重に目線を据えた。 固く握り締めていたロザリオを胸に押し当て、潰れた声で続けた。竜神祭の夜の姿とは、懸け離れている。 「私は、生きているべきではないのです」 男の目尻に、涙が浮かんだ。肩が、僅かに震えている。 「お願いです。どうか、私を殺して下さい。生きていても、仕方がないのです」 「なぜそう思う?」 ギルディオスが問うと、男は声を詰まらせた。乾いた頬を、涙が伝う。 「私は神職でありながら、幾人もの竜族を、彼らと共に殺めてしまった。手は下しませんでしたが、彼らを止めることすらしなかった私は同罪です。神が、私をお許しになるはずはありません」 「他には?」 「エリスティーンを、助けることが出来たはずなのに、助けませんでした。仲間であったはずなのに」 「どうして助けなかった」 「体が、竦んでいたこともあります。あの化け物、いや、セイラが現れて動転していたこともあります」 「他にも理由があるのか?」 「…はい」 苦しげに、男は項垂れた。ゆっくりと体をずらし、ギルディオスに向き直る。 「私は、思ってはいけないことを、思ってしまったのです」 明かり取りの窓は中庭に近いのか、遠くから声が聞こえていた。言葉を教わっている、セイラの復唱だ。 拙い喋り方で、教えられたばかりの西方の言葉を使っている。彼が作ったと思しき節に乗せ、歌にしている。 エィン、ヴァル、スェー、ディン、ヨォ、フィ、ギィ、リー。幼子が覚える数え歌に似た、楽しげなものだった。 嬉しさと幸せが詰め込まれたようなセイラの歌声に、ギルディオスは聞き入った。聞いている方も、嬉しくなる。 男は、消え入りそうなほどに小さい声で呟いた。セイラの歌に、掻き消されてしまいそうなほどだった。 「エリスティーンには、あのまま死んで欲しいと、思ってしまったのです」 途端に顔を歪め、男は両手で覆ってしまった。力なく座り込み、奥歯を噛み締めて声を洩らしている。 ああ神よ、お許し下さい。取り憑かれたように、男は何度も何度もその言葉を繰り返していた。 ギルディオスはその答えに、すんなりと納得した。あの女を疎ましく思うのであれば、そういう思考になるだろう。 エリスティーンという名の女魔導師の性格は、少しだけだが解っている。あれが連日のように続けば、嫌にもなる。 感情的で我が侭で自己中心的。そんな女があのシルフィーナと共にいるのであれば、鬱陶しさは更に増す。 この男以外の三人も、厄介に思っていたのかもしれない。だから、エリスティーンを助けなかったのだろう。 根拠のない想像に過ぎないがね、とギルディオスは内心で呟いた。顔を覆ってしきりに唸る、男を見下ろした。 「なるほどなぁ、殺意が助けなかった理由か。だがお前、そんなに死にたいんなら自殺でもすりゃいいじゃねぇか」 「…自殺は、出来ません。それこそ、神に対する冒涜です」 「だから処刑して欲しいと?」 「はい」 「めんどっちいなーおいー」 思わず、ギルディオスは本音を漏らした。自殺代わりに処刑してほしい、などと願われても困ってしまう。 エドワードを見てみたが、彼は渋い顔をして首を横に振った。そう簡単に処刑は出来ない、と言う意味だろう。 だよなぁ、とギルディオスは言いながら肩を竦める。首をかしげると、ゆらりと赤い頭飾りが動いた。 「あーもう、こういうのオレの仕事じゃねぇよー…」 話があまり進んでいないし、なにより本題から遠ざかっている。名前を聞く、が最初の目的だ。 ギルディオスはそれを思い出し、がん、と鉄格子を叩いた。その大きな音に男の肩が、びくりと跳ねた。 「おい! お前さー、名前、なんてんだ!」 「はぁ」 「なんでもいいから、さっさと答えてくれよ」 「…あなたは」 「んあ?」 「私を、殺す気はないのですか?」 「ねぇよ」 面倒そうに答えてから、ギルディオスは鉄格子から身を離した。 「聖職者を殺す趣味があるのは、邪教か魔族か聖職者ぐれぇなもんさ。頼まれれば別だがな」 「ですが私の仲間は、あなたの娘を、フィフィリアンヌ・ドラグーンを」 「あいつらはあいつら。お前はお前。お前は、セイラはおろかフィルにも手は出さなかったじゃねぇか」 と、ギルディオスは明かり取りを指す。男が日差しを見上げると、淀んでいた目に光が宿った。 「そういう、ものなのですか?」 「そういうもん。オレとしちゃ、お前の方が意外だけどな」 こん、とギルディオスは右手を鉄格子に当てた。血痕は消えており、銀色が鈍く光っている。 「オレはお前の目の前で、お前の仲間だった野郎を殴り殺した。なのに怒られもしねぇ。どうしてだ」 「それは」 少し、男は言葉に詰まった。 「エリスティーンと同じです。ランドが裏切ったと解った途端に、彼も、死すべきだと…思ってしまいましたから」 「神の裁きか?」 「いえ。私の、個人的感情に過ぎません」 自虐的な笑みが、男の口元に浮かんだ。そうかい、とギルディオスは少し笑う。 「聖職者ってのも、やっぱり人間だぁなぁ。パトリシアほどじゃねぇが、人間臭くていいじゃねぇか」 「…殺意ですよ?」 「殺意も意思だ。それによ、思っただけで罪になるんだったら、今頃オレも大犯罪者よ」 そういえばさ、と唐突にギルディオスは話を変えた。 「お前、親兄弟いるだろ?」 「両親と兄と弟が一人ずつ、帝国におりますが」 「そうかい。オレには、双子の兄貴がいてな」 ギルディオスは思い出しているのか、少し間を開けた。声が、少し落ちる。 「兄貴はイノセンタスっつって、わりかし優秀な魔導師でさ。でも、オレは魔力を生まれ持ってないんだ。だから何度なく、言われたよ。私の片割れのくせに出来損ないだ、死ぬべきだ、生きるべきではない、ヴァトラスの血を持つに相応しくない、一族の穢れ、一族の恥、早く一族から出て行け。でもよ、兄貴は言うだけだ。オレを殺しもしないし、殴りもしねぇ。思うだけじゃ、言ってるだけじゃ罪にならねぇって知ってるんだよ、兄貴は」 それによ、とギルディオスは少し笑う。 「オレも何度となく、兄貴を恨んだし憎んだよ。でもな、何も起きねぇんだ。実行しない限り、罪は生まれないのさ」 「ですが、私は」 「罪だと思うなら、死んじゃいけねぇ。死んだら、償いも何も出来ねぇぞ」 ギルディオスはそう言いながら、自分に言っているような気がした。何に償うのか、思い出せなかったが。 「だからまずは、生きて竜王都から出やがれ。話はそれからだ」 「…はい」 男の声には、少しばかり覇気が戻っていた。ギルディオスは、じゃあな、と背を向ける。 「あの」 「なんだよ」 「私の名は、ゼファード・サイザンと申します」 「そうか。いい名じゃねぇか」 ギルディオスが返すと、ゼファードは僅かに表情を緩めた。彼は何か言おうとしたが、そのまま歩いていった。 足音の響く階段を昇っていくと、光の差し込む出口が近付いた。ギルディオスは扉を開け放ち、地下牢から出た。 高い天井と幅広の廊下が延々と続いていて、果てがないような気がした。俯いて、足だけを進める。 何か、おかしい。違和感があるのに、その違和感が掴めない。喉元まで出掛かっているのに、言葉にならない。 誰もいない城の回廊を歩きながら、考えた。何か、忘れている。マーク・スラウのことだけではなく、他にも何か。 記憶を辿り、先程の会話と絡んだ過去を思い起こす。双子の兄との憎しみの日々、両親との闘いの日々、そして。 ぽっかりと、妙な穴が空いている。家族に関する記憶に、不可解な空白が出来ているのが解った。 妹がいる。それだけは覚えているが、妹の姿と名前が出てこない。妹の顔も思い出も、何一つ出てこなかった。 中庭に向かって歩きながら、ギルディオスは再び悶々としていた。 ギルディオスが中庭に戻ると、フィフィリアンヌは本を読んでいた。 その背後で、セイラは項垂れていた。金色の単眼は閉ざされて、眠ってしまったようだった。 異形の足の間で、緑髪の少女は分厚い本をめくっていた。その手を止め、渡り廊下のギルディオスに目をやる。 「早いな」 「通りで、途中からセイラの歌が聞こえなくなったわけだ」 庭に出たギルディオスは、船を漕ぐセイラを見上げた。温かな日差しに空気が暖まり、確かに昼寝に丁度良い。 伯爵も同様らしく、ごぼり、と気泡を吐き出している。地面に置かれたワイングラスに、泡が溜まっていた。 フィフィリアンヌは白墨の入った箱を、傍らに置いた石版の上に乗せた。ことり、と小さく音がする。 「それで、あの男と貴様は何を話したのだ」 「別に。大したことじゃねぇよ」 フィフィリアンヌの前に座り、ギルディオスは胡座を掻く。彼女は、また本へ目線を落とした。 「ならばいいのだが」 ぺらり、と古びた紙が細い指でめくられた。細かな文字で書かれた文章を、フィフィリアンヌは目でなぞる。 セイラの太い足にしなだれながら、フィフィリアンヌは視線を感じて顔を上げた。甲冑が、こちらを見ている。 「なんだ」 「あのよ、フィル。オレの家の人間、把握してるか?」 「貴様の家だろう。私に聞くな」 「いや、知ってるとこっつーか、有名どころだけでいいんだが」 「本当に、私の知る範囲だけだぞ。アルフレッド・ヴァトラス、スティア・ヴァトラス。これが貴様の両親だったな」 「おう」 「イノセンタス・ヴァトラス、ギルディオス・ヴァトラス、ジュリア・ヴァトラス。貴様と、貴様の兄妹だ」 古代魔法の魔法陣が描かれたページを見つめ、フィフィリアンヌは思い出したので付け加えた。 「イノセンタス、貴様の兄とは多少面識がある。私の調薬にいつも口出ししてくるから、顔を覚えてしまったのだ」 「あ、そうなん」 知らなかったぜ、とギルディオスは驚いたような声を出す。んー、と少し唸った。 「ジュリア。ジュリア、そうだ、ジュリィだ」 「妹がどうかしたのか」 「いやな、ジュリィのこと、今までなーんか思い出せなかったんだよ。いるってことは、さっき思い出したんだが」 ギルディオスは背を曲げて、頬杖を付いた。下から覗き込むように、フィフィリアンヌを見上げる。 「まさかたぁ思うが、こいつも呪いか?」 「十中八九、追憶を禁ずる呪いだ。随分と周到なことだな」 「周到?」 「そうだ。呪いの術者というものは、得てして慎重で周到なものでな。恐らく、貴様を呪ったのは、その妹だ。普通に考えても、肉親、兄弟の名を忘れているのはおかしいからな。生き別れているわけでもないし、私も名だけは知っているような者だ。おかしいどころか、何かあると示しているようなものだ」 ギルディオスは黙っている。フィフィリアンヌは、淡々と続ける。 「追憶を禁ずる呪いは、大抵は、証拠隠滅に使われている呪いなのだ。思い出せば思い出すほど消えるのだから、これほど都合の良いものはない。貴様にこの呪いが掛けられたのも、そういった理由があったからだろう」 幼さの残る声で、抑揚のない言葉が続く。 「呪いを掛けられたという記憶を消すためにも、使われる場合もある。考えうるに貴様が忘れた二人、マーク・スラウとジュリア・ヴァトラスのどちらかが、貴様に追憶を禁ずる呪いを施したものと思われる。だが、マーク・スラウは一介の賞金稼ぎに過ぎん。そんな男が、記憶を操る呪いを扱えるはずがない。しかしジュリア・ヴァトラスは、貴様の家の者だ。魔法の扱いにも長けているし、呪術も使えるはずだ。マーク・スラウの記憶まで消したのは、呪いが発覚した際に注意を逸らさせるためだろう。二つ並べておけば、どちらも自然と怪しく思えてくるからな」 「だったらなんで、ジュリィはオレにそんな呪いを掛けたんだ? ついでに、どうして呪いが弱まったんだ?」 「そんなこと、私の知ったことではない。呪詛が緩んだ原因は、死して年月が経ち、屍が骨と化したからだろう。肉体とは、すなわち魂の器。相互関係にある。どちらを切り離しても、どちらも成立し得ないからな。追憶を禁ずる呪いは記憶を操作するもの。自我と意識である魂と、知識と経験の倉庫である脳髄に働きかける呪詛なのだが、記憶消失に伴って、肉体へもおのずと影響が出る。その逆も然りだ。肉体、脳髄がなくなれば、呪いの効果は少しばかりだが弱まってしまうのだ。理屈の上ではな」 だが、と赤い瞳が動き、甲冑に定まる。 「そう考えると、更におかしいのだ。貴様が死ぬ必然性がない。死してしまっては、呪いを掛けた意味がない」 「だがオレは、戦場でうっかり死んじまっただけだぜ?」 「うっかりにしては、装甲の創傷がおかしかった。貴様の腹部装甲は一発で貫かれていた。片手剣による一撃で、腹部貫通及び脊椎と骨盤を粉砕骨折。だが貴様が死した戦争、というか、王国と帝国の小競り合いだな。この戦いには、両軍とも人間しか出ていなかった。しかしこれは、人間の力などで出来るものではない。魔法だと仮定しても、戦場の傭兵や兵士が使う小手先のものではない。余程、手慣れた魔導師の仕業だ」 「…つーことは、棺桶開けて、骨も調べたのか?」 「基本だ。貴様の骨はしっかり太くて色も良く、味もなかなか悪くなかったぞ」 「喰ったのかよ!」 「魂の癒着に使用する薬液に配合出来るか確かめるために、少し舐めただけだ。喰ってはいない」 眉間を歪めたフィフィリアンヌに、ギルディオスは内心で渋い顔をした。骨をいじられたと知ると、気分は良くない。 舐めたのは脊椎の一つだぞ、とフィフィリアンヌはなぜか説明をしてくれた。だが、ありがたくなかった。 ギルディオスは背中をさすり、なんだか変な気分になった。ないとは解っていても、背骨がかゆい気がした。 ごしごしと背中を撫でているギルディオスを見、フィフィリアンヌは顎へ手を添えた。ふむ、と息を漏らす。 「ギルディオス」 フィフィリアンヌの目が、にやりと楽しげに細められた。 「どうやら、貴様は殺されていたようだな」 「…誰に?」 おずおずと、ギルディオスは尋ねた。フィフィリアンヌは、顔を逸らす。 「私が知っているはずがなかろう。だがこれで、なかなか面白くなってきたな」 「面白いとか面白くないとか、そういう問題か?」 「犯人捜しなど面倒だからするつもりはない。が、多少の謎があった方が、日常は面白いではないか」 「そういうもんかねぇ」 「そういうものだ」 フィフィリアンヌは二冊目の本を取り、ぱらぱらとめくり始めた。活字を目で追い、黙ってしまった。 やる気のない探偵役だな、とギルディオスは思ったが言わないことにした。読書の邪魔をするのは野暮だ。 無表情に本を睨み付ける少女を見ていたが、顔を逸らした。腰の物入れ袋に手を当てると、ちゃりっと鳴る。 結局、二枚の金貨の使い道は未だに思い付かなかった。それどころでは、なくなってしまったからだ。 ギルディオスは、なぜ妹が自分を呪ったのか、なぜ己の存在を消すような呪いを掛けたのか、考えてみた。 だが、彼女に関する記憶はほとんどなく、あったとしても霞み掛かっていた。結局、掴めず終いだった。 ギルディオスは、なんとなく空を仰いだ。中庭から見上げると、青は四角かった。 もう一つの空白。それは、愛すべき妹の記憶。 罪は闇を呼び、謎は深みとなる。失せた過去の底に、真実はある。 呪われし鋼の重剣士は、混迷し続ける記憶の中、死した理由を求め続ける。 重剣士の悩みが、尽きることはなさそうである。 05 4/18 |