ドラゴンは笑わない




帰り道



ギルディオスは、しんみりとしていた。


一月程も滞在していた宿の一室は、すっかりフィフィリアンヌの部屋と化していた。本と薬瓶が散らばっている。
長期間いると不思議と情が湧くもので、ここから去ってしまうことが、ギルディオスには少し残念に思えた。
白いシーツのベッドには、部屋の主が眠りこけていた。昼も近いというのに、まだ起きる気配はない。
窓から差し込む日光を浴び、穏やかな寝顔をしている。眠っているときだけは、彼女の鋭さは失せていた。
その原因は、テーブルの上にあった。油の切れかけているランプの傍に、うずたかく本が積まれている。
ギルディオスは椅子に腰掛けていたが、テーブルへ手を伸ばして一冊を取った。分厚く、ずしりと重たい本だ。
表紙を開き、最初の一ページを出した。そこには、丸い月を背負って吠えるドラゴンの紋章が判で押されていた。
竜王家の紋章だ。すなわち、竜王城の所有物である、という証だ。部屋の本の八割には、この印が付いている。
つまり、フィフィリアンヌが竜王城から本を借りてきたものだ。そして彼女は、それを夜通し読み耽っていた。
負傷のために動けないときも読んでいたのだが、それでも読み終わらなかった。なにせ、全部で四十冊以上ある。
いくらフィフィリアンヌが活字中毒とはいえ、その量を一度に読むのは易しくない。二日掛けて、やっと半分ほどだ。
ギルディオスは、テーブルの左右へ分けて積み上げられた本を数えた。右が読み終えたもので、左がこれからだ。
右が二十四冊。左が二十一冊。冊数を数え終えてから、ギルディオスはちらりと少女へ視線を投げる。

「気ぃ狂いそー…」

小難しい文章を難しい文字で書かれた本の中身を想像し、ギルディオスは内心で舌を出して肩を竦めた。
自分であれば、一冊につき一週間以上は掛かる。文字が半端にしか読めないため、すぐに詰まるせいもあるが。
王国の文字とはまた違った文字が、厳めしい金文字で背表紙に書かれている。どうやら、竜族の文字らしい。
フィフィリアンヌの家にあるものは王国の本ばかりなので、背表紙だけは読めたが、こればかりはさっぱりだ。
なので、フィフィリアンヌがどんな内容の本を読み漁っていたのか、ギルディオスにはまるで見当が付かなかった。
ギルディオスは本の塔、文章の要塞を見上げた。ランプの高さを軽々通り越し、彼の頭上付近まで来ている。
その頂点に、伯爵の入ったワイングラスが置かれていた。昼の日差しを受け、グラスの縁が眩しく輝いていた。

「全くであるな。我が輩は年代物のワインには溺れたいとは思うが、活字に溺れる気にはならん」

「これでよーく目が悪くならねぇな、フィルは」

「いや、もう悪くなっているのである。この女は半竜であるにも関わらず、人間並みの視力しかないのである」

「それじゃ、ドラゴンはどうなんだよ」

ギルディオスは手を伸ばし、伯爵のワイングラスを取った。テーブルに置くと、赤紫のスライムは軽く揺れる。

「高き山より人を捉え、天上より小石を睨む。赤き瞳は闇を越え、深き海すら暗がりとならず。それが竜のまなこなり」

「要するに、ドラゴンってのは滅茶苦茶目がいいんだな」

「そういうことである」

ごとり、とワイングラスはテーブルを前進した。ギルディオスは本の隣にあったワインのボトルを取り、栓を抜く。
どぼどぼと、伯爵に赤ワインを注いだ。ボトルにコルク栓を押し込み、ギルディオスは椅子に体重を掛けた。

「んで。竜王都を出るのは、いつ頃になりそうだ?」

「そうであるな…。この女の読書の速度、準備の速度を含めて考えれば、明後日には出ることになりそうである」

「明後日ねぇ」

ギルディオスはワインボトルをテーブルに置き、両手を頭の後ろで組んだ。ぎしり、と椅子の背もたれが軋む。
目線を横へやると、壁に立て掛けているバスタードソードが目に入った。とにかく暇なので、修練をしたかった。
竜神祭の後から、戦いの事後処理をしていたので暇がなかった。セイラのこともあり、割に面倒が多かった。
だが、近頃になってようやく暇が出来てきた。フィフィリアンヌも寝ている今なら、修練をしてもいいだろう。
王都へ、あの森へ帰るのであれば尚更だ。賞金稼ぎ達を薙ぎ払うためにも、剣術の腕は磨いておくべきだ。
そう思い、ギルディオスは立ち上がった。少し歩いてバスタードソードを取ると、ふと、廊下に気配を感じた。
足音が廊下を進み、この部屋の前までやってきた。すぐに扉が開かれ、見慣れた顔が現れる。

「おや」

扉を開けかけたエドワードは、ベッドを見て目を丸めた。そして、壁際のギルディオスに気付く。

「セイラの件に都合が付いたから、報告に来たのだが、肝心のフィフィリアンヌが起きていないとは」

「フィルが起きるのは、大抵昼過ぎだからな。ちょいと早かったぜ」

がしゃり、とバスタードソードを背負い、ギルディオスはベルトを胸元で止めた。

「ところでエド、今は暇か?」

「ええ、まぁ。訓練は午前で終わる日だし、勤務も午前開けの日だから招集さえなければ」

エドワードが答えると、ギルディオスは窓の外を指し示した。

「ちょいと付き合え。相手がいる方がいいからな」

「これはこれは。ギルディオスよ、貴君には男色の気はないはずではなかったのかね?」

可笑しげに、伯爵が笑い声を上げた。ギルディオスは素早く振り向き、ワイングラスを睨む。

「下らねぇこと言うんじゃねぇよ! 冗談にしても笑えねぇ!」

「事実、違和感がないな。有り得そうだ」

と、エドワードが真に受けたような顔をしたので、ギルディオスは肩を落とす。

「あーのなぁ…。オレは至って普通なんだけどなぁー…性癖だけは」

「冗談だとも。解っているさ」

悪気なさそうに、エドワードは笑う。ギルディオスは、ヘルムを押さえて項垂れた。

「笑えねぇよ。マジで笑えねぇよエド」

「それで、私は何に付き合わされるのかな?」

まだ可笑しそうなエドワードに、ああ、とギルディオスは頷いて返した。

「剣の修練に付き合ってくれよ。エドも騎士なんだし、相手ぐらい出来るだろ?」

「その言い方では、まるで私が三流みたいじゃないか」

「あ、悪ぃ」

眉を歪めたエドワードに、ギルディオスは平謝りした。さすがに彼も、剣に対しては自尊心があるようだ。
エドワードは、腰に下げている細身の剣の柄を握った。白い手袋の下に、装飾の多い鍔が見える。

「まぁ、いいでしょう。私も一度、あなたと手合わせしてみたかったところだ」

くるりと背を向け、エドワードは歩き出した。ギルディオスはその背を追って、扉を出たが踏み止まる。
上半身を部屋に戻し、フィフィリアンヌの様子を窺った。とても安らかに、竜の少女は眠り続けている。
ギルディオスは軽く手を振ってから、部屋を出た。見えていないとはいえ、挨拶はするべきだと思ったのだ。


かん、と威勢の良い金属音が壁越しに聞こえてきた。何度か瞬くと、ぼやけた視界がはっきりとしてきた。
フィフィリアンヌは、年季の入った部屋の天井を見上げた。また、近くから剣のぶつかる音がする。
虚ろな思考の中、不意に父親のことが蘇った。剣の修練のときだけは、近寄らせてもらえなかったな、と。
寝過ぎで少々痛みのある頭に苛立ちつつ、上半身を起こした。窓の外から青空を見ると、太陽は頂点に近い。
もう昼になっている。フィフィリアンヌは寝癖の付いた前髪を、手で撫でつけながら、窓の下へ目をやった。
宿屋の裏手、というか、店と倉庫の間に出来た広めの空間がある。そこに、白と銀の姿があった。
右手に立つギルディオスは、頭飾りを振り乱しながら踏み込んだ。がきん、と、相手の剣を押し返して弾く。
マントを広げながら後退したエドワードは、軽く舌打ちした。大きく息を吐き、ギルディオスを見据えた。

「…参ったな」

「杓子定規なんだよなー、お前のやり方。いや、弱いっつーわけじゃねぇけど」

構えた姿勢のまま、ギルディオスは飄々としていた。がしゃり、と姿勢を緩めて剣先を足元に向ける。

「そりゃあ正攻法は解りやすくてやりやすいけど、真正面の斜め横から攻められる場合ってのもあるんだぜ?」

「だからさっき、私の背後に抜けた剣を捻り、斬り付けようとしたのか?」

エドワードは、ちらりと後ろを見た。白い翼の後ろで、同じく白のマントが大きく切り裂かれていた。
まぁな、とギルディオスは笑った。バスタードソードをちゃきりと捻り、掲げてみせる。

「相手の背中に剣が出たんだ、やらなきゃ損だろ? 剣だけとはいえ、背後を取ったんだからな」

「私が敵であったら、どうしていた?」

マントを持ち上げ、エドワードはギルディオスを見上げた。んー、と甲冑は首をかしげる。

「腰骨は硬いから、背骨でも砕いてたかな。あーでも、お前らは翼があるから、狙うならそっちだな」

「…荒っぽいな」

「戦いに礼節なんて求めちゃいけねぇよ。あ、背骨に刃を当ててそのまま脇腹をざっぱりーってのも…」

「いや、もうやめてくれ。さすがに」

片手を挙げ、エドワードは苦笑いした。ああそう、とギルディオスは少し残念そうにする。

「ところでエド、セイラはこれからどうなるんだ?」

「そういえば、説明していなかったな」

修練に熱中してしまって、とエドワードは少し情けなさそうに眉を下げた。剣を鞘に差し込み、するりと納めた。
無惨に破れたマントへ手を当て、唱えた。生き物の如くうねった白い布は、切れた糸先が絡み合い、溶け合う。
細い糸が布となって破れが消えると、風が失せたように、ふわりとマントは降りた。エドワードは、甲冑に向き直る。

「セイラは、アンジェリーナ様の管理下に置かれることになったのだ」

「アンジェリーナがぁ?」

思わず、ギルディオスは声をひっくり返した。その声にフィフィリアンヌは目を見開き、窓越しに二人を見つめた。
エドワードは頷き、そうなんだ、といやに不可解そうな声を出した。腕を組んで、悩むように首を捻る。

「私も、最初は信じられなかったがね。守護魔導師という方々は地位が高い分、民衆はおろか我ら騎士団や軍とも大抵は関わらないし、むしろそれが普通なのだ。しかもそれが、あのアンジェリーナ様だろう? だから余計にね」

「意外な展開、ってやつだな」

ギルディオスは、アンジェリーナの姿を思い出した。あれほど高飛車な女は、そうお目に掛かれるものではない。
フィフィリアンヌの態度の大きさに数倍の輪を掛けて、更に嫌味を足しているのだから、余計にタチが悪い。
だがそれこそが、アンジェリーナがフィフィリアンヌの母親である証拠のような気がした。いや、実際そうだった。
エドワードは更に首を捻り、空を見上げてしまう。彼の感情に合わせて、白く大きな翼は下を向く。

「アンジェリーナ様は、セイラの世話は私に一任して下さったから、都合が良いといえばいいのだが」

「良すぎて怖いんだな」

「そうなんだ」

ギルディオスへ向いたエドワードは、半笑いになっている。ギルディオスは、うんうんと頷く。

「こう都合が良いと、何かあるとか勘繰っちまうよなー、仕事柄。まぁ、たぶん大丈夫だろうと思うけどさ」

二人の会話は続いていたが、フィフィリアンヌは窓から離れた。寝間着を脱ぎ捨て、ベッドから降りる。
カバンの上に乗せてあったローブを取り、頭から被りながら、母親の考えを察した。余計な気遣いだ、と思った。
だが確かに、これで都合が良い。守護魔導師の管理下にあるとなれば、竜王軍も民衆も簡単には手を出せない。
アンジェリーナが後ろに付いたことで、セイラの安全は保証されたようなものだ。しかも、かなり強力に。
フィフィリアンヌは、初めて母親の地位と権力に感謝していたが、それを口にも表情にも出すことはなかった。
襟元に入っている後ろ髪を引っ張り出し、紐できつく結った。フィフィリアンヌは、テーブルの本の山を眺め回す。
一日半ぐらいで読み終わるな、と計算した。テーブルの左側へ手を伸ばすと、一度に五冊ほど持ち上げた。
そのうち四冊をベッドに放ってから、まだ己の体温の残る布団へ座り、膝の上に一冊を広げた。
フィフィリアンヌは、読書に没頭し始めた。




翌日。フィフィリアンヌは、一日半で二十一冊を読み終えた。
借りてきた本を全て竜王城へ返却してから、彼女は帰り支度に取りかかった。部屋を片付け、荷造りをしていた。
しかしそれは、一行に進んでいなかった。考え事をしながら作業をしているせいで、動きが非常に鈍いのだ。
大量の薬瓶を割れないように服で包んでいたが、不意にどこかを見上げた。こうして、すぐ上の空になっている。
ギルディオスはどうにもじれったくなり、苛立ってきた。椅子から身を乗り出し、床の彼女を見下ろす。

「さっさとしろよ。大した量の荷物じゃねぇんだから、すぐにまとめられるだろ?」

「色々と考えているのだ」

「何をだよ」

ギルディオスに尋ねられ、フィフィリアンヌは空間の多いカバンの中を指す。

「どこに何を置けば出す際に効率が良いか、計算しつつ入れているのだ」

「出すことなんて考えなくてもいいだろ、帰るだけなんだから。冒険の旅をするんじゃあるめぇしよー…」

げんなりと、ギルディオスは項垂れた。この調子では、カバン一つに荷物を詰めるのに半日は掛かりそうだ。
ベッドの上やテーブルや机には、まだまだ薬瓶が残っている。新たに買ってきた数冊の本や、ワインもある。
午前中から荷造りを始めたはずなのに、フィフィリアンヌはカバンの三分の一ほどしか荷物を納めていなかった。
大木を登ろうとしているナメクジを見ている心境になり、ギルディオスはぐったりした。伯爵の言った通りだ。
ギルディオスは準備を手伝ってやりたかったが、邪魔をするなと文句を言われそうな予感がしたので、やめた。
伯爵は彼女の準備の遅さに慣れているのか、何も言わなかった。最早、諦めてしまっているのだろう。
ひたすら待つしかないな、とぼんやりと思いながら、ギルディオスはフィフィリアンヌを眺めた。
彼女はまた手を止めて、顎に手を添えていた。カバンの中身は、一向に増える様子はなかった。




そして、更に翌日。彼らは、最初に訪れた草原にいた。
竜王都から離れた山麓で、なだらかな傾斜が付いている。最初に来たときよりも草が伸び、青い匂いがした。
日没直後の空には、ちらほらと星が見えている。弱い風が吹き降りてくる草原に座り、セイラは瞬いた。

「ココ、高イ」

後ろを向き、物珍しげに竜王都を見下ろした。彼の居場所になっている洞窟がある森は、遥か遠くにあった。
セイラは山脈に囲まれた竜王都を、じっと眺める。あれだけ巨大に思えた竜王城も、遠くから見れば小さかった。
それが、なんだか不思議な気がしていた。セイラは金色の単眼を動かし、草原の前方にいる三人へ向けた。
離れた位置で、ギルディオスはフィフィリアンヌの荷物と伯爵を持たされていた。彼女は、ベルトを外している。
ベルトが外れた黒いローブは、ふわりと風を孕んだ。両方にスリットの入ったスカートが、めくれ上がった。
セイラは少し戸惑ったが、そのまま視線は彼女に据えた。薄暗い中では、白い肌の輪郭が明確になっている。
細い足が上がり、すぽんとブーツが脱ぎ捨てられた。両足とも脱いでから髪をほどき、その紐をブーツに入れる。
体温の残るブーツを渡されたギルディオスは、困ってしまっていた。言いづらそうにしていたが、呟く。

「あのよう、フィル。いちいち脱ぐ必要って…あるのか?」

「あるとも」

黒いローブをたくし上げて首を抜き、フィフィリアンヌはギルディオスを見上げた。袖からも、両腕を抜く。
下着姿のフィフィリアンヌは、ローブを畳むと彼に渡した。下着に手を掛け、躊躇なく捲った。

「脱がねば変化の際に破けてしまう。そうなってしまっては、また服を見繕うのが面倒ではないか」

「魔法でなんとか出来るだろ、そんなこと」

「それが面倒なのだ」

下着を脱いだフィフィリアンヌは、白い肌を露わにした。ざあ、と強い風が吹きつけ、長い髪が胸元を隠す。
ギルディオスは、改めて彼女の体を眺めてみた。発育の芳しくない胸の下には、肋骨が浮いている。
華奢といえば華奢なのだが、痩せぎすと言った方が正しいかもしれない。皮の下には、すぐ骨がある感じだ。
細い足から下履きが抜かれ、彼女は最後の着衣を脱いだ。それを渡されたギルディオスは、カバンに押し込む。
いくら美人でも、こんなに細くては色気も何もない。彼女に欲情するカインはやはり不思議だ、と思った。
暗がりのせいで色のくすんだ緑髪が、薄い肌の上に落ちている。厚みのない腹は、内蔵が透けてしまいそうだ。
フィフィリアンヌは胸の前で腕を組んでいたが、ちらりとセイラへ目をやる。セイラは、彼女を見ていた。

「フィリィ、寒ク、ナイ?」

「慣れているからな」

フィフィリアンヌはセイラに振り向き、優しげな目を向ける。セイラは、耳元まで裂けた口を綻ばせた。
エドワードはセイラの足元にいたが、やりづらそうだった。顔を逸らして、唇を締めている。
その様子に気付いたギルディオスは、彼の反応が意外に思えた。エドワードを、茶化すように言う。

「なんでぇエド、一度見てるだろ?」

「いや、それでも…やはり」

困り果てたのか、エドワードは変な笑いになった。セイラは不思議そうに、彼とフィフィリアンヌを見比べた。
ギルディオスはエドワードを見、若ぇなぁ、と可笑しげに笑っている。その笑い声に便乗し、伯爵も高笑いしている。
エドワードは視線を彷徨わせていたが、意を決して三人へ向けた。フィフィリアンヌは、無表情に戻っている。

「何が可笑しいのだ。さっさと行くぞ」

フィフィリアンヌはくるりと背を向け、両腕を下ろした。ばさり、と小さな翼を羽ばたかせて大きくさせる。
色のない皮膚から若草色のウロコが現れ、ばきばきと肌を覆っていく。頼りない関節も太くなり、爪が伸びる。
翼と背の下から太い尾が出、ずるりと伸びて草を薙ぎ払った。フィフィリアンヌは顔を上げ、一度、夜空に吠えた。
空気を震わす、竜の咆哮。鈍い風音とも、鋭い金属音とも、荒々しい雷鳴とも取れる猛りだった。
少女の姿は、次第に大きさを増していく。翼に隠れていた肩が上がり、首が伸び、次第に影が膨れていく。
長い髪は消え失せて、つやつやとしたウロコの肌に馴染んでいた。二本のツノが太くなり、すらりと伸びる。
顎が迫り出て牙が溢れ、瞳は縦長となり、夜空を睨んでいた。どぉん、と巨大な足が地面を揺さぶる。
擬態の数十倍はある元の姿、緑竜へと戻ったフィフィリアンヌは、首をもたげた。そして再び、空高く吠えた。
巨大な緑竜は首を下ろし、ゆらりと振り向いた。赤くぎらついた獣の目が、異形の魔物を捉えた。
セイラは、驚いてはいなかった。それどころか、本来の姿となったフィフィリアンヌをじっと見つめている。
中腰になっていた腰を上げて、セイラは彼女へと近付いた。緑竜は体を回して、異形へと向き直った。
普段とは、まるで逆の構図だった。フィフィリアンヌは、セイラの体格を遥かに超えた大きさとなっている。
首を下げたフィフィリアンヌは、セイラの目の前に鼻先を突き出した。セイラは、彼女の牙に触れた。

「フィリィ」

緑竜は目を伏せて、セイラを愛おしげに見下ろした。喉を動かさずに、喋る。

「セイラ。必ず、迎えに来る。お前と住まえる家を見つけたら、すぐにでも来る。だから、待っていてくれ」

「待ッテル。セイラ、フィリィ、待ッテル」

セイラはフィフィリアンヌの強靱な顎へ、頬を寄せた。いつも彼女がしてくれるように、同じことをした。
フィフィリアンヌは首を傾けて、セイラへと鼻先を擦り寄せた。目を細め、少し喉を鳴らす。

「良い子だ、セイラ。愛しているぞ」

「セイラモ」

指の間に膜の張った四本指の手が、フィフィリアンヌの鼻筋を掴んだ。屈強な腕で、しっかり抱いている。
二人はしばらくそうしていたが、どちらからともなく離れた。互いを見つめ、名残惜しそうだった。
セイラはこれからの寂しさを思い、泣き出しそうになったが堪えた。ここで泣いては、さすがに情けない。
フィフィリアンヌはセイラの単眼が潤んだことに気付くと、少しだけ口元を緩めた。白い牙が、口元から覗く。

「偉いぞ」

フィフィリアンヌは首を下ろし、地面に腹這いとなった。厚い瞼を上げて、赤い瞳を銀色の甲冑へ向ける。
ギルディオスは、フィフィリアンヌの首に手を掛け、まず荷物を置いた。ベルトの金具には、伯爵のフラスコがある。
ヒレを掴んで跳ね、軽く飛び乗った。大柄な甲冑は見た目に反した身軽な動きで、容易く竜の首にまたがった。
ギルディオスは足の間にカバンを置いてから、泣きそうになっているセイラを見下ろした。軽く、手を振ってみせる。

「んじゃあなセイラ、元気にしてろよ。エドも、色々と世話になったな」

「さらばである、諸君ら。我が輩がいなくなればさぞ寂しいことと思うが、どうか堪えてくれたまえ」

うにゅり、とガラスの内側をスライムが舐めた。フィフィリアンヌの目が、伯爵へ向く。

「貴様のようにやかましいだけの者がいなくなって、むしろせいせいすると思うぞ」

「では、また。月なき夜の旅路に、竜女神のご加護があらんことを」

エドワードはフィフィリアンヌを見上げ、笑ってみせた。フィフィリアンヌは、ちらりと彼を見た。

「紅の滾りを分けし同族に、我らが母の慈しみがあらんことを」

ばさり、とフィフィリアンヌは巨大な翼を羽ばたかせた。強い風が沸き起こり、草を揺さぶって巻き上げる。
何度か羽ばたくと、徐々に巨体が持ち上がり始めた。上がるに連れて背筋が曲がり、尾の先が地面を擦っている。
フィフィリアンヌは背筋を伸ばし、首を上げた。濃い藍色の夜空には星が散るだけで、月の光はなかった。
出発した日と同じく、新月の夜だ。高度を上げて翼を広げ、王国側へ吹く風を掴むと、ぎゅんと高度を上げた。
フィフィリアンヌはくるりと旋回して、草原を見下ろした。豆粒ほどになったセイラと、エドワードがいる。
彼らから目を外すと、方向を定めて翼を横たえた。風を孕ませて勢いに乗り、闇に包まれた外界へと滑り出した。
首の上から悲鳴のようなものが聞こえていたが、フィフィリアンヌはそれを無視して加速した。




一時間半ほどで、フィフィリアンヌは東王都の上空付近に差し掛かっていた。
首の上では、ギルディオスがぐったりと潰れていた。カバンを下にして俯せになり、変な声を洩らしている。
伯爵は夜風に冷え切ったせいで、笑いもしなかった。体温が下がると魔力も低下し、気力が落ちてしまうのだ。
夜は更け、深夜となっていた。重量感さえある暗さが目の前を支配し、星と街明かり以外は何も見えなかった。
フィフィリアンヌは感覚を澄まし、物言わぬ伯爵が示す方向を感じていた。魔力で、方角を指針している。
東西南北を示し、その上で自宅の位置を指し示しているのが解る。伯爵は、方向感覚だけは妙に鋭いのだ。
フィフィリアンヌはそれを内心でありがたく思いながら、少々ずれてしまった方向を修正し、翼を上下させた。
帰ったらまず、何をするべきか。セイラと住まうための家を探すことも大事だが、今は首に乗る彼のことだ。
ギルディオスが賞金首として手配されてしまった今、彼だけでなく、彼の近くにいる自分へも危険は及ぶだろう。
グレイスとやり合うときの比ではないが、それでも危険は危険だ。欲望に充ち満ちた人間ほど、面倒なものはない。
さて、どうするか。様々な対応策を頭に巡らせながら、フィフィリアンヌは前方を見据えた。

「なぁ、フィル」

小さく、ギルディオスが声を掛けた。フィフィリアンヌは、片目だけ後方へ向ける。

「なんだ」

「…悪ぃ」

「貴様に謝られる理由は見当たらんのだが」

「いや、な」

体を起こしたギルディオスは、頬杖を付いた。赤い頭飾りが、強い風にばさばさと揺れる。

「賞金首になっちまったこととか、色々とよ」

「貴様のせいではない。グレイスの仕業だ」

「でもよ」

「あまり気にするな。私は気にしてはいない」

フィフィリアンヌが返すと、けどさぁ、とギルディオスは申し訳なさそうにため息を漏らした。
ばさり、と翼を動かして高度を保ちながら、フィフィリアンヌは目を前に向けた。相変わらずの闇だ。

「却って都合が良いではないか。賞金稼ぎ共を屠って王国軍に持って行けば、金が手に入るのだぞ」

「そう都合良く行くか?」

ギルディオスが訝しむと、フィフィリアンヌは厚い瞼を細めた。

「賞金稼ぎの大体は、悪党のなれの果てだ。そんな奴らの首に、賞金が掛かっていないわけがなかろう」

「…なんでそんなに楽しそうなんだ、フィル?」

「解るか」

「解るよ。もう五ヶ月は一緒にいるんだぜ、オレら」

珍しく表情の出たドラゴンの横顔を、ギルディオスは覗き込んだ。少女の姿であれば、にやりとしていただろう。
フィフィリアンヌの喉が、低く唸った。闇の中で目立つ白い牙が上がり、ずらりと並んだ鋭い歯が現れる。

「これで貴様から借金を取り立てられると思うと、気分が良くてならんのだ。さあ返せ、金貨八百九十枚を」

「あ、そういうこと…」

ギルディオスは彼女の横顔から顔を背け、げっそりとした心境になった。忘れていたかった事実だ。
彼女の造った魂の器、魔導鉱石やこの甲冑の修繕費などの費用は、フィフィリアンヌが全て肩代わりしている。
以前、僅かに金貨十枚を返済しただけで大部分は丸々残っている。金貨八百九十枚など、途方もない金額だ。
これから挑んで来るであろう賞金稼ぎの懸賞金が少しでも高いことを祈りながら、ギルディオスは呟いた。

「でも、懸賞金の一割はオレの物だぜ。全額寄越せーなんて言うなよな」

「九割五分は返済に充てろ。その方が効率が良いではないか」

「一割五分!」

「九割八分だ」

淡々と値段を吊り上げるフィフィリアンヌに、ギルディオスは力を込めて声を上げた。

「一割八分!」

「仕方あるまい。私の手取りは、九割九分で妥協してやろうではないか」

「…それ、もう十割っていうか全額って言わねぇ?」

ギルディオスは、がくりと肩を落とした。フィフィリアンヌは、澄ましている。

「異存はないな。ならば九割九分頂こう」

「おいこらちょっと待てぇ! そいつぁ横暴だ!」

身を乗り出したギルディオスは、溜まらなくなって叫んだ。フィフィリアンヌは、少し首を下げた。

「さあて。私には、なぁんにも聞こえんなぁ」

「絶対聞こえてるだろ! ていうか、この至近距離で聞こえねぇわけがねぇよ!」

「静かな夜だ」

「あーもう、無視すんなぁ! フィル、お前ってほんっとがめついな!」

「現実的と言ってくれ」

ギルディオスの絶叫に言い返し、フィフィリアンヌは王都の方向へ体を向けた。風の流れが、一気に変わる。
今まで乗っていた風から外れたため、ぶわりと横風が吹き付けた。うぉわ、とギルディオスは仰け反った。
足の間のカバンをしっかり掴むと、ぐらりと揺らいだ体を伏せた。再び、緑竜の首の上に屈み込んでしまう。

「いきなり方向を変えるんじゃねぇよ」

「いちいち予告するのは面倒でな」

フィフィリアンヌは、遠くに見える王都の街並みを睨んだ。夜の闇に、ちらほらと人家の明かりが光っている。
首にまたがるギルディオスは、まだ何かぐちぐちと文句を言っていたが、フィフィリアンヌは徹底的に無視した。
ギルディオスの情けない愚痴を聞き流していた伯爵は、ごぼり、と粘着質から泡を吐き出した。

「はっはっはっはっは。貴君がこの女に勝てるはずがなかろう、ニワトリ頭め」

「いつか勝ってやる、何かでフィルに勝ってやる!」

がつん、と、ギルディオスは拳に手のひらを当てた。ふん、とフィフィリアンヌは息を漏らす。

「ニワトリ頭如きに、負ける気はせんがな」

フラスコを揺らしながら、伯爵が笑い声を上げる。ぐにゅぐにゅとスライムが蠢いた。

「はっはっはっはっはっはっは。どうせやり合うのであれば、血で血を洗うほどの棒倒しで勝負を付けたまえ」

「なんだよ棒倒しって。そんなしょーもねぇ遊びで、勝負なんか付けたくねぇよ」

呆れた様子のギルディオスに、フィフィリアンヌも同意した。うむ、と少し頷く。

「そもそも、砂山に突き立てた枯れ枝を倒すか倒さぬかという遊びで、どう血を流せと言うのだ」

「はっはっはっはっはっはっはっはっは」

二人の言葉に、伯爵は乾いた笑い声を響かせた。しょーもねぇなぁもう、とギルディオスが少し笑った。
フィフィリアンヌは彼らの声をすぐ後方で聞きながら、次第に近付いてくる王都の姿を見下ろしていた。
東の果ての空は、僅かながら闇が和らいでいる。あと数時間もすれば、眩しい朝日が現れることだろう。
そしてその頃には、あの家に帰り着く。以前と同じようでありながらも、変化の起こった生活が始まるのだ。
フィフィリアンヌは硬い肌を夜風に舐められながら、竜王都では久しく感じていなかった安堵感を覚えていた。




竜の都で戦い終え、彼らは居場所へと帰る。森の奧の、小さき家へ。
重剣士に待ち受けるは新たな戦いであり、竜の少女が望むのは異形との幸せ。
そして、気位の高いスライムは、相も変わらず喋るだけ。

それが、三人の日々なのである。





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