ドラゴンは笑わない




嵐の予感



ランスは、うんざりしていた。


王宮の一室で、ランスはパトリシアと隣り合って座っていた。目の前のテーブルには、上等な紅茶がある。
パトリシアはそれを飲んでいたが、ランスは手を付けていなかったので、冷め切って湯気すら出ていなかった。
値の張る布地で作られたソファーに身を沈め、部屋の主の地位を感じさせる高級な調度品を、ちらりと窺った。
先程からしきりに喋っている男の声を聞き流そうとしたが、出来なかった。近いので、嫌でも耳に入ってくる。
その声の主は、精悍な顔つきの身分の高い身なりの魔導師だった。大きな机に座り、二人を見下ろしていた。

「聞いているのか、ランス?」

「聞いてますよ」

嫌悪感を滲ませないよう、ランスは声を落とした。きつく縛られた茶色の長い髪が、男の肩に乗っている。

「ならばいいが。しかし君らしくもないな、ランス。竜族に温情を掛けるとは」

「その竜族と取引しているのは、どこの王家でしたっけねぇ」

「あの緑竜の女は特例だ。父親が騎士団の者であったし、害を成すどころか王家へ忠実だからだ」

組んだ手を机に乗せ、男は上体を傾ける。藍色のマントが、椅子の背もたれに擦れた。

「なぜ、逃がしたんだ? 君ほどの腕であれば、黒竜一匹など楽に片付けられたはずだ」

「あの黒竜は弱っていたし、たとえ殺したところでなんにもなりません。黒竜族から恨みを買うだけです」

ようやくティーカップを取り、ランスは口元に運んだ。冷たい紅茶を、少し飲む。

「第一、僕の本業はドラゴンを狩ることじゃない。それは、イノ叔父さんが一番よく知っているでしょう?」

「魔物討伐の一環として、ドラゴンを狩ることは王家からも承認されている。あの場では、狩るべきだったと思うが」

男の目が、僅かにきつくなる。ランスはティーカップを揺すっていたが、隣のパトリシアを横目に見る。
パトリシアは紅茶を飲み干してから、ランスに少し肩を竦めてみせた。ティーカップを置き、男を見上げる。

「イノセンタス様。そりゃまぁ、あの黒竜は民家をいくつかぶっ壊しちゃいましたわ。でもあれは、あの黒竜が逃亡の果てに墜落しちゃったからですわよん」

「逃亡だと?」

男、イノセンタスの片眉が曲がる。パトリシアはやりづらそうに、続けた。

「そうですわ。傷を見れば解ります。両翼と後ろ足に鎖で締められた痕、更に背中と腹に魔法による火傷。その上、体力も落ちていたようだから、大方、ドラゴン・スレイヤーに捕らえられてしまっていたのでしょうね。命からがら逃亡したけど、力尽きて王都の城下町に落下、てなところでしょうよん」

「あの黒竜、割と話の解る輩でしてね。民家の修繕費にー、って、ツノを置いていってくれましたし」

ランスは、くいっと扉の脇を指した。布にくるまれた立派なツノが、壁に立て掛けられている。

「そうそう。それに、あーんな街中でじゃかすか魔法を使ったり暴れたりしたら、それこそ面倒になりますわよん」

パトリシアはティーポットを傾け、紅茶を自分のカップに注いだ。柔らかな湯気と共に、良い香りが立ち上る。
イノセンタスは無表情に、その薄い湯気を睨んでいた。薄茶色の鋭い目が、ランスに向く。

「あの黒竜が、襲撃を目当てに落下してきたとは考えなかったのか?」

「そのつもりなら、徒党を組んできますよ。竜族も馬鹿じゃない、単独で攻め入るなんてしません」

「随分と達見した意見だな、ランス。だから君達は、軍へもドラゴン・スレイヤーへも援護を求めなかったのか」

「下手に援軍を呼ぶと、事態は悪化しちゃうと思いまして。市民に混乱を招くのも、どうかと思いましたし」

「なるほどな。人界に被害をもたらした竜族に、気を遣ったというわけか。全く、正しすぎるぐらい正しいよ」

「お褒めにあずかり光栄です。竜も人にも、最低限の配慮をしたまでですよ」

紅茶を飲み干し、ランスはかちゃりとソーサーにカップを置いた。そして、イノセンタスを見上げる。
似ても似つかぬとはこのことだった。姿形こそ父親であるギルディオスと良く似ているが、中身は正反対だ。
何事にも、理想を第一に考えている。それは時として崇高に見えるが、常日頃から接していると鬱陶しいだけだ。
何があろうと気楽に構えているギルディオスに比べて、どうにもやりづらい。ランスは、げんなりしていた。
イノセンタスは、父親の兄である。すなわち、ランスの叔父だ。その上、国王付きの魔導師であり実質上司だ。
ランスは、王国の配下にある魔導師協会に実動員として所属している。少し遠い関係だが、上と下には違いない。
なので、あまり強く意見することは出来ない。それにイノセンタスには、元々逆らい難い雰囲気がある。
ランスとしてはもう少し言い返してやりたかったが、これが限界だった。イノセンタスは、ランスの目を見据える。

「あれほど毛嫌いしていた竜族に、そこまで肩入れするとはな。ランス、何があった?」

「別に、何もありませんが」

ランスはイノセンタスへ、愛想混じりに笑ってみせた。だがそれは嘘で、考え方を変える一件はあるにはあった。
先日カインと会った際に、仮面舞踏会の話をされたのだ。狩られた幼子の白竜が、剥製にされていたという話を。
ドラゴン・スレイヤーの空恐ろしさと、命を弄ばれる竜族の悲しさ。そのどちらも、価値観を動かすのに充分だった。
そして、何が正しいのか解らなくなった。その話を聞くまで、ドラゴン・スレイヤーも少しは正しいと思っていたのだ。
ランスは、結論は出ないまでもある程度形の出来た答えを出した。どちらも正しくて間違っているのだ、と。
だからランスは、双方に味方することにした。綺麗事だとは解ってはいるが、片方を敵視するよりは良いはずだ。
しかし、イノセンタスは違っていた。以前のランスと同じように、竜族や魔物を絶対悪としているようだった。
イノセンタスは、薄く色の付いた手袋を填めている手を解いた。姿勢を正し、ランスとパトリシアを見下ろす。

「ランス。律義に仕事をこなすのは一向に構わないが、次の昇級試験に支障はないのか?」

「ああ、魔導師修練のことですか」

言われて思い出したので、ランスは魔導服の襟元をめくった。五つのブローチが、ちかりと輝く。
以前の試験を終えてから、まだ半年も経ってはいない。イノセンタスは、ランスを射竦めるように見る。

「なるべく早く、試験勉強に取りかかることだ。いくら君に才があるとはいえ、六級の昇級試験は苦労するからな」

「筆記試験は嫌いじゃないですよ。むしろ実技が嫌いだな」

ランスは、笑みを引きつらせた。五ヶ月ほど前に、魔導都市の魔法学校で受けた昇級試験を思い出した。
あの時は、精霊に関する問題が大量に出題された。精霊の言葉や分布図や魔法の種類など、様々だった。
無論、それはランスの得意中の得意だった。筆記を全て終えた後に、精霊との対話を行う実技があった。
試験会場に書かれた魔法陣の中心に立ち、何らかの精霊を招き寄せて言葉を交わす、というものだった。
ランスは他の受験者達から、どの精霊が来て何を言うか教えてくれ、と矢継ぎ早に問いかけられてしまった。
どんな精霊が来るか解るはずもない、といくらランスが説明しても彼らは理解せず、しつこく食い下がってきた。
結果、なぜかランスが試験の規律を乱したと減点された。筆記で点数を稼いでいたので、問題はなかったのだが。
それでも不本意な減点には変わりないわけで、今も納得していない。それを思い出し、無性に腹が立ってきた。
ランスはその苛立ちを誤魔化そうと、無理矢理口元を上向けた。イノセンタスは、訝しげにする。

「不安ならば不安と言えばいいではないか。ヴァトラス家の名に恥じぬよう、日々の努力を怠るな」

「解ってますよ」

だからいけ好かないんだよな、とランスは嫌になった。どうしても、叔父のこういう部分は気に食わなかった。
ヴァトラスの血を重んじるのは結構なのだが、何かにつけて押し付けてくる。あまり、魔導に関係のないことにでも。
イノセンタスのような価値観の人間は、ヴァトラス家には多くいる。イノセンタスは、その中ではまだ柔らかい方だ。
長老と称される曾祖父母などは、未だにメアリーを認めてはいない。それどころか、顔すら合わせていない。
血を薄めた、というのが理由だと過去に祖父母から聞いた。更に、メアリーが黒人であることも非難したらしい。
確かに粗野な部分もあるが、彼女は愛情に満ちた母親だ。それを見ようともせず、外見だけで決め付けている。
ヴァトラス一族は、血の濃さや魔力の高さに何より重きを置く。一族の繁栄を喜ぶどころか、逆に余所者と忌む。
根本から、価値観がひどく歪んでいるのだ。ランスは、閉鎖的な己の血族が、両親以外は嫌いで仕方なかった。
イノセンタスは、背後の窓を見上げた。縦長で大きな窓の向こうには、薄曇りの空が広がっている。

「そういえば、西の森に緑竜が降りてきたとの報告があったが、あの女が戻ってきたということか」

「父さんもですよ」

ランスは、反射的に付け加えた。昨日の深夜に、フィフィリアンヌがギルディオスらと共に、森へ帰ってきたのだ。
途端にイノセンタスは表情を曇らせ、不愉快そうに唇を歪めた。がたりと椅子を引き、立ち上がる。

「ああ、そうだったな。今まで以上に厄介者になって、愚弟は帰ってきたよ」

そう吐き捨てたイノセンタスは、忌々しげに窓の外を睨んだ。ランスは、イノセンタスの机の上を見てみた。
金貨一千五百枚もの賞金が掛けられた、賞金首の人相書きがある。それは、見覚えがありすぎる甲冑だった。
独特の形をした隙間が空いたヘルムに、ニワトリのトサカのような頭飾り、身の丈ほどもあるバスタードソード。
賞金の値の下には、こう書かれている。ドラゴン・スレイヤー殺しのギルディオス・ヴァトラス。生死を問わず。
その文句に、ランスは可笑しくなってしまう。父親は既に死んでいるだから、生死も何もないじゃないか、と。
イノセンタスの横顔は険しく、きつく拳を固めている。その殺気立った様子に、ランスは笑うに笑えなかった。

「出来損ないにも程がある。なぜ帝国の、しかもドラゴン・スレイヤーになど手を掛けたのだ」

父親は誰かに填められたのだ、とランスは思った。ギルディオスは、仕事以外で殺しはしない性分だ。
それに、ドラゴン・スレイヤーなど殺したところで利益はない。それどころか、帝国から目を付けられるだけだ。
大方、ろくでもない悪党に関わっちゃったんだろうな。父さんは運がないし。ランスは、そう直感した。
だがイノセンタスは、とにかくギルディオスが悪いのだと考えているようだった。しきりに、声を荒げている。
昔からそうだ、ろくなことはしない、なぜ死んだままでいなかったのだ、厄介事ばかりを作る愚か者め。
ひとしきり文句を並べてから、イノセンタスはランスへ振り返った。同情と哀れみを込めた目を、少年に向けた。

「ランス。あんな男が父親で、情けないとは思わないか?」

「別に思いませんよ」

ランスは、極めて冷静に返した。悔しさと腹立たしさが胸に込み上げていたが、それをなんとか押し込んだ。
こんな男が兄じゃ、父さんの方が情けないと思うよ。そう言いたいかったが、喉元で飲み下した。
余程怖い顔をしていたのか、パトリシアが心配げに覗き込んできていた。




王宮を後にした二人は、王都から出ていた。
農民達の姿が見える畑から外れた道を、ずっと歩いていた。その先には、竜の少女が棲まう森がある。
歩き始めてから、パトリシアはむっつりと黙っていた。明らかに怒った顔をしているが、口を閉ざしている。
ランスは、多少訝しく思いながら彼女を見上げた。王都との距離が充分に開けた頃、唐突にパトリシアは叫んだ。

「あーもうっ、ちょーむかつくー!」

ずかずかと道を歩きながら、パトリシアは甲高い声を上げた。長いブロンドの髪を振り乱し、拳を握る。

「ランス君もそうだけど、どぉしてギルさんまであんなに悪く言われなきゃならないわけー? マジ最低ー!」

「イノ叔父さんて、父さんが嫌いだから」

空中を殴り付けているパトリシアの後ろ姿に、ランスは言った。街外れの道は、二人以外歩いていない。
曇っているせいで、二人の影は薄かった。女性らしからぬ大股の歩き方で、彼女はどんどん前に進んでいく。

「なにそれー、信じらんなーい。でも実の兄弟なんでしょー、あいつとギルさんてさぁ」

「双子だよ。パティは覚えてるかどうか怪しいけど、顔とか背格好とかが父さんと本当に良く似てるんだよね」

「中身は正反対じゃないのよぉー。たかが魔力が高いってだけで、そんなにも偉いわけーあいつー?」

「偉いよ。イノ叔父さん、国王付き魔導師の三番目だから。つまり、王国で三番目に強い魔導師ってことだよ」

「三番ー?」

振り向いたパトリシアは、思い切り嫌そうな顔をした。ランスは一瞬驚いたが、立ち止まって頷く。

「そう。一番は、ロディマス・プライマン。二番目はウェルド・マグナス」

「さぁんばぁーんねぇ」

へっ、とパトリシアは妙な声を漏らし、馬鹿にした笑みになる。

「三番じゃ大したことないわよぉ。一番じゃなきゃ、偉いとは言い切れないわよん」

「いや、偉いんだけど」

一応国王に進言出来るし、とランスは言おうとしたが、パトリシアは高笑いをしながら先に歩いていった。
自分が勝ったわけでもないのに、パトリシアはやけに嬉しそうだった。ほほほほほ、と上体を逸らして笑っている。
気分の切り替えが早すぎるパトリシアに呆れてしまったが、ランスにはその早さが羨ましく思えていた。
ランスは、未だに怒りが納まらない。冷静を装うクセがあるせいで、その怒りを外に出すことが出来ず終いだった。
密かに尊敬している父親を侮蔑されたこと、平和よりも手柄を優先しろ、と暗に言われたことが燻っている。
自分の判断が間違っている、と言われたようなものだ。ランスは、イノセンタスのいる王宮を振り返った。
怒りが増しそうになったので、ランスは駆け足でパトリシアを追いかけた。




フィフィリアンヌの家に来るのは、久々だった。
針葉樹に取り囲まれた石造りの家には、鬱蒼とした重苦しい雰囲気が漂っていた。森の中は、更に薄暗い。
全速力で走ってしまったランスは、パトリシアの後ろで息を荒げていた。額に汗が滲み、喉が痛む。
途中から同じように走ったはずのパトリシアは、至って平然としていた。苦しげなランスに、首をかしげる。

「そんなに速く走ったつもりはないんだけどなぁ」

「…速いよ」

それだけ言って、ランスは唾を飲み下した。何度か深呼吸して息を整え、ようやく顔を上げた。
不意に、変な悲鳴が聞こえた。わひゃあ、とギルディオスのものらしき叫びが上がり、勢い良く扉が開かれた。
玄関から転げるように出てきたギルディオスは、背中にしがみついている男を引き剥がし、力一杯放り投げた。
高々と、灰色の服を着た男が宙を舞った。屋根付近まで投げ飛ばされたが、途中でくるりと身を捻る。
下に向いていた背を反転させ、膝を曲げて落下してきた。身軽な動きで、たん、と男は着地した。
ギルディオスはぜいぜいと肩で息をしながら、灰色の男を指した。半泣きのような上擦った声で、叫ぶ。

「だぁーっもう、てめぇなんか嫌いだ嫌いだ大っ嫌いだ! なんでいきなり抱き付いてきやがるド変態ー!」

「そりゃあ、オレがギルディオス・ヴァトラスが好きだからさ。愛を示して何が悪い?」

投げ飛ばされたにもかかわらず、灰色の男は平然と笑った。いやに嬉しそうで、にやけている。
ギルディオスは手の甲で、ぐいぐいと目元の辺りを擦った。全身の力を抜くような、ため息を吐いた。

「…もう、お前、帰れ。叩っ殺すぞこの野郎」

「程良く痛め付けられるのは好きだが、殺されるのはさすがにちょっと嫌だねぇ」

灰色の男は、鼻先からずれた丸メガネを直した。ふと、彼はランスとパトリシアに気付いた。

「おや。確かそっちの少年は、ランス・ヴァトラスだったかな。で、隣のは、パトリシア・ガロルドだったかな」

「なんで知ってるんです?」

パトリシアはきょとんとして、不思議そうに目を丸めた。ランスもそう言いたかったが、言えなかった。
ギルディオスは、泣いている。三十四歳にもなって、息子の前で、涙は出てはいないが間違いなく泣いている。
少しばかりの尊敬の念が、空の彼方に吹っ飛びそうになった。ランスはなんとか堪え、ギルディオスに言う。

「ていうか、父さん、何があったの?」

「聞いてくれよランス…」

ギルディオスの声は、普段からは想像も付かないほど情けなかった。灰色の男を指し、しゃくり上げる。

「グレイスの野郎がな、魔法でヘビ出してな、オレの体にまとわりつかせたから、腰が抜けそうになっちまったんだ」

「へぇ」

「でもってな、腰が落ちそうになった途端に抱き付いてきやがったんだ。オレ、もう、マジで貞操の危機かと思った」

「…へぇ」

「うん、でも、なんとか貞操は死守したから。でもな、怖かったんだよぉ、ヘビもこの変態野郎もー!」

うぉおおん、とギルディオスは泣き叫んだ。ランスは呆れを通り越して、脱力してしまった。

「…うへぇあ」

「そう邪険にするなよぉ、ギルディオス・ヴァトラス。オレはまだ、お前のどこにも何も入れてねぇじゃねぇか」

にこにこしながら、グレイスという名の灰色の男はギルディオスに近寄った。途端に、甲冑はずり下がる。

「寄ーるーなぁー! 気色悪いー! ていうか何をどこに入れる気だったか想像出来て嫌だー!」

待てよぅ、と親しげを通り越して愛おしげな声でグレイスが呼びかけて追いかけた。すぐさま、甲冑は駆け出す。
カエルを潰して喉を裏返したような悲鳴を上げながら、ギルディオスは逃げ回り始めた。それをグレイスが追う。
家の周りをぐるぐると走り回る二人を、ランスは呆然と見ていた。パトリシアは、あらぁん、と頬に手を添える。

「これって、痴話ゲンカ?」

「傍目に見るとそう見えるけど絶対にそう見たくない。ていうか言わないでよそんなこと」

力なく答えたランスは、ずるずると足を引きずって歩き出した。帰ってきた父親に会うはずが、妙なことになった。
会うには会ったが、望んでいたのはこういう状況ではない。ただ、お帰りなさい、と言いたかったのだ。
パトリシアと共に玄関まで辿り着き、後ろを見た。ぎゃあああ、と叫びながらギルディオスが通り過ぎていく。
これでは、お帰りと言うことは難しそうだ。ランスはぐったりとしながら、段数の少ない階段を昇った。
半開きの扉を引いて開けると、部屋の中にいた青年が振り返った。カインは、二人に軽く頭を下げる。

「どうも、こんにちは」

「カインさん。なんであなたまでいるんです?」

ランスが一応尋ねると、カインは、フィフィリアンヌさんから呼び出されまして、と言ってからやってきた。
カインは、部屋の奥を指した。大きな机にはフィフィリアンヌはおらず、暖炉の前で誰かがしゃがみ込んでいる。
その後ろ姿に、ランスは見覚えがあった。カインはランスに近付くと苦笑いし、声を潜めながら言った。

「あの、メアリーさん、慰めて頂けませんか? …僕では手に負えなくて」

「なんで、母さんまでここに」

項垂れた母の後ろ姿に、ランスは口元を曲げた。カインは、ちらりとメアリーの背に目を向ける。

「ランス君と同じ目的だと思いますけど。ギルディオスさんが帰ってきましたし」

「で、どうして母さんを慰めなきゃならないんです?」

ランスは、カインの肩越しに部屋を覗いた。暖炉の前で踞っているメアリーは、俯いていて表情が見えない。
どごん、どごん、と拳が板張りの床を強く殴っている。怒っているのか悲しんでいるのか、解らなかった。
カインは曖昧な笑みになり、外を指した。待てよぅこいつぅ、というグレイスの声とギルディオスの悲鳴がする。

「あれですよ、あれ。ギルディオスさんが帰って来るなり、グレイスさんがずっとあの調子で」

「そりゃ落ち込むわ。んで怒るわ」

当然よねぇ、とパトリシアは頷いた。ランスは、カインを見上げる。

「それで、フィフィリアンヌ・ドラグーンは?」

「フィフィリアンヌさんなら眠ってますよ。形態変化や長距離飛行で、魔力と体力が減ったからだそうで」

と、カインは天井を指した。カトリーヌもそっちです、と聞いてもいないのに説明をしてくれた。
外では、まだまだ二人が追いかけっこをしている。愛してるぞぅ、とグレイスの陽気で楽しげな声が響く。
ランスは天井を見上げてみたが、物音一つしなかった。相当うるさいはずなのに、起きてはいないようだった。
パトリシアは外と部屋の中を見比べてから、慎重に扉を閉めた。扉が閉まると、外の音は小さくなった。
暖炉の前にへたり込んでいたメアリーは、玄関に立つ三人へ振り返った。鳶色の目が、きつく吊り上がっている。

「遅いよ、ランス」

「イノ叔父さんに引き留められちゃって」

ランスが言うと、まぁいいさ、とメアリーは立ち上がった。暖炉に立て掛けておいた剣を取り、がしゃりと担ぐ。

「ああもうあったま来た! あの馬鹿共をぶちのめさなきゃ気が済まない!」

「父さんも、倒すの?」

ランスが変な顔をすると、おうさね、とメアリーは甲冑に包まれた大きな胸を張った。

「あたしを放ったらかして変な野郎に追い回されてるんだ、許せないじゃないか」

「いや、別に父さんは悪くないと思うけど」

ランスの言葉を無視し、乱暴にメアリーは歩いていった。ばん、と扉を蹴り飛ばして開け、外に駆け出した。
メアリーの足音が、駆け回る二人に追い付いた。ぎゃあ、と再びギルディオスの悲鳴が轟き、激しい金属音がした。
がらがっしゃ、と甲冑が転んだようだった。ランスは多少様子が気になり、音のした方の右の窓へ近寄った。
外を見てみると、ギルディオスが俯せに転んでいる。赤いマントの背を、どっかりとメアリーが踏み付けていた。
メアリーの背後で、グレイスが残念そうな顔をしていた。追いかけっこが終わったのが、不満らしい。
甲冑の背を見下ろしていたメアリーは、ぎっとグレイスを睨み、バスタードソードをざすりと地面に突き立てた。

「どうしてあんたなんかがその役目をするのさぁ!」

「どうしてってそりゃ、オレがギルディオス・ヴァトラスが好きだからさ。好きだから追いかけるのさ」

両手を上向け、グレイスはにんまりする。メアリーは、どかん、とギルディオスの背を踏み付ける。

「これはあたしの旦那なんだ、痴話ゲンカで追いかけるのは妻であたしの役目じゃないか! ひどいよあんた!」 

「やりたかったのか、痴話ゲンカ?」

「当ったり前じゃないか!」

拳を振り上げ、メアリーはグレイスへ詰め寄った。どごん、ともう一度ギルディオスが踏み付けられる。
ぐえ、と潰れた声を洩らしたギルディオスは、顔を上げた。首を動かし、グレイスと対峙する妻を見上げた。
妬かれ愛されているのだ、とは解ってはいたが納得が行かなかった。愛しているなら、なぜ二度も踏むのだ。
ずるい、とグレイスに向かって連呼しているメアリーの背を見つつ、ギルディオスはぼんやりと思った。
こんなことなら竜王都から帰ってくるんじゃなかったかな、と。少しばかりの後悔が、胸を過ぎった。


暖炉の前のソファーに座るこの家の主は、膝の上に幼いワイバーンを乗せていた。
ぎゅるぎゅる、と嬉しそうな声を出しながら、カトリーヌはフィフィリアンヌの手に鼻先を擦り付けている。
フィフィリアンヌは幼子を撫でながら、目線を上げた。まだ眠たそうな目で、人間の増えた室内をぐるりと見回す。

「もう少し寝かせておいてくれんか。私はまだ眠い」

「だって、フィフィリアンヌがいなきゃ話が始まらないっていうか、オレの用件が終わらないじゃんか」

彼女と向かい合う位置に座ったグレイスは、困ったように眉を下げる。その隣で、カインが身を縮めている。
グレイスとカインの後ろでは、メアリーに頭飾りを握り締められているギルディオスが、床に座らされていた。
そして、ランスとパトリシアに至っては、仕方がないので作業台に腰掛けていた。椅子が少ないせいである。
ランスは、見慣れない灰色の男を眺めていた。ギルディオスが男を呼んだ名には、聞き覚えがあった。
陰謀と暗躍を好む悪の固まりのような呪術師と、同じ名なのだ。だが、その呪術師の男だとは思えなかった。
同名なだけだろう、とランスは思ったが、灰色の男の外見は知り合いの魔導師から聞いた通りの姿をしている。
灰色の服を着て、長い黒髪を三つ編みにまとめ、度のない丸メガネを掛けた長身の男。正にその通りなのだ。
まさかなぁ、とランスは思って首をかしげた。だが、それなりに気になってきたので、父親に尋ねた。

「あのさあ父さん、この人って、まさかとは思うけどグレイス・ルーだったりするの?」

「うん。底意地の悪い変態呪術師さ」

疲れ切った声で、ギルディオスは返した。少し首を動かして妻を見たが、しっかりと頭飾りを握っている。
その上メアリーは、グレイスを遮るためなのか、ギルディオスに寄り掛かって強く抱き締めていた。
ギルディオスは締め付けられるせいで、装甲を軋ませながら、妻の顔を窺った。彼女は、まだ怒っているようだ。
なんでそこで怒るのか理解に苦しみながらも、ギルディオスはメアリーを引き剥がせずにいた。
メアリーになら抱き付かれても悪い気はしないし、むしろ嬉しかった。なので、彼は内心ではにやけていた。
これで、先程のグレイスの一件が、帳消しとまでは行かないが相殺されたような気分になっていた。
ランスはその正体を聞いて、意外どころか信じられなかった。グレイスの上から下まで、まじまじと眺めた。

「これがねぇ…。想像してたのとは、大分印象が違うなぁ」

「凄腕の呪術師っていうから、もうちょっとおどろおどろしい外見と性格をしてるかと思ってたわよん」

作業台の上で足を組み、パトリシアは頬杖を付く。グレイスは振り向き、にやりと笑う。

「確かにオレは、お二人の知っているはずのグレイス・ルーさ」

「それで、どうしてそのグレイス・ルーが、うちの父さんなんかを追いかけてたわけ?」

一番疑問に思っていたことを、ランスは訊いた。グレイスはだらしなく表情を緩め、照れくさそうにする。

「そりゃあ、その、だってさぁ。オレ、ギルディオス・ヴァトラスが好きなんだ。もう大っ好き。だからさぁー」

「え、でも、グレイスさんはフィフィリアンヌさんを気に入っていたんじゃないんですか?」

カインが不思議そうに言うと、グレイスは胸の前で両手を組む。

「もちろん、どっちも好きさ。でも今は、ギルディオス・ヴァトラスにぞっこんなのよ。愛してるのよぅ」

「うわ真性だ」

急に、パトリシアは表情を消した。ランスはギルディオスに、心底同情した。

「父さんも大変だねぇ」

「うん」

ギルディオスの声は、先程よりは緩んでいた。しがみついて離れない妻の肩に手を回し、抱き寄せた。
するとメアリーは、更に腕に力を込めた。ギルディオスの胸装甲に顔を寄せながら、グレイスを睨んでいる。
グレイスは、やれやれ、とひょいと肩を竦める。カトリーヌと戯れているフィフィリアンヌに、顔を向けた。

「それで、フィフィリアンヌ。わっざわざ魔導書簡で呼び出してくれるとは、お前らしくない丁寧さだなぁ」

「急を要するのでな。今度ばかりは、貴様の手を借りた方が確実だと思ったのだ」

カトリーヌの顎を指で掻いてやりながら、フィフィリアンヌはグレイスに返した。カインは、妙な気分になった。
先程ギルディオスや伯爵から聞いた話では、フィフィリアンヌは竜王都で、グレイスの策略で重傷を負ったらしい。
なのにフィフィリアンヌは、そんな相手の手を借りようとしている。そしてグレイスも、手を貸そうとしている。
どちらの神経も、相当な図太さを持っている。カインは二人を見比べ、信じられない、と言いたげな顔をした。

「ですけどフィフィリアンヌさん、この人、あなたを填めて傷を負わせたんでしょう? よく、信用出来ますね」

「信用はしていない。利用しているだけだ」

抑揚なく、フィフィリアンヌは言った。そうそう、とグレイスは頷く。

「見知らぬ味方よりよく知った敵、ってね。まぁ、いつものことさ」

「いつもなんですか?」

ぎょっとして、カインは身を引いた。フィフィリアンヌは、グレイスを見据える。

「そうだ。グレイスはどこまでも信用のならん男だが、使いようによっては、これほど役立つ者はおらんからな」

「それに、どうせ協力するならこっち側、って思ってるしな」

上機嫌なグレイスの言葉に、カインは引っかかるものを感じた。まるで、この場の誰かに敵がいるような口振りだ。
それを考えてみたが、まるで見当が付かなかった。恐らく、グレイスしか知らぬ場所での話なのだろう。
なんとなく疎外感を覚えながら、カインはフィフィリアンヌに目をやる。一月振りに見る彼女は、相変わらずだ。

「あの、フィフィリアンヌさん。僕も呼び出したのなら、用件があるんじゃないでしょうか?」

「あるぞ」

フィフィリアンヌは、甘えてくるカトリーヌを抱き上げた。頬に擦り寄る幼子に、目を細める。

「貴様、以前に行った山奥の湖を覚えているか?」

「ええ、行きましたね。カトリーヌの飛行訓練のときに、一度だけ。それが何か」

「先程地図で確かめたのだが、あそこは貴様の家の領地だそうだな」

「ええ、まぁ」

「そこの湖畔に城を建てる。許可をくれるか」

フィフィリアンヌは、カトリーヌを撫でる手を止める。カインは、山の方向を見上げる。

「引っ越すんですか? あんな、山奥の何にもない場所に」

「何もないからこそだ。それで、許可は出せるか」

「お父様に頼めば、出せないことはありませんが。ですけど、なんでまた、あんな寂しい湖なんかに…」

「こちらに招きたい者がいるのだが、その者と共に暮らすにはここでは狭くてならんのだ」

「…え?」

気恥ずかしげに目を逸らしたフィフィリアンヌを、カインはまじまじと見つめた。何か、普段と違う。
フィフィリアンヌは、ぎぃぎぃと喚いているカトリーヌを腕に納めた。愛おしげな眼差しを、虚空へ向ける。

「仕方なく竜王都へ残してきたのだが、どうにも寂しくてならんな。愛する者と離れるのは、辛いものだ」

「うぇっ!?」

思わず、カインは声を裏返した。フィフィリアンヌの口から、愛という言葉が出ると思わなかった。
憂いを含んだ目をしたフィフィリアンヌは、この上なく可愛らしかったが、その相手が自分でないことは明白だ。
竜王都で何があったのか、カインは想像してしまった。姿形の良い竜族の青年が、彼女に言い寄る姿が浮かぶ。
他にも様々な想像が脳裏をが巡ったが、どれも当たっていそうで怖かった。カインは、身を乗り出す。

「あの、それって、つまり…」

「フィフィリアンヌの愛しの相手は、人間とか竜族じゃないから安心しとけ、お坊ちゃん」

丸メガネを外し、自分の服でレンズを磨いていたグレイスは、にぃっと口元を上向けた。

「リザードマンの体にドラゴンの翼とリヴァイアサンの尻尾が付いた、単眼で三本ツノの馬鹿でかい人造魔物だよ」

「セイラ・サリズヴァイゴン、という名の異形のセイレーンで、我が輩達の新たなる友人なのである」

テーブルの上で、ワイングラスが動いた。ようやく会話に割り込めた伯爵は、調子よく喋る。

「外見は巨大で仰々しいのであるが、中身は心優しい幼子である。言葉は片言であるが頭は決して悪くなく、むしろ良い方である。初見は驚くかもしれぬが、ずぐに慣れてしまうであろう。セイラの歌声は優しく美しく、実に素晴らしいのである。いくら能弁な我が輩とて、あの歌声の素晴らしさを言い伝えることは難しくてならぬ」

「んでオレは、フィフィリアンヌとセイラの愛の新居を探すために呼ばれたーってわけよ」

グレイスは、愛、をやけに強調して言った。カインはどういう顔をするべきか解らずに、俯いてしまった。
フィフィリアンヌの愛する者が人や竜でなくて安心はしたのだが、やはり、妬けるものは妬けてしまう。
彼女を見てみると、照れているらしく、顔を背けてしまっている。間違いなく、彼女は魔物と愛し合っている。
割り込む隙間など、最初からなさそうだ。カインはじりじりと熱く痛む胸の内が苦しく、奥歯を噛み締める。
フィフィリアンヌの目線は、既にこの中の誰からも外れている。竜王都に残してきた、セイラに向けられているのだ。
表情は変化がないものの、穏やかで愛おしげな目付きになっていた。それを見、カインは再び胸が痛んだ。
あの目で自分を見てくれたら、どんなにいいだろう。見たこともない単眼の魔物が、羨ましく妬ましかった。
フィフィリアンヌはカインの気持ちを知ってか知らずか、切なげに息を吐いた。カトリーヌを、胸に抱いている。
ギルディオスはメアリーに抱き付かれたまま、項垂れるカインを見上げた。つい、彼に同情してしまう。
心中穏やかでないのが、目に見えて解る。最初から困難であった彼の恋路は、今まで以上に荒れそうだ。
不意に、メアリーの腕が緩んだ。ギルディオスから少し離れてから、メアリーは夫を見つめる。

「そういえばギル。あんた、何か面倒なことになったとか言ってたけど、何が面倒になったのさ?」

「父さんが賞金首になっちゃったことでしょ」

ランスが答えると、メアリーは形の良い眉を歪ませる。

「なんだいそりゃあ。あんたの本領は、どちらかってーとその賞金を稼ぐ方だろう?」

「まぁ、色々あってな。全部、グレイスの野郎のせいなんだけどな」

ギルディオスは、グレイスを横目に見た。グレイスは上半身を捻り、背後の甲冑を見下ろす。

「いいじゃないか。これで借金も返せるようになるんだし、むしろ感謝して欲しいぐらいだぜ」

「誰がてめぇなんざに礼を言うか。ていうかそもそも感謝なんかしてねぇよ」

「ひっどいなぁー、もう。オレの愛故の心遣いが解らないのかなぁ、寂しいなぁ」

ソファーの背もたれに腕を掛け、グレイスは身を乗り出した。ギルディオスは妻を背に隠し、ずり下がる。

「だーから近付くな! もう帰れ、城に帰れ! いっそのこと、魔界にでも地獄にでも行っちまえ!」

また騒ぎ始めたグレイスや両親を、ランスはぼんやりと眺めていた。やかましいはずなのに、なぜか落ち着く。
父親のいない一ヶ月間は、意識していなくても寂しかったということなのだろう。ランスは、少し気恥ずかしくなる。
項垂れて頭を抱えているカイン、そんな彼に無関心なフィフィリアンヌと伯爵、ひたすら笑っているグレイス。
とにかく逃げ腰のギルディオスと、夫を逃がすまいとするメアリー。そして、傍らに座っているパトリシア。
パトリシアは足をぶらぶらさせながら、暇そうにしている。丸っこい目を伏せ、唇を尖らせた。

「なんかー、やることないって感じぃ?」

「最初からないよ、パティ」

ランスは、パトリシアから目を外した。そもそもの目的は、帰ってきたギルディオスに会うことだけだ。
達成したとは言い難いが、それは既に終わってしまったようなものだ。つまるところ、やることはなくなった。
パトリシア同様、ランスも暇と言えば暇だった。だが、王宮や家に戻るより、ここにいたかった。
王宮に戻ればイノセンタスによって勉強をさせられてしまいそうだし、家に戻っても、今は一人になってしまう。
ランスの視界の端を、ふわりと白い影が過ぎった。半透明で今にも消えてしまいそうな、小さな精霊だった。
パトリシアの手前を抜けて、ランスの前にやってきた。手のひらほどの大きさの、草の精霊は笑っている。
うふふふふ。たのしいのね、うれしいのね、あなたはここがすきなのね。りゅうのこも、もうきらいじゃないのかしら。
未だに嫌い、というか苦手なままだ。と、ランスは念じるように精霊に言う。すると、精霊はくるりと踊った。
だけど、けれど、まえよりもずっと、こころがおだやかよ。つめたくないわ、するどくないわ、やわらかいわ。
ただ、竜族の近くにいることに慣れてきただけだ。と、ランスは精霊に言葉を送る。精霊は、ランスの頬を撫でる。
そうかもしれないわ。それだけかもしれないわ。けれど、それでいいのよ。それだけでいいのよ。いいんだわ。
囁くような精霊の声は、ランスから離れていった。するりと弱い風を作り、部屋を巡ってから窓から外へ抜けた。
ランスはその姿を目で追っていたが、部屋の中に意識を戻した。自分以外は、精霊に気付いていないようだった。
ギルディオスやグレイスの声でやかましいので、聞こえていたとしても、掻き消えてしまっていただろう。
ランスは丸めていた背を伸ばし、作業台に両手を付いた。不満げなパトリシアを、見上げる。

「なんかさぁ」

「うん?」

「色々と面倒なことになってる割に、平和だよね、この人達。カインさん以外」

「どっかの誰かさんみたいに、手柄とか地位とかに執着してないからでしょーん」

パトリシアは、にやりとした笑みになる。彼女が指しているのは、イノセンタスであることは明白だった。
それを察したランスは、両開きの大きな扉へ顔を向けた。真東に据え付けられた扉の直線上は、城下町だ。

「かもね」

ランスは、イノセンタスが哀れに思えた。家の名に縛られて、地位と力にも溺れ、手柄と栄誉に固執している。
それとは逆に、何にも縛られずにいるギルディオスは幸せなのかもしれない。そんな考えが、頭を掠めた。
状況としては不幸には違いないが、不幸の最中にいるようには見えない。むしろ、どこか楽しんでいる節がある。
今回の賞金首の一件も、あまり深刻には考えてはいなさそうだ。落ち込むより先に、まずは戦うのだろう。
ランスは、消え失せそうだった尊敬の念が蘇ってきた。父親の徹底的な楽観主義は、見習いたいとすら思った。
これから先、厄介事ばかり起こりそうだった。ギルディオスに限らず、自分にも起こるかもしれない。
だけど、その時はその時だ。ランスはほんの少しだけ笑みを作り、心中に沸き起こっていた不安を払拭した。
父親のようにはいかなくとも、その真似くらいはしてみようと思った。




平穏は去り、安息は遠ざかる。望まなくとも、面倒は起こる。
待ち受ける未来には光明は見えず、暗澹たる情景ばかりが漂っている。
だがしかし、彼らは決して悲観しない。なぜならば。

そうでなくては、やっていけないからである。







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