ドラゴンは笑わない




暗き死霊の城



ギルディオスは、呆然としていた。


正面にそびえる城は、曰く因縁の固まりにしか見えなかった。ツタが這い回り、暗澹とした森に囲まれている。
ぎゃあぎゃあとカラスが喚き散らし、ばさばさと城門の内側から飛び立った。黒い羽根が、数枚落ちてくる。
錆び付いて朽ちかけている城門は、触れただけで崩れそうだ。門の奧にある庭は、雑草が伸び放題だった。
その雑草の隙間には、所々白いものが落ちている。それが獣の骨であると気付くまで、時間は掛からなかった。
ギルディオスは、一歩身を下げた。右隣に立つフィフィリアンヌは、外出着である魔女の格好で、城を見ている。
状況に、かなり似合っていた。怪しげな古城と怪しげな格好の美しい娘は、取り合わせとしては最高だ。
逆に、左隣に立つグレイスは全く似合っていなかった。いつもの灰色の軽装で、にこにことしている。
この城に二人を導いたのは、このグレイスだった。彼女の所望する城が見つかった、と言って案内をされた。
王都から随分と外れた田舎町の、深い森の奧まで随分歩いて、ようやく辿り着いたのがこの朽ちかけた城だった。
なんでも、以前は貴族が暮らしていた城だそうだが、ここ数十年は持ち手が付かずに放置されていたらしい。
手に入れた者は次々と病に倒れたり事故に遭ったり野党に襲われたり、とにかく不幸が訪れる、との評判がある。
それは、ギルディオスも少しは聞いたことのある話だった。良くある話だから、細部までは覚えていなかったが。
そんな城をフィフィリアンヌへ売ろうとするグレイスは、やはりろくでもない。ギルディオスは、改めて痛感した。
ギルディオスは、唇を硬く締めている少女の横顔を見下ろした。いくら変わり者の彼女でも、これは断るだろう。
フィフィリアンヌは細い指を顎に添え、目線を上げた。城門の奧を城を見つめていたが、頷く。

「買った」

「早ぁ!」

ギルディオスは声を上げ、仰け反った。がしゃん、と城門を掴んで揺さぶる。

「どう見たって幽霊屋敷だぞ! フィル、お前正気か!?」

「正気だとも」

フィフィリアンヌは鬱陶しそうに、ギルディオスを一瞥した。マントの下から手を挙げ、門に触れる。
錆だらけの門を撫でると、ばりばりと赤茶けた錆が剥がれ落ちた。フィフィリアンヌは、吊り上がった目を細めた。

「それに、これだけの城で金貨百枚しかせんのだ。格安ではないか」

「安いってことは、それだけ曰くがあるってことだぜ。下手したら、幽霊に呪い殺されるかもしれねぇぞ」

「呪い返してやるまでだ。それに、死者は生者には勝てぬと決まっている」

「オレは死んでるけど、生きてる奴を殺したぞ」

「貴様は別だ。貴様は生と死の狭間に立ち、未だにどちらにも付いていない半端な存在なのだから」

ギルディオスを横目に見、フィフィリアンヌは門を押した。嫌な軋みを立てながら、内側に開いていく。
フィフィリアンヌは門を開き切ってから、荒れ放題の庭を見回した。朽ちた池や、崩れた花壇などがあった。
ギルディオスの後ろから庭を覗いたグレイスは、締まりのない顔をしていた。うひょう、と歓声を上げる。

「評判以上だな。怨念情念無念呪念、あるわあるわ。取り放題ってかぁー?」

「グレイス。お前、それが目当てだったんだろ」

ギルディオスは、金のペンダントを握っているグレイスを見下ろした。早速呪文を唱え、思念を集めている。
ひゅお、と弱い風がグレイスに集まり、消えた。グレイスは細い鎖を引っ張り、ちゃりっとペンダントを掲げた。

「半分はな。もう半分は、フィフィリアンヌがくれる紹介料仲介料必要経費が目当てなのさ。金払いがいいんだよ」

「なんだ。てっきりこの城、お前の持ち物だからフィルに売るのかと思ってたぞ」

「オレはゲテモノ趣味はないんだよ。勘違いしないで欲しいなぁ」

前を行くフィフィリアンヌの背を、グレイスは追った。草むらを掻き分けて、時折、獣の骨を踏み砕いていく。
グレイスの少し後ろを、ギルディオスは続いた。距離を開けて、斬り付けられるように間合いを取っておいた。
小さな魔女の後ろ姿に近付きつつ、グレイスは後頭部で手を組んだ。顔を上げ、あまり大きくない城を見上げる。

「この城は、百何十年か前にここらに住んでた上級貴族の持ち物だったのよ。でも、その一族が滅亡してな」

「城に渦巻く死者の呪いでー、ってか?」

「違う違う。この家の娘が帝国の皇太子と運良く政略結婚したんだが、その皇太子がすぐに死んじまったのさ」

正面玄関と思しき幅広の階段に向かい、グレイスは首を振る。それに合わせて、背中で太い三つ編みが動いた。
グレイスとの間隔を狭めてしまわないように気を付けながら、ギルディオスは慎重に足を進めていく。

「謀略で?」

「病死だよ。でも帝国はこの家の娘に疑いを掛け、処刑しちまった。すると王国は逆上し、この家を先頭にして」

「戦争を吹っ掛けた、ってわけか。でもって一族は帝国によって全滅され、王国はこの一族に責任をなすりつけ」

「後は没落の一途、ってことよ。よく解るなー、ギルディオス・ヴァトラス」

玄関の崩れかけた階段を昇りながら、グレイスは感心している。ギルディオスは、階段の上を見上げた。

「大体の想像は付くんだよ、この手の話は」

階段を昇り切った先には、両開きの巨大な扉があった。蝶番が緩んでいるのか、少し隙間が開いている。
フィフィリアンヌは錆の浮いた金の取っ手を掴み、軋ませながら引いた。その中へ、彼女は頭を突っ込んだ。
ギルディオスは、その背後から覗いてみた。部屋の中にも草は生え、奧の階段に至っては段が抜けている。
扉に手を掛け、ギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろした。やはり、ここを買うことが信じられない。

「なぁフィル。お前、本気でこんな城を買うのか? もっとまともなのあるだろ」

「私はここが気に入ったのだ。買うと言ったら買うのだ」

表情を変えず、フィフィリアンヌは言い放った。ギルディオスは肩を竦め、両手を上向ける。

「へいへい。もう何も言わねぇよ、お前は言い出したら聞かねぇからなぁ」

「ところで、ゲルシュタインはどうした? いないと寂しいぞ、ちょいと静かで」

グレイスは身を屈め、二人の腰の辺りを見た。ああ、とフィフィリアンヌは彼を見上げる。

「留守を守らせている。私のいぬ間に賞金稼ぎ共が来たら厄介だから、家の周りに魔導結界を張ったのだ」

「ゲルシュタインを核にしたのか」

グレイスは、納得したように頷いた。フィフィリアンヌは重たい扉を開け放つと、躊躇なく中に入る。

「魔導結界は、核がなければ威力が半減してしまう。あんなスライムでも、置かないよりはマシだろうと思ってな」

「ま、オレも似たようなことをしてきたしなぁ」

レベッカちゃんで魔導結界、とグレイスは天井を仰いだ。フィフィリアンヌは、薄暗い室内を真っ直ぐに歩いていく。
グレイスは、フィフィリアンヌより幾分か慎重な足取りで続いていった。ギルディオスは、最後に入る。
外に比べて影が多く、全体的に空気が重苦しかった。ずしりとした湿気の固まりが、留まっているような感じだ。
ギルディオスは後ろ手に扉を押し、がしゃりと閉めた。先を行く両者の後ろ姿へ、呆れた声で言った。

「お前らなぁ、自分の家は自分で守れよ。他人なんか魔法の媒介にしないでさぁ」

玄関から直進した位置にある広い階段の前で、フィフィリアンヌは立ち止まった。横顔を、甲冑に向ける。

「貴様はやはりニワトリ頭だ。私が魔導結界の核となってしまえば、城の下見に来られないではないか」

「そうそう。オレも仕事に支障が出たら困るしー?」

砂埃で汚れた床を、グレイスは軽い足取りで歩いていった。その先を、フィフィリアンヌが足早に進んでいる。
体重の軽い彼女が歩いただけで、室内には埃が舞っていた。ただでさえ薄暗いのに、余計に視界が悪くなった。
ギルディオスは背中に手を回し、バスタードソードに触れた。いつでも抜けるように、柄を握り締める。

「けどよグレイス、お前んちはここよりでかいじゃねぇか。堀もあるし。結界で守る必要なんてあるのか?」

「あるとも。ちょいとばかり、面倒な奴から逆恨みされていてね」

「いつものことだろ」

誰が敵なのか少しばかり気になったが、ギルディオスは聞かなかった。あまり、必要以上の会話はしたくない。
グレイスは訊いて欲しかったのか、不満げだった。前を見ると、幅広の階段をフィフィリアンヌが見上げていた。
たっぷりと埃の積もった手すりを払うと、煙が舞った。フィフィリアンヌは顔を上げ、目線を動かす。
何の気なしに、ギルディオスはその先を追った。破れかけた旗が壁に掛けられており、それが揺れている。
くすんだ赤の前を、すいっと白い影が通った。途端にギルディオスは背筋が冷え、震えそうになった。
氷に触れたような冷たさが、いつのまにか全身にある。二の腕をさすってみたが、気休めにもならなかった。
辺りをよく見てみると、先程のような白い影はいくつも見えた。壁の上、窓の中、天井、床や階段などなど。
足元から立ち上ってくる強い冷気が、頭痛を起こしている。ギルディオスは、平然としている彼女に尋ねた。

「あのさぁ、ここ、寒くねぇ?」

「死霊の溜まり場だからな。だが、気にしなければどうということはないぞ」

早く来い、とフィフィリアンヌは顎で階段の先を示した。グレイスはギルディオスの傍らを過ぎ、そちらに向かう。
ギルディオスは、恐る恐る足を進めた。じゃりじゃりとした石の床を、甲冑の足が擦れて硬い音を立てる。
白い影が目の前を通り、首筋を冷やしていく。情けないとは思いつつも、つい背中を丸めて歩いてしまった。
気が付くとフィフィリアンヌとグレイスは、階段の最上に立っていた。ギルディオスは、慌てて駆け出した。
崩れ落ちそうな階段を数段飛ばして駆け上るうち、何回か亡霊の中を擦り抜けたが、気にしてはいられなかった。
亡霊と触れ合ってしまうことよりも、一人になる方が余程怖かった。


居間と思しき部屋に、三人は辿り着いた。
至るところに蜘蛛の巣が張り、壊れかけた家具が転がっている。装飾の多い高い天井には、絵が描いてある。
高さだけなら、石造りの家がすっぽり入ってしまいそうだ。曲線を帯びた壁には、びっちりと本が詰まっている。
ギルディオスは悪寒と共に、閉塞感と圧迫感を覚え、今すぐ出て行きたかったが、なんとか我慢していた。
フィフィリアンヌは、早速本棚に近付いていった。ずらりと並ぶ背表紙を、入念に眺めながら歩いていく。
部屋を見回していたグレイスは、立派な暖炉に近寄り、その前に立ち止まった。煉瓦の上から、燭台を取る。

「おーおー、没落の証拠。それなりに立派な城だってのに、随分と安物を置いている」

「よーく触れんなぁ…」

大きな体を出来るだけ縮め、ギルディオスはそっと歩いた。時折、家具が動いて軋む音がしていた。
だが二人は、それをなんとも思っていないのか、物珍しげに居間を見回している。唐突に、椅子の一つが砕けた。
ばきっ、と古びた木が爆ぜ、四本の足が急にへし折れた。ギルディオスはびくりと肩を震わせ、飛び退いた。
煙のように、壊れた椅子の周囲から埃が巻き上がる。暖炉の前の一角は、景色が灰色にぼやけてしまった。
グレイスはちらりと見ただけで、今度は本棚の前に向かっていった。本当に、気にしていないらしい。
動悸の代わりに熱くなった胸を押さえ、ギルディオスは深く息を吐いた。すると、背後で開いてあった扉が動いた。
両開きの扉が勢い良く閉じ、どばん、と空気が震えた。ギルディオスはたまらなくなって、首をすぼめた。

「…うへぇ」

「いちいち驚くな。良くあることだ」

本棚から抜いてきた本を手にしたフィフィリアンヌは、テーブルに腰掛けた。先程壊れた椅子を、蹴った。
少女の足で蹴飛ばされた椅子は、ずざりと床を滑っていった。どがん、と壁に衝突して更に壊れてしまった。
軽く指先を舐めたフィフィリアンヌは、穴の開いたページをめくった。目を動かして、活字を追っていく。

「ほう、娯楽小説か。この手の屋敷にしては珍しいな」

「百年ちょい前くらいに流行った作家のが、綺麗に揃ってるぜ。シェリス、ロージ、オルストゥン、サミュエル…」

本棚の背表紙に手を滑らせながら、グレイスは作家名を読み上げていった。

「おー珍しい、竜族の作家のもあるぜ! よくもまぁ手に入れたもんだ、凄ぇなおい」

「竜族にも小説家なんているのか?」

本棚に立て掛けられた梯子を見上げ、ギルディオスは首を捻る。本の壁は、セイラの身長ほどもありそうだ。
フィフィリアンヌは、更にページをめくる。城の中が薄暗かったおかげなのか、紙は日に焼けていなかった。

「いるとも。大体は道楽で書いている連中ばかりだが、たまに面白い物を書くので侮れんのだ」

「フィフィリアンヌは書かないのか、そういうの?」

グレイスは本を一冊引き抜き、ぱらぱらとめくった。フィフィリアンヌは、膝の上に本を乗せた。

「読むのは好きだが、書くのは億劫だ。手が痛くなる」

あっそう、と気のない返事をしたグレイスは本棚に寄り掛かった。途端に、数冊が滑って彼の傍らに落ちた。
どさばさどさっ、と本の山がグレイスの足元に出来た。その一冊がごとりと動き、凄い勢いでページがめくれ出す。
隙間の出来た本棚から、白い影がするりと抜け出てきた。不明瞭な言葉で何かを叫び、空中を飛んでいる。
恨み言を喚き立てる幽霊を、グレイスは少し見たが、またすぐに読書に没頭した。関わりたくないらしい。
ギルディオスの背筋の寒さは、強烈になった。氷水を常時浴びているような感覚が、全身に広がってきた。
風もないのにめくれる本が、ばらばらとうるさく鳴っている。扉が強打され始め、甲高い女の悲鳴が響き渡る。
暖炉では、乾いた薪に炎が現れて燃え始めた。ひび割れた薪の表面を朱色が舐め、次第に空気が生温くなる。
揺らめく炎の明るさが、埃の舞う空気を照らした。フィフィリアンヌは片手を挙げ、ぱちんと指を弾く。
すると、暖炉の反対側にある窓が、全て開いた。破れたカーテンがはためき、ひやりとした風が滑り込む。
切り揃えられた前髪が風を受け、フィフィリアンヌの額を撫でる。彼女は片手を下ろし、淡々と呪文を唱えた。

「空を忘れ、大地を離れ、時を見失い、光を受けぬ者よ。闇の狭間を、我は示さん」

悲鳴が弱まり、白い影は悶えるように身を捩った。うるさく鳴っていた扉も静まり、本をめくる風も止む。
フィフィリアンヌはちらりとそれらを見、足を組み直した。黒いローブの深いスリットから、肉の薄い太股が覗く。

「声なき声を冥土に響かせ、乱れし魂は安らがん。儚き亡者の苦しき叫びよ、我が言葉に導かれたまえ」

手を掲げ、フィフィリアンヌは開いた窓を指した。天井を巡っていた白い影は、そちらへ向く。

「いざ参られん、穏やかなる天上へ」

ごう、と居間の内側から風が沸き起こった。一気に窓へ向かい、ガラスを強く揺さぶりながら抜けていく。
風と共に、壁や床や本棚から白い影がにゅるにゅると溢れ出し、ギルディオスの体を擦り抜けながら飛び去った。
人の形をしている者は少なく、どれも人の一部ばかりだった。崩れた頭や下半身などが、ぞろぞろと出てくる。
それらは風に乗り、紙屑のように翻って窓から外へ放り出されていった。嵐のようだ、とギルディオスは思った。
だが、かなり強い風が吹いているというのに、大量の埃は少しも動いていない。魔力の風だからなのだろう。
白い影の大軍が落ち着いた頃、風は次第に力を弱まった。くるりと壁沿いに巡ってから、窓へ向かった。
最後の流れが過ぎ去ると、ばたん、と独りでに窓は閉じた。小さく金属の擦れる音がして、鍵も閉められた。
フィフィリアンヌは本を閉じてテーブルに置き、立ち上がった。前髪を直し、ローブに付いた埃を払う。

「さて、これで厄介払いが出来た。少しは静かに中を見られるだろう」

「あの幽霊共、浄化してやったのか?」

窓を指し、ギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろした。まさか、と彼女は帽子の鍔を上げる。

「金も寄越さぬ相手に、そんなことをしてやるはずがなかろう。追い出しただけだ」

「え、でも、天上への入り口とか言ってたじゃねぇか」

「口だけだ。私は別に聖職者でもないし、奴らを黄泉へ送るほどの力はない。魔法陣も描いていないしな」

「つーことはハッタリか!? 幽霊を騙したのかよ!」

「騙される方が悪いのだ」

フィフィリアンヌは、澄ましている。ギルディオスは頭を反らし、顔を押さえた。

「うっはぁ…。お前って奴ぁ、血も涙もねぇっていうか、なんていうか…」

うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、と下卑な笑い声がした。本に顔を埋めたグレイスが、肩を震わせている。
グレイスはひとしきり笑ってから、本を下ろした。丸メガネを軽く押し上げて、目元に滲んだ涙を拭う。

「フィフィリアンヌ、お前ってとことん性格悪いなー、もう。だから好きなんだが」

「効率を重視したまでだ」

次に行くぞ、とフィフィリアンヌは二人に背を向けた。居間の奧にある扉に、つかつかと歩み寄って行く。
黒いマントの背を見ていたが、ギルディオスは渋々追った。一人で行かせると、どれだけ迷うか解らない。
グレイスは手にしていた本を閉じ、本棚に戻してからやってきた。男達が揃ってから、彼女は扉に手を掛けた。
黒ずんだ輝きを放つ重厚な木の扉は、低く唸りながら開いた。その奧には、広い廊下が長く伸びている。
ギルディオスは、空気が温かいと感じた。先程まで足元から立ち上ってきた冷気が、綺麗さっぱり消えている。
どうやらフィフィリアンヌは、先程のハッタリでほとんどの幽霊を追い出してしまったらしい。かなり荒っぽい。
悪寒がなくなったことに感謝しつつも、ギルディオスは複雑な心境になっていた。あの幽霊達に、同情してしまう。
同じ死者として、あの扱いはいくらなんでも悪すぎると思ってしまった。


長い回廊を通り、何度か階段を昇り、最上階まで辿り着いた。
視界の端を掠めていた白い影も、妙な物音もしなくなってしまった城の中は、少々寂しいようにも思えた。
廊下の脇には、いくつもの扉が並んでいた。その一番奥に、主の寝室と思しき一際大きな扉があった。
錆の浮いた扉には、この城に住んでいた貴族の家紋なのか、花弁の広がった花の紋章が金属で作られていた。
ギルディオスはこれが何の花なのか、すぐに察した。己の好きな花だと、不思議と親近感が湧いてくる。

「こりゃスイセンだな」

「趣味の悪い家紋だ」

フィフィリアンヌは、不愉快げに眉間をしかめた。ギルディオスは、軽く家紋を叩く。

「そうか? オレとしちゃ、程良く品があっていいと思うがねぇ」

「可愛らしすぎるのだ」

後で取り替えるべきか、と呟きながら、フィフィリアンヌは赤茶けた取っ手に手を掛けて内側に押し開けた。
今までの扉とは違い、いやにすんなり開いた。蝶番もあまり軋むことはなく、容易く動いてくれた。
ふわりと、木々の匂いを帯びた弱い風がやってきた。見ると、ベランダの窓が開いていて、カーテンが揺れている。
寝室は埃は積もっているものの、あまり荒れていなかった。天蓋付きのベッドには、数冊の本が広げてあった。
机の上には紙が散らばり、インク瓶に羽根ペンが刺さっている。今し方まで、書き物をしていたかのようだ。
フィフィリアンヌは天井や壁を見ていたが、ベッドに近付くと、本を一冊取り上げようとした。


「うわぁちょっと待ってぇいじらないで下さい!」


慌てた男の声が、どこからか聞こえてきた。フィフィリアンヌは手を止め、ぐるりと埃まみれの寝室を見回した。
ギルディオスはグレイスへ向いたが、彼は首を横に振る。確かに、グレイスの声にしては高い声だった。
かといってギルディオスも喋った覚えはないし、伯爵を連れてきてはいないし、この場の誰も敬語は使わない。
とすれば、答えは一つだ。ギルディオスは感覚を強め、竜族の気配を感じる要領で、寝室の気配を探った。
目を凝らすような気持ちで、視界を強めた。色あせた赤いカーテンの前に、うっすらと影があった。
日を浴びているせいで、半透明の体が余計に薄くなっている。貧相な体格の、色のない透けた男がいた。
だらしなく伸びた髪を首の後ろで括っていて、くたびれた服を着ている。目の小さい、目立たない顔立ちの男だ。
半透明の男は、参ったなぁ、と困り果てた声を出した。床から浮いている足を動かさずに、ベッドに近付く。

「あの、それ、いじらないでもらえます? 資料に使う本なんですよぅ」

「資料だと?」

フィフィリアンヌは手を引き、幽霊を見上げた。幽霊は、はい、と苦笑しながら頷く。

「これから先も使うと思いますので、出来ればいじらないで頂ければありがたいかと…」

「死霊の資料ねぇ」

自分でも下らないと思ったが、ギルディオスは言ってみた。グレイスはその冗談に笑うこともなく、変な顔をした。

「でも、どうしてこいつは中にいるんだ? フィフィリアンヌのハッタリで、幽霊は全部出たんじゃなかったのか?」

「ハッタリ?」

幽霊は、きょとんとした。赤い目をした緑髪の少女と、巨大な甲冑と灰色の男を見比べる。

「ということは、先程のあれは、あなた方がなさって下さったことなのですかぁ?」

「そうだ。貴様以外の亡霊共を、城の外へ放り出したのだ」

フィフィリアンヌが答えると、幽霊は胸の前で手を組み、満面の笑みになる。

「うわぁありがとうございます! あいつらには私も苦労していたんですよぅ、本当にありがとうございます!」

「どういうことだ?」

フィフィリアンヌの問いに、はい、と幽霊は後頭部に手を当てた。

「元々、この城には私しかいなかったのですが、いつのまにか幽霊が集まって来ちゃったんです。追い出したいなぁとは思っていたのですが、怖いし一杯いるしでどうにも出来なくて、そしたらどんどん増えちゃいましてぇ」

「幽霊が幽霊を怖がるなよ。オレも人の事は言えねぇけどさ」

ギルディオスが呟くと、全くですよねぇ、と幽霊は情けなさそうに笑う。

「でも、怖かったんですもん。話は通じないし恨み辛みは籠もってるし殺気立ってるしで」

「だが、貴様もここを出ねばならん」

フィフィリアンヌは、幽霊を睨む。幽霊は目を丸め、まじまじと彼女を見つめる。

「はい?」

「なぜなら、私がこの城を買うからだ。この城は私の物となるのだから、先住者は出て行かねばならん」

「えっ、あっ、えー?」

ええでも、と何か言おうとした幽霊を、フィフィリアンヌは遮った。

「問答無用だ。さあ、出て行け」

幽霊はぐしゃりと顔を歪め、泣きそうになってしまった。フィフィリアンヌは、勝ち誇るように胸を張っている。
いきなりそんなこと言われましても、と幽霊は俯いた。ギルディオスは彼を哀れに思ったが、何も言えなかった。
フィフィリアンヌが強引なのは、今に始まったことではない。しかし、初対面にはきついことだろう。
幽霊が入居者に出て行けと言うのならまだ解るが、入居者となる彼女が幽霊に出て行けと言っている。
良くある怪談とは、まるで逆である。幽霊はよろりと体を傾げ、滑るようにして、紙の散らばった机に乗った。

「だけど…」

「何か気に入らぬことでもあるのか」

「気に入る気に入らないの問題以前だと思いますけど。いくらなんでも急すぎますよぅ、これは」

机に縋った幽霊は眉を下げ、フィフィリアンヌに顔を向けた。魔女の姿をした少女は、硬く唇を締めている。
幽霊は助けてくれないかと願いながら、甲冑と灰色の男を見てみた。灰色の男は、へらへらと笑う。

「フィフィリアンヌがそう言うんだ、諦めて出て行けよ。この女に逆らうと、いいことはないぞー?」

「えぇー、でもー」

幽霊は目を下げ、机に散らばっている紙を見下ろした。どれも書きかけで、所々修正した後がある。
この城を離れるということは、今まで書き溜めたものや、生前に収集した大量の小説から離れなければならない。
いきなり踏み込んできた三人を追い返してやりたかったが、生憎そういった力はない。幽霊は、ため息を吐く。

「…どうしても、出て行かなきゃならないんですか?」

「貴様には、出て行きたくない理由があるというのか?」

フィフィリアンヌは、幽霊の体の下を見た。半透明の腕の下には、文字の書かれた紙が何枚も重なっている。
おもむろに右手を挙げ、フィフィリアンヌは軽く指を弾いた。途端に、机の上から数枚の紙が舞い上がった。
うわぁ、と幽霊は絶叫して紙を集めようとしたが、手は擦り抜けていった。紙は束となり、彼女の手の中に納まる。
フィフィリアンヌはベッドに腰掛けて、その紙を読んでいった。丸みを帯びた文字で書かれている文章だ。

「ああ、なんと悲しいことでしょうか。なぜ私ではなくあの人が、死ななければならないの」

棒読みで、フィフィリアンヌは読み上げていく。幽霊は彼女の手から取り上げようとしたが、やはり擦り抜けた。

「高き空を見上げ、姫は神に祈った。小鳥がさえずっていたが、姫の耳に届くことはなく、姫は一心に祈った」

頭を抱えて身を捩る幽霊を、フィフィリアンヌは無視して続けた。

「この身が果てても構いません。神よ、どうぞあの人に再び命をお与え下さい。私の愛を、あの人へ」

「小説、ってことかな?」

つまらなさそうに言い、グレイスは扉に寄り掛かった。ギルディオスは、慌てふためく幽霊を眺めた。
フィフィリアンヌの朗読は終わっても、七転八倒して悶えている。まだ推敲してないんですよぅ、などと叫んでいる。
実際、ギルディオスもつまらないと思った。ありきたりの恋物語のようだし、数行で先の展開が読めそうだ。
だがフィフィリアンヌは、それを更に読んでいた。やめてぇよしてぇ触らないでぇ、と幽霊が喚くが無視されている。
簡単に読み流してから、フィフィリアンヌは紙の束を膝に置いた。目の前に浮かぶ幽霊を、上目に見る。

「続きはどうなる。割と面白いではないか」

「ふぇ?」

意外な反応に、幽霊は少し戸惑った。批評されると思っていたのに、続きを期待されてしまった。
フィフィリアンヌは幽霊の原稿を、軽く手で叩いた。日焼けした紙の隙間から、埃が出る。

「悪魔に攫われて塔に閉じこめられた姫は、これからどうなるのだ」

「えー、あー、そうですねぇ」

幽霊は腕を組み、構想を思い出す。淀みなく、粗筋を喋った。

「悪魔に攫われた姫は生け贄にされかかるんですけど、そこで恋人だった騎士がやってくるんです。姫には死んだと報告をされていたんですが、実はちゃっかり生きてたんです。で、騎士は行きがけに王様から渡された伝説の宝剣を使って、隣国を滅ぼした悪魔を斬り捨てて倒すんですが、その悪魔の正体は隣国の王子だったんです。あ、その隣国の王子ってのは姫の元々の婚約者なんですけどね、姫が自分の方を見ずに騎士に惚れちゃったもんだから、それを振り向かせてやろうと思って悪魔の力を借りたんです。そしたら」

「悪魔の力が隣国っつーか王子の母国を滅ぼして、その影響が姫の国まで出たーとかなんとか言うんだろ」

ギルディオスが何の気なしに言うと、幽霊はうひゃあと飛び退いた。

「どうして解るんですかぁ、私の頭の中でも覗いたんですかぁ!」

「陳腐なんだよ」

ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻いた。そんな話を面白いと思う彼女の趣味を、疑ってしまう。
本を読まない自分でも想像が付くのに、活字中毒であるフィフィリアンヌが、先の展開を読めないはずがない。
幽霊は、おずおずと手を伸ばして原稿を示した。情けないような、困ったような、曖昧な表情になっている。

「あのぅ、私が出て行ったあとに、それは燃やして頂けませんかぁ? 残っていると、恥ずかしいものでして」

「なぜだ。貴様が執念を注いで書いてきたものだろう」

「それはそうなんですけどねぇ、未完のままで放り出してしまうのはどうにも…」

幽霊はやりづらそうに、苦笑した。そうか、とフィフィリアンヌは十数枚の原稿を眺めた。
物珍しげに原稿を裏返したりしている少女を、幽霊は不思議な気持ちで見ていた。彼女の言動が、よく解らない。

「あなた、一体何なんですかぁ? 出て行けと言ったくせに、私の小説の続きを気にしたりして」

「ただ気になっただけだ」

「てっきり私は、罪もない平民を家から追い出す意地悪な領主の手先かと思いましたよぅ」

あらぬ方向を見上げ、幽霊は半透明の手を組んだ。指と手の甲の下に、手のひらが透けている。

「そしたら今度はなんですか、田舎町の文学少女を拾い上げて大作家にしちゃう小説家みたいなことを言うもんですから、私はどっちの役どころになるべきか迷っちゃったじゃないですかぁ。罪もない平民か、文学少女か」

「どっちだったら良かったんだ?」

暇なのか、グレイスは背中を扉に預け切っていた。足を広げて腰を落とし、だらしないことこの上ない。
幽霊は組んでいた手を解き、うっとりと目を細めた。両手を重ねると、顔の脇に添える。

「そりゃあもちろん、文学少女ですよぅ。夢がある方が好きです」

「残念だが、私は領主の手先でも小説家でもない。この城を買いに来ただけだ」

読み終えた原稿用紙をまとめたフィフィリアンヌは、紙の束を乗せた手を挙げた。再度、ぱちんと指先を弾く。
直後、紙の束は机に飛んでいった。羽根ペンや乾いたインク瓶を蹴散らしながら、原稿は机に滑り込んだ。
最初よりも、机は散らかってしまった。幽霊はフィフィリアンヌを見たが、もう諦めたのか、言い返さなかった。
幽霊は滑るように動いて机に戻り、手を翳して机を片付け始めた。インク瓶がふわりと浮かび、元の位置に戻る。
ギルディオスは、落胆しきった幽霊の横顔を見ていた。同情の余り、彼の味方をしてやりたくなった。

「なぁ、フィル。本当に、こいつを追い出しちゃうのか?」

「情でも移ったのか、ギルディオス」

フィフィリアンヌは目を上げ、ギルディオスへ向けた。甲冑は、がしゃりと太い腕を組む。

「うん、まぁな。いくらなんでも可哀想だろ、ずっとここにいたのをいきなり追い出しちまうのは」

「これ以上、同居人を増やすつもりはない。貴様と伯爵とセイラ、それで充分だ」

「幽霊だぞ? 足音もしねぇし何も食わねぇし魔力もいらないだろうし、たぶん無害だぜ」

「喋るのだぞ。伯爵と一緒になって、毎日のように喋る様を想像してみろ。やかましいではないか」

「そりゃそうかもしれねぇけど、だからってなぁ…」

ギルディオスは、幽霊を見た。幽霊は素早くギルディオスの傍に寄り、感嘆の声を上げる。

「鎧男さん、あなたはなんとお優しいんでしょうかぁ! まるで、罠に掛かった魔物を逃がす勇者のようです」

「その鎧男ってのやめろ、狼男みたいでなんか嫌だ。ギルディオス・ヴァトラスだ」

「ギルさん、あなたがこの城を買いに来ていたならば、どれだけ話は上手く進んだでしょうかぁ!」

「うん、オレもそう思う。けど、オレは買えねぇからな。金持ってないし」

持ってるのはフィル、とギルディオスはフィフィリアンヌを手で示した。幽霊は、両手で顔を覆う。

「ああ…なんたることか。いつの世も大金を握るのは、性格がひどく歪んだ守銭奴ばかりということなのですね…」

「まぁ、間違っちゃいないかな」

グレイスは腕を組み、幽霊を見上げた。幽霊は自分の世界に入っているのか、芝居じみた言動を続けている。
フィフィリアンヌは幽霊を完全に無視しており、ベッドの上の本を一冊取り、適当にページを捲っている。
幽霊と話し合う気は、毛頭無いようだった。ちったぁ関心を持てよ、とギルディオスは呆れてしまった。
開け放たれている窓から流れ込む風が、僅かばかり冷たくなってきた。空の色も赤くなり、夕暮れてきている。
予想よりも、時間が掛かりそうだった。このままでは街に帰るどころか、城に泊まることになりそうだ。
グレイスは、都合が良いな、と思った。ギルディオスの傍で一夜を過ごせると思うと、心が浮き立ってくる。
内心で、フィフィリアンヌに従わなかった幽霊に感謝しながら、グレイスは浮かんでくる笑みを押さえ込んだ。
思い掛けないところで、自分の恋を進展させる機会が訪れたことが、嬉しくてたまらなかった。








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