ドラゴンは笑わない




幼き日の追憶



パトリシアは、夜空を見上げていた。


背中に当たる木の肌が硬く、ひやりとしている。夜明けが近い時間は、春とはいえ寒かった。
深い森は、重たい暗さを含んでいた。生者の息吹は潜んで、じっとりとした陰湿な雰囲気が漂っていた。
藍色の夜空が木々の隙間から見え、遠くを鳥が飛んでいた。パトリシアは鳥を見ていたが、目線を落とした。
膝の上に頭を乗せて、ランスが荒い息をしていた。目元を押さえて唇を歪め、頭痛を堪えている。
鎮痛効果もある体力回復の魔法を掛けてやったが、それでも辛いようだった。毎度ながら、彼は無茶をする。
パトリシアは手袋を外した手で、そっとランスの髪を整えた。魔力減退による頭痛は、魔力が戻らねば治らない。
二人は昨夜から、城下町周辺の畑を荒らす魔物と獣を討伐していた。ランスの得意でない、夜間戦闘だった。
夜は視界が悪いので、どんな魔導師も感覚を鋭敏にして戦う。そして、魔力を使いすぎてしまうのだ。
感覚を上げるということは、魔力を解放し続けるということだ。解放を続ければ、当然ながら尽きてしまう。
そしてランスは、元々鋭い感覚を高めたせいで、酔ったような状態になってしまう。結果、倒れてしまうのだ。
限界を超えてしまったことも、一度や二度ではない。パトリシアは、ランスの浅黒い頬に触れた。
夜露と体力減退のせいで、すっかり冷え切ってしまっている。撫でてやりながら、パトリシアは呟いた。

「どうしてこう、無理しちゃうかなぁん」

ランスは答えない。眠ってしまったのか、荒かった息も穏やかなものとなっていた。
それに気付き、パトリシアは笑った。眠ってしまえば、それだけでも感覚や神経は休まり、回復は早まる。
目元を押さえていた手を除け、その手を握った。ランスの手は、幼い頃よりも硬くなり、大きくなってきていた。
それでも、表情は同じだ。たまに見せる笑顔や怒り顔は、幼かったときと少しも変わっていない。
だが、それを見せることは格段に少なくなり、近頃ではあまり笑っていない。パトリシアは、その原因を知っている。
ランスは、周囲の期待を裏切れない。それ故に、常に高みを目指し、能力以上の働きをしようとしてしまう。
そして、彼は父親を越えたいのだ。越えたいから、勉学や修練に必死になって、遊ぶことを忘れている。
パトリシアはランスの手を持ち上げ、指先を唇に触れさせた。ランスは起きる気配はなく、硬く目を閉じていた。

「急がなくても、良いのになぁーん」

ランスはランスであり、ギルディオスはギルディオスだ。パトリシアは、ランスの手に頬を擦り寄せた。
こうしていると、幼い日の光景が浮かんでくる。この手には、忘れることの出来ない思い出がある。
パトリシアはランスの手を両手で握り、温めてやった。ずっと杖を握っていた彼の手は、指が強張っていた。
次第に弱まる星々の光が、夜空に散っている。パトリシアはぼんやりと、星の運河を見つめていた。
草むらから聞こえる虫の声が、彼女を追憶に誘った。




五年前の、秋の近いある日。
その日、パトリシアはヴァトラス家にいた。両親が出かけている彼の元を、尋ねていた。
ヴァトラス家の居間に、二人でいた。夕暮れた空が窓から見え、その色が炎に似ていたことを良く覚えている。
あまり広さのない居間で、ランスはパトリシアと話をした。早く両親に帰ってきて欲しい、待ち遠しい、と。
王都から離れた北王都付近で起きた戦いに、ギルディオスとメアリーは駆り出され、数日前から出ていたのだ。
ランスは、先日取得したばかりの魔導師の紋章を眺めていた。二人が出征する直前に、試験に受かったのだ。
テーブルの上で、西日を浴びた金が輝いていた。翼を持った獅子の紋章は、王国認定の魔導師である証だ。
彼と向かい合って座り、パトリシアはその紋章を見ていた。滅多に見るものではないので、珍しかった。

「ランス君、これって凄いの?」

「凄いんだよ」

自慢気に笑み、ランスは紋章を引き寄せた。有翼の獅子の瞳は、真紅の魔導鉱石で作られている。
子供の手には少々大きい、長方形の紋章を持ち、ランスは得意げになる。西日が、金の板でぎらりと跳ねた。

「だって、イノ叔父さんでも十一歳にならなきゃ取れなかったんだ。それを、僕はもっと早く取ったんだ!」

「偉いの? ランス君の叔父さんて」

「偉いよ」

だって国王付きの魔導師だし、とランスは王宮の方を見上げた。パトリシアも、同じ方を見る。

「よくわかんないや」

「パティは魔導師に興味がないからなぁ」

と、ランスはつまらなさそうににする。パトリシアはマグカップを傾け、冷めた紅茶を飲んでから返す。

「だって、面倒そうなんだもの。分厚い本が一杯だし、魔法陣を描くのも難しそうだし、呪文なんて覚えられないもん」

「使いこなせば便利だし、理解出来れば面白いよ。魔法って」

「そこに行くまでが面倒なのよん」

パトリシアはマグカップを置き、頬杖を付いた。ランスは細い鎖を握り、紋章を掲げる。

「それが面白いのになぁ。あのさあ、パティは、何かなりたいものとかある?」

「そうだなぁーん。出来れば格闘家とか剣闘士とかぁ、近接戦闘を極めてみたいなぁ」

両手を組み、パトリシアは首をかしげてみせる。ランスは、彼女の可愛らしい顔立ちと発育の良い体を見回した。
外見だけ見れば、そんな言葉は似合わない。だがパトリシアは、そうなり得るであろう才能を持っていた。
ランスもそうだが、裏通りの子供なら、彼女の通り名を知らない者はいない。鉄拳乙女、それが彼女の通称だ。
十一歳の女の子らしい言動とは裏腹に、どういうわけだか格闘のコツを心得ていて、強いったらない。
父親は鍛冶屋で腕っ節は強いのだが、それとこれとは違う。天性の才能を持った、生来の格闘家なのだ。
誰に教えられたわけでもないのに、確実に敵を倒す方法を知っている。腕力と瞬発力が、彼女の最大の武器だ。
そして、彼女の噂を聞きつけた少年達が挑んだが、ことごとく倒された。主に拳で、たまに蹴りで。
ランスはパトリシアに気に入られているので、まだ殴られたことはなかったが、殴られた者は口々に言う。
あれは女じゃない。あれは男だ。じゃなきゃ魔物だ。それほどまでに、彼女の一撃は凄まじいのだ。
一度、ギルディオスがパトリシアと手合わせしたのだが、確かに強かった。大の男が、僅かだが少女に押された。
その戦いはギルディオスが勝ったのだが、ギルディオスは言っていた。あと五年したら、おっそろしいぜ、と。
ランスは夢を語るパトリシアを、眺めていた。もっと強くなってランスと共に旅に出たい、と喋っている。
パトリシアの語りが佳境に入った頃、こんこん、と玄関の扉が叩かれた。弾かれるように、ランスは立ち上がる。

「母さんだ!」

玄関の方を見、ランスはぱっと明るい表情になる。母親の魔力の気配が、扉と壁越しに感じられていた。
椅子を飛び降り、駆け出していった。いつになく嬉しそうなランスの背を、パトリシアは追った。
廊下を駆け抜けた二人は、同時に玄関に着いた。扉の前に立ったランスは、異様な気配に、思わず足を止めた。
パトリシアは、すぐに扉を開けない彼を見下ろした。何か恐ろしいものでも見たような、青い顔をしている。
ぎしり、と外から扉が内側に開かれた。パトリシアはランスが感じ取ったものを、遅れて感じ、目にした。
赤い夕陽に染まった荷車が、あった。それを引いてきたであろう二人の戦士は、どちらも項垂れていた。
重たい武装に身を固め、巨大な剣を背負った彼の母親。メアリーの装甲は、返り血で汚れていた。
がしゃり、と右側に立っていたメアリーが崩れ落ちた。疲れ果てた目を伏せ、押し殺した声で、言った。


「ギルが」


温度の消え失せた、血の匂いがしていた。後方に置かれた荷車の上には、見覚えのある影があった。
銀色の、大柄な全身鎧。頭飾りは血で固まり、土が付いている。背中の下で、真紅のマントが黒く染まっている。
腹を打ち砕かれ、強靱な甲冑が歪んでいる。腐敗止めの魔法を掛けられているのか、死臭はそれほど強くない。
だが、血の匂いは強かった。乾いた赤黒い筋が、荷車の台を伝っている。巨大な剣を抱いて、戦士は果てていた。
ランスは、目を見開いていた。涙は溢れず、声も出ず、ただ立っていることしか出来なかった。
死した父親の周囲を、ふわりと精霊達が巡る。はらはらと涙を流し、顔を覆い、ギルディオスの死を悼む。
いけないわ、いけないわ。まだはやいわ、まだいきているべきのひとだったのに。ああ、とてもとてもかなしいわ。
顔を覆うことすらせず、メアリーは泣いていた。肩を震わせて声を引きつらせ、拳を握って泣いている。
その肩を、武装した男が支えている。左目に黒い眼帯を付けたその男には、ランスもパトリシアも見覚えがあった。
短剣を腰に差している男は、メアリーの傍らにしゃがんだ。言葉を出せない彼女の代わりに、言った。

「ランス。ギルは、君のお父さんは、死んだんだ」

濃い茶色の目が印象的な、細身の男は続ける。悲しみを押し込めた、苦しげな声で。

「オレ達が助けようとする前に、いきなりやられたんだ。不意打ちだよ」

地面に滴るメアリーの涙が、光を跳ねている。固く締められた唇が、痛々しく、今にも切れそうだった。
ランスは、母親の悲しみも父親の無念も、感じていた。どれだけ二人が愛し合っているかは、一番良く知っている。
誰よりも強いと、誰よりも猛々しいと信じていた父が、死んだ。気丈で誇り高く、勇ましい母が、泣いている。
信じたくはないが、真実は目にしている。腹を、下腹部を貫かれた死体が目の前にあり、魂の気配は皆無だ。
だが、やはり信じたくはない。しかし、現実は現実だ。ランスは混乱し、言葉が出なくなった。
泣き続ける母親を支える男は、静かに言った。オレだって、信じたくはないし、受け入れたくはないさ。
すぐ近くのはずなのに、その声は遠かった。だが、ギルは死んだんだ。戦場で、やられたんだよ。
ランスは、膝から力が抜けた。とん、と膝を付いて座り込むと、ようやく現実が染み入ってきた。
死の感覚が、冷たい床から這い上がってくる。視界が歪んだかと思うと、一気に涙が溢れ、落ち始めた。
ギルディオスが、死んだ。パトリシアは呆然と立ち尽くし、震える手を握り締めた。
メアリーの泣き声が、ランスの悔しげな叫びが、響いていた。


その夜。ランスは、何も食べなかった。
食べられなかった、の方が正しかった。むせるような血の匂いと死の気配は、食欲など簡単に失せさせてしまう。
メアリーは、居間でずっと泣いていた。それを、あの眼帯の男が支えていて、時折一緒に泣いていたりした。
眼帯の男は両親の親友で、マーク・スラウという名だ。ランスはそれを思い出したが、別にどうでもいいと思った。
今は、何も考えたくなかった。二階の自室のベッドに体を埋めて、ランスはまた滲んできた涙を拭った。
喉が痛いし、目も痛い。薄暗くなった天井を見上げていたが、こんこん、と軽く扉が叩かれた。
答える前に扉が開かれ、パトリシアが顔を覗かせた。片手には、料理の載った皿とマグカップを持っている。

「起きてる?」

ランスは、無言で背を向けた。パトリシアは後ろ手に扉を閉めると、机の上に夕食を置いた。

「うちのだけど、夕ご飯持ってきたから。お腹空いたら、食べてね」

机の椅子を引き、パトリシアは座った。ランスは答えずに、ベッドが接している壁の木目を見つめていた。
食べられるはずがない。食べられたとしても、味なんて解らないし、すぐに戻してしまいそうだ。
事実、今でも充分、胃液が出てきてしまいそうだった。肉親の死体など、普通のもの以上に生々しい。
だがランスは、それを必死に堪えていた。あれだけ好いていた父親の体を、死体とはいえ、嫌悪したくなかった。
パトリシアはそっと立ち上がり、ベッド脇の窓を開けた。ふわりと冷たい風が滑り込み、淀んだ空気を一掃する。
星の運河が、夜空を大きく横切っている。パトリシアは開け放った窓に寄り掛かり、強く輝いている星を見つめた。
昔から、良く聞かされている話が思い出された。全ての人間は、天上に棲まう神の申し子で、星と共にあるのだと。
だから、死した者は星となり、生者は星より命を受ける。そして新たなる死者が空に昇ると、星は一際輝くのだ。
パトリシアの視界に、浮かんでいた。滅多に会うことはなくても、会えば必ず笑いかけてくれる彼の父親の姿が。
いつもお前の親父さんには世話になってるな、よろしく頼むぜ。ついでに、ちょいと負けてくれるとありがてぇんだが。
それを、パトリシアは笑いながら出来ないと言った。するとギルディオスは、残念そうに笑った。
そうかい。まぁ、オレは半分くらい本気だったんだがねぇ。馬鹿にならねぇんだよ、剣の修繕費ってのはよ。
実に、他愛もない会話だった。だがそれが、いやに明確に蘇ってきて、泣けてきた。
パトリシアは、じわりと滲んだ涙と、痛い胸が苦しかった。しかし、ランスはその数十倍、数百倍なのだ。
どんな言葉を掛けるべきか考えたが、浮かばなかった。冷たい夜風が、二つに分けて結った髪を揺らす。
窓を閉めてから、ベッドへ向いた。ランスは背中を丸めて布団を被り、呻き声すら洩らさなかった。
パトリシアは、無力感を覚えた。何も、してやれない。何かしてやっても、今は彼の心に届かない。
椅子に戻ったパトリシアは、深く腰掛けて膝を抱えた。そのまま、二人は黙っていた。
朝が来るまで、ずっと、喋ることはなかった。


翌日の午後。ランスは、姿を消した。
夫の死とその葬儀の準備で憔悴し切ったメアリーに、息子を探す力はなく、彼女はパトリシアに頼んできた。
鋭さが消えた目で、血の気の失せた顔で弱々しく笑った。ずっと握り締めていたのか、手のひらは血が滲んでいた。
その手を伸ばし、メアリーは申し訳なさそうにした。しゃがんで目線を合わせると、肩に手を当ててきた。

「パトリシアちゃん。悪いんだけどさ、ランス、探してきてくれないかい」

パトリシアは断れるはずもなく、頷いた。ありがとね、とメアリーは疲れた笑みを返して立ち上がった。
そのまま背を向けて、人の出入りが多くなってきた家に戻っていった。玄関先には、眼帯の男が座り込んでいた。
扉脇の壁に背を当てて、呆然と空を見上げている。彼はパトリシアに気付くと、やあ、と声を掛けてきた。

「パトリシアちゃん、だったかな」

「はい、そうです。こんにちは」

パトリシアは、眼帯の男へ頭を下げた。眼帯の男は、力なく笑った。

「ランスの気持ちも、解るよ。そっとしておいてやりたいが、近頃はこの辺も物騒だからな」

「夜になると、魔物が出てきちゃいますからね」

「オレも捜しに行ってやりたいが、生憎、ここらの土地勘がなくてね」

情けなさそうに、眼帯の男は眉を下げた。腰に下げていた短剣を外し、鞘ごとパトリシアに投げた。
それを受け取ると、ずしりとした重みがやってきた。パトリシアは、短剣と男を見比べる。

「あの」

「使うといい。ギルから聞いたんだが、君は格闘の腕が凄いらしいな。だが、それだけじゃダメだ」

「ダメなんですか?」

パトリシアの問いに、男は頷いた。苦々しげに、口元を歪めた。

「ああ。ただ強いだけじゃ、それだけじゃどうにもならないんだ。オレに、もう少しでも、力があれば」

魔力があれば。消え入りそうな声で、眼帯の男は洩らした。それを、何度となく繰り返していた。
ただ、ギルディオスの死を悼んでいるだけではないようだった。とても、悔しそうだった。
眼帯の男が悔やむのは何なのか、パトリシアには見当も付かなかった。彼はただ、呟き続けている。
呪いにも勝てなかった。魔法も止められなかった。オレは、ギルに何を出来たんだ。何一つ、出来なかったな。
パトリシアは、男の短剣を見下ろした。見事な細工を施されていて、多少の魔法も掛けられているようだ。
それをぎゅっと胸に抱き、パトリシアは駆け出した。すっきりと晴れ渡った空が、どこまでも続いている。
一心に、ランスの姿を求めて走り続けた。


西の森の入り口で、ランスは立ち止まっていた。
背の高い針葉樹の間に、細い道がずっと続いているが、踏み出して奧に進む気にはなれなかった。
当てもなく歩いてやってきたが、ここだけが、どうしようもなく怖かった。見知らぬ気配が、恐ろしかった。
噂では、魔女がいる、などと言われている森だ。だが、中にいるのは、とてもじゃないが人間だとは思えない。
人がいるのならば、精霊がいる。獣がいるのならば、その気配がする。魔物がいるのならば、魔力がある。
だが、そのどれも感じられない。ランスはぞくりと背筋が寒くなり、駆け出した。周囲は、薄暗い。
次第に空気が冷え始め、夜が近付いてきた。草むらを疾走しながら、ランスは精霊達の声を聞いていた。
おかえりなさい、にんげんのこ。おかえりなさい、おねがいだから。おかえりなさい、もとあるばしょへ。

「黙れ」

道なき道を踏み分け、ランスは言い返した。木がまばらに立っている草原は広大で、月明かりで青白い。
枯れかけた草が、足の下でばきばきと折れていく。どうにも走りにくくなったので、仕方なく歩くことにした。
精霊達は、声を止めない。目の前を滑り、背後を巡り、しきりに優しい声で囁いてきた。
かなしいわ、かなしいわ。かなしいのね、かなしいのね。そうね、そうね、とてもかなしいのだわ。

「うるさい!」

叫びが、強い風に消えた。ざあ、と草原が揺れて波立ち、まるで海のような光景になった。
ランスは息を荒げ、だん、と足元の草を踏んだ。折れた葉が土にめり込んで、ぐちゃりとつま先が泥に埋まる。
悲しさが腹立たしさになって、怒りになった。何度も何度も地面を踏み付けて、ランスは虚空に喚いた。

「なんでなんだよ、なんでどうして!」

理解したくない。受け入れたくない。
血の色が、視界に浮かぶ。深い傷と、物言わぬ甲冑。

「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだぁあああっ!」

なぁ、ランス。

「いやだぁあ!」

聞き分けてくれや。すぐに帰ってくるから。ちょいと、帝国の連中を薙ぎ払ってくるだけさ。

「嘘じゃないかあ!」

一週間も掛からねぇよ。どうせ、帝国と王国の小競り合いだ。

「嘘だったじゃないかぁ!」

嘘じゃねぇよ。だから、良い子にしててくれや、ランス。

「だったら、どうして」

ここ数日、大人しくしていたのに。ちゃんと、近所の大人の言い付けを守っていたのに。
魔導師の勉強もして、家の仕事も出来るだけして。魔法で悪戯もしなかったし、何も壊していなかった。
そうすれば、良い子にしていれば、両親は早く帰ってくると信じていたのに。父親は、帰ってくるはずだったのに。

「なんで」

だが、父親は。腹を叩き斬られ、血を流し、魂を失っていた。



「死んじゃったんだよぉ!」



まだ、魔導師の紋章を少ししか見せていないのに。これから、護身のための剣術を教えてもらうはずだったのに。
戦いを終えたあとに、稼ぎで砂糖漬けを買ってきてくれるはずだったのに。また、甘えられるはずだったのに。
帰ってきて欲しい。生きた姿で、いつものように笑いながら、何事もなかったかのように現れて欲しい。
だが、それは有り得ない。あの死体は、紛れもなくギルディオス・ヴァトラスその人だ。
甲冑を外して顔を見たし、持っていた剣も同じだし、体の至るところにある古傷も、間違いなく彼のものだった。
叫び疲れて、掠れた声が洩れた。ランスはだくだくと溢れる涙を拭わずに、頬から顎へ滴らせていた。

「…とうさん」

寂しかったが、帰りたくはなかった。帰ったら、朝が来る。朝が来たら、明日になってしまう。
明日になれば葬儀が始まり、ギルディオスの骸は土に埋まる。墓石を乗せられて、今度こそ死してしまう。
両腕を抱き、ランスは呻いた。一人になりたくない。ギルディオスがいなくなれば、母親以外の味方がいない。
今朝、自宅にやってきた血族達の言葉が過ぎる。ヴァトラス家の縁者であると名乗った男達は、口々に言った。
メアリー。君だけでは、この子は持て余す。だから、渡してくれないか。才能を引き出してやるんだ。
あんな無意味な男でも、血だけはヴァトラスだったな。そうだな、種だけは良かったみたいだな。
だが、名前は冴えていないな。そうだな、我々が引き取ったら、もう少しいい名前にしてやろうか。
ランスが言い返せずにいると、メアリーが彼らに刃を向けた。うちの子を攫う気なら、解ってるんだろうねぇ。
眼帯の男も彼らに武器を向けて、じりじりと間を詰めた。何事かを言い残し、彼らは慌てて出て行った。
ランスはその光景を思い出し、自分の中に流れる血が恨めしくなった。なぜ、父親はあんな一族の生まれなのだ。
父親以外の者は、まともだとは思えない。叔父のイノセンタスも、ランスを真っ向からは見てくれない。
ヴァトラの血が濃い者。高い魔力を有する者。それだけであり、ランスという人間の姿は目に入っていない。
家に帰れば、また血族がいるかもしれない。今度こそ攫われて、別の家で別の人間にさせられるかもしれない。
怖くて悲しくて、ランスは背を丸めた。ギルディオスの広い背や太い腕に縋って、助けを求めたくなった。

「父さん」

ざっ、と足音がした。その音がするまで、ランスは彼女の気配に気付いていなかった。
すぐ傍に、小柄な影が立った。慎重に振り向くと、短剣を抱えたパトリシアが、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「良かった」

「…パティ」

ランスは、パトリシアを見上げた。なぜ、彼女がここにいるのか理解出来なかった。
パトリシアは、エプロンドレスのポケットに短剣を突っ込んだ。スカートの裾を持ち上げて、泥から放す。

「心配したんだからね。夜が遅くなっちゃう前に、見つけられて良かったぁ」

片手でエプロンとスカートを持ち、パトリシアは手を差し出してきた。

「帰ろ、ランス君」

少女の手が、月明かりで青白く見えた。ランスは、思わず後退る。

「やだ」

「なんで」

パトリシアが間を詰めると、ランスは更に身を下げた。数日前に雨が降ったせいで、地面がぬかるんでいる。
がぼっ、と水溜まりに片足を突っ込んだが、気にしてはいられなかった。今は、帰りたくない。
訝しげにしながら、パトリシアは近寄ってくる。ランスは急いで背を向けて、草の海に駆け出した。
がさがさがさっ、と周囲がうるさかった。必死に逃げるランスの背後から、パトリシアが声を掛けてくる。
待ってよぉ、なんで逃げるのぉ、とパトリシアは高い声を上げている。ランスは、必死に走り続けた。
帰ったら、葬儀が始まる。帰ったら、ヴァトラス家の血族が待っている。帰ってしまえば、もう二度と、父親には。
不意に、枯れた草の根がつま先に引っかかった。ランスの足はもつれ、どちゃりと泥と草の中に転げた。
泥まみれで荒い息を繰り返していると、パトリシアが追い付いた。持ち上げていたスカートを下ろし、息を整える。

「なんで、逃げるのよぉ」

ランスは、パトリシアを足元から見上げた。短剣がぎらりとしていて、それが恐ろしく感じてしまった。
泥に汚れた体を起こし、ずり下がった。パトリシアは屈むと、ランスの腕を取り上げる。

「ちょっと」

「離してよ」

「離したら、ランス君は逃げちゃうもん。だから、離さない」

ぐっと、パトリシアはランスの腕を握り締めた。少年の細い腕は、泥と水に濡れて冷たくなっている。
それでも、ランスは逃げようとする。腰を下げて立ち上がったが、ぐいっとパトリシアに引き戻されてしまう。
パトリシアは、顔を背けているランスを見つめた。悲しいだけではなく、怯えている。何かを、恐れている。

「怖くないから。私が一緒にいてあげるから」

ランスの後頭部で一括りにされた髪は、乱れていた。それが、ゆっくりと横に揺れる。

「パティじゃダメ。父さんじゃなきゃ、ダメなんだ」

「私、そんなに頼りない?」

パトリシアがむくれると、ランスは苦しげに言う。

「違うよ。父さんじゃなきゃ、ヴァトラスは、ヴァトラスじゃなきゃ話を聞かないんだ」

「朝の、あの人達のこと?」

あの光景は、パトリシアも見ていた。見知らぬ男達が彼の家に上がり込んで、なにやら意見していたのだ。
ランスは唇を噛み締め、頷いた。パトリシアに取られている方の手を、強く握り締めた。

「ダメなんだ」

小さく、ランスは呟いた。風に、掻き消されてしまいそうなほどだった。

「帰ったら、父さんが墓に入っちゃう。帰ったら、今度こそ僕は、連れて行かれるかもしれない」

いやだよ、とランスは泣き声混じりになる。

「帰りたくない」


どごっ、と鈍い打撃音が草原に響いた。


足を踏み出して右腕を突き出した姿勢で、パトリシアは息を吐いた。ゆっくりと、肩を上下させる。
ランスの影は、草の中に没していた。強かに打たれた右頬を押さえて、ぽかんとしている。
浅い呼吸を繰り返していたパトリシアは、右手の拳を下ろした。ありありと、ランスを殴った感触が残っている。
殴ってしまった自分が、信じられなかった。殴ろうとは思っていなかったのに、殴ってしまった。
いつもそうだ。戦おうと思わなくても、体が勝手に動いてしまって、ケンカをしては他人を痛めてしまう。
才能といえば聞こえはいいが、ただの条件反射なのだ。殴ったあとはいつも後悔するし、拳がずきずきと痛む。
パトリシアは、右手を緩めた。ランスの頬を打ち付けたときに、頬骨にでも当たったのか痺れている。

「…パティ」

目を見開いて、ランスが見上げていた。パトリシアは、目を伏せる。
ざあ、と乾いた草がざわめき、前髪が乱れた。痺れの残る右手から力を抜いて、だらりとさせた。
ダメなんだ。そればかり、言われる日だ。最初はあの眼帯の男に、そして今は、目の前のランスに。
欲しくもなかった格闘の才能だけでは、その力を持っているだけでは、その力で戦えるだけではいけないのか。
ならば、何が在ればいいのか。パトリシアは必死に考えていたが、何も見えてこなかった。

「わたしは」

大好きなランスの、味方になることすら出来ないのか。

「そんなに、やくたたずなの?」

ずしりと重たい短剣が、屈辱的だった。眼帯の男は、丸腰ではいけないだろうと渡してくれたと解ってはいるが。
血族でなければ、力がなければ。戦えるだけでは、拳だけでは。パトリシアは、強烈な悔しさに項垂れた。
ランスは、次第に熱を持ってきた頬がずきずきしていた。パトリシアは俯いてしまったまま、少しも動かなくなった。
こんな姿は、初めて見た。何があってもにこにこしていて、どんな相手も打ち倒してしまう、彼女が。
泣いているのだ。肩を震わせて、しきりに頬を拭っている。パトリシアのしゃくり上げる声が、続いていた。
パトリシアは、べちゃりと泥溜まりに膝を付いた。空しくて、切なくて、足から力が抜けてしまったのだ。
少女の泣き声が、ランスの耳に、突き刺さるように聞こえてくる。そして、悟った。
どれだけ強くても、どれだけ力があっても。負けるときは負けるし、弱いときは弱くなってしまうのだ。
だから。父親は、ギルディオスは決して裏切ったわけでも嘘を吐いたわけではない。ただ、負けてしまったのだ。
それだけなんだ。ランスは、ぎちりと奥歯を強く噛み締めた。先程の自分の叫びを思い起こし、情けなくなった。
あんなの、ただの我が侭だ。一番辛いのは、父さんじゃないか。死んじゃったのが一番悔しいのは、父さんなんだ。
そして、あろうことかパトリシアを受け入れなかった。ただ、自分が不安だと言うだけで、彼女を拒絶した。
ダメなのは自分の方だ。あれだけ嫌だったヴァトラスの血に、結果としてこだわってしまったのだから。
ランスは立ち上がろうと、後方に手を付いた。すると、ずぶりと泥に手が埋まり、冷たく粘ついた中に沈んだ。
それを気にせず、上半身を起こした。目の前で泣き伏せるパトリシアを泣かせたのは、間違いなく自分だ。
立ち上がると、服に染みた泥水が背筋を伝っていった。汚れた手を服で拭ってから、彼女に差し出した。


「帰ろう」


目の前の手を、パトリシアは恐る恐る掴んだ。ランスの手は、小さいはずなのに頼れるように思えた。
パトリシアは立ち上がってから、目の赤くなったランスを見下ろした。ランスは、軽く手を握ってきた。

「ごめん」

「うん」

パトリシアは妙に照れくさくなり、目を逸らした。泥にまみれたランスの手が温かく、心地良かった。
ざばざばと草を掻き分け、ランスは前に出た。いきなり引っ張られたので、パトリシアはよろけかけてしまった。
少し前を、少年が歩いていく。背中はすっかり泥に汚れていて、草も付いていたが、少し大きく見えた。
街の方向に向けて、無言で二人は歩き続けた。思いの外草原はだだっ広く、しばらく歩いても道は現れてこない。
がさがさと擦れる枯れ草の音の合間に、ランスは独り言のように言った。パトリシアは、それを聞いていた。

「考えてみればさ、僕を母さんから勝手に引き離したりは出来ないんだよ。本家も近いし」

拗ねたような怒ったような口調で、ランスは話している。

「それに、あいつらの顔なんて今まで見たこともなかったし。ヴァトラスって言ったって、遠縁なんじゃないかな」

べちゃべちゃと、二人の足音が続く。

「それにさ。父さんが死んじゃったのは凄く寂しくて悲しいけど、でも、いなくなったわけじゃないんだ」

うん、とパトリシアが頷くと、ランスは立ち止まった。

「何かの本で読んだんだけどね。人間が本当に死ぬときは、誰からも忘れられたときなんだって」

だから、とランスはパトリシアへ振り向く。

「僕は、一生父さんのことを忘れない。そしたら、父さんは完全には死んだことにならないだろ?」

月明かりを受けたランスの顔は汚れていたが、いつになく凛々しかった。むしろ、男らしくもあった。
だが、気を抜いたら泣いてしまいそうなのか、表情は強張っていた。やはり、まだまだ子供なのだ。
ランスはしばらくパトリシアと顔を見合わせていたが、慌てて顔を逸らした。足早に、歩き出す。
虫の声がやかましく、様々な鳴き声が聞こえていた。二人が黙ったので、ようやく聞こえてきたのだ。
そして、二人は歩き続けた。時折言葉を交わしながら、しっかりと繋いだ手を放さずに、家まで歩いていった。
どちらも体力は限界で足元はおぼつかなかったが、決して揺るぎはしなかった。


翌日。ギルディオスの葬儀が、行われた。
中央市民共同墓地までの道を、大きな棺が運ばれていった。司祭が祈りの言葉を捧げ、その棺は埋められた。
真新しい墓石が建てられた墓を、彼らは見下ろしていた。深い黒の喪服を着たメアリーは、墓に跪く。
手袋を外して、ついっと石を撫でた。その横顔は、やつれてはいたが、以前のような鋭さが戻ってきている。

「ギル。ゆっくり休みな。今までずうっと戦ってきたんだから、少しはいいじゃないか」

灰色の墓石に額を当て、メアリーは目を閉じた。

「あたしがそっちに行くまで、ちゃんといてくれよ。勝手に生まれ変わってたりしたら、承知しないからね」

「すまん、ギル。力になってやれなくて」

眼帯の男は、メアリーの傍らにしゃがんで墓石に手を置いた。項垂れて、もう一方の手を固く握る。

「オレがそっちに行ったら、いくらだって文句を聞いてやらぁ」

ギルディオスの墓には、白い花が手向けられている。灰色の墓石の前で、いやに白が際立って見えていた。
メアリーは、墓石へしきりに言葉を掛けていた。仲間が死ぬのは慣れちゃいるけど、あんただと辛いねぇ。
項垂れている眼帯の男は、何か考えているようだった。ぎゅっと口元を締めて、険しい表情をしていた。
パトリシアは、声を出さずに泣いているランスの手をずっと握っていた。どちらも、強く握り合っていた。
先に帰っていい、と二人に言われたので、パトリシアはランスの手を引いて街へ向かった。
人通りの少ない森の傍を、黙って歩いていた。夏の鮮やかさが失せた木々は、所々で、色づき始めている。
裏通りに入る道の手前で、パトリシアは、急にがくんと止まった。振り返ると、ランスが立ち止まっている。
ランスはパトリシアの手を振り解くと、ごしごしと目元を擦った。顔を上げると、真剣な目をしていた。

「決めた」

「何を?」

パトリシアが尋ねると、ランスは少し口籠もったが、意を決したように言い放った。

「僕は、父さんより強くなる!」

喪服の裾を握り締め、ランスはパトリシアを睨んでいた。その目を、彼女は見下ろした。

「だったら手伝う」

「は?」

思い掛けない言葉に、ランスは目を丸めた。普通であれば、ここで応援したりするのが筋ではないのか。
ぐっと拳を握り締めたパトリシアは、高々と突き上げた。ランスに負けず劣らず、真剣な顔をしている。

「私、ランス君と一緒に戦って強くなる! でも、前衛は格闘家だけじゃ、ただ戦えるだけじゃダメだよね!」

「ああ、うん、まぁね。攻守がちゃんと整ってないと、戦闘はきついけどさぁ…」

呆気に取られながら、ランスは意気込むパトリシアに返した。彼女は、ぱん、と拳を手のひらに当てる。

「じゃあ、何になればいいかな? 何か良いのあるぅ?」

「えーと、そうだなぁ…」

ランスは、戦闘の心得を思い出した。ごく基本的な、パーティ編成を言ってみた。

「僕が魔導師だから、修道士かなぁ。白っていうか、回復魔法も使えるし、戒律の範囲なら格闘もしていいし」

「じゃ、その修道士になる」

「…二つ返事で決めないでよ、そんなこと。パティの人生でしょ」

ランスが呟くと、パトリシアは両手を胸の前で組み、にんまりする。

「そうよ。だから私は、ランス君の役に立ちたいの。一緒にいたいのよん」

「他にもさぁ、夢とか将来設計とかあるでしょ? 僕と一緒にいることだけが人生じゃないよ」

「だーかーらぁん」

くるりと回ってみせ、パトリシアはスカートを翻す。足を止めて、ランスに向き直る。

「ランス君とずぅーっと一緒にいることが、私の夢であり将来設計なのよん」

「…はぁ?」

「んもう、鈍いんだからぁん」

パトリシアは、ずいっとランスに近寄った。ランスがきょとんとしていると、おもむろに抱き付いた。
ぎゅっとランスの頭を抱き締め、んー、と頬を擦り寄せる。うっとりと、愛おしげな声を出す。

「私はランス君がだぁい好きなの! だから、一緒にいるためには手段なんて選んじゃいられないのよぉー!」

「えっ、あっ、うぇええっ!?」

パトリシアの腕の中でもがき、ランスは急いで彼女を引き剥がした。そのついでに、胸を押してしまった。
いやぁん、とパトリシアは身を捩って頬を押さえる。ランスは甘ったるい少女の匂いと、手に残る感触に戸惑った。
そして、今し方の発言だ。ずっと、ということは、行く行くはああなってこうなってそうなることを考えているのだ。
その夢を、パトリシアは止めどなく語っている。一緒に旅して一緒に暮らして結婚して、子供作って幸せに。
くるりくるりとパトリシアは回転し、長い金髪がふわふわと揺れる。それを、ランスは呆然と見つめていた。
なんで、こうなってしまうのだ。父親を越えたいという決意を、パトリシアに表明しただけなのに。
上機嫌なパトリシアは、妙な踊りを踊っていた。真っ黒な喪服に似合わない、やたら陽気な踊りだった。
たかが十一歳の子供が、たかが八歳の子供に結婚の意思を表さないで欲しい、と、ランスは踊る彼女に思った。
一年後、十二歳となったパトリシアは、この宣言通りに修道院へ入った。二年後には、修道士となって戻ってきた。
魔導師協会の一員となったランスと共に働くために、パトリシアも魔導師協会に加入し、組むことになった。
というか、半ば強引にパトリシアが組んできた。ランスが知らぬところで、勝手に話が進んでいたのだ。
ランスは当然ながら意見したが、もう遅かった。だが、実際に組んで戦ってみると、不思議と息が合っていた。
攻撃の間合いや防御の固さ、意思の疎通など。ランスはパトリシアの、パトリシアはランスの、いい相棒になった。
そして二人は、なんだかんだで割と活躍し、現在に至るというわけである。




どごん、とパトリシアは後頭部をぶつけた。
じわじわと広がってくる鈍い痛みに、意識が明確になった。何度か瞬きして、ぐいっと背筋を伸ばす。
気が付くと、周囲はすっかり明るくなっていた。眩しい朝日が木々の葉を照らし、鮮やかな緑を白くさせている。
膝の上に重量がないのでを見下ろすと、彼はいなかった。ぼんやりとした目を擦っていると、ばさりと布が落ちた。

「りゃ?」

紫のマントが、体に掛けられていた。それを持ち上げていると、少し離れた木に寄り掛かっていた影が起きた。
マントを着ていないランスは、パトリシアへ振り向いた。金の杖をがしゃりと担ぎ、歩み寄ってきた。

「見張りが寝ちゃわないでよ」

マントをぎゅっと握り締め、パトリシアはランスを見上げた。後頭部で高く括られている髪が、少々乱れている。
鋭い日光を受けたランスの姿は、薄暗い森から浮かび上がっているように見えた。杖の魔導鉱石が、輝いている。
パトリシアはきゅんと切なくなり、マントを強く抱き締めた。思い掛けぬ彼の優しさに、ときめいてしまった。
その表情に、ランスは条件反射で後退した。目を輝かせているパトリシアは、がばっと立ち上がる。

「ランス君、もう大丈夫なの?」

「ああ、まぁね。寝て起きたら魔力は戻ったし」

「そう。なら良かったぁーん」

マントを広げたパトリシアは、そのまま飛び掛かった。ばさり、とマントで体を覆われ、ランスは一瞬動けなくなる。
抵抗する前に、マントごと抱き締められた。返すわぁ、と言いながら、パトリシアは腕に力を入れた。

「ありがとーランスくぅん、一枚掛けてくれてぇ」

「だからって抱き付く?」

「いつものことじゃなぁーい。いやんもう、だから大好きぃーん」

頬を擦り寄せてくるパトリシアに辟易しながら、ランスは彼女の肩越しに、森の奧へと目をやった。
朝日の届かぬ場所に、昨夜の戦闘の名残があった。頭を打ち砕かれたゴブリン十数匹と、殴り倒された獣の数々。
あれは全て、パトリシアが倒したものだ。ランスの倒した魔物は、炎で焼いてしまったので、骨も残っていない。
骨を砕き、肉を抉り、打点を外さずに確実に仕留めている。途中から、メイスが邪魔だと言い、素手で殴っていた。
ランスは、自分の肩をしっかりと握る彼女の手が、ちょっと恐ろしくなった。相変わらず、格闘の天才だ。
そして、しきりに聞こえる彼女の声に、思った。今も昔も、パティは鉄拳乙女なんだよなぁ、と。
魔物の死骸が転がる森に、大好きぃ、と高い歓声が響いていた。




父親の死の記憶は、痛みと決意、そして彼女との絆。
いつか父を越える日を、いつか彼女に勝てる日を、彼は日々望む。
だが、まだそのどちらも果たせていない。そして今日も、彼は彼女に振り回される。

しかし彼は、まんざらでもないのである。






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