フィフィリアンヌは、縛られていた。 覚醒し切らない目を動かし、周囲を把握する。薄暗く陰った城の正面玄関に、横たえられているようだった。 後ろ手に縛られた手首に縄が食い込んで、少し痛かった。胸の上下にも縄が巡らされ、腕を固めている。 膝も曲げられており、丁度かかとが手首の下にあった。小さな翼も、ぐるりと縄に締め付けられていた。 手首の縄は両足首を縛る縄と繋がれていて、体を伸ばすことは出来ない。随分と、念入りに縛り上げられている。 舌を動かそうとすると、ざらついたものが触れた。口に布を噛まされていて、後頭部に結び目があった。 フィフィリアンヌは、煌々と注ぐ日光の方向と量で、今は真昼だと察した。よく眠ったものだ、と自分でも思う。 昨夜、というか今日の早朝まで読書に耽っていたせいだろう。こうして縛られても、気付かないほど熟睡していた。 寝間着越しに感じる石畳が、固く底冷えしている。目線を上にやると、見慣れたスライム入りのフラスコがあった。 そしてそれを覗き込む、黒衣の男がいた。左目を眼帯に隠し、黒い外套を着込んだ長身の男が立っている。 「やっと起きたか」 フィフィリアンヌは、目線を男の背後にやった。湖にはセイラが立っていて、じっとこちらを見つめていた。 不安そうだが、心配はしていないようだった。フィフィリアンヌを見ている金色の単眼は細められ、笑ってくれた。 フィフィリアンヌはセイラに頷いてやると、セイラはこくんと頷いて返した。今は、近付かない方がいい。 眼帯の男は、フィフィリアンヌとセイラを交互に見た。感心したのか、少し笑っている。 「賢明だな。無駄な犠牲は出ない方がいい」 「そういうことだ。だがしかし、もう少し丁重に起こしてくれんか」 フィフィリアンヌが言うと、眼帯の男はぎょっとしたように目を見開いた。 「喋れるのかよ!」 「口を動かさずに喋る芸当など、竜族ならば誰でも出来る。驚くほどのことではない」 それに、とフィフィリアンヌは唇で布を噛んだ。牙を布に突き立て、ぶすりと刺す。 「やろうと思えばすぐにでもほどけるが、面倒なのでな。ギルディオスの馬鹿が帰ってくるまで、待とうと思う」 「なんだ。ギルディオス・ヴァトラスを逃がしたんじゃないのか?」 「いなかったのか?」 フィフィリアンヌが尋ねると、ああ、と眼帯の男は階段に座った。がちゃり、と外套の下で金属が鳴る。 「一通り探したんだが、この城のどこにもいなかったんだ」 「放っておけば帰ってくるだろう。あのニワトリ頭と戦いたいのなら、しばらく待つことだ」 「んでお前は、ギルディオス・ヴァトラスが帰ってきて助けられるのを待つ、ってのか?」 「いや。こうしているのも、割と面白そうだと思っただけだ」 フィフィリアンヌが返すと、眼帯の男はおかしなものを見るように顔をしかめた。この近辺では、見ない男だ。 顔の作りは北東系山岳民族の血が濃いが、武装や衣服は西方にいる部族に似ている。混じっているようだ。 少なくとも、王都の出身ではなさそうだ。この男と戦うのは容易いが、すぐに倒してしまうのはつまらない。 そう思い、フィフィリアンヌは噛まされている布から牙を外した。長引かせた方が、潰れる暇は多いのだ。 眼帯の男の目線が、フィフィリアンヌの胸元から下腹部へ向かう。縄の食い込み具合は、浅かった。 「しかし、縛り甲斐のない体だよな。綺麗なツラしてんのに、こんなに真っ平らじゃやる気も出ねぇ」 「昼間だからな。余計にその気にはなれんだろう」 「やりづらいなぁーもう…」 眼帯の男は頬杖を付き、ため息を吐いた。口を動かさずに喋る時点で、まずやりづらいというのに。 縛られても怯えない少女など、かなり気色悪かった。人間ではないと解ってはいるが、外見は少女なのだ。 しかもそれが、口を動かさずに喋る。軍人のような、堅く偉そうな口調で、状況を楽しむようなことすら言った。 いっそ恐れてくれた方が、こちらとしてもやりやすい。怒鳴るか殴るかして、黙らせてしまえるからだ。 しかしこれでは、どちらも出来ない。無表情に上から物を言う、人ならざる娘は、頭上のフラスコを見ている。 「貴様。なぜ、これを持ってきたのだ」 「お前さんの枕元にあったから、ついなんとなく」 眼帯の男は、横目にフラスコを見下ろした。ワインの如き赤紫の粘着質が、でろりと球体に納まっている。 つやつやとした表面はぬめっていて、湿っている。しばらく眺めていると、それが、僅かに表面を震わせた。 スライムだ、と眼帯の男は察した。だが野生のものにしては色がおかしいし、フラスコに入っている。 きっとこれは、人工の物なのだ。そして、恐らくはこの娘が造ったのだろう、と眼帯の男は思った。 ツノと翼の生えた少女が寝ていた部屋には、大量の本と共に薬剤の瓶があったし、実験器具も置かれていた。 このスライムは、何かの実験の産物に違いない。眼帯の男はそう結論を出し、軽くフラスコを小突いてみた。 「うごぅ!」 いきなり響いた低い声に、眼帯の男はびくりと腕を下げた。ごろり、とフラスコは転がり、中身が揺れる。 「いきなり何をするのかね! 我が輩はまどろんでいたのだぞ、それを乱暴に起こすでない!」 ごぼり、と赤紫のスライムは泡立つ。 「激しく不愉快である! フィフィリアンヌよ、なぜさっさと縄を引き千切って起き上がらないのであるか!」 「私はまだ眠いのだ。そして暇なのだ」 喚くスライムを上目に見、フィフィリアンヌは呟いた。仰け反った姿勢で、眼帯の男は両者を見比べた。 高まった動悸を落ち着かせてから、眼帯の男はフラスコに手を伸ばした。ばちり、と内側からガラスが叩かれる。 「ええい、気安く触れるでない! 我が輩の優雅で美しき高貴なる体が穢れてしまうではないか!」 「ガラス越しなんだが」 「気分的な問題である」 ふんぞり返るように、スライムはぐにゃりと軟体を伸ばした。眼帯の男は、仕方なく手を下げて座り直した。 ふと、眼帯の男は冷気を感じた。初夏の近い季節らしからぬ、ひやりとした空気が頭上から流れてくる。 見上げると、半透明の男が浮かんでいた。小柄で貧弱な体躯の男は、物珍しげに小さな目を丸める。 「あらまぁおやまぁ。なんとも面倒なことになっていますねぇ」 「うぉわ!」 がばっと身を下げた眼帯の男に、幽霊と思しき半透明の男はへらへらしている。 「もしかして、賞金稼ぎさんですかぁ? ですけど無駄足でしたねぇ、ギルさんはいませんよぅ。賞金稼がれついでに走ってくる、と言って朝っぱらから出て行ってしまったので、帰ってこられるまでもうしばらくはありますよぅ」 「それは、知っている」 眼帯の男が答えると、そうですかぁ、と幽霊は眼帯の男を見回す。 「これはそうですね、あれですね! ギルさんの賞金を狙って襲撃に来た賞金稼ぎと思いきや、その実はこの城に秘められた宝物を奪いに来た凄腕の盗賊で、様々な罠をかいくぐり、主の寝室に辿り着いたはいいものの、そこにいたのは貧乳竜族。宝はないわ疲れたわで、やけっぱちでフィルさんを縛って持ってきたというわけですね!」 「…違う」 目を輝かせて喋る幽霊に飲まれそうになったが、眼帯の男はなんとか否定した。相手に押されてはいけない。 幽霊は残念そうに口元を曲げ、するりと身を下げた。首を左右に振りながら、フラスコの上に止まる。 「嫌ですねぇ伯爵さん、付き合いの悪い方って」 「はっはっはっはっは。デイビットよ、貴君の妄想の素晴らしさを理解出来るのは、やはり我が輩だけであるな」 スライムは蠢き、楽しげに笑った。眼帯の男は、デイビットという名の幽霊と伯爵という名のスライムを見比べた。 化け物屋敷だ。眼帯の男はそう思ったが、口に出さなかった。気弱な姿を見せては、付け入られてしまう。 寝間着姿で転がしてあるツノの生えた少女は、フィフィリアンヌというらしい。その名は、聞いたことがあった。 眼帯の男は気を取り直し、フィフィリアンヌを見下ろした。吊り上がった目が、眠たげに半開きになっている。 「フィフィリアンヌって、ああ、あれか。王家や貴族の御用達調薬師でありながら、金次第でどんな輩にも薬はおろか毒まで造る、ろくでもない女だって聞いてたが。まさかこんなガキとはな」 「ほう。よく知っているではないか」 フィフィリアンヌは、やる気のない返事をした。眼帯の男は、上から下まで少女を眺める。 「竜族って噂も聞いてたが、本当だったとはな。よくもまぁ、竜族が王宮に出入りが出来るな」 「私の毒を入り用とする者共が、手を回しおったのだ」 「王家か?」 「いや、政治家共だ」 フィフィリアンヌの言葉に、眼帯の男は嫌そうに顔を歪めた。 「そんなんで、帝国とおっ始めようってのか。上の体制が整ってないと、下も整わないんだがなぁ」 二人の会話を遮ったのは、軽い足音だった。王都への道に繋がる森から、少年が足早に駆けてきた。 一度転びそうになったが、なんとか立ち直って走ってきた。布を重ねた服を広げ、ずしゃりと滑り込む。 階段の前にやってくると、眼帯の男を見上げる。喜々とした表情で、森の方を指した。 「マークさん! ここに来るまでの道に、色々と罠を仕掛けてきたっす!」 「おう、ご苦労」 「あれだけありゃあ、どれか一つにギルディオス・ヴァトラスは引っかかるっすね!」 胸を張り、少年は何度も頷いた。勢い良く頭を振ったせいで、薄茶色のターバンがずれてしまった。 目元を覆った布を押し上げ、少年は正面玄関を見上げた。デイビットを見、うぎゃあ、と裏返った声で叫ぶ。 「なんすかーこれー!?」 じりじりと身を下げて湖へ顔を向け、セイラを見ると、ひぎゃあと仰け反った。 「なんかでかいのがいるっすー怖いっすー!」 泣きそうな少年は、助けを求めるように眼帯の男へ向いた。その脇の少女のツノに、目を見開く。 「…ドラゴン、さんっすか?」 「いかにも竜族だが」 そうフィフィリアンヌが返すと、少年は辺りを見回してから叫んだ。 「なんて場所っすか、ここー! 化け物屋敷っていうか魔物の巣窟っていうかめちゃめちゃ怖いっすー!」 「失敬な。魔物という括りで扱える者は二人しかおらんぞ」 ほれ、とフィフィリアンヌは頭上のフラスコを顎で示し、湖面に突っ立っている単眼の巨体も顎で指した。 その両方を辿った少年は、あわあわ、と変な声を出した。強張った動きで身を下げ、目元には涙も浮かんでいた。 眼帯の男にも、少年の気持ちは解らないでもなかった。ここまで人ならざる者が多いと、確かにかなり怖い。 長年の経験と鍛錬で、眼帯の男はその畏怖を押し止めることが出来たが、少年はさすがに無理だったようだ。 泣くのは堪えているようだったが、怯えている。眼帯の男に近付きたそうにしているが、動けない。 眼帯の男は、すっかり怯えてしまった少年を手招きした。離れているよりは、近くにいる方が良いだろうと思った。 「ジャック、とりあえずこっちに来い」 「えーでも、マークさん。そっちには、ドラゴンさんとか幽霊とか変なのがいるっすー」 「大丈夫だ。下手なことさえしなきゃ、たぶん何もしないと思うから」 眼帯の男は、フィフィリアンヌを指した。少年は恐る恐る足を出し、一歩一歩、正面玄関に間を詰めていった。 かなり時間を掛けて、少年は眼帯の男の前に辿り着いた。すぐさま眼帯の男の陰に隠れ、顔を伏せてしまう。 黒い外套を掴んで肩を震わせ、いやっす、と小さく洩らした。フィフィリアンヌは、眼帯の男を見上げる。 「その子供は貴様の部下か?」 「部下っつーか弟子っつーか、まぁ養子だな」 背後で震える少年の頭を、眼帯の男はぽんぽんと叩いてやった。すると少しだけ、彼の震えが収まった。 フィフィリアンヌは、彼らのやり取りを思い出した。眼帯の男はマークと呼ばれ、少年はジャックと呼ばれていた。 頭上の伯爵に目線をやると、ぶにょりとスライムは歪んだ。小さく唸っていた伯爵は、体を捻れさせた。 「貴君もそう思うのであるか、フィフィリアンヌよ」 「都合が良すぎる、とも思うがな。だが、何者かの策謀であるならば話は別だ。筋が通る」 赤い瞳が、黒衣の賞金稼ぎを見定めた。 「貴様。名は、マーク・スラウというのではないのか?」 眼帯が、フィフィリアンヌに向いた。右目を見開いていたが、すぐに表情を戻し、向き直る。 ばさりと黒衣を広げ、外套の下で腕を組んだ。武器が仕込んであるのか、かちゃりと金属音がする。 「これはこれは光栄だな。高名な薬学者に、存じていてもらえるとは。確かにオレは、マーク・スラウだが」 「なぜ貴様は、ギルディオス・ヴァトラスのニワトリ頭を屠ろうとする?」 「決まっている。賞金稼ぎが、あんなでかい賞金首を狙わないでどうするってんだよ」 「それもそうだな。だが貴様は、ニワトリ頭の話に寄れば親友であるはずだ」 「親友?」 少し、間が開いた。眼帯の男は、不思議そうに目を丸める。 「オレとギルディオス・ヴァトラスが親友ってのは、どこから出たんだよ。面識は、少しもないんだがな」 「知らぬと言うのか?」 「ああ。王都に来たのだって初めてだし、来た理由も、ギルディオス・ヴァトラスの首を刎ねようと思ってたからさ」 可笑しげに、マークは笑う。素っ頓狂なことを言う娘だ、と言いたげな顔だ。 「ギルディオス・ヴァトラスがどういう男だか知ってたら、ここまで面倒な襲い方はしねぇよ」 「なるほどな」 フィフィリアンヌは目を伏せ、思考した。何者かが、ギルディオスを填めて戦わせ、殺そうとしているのだろう。 そしてその者は、グレイスの策に便乗した。彼が賞金首となったのを良いことに、賞金稼ぎの親友を差し向けた。 親友であるマーク・スラウも、追憶を禁ずる呪いが掛かっているようだ。なんとも、手の込んだ罠だ。 悪趣味だ、とフィフィリアンヌは眉根を歪めた。大方、双方のどちらかが死んだら、呪いが解けるに違いない。 今のギルディオスは、賞金稼ぎに襲われれば反射的に戦うようになっている。それは、己の身を守るためだ。 そしてマークも、完全に賞金稼ぎとなっている。そんな二人が出会ってしまえば、戦わないはずがない。 勝つのはギルディオスだ。この状態のフィフィリアンヌを見て怒らないわけがないし、怒れば力が相当に増す。 不死身とは行かないが、それでも甲冑の戦士は強力だ。痛みもないし血も出ないのだから、負傷しても関係ない。 全く持って、マークにとっては分が悪い。ジャックも連れているし、周囲の状況に畏怖しているようでもある。 なんとかして、戦わせるのを止めなくてはならない。親友を殺してしまえば、ギルディオスは自決しかねない。 愚かなまでに真っ直ぐな彼のこと、自分が間違いを犯したら、間違ってしまった自分自身を許すはずがないのだ。 不意に、セイラがざばりと立ち上がった。背筋を伸ばして森の方を睨み、大きく口を開き、頭を反らした。 甲高い叫声が放たれ、水面が波打ち始めた。全身に響いてくる強烈な高音に、フィフィリアンヌは頭が痛くなった。 マークとジャックは、苦しげな顔で耳を押さえている。職業柄、聴覚を高めている二人には、かなりきついのだ。 セイラの咆哮が、少し低くなった。竜族の猛りにも似た叫びを響かせていたが、それが唐突に途切れる。 「来ルナ!」 どぉん、とセイラは拳で水面を叩き割る。 「グレイス!」 空気の流れが変わった。僅かな空間の歪みが湖の前に起き、その隙間から人間が現れた。 とん、と灰色の影が軽くつま先を付け、水際に着地した。城に向いている背に、ぱさりと緩い三つ編みが落ちる。 弱い風が、彼の周囲を抜けた。灰色の男は城の方へ顔を向けると、丸メガネを光らせた。 「言ってやれよ、フィフィリアンヌ」 口元に、楽しげな笑みが浮かんでいる。 「オレは敵じゃない、ってな」 セイラの咆哮は、再開された。腰の翼を大きく広げて胸を張り、力一杯喉を震わせ、荒々しく怒りを歌っている。 その歌には魔力が混じっているのか、風と軽い衝撃波が起こっている。水面が、ぶるぶると揺らいでいた。 弱い風に、グレイスの前髪が揺れていた。脇に紙の束を抱えていて、それがばさばさと鳴っていた。 フィフィリアンヌは目元を歪めていたが、セイラを見上げた。セイラが戦うようなことが、あってはいけない。 「セイラ、気を静めてくれ。グレイスは、私に何もする気はないようだぞ」 「嘘! 嘘! グレイス、フィリィ、敵!」 どばん、とセイラは前傾姿勢になって両手を付いた。湖畔に顔を寄せ、金色の単眼を強める。 グレイスは睨み付けてくる金色の単眼を見上げ、にやりと笑った。フィフィリアンヌを、後ろ手に指す。 「主の言うことを信じられないのか、セイラ?」 「良い子だ、セイラ!」 フィフィリアンヌが声を強めると、セイラは首をすぼめた。爪の伸びた巨大な手で、ぐしゃりと土を握る。 「…解ッタ」 「そうだ、良い子だ。私は大丈夫だ、だから案ずるな、セイラ」 フィフィリアンヌは、優しげな口調で宥めた。セイラは渋い顔をしていたが、身を引き、湖に後退していった。 そうそう良い子だ、とグレイスはセイラに頷いていた。くるりと身を翻し、正面玄関に軽やかな足取りでやってきた。 ちらりとマークとジャックに目をやったが、脇を通り過ぎた。縛られているフィフィリアンヌの、前に立つ。 「おぉう壮観ー。なかなかいいもんだなぁ、縛られてるってのも」 「何の用だ」 フィフィリアンヌは、逆光で表情の解りづらい呪術師を睨んだ。グレイスは身を屈め、紙の束を振る。 「見て解んねぇかなぁー、もう。薬の注文に来たんだよ」 「今日もレベッカはいないのだな」 「相変わらずのお留守番さ。ちょいと可哀想だがな、大事なオレんちを守るためには仕方ないのさ」 数枚の紙をめくり、グレイスはフィフィリアンヌの手前に座った。足を組み、一枚の紙を引き抜く。 それを、フィフィリアンヌの前に差し出した。魔法薬注文書、と書かれ、薬の名と数量が書き連ねてある。 「出来るか?」 「材料の在庫も支障はない。その気になれば、一週間もせずとも作れるぞ」 「おう、ありがとなー。んで、いくらぐらいになりそうだ、フィフィリアンヌ?」 「そうだな。ざっと値踏みして、金貨七百前後だ」 淡々と、フィフィリアンヌは計算した。グレイスは、注文書をフィフィリアンヌの目の前に置いた。 「それで、この男と少年は賞金稼ぎかな? 眼帯の方は、顔に覚えがあるような気がしねぇでもないんだが」 「マーク・スラウだ」 「ああ、そういうことか」 納得したように、グレイスは笑う。マークは得体の知れない男と、商売の会話を平然と行う少女が恐ろしくなった。 しかもその男は、自分と面識があるようなことを言っている。まるで覚えがないから、一層恐ろしかった。 先程の、少女の話は嘘だと思った。ギルディオス・ヴァトラスと親友であるはずがないし、面識もないのだ。 急に、己に隙間が空いたような気分になった。知らぬところで、知らぬ自分が生きていたとでもいうのか。 思わず、マークは一歩身を下げた。背後のジャックは押されてしまい、よろけかけたが立ち直った。 「どうしたんすか、マークさん?」 マークは、そっと腰の鞘に手を当てた。がちり、と短剣を引き抜き、その柄を裏返してみた。 刃で刻まれた署名が、横線の傷で消されている。だがその下には、間違いなく、ギルの文字があった。 いつのまにか持っていた短剣に、なぜか刻まれていた名前だった。覚えがないから、削ってしまったのだ。 それを覗き込んだジャックは、短剣とマークの顔を見比べた。そしてフィフィリアンヌを見、小さく呟く。 「もしかして、本当なんすかね、ドラゴンさんの話…」 「調べてやろうか」 頬杖を付き、グレイスは灰色の人懐っこい目を細めた。 「但し、オレは高いぜー?」 「調べるって何をだよ」 短剣を握り締め、マークはグレイスを睨んだ。グレイスは、にんまりと笑った。 「あんたに掛けられている呪いさ。十中八九、追憶を禁ずる呪いのようだがね」 「何を根拠に。オレは、呪いなんて掛けられちゃいない」 「追憶を禁ずる呪いは、その辺の記憶もいじる呪いだからな。覚えがなくて当然なのさ」 表情を固めるマークを、グレイスは指した。指先が、黒い眼帯を狙う。 「うん、思い出した。あんたは七年前に、オレんちに来た。そして、オレに言ったのさ」 「何を」 感情の波を悟られないために、マークは声を落とした。グレイスは、笑む。 「ギルディオス・ヴァトラスの呪いを解いてやってくれ、ってな」 意味が解らない。この連中と話せば話すほど、覚えのない過去が溢れ出し、足元が揺らぎそうだった。 これから狩ろうとしている賞金首と、自分はどんな関わりがあったというのだ。本当に、親友だったのか。 思い出そうとすればするほど、過去が見えなくなる。手にしている短剣の署名が、末恐ろしくなった。 七年前。その頃の記憶を起こそうとしても、穴があることすら解らない。欠けている部分が、解らない。 手から力が抜け、がしゃり、と短剣が足元に落ちた。マークは震えそうな手を握り締め、灰色の男を見据えた。 「…お前、何が目的だ」 「いやぁ、別にぃ。オレも暇なんだよね」 グレイスは、竜の少女と同じ事を言った。ジャックを背に隠し、マークは身構えた。 「オレを惑わして、どうするつもりだ。これといった利点はないと思うがな」 「いや、あるぞ」 フィフィリアンヌの目が、マークを捉えた。濃い赤の瞳が、細められる。 「真実を知っておけば、貴様はギルディオスに殺されずに済むのだ」 「馬鹿な。オレがあんな剣士なんかに」 言い返したマークに、フィフィリアンヌは片方の眉を上げてみせる。 「私を縛っている時点で、貴様は負けている。怒り狂うニワトリ頭は、手を付けられんからな」 「そういうこと。まずはフィフィリアンヌを解放しておけよ、それが身のためさ」 うんうんと頷くグレイスに、デイビットは伯爵に近付いた。スライムを、幽霊が見下ろしている。 「そうなんですかぁ、伯爵さん?」 「いかにもその通りである。あのニワトリ頭は馬鹿であるから、一度怒ったら力加減が出来ないのである」 ごぼり、と伯爵は大きな気泡を浮かばせる。デイビットは、両手を重ねる。 「ああ、ギルさんらしいですねぇ。無茶苦茶に怒って前後不覚になりそうですもんねぇ、あの人なら」 湖の水が跳ね、大きな水音がした。見ると、赤紫の巨体が立ち上がり、また森の方向を見ていた。 だが、今度は吠えていない。金色の単眼をじっと木々に向けて、その隙間を食い入るように見つめている。 牙の生え揃った口元が動き、開かれた。真っ赤な長い舌が覗く口から、一言、言葉が発される。 「ギリィ」 足音がした。重たい金属の擦れ合う音と、草を踏み分ける音が、木々の間からやってくる。 見たくはない、と思っていても、マークは目を外すことが出来なかった。森の出口を、一心に見つめる。 覚えのない過去が、顔を忘れた親友が、かつての自分が力になってやろうと思った相手が、現れるのだ。 ギルディオス・ヴァトラス。その名を持つ男がいかなる者か、思い出そうとしたが、やはり解らなかった。 知っているのは、酒場で出会った女のくれた情報と、マークとジャックが駆けずり回って集めた情報だけだ。 竜を倒して世界を守るドラゴン・スレイヤーを殺した大罪者。血に飢えた不死身の傭兵。怪力の銀の死に神。 そういった評判や噂ばかりだった。凶悪な傭兵だとばかり思っていたが、そんな男が親友だったというのか。 その男が、現れる。マークは身構えようとしたが、出来なかった。本当に親友だったら、と思ってしまったのだ ざあ、と山から吹き降りてきた風が森を揺さぶった。足音は紛れたが、何かの気配は、確実に近付いてきた。 きらりと光沢を持った人影が、森から出た。バスタードソードを担いだ銀色の甲冑が、足を止めた。 「面倒臭ぇことしやがって」 ジャックの仕掛けた罠を破壊してきたのか、剣には何かの破片が付いている。 「お前らか。あんな罠を仕掛けたのは」 ニワトリのトサカに良く似た赤い頭飾りが、風に靡いている。無表情なヘルムが、黒衣の男を見た。 そしてそれは、縄に固められているフィフィリアンヌへ向いた。ぎちり、と柄を握るガントレットが固くなる。 「…良い度胸だ。オレの娘に、手ぇ出しやがった代償を」 声が低くなり、甲冑はバスタードソードを掲げた。鈍い銀色が城と湖を映していたが、角度が変わる。 構えられずにいるマークと、その背後から顔を出しているジャックを映した。かちり、と素早く刃が横にされた。 魔導鉱石から沸き起こる怒りと焼けるような熱に任せ、ギルディオスは猛った。 「きっちり払ってもらおうじゃねぇかぁ!」 05 5/30 |