ドラゴンは笑わない




白昼夢



イノセンタスは、城の前に立っていた。


唐突に現れたはずの城は、不思議と景色に馴染んでいた。少しも浮いておらず、しっくり来ている。
深い森に囲まれた、池と湖の中間のような小さな湖に、城は逆さに映り込んでいる。風で、水鏡が揺れていた。
納得が出来なかった。なぜ、なかったはずのものを見て違和感を感じないのか、理由が掴めない。
王国軍の書状なぞ持たされなければ、絶対に来なかった場所だ。全てを終えてから、来るつもりでいたのに。
竜の気配は、肌で感じていた。ぞくりと神経を逆撫でするような存在感と、強い魔力の気配が近くにあった。
あの女と、会わなければならない。それが、王国軍の命令だ。なぜ自分が選ばれたのかは、考えたくはなかった。
ここにギルディオスがいるからだ。ギルディオスがフィフィリアンヌの傍にいるから、片割れを選んだだけなのだ。
容易に想像出来たその理由に、イノセンタスは内心で毒づいた。愚弟よりも愚かしく短絡的だな、と。
空を映した湖面が割れ、三本のツノを持った頭が現れた。水を滴らせた巨体が、金色の単眼を向けてきた。
イノセンタスは、背後の湖へ振り返った。異形の魔物は物珍しげに、まじまじとイノセンタスを眺めている。
あれはジュリアの作り物だ。まさかこんなところで会うとは思わなかった。異形は首をかしげ、きょとんとしていた。
イノセンタスは少しばかりの懐かしさを覚えたが、表情には出さず、城の正面玄関へ足を進めた。



居間と思しき部屋は、書庫と化していた。
ゆるやかな円形の壁に沿って造り付けられた本棚には、隙間を作らぬようにびっちりと本が詰め込まれていた。
暖炉の前に置かれたソファーに、不機嫌な顔をした少女が座っていた。イノセンタスと、目を合わせようとしない。
フィフィリアンヌと向かい合って座り、イノセンタスは足を組んでいた。偉ぶるのは、彼女よりも偉いからだ。
イノセンタスの持ってきた書状を一瞥したフィフィリアンヌは、ぽいっとテーブルに投げ捨て、言い捨てた。

「お門違いだ」

「私もそう思ったのだがね」

薄く笑みを浮かべて、イノセンタスは不愉快そうなフィフィリアンヌを見下ろした。近くで見ると、本当に小さい。
王国の主導権を握る者達が、こんな少女の薬に頼り、莫大な金を積み、時に翻弄されているのが可笑しかった。
王族や貴族、はたまた政治家達が彼女に頼る理由は至って簡単だ。見つかったとしても、足が付かないのだ。
動くのがフィフィリアンヌだけだから、仲介者がいない。それに、フィフィリアンヌが竜族だというのも理由だ。
どんな者だって、人間である限り竜族は恐ろしい。ドラゴン・スレイヤーでもない限り、下手に手出しは出来ない。
喰われるかもしれないし、痛め付けてもすぐに回復してくるし、なにより潜在的な恐怖に縛り付けられている。
幼き日に聞かされた昔話、様々な書物で伝えられる竜族と人間の戦争、そして時折流れてくる猟奇的な噂話。
そのどれも、恐怖を助長するのにはうってつけだ。事実、イノセンタス自身にも僅かばかりの畏怖はあった。
こうして竜族と対峙していると、感覚のどこかがじくりと疼く。近付いてはいけない、戦ってはいけない、と。
膝に広げていた本に目線を移したフィフィリアンヌを眺めながら、イノセンタスは思考に耽った。
人が必要以上に竜族を恐れ忌み嫌うのは、太古に何事かがあったのだろう。遺伝子に染み付いた記憶だ。
全面戦争。破壊と略奪。殺戮と捕食。それもあったのかもしれないが、別であったかもしれない、とも思った。
互いが互いに近付き、近付きすぎたが故に摩擦を起こし、結果として戦い合い殺し合ったのかもしれない。
そうだとすれば、現在の王国と帝国に似ている。ほんの百数十年前までは、王国も帝国も友好関係にあった。
だが、王国の貴族の娘と結婚した帝国の皇太子が病死してからというもの、帝国は王国を疑い憎み始めた。
それ以前は、両国とも滞りなく通い合っていた。だが、切っ掛けが一つあれば、感情など簡単に揺らいでしまう。
何事もそうだ。切っ掛けがなければ、事は起こりはしない。イノセンタスは、ここに弟が居ないことが残念だった。
ここで顔を合わせていれば、今すぐにでも妹を、ジュリアを連れてきてやったものを。内心で舌打ちした。
フィフィリアンヌは、完全にイノセンタスを無視していた。古びた本のページをめくり、活字を目で追っている。
イノセンタスの持ってきた書状を突っぱねた時点で、フィフィリアンヌの中で、用件は終わってしまったようだった。
恐ろしく、自己中心的である。イノセンタスはテーブルに広げられた書状へ、ちらりと目線を落とした。
王国軍からフィフィリアンヌ・ドラグーンへ、支援を求む書状だ。衛生部隊への薬剤の補給と、戦略面での補助だ。
だが戦略面の補助とは名ばかりで、竜族の兵士を求める文章が並んでいる。彼女はただの仲介役になっている。
要するに、王国軍は竜族の手を借りたいのだ。竜族を恐れて狩ってきた帝国を、その竜族に滅ぼさせたいのだ。
強烈な皮肉であり、報復だ。結果として王国は竜族と関係を持てるのだから、成功すればかなりのものだ。
成功すれば、だが。やる気どころか会話する気もないフィフィリアンヌに、イノセンタスは失敗だと悟った。
相手が悪すぎるのだ。何を思って、王国軍はこの女を選んだのか。やはり、ただ近くにいたからだろう。
確かに頭は良いし戦いにも通じていそうだし、使いようによってはいいかもしれないが、何分性格が悪すぎる。
イノセンタスは、弟の神経を本気で疑った。よくもこんなに捻くれた女と、付き合っていられるものだ。
自分であれば、一日もせずに限界だ。他者を見下すのは楽しいが、見下されるのはかなり面白くない。
ふと、フィフィリアンヌは手を止めた。ページとページの間に細い指を挟んで、目も動かさずに呟いた。

「帰らぬのか?」

子供らしい高めの声で言われると、違和感のある言葉が続く。

「私は書状を見た、それを蹴った。貴様はそれを報告に帰るべきだろう」

傍らに置いていた栞を取ると、ページの間に挟んだ。本を閉じ、ようやく彼女は目を向けてきた。

「それとも。他に用事でもあるというのか?」

あるといえば、ある。だが、その用事を果たすべき相手がいないのだから、ないといえばないのだ。
イノセンタスは笑みを崩さずに、射竦めるような少女の眼差しを見返した。この女も、かなりいけ好かない。
竜でありながら人に手を貸し、人でありながら竜として生きている。その矛盾が、理解しがたかった。
なぜ、どちらかに付かないのか。どっちつかずで中途半端である、という印象しか持てなかった。
彼女の生き様に触れると、余計にそう思える。悪党に毒を渡したかと思えば、王族の病を癒す薬も作る。
考えが解らない。いつも何かしら考えて生きているように見えるが、その実は行き当たりばったりかもしれない。
この城を持ってきたのだって、そうだ。事前に王国へ許可を得ることもせず、唐突に魔法で転送してきた。
しかもその城に、ジュリアの作り物を住まわせている。どういう関係であれと出会ったのかは、予想も付かない。
今のところ、ジュリアとフィフィリアンヌの双方に関連性を持っているのは、グレイス・ルーだけだ。
あの男が、また面倒な事を起こしたに違いない。イノセンタスは、途端にうんざりしてきた。
ギルディオスを賞金首にするのも、先にやられてしまったし、なんだかんだでギルディオスの近くにいる。
それが面白くなく、気に入らなかった。この忌々しい男さえ居なければ、もっと順調に事を進められたはずなのに。
今すぐにでも、殺してやりたかった。広義では死んだことになっている男なのだから、殺して問題はないのだ。
しかし、地位が邪魔をする。大っぴらに殺しをしたら、苦労して手に入れた国王付き魔導師の地位が吹っ飛ぶ。
フィフィリアンヌは一言も発しないイノセンタスを、睨み付けた。細い眉が吊り上がっている。

「イノセンタス。貴様は何をしたいのだ」

「いや」

イノセンタスは、笑ってみせた。フィフィリアンヌは本を傍らに置き、ようやく彼に向き直った。

「あの馬鹿に用があるのなら、一人で探せ。私の知ったことではない」

「愚弟はあなたの従者ではないのか?」

「あれは単なる同居人だ。部下ではない。元より私は、上下というものが嫌いなのでな」

赤い瞳は、薄暗いせいで輝きが失せていた。

「短絡的かつ即物的で、どうにも好かんのだ。横に並べてしまった方が、世界は余程面白くなるだろう」

「全てを横にしてしまったら、上も下もなくなってしまうではないか。世界は乱れるだけだ」

「平たい中でも、新たな秩序が生まれるとは思わんのか。想像力の欠けた男だな」

イノセンタスの目を捉えるフィフィリアンヌの目は、揺るがない。

「上と下、有と無、勝と負、優と劣。そういった縛りがある世界は何事も楽だが、つまらんではないか」

「堕落を望めと?」

イノセンタスは一笑した。フィフィリアンヌは髪を掻き上げ、尖った耳に掛ける。

「実に短絡的な答えだ。貴様のような輩から見れば、私やあの馬鹿の世界は負にしか見えておらんようだな」

「負だろう。異端の行く末は、底のなき墜落だ」

「底はあるとも。但し私やニワトリ頭は、まだ底には至っていない。その底の景色を楽しむ者も、希にいるがな」

フィフィリアンヌは頬杖を付いた。イノセンタスは、眉根を歪める。

「グレイス・ルーか」

「奴はあれで幸せなのだ。一度でも会ったことがあるならば、解るだろう。あの男は、幸せだから笑っているのだ」

「私には、気が触れているとしか思えないがね。人を殺したその傍で、笑うのだろう?」

「ああ、笑うとも。それがグレイスという男なのだ。グレイスは、少しばかり世界の基準がずれていてな。たまにその基準が解るのだが、見てみると割と面白いぞ」

「フィフィリアンヌ、あなたの世界の方がずれている。面白いと面白くない、しかないのか?」

イノセンタスは、ツノの生えた少女を見下ろした。同じ高さのソファーに座っていても、相当身長が低い。

「それこそ短絡的だ。二つに分けているだけではないか」

「貴様の定規に合わせてやったのだ。その方が解り易かろう」

日が落ちたのか、窓から差し込む光が弱々しい。フィフィリアンヌの姿が、陰っている。

「貴様の定規は、いや、貴様らの定規は大分歪んでいるな」

「ほう?」

イノセンタスは、笑みを消した。フィフィリアンヌは片手を挙げて指を弾くと、テーブルの上のランプに火が灯る。
闇が薄らぎ、ぼんやりとした丸い明かりの空間が生まれる。赤い火の揺らぎに、彼女の白い顔が照らされた。

「外の魔物を、セイラを見ただろう。あれは、貴様の血族が作ったものだな」

「その根拠は」

「魔力の流れだ。魔力というものには形がないが、力の流れ方が顕著に遺伝して表れる。貴様らヴァトラスの場合、内から外へだが、方向がやや上方に傾いている。感情だけで簡単に昂ぶってしまうというクセも同じだ」

「なるほどな。だが、それでは何の根拠にもならん。妄想だ」

「黙って続きを聞け。セイラの魔力は、極めてヴァトラスの系統と似ているが、低すぎるのだ。セイラはあの大きさでありながら、並の人間以下しか魔力を持たん」

故に魔法が使えない、とフィフィリアンヌは少し声を落としたが、すぐに戻した。

「普通、人造魔物は高魔力に造る。主に戦闘用だからだ。しかしセイラは、戦闘用の外見なのに魔力が低すぎる」

「何が言いたい」

「不自然なのだ。元々人造魔物は不自然な存在だが、それ以上に不可解なのだ」

「その理由は?」

「セイラには人の血が混じっている。人の知能と人の心を得て人に近しくなり、人に従うために入れられたはずだ。人造とはいえ魔物の魔力中枢へ直接影響を与えてしまうほどの、高魔力のヴァトラスの血をな」

フィフィリアンヌは、抑揚なく喋る。

「ならば戦闘用であるはずだ。だが、魔法が使えない魔物を買うような者は滅多におるまい。しかし、造った理由が戦いや売買以外なら別だ。純粋なる実験ならば、有り得るかもしれん。しかし昨今は魔導師協会の方針もあって、いかなる者も高魔力であるべきだという風潮だ。そんな中、低魔力の人造魔物を造るという実験は、かなり酔狂だ。実験価値はあるかもしれんが、利益はない。研究資金も出てはいないだろう。となれば、残る理由は限られてくる。個人的な目的で造った、というものだ」

イノセンタスは口元を締めた。フィフィリアンヌの、幼いが感情のない声が続く。

「ギルディオスの馬鹿を蘇らせるに当たって、少々ニワトリ頭の身辺を洗ってみたところ、すぐに貴様と妹の記録が出てきた。貴様は十代と二十代の頃に、魔法都市ヴェヴェリスに留学したくらいで、ほとんど王都から出ていない。対して、貴様の妹のジュリアは、魔物研究との名目で王国周辺を渡り歩いている。その記録も漁ってみれば、セイラの体に組み込まれた魔物の配置とほぼ同じなのだ。北の山脈に住まう赤紫のサイクロップス、北西の樹海を闊歩するリザードマン、西方から下りた港町で荒れ狂うリヴァイアサン、南方の諸島で見かけられるセイレーン、そして、東南東のヘレンズ火山付近に生きる赤竜族。要約してサリズヴァイゴンだ。偶然にしては空恐ろしかろう」

イノセンタスは、膝の上で組んだ手を硬くした。

「そのついでに、貴様の妹の研究も見させてもらった。多種族型人造魔物製造時の種族同士の結合を高める研究と結果など、なかなか興味深かった。要約すれば、人造魔物は魔力が不安定だから、他種族の血と魔力の結合が落ち着かずにいるとそれぞれの血の拒絶反応で息絶える、とあった。逆を言えば、魔力さえ安定させてしまえばどうとでもなる、ということだ」

フィフィリアンヌの薄い唇が、せわしなく動く。

「威力の違う魔力同士に、安定と結合を与えるのに必要なのは、高さだけではない。影響力と浸透力に強さが必要なのだから、潜在能力で高くとも意味はない。魔力同士を馴染ませ結合させるには、濃さが必要なのだ。濃さというものは、実直に血の濃さでもある。長年の近親婚で遺伝子異常の起きかけている貴様らヴァトラスならば、そんな者はいくらでもいるだろう。だが、魔物に精通し、繋ぎ合わせることの出来る者はそうはいない。そのどちらにも符合する人間は、ここ数十年ではただ一人。貴様ら兄弟の妹であり、魔物研究の若き権威、ジュリア・ヴァトラスだ」

少女を照らすランプの火が、僅かに揺れた。

「ここから先は、私の邪推だ。根拠などない。高魔力と魔法の才能こそが全てのヴァトラスでありながら、ジュリアが造った魔物が低魔力である理由は低魔力の者、すなわちギルディオスに浅からぬ憧れを抱いているためだ。そしてその憧れは、兄弟への親愛であると同時に恋愛感情でもあった。だが、ギルディオスはメアリーと結婚し、ランスという子を成していた。愛している男を奪われてしまった現実から目を逸らしたいがために、実の兄への愛しさ故に」

言葉を句切って、フィフィリアンヌは強調した。



「ジュリアは魔物のギルディオスを造ろうとした。違うか?」



「…ジュリアの移動記録を見たのは」

イノセンタスは、小さく呟いた。フィフィリアンヌは、一度だけ瞬きした。

「一度だけだが、割と覚えていたのだ。貴様と違って、私は王宮の書庫へは自由に出入りが出来んからな」

「これを、愚弟には話したのか?」

思い掛けないことに、イノセンタスは動悸がしていた。恐ろしいほど、フィフィリアンヌの話は真実に近い。
彼女が手に入れている情報は記号ほどのものでしかないはずなのに、見事に関連性を見つけ出してきている。
フィフィリアンヌは、やはり無表情だ。つい先程言い放ったことを、気にしている様子すらない。

「いや。思い付いただけだ。だがその顔だと、私の邪推もまんざら外れたわけではなさそうだな」

「何が目的だ」

上擦りそうな声を落ち着け、イノセンタスはフィフィリアンヌを睨んだ。背後の闇は、あちらの方が深い。
フィフィリアンヌは頬に当てていた手を外し、足を組んだ。片膝を持って、背筋を伸ばす。

「別に何もない。私の思い付きに過ぎん。貴様こそなんだ、私が金の催促でもすると思っていたのか?」

「そこまで知っておいて、何もない方がおかしいだろう」

口元を引きつらせ、イノセンタスは硬い笑顔になる。フィフィリアンヌは、澄ましている。

「口止めに金をくれると言うならば、遠慮無くもらうが。思い付いただけで何か起こすのだと決め付けられても、別に何も起こす気はないのだから困ってしまうぞ。それに、これは一つの結論であって真実ではない」

「結論は真実だろう」

「結論は結論でしかない」

「ならば、真実を知り得たなら、何かしていたとでもいうのか!」

思わず声を荒げたイノセンタスに、そうだな、とフィフィリアンヌは返す。

「その真実による。真実というものは暴かずとも勝手に暴けてくれるから、何もするつもりはないがな」

「静観する気なのか」

「そんなところだ。これはギルディオスの、貴様らヴァトラスの厄介事であり、私のものではない。だが」

少し、フィフィリアンヌの声が低くなった。

「目に余るようなら手を出すぞ。あの馬鹿がいなくなってしまっては、私としても少々困るのでな」

「愚弟は、あなたにとってどういう存在だ」

「友人と言うには距離があり、仲間と言うには結束は緩い。私にも今ひとつ解らんが、いるべき男には違いない」

「そうか」

イノセンタスは、静かに立ち上がった。歪んでいる。この女は、やはりこちらの世界の住人ではないのだ。
なぜ、強請ろうとしない。なぜ、結論を真実としない。なぜ、ギルディオスの居場所を作っている。
そのどれも、理解しがたかった。否、理解したくなかった。したところで納得は出来ないし、そもそも合わない。
一見すれば冷酷なフィフィリアンヌの言葉の端々に滲む優しさが、嫌で嫌で仕方なかった。一方に徹して欲しい。
悪役ならば、悪役で通してくれた方が余程楽だ。フィフィリアンヌの言葉を借りれば、やはり定規が違うのだ。
これ以上、ここにいてはいけない。互いの尺度が合わないのだから、話を続けても苦しいだけだ。
失礼する、と言ってから背を向けて歩き出した。大きな扉を押し開いて廊下に出ると、幽霊が待っていた。
半透明の貧弱な男は、するりと上昇して距離を開けた。イノセンタスが一瞥すると、ありゃありゃあ、と逃げた。
こんなものを残しているということも、理解出来ない。霊魂など、現世の住人ではないのだから消すべきだ。
イノセンタスはますます不愉快になりながら、真っ暗な廊下を歩いた。自分の足音だけが、やけに響いていた。
この城は、異界だ。この世ならざる者達の住まう、全く別の世界なのだ。
一刻も早く立ち去るべく、イノセンタスは足を早めた。




うっすらと目を開けて、イノセンタスは天井を仰いだ。
これは、十数日前の記憶だ。フィフィリアンヌの城からの帰り道、思い掛けずギルディオスと邂逅してしまった。
フィフィリアンヌにジュリアのことを察されたことで、思っていたよりも動揺してしまっていたのだろう。
ジュリアが帰ってきたということを、弟などに話してしまった。話すつもりなど、微塵もなかったというのに。
その翌日からマーク・スラウを動かし、妹の造った魔物達も動かし始めた。だが、予想より早くマークが陥落した。
マークは今や、フィフィリアンヌの手中にある。愚弟の親友など役に立たなかったな、と内心でぼやく。
背後の窓から差し込む光は、書斎を白くさせていた。向かい側の扉が叩かれたので、イノセンタスは返事をした。
慎重に開かれた扉から、従者の青年が顔を出した。イノセンタスを見、消え入りそうな声で言った。

「イノセンタス様。ジュリア様が、お目覚めです」

「ああ、解った」

イノセンタスは立ち上がり、窓にカーテンを引いて光を遮った。途端に、書斎の中だけが昼間ではなくなった。
傍らをイノセンタスが通り過ぎると、俯いていた従者の青年は顔を上げた。重苦しげに、呟く。

「あの」

「私の元を離れるというのならば、引き留めはしない」

数歩進んでから、イノセンタスは振り返った。青年に、笑ってみせる。

「だが。その後がどうなるかは、保証せん」

口籠もった従者の青年に背を向け、イノセンタスは歩き出した。薄暗い廊下の右手には、縦長の窓が並んでいる。
そこから、この家の大きな庭園が見えていた。夏の気配を帯びてきた日差しを受け、植物が輝いている。
手入れの行き届いた生け垣や花、魔法植物などが生きていた。空へ向けて精一杯伸びる葉が、青々としていた。
イノセンタスはそれらを少し見たが、すぐに廊下の先を睨んだ。


薄暗く、手狭な部屋に妹はいた。
虚ろな目をして、椅子に身を沈めている。奧の壁際に、彼女の造り上げた魔物達が座り込んでいた。
机とベッド以外の家具はない味気ない部屋に、僅かながら外の光が入っていた。それが、いやに眩しかった。
イノセンタスは部屋に入ると、ぼんやりとしているジュリアに近付いた。薬が残っているのか、意識が薄いようだ。
虚空を見つめていて、イノセンタスがやってきても反応しない。イノセンタスは魔物達を見下ろし、扉を示す。

「出ろ」

有翼の人狼、獅子の女、クモ男は返事もせずに立ち上がった。クモ男はちらりとジュリアを見たが、部屋を出た。
扉が閉まると、しんとした静寂が訪れた。イノセンタスは古びた扉をしばらく見ていたが、妹を見下ろした。
眠たげに、瞼が下がっていた。視線がゆるりと移ろい、イノセンタスを捉えると、ふわりと笑った。

「にいさま」

「ああ、私だ」

イノセンタスは表情を緩め、屈んだ。ジュリアの前に膝を付いて、妹の頬へと手を当てる。
ジュリアはイノセンタスの手に自分の手を添えると、顔を傾けてきた。安らかで、穏やかな笑みだ。

「夢を見ていたの」

「どんな夢だ?」

「イノ兄様がいて、ギル兄様がいて、私と一緒にいたの」

「そうか」

「兄様。あの眼帯の人は、どうなってしまったの?」

「お前の邪魔をした眼帯の男は、竜の女の手に堕ちてしまったよ。役に立たない男だったな」

「ああ、そうなってしまったのね。役に立たなかったのね」

「そうだ。そして愚弟は、まだこの世にいる。許せないだろう、許していけないと思うだろう?」

「ええ、許せないわ」

「今度こそ、お前にあの男を殺させてあげよう。嬉しいと思うだろう?」

「ええ、嬉しいわ」

「お前を愛さなかった者など、地獄に堕ちるべきなのだ。堕ちてしまえと思うだろう?」

「ええ、堕としたいわ」

「もっともっと苦しませてやろう。お前の苦しみを全て与え、殺してしまうべきなのだ」

「べきなのよね」

「そうだ。愚かしく力なき弟など、元よりこの世にいるべきではないのだ」

「ではないのよね」

「そうだ。それで今日は、何か思い出したかい?」

「いいえ。何もないわ。だって、兄様が思い出すなって言うから思い出せないのよ」

「そうだな。明日はまた、あの男の城に行ってくれないか」

「ええ、行くわ。でも、兄様の言うメガネの人は、いつもいないわ。女の子だけがいるの」

「別にどちらでもいいじゃないか。いつものように、戦ってくれば良いんだ」

「ええ、戦うわ」

ジュリアは体を傾けて、イノセンタスの腕の中に倒れ込んだ。とろりとした目で、彼の背後を見つめている。
イノセンタスは、すっかり女らしく成長した妹の体を抱き締めた。昏迷剤を混ぜた香水の匂いが、心地良い。
力の抜けたジュリアは、イノセンタスに体重を掛けていた。また眠たくなってきたのか、喋らなくなった。
イノセンタスは妹の髪を撫でながら、思った。少々魔法薬の配合を間違えた、これではただの睡眠薬だ、と。
薬の量を細かく調節しなければ、あっという間に妹は眠り込んでしまう。暗示を強めたくとも、これでは無理だ。
やはりまた、魔法を使わなくてはならない。出来れば魔法に頼りたくなかったが、覚醒させるにはそれしかない。
ジュリアの顔を上げさせると、子供のような顔で眠っていた。その様子に、イノセンタスは少し笑った。
愛おしかった。どんな女よりも清らかで、どんな女よりも可愛らしい妹を、誰よりも強く愛している。
ジュリアの頬を両手で挟み、イノセンタスは顔を寄せた。どうしてギルディオスは、彼女を愛してやらないのだ。
愛されて迫られたというのに、なぜそれを受け入れなかった。受け入れるどころか、逃げてしまった。
それが、理解出来なかった。やはり弟は、生きている世界が違う。歪んだ世界に生きているのだ、と思った。
イノセンタスはジュリアの額に唇を当ててから、彼女の唇に深く口付けた。ああ、幸せだ。
腹の底から沸き起こる罪悪感と背徳感すら、愛おしさとなる。唇を離したイノセンタスは、心の底から笑っていた。
ギルディオスを憎んでいるであろうジュリアの手で、今度こそ弟を殺させてやれば、もっと幸せになれるはずだ。
ジュリアが望んでいるであろう事を叶えてやれば、もっと良い笑顔を見せてくれるはずだ。はずなのだ。
まどろむ妹を固く抱き締めながら、イノセンタスは目を閉じた。このまま、共に眠ってしまいたい。
何もかも忘れて夢に浸り、どこまでも堕ちていってしまいたい。それが叶うことがあるならば。
どれだけ、幸せだろうか。




愛故に。憎しみ故に。兄妹の思いは、交わらない。
高みを求めた片割れは、高みから深淵を覗き、そして堕ちた。
兄は妹を腕に納め、己の世界へと引きずり込まんとする。

淡き夢の行く末は、深淵の底である。





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