ドラゴンは笑わない




鎮魂歌



メアリーは、待ち惚けていた。


薄暗くなりつつある空は、朱色に染まっている。遠くから聞こえる教会の鐘の音が、静かに響いていた。
伏し目がちに、王都を囲む城壁を見ていた。ここで待っていてくれ、と言われて待っているが、随分経つ。
腕に抱いたバスタードソードはずしりと重く、僅かに血臭がした。つい先日まで、彼と組んで戦っていた証拠だ。
ヘルムを脱いで覆面を外し、息を吐く。ギルディオスが自分を置いていったことが、少しどころかかなり面白くない。
太い木に寄り掛かり、西日に赤く染まった道端を見つめた。人通りはなく、ひっそりと落ち着いた時間だ。
メアリーはバスタードソードを下ろし、どん、と地面に鞘を突き立てた。自分以外には聞こえぬように、呟いた。

「何やってんだかねぇ」

彼のことが読めなくなったのは、彼が死してからだ。生前は呼吸も思考も合い、誰よりも頼れる相棒だった。
だが、ギルディオスが甲冑の体を得て蘇ってからというもの、微妙に距離が開いてしまったように思えた。
城下から離れた低い山間に、森が広がっている。夕焼けを背負った鬱蒼とした森の奧に、あの少女の城がある。
メアリーはその方向を見、じくりとした痛みを覚えた。フィフィリアンヌに対して、メアリー自身も恩義はある。
先日、追憶を禁ずる呪いを解除してもらったばかりだ。失っていた親友の記憶を、取り戻すことが出来た。
ギルディオスの魂を繋ぎ止めてくれているのは彼女だし、なんだかんだで彼を手助けしているのも彼女だ。
しかし、その感謝と共に沸き起こる感情は、少し違っていた。メアリーは、フィフィリアンヌに妬いてしまっていた。
正直言って、ずるいと思う。ギルディオスの関心を一心に受けているわけだし、竜王都では守られたと聞く。
それが、無性に腹立たしかった。無論、それはギルディオスの好意であって、フィフィリアンヌの悪意ではない。
そうだとは頭では解っていても、じりじりとしていた。彼の背に守られるべきは、自分であるはずなのに。
年端の行かない子供のような思考に、メアリーは自己嫌悪に陥った。情けなくなってきたが、嫉妬は消えない。
かちゃり、とガントレットに包まれた指で剣の柄をなぞった。嫉妬もそうだが、寂しいのも情けなかった。
一度だけ、ギルディオスは自宅に戻ってきてくれた。だがそれ以降、滅多に帰ってくることはない。
賞金首になってしまった忙しさもあるのだろうし、彼にも色々と都合があるのだと、もちろん解ってはいるのだが。
今だって、戦闘を終えた後に置いて行かれた。マークと共に、賞金を換金するために軍部へ向かったのだ。
死体と人相書きの照合などで時間は掛かるものだし、そうそう早く終わるものではない。だが、しかし。

「いくらなんでも遅すぎるだろ」

メアリーは吐き捨てるように言い、王都を睨み上げた。ギルディオスとマークは、日没前に軍部に行った。
だが、もうとっくに日は落ちて、夜になりつつある。東の空にはちらほらと星が散り、瞬いているのが見えた。
彼が解らない。マークは過去の記憶と、以前と変わっていなかったが、ギルディオスは変わったのかもしれない。
五年間の空白が、自分と彼の違いだ。メアリーは五年間を苦しみながら生きていたが、彼は死んでいた。
墓石の下で朽ちる骸と共に、甲冑と剣に守られながら魂を鎮めていた。その間のことは、彼も解らないと言う。
前に一度だけ、ギルディオスに聞いてみたことがある。死後の世界はあるのか、あったとしたらどんな場所か、と。
すると、ギルディオスは答えに詰まった。見たこともねぇし、見ていたとしても忘れてると思うぜ、と言った。
野暮な質問だったと思う。その世界に彼がいたとしても、それはメアリーの感じていた五年間とは違うはずだ。
それは、空白を埋めるものにはならない。たとえ彼が五年間を覚えていたとしても、自分とは違う時間だ。
メアリーは、感じないようにしていた切なさに触れてしまった。ギルディオスが、遠いことが苦しい。
誰よりも愛している夫が、ここにいないことが辛い。いて欲しいときにいてくれた彼は、いなくなったままだ。
甲冑の体でも、仮初めの生でも、ギルディオスが再びこの世に蘇ってくれたことは何よりも嬉しかった。
だが、必要以上に会えていない。理由がなければ、フィフィリアンヌの元へは行ってはいけないような気がする。
あちらでのギルディオスがどんな生活をしているのか掴み切れていないし、知らない彼を知るのが怖かった。
そして、それを知ってしまえば、自分はどんな思いをするのか。簡単に予想が付いて、更に情けなくなった。
今まで以上に、フィフィリアンヌに妬いてしまうだろう。ギルディオスは、娘と見ている相手だというのに。
メアリーは己の弱さに、泣けてしまいそうだった。どんな男よりも強くなる、と過去に誓ったはずなのに。

「くそぅ」

装甲に包まれた指で、メアリーは目元を押さえた。傭兵であった父親の死に目で誓ったことは、薄らいだのか。
争いの絶えない世界で、ただ一人で生きていくために。幼い頃から捨てていた女としての自分を、完全に消して。
誰にも頼らずに戦えるよう、誰にも負けないように強くなった。過去を振り返らずに、今の今まで走ってきた。
帝国に滅ぼされた故郷。若くして死んだ母。娘である自分を守って戦い抜き、果てた父。そして、彼の死。
弱くなってたまるものか。背負うものはいくらでもあるのだから、折れてしまってはならない。
たかが待ち合わせで、ほんの少し彼が遅れているぐらいで、どうしてここまで不安になってしまうのだろうか。
メアリーは目元に滲んだ涙を拭い、深く息を吐いた。彼が蘇ってからというもの、泣いてばかりだ。
ギルディオスの葬儀の前に、出すだけ出したはずなのに。去年の初冬に、墓場で彼と再会した後からだ。
嬉しくて、怖くて、そして愛しかった。また一緒に戦える、また彼に背中を守ってもらえる、と思っていた。
だが、未だにそれは叶っていない。いつになったら、再びギルディオスと傭兵として組むことが出来るのだろう。
メアリーは王都を見ていたが、寂しさが胸を満たしていた。彼がいなければ、彼がいてこそ、自分の居場所がある。

「あたしも弱くなったねぇ」

小さく、メアリーは漏らした。彼と出会う以前であれば、そんなことを思ったりはしなかったのに。
生まれて初めて、心から愛した男。可愛気の欠片もない傭兵の女を、まともに女として扱ってくれた男。
後にも先にも、ギルディオスのような男はそうそういないだろう。メアリーは、唇の端を持ち上げた。
城壁の巨大な門の下に、銀色の大柄な影を見つけた。荷車を引き摺った甲冑が、手を振っているのが見える。
メアリーは笑顔になり、ギルディオスに手を振った。声を上げながら、つい先程までの思いを払拭した。
彼の傍にいるときくらいは、嫉妬を忘れていたかった。




メアリーは、ギルディオスと隣り合って歩いていた。
ギルディオスは荷車を引いて、ごろごろと進んでいる。荷台の上には、大量の金貨の詰まった袋がある。
それが、時折小さく鳴っていた。あれは全て、ギルディオスがフィフィリアンヌへ返すための金だ。
百枚入りの袋が七つと、小さめの袋が五つ。合計で、金貨八百枚近くある。彼の借金を、全額返済出来る額だ。
ギルディオスとメアリーとマークで、散々戦った成果だ。主に盗賊や野党を倒し続け、賞金の高い頭を仕留めた。
結果、金貨一千二百枚以上を稼げた計算になるのだが、三分の一はマークに流れた。今回の功労者は彼だ。
賞金稼ぎとしての情報筋を生かし、高い賞金を掛けられた族の隠れ家を、次から次へと突き止めてくれたのだ。
ギルディオスとメアリーは、ほとんどマークの言うままに襲撃をしていたに過ぎない。だから、この配分は妥当だ。
メアリーの稼ぎは、あるようでない。立場としては、ギルディオスとマークに付いていっただけなので、当然だ。
それでも、マークから分け前はもらっている。金貨四十枚だ。フィフィリアンヌに払う解呪の代金だ、と言われた。
メアリーの解呪代は金貨二十五枚なのだが、その金を払う当てがなかったので、丁度良いと言えばかなり良い。
そんなわけで、メアリーはギルディオスと同じ道を歩いていた。二人揃って、フィフィリアンヌに支払うためだ。
薄暗くなった森の間を、荷車が進んでいた。メアリーの掲げるランプの明かりが、丸く正面を照らしている。
柔らかな光の中を、銀色の甲冑が歩く。赤い頭飾りが揺れて、背後の影も同じように動いていた。

「これで一段落、ってとこかねぇ」

ギルディオスの声は、いつになく浮かれていた。相当な額の借金を返済出来るのだから、嬉しくて当然だ。
メアリーはギルディオスを見、笑う。こちらを向いた銀色のヘルムに、褐色の肌の女が映る。

「だねぇ。ちったぁ身軽になれるねぇ」

「マークには、今まで以上に感謝しねぇとな」

「まさか五年の間に、あんなに腕を上げてるとは思ってもみなかったよ」

「ああ。前も充分凄かったが、今の方がもっと凄ぇな」

ギルディオスは、感心したように頷いた。だねぇ、とメアリーも同じように頷く。

「情報の拾い方もそうだけど、戦い方も随分と綺麗になったよ。あたしらと違って、血ぃぶちまけないしさ」

「たまに暗殺も請け負ってるから、技術が上がったんだとさ」

「で、そのマークはどうしたんだい? 途中で別れたのかい?」

「まぁな。オレらが散々賞金首叩っ殺してきたから、目ぇ付けられてさ。変な連中に裏道に引っ張り込まれてた」

「それで?」

「マークはそいつら倒したんだが、場所が狭かったせいで、盛大に返り血浴びちまったんだよ。で、別れてきた」

「ああ、そういうこと」

納得しながら、メアリーはギルディオスに返した。木の根や石の転がる足元を見つつ、注意して歩いていた。
メアリーが黙ると、ギルディオスも黙ってしまった。二人の足音と荷車の音だけが、やたらに良く聞こえる。
どちらも、どちらかが話し出すのを待っている様子だった。メアリーは夫を見上げたが、彼は正面を見ていた。
しばらく押し黙ったまま、歩いていた。薄く弱い月光が、緩やかな斜面の先にある森の出口に見えていた。
湖面が月明かりを反射しているのか、少しだけ明るかった。もうすぐ、彼の別の居場所に着いてしまう。
暗がりの中、メアリーは唇を歪めた。感じたくもない嫉妬が蘇り、胸の奥を嫌な痛みが走った。
ギルディオスは、不意に立ち止まった。がしゃり、と銀色の足が土を踏みしめ、斜面に荷車が止まった。
メアリーも立ち止まり、ギルディオスの背を見上げた。ギルディオスは荷車を引き摺って、落ちないように置いた。
がとっ、と車輪が木の根に挟まり、金貨の袋が鳴った。太い木に横付けされた荷車を見、満足げに頷く。
メアリーが訝しんでいると、ギルディオスは一息吐いた。メアリーの傍らに立つと、その背後の木に寄り掛かる。

「ちょいと休もうや」

「なんだい、ギルらしくもない」

メアリーが不思議そうにすると、ギルディオスはがりがりとヘルムを指先で掻く。

「いいじゃねぇかよ」

「まぁ、ねぇ」

腑には落ちなかったが、メアリーはとりあえず従った。ランプを足元に置いて、ギルディオスの隣に立つ。
一瞬の後、メアリーはギルディオスに抱き竦められた。鎧を乗せた肩を掴まれ、腰にも腕が巻かれる。
力は、入っていない。メアリーは顔を上げ、ギルディオスを見上げたが、彼は何も言わずに顔を寄せてきた。
銀色のヘルムがメアリーの髪を分け、ひやりとした金属が当たる。声の震動が、背中越しに伝わってきた。

「メアリー」

「なんだよ、いきなり」

茶化すようにメアリーが笑うと、ギルディオスは腕に少し力を込めてきた。

「すまねぇ」

「別に、あたしは」

メアリーはギルディオスの腕に手を回し、顔を埋めた。鉄と潤滑油の匂いが、間近から感じられる。
そう言って欲しくなかったと言えば、嘘になる。事実、心のどこかで嫉妬が緩んでいくような感覚があった。
ギルディオスは、メアリーの体を固く抱き締めた。妻の体温すら逃したくない、とでも思っているようだ。

「あんまり無理すんなよ」

「馬鹿。あたしは無理なんかしてないさ」

「どこがだよ。思いっ切り泣きそうな顔してたじゃねぇか」

ギルディオスはメアリーにだけ聞こえるよう、囁いている。

「あれのどこが、無理じゃねぇって言うんだよ。昔っからそうだよなぁ、お前は。どれだけ痛い目に遭っても平気な顔して戻ってきて、その割には一人で泣いてたり荒れてたりして、見てて痛々しいったらありゃしねぇんだよ」

「変な話するんじゃないよ。昔のことだろ」

「今も同じさ」

ギルディオスは愛おしげに、メアリーの頬へ指を当てた。少し、声が笑ったようになる。

「少しだって、お前は変わりゃしねぇ。オレは死んじまったけどな」

「あたしだって、ちったぁ強くなったつもりなんですがねぇ」

メアリーはひやりとしたガントレットの指に、そっと唇を当てる。ギルディオスは、その唇を軽くなぞった。

「ああ、そうだな。お前は本当に強くなったぜ」

「死ぬときは死ぬさ。その時は今度こそ、一緒に死のうじゃないか」

ギルディオスの手に縋り、メアリーは呟いた。ギルディオスはメアリーの首筋へと、手を滑らせる。

「馬鹿言うんじゃねぇ。どっちかが死んでも、またどっちかが戦い続けなきゃならねぇんだよ」

「でも」

「お前が死んでも、オレはお前がしてくれたように戦うつもりだ。その方が、嬉しいだろ?」

目の前で犬死にされるよりも、とギルディオスはメアリーの肩に顔を近付けた。メアリーは、顔を逸らす。

「あたしは、あんたの死体がもっとやられちまうのが嫌だっただけさ」

「んじゃ、オレもそうしようじゃないか。メアリーが死んじまったら、オレもその死体を守る」

「それじゃ、その時はよろしくね」

メアリーは、ギルディオスのヘルムに触れた。ギルディオスは首を曲げて、妻の頬に口元を寄せた。

「ああ」

遠くから、清らかな歌が聞こえる。城の手前の湖で、セイラが誰に向けるでもなく歌を紡いでいるのだ。
それは、以前にギルディオスが教えたものだった。ギルディオスが唯一まともに知っている、鎮魂歌の一節だ。


深き夢に、ゆるりと沈まん。猛る魂を涙で癒し、熱き滾りを大地に流し、戦いの士はここに休む。

戦女神の微笑みに、安らかなる眠りを得よ。忠誠を解き、剣を横たえ、母の如き戦女神の膝で、眠り続けたまえ。

空の果てへと、去り行く友よ。我らが戦い疲れる日が来たならば、どうか天上で待ち受けていてくれ。


セイラの歌声は、前よりも流暢だった。この歌は東方の言葉で歌われていたが、言葉の一つ一つが明瞭だ。
異形の魔物は、日々成長している。フィフィリアンヌの元で様々な者達と出会い、言葉を交わしているからだ。
ギルディオスはセイラの歌を聞きながら、メアリーを見下ろした。切れ長の鋭い目は、自分から外れている。
彼女のどこかしらが弱っているのは、明白だった。それも負傷の類ではなく、内側が参っているのだ。
全て、自分のせいだ。ギルディオスがなかなか帰ることが出来なかったから、寂しくなっているに違いない。
メアリーにこんな顔をさせてしまうのも、強い彼女を弱めてしまったのも、全ては己が不甲斐ないせいだ。
ギルディオスは、顔を伏せてしまったメアリーを覗き込んだ。ランプの穏やかな明かりに、頬が照らされている。

「今度からは、ちゃんと帰ってきてくれるんだろうね?」

「ああ。言われなくても、帰ってやるさ」

ギルディオスは、ちらりと荷車を見た。大量の金貨が詰まった袋が、荷台に縛り付けられている。

「あれさえ返したら、ちったぁ楽になる。魂が完全にくっつくまで、あと三ヶ月半ぐらいあるが、残りはそれぐらいだ」

「本当に、後はそれだけなんだね?」

「それだけだ。だから、余計な心配なんてするんじゃねぇぞ?」

宥めるように、ギルディオスは穏やかな調子で言った。メアリーは、少し震えた声を出す。

「してないよ」

「じゃあ、どうしてそこで泣くんだよ。ん?」

ギルディオスが首をかしげると、メアリーは顔を上げた。目元を拭い、ギルディオスに寄り掛かる。

「なんでもないよ」

妻の体重を受け、ギルディオスは自然と背後の木に体重を掛けていた。マント越しに、ざらついた感触がある。
セイラの歌は、続いていた。二人がいることを知ってか知らずか、気持ちよさそうな歌声が広がっている。
夜の空気に、妖しくも美しい異形の歌声は良く馴染んだ。ギルディオスはセイラの歌を聴きながら、呟いた。

「オレもよ」

弱まっていたのは、彼女だけではない。ギルディオスは、ここしばらく直視していなかった内面を見据えた。
強がっているのは、彼女と同じだ。楽観的に構えているのは、生来の性格もあるが、強がりを強さへとするためだ。
だが、こういうときならば。愛しい妻が、彼女が傍にいるならば、それを弱めても良いだろうと思った。
ギルディオスはメアリーの黒髪に、ヘルムを当てた。僅かな化粧の匂いが、汗と土の匂いに混じっている。


「寂しかったんだぜ?」


隣に、背中に、目の前に、いるべき人がいない日々。離れてみて、彼女は近くにあるべきなのだと痛感した。
彼女は半身だ。ギルディオスの足りない部分を埋めてくれる、足りなかったものを与えてくれた、愛しい人。
迷いのない戦いぶりが、強がっていた中に見えた脆さが、意外に嫉妬深いところが、とても愛おしかった。
フィフィリアンヌとの日々も、それはそれで満ち足りていたし、二人目の子供を得たような気分だった。
だがやはり、メアリーに対して感じていたものとは違う。守ってやりたい、支えてやりたい、だったのだ。
好きは好きだが、種類が違う。体の底から焼け付くような、あの心地良いまでに苦しい愛しさではなかった。
だからギルディオスにとって、フィフィリアンヌはもう一人の子供、娘なのだ。絶対に、女としては見られない。
五年の空白は、空恐ろしかった。メアリーの心が移ろっていないか、愛が薄らいでいないか心配だった。
墓場で思い掛けず再会して、その思いを確かめてもどこか恐れていた。生きる世界が違うのではないか、と。
だが彼女は以前と同じく、いや、以前よりも愛してくれていた。フィフィリアンヌに妬いているのが、何よりの証だ。
それが何よりも嬉しく、幸せだった。だからこそ、なかなか帰れなかったり触れ合えなかったのが辛かった。
このまま、朝までこうしていたい。出来ることならば、彼女を帰してしまいたくないし、帰りたくもない。
自然と、言葉が口を吐いて出た。何度なく伝えてきた自分の愛を、もっと彼女に与えてやりたかった。

「愛してるぜ、メアリー」

「ギル…」

メアリーとしては、思い掛けない告白だった。まさか、ギルディオスが同じような思いでいたとは。
予想もしていなかった。たまに顔を合わせようとも、相変わらず飄々としていたから解らなかっただけのようだ。
以前に自分で言っていたように、やはり死していてもギルディオスはギルディオスだ。空白など、なかったのだ。
馬鹿みたいだ、と思った。杞憂もいいところだ。不安が寂しさを増長して、そんな思考になってしまったのだろう。
寂しいのは、自分だけはなかったのか。そう思った途端、メアリーは気が緩み、押し込めていた涙が溢れてきた。
頬を滑り落ちた涙が、顔の下のギルディオスの腕で弾けた。ランプの明かりで光っている銀色に、輝きが散る。

「ん」

泣き笑いの顔で頷いたメアリーに、ギルディオスは妻の肩から手を放してやった。彼女は、体の方向を曲げる。
ギルディオスと斜めに向き合うと、ガントレットを両手から外した。がしゃり、と足元に装甲が崩れ落ちる。
メアリーの手が、ギルディオスの顔を挟む。引き寄せられて背を曲げたギルディオスに、こん、と額を当てた。


「あたしも」

涙で、メアリーの声は少し詰まっていた。

「寂しかったんだからね」


弱々しいメアリーの表情に、ギルディオスは嬉しくなっていた。強がっている姿よりも、この方が好きだ。
ギルディオスはメアリーに口付けてから、前髪を押し上げているバンダナに触れた。手を下げ、顎を持ち上げる。

「ああ。解ってる」

「だから、これ以上放っておかないでくれよ。あんまり一人にされると、あたしの方が死んじゃいそうだよ」

「そいつぁ困るな」

「だったら、もっと帰ってきておくれよ。あんたの家なんだからさ」

「お前も、こっちに来いや。どうせあいつらはいつも暇なんだし、誰が来たって喜ぶだけだからよ」

「そうなのかい?」

「そうさ。フィルはともかく、伯爵とデイブはやることないから延々喋ってるみてぇなもんなんだから」

「そっか」

メアリーは、どこか嬉しそうな顔をした。この城へ来るためには、理由などいらなかったようだ。
おうよ、とギルディオスは頷いた。彼女の顎から手を放し、まだ少し濡れている目元を拭ってやった。

「だがオレは、帰るだけでいいのか?」

ギルディオスはメアリーの耳元に顔を寄せ、声を落とす。メアリーは、彼の首に腕を回した。

「本当に、あんたに体がありゃあねぇ」

「その辺が寂しいのも同じみてぇだな。五年も御無沙汰しちまってるしなぁ」

ギルディオスの指先が、メアリーの太股の内側をつっと撫でた。途端にメアリーは、びくりと身を跳ねた。

「うひゃあっ」

「相変わらずここが弱ぇか。やれるもんならやってやりたいぜ、本当に」

心底残念そうに、ギルディオスはメアリーの首筋にヘルムを埋めた。妻の温もりを味わうように、押し付ける。
メアリーは抵抗も出来ず、頬と体の熱さを感じながら木に寄り掛かっていた。いつのまにか、立ち位置が逆だ。
ギルディオスは、んー、と唸っていたが顔を上げた。メアリーの目の前に、ヘルムを突き出した。

「やれるだけでも慰めてやろうか?」

「ばっ、馬鹿言うんじゃないよ!」

「冗談だ。本気にすんなよ」

セイラがいるんだぞ、とギルディオスは逆手に森の出口を指した。メアリーはそちらを見、深く息を吐いた。
ここでは嫌なのは確かだが、本気にしたのは本当だった。メアリーは、無性に恥ずかしくなった。
ギルディオスは気恥ずかしげな表情のメアリーの額を、軽く小突いた。普段のような、明るい口調に戻っている。

「しっかし、そこまで寂しかったとはなぁ」

「どういう意味だい!」

「決まってるだろ、どっちの意味でもあるさ」

ギルディオスはメアリーの髪をぐしゃりと撫でて、笑った。斜面を見上げ、残念そうにする。

「夜も更けてきたな。いい加減に戻らねぇと、オレの魔力が尽きてへばっちまう。さっさと行こうぜ」

「…うん」

言い返す間を失い、メアリーは頷いた。ギルディオスはがしゃがしゃと足音を立て、荷車に駆け寄った。
金貨の袋の間を探っていたが、小さなものを取り出した。それを、ぴん、と指で弾いてメアリーに投げてきた。

「ほらよ」

反射的にメアリーは手を伸ばし、冷たく小さな金属片を掴んだ。見るとそれは、金の耳飾りだった。
金の小さな円形の板に、赤い宝石が埋め込まれている。メアリーが面食らっていると、ギルディオスは腕を組む。

「マークと一緒にそいつを選んでたら、思ってたより時間喰っちまってよ。すっかり遅くなっちまったんだ」

「けど、あんたの金って全部フィルにやるんじゃないのかい? 使っちまっていいのかい?」

「そいつの金は、今回稼いだ奴じゃねぇんだよ。竜王都で、ドラゴン・スレイヤーを殺っちまったときにさ」

報酬としてフィルがくれた金なんだよ、とギルディオスは竜の少女が棲まう城を顎で示す。

「せっかくだから有意義に使おうって思って、色々と考えた結果が、お前にそいつを買ってやることだったんだ。金貨二枚もしたんだぜ、ちったぁ大事にしてくれよ」

「言われなくたって」

「ああ、それとな」

ギルディオスはがしゃりと荷車を持ち上げ、道に引っ張り出してきた。

「もう、あんまりフィルに妬くんじゃねぇぞ。嬉しいけど、ちょっと困っちまうから」

「あたしだって妬きたくはないけどさ、勝手にそうなっちまうんだよ。まぁ、一応頑張ってみるけどさ」

メアリーがむくれると、ギルディオスはごろごろと荷車を引いた。少し前に出てから、振り向く。

「オレも我慢しとくから」

「へ?」

「オレだってなぁ、たまーにランスが羨ましいなーとか思っちまうこともあるんだよ!」

たまにだぞたまに、と強調してからギルディオスは歩き出した。照れくさいのか、乱暴な足取りで昇っていく。
メアリーは耳飾りを持ったままきょとんとしていたが、吹き出した。この辺りまで、彼と同じだったとは。
笑いを堪えながら、メアリーはガントレットを付けてランプを拾い、彼を追った。赤いマントの背は、遠ざかる。
小走りに駆けてギルディオスに追い付き、メアリーは隣に並んだ。覗き込むようにすると、顔を逸らしてしまう。
メアリーが何か言おうとしたがギルディオスは、うるせぇやい、と怒ったような声で遮ってしまった。
森を抜けると、城の前に出た。月を映した湖には、不思議そうに二人を眺めている単眼の異形、セイラがいた。
早足に城へ向かうギルディオスは、いつになく気恥ずかしげだった。彼でも、照れることはあるようだ。
メアリーはセイラに、なんでもないんだよ、と言ってからギルディオスを追った。セイラは、ぐいっと首をかしげる。
大量の金貨を担いで城に入るヴァトラス夫妻を見ていたが、セイラは再び歌い始めた。近頃のお気に入りだ。
深き夢に、ゆるりと沈まん。猛る魂を涙で癒し、熱き滾りを大地に流し、戦いの士はここに休む。
無心に夜空へ歌を放ちながら、セイラはなんだか嬉しかった。メアリーが、やたらと嬉しそうだったからだ。
そして、ギルディオスも嬉しそうだった。牙の並んだいかつい口元を綻ばせ、セイラは笑っていた。
死した戦士達の魂を鎮める歌は、二人の心も静めていた。




生と死が二人を分かつとも、愛が失われることはない。
戦いは絆を深め、日常は愛を生み出し、僅かな別離は思いを強める。
誰よりも、何よりも。心の底から信頼した人だからこそ、二人は互いに背中を任せた。

死した重剣士とその妻は、昔も今も幸せなのである。





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