ドラゴンは笑わない




本の海の中で



フィフィリアンヌは、苛立っていた。


何度目かの咳払いをすると、その気流で埃が散る。視界が曇ったので、手にした本で目の前を払った。
埃だらけの中を動き回ったせいで、闇色のローブはすっかり白んでいた。立ち上がり、ばさばさとスカートを振る。
辺りを見回すと、周囲は本棚から出して積み重ねた本で壁が出来ていた。大股に跨ぎ、その中から脱出する。
他にも至るところへ散らかし、放り投げた本を飛び越え、いつもの数倍の手間を掛けて上下式の窓へ近付いた。
思い切り窓を上へ押し上げたフィフィリアンヌは、肌寒くなってきた風を家の中へ入れ、少し息を吐いた。
薄暗い木々の隙間を擦り抜けてきた空気は、初冬の近付く気配がした。それを吸ってから、彼女は咳き込む。
散々埃を吸っていたせいで、喉がざらついている。窓枠へ避難させていたワインボトルを開け、ぐっと流し込む。
ボトルに満ちていた赤ワインが、一気に半分に減った。埃を流すように飲み下してから、ボトルを口元から外す。

「ぶはっ」

ごとん、とワインボトルを窓枠へ置き、フィフィリアンヌは肩を上下させた。苛立ちは、納まらなかった。
普段であれば、これだけ探せば出てくるはずだった。それなのに、今回はさっぱり目当てのものが見つからない。
ここ数年、ろくに整理と掃除をしていなかったせいもあり、埃が舞い上がって室内は煙っていた。
フィフィリアンヌは白っぽくなった髪を払いながら、ため息を吐く。ツノに張り付いた蜘蛛の巣を、指で絡め取る。

「あの馬鹿め。こういうときに役立たずに、いつ役立つというのだ」

どういうわけか、朝からギルディオスの姿が見えなかった。フィフィリアンヌが起きるのが、遅いせいもあるが。
家の周囲にはいなかったので、遠出しているらしかった。だが、ギルディオスがどこへ行ったのか解らない。
書き置きぐらいはあるはずだ、とフィフィリアンヌは机やテーブルの周辺を探したが、走り書きすらなかった。
仕方なしに、フィフィリアンヌは一人で本の山をひっくり返していた。必要な薬の材料が、見当たらないからだ。
早いところその材料を見つけ、八割方は完成している薬を作ってしまわなければ、納期に間に合わない。
それが、この国の王家の発注となれば、さすがに延滞出来ない。料金も先払いされているのだから、尚更だ。
そういうわけで、フィフィリアンヌは久々に苛立っていた。焦ることのない日々を続けていると、忘れそうな感情だ。
少しだけ静けさを取り戻した部屋の中に、いつもと変わらぬ気取った声がした。低く張りのある声が響く。

「実に間の悪い男であるな、ギルディオスは。だがフィフィリアンヌよ、我が輩の助けを求めてはならんぞ」

「解っている。体組織の大部分を水分と粘物質で形成されている単純生物に、手伝ってもらう気など毛頭ない」

ワインボトルへコルク栓を押し込みながら、フィフィリアンヌは作業台の上へ目をやった。そこに、伯爵がいる。
蓋の閉められたフラスコに、ワインレッドのスライムが入っていた。埃を浴びないため、彼は早々に中へ避難した。
だがそのフラスコも、大量の本と薬液のビンに囲まれている。うずたかく積まれた本の表紙は、どれも白っぽい。
フィフィリアンヌは窓枠へ背をもたせかけながら、外を見上げる。高く伸びた針葉樹の、真上に太陽があった。

「もう昼か。いくらなんでも遅すぎやせんか、あの馬鹿は」

「城下から鐘の音も聞こえているのである」

「確かに」

フィフィリアンヌはそう返し、耳を澄ませた。間延びした重たい金属音が、風に乗って流れてきていた。
規則正しいそれを聞きながら、フィフィリアンヌは次はどこを探すか考えていた。二階はもう、探し終えている。
といっても、二階は寝室と倉庫と化した部屋の二部屋だけだ。それでも、一階よりは整理されていて簡単だった。
あとはどこに手を付けていないか。そして、どこをどう手を付ければ効率良く探すことが出来るか。
フィフィリアンヌは本に占領された床を見下ろし、思考した。埃にまみれてしまった手を払い、腕を組む。
今まで手を付けていたのは、薬瓶の棚のある部屋の右側だった。机と薬瓶の棚の周囲は、徹底的に探した。
目当ての材料は、滅多に使うものではない。だからこそ、薬関係の場所から動いていないと思っていたのだ。
だが、それは外れていたらしく、結局見つからなかった。王立図書館に返し忘れていた、重要書籍は見つけたが。
伯爵のフラスコの下に置いた魔法書を取り、フィフィリアンヌは表紙を開く。一ページ目に、王家の紋章があった。
この国には、ギルディオスの先祖である魔導師ヴァトラを始めとした偉大な魔導師が多く、よって書籍も豊富だ。
だからこそ、フィフィリアンヌはこの王国に居着いているようなものだった。研究材料は多い方がいい。
数ページほどぱらぱらとめくっていたが、その手を止め、フィフィリアンヌは古びたインクの文字を指先でなぞる。
そういえば、この本を借りてきた理由は、ギルディオスの魂へ施した思念残留を強める魔法を調べるためだった。
だが、本の内容は目当てのものとは違っていて、単なる死霊術だったことを、読みながら思い出してきた。
フィフィリアンヌはいくつか印されている、死霊術の高等呪文を眺めていた。ページの間に手を置き、顔を上げる。

「思い出したぞ。確かこの本、二年前に王立図書館から借りてきて、そのまま忘れていたのだな」

「ああ、我が輩も思い出したのであるぞ」

実践・召喚魔法術という題名の本の表紙に乗ったフラスコが、ごとりと動く。

「それを借りてきた貴君は、読み終えると同時にその辺りに放り投げたのである。そして、返すのを忘れたのだ」

「…近いうちに、返しに行かねばならんか」

嫌そうに、フィフィリアンヌは口元を歪める。王立図書館は、当然ながら王都にそびえる王宮内にある。
彼女は、王宮に行くのが好きでなかった。行くたびに、王家の眷属やら政治家、貴族達に呼び止められるのだ。
そして必ず、魔法薬を作るように金貨で頼まれてしまう。注文は、毒薬やら睡眠薬やら催淫薬など様々だ。
どれもろくなものではないし、フィフィリアンヌの専門とは違う。本来彼女は、魔術に用いる薬を研究しているのだ。
だが、その嫌な注文をあまり無下には出来ない。金がないと、研究を続けることが出来なくなってしまうからだ。
今回の注文は、それらとは違って至って普通なもので、王族掛かり付けの医者の注文だ。冬が近いからだろう。
闇の眷属に対する死霊術の手順と心構え、と書かれた項目を読みながら、フィフィリアンヌは素っ気なく呟いた。

「だが、呼吸器系疾患の炎症止めと解熱剤など、そこらの町医者でも作れるだろうに。なぜ私に頼むのだ」

「連中は、貴君を学者ではなく、薬剤師か何かと間違えているに違いないのであるぞ」

「奴らが都合の良い金づるでなかったら、一服盛ってやりたいところだ。あまりいい気はせん」

ぱたんと分厚い本を閉じ、青紫の表紙から埃を払った。フィフィリアンヌは、その本を窓枠へぞんざいに置いた。
足音が、近付いてきた。ざあざあと針葉樹の枝が擦れ合う音に混じり、がしゃがしゃと鎧の動く音が響いてくる。
それに続いて、かぱかぱと単調なひづめの音とと、あまり体重のなさそうな人間の足音が近付いてきている。
フィフィリアンヌはそれらの足音を聞いていたが、更に窓を押し上げた。足を浮かばせ、上半身を外へ出してみた。
川のある南西の方向からやってきた大柄な甲冑、ギルディオスが片手を挙げ、がしゃりと立ち止まった。

「ただいまー」

「貴様、どこへ行っていたのだ」

「いやな、この間話しただろ。カイン・ストレイン。お前に惚れてるらしい男だよ」

「ああ、そんなこともあったな。だが今はそれよりも早く中へ入れ、そして私を手伝わぬと承知せんぞ」

「何を怒ってるんだよ。でな、カインをここに連れてくるって約束してて、案内してきたんだよ」

ほら、とギルディオスは背後を指した。毛並みの良い白馬を連れた青年が、緊張した面持ちで立っている。
部屋へ戻り掛けたフィフィリアンヌは、少々面倒そうにしながら顔を出した。カインは、顔を伏せてしまう。
訝しげな顔でじっと睨み付けるような目をしているフィフィリアンヌと、カインは目を合わせようとしなかった。
それどころか、一層身を縮めてしまい、困っているようだった。ギルディオスは首を捻り、カインを覗き込む。

「まぁ、オレもその気持ちは解らないでもないぜ。フィルの目付きは、ワーウルフより悪いからな」

「貴様、それが女に向けて言う言葉か」

すかさず言い返したフィフィリアンヌを見上げ、ギルディオスはちょっと肩を竦めた。

「オレはお前には、爪の先程も女っ気は感じないからな。で、一体何してるんだよ。埃だらけじゃねぇか」

「いいから中へ入れ、ギルディオス。話すよりもその方が早い」

フィフィリアンヌは窓から身を引こうとして、俯いたままのカインを見下ろした。

「カインとやら、貴様も入って私を手伝え。手足がある分、伯爵よりも役に立ちそうだからな」

「フィルはドラゴンだが、別にお前を取って食いやしねぇから、安心してくれ」

そう笑いながら、ギルディオスは軽い足取りで階段を昇っていった。ようやくカインは顔を上げて、小さく頷いた。
近くの木に馬の手綱を結わえてから、急いでギルディオスの後を追う。甲冑は、扉を開けて待っていた。
ギルディオスは緊張したように表情を固めているカインがやってくると、半開きにした扉を全開にしてやった。
二人が入ると、不機嫌そうなフィフィリアンヌが腕を組んで立っていた。部屋中に山と積まれた本を、逆手に指す。

「先に言っておくが、掃除ではない。捜し物だ」

「何をだよ?」

足の踏み場のない床をなんとか進みながら、ギルディオスが尋ねる。その後ろから、カインが顔を出す。
フィフィリアンヌは二人から目を外し、部屋を見回す。一括りにされた緑髪が、さらりと背に落ちる。

「半漁人のウロコだ」

「半漁人のウロコぉ?」

妙な高い声を出したギルディオスは、首をかしげた。あまりにかしげたため、がしゃん、と兜が外れて落ちた。
それを拾い上げてから、首の部分にがしゃりと填め込んだ。ヘルムの隙間に詰まった埃を、指先で刮げ取った。

「なんでまたそんなものを」

「人間相手の解熱剤には、これが一番効くのだ」

親指と人差し指で、フィフィリアンヌは大きめの丸を作る。それを掲げ、二人に向けた。

「丁度これくらいの大きさで、色はどす黒いが青味がかっている。保存用のビンに入っているはずだ」

「了解、了解。そのウロコ、探すだけ探してみるさ。ついでに本の整理もしようじゃないか」

本の塔を崩さないように、ギルディオスは歩み出した。いつになく慎重に、つま先を僅かに見える床板へ下ろす。
ギルディオスは数歩進んでから、玄関に振り返る。開け放った扉の前で、突っ立ったままのカインを手招く。

「ほれお前も」

「ええ、でも、あの僕っ」

そこまで言葉を発したかと思うと、カインは激しい勢いで咳き込み始めた。マントを口元へ当て、背を丸める。
がはげはっ、と咳き込むたびに長いマントが床に擦れ、彼の周囲に埃が立つ。それを吸い、彼は更にむせる。
しばらくして落ち着いたらしく、カインは浅い呼吸を繰り返した。群青色のマントの下から、涙目を覗かせた。

「…気管支が弱いんで、あんまり、役には」

「脆弱だな」

フィフィリアンヌは不思議そうに、苦しげなカインを見上げた。

「少し埃っぽいだけだろう」

「そういうフィルは、どうして平気なんだよ? これじゃオレだってむせるぜ、生身があればの話だが」

中腰になったギルディオスは、本を揃えながらフィフィリアンヌへ顔を向ける。カインは、また数回咳き込んだ。
ごとり、と前へずれたフラスコに、笑い声が反響する。伯爵は、球体のガラスの中でにゅるりと動いた。

「はっはっはっは。この環境で二十年近くも生きてきたフィフィリアンヌは、もう感覚が鈍っているのである」

「あの」

がほ、と強く息を吐き出し、息苦しそうなカインは涙の滲んだ目を作業台へ向けた。ああ、と甲冑は頷く。
数冊の本を載せた手をフラスコへ向け、ギルディオスは説明する。それに答えるように、スライムは蠢いた。

「ありゃ伯爵だ。変な野郎だが、そんなに悪い奴じゃないぜ」

「はぁ」

曖昧な表情で声を洩らしたカインは、もう一度強く咳払いをした。群青色のマントが、ぶわりと揺れる。
フィフィリアンヌは調薬に関する本をテーブルへ載せてから、カインへ目をやる。これでは、作業がはかどらない。
雑然とした室内を見回し、何か布でもないかと探してみる。せめて、マスクぐらいはさせてやろうと思った。
カインはげほげほと数回咳をしてから、首を動かすフィフィリアンヌを見つめた。濃緑の髪の下に、赤い瞳が覗く。
その上に生えたツノで、彼の目は止まった。そして、くりぬかれた黒いローブの背から出ている小さな翼へ向かう。
息苦しさと緊張と興奮で、頬が紅潮するのが解る。カインは今更ながら、彼女の近くにいることを思い知った。
間違いない、本物だ。徐々に高まる鼓動を感じながら、じっとフィフィリアンヌの横顔を眺めていた。
ふと、フィフィリアンヌがカインへ振り向いた。思わぬことで、カインは表情を作れず、曖昧な笑顔を浮かべる。

「僕、どうすれば」

「このままでは、どうしようもない。ギルディオス」

フィフィリアンヌの声に、ギルディオスは振り返る。赤い頭飾りに、すっかり埃が付いている。

「んだよ」

「貴様のマントでも貸してやれ。むやみやたらに大きさはあるが、マスク代わりにはなるだろう」

「ま、オレが連れてきた男だしな」

ぱちん、と肩のマント留めを外し、ギルディオスは短めの赤いマントを外した。それを丸め、投げる。
投げられる最中に広がったマントが、カインの顔へ思い切り被った。視界を奪われ、カインは数歩よろけた。

「うがっ」

後頭部を玄関脇の柱にぶつけ、唸りながら顔から赤いマントを外した。カインは、痛みのある部分をさする。
再び部屋の中を見ると、二人はもう、半漁人のウロコを探す作業に戻っていた。カインは、赤いマントを広げる。
通常の半分とはいえ、ギルディオスの体格に合わせたものなので大きい。だが仕方なしに、それを口元へ巻いた。
大きさのせいで、まるで赤い襟巻きをしたような格好になる。おまけに、ずしりとした重さが首に掛かってくる。
埃っぽさは軽減されたが、これでは余計に身動きが取れない。カインは少しげんなりして、肩を落とした。
フィフィリアンヌは薬草の辞典を振り上げ、カインへ向ける。そしてそれを、作業台の方へ突き出した。

「カイン」

「あっ、はい!」

「貴様は伯爵の方をやれ。私は机の周辺、ギルディオスには暖炉周辺と本棚の方を任せる」

「オレの範囲が一番広いじゃねぇかよ」

ギルディオスは不服そうに言ったが、フィフィリアンヌに従って暖炉の方へ慎重に歩いていった。

「作業効率を計算したまでだ。では任せたぞ」

フィフィリアンヌは背を向け、そう命令してから大きな机へ向かっていった。カインは、とりあえず頷く。
机を取り囲むように積み重ねられた様々な魔法書を押し退けているフィフィリアンヌを、彼は呆然と見つめていた。
顔の赤らみを隠すため、ギルディオスのマントを引っ張り上げる。だがそれを上げすぎて、目元まで覆ってしまう。
まだ色の新しい赤い布に顔を埋めながら、カインは緊張と戦っていた。彼女と言葉を交わせたことが、嬉しすぎた。
そのせいで、伯爵とフィフィリアンヌに急かされるまで、カインは作業を始めることが出来なかった。


作業台に積まれている調薬関連の本を整理しながら、カインはしきりにフィフィリアンヌの様子を伺った。
大きな机の上に乗り、机の後ろに据え付けられた本棚へ背を伸ばしている。細い腕に、五冊も本を抱えている。
上の段に置きたいと思ったようで、フィフィリアンヌはかかとを上げてつま先立ちになり、腕を目一杯伸ばした。
だが、彼女の身長が足りないために届かなかった。カインは手助けしてやろうと思い、机へ行こうとした。
するとフィフィリアンヌは、思い切り足を広げた。どがん、とまだ本を置いていない空の棚へ片足を突っ込む。
大股開きになり、本を持たない片手で上の段を掴む。体を起こし、どごん、と勢い良く棚の中へ本を投げ込んだ。
少々前傾姿勢になっていたフィフィリアンヌは、本棚の中へ突っ込んだ足を抜いて、また机の上に降り立った。
カインは伸ばし掛けた手を下ろし、資料書と一緒に魔導鉱石の辞典を抱えた。手助けは、必要なかったらしい。
その後もしばらく観察したが、フィフィリアンヌは小柄な体格をものともせずに、棚の高い段へ本を戻していった。
よじ上るたびに大股開きになるため、両脇にスリットの入ったスカートが広がっていく。その度に、足が露わになる。
病的な白さと少女的な細さを持った足から、カインは慌てて目を逸らした。あまり、見てはいけない気がした。
だが、ギルディオスは慣れているのか、彼女がそうして細い足を出しているときにも、振り返って話し掛けている。
本棚の最上段へ肘を乗せて、しがみついた格好のフィフィリアンヌは、ギルディオスを見下ろしている。
膝を下の段へ深く入れているせいで、あまり肉のない太股が出ていた。スリットの奧に、白い下履きが見えている。
どうしていいか解らず、カインは本を持ったまま固まっていた。こんなものを見るとは、思ってもいなかった。
魔導鉱石の辞典を抱き締めていると、カインに声が掛かる。それは、作業台に置かれたフラスコからだった。

「ふむ。貴君は実に珍しい人間であるな、カインよ」

「…何が?」

おずおずと振り返ったカインへ、伯爵は上機嫌そうな声を上げた。

「はっはっははっはっは。その様子では、貴君はあの愛想も色気もないフィフィリアンヌへ、欲じょ」

「うわーうわーうわー!」

思わず、カインは力一杯伯爵を押さえた。がとん、とスライム入りのフラスコが作業台に叩き付けられた。
その声と音に、本棚へ膝を掛けたままのフィフィリアンヌと、整理しながら並べていたギルディオスが振り向いた。
カインは息を荒げながら、伯爵の入ったフラスコを元に戻した。叩き付けた側には、うっすらとヒビがあった。
それを見ないようにしながら、カインは伯爵に背を向けた。気恥ずかしげなカインの背に、伯爵は笑った。

「若いとは素晴らしいことであるぞ、青年。あのような起伏のない体形にも、欲」

「だからなんでそれにばっかりこだわって」

居たたまれなくなったカインは、口元を覆うマントを外して叫んだ。だがすぐに、埃を吸って咳き込んだ。
伯爵は愉快そうにカインを眺めながら、フラスコに走ったヒビから、にゅるりとゲル状の体をはみ出させる。

「貴君の反応が面白いからに決まっているではないか、カイン。それで、フィフィリアンヌのどこに一番、よ」

「お願いだからもう黙ってくれ!」

後半は懇願するような声を上げ、カインはフラスコを掴む。逆さにすると、だぽん、と伯爵が滑り落ちた。
肩を上下させたカインは、ぐったりしながら伯爵を作業台に置いた。このままでは、気疲れしてしまう。
マントを引っ張り上げて口元を隠してから、落ち着けるために深呼吸をする。剣士のものらしく、少し泥臭い。
フラスコを本で取り囲んで見えなくしてから、カインはギルディオスとフィフィリアンヌの様子を伺った。
ギルディオスは、魔法陣の法則と書かれた本を棚へ入れてから、作業台の方へ向いた。可笑しげな声を出す。

「伯爵の野郎、よっぽど暇なんだな」

「そうだな」

あまり話の内容を気にしていないのか、フィフィリアンヌは素っ気なく返した。本棚から膝を抜き、床に着地した。
スカートをばさばさと振って埃を払ってから、隣の本棚へ向き直った。横顔だけ、背後にいるカインへ向ける。

「あまり伯爵を構うな、構われるだけだ。それよりも早く、半漁人のウロコを見つけねばならん」

「だとよ」

と、ギルディオスは両手を上向けてみせた。足元へ積み重ねていた数冊を取り、本棚へ順序良く並べていく。
カインは淡々とした二人のやり取りに、二人がそれほど親密ではないと思った。だが、普通の関係には見えない。
二週間ほど前に川辺でギルディオスから聞いた話だと、魂を蘇らせた者と魂を蘇らせられた者、の関係らしい。
だが、それだけではないはずだ。カインは色々と想像を巡らせてみたがが、思考はまとまらなかった。
それどころか、妙な方向へ邪推してしまい、余計に混乱してしまった。カインはまた、平静を失ってしまう。
先程見てしまった、フィフィリアンヌの足と下履きが目に焼き付いていることもあり、鼓動は納まりそうもない。
ギルディオスのマントで顔を隠すようにしながら、何度かまた深呼吸を繰り返した。そして、むせた。
大分すっきりとした作業台に手を付いて、げほげほと咳を繰り返すカインを見ていたが、ギルディオスは窓を見る。
日が落ちたのか、東の空から薄暗くなってきている。だが未だに、半漁人のウロコは一枚も見つかっていない。
これではカインは帰ることが出来ないな、と思いながら、ギルディオスは壁に掛けてあったランプを取った。


暖炉の炎とランプの明かりだけが、作業の頼りだった。だがその光すらも、自分の影に遮られてしまう。
そんな、捜し物には絶対向かないであろう状況の中、ギルディオスは一人黙々と半漁人のウロコを探していた。
暖炉の前を窺うと、カインの背があった。群青色のマントは、至るところに埃が付いてまだらになっている。
彼と向かい合って座るフィフィリアンヌの後ろで、薪が爆ぜた。二人は、ぐだぐだのスープを黙々と食べていた。
一切言葉の交わされない殺伐とした食卓を見ていたが、ギルディオスは作業台の上へ目線を向ける。
新たなフラスコの中に満ちている伯爵は、こぽん、と小さな気泡を吐き出している。これは、眠っている状態だ。
話し相手がいないことが無性に寂しく思え、ギルディオスは息を吐いて肩を落とした。がしゃり、と鎧が擦れる。
すると、スプーンが皿に当たる硬い音が止まった。振り返ると、フィフィリアンヌが食事の手を止めている。
カインはそれにつられたのか、半分ほど中身の残っている皿から顔を上げた。だが、すぐさま目を逸らしてしまう。
半分ほどワインの注がれているグラスを手に取り、フィフィリアンヌは中身を軽く揺らした。

「カイン」

「え、あ」

いきなり尋ねられたので、カインは言葉に詰まってしまった。赤い瞳に、炎の明かりが映っている。
ワインを飲み干してから、フィフィリアンヌはテーブルへグラスを置いた。目線が上がり、カインを捉える。

「貴様、なぜ私が好きなのだ?」


「…え?」

目を見開いているカインへ、フィフィリアンヌの問いは続く。

「教えろ。理由を知らねば、どうにも落ち着かん」


あまりにも単刀直入な聞き方に、ギルディオスは面食らっていた。これでは、答えられるものも答えられない。
そう思い、ギルディオスはそっとカインの様子を伺った。案の定、緩んだ手からスプーンを取り落とした。
いやに大きく、がしゃん、と響いた。からり、と皿の縁にスプーンが擦れ、半分ほどスープに没してしまった。
カインは奇妙な色合いのスープに浸かったスプーンから、渋々目を上げる。炎を背に、彼女が頬杖を付いている。
魔導鉱石のような深みのある赤を見つめ、カインはぎゅっと拳を握った。高まった鼓動が、緊張を高める。
必死に頭の中を整理し、カインは意を決した。力を込めたため、手のひらに深く爪が食い込んだ。

「あなたが、ドラゴンだからです!」

「それだけか」

「いや、そういうわけではないけど…」

「ならば説明しろ。簡潔に順序立ててな」

空のグラスをカインに向けながら、フィフィリアンヌは僅かに目を細める。これは、からかっているのだ。
少女のような見た目に釣り合わない、妙齢の女性のような仕草に戸惑いながら、カインはしどろもどろに言う。

「あなたには、気高い美しさがある。そして、類い希なる頭脳の持ち主だ」

「それで?」

「えっ…と、ああ、そうだ。僕は竜族が好きで、今まで何度も死にそうな目に遭いながら、様々な竜族を見てきた」

「ほう。物好きだな」

「そして、兄様達に付き合って様々な淑女達も見てきた。だが、フィフィリアンヌさん以上に美しい方はいない!」

「両方含めて、か?」

「そうです!」

渾身の力で叫んだカインは、中腰に立ち上がって高々と拳を振り上げた。が、すぐにそれを下ろす。
どぼどぼとグラスにワインを注いだフィフィリアンヌは、グラスを取った。飲みながら、ちらりとカインを窺う。

「そのような言葉、初めて言われたぞ。だが私と貴様は、今日この日まで一切の面識がなかったはずだが?」

「僕の家に、薬を納めにいらしてましたよね。その時に」

「ギルディオスの予想が当たったな」

ワインを揺らし、フィフィリアンヌは少しだけ感心したように呟いた。カインは、自分のグラスを取る。
一気にその中身を空けてから、深く息を吐く。言うだけ言ってしまったので、緊張が少しだけほぐれてくれた。
フィフィリアンヌはカインを眺めていたが、物珍しげな目になる。薄い唇の隙間から、鋭い牙が見えている。

「しかし面白いな、貴様は」

「そうですか?」

「ああ、面白いとも」

まじまじと見つめられたことで、カインは再び緊張に陥った。笑おうと思ったが、曖昧にしかならなかった。
引きつった笑い声を上げるカインと、研究資料を見る目付きのフィフィリアンヌを、ギルディオスは交互に見る。
絶対に恋愛には発展しなさそうな二人だ、と、彼は内心で笑った。フィフィリアンヌが、恋に落ちるとは思えない。
だが、傍から見ている分には面白そうだった。ギルディオスは、楽しみが増えたことが妙に嬉しく思えた。
手元の本を手に取り、ぱらぱらとめくってみる。毎度のことながら、彼には少ししかその内容が理解出来ない。
精霊との交流方法が書かれたページが、数枚、不意に浮かび上がる。何かが、間に挟まっているようだった。
ギルディオスは太い金属の指を、大きく開いた隙間へ差し込む。浮かんだ部分を、ぱたりと広げてみた。
火の精霊との対話呪文、と書かれた下に、青黒く丸みのある平べったいものが、深く挟まれていた。
それを手に取ったギルディオスは、訝しく思いながら首をかしげた。これが何なのか、思い当たりそうだった。
しばらく考えたあと、やっと思い出せた。顔を上げたギルディオスは、それをフィフィリアンヌへ向ける。

「フィル。こいつか、ウロコってのは?」

「どこにあった、ギルディオス」

立ち上がったフィフィリアンヌは、身を乗り出す。ギルディオスは、手元の中級精霊魔法の本を指す。

「この間に挟まってたぜ。一枚だったけどな」

「なんだぁ。せっかく見つかったと思ったのに」

一枚、と聞いた途端にカインは落胆してしまい、肩を落とした。フィフィリアンヌは、顎を押さえて俯く。
目を閉じて何やら唸っていたが、ああ、と顔を上げた。顎から手を外し、ギルディオスを指しながら見下ろした。

「思い出したぞ。半漁人のウロコのありかを」

「遅ぉ!」

ギルディオスが叫ぶと、フィフィリアンヌはあまり面白くなさそうにする。

「いいではないか、思い出したのだから」

「それで、半漁人のウロコはどこへ?」

カインに尋ねられ、フィフィリアンヌは腕を組む。

「五年ほど前、母上に頼まれて研究論文を学者共へ見せることになってな。その時に資料の書籍を漁っていたのだが、途中で栞が足りなくなってしまったのだ。そこで目に付いたのが、半漁人のウロコだったのだ。大きさも枚数も、実に丁度良かったからな。だが論文を書き上げてしまったら、その存在を忘れてしまったのだ」

「…おいおい」

呆れ果ててしまい、ギルディオスは力なく俯いた。そういうことならば、いくら探しても見つからないはずだ。
フィフィリアンヌは散乱している本を眺めていたが、一冊を取る。ぱらりと広げたページの間に、ウロコがあった。

「挟んだ本は覚えている。あの時は確か、古代竜族の魔法と現代竜族の魔法の違い、だったはずだ。だから」

「それなら僕にお任せ下さい、フィフィリアンヌさん!」

がばっと立ち上がったカインは、拳を胸に当てた。水を得た魚の如く、目を輝かせている。

「竜族関連の書籍の題名は、ほぼ全て頭に入っていますから!」

「お前も変わってんなぁ…」

と、ギルディオスは苦笑する。カインは大抵の人間が恐れている竜族を、逆に崇拝している人種のようだ。
カインはきょとんと目を丸め、ギルディオスへ振り向いた。本人は、変わっているとは思っていないらしい。

「そうかなぁ? 魔力を生まれ持たないギルディオスさんよりは、変ではないと思いますが」

「うるせぇやい」

自分の欠点を引き合いに出され、途端にギルディオスは機嫌を損ねた。けっ、と変な声を出して顔を背けた。
積み重なっている本を動かして崩すと、手当たり次第にドラゴンと名の付いた本をばさばさと放っていった。
その手を止めたフィフィリアンヌはやさぐれているギルディオスの背を見ていたが、カインと顔を見合わせる。

「再開しよう。目標が解った今、作業効率は格段に上がっている」

「はい!」

意気揚々と、カインは本の海へ突っ込んでいった。が、足元の一冊につまづき、派手に転んだ。
どさどさと崩壊した本の中に、群青色のマントが沈んだ。薄暗い部屋へ、煙幕のように埃が立ちこめる。
その情けない姿に、フィフィリアンヌは前言を撤回したくなった。作業効率が上がったとは、思えなくなった。
フラスコに納まっている伯爵の中で、こぽん、と寝息のような気泡が爆ぜていた。




東の空が白む頃、ようやく彼らの探索作業は終わった。
大きな机の上に置かれた薬瓶の中に、フィフィリアンヌは四十五枚目の半漁人のウロコを入れていた。
きゅっ、と蓋を閉め、息を吐く。うっすらと埃の積もった机に倒れ込むように突っ伏し、ごん、と額をぶつけた。
探すついでに本を片付けたため、大分部屋は元通りになっていた。火の消えた暖炉の前に、甲冑が倒れている。
魔導鉱石の魔力が切れかけているギルディオスは、うーあー、と妙な声を洩らす。起き上がることも出来なかった。
その隣で丸まっている群青色は、夜が明ける前に眠ってしまったカインだった。探索の途中で、力尽きたのだ。
フィフィリアンヌは男達の体たらくに呆れながらも、多少痛みのある腰を上げた。暖炉の前に、向かっていく。
正座の体勢から、体を折るようにして突っ伏しているギルディオスの背の上に、フィフィリアンヌは腰掛けた。
くすんだ銀色の背の中心、魔導鉱石を装着した辺りへ手を当て、眠気と戦いながら魔力を注ぎ込んでいく。
欠伸を噛み殺しながら、フィフィリアンヌは平和そうに眠るカインを見下ろした。すると、カインが僅かに身動きした。
マントに埋めていた顔を上げ、目線をしきりに動かした。ここがどこなのか、一瞬、解らなかったようだった。
だがすぐに、ギルディオスの背に腰掛けているフィフィリアンヌに気付いた。カインは、慎重に立ち上がった。
寝癖の付いた柔らかな茶髪を掻きながら、カインは情けなさそうに笑った。朝日の差し込む窓に、目を向ける。

「…寝ちゃいましたね」

「思ったよりも貴様は役に立ったぞ。これで、薬の納期を間に合わせることが出来る」

「お役に立てて何よりです」

体を伸ばしてから、カインはぐっと肩を落とした。変な体勢で眠ったせいで、固まっていた節々が鳴った。
ばきり、と首を動かしてから、息を吐く。すると目の前に、赤ワインが並々と満ちたグラスが突き出された。
見ると、いつのまにかワインボトルを抱えたフィフィリアンヌが、カインへグラスを向けていた。

「これで目も覚めるだろう」

「あ、どうも」

寝起きから酒はどうなんだろう、と思いながらも、カインはありがたくワインを受け取った。それを、少し飲む。
渋みのある赤ワインの味は、確かに目覚ましになった。まどろんでいた神経が、次第に冴え渡っていく。
グラスの中身を飲み干してから、カインは倒れたままのギルディオスを指した。甲冑は、低く唸り声を漏らしている。

「ギルディオスさん、大丈夫なんですか? ゾンビみたいな声出していますけど」

「魔力が切れただけだ。今、新しく魔力を与えたから、一時間もすれば起きる」

二杯目のワインを飲みながら、フィフィリアンヌは答える。その下で、う゛ぁー、と力の抜けた声が洩れた。
カインは埃っぽいマントを払ってから、外を見た。徐々に昇ってきた朝日が、薄暗い室内へ光を切れ込ませる。
白い眩しさに目を細めていたが、フィフィリアンヌへ振り返る。彼女は、目線だけカインへ向けていた。

「それでは、僕は帰ります。次に来るときは、その、僕の契約獣のカトリーヌを連れてきても…」

「構わん」

フィフィリアンヌの返事に、カインはこの上なく嬉しそうに笑った。深々と一礼し、扉へ向かう。
それでは、ともう一度挨拶してから、カインは扉を閉めた。外へ繋いでおいた白馬の元へ、駆けていった。
しばらくすると、軽快なひづめの音が遠ざかっていく。窓枠のフラスコが、その震動を受けてかたかたと揺れる。
フラスコのコルク栓が、内側から押し抜かれた。にゅるりと溢れたワインレッドのスライムが、先端を伸ばす。

「カイン・ストレインか、割に面白い男であるな。フィフィリアンヌよ。それで、欲情された気分はどうだね?」

「貴様、なぜそれにこだわるのだ」

嫌そうに眉根を歪めたフィフィリアンヌに、伯爵はにゅるにゅると動きながら笑う。

「はっはっはっはっは。我が輩の存在を忘れた報いである、フィフィリアンヌ」

「そうだな。忘れていたぞ」

「ぬお!」

「私をからかおうとした報いだ」

僅かに震える伯爵から、フィフィリアンヌは顔を逸らす。からかうのは好きだが、からかわれるのは嫌いなのだ。
澄んだ朝日が、埃の舞う室内へ入り込んでいた。数年ぶりに整頓された本棚が、穏やかに光を受けていた。
スライムの溢れたフラスコの影と、突っ伏したままの甲冑に、その上に座るツノと翼を持った少女の影。
硬質に思えるほどに鋭い日差しが、三人の影をくっきりと濃く造り出していた。
また一声、ギルディオスが弱々しく唸った。




ストレインの屋敷へ帰ったカインは、二人の兄に朝帰りの理由を散々問い詰められた。
彼は嘘を吐くこともはぐらかすことも下手だったため、結局、思い人がいることがばれてしまう。
おかげで彼は、数ヶ月に渡って、兄弟にからかわれることになってしまうのだが。

それはまた、別のお話である。






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