ドラゴンは笑わない




五年目の復讐



ランスは、耐えていた。


床を睨んで、奥歯を噛んで感情を押し殺していた。こうすることが多いから、顎がよく痛くなってしまう。
目線を上げると、右奧には窓を背にした男がいる。王宮のものと差ほど変わらぬ、大きな机に向かっていた。
イノセンタスは、相変わらずだった。ランスだけを呼び出して、延々と理想を話すことがよくあるのだ。
今日も、それだった。ランスはちらりと扉を見、廊下で待っているパトリシアの様子を想像していた。
苛立っているのか、心配しているのか。どちらにせよ、早くこの時間が終わってくれることばかり考えていた。
びっちりと本棚の詰まった本は、フィフィリアンヌのそれよりも整頓されており、掃除も行き届いている。
理想主義で潔癖なイノセンタスらしい、と思った。王宮の部屋もそうだが、自宅の書斎は更に潔癖だ。
ここは、イノセンタスの自宅の書斎である。王宮近くの貴族の邸宅と見まごう屋敷に、従者と二人で住んでいる。
この屋敷は、元々ヴァトラス一族の所有物だった。それを、長男であるイノセンタスが引き継いだのだ。
普通であれば、もうとっくに妻を娶っているはずの年齢だというのに、イノセンタスは未だに独り身でいる。
ランスは目を動かし、能弁に喋るイノセンタスを見上げた。あの性格じゃ無理だよな、と思っていた。
イノセンタスの言葉は、ランスの耳には入っていたが意識にまでは届いてはおらず、通り過ぎるばかりだ。
理由は解っている。ランスが聞こうとしないから、イノセンタスの言葉は聞こえないのだ。
ランスは、ようやくイノセンタスに顔を向けた。父親に良く似た叔父は、年齢を感じさせない顔を綻ばせる。

「だから、君はヴェヴェリスにいてこそ相応しいのだ」

「はぁ」

ランスは生返事をした。どうやらイノセンタスは、ランスの今後について勝手に語っていたらしい。
イノセンタスは両手を組んで、その上に顎を乗せている。切れ長の目を、優しげに細めた。

「君ならば、一年もせずとも魔導師試験など終えてしまうはずだ」

「やる気があればの話ですけどね」

やる気なく、ランスは返した。イノセンタスは、薄く笑った。

「なあに。成果が出ればおのずと出てくる。そういうものだ」

「はぁ」

ランスは無表情を装った。出世欲に充ち満ちているのはあんたであり僕ではない、と言いたかった。
確かに勉強の成果が出れば、それはそれで楽しいし、成績が上がるのは好きだ。だが、それとこれとは別だ。
別に、ランスは出世がしたくて魔法を勉強しているわけではない。精霊の言葉も、好きで聞こえるわけではない。
ただ、知りたいのだ。なぜ人に魔力があるか、なぜ竜は人を越えているのか、なぜ魔の力は力となるのかを。
イノセンタスのように、魔法を力として扱う気はない。己の限界は知っているし、地位に付けば縛られる。
家柄や才能に元々縛られているのだから、これ以上縛りが増えてしまえば、身動きどころか息も出来ないだろう。
そうなるのが予想出来るから、ランスは出世など望んでいなかった。だが、イノセンタスはそれを理解していない。
ランスという人間を己と似た、いや、勝手に似ていると見ている。そして、彼自身の理想をランスに重ねている。
イノセンタスが勝手に望んでいる理想を、次から次へと並べてくる。今の話だって、そんなものだ。
彼が魔法都市で地位を確立したから、ランスにもその道を歩かせたいのだ。むしろ、引っ張り込みたいようだ。
イノセンタスは、ランスを見ていた。感情の見えない薄茶の目に、表情の見えない少年が映っている。

「しかしランス。君ともあろう者が、なぜ竜の女の城になど入り浸っているのだ?」

「入り浸ってる、ってほどじゃないと思いますけど」

ランスは、近頃の自分の行動を思い出した。あの城に向かう回数は以前より増えたが、だから何なのだろう。
父親のギルディオスがいるのだから、向かう理由などなくてもいい。というより、それ以上の理由があるものか。
それに、以前よりも大分ドラゴンに慣れてきた。フィフィリアンヌの強い気配にも、気圧されなくなってきた。
だから、前にも増して足が向く。あの城には割と良い本もあるし、不思議と落ち着く場所になっていた。
王都の街並みと城壁を越えた先に、なだらかな山が見える。あの麓付近に、フィフィリアンヌの城はあるのだ。
ランスはなんとなく、窓の向こうに彼女の城を探した。イノセンタスはそれに気付いたのか、横目に窓を睨む。

「あれほど歪んだ場所は見たことがない。異形ばかりの住まう、魔界だな」

「そうかな」

ランスが呟くと、そうだとも、とイノセンタスは吐き捨てた。

「あの女はあれは竜でも人でもないというのに、どちらの面もしている。正気の沙汰ではない」

「あの人は、どっちでもあるからですよ」

「どちらかにすればいい。その方が、余程楽ではないか」

イノセンタスは、あからさまに嫌悪感を滲ませた。ランスは少し面白くなかったが、言い返す義理はないとも思った。
慣れては来たが、フィフィリアンヌが苦手なことには変わりはない。だから、味方をする必要もないと考えた。
イノセンタスは言い返さないランスに、笑った。その表情は楽しげではなく、悪意が垣間見えた。

「愚弟もそうだ。死するなら死しておけばいいものを、死人のくせに生者を殺して長らえるとは、愚の骨頂だ」

イノセンタスは、笑っている。

「族共を一掃してくれたのはありがたいが、死体の山を作りすぎている。死に神のつもりなのか?」

「違いますよ。父さんは」

「ああ、知っているとも。愚弟はあの女の手中だ。あの女のためなら、いくらでも金を作る都合の良い傀儡なのだ」

「…違う」

「愚弟の友のマーク・スラウが戻ってきたと聞いたが、果たして何のつもりやら。今は私の妹を捜しているようだが、一体何を目論んでいるのか。どうせ族上がりの男だ、ろくでもないに違いない」

「違う!」

「何が違うというのか、ランス? 君は何か知っているとでも?」

イノセンタスは、口の端を持ち上げる。ランスは、思い出すまいとしていたことを思い出し、拳を握った。
数日前に、マークから聞いた話が脳裏に蘇った。五年前にギルディオスを殺したのは、イノセンタスだと。
ランスは、必死に殺意を堪えた。だが、五年前の日に、父親の死体が戻ってきたときの痛みが記憶から湧いた。
世界が終わるような感覚。むせるような血の匂い。何もかもが恐ろしく、ギルディオスがいない寂しさと苦しみ。
そして、五年前の葬儀の帰り道、強く誓った決意。ランスは噛み締めていた奥歯を緩め、深く息を吐く。

「…知っていますよ」

ランスは、ゆっくりとイノセンタスに向き直った。

「あなたが、父さんを殺したんだ」

「ランス。虚言とは君らしくないな」

「虚言じゃない。それに、父さんを殺したいほど憎んでるのは、後にも先にもあなただけですからね」

冷静を保ちながら、ランスは慎重に喋った。次第に、殺意が漲ってくる。

「母さんとマークさんが言っていた。戦場で父さんを殺したのは、影のような騎士だったって。族が狙ったのであればもう少し荒っぽいし、第一そんなに手間の掛かる魔法は使わない。あれは、具象魔法だ。剣を掴んだ、って聞いたから間違いない。影の中から立ち上がって、その上で物に触れることが出来るような存在はそれくらいだ」

「影の騎士が具象魔法だとしても、その術者は私ではない」

「そうだ。影を操る類の具象魔法は、自分の影を使って作られるものだ。あの時、影の騎士は父さんの影から立ち上がったって話だ。だから、あれは父さんが術者だということになる。だけど、父さんが魔法をまるで使えないのは百も承知だ。魔法陣も書けないし、魔法文字も読めないし、何より魔力がない。でも、魔法にはこういうものもある。接触発動型みたいなもので、魔力発動型ってやつだ。魔法陣を描くときに呪文をいじってやれば、どんな魔法でも微量の魔力が触れただけで発動させることが出来るものだ。いわば、魔力が引き金になる魔法だ」

「だが、愚弟に魔力はない、と今し方君は言わなかったかね?」

「確かに父さんに魔力はない。でも、それは普通の時だ。ただでさえ感情に左右されやすい魔力の波が、普通の人よりも激しいヴァトラスの血は父さんにもしっかり根付いている。父さんの場合、その魔力は腕力に変換されるんだ。だから父さんは、極めて感情が高ぶったとき、つまり怒ったときにはほんの少しだけど魔力が出ているし、その魔力を元にして人間外の破壊力を得ているんだ。過去にもそういう実例があったって記録があるから、間違いない」

ランスは、イノセンタスを睨んだ。

「だから、父さんの魔力が起こる条件を知ってさえいれば、魔力発動型の魔法を掛けて発動させることが出来る」

「なかなか面白い見解だ。だが、そう都合良く愚弟が怒るわけもない。あれは意外に冷静だからな」

イノセンタスは、ランスを見下ろしている。薄茶の目からは表情が失せ、冷たいものとなっていた。
ランスは、深呼吸して肩を上下させた。腹に力を込めて、感情のままに声を荒げる。

「そうだ。だからあなたは、僕を囮か何かに使ったんだろう!」

「何を言うかと思えば」

イノセンタスは一笑する。ランスは、力一杯イノセンタスを指した。

「そうとしか思えないんだ! 父さんが魔力が起こるほど怒るなんて、僕を使ったとしか思えないんだよ!」

「だが、君はそれを覚えていないのではないのか?」

「そうさ、僕はなんにも覚えちゃいない!」

掲げていた手を下ろし、ランスは強く自分の足を殴った。だん、と拳が腿を抉る。


「だから僕は、あなたを殺せないんだ!」


荒い息と共に、ランスは体の力を抜いた。ゆらりと身を傾げ、倒れ込むようにソファーへ腰を下ろした。
頭がずきずきした。魔法を使いすぎた後のように、鈍く鋭い痛みが頭全体を駆け巡っていた。
額を押さえて、ランスは目元をしかめた。ちらりとイノセンタスを窺ってみると、彼は表情を消していた。
だが、じきに肩を震わせ始めた。イノセンタスは顔を伏せて声を押し殺していたが、急に上体を逸らした。

「はははははは、そういうことか、ははははははっ!」

愉快そうに、イノセンタスは笑っていた。ランスは目を見開き、一瞬、彼の気が違ったのかと思った。
顔を手で覆い、しばらく喉の奥から笑みを洩らしていた。イノセンタスはそれを静め、落ち着いた口調で言う。

「なるほど。君らしい。確証がなければ行動しない、目先の事実だけで動かない、というのだからな」

「…何が可笑しい」

敵意を込め、ランスはイノセンタスを見据える。イノセンタスは、まだ少し肩を震わせている。

「ならばランス。その事実を知ったら、確証のために必要な事項を補完されたら、どう出るかな?」

「何だよそれ」

乱暴にランスが言い返すと、イノセンタスは顔から手を放した。笑みは、消えていた。

「君の言う通り、私は君を使った。愚弟に施した具象魔法、影の騎士を発動させて造り出し、戦場の騒乱に紛れて殺してしまうためにな。あの日、私は王国軍の戦列にいた。魔導師部隊に参加していたのだが、愚弟を殺すために少しばかり離れた。そうだな、ほんの二時間ほどのことだったかな。王国軍の本陣から離れた位置で空間転移魔法を行い、君の部屋と戦場を行き来したのだ。その時、君は本当によく眠っていて、私が抱き上げても起きる気配はなかった。余計な力を使わずに済んでありがたかったよ。私は君を抱いて、愚弟と義妹と彼らの友人が戦っている傍まで移動した。丁度その時は、彼らが帝国の前線を突破している最中でね、気付かれる心配なんてなかったよ。そして戦闘が収束した頃、私は愚弟の視界に入るよう、君を抱えて木の陰から出た」

淡々と、声が続く。

「愚弟はすぐに気付いた。あの男は、私を見つけるとこう叫んできたのだ。この馬鹿兄貴オレの息子に何しやがる、さっさと帰らねぇと、その首と胴体、ここで切り離してやろうじゃねぇか、とな。面白いくらいに引っかかってくれたよ。私に向けて斬り掛かってこようとする愚弟の影は、予想以上に大きく立ち上がってくれた。愚弟の視界を塞ぎ間合いに入った影の騎士は、私の指示した通りに帝国軍兵士の剣を掴み取り、高々と掲げ、真っ直ぐに剣先を」

にぃ、とイノセンタスは口元を上向けた。


「甲冑に覆われた腹に叩き込み、臓物と骨を砕きながら貫いたのだ」


ランスは、膝が震えていた。ここ数日予想していたことと寸分違わぬことを、イノセンタスが話している。
それは、事実なのか。この話が事実ならば、イノセンタスは間違いなく、ギルディオスの仇だ。
何がしたいのだ。己が仇であると示して、一体何の利点がある。ランスは、必死にイノセンタスを読もうとした。
イノセンタスは立ち上がると、音もなく歩いてランスの手前にやってきた。真上から、甥を見下ろす。

「さて、どうする?」

「あなたは」

「何がしたい、と続くのかな。そうだな、したいことがあるとすれば、私は」

イノセンタスは、ランスの顎を掴んだ。強引に上向けさせ、視線を合わせる。



「君に深淵を覗かせてやりたいのだ」



手袋に包まれた指が、ランスの頬を抉っていた。必死に目を逸らそうとしても、体が固まっていて出来なかった。
あれだけ強かった怒りが、恐怖に変わっていた。背筋を逆撫でする冷たさが走り、肩が震えてしまいそうだった。
何が怖い。何が恐ろしい。ランスはイノセンタスの目を見返していたが、光のない瞳の奧は見えなかった。
これが、この人自身が深淵なのだ。ランスは身を引こうとしたが、イノセンタスはすぐに間合いを詰めた。

「私を殺したいのだろう。私を殺せば、全てが終わるとでも思っているのだろう」

父親と良く似た声。だが、違う声。

「だが、終わりはしないのだ。私を見ていれば解るだろう。愚弟を殺したところで、何も終わりはしなかった」

父親と良く似た男。だが、違う男。

「終わりこそ始まりなのだ。そして君は、深き闇への入り口に、深淵の世界へと身を沈め始めている」

「ちがっ」

「何が違う、何が間違っているのだ、ランス。君が私に接する理由はただ一つ、近付く理由はただ一つだろう」

鏡写しの、正反対の兄。イノセンタスは、笑う。

「私に復讐をするためだ。君の尊敬する父親を殺した男を、その手で殺したいがためだろう!」

ランスは、声が出せなかった。頬の痛みと恐怖、そして怒りが胸中を渦巻き、感情が形を成していなかった。
顎を掴んでいたイノセンタスの手が緩み、ランスは崩れ落ちた。無意識に息を止めていたのか、苦しかった。
心臓が痛く、魔力の強い波が頭痛を起こしていた。イノセンタスの言ったことは、一つとて間違っていなかった。
床を見つめたまま、ランスは呆然としていた。体に力を入れようとしても入らず、呼吸が整わない。
荒い息を繰り返しているランスを見下ろし、イノセンタスは薄茶の目を細めた。とても、楽しげだった。

「私を殺したくば、明日の夜、ここの庭に来るがいい。私は逃げも隠れもせん」

「…どうして」

絞り出すように呟いたランスは、項垂れていた顔を上げた。視界に、藍色の影を纏った男が立っている。

「あなたは、父さんを殺したんだ」

「憎らしかったから。それだけだ」

イノセンタスは、座り込んでいるランスの傍らを抜けていった。マントが翻り、扉に向かっていく。
ぎぃ、と扉を開き、イノセンタスは書斎を出て行った。藍色の影はするりと視界から外れ、廊下へと消えていった。
その直後、弾かれるように扉が開かれた。見るとそこには、表情を強張らせたパトリシアが立っていた。

「ねぇランス君、何、何があったの!?」

「なんでもない」

ランスはしきりに問い掛けるパトリシアに背を向け、立ち上がった。足に力は入らず、心臓はまだ痛かった。
ソファーに立て掛けておいた杖を取り、足を引きずるようにして書斎を出た。少年の横顔から、表情は失せていた。
パトリシアは、ぎゅっと両手を組んで胸に押し当てた。彼が、イノセンタスと何かあったのは間違いない。
ランスの背を追い、パトリシアは廊下に出た。後ろ手に書斎の扉を閉めると、扉の隣に男が立っていた。
従者の青年は、何も言わずにランスの背を見送っていた。廊下の先を、薄紫のマントの姿が遠ざかっていく。
パトリシアは男の、ゼファードの表情が少し気になった。哀れむでも心配するでもなく、なぜか懐かしそうだった。

「…あの、ゼファードさん」

「いえ。ランスさんはあの人に似ているな、と思いまして」

ゼファードという名のイノセンタスの従者は、パトリシアを見下ろした。穏やかな眼差しは、暗かった。
パトリシアは少し嫌なものを感じながらも、返した。この男の目は、イノセンタスのそれとどこか似ていた。

「イノセンタス様に、ですか?」

「いいえ」

ゼファードは、首を横に振った。パトリシアは彼に一礼してから、小走りに廊下を駆けていった。
ランスの背は、もう近くにはなかった。ひっそりとした廊下を急いで駆けるうち、急に不安に襲われた。
何が怖い。何が不安なのだ。パトリシアはランスの背が現れることを願いながら、その思いを払拭した。
昼間ながら薄暗い廊下の先は、深淵の如く闇に満ちていた。




その夜。自宅の自室で、ランスは短剣を見つめていた。
暗闇に沈んだ部屋の中、月明かりを跳ねる抜き身だけが眩しかった。刃には、ヴァトラスの家紋が彫られている。
大きく花弁を広げたスイセンの家紋。この短剣は、家の中で唯一、ヴァトラスの家紋があるものだった。
次第に自分の体温が移ってきた柄を握り締め、ランスはその家紋を睨んだ。幼き日、父親からもらったものだ。
護身のために、一つくらいは持っておけと手渡された。それ以来ずっと、魔導師の衣装の際は腰に差している。
使うことはないと思っていた。だが、これを使うに相応しい男は、ランスのすぐ目の前で待っていたのだ。
目を閉じずとも、蘇る。イノセンタスの笑み、イノセンタスの声、そして、イノセンタスの殺人の告白が。
ランスは、胸の奥に滾るものを感じた。煮えたぎる湯のような、全てを焦がす炎のような、熱く苦しい感情だ。
五年間、一日たりとて忘れたことのない感情だ。腹を貫かれたギルディオスの死体を見た時に、起きたものだ。
それを、果たせる機会が来た。明日の夜にイノセンタスを殺しさえすれば、この思いは遂げられる。
短剣に映る自分の顔は、厳しかった。子供らしからぬ表情をした、浅黒い肌の少年がじっと見返していた。
ランスは机の上から鞘を取り、するっと滑り込ませた。がちん、と鞘と鍔がぶつかって硬い金属音を立てる。
ああ。あついわ、いたいわ。ああ。くるしいわ、せつないわ。けれど、それはあなたのおもいなのよね。
精霊が、顔の脇を滑る。ふわふわとした薄い影が近寄り、ランスの耳元へ小さな声で囁いてきた。
ころすのかしら。ころしてしまうのかしら。ころしてしまえばいいわ。それが、あなたのねがいなんだもの。
ランスは短剣を机に置いてから、どっかりとベッドに座った。精霊の声はやかましくなく、清らかだった。
小さく笑みを零しながら、精霊はふわりふわりと舞っている。窓の下で、月明かりを浴びて踊っている。
それはひどく幻想的で、蠱惑的だった。殺意を煽った精霊は、表情の解りづらい半透明の顔を向けてきた。
耳元まで裂けた口が広がり、間から牙が見えた。精霊はランスに寄ろうとしたが、背後を見、悲鳴を上げた。
部屋の扉が叩かれ、開いた。扉を押し開けたギルディオスは、ランプを持つ手で隣に立つパトリシアを指した。

「ランス。パトリシアから大体は聞いたぜ」

精霊は、ランスの脇を抜けて窓を擦り抜けていった。ランプを掲げた大柄な甲冑は、部屋に入ってきた。
がしゃりと膝を曲げて、ランスの目の前に屈み込んだ。ランスの顔のすぐ前に、ヘルムを突き出す。

「兄貴と何を話した。ん?」

「別に、何も」

ランスは、父親から目を逸らした。ギルディオスは息子の頭を軽く叩いてから、身を下げた。

「なら気にはしねぇが、あんまり思い詰めるなよ。夕飯も、後でちゃんと喰っとけよ。メアリーに心配されちまうぜ」

「うん」

ランスが小さく頷くとギルディオスは、じゃあな、と出て行った。ランプをパトリシアに渡し、階段を下りていく。
パトリシアはギルディオスを見送っていたが、部屋に入ってきた。ゆっくりと扉を閉めて、慎重に歩いてくる。
ことり、とランプを机に置いてから、ベッドの前に立った。項垂れたランスを見下ろし、呟いた。

「ランス君」


「邪魔をするな」


強く、ランスは声を出した。その声に驚いたパトリシアはぎょっとして目を丸め、思わず半歩身を下げた。
ランスは顔を上げると、笑った。温かな明かりに照らされた彼女を睨み、口元を引きつらせていた。

「これは僕の戦いだ。パティには関係ない。手を出さないで欲しいんだけど」

「でも、ランス君」

「復讐の片棒なんか担ぎたくないだろ。パティは曲がりなりにも修道士なんだから、神の御心に背いちゃいけない」

立ち上がったランスは、大きな青い目を潤めているパトリシアを見据えた。

「いくらでも軽蔑してくれよ。僕が父さんより強くなりたいのは、父さんを殺した奴を殺すためなんだよ」

パトリシアは、ぎゅっと胸を押さえた。小さく肩を震わせている彼女から目を外し、ランスは吐き捨てる。

「五年間、ずっと、言おう言おうとは思ってたんだけどね。パティが、僕にくっついて来てくれるのは嬉しかったけど、正直、復讐心が動機の鍛錬だから後ろめたかったよ」

「わたしは」

声を震わせ、パトリシアは目を強く閉じた。溢れ出た涙が頬を滑り、握り締めている手の上に落ちた。
ランスは、静かに泣く彼女を見上げた。なぜ、ここで泣くのか。なぜ、そんなに悔しそうなのか、解らなかった。
五年前と同じく、殴ってしまえばいいのにと思った。彼女の拳で頬を打たれれば、少しは気分が落ち着くだろう。
だが、口は止まらなかった。一度吐き出し始めた思いは止まらずに、ランスは積年の思いを喋っていた。

「パティも馬鹿だよ。修道士になんてなっちゃってさ。僕みたいな人間のために、自分の人生を曲げちゃうことなんてなかったんだよ。前に言ってたみたいに、格闘家にでもなれば良かったんだよ。それに、いつもいつもべったり張り付かれてるのも正直困るんだよね。パティは僕のことを好きだろうけど、僕は別に」

ランスは、語気を強めた。


「パティのこと、なんとも思っちゃいないから」


パトリシアが、息を飲んだ音が聞こえた。ランスは顔を背けて、なるべく彼女を視界に入れないようにした。
これでいい。こうして彼女を遠ざけてしまえば、迷惑は掛からない。人殺しになるのは、自分だけでいい。
復讐など、一人でするべきだ。イノセンタスを殺したいと思っているのは自分だけなのだから。
ランスはパトリシアに背を向けて、窓へ向き直った。少し開けた隙間から、生温い夜の空気が滑り込んできた。
パトリシアの影が、ガラスに映り込んでいた。顔を覆うこともせず、静かに涙を流して泣き伏せていた。
なんだか、彼女らしくなかった。いつもであればもっと大げさに感情を表して、高い声を上げているのに。
胸を掴んでいた手を放し、パトリシアはランスの背後に間を詰めた。優しく、少年の背を抱いた。

「うん」

パトリシアは切なさと悔しさで出続ける涙を拭わずに、ランスの頭に頬を寄せる。

「解ってるよ」

以前はパトリシアの胸より下だったランスの頭は、パトリシアの胸より少し上になっていた。背が伸びたのだ。
解り切っていたことだ。パトリシアは軋むような胸の痛みを堪えながら、ランスを抱き寄せた。
ランスには、まとわりついていただけだ。修道士にまでなって、しつこく彼を追いかけていただけなのだ。
前は、ただ守ってやりたいと思っていた。父親を失った彼を、前にも増して支えてやりたかったから近付いた。
だが今は、それだけではなくなっている。ランスの心と視線を手に入れたい衝動が、沸き起こってきた。
復讐でもいい。足手纏いでもいい。ずっと傍にいて、折れてしまいそうなランスの心を守ってやりたかった。
彼の黒髪から頬を外し、パトリシアは目を伏せた。いつのまにか、本気で彼を好いていた自分にようやく気付いた。

「私は、ランス君の役に立てないんだもん」

五年前から、ずっと。パトリシアは、無理矢理笑顔を作った。

「ヴァトラスじゃないし、復讐のお手伝いもさせてもらえないし、ランス君には好かれてないしさぁ」

明るさが痛々しい声に、ランスは顔を伏せた。パトリシアは、言う。

「だからさ、お願い。私、ランス君の邪魔はしないから、もうちょっとだけ」

笑みが崩れ、パトリシアはランスに縋った。硬く少年を抱き締めて、声を絞り出した。

「こうさせておいて」

背中越しに、しゃくり上げているのが解る。また泣かせてしまった、とランスはちくりとした自己嫌悪を覚えた。
次第に、パトリシアの声は大きくなる。子供のように泣きじゃくる彼女は、ランスを離すまいとしている。
肩を掴んでいる手には力が入り、首を腕が締め付けている。その苦しさよりも、遥かに胸の方が痛かった。
彼女の言葉を否定したかった。ずっと役に立っているし、傍にいてくれるし、何よりも好きなのだ。
元気良く笑うパトリシアの表情が、事ある事に甘えてくるパトリシアの声が、戦うときの凛々しいパトリシアの姿が。
それを言えたら、どれだけ楽か。だがそれを言ってしまったら、間違いなくパトリシアは付いてくるだろう。
イノセンタスを殺すのは、手を汚すのは自分だけでいい。ランスはパトリシアの体温を感じながら、そう思っていた。
窓に映るランスの背には、寄りかかったパトリシアが泣いている。物凄く申し訳なくなり、ランスは胸苦しさを感じた。
何も言えない代わりに、ランスはパトリシアの腕に手を添えた。怪力を秘めているのに、その腕は頼りなく思えた。
すると、パトリシアの泣き声は更に大きくなった。嬉しいのと悲しいのが、一度に入り混じったからだった。
ランスは肩を握る彼女の手に手を重ね、窓の外を見つめた。暗闇に包まれた街並みは、ひっそりと静かだった。
不意に、イノセンタスの言葉が過ぎった。深淵を覗かせてやりたい、と笑みを浮かべながら言っていた。
ランスは内心で言い返した。深淵など、とうの昔に覗いている。抜け出せないのは知っている。何を今更、と。
父親を殺した者を殺すという復讐心に取り憑かれた時から、既に片足を泥に突っ込んでいたのは解っている。
ランスは、再び申し訳なくなった。彼女はランスが深淵に埋まり込まぬように、手を差し伸べてくれたというのに。
今、それを振り解こうとしている。振り解いてしまったら、その先に待ち受けるのは底のない闇だ。
パトリシアの手に緩く指を絡めながら、ランスは悟った。イノセンタスの元で感じた恐怖の正体が、掴めた。
深淵に埋まるのが怖いのだ。引き返せなくなることが恐ろしく、おぞましくて仕方ないのだ。
ぞくりとした恐怖が、背筋を走った。すると、窓の向こうで、先程の精霊が悪魔じみた表情で笑っていた。
ころしてしまえ。はたしてしまえ。ふかきやみにしずみ、そのおんなもろともおちていってしまえ。
その精霊から透けて見える世界は、どこまでも深い闇だった。








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