ドラゴンは笑わない




黒い雨 前



ひゅっ、と風を切る音がした。グレイスは頬に熱を感じたので触れると、皮が切れてうっすらと血が滲んでいた。
後頭部にも違和感があったので、触れてみた。三つ編みが半分断ち切られて、緩んだ髪束がずり落ちている。
背後を窺うと、数個の氷が地面に突き刺さっていた。硬質で透明な刃に、黒い髪の毛が数本絡んでいる。

「挑発のつもりか?」

「最初から殺してしまうのは、あまり面白くないのでな」

掲げられたイノセンタスの手は、冷気を昇らせていた。なるほどな、とグレイスは半分切れた三つ編みを持った。
腰の後ろから短剣を引き抜くと、ばっさりと切り捨てた。地面に髪束を投げ、短剣も同じように転がす。
ほう、とイノセンタスは不思議そうな顔になる。グレイスは短くなった髪を掻き、あー、と変な顔をした。

「軽いと変だなー。長いこと重たかったから」

「珍しいな、自分から切ってしまうとは。髪を切られた魔導師は、魔力が減退してしまう、と動揺するものなのだが」

「オレは呪術師なの。魔導師じゃねぇ。そっちは副業なんだよ」

ぐいっと頬を拭ってから、グレイスは杖を突き出した。杖の先に埋め込まれた黒い魔導鉱石が、藍色の男を指す。

「やるならそっちからやってくれ。オレは本気でやる気はないんでね」

「舐められたものだ」

イノセンタスは、片手を握り締めた。降り注ぐ雨が一気に氷結し、ばらばらと硬い音を立てて地面に落ちてきた。
それらを浴びながら、グレイスは突っ立っている。切られたばかりで気になるのか、後頭部を押さえている。
馬鹿にされている、と思い、イノセンタスは手を広げた。地面を覆った無数の氷が集まり、形を成していく。
受ける水を全て固まらせながら、氷は円筒となり、頭と尾を作って牙を生やした。ずるり、と身を捻る。
白く透き通った巨大なヘビが出来上がり、鎌首を持ち上げた。がぁ、と声とも風ともつかない叫びを上げた。
それを見上げたグレイスは、ほう、と息を漏らした。氷のヘビはずしゃりと前進し、灰色の男に迫る。

「ギルディオス・ヴァトラスが見たら大泣きだな」

大きく口を開けた氷のヘビは、頭を下げた。勢いを付けてグレイスに向けて突っ込んだが、寸前で避けられる。
がしゃがしゃがしゃっ、と氷が砕けて飛び散った。頭の失せた白いヘビの上に、とん、とつま先が乗った。

「氷がお得意か」

グレイスの姿は、氷のヘビの上にあった。思っていたよりも身軽なグレイスに、イノセンタスは目元をしかめた。
こん、とグレイスはヘビの背を杖で突く。水溜まりが出来たかと思うと、ヘビはでろでろと溶けて水と化した。
内側から崩れていく白い円筒は、次第に小さくなっていく。ぎゃあ、と鈍い声で叫んだが、ヘビは溶け落ちた。
足場を失ったグレイスは落下し、ばしゃり、と巨大な水溜まりに着地した。にやりと、楽しげに笑う。

「冬場に会わなくて良かったぜ。オレ、寒いの嫌いだし」

「夏とて例外ではない。特に、水の多い日は私の得意でな」

イノセンタスは手袋を外して屈み込み、ばちゃっと地面に手を当てた。一言二言、口の中で魔法を唱える。
冷気が抜けたかと思うと、地面が白に覆われていった。水溜まりや血溜まりが凍り付き、硬質に変化していく。
降ってきた雨すらも、触れた途端に固まった。イノセンタスは魔力を込めていたが、顔を上げて笑った。
視線の先には、足元を固められたグレイスがいる。杖を抱えて両腕を組んだ呪術師は、短髪の頭を振った。

「無茶苦茶やるぜ」

「お互い様だ!」

右手を氷にめり込ませたイノセンタスは、ばん、と左手を叩き付けた。

「閃光招来!」

ばちり、と光の竜がうねった。白い地面に光を反射させながら、幾本もの雷撃が氷の表面に落下してきた。
空気の爆ぜるような炸裂音が続き、平らな氷がひび割れる。雷撃の落下した部分は、多少溶けて焼けていた。
地面から手を外したイノセンタスは立ち上がり、グレイスへ目をやった。至って平然としていて、無傷だった。

「予想はしていたが。随分と手の込んだことをする」

「ここはオレんちだけど、あの子んちでもあるからな。下手に壊すわけに行かないのさ」

グレイスは、背後を仰いだ。イノセンタスはグレイスの背後、居館の正面の扉に刻まれた魔法陣を読んだ。

「お前以外の魔法を制する陣か。通りで、何度ジュリアを送り込んでも、派手な傷を負って帰ってこないわけだ」

「まぁ、そういうことさ。だが、その辺がちょいと腑に落ちねぇんだよなぁ」

ざんばらの後ろ髪を掻き上げたグレイスは、無表情な魔導師を睨む。

「あんたは妹を愛している。だったら、なんでその妹をわざわざ前線に送る? しかもオレの目の前に」

「解り切ったことだ」

イノセンタスは、一歩後退した。城門の下に入ると、ひやりとした空気が雨に濡れた体を更に冷たくさせた。
ぐっと手を握り締めてから、人差し指を立てる。ばちり、と魔力を帯びた電流がその指先にまとわりつく。

「ジュリアは愚弟に拒まれた。それを恨んでいないはずがない。そして、愚弟を助けるお前を邪魔に思わぬはずがない。ジュリア自身の手で、その思いを果たさせてやるべきではないか!」

「うげぇ。三段論法かよ」

嫌そうに、グレイスは口元を歪めた。イノセンタスは電流を溜めた右腕を下げていたが、振りかぶった。

「そういうことだぁ!」

どぉん、と激しい雷撃が一直線に放たれた。グレイスは杖を前に出して横に構え、一言、口の中で唱えた。
青白く太い電流は、グレイスに触れる直前で反れる。球体の防御壁を舐めるように外れ、光は枝分かれした。
その一本が、グレイスの頭上をうねって抜けた。グレイスが振り返った瞬間、居館の窓が閃光を受けて破裂した。
砕け散ったガラス片が、雨に混じって地面に振ってきた。室内の布でも焼けたのか、割れた窓から煙が昇る。
グレイスは、にいっと口元を広げた。すっかり雨に濡れたメガネを外し、服の胸元に入れて納めた。

「…上等だ」

灰色の瞳は、笑っていなかった。グレイスは杖をぐるりと回し、がっしゃん、と力任せに地面に突き立てた。

「察しが良いな。確かに門の下は、あの魔法封じの効力が多少弱ってる場所だ。そこから魔法を撃てば、それなりの威力にはなる。そこに気付いたことだけは褒めてやるぜ」

ぐいっと杖を曲げ、地面と斜めにさせた。グレイスは、強く声を上げた。

「土と水より生まれし大地の子よ、我が命に従い、力ある姿となれ!」

ごぼり、と泥水から泡が湧いた。途端にごぼごぼと気泡を吐き出しながら、粘ついた影が持ち上がる。
ウルバードとレオーナの血溜まり、スパイドの毒液、レベッカの液体魔導鉱石を含んだ泥が形を成していく。
水っぽい土色のうねりが、大口を開けながら這いずり出てきた。巨大な泥のトカゲが、ずるりと生まれた。
グレイスは、ざりっと杖の先で地面を擦った。すると泥のトカゲは腕と足が伸び、人のように立ち上がった。
ごぼり、と喉の奥で空気を爆ぜさせた。泥で作られたリザードマンは、じりじりとイノセンタスに歩み寄ってきた。
イノセンタスは右手を広げ、すいっと掲げた。虚ろな目をした泥のリザードマンを、物珍しげに眺めた。

「なるほど。グレイス・ルー、お前は泥が得意なのか」

「まぁな。昔から妙に相性が良くてね」

グレイスは杖に手のひらを当て、魔力を込めた。ぐばぁ、と口を広げた泥のリザードマンは、泥水を迫り上げた。
イノセンタスが身を引いた直後、どばどばっと石畳に泥水が吐き出された。その水は、うっすらと煙を上げた。
マントで鼻と口を覆ったイノセンタスは、眉根を歪めた。低く唸りながら、リザードマンは門に入ってくる。

「スパイドの毒か」

「その通り。浴びたら溶けるぜ!」

グレイスの声に合わせ、泥のリザードマンは腕を振った。イノセンタスが後方へ避けると、頭上の壁が殴られる。
どちゃっ、と拳が砕けて滑り落ちた。壁から腕を放したリザードマンは、崩れた腕を泥に付け、再生させた。
イノセンタスは門の入り口付近まで身を下げたが、後方を横目に見た。独りでに、跳ね橋が上がり始めている。
ぎちぎちと太い鎖が歯車と噛み合い、跳ね橋が持ち上がっていく。イノセンタスは、塞がれつつある背後を見た。

「気が利くな」

「サシの戦いに、邪魔が入ると気が抜けるだろ?」

どん、と泥のリザードマンは踏み出した。イノセンタスは、片手を高々と挙げる。

「ああ、そうだな。だが、これもまた好都合だ!」

どばん、とイノセンタスの背後に水の固まりが立ち上がった。水草の混じった堀の水が、ぎゅるりと形を変える。
頭を細長く突き出し、大きな翼を広げ、甲高い鳴き声を上げた。うるうると流れのある水が、鳥へと変化した。
閉まる寸前の跳ね橋と門の間に滑り込み、透けた体を入り込ませた直後、どぉん、と跳ね橋は硬く閉ざされた。
ばちゃり、と羽ばたいた水の鳥を、イノセンタスは操作した。一直線に、泥のリザードマンに向かう。
クチバシを広げた水の鳥は、体当たりをした。泥と水が混じり合い、無機物の獣達が互いを噛み合っている。
リザードマンが噛み千切った鳥の頭は、ごぼりと泥の中に滑り込んだ。数秒後、泥は内側から吹き飛んだ。
どちゃどちゃっ、と周囲に泥が飛び散った。イノセンタスはマントで防いだが、少し浴びて汚れてしまった。
髪に付いた泥を拭ってから、形を失った泥を踏んだ。多少滑る石畳の上を歩き、グレイスを見据える。

「この程度の魔法が、私に効くとでも?」

「思っちゃいない」

グレイスは、地面から杖を引き抜いた。

「あんた相手に消耗戦をするつもりもないし、魔法でやり合うのもあんまり好きじゃないんでね」

「城が壊れるからか?」

「それもあるが、攻撃魔法ってのは下品だから嫌いなんだよ」

顔をしかめたグレイスに、イノセンタスは返した。

「お前のような下劣な者に、品位が存在するとはな。この世の終わりだ」

「そりゃどうも。近親婚しまくりのとち狂った一族の末裔に言われるようじゃ、明日にも世界は滅びるぜ」

グレイスは、しっとりと水分を含んだ黒髪をいじっている。まだ、慣れていないらしい。

「あんたの首を切り落として蹴っ飛ばして叩き割る前に、訊いておこうじゃないか」

「この期に及んで、何を訊くつもりだ」

右手に手袋を戻し、イノセンタスは泥と水に汚れた頬を拭った。グレイスは、がしゃりと杖を肩に担ぐ。

「どうして、セイラを殺さなかった。セイラを殺しておけば、ゼファードはあんたに忠誠を誓ったはずだが?」

「そんなことか」

イノセンタスは目を細めた。薄茶の目は鋭さを失い、少しばかり優しげなものになった。

「あれは、ジュリアの子供だ。殺しては可哀想だろう」

「セイラが?」

「ジュリアがだ」

当然だと言わんばかりに、イノセンタスは笑みを浮かべる。そうかいそうかい、とグレイスは吐き捨てた。

「あんたの中心は妹ってわけか。おーやだやだ、身内に欲情するなんておぞましいぜ」

「お前とて、傀儡の子供と繋がっているはずでは?」

イノセンタスの言葉にグレイスは、けっ、と変な声を出した。

「レベッカはレベッカで、オレはオレ。ありゃあオレの子供でもなんでもないし、そもそも血なんて入れてねぇよ」

「血の通わぬ石人形を愛するのか」

「人形じゃねぇ。オレの大事な、可愛い可愛い人造魔導兵器だ」

「同じことだろう」

「違うっつってんだろこの野郎!」

グレイスが杖を振りかざすと、ごうっ、と雨が薙ぎ払われた。強烈な風が巻き起こり、イノセンタスは顔を伏せた。
風で乾いた目を閉じてから開くと、灰色の影が降ってきた。どちゃっ、と泥溜まりに足を付けて着地する。
グレイスは立ち上がってすぐに間合いを詰め、イノセンタスの胸倉を掴むと、力任せに引き寄せた。

「そんなに自分の価値観が正しいと思うのか。その価値観を、ぶっ壊してやるのが楽しみになってきたぜ」

「何だと?」

イノセンタスが目を見開くと、グレイスは顔を寄せる。

「せいぜい今を楽しみな。盤の外から出るのも楽しいだろ、外の世界で暴れてみるのも面白いだろ?」

けどな、と呪術師は笑う。

「出るのが遅すぎたんだよ。もう少し早く出てれば、色々と結果が変わっていたかもしれねぇのになぁ」

抵抗しようと、イノセンタスはグレイスの体を押した。だが、その手に力は籠もらず、ふわりと風が抜けた。
それが己の魔力と感情だと知った頃には、遅かった。風は全てグレイスの手元に集まり、吸い込まれていく。
魔力を起こそうと思っても、何も沸き起こってこなかった。手を放されたイノセンタスは、力なく膝を折った。
ぐらりと傾いて、背中から石畳の上に倒れ込んだ。目を動かすと、城の居館を背負ってグレイスが立っている。

「しばらく寝てろ。あんたなら夕方までに魔力が戻るだろうが、それまで動けねぇはずだ」

イノセンタスに背を向けたグレイスは、軽い足取りで歩き出した。

「ジュリアはフィフィリアンヌの城にいる。目が覚めたら、来るがいいさ」

硬い足音が、遠ざかっていった。水っぽい泥を踏む足音になったが、それも次第に小さくなっていった。
背中から伝わってくる石の冷たさが、熱っぽい意識を冷ましていた。イノセンタスは、泥と水に背を埋めていた。
半円形に組まれた門の天井が、ひっそりと闇を作っていた。動かなくていけない、と思っても体は動かなかった。
ジュリアは無事でいるのか。そればかりが、思考を巡っていた。グレイスの言う通り、妹が全てなのだ。
全て、こちらを見て欲しいがために。十七年来の、叶わぬ恋だ。イノセンタスは、重たくなってきた瞼を閉じた。
それがなければ、ここまではしなかっただろう。ジュリアに恋い焦がれていなければ、弟も殺さなかったはずだ。
湿っぽい風が吹き込み、刺激の混じった泥の匂いを広げていた。なぜ、グレイスは自分を殺していかないのか。
駒の指し手といえど、盤の上に乗ってしまえば駒となる。屋敷から出てきたことは失敗だったか、と思った。
だが。不思議と、後悔はしていなかった。このまま、駒となって動いてみるのも悪くないかもしれない。
イノセンタスは、笑っていた。ジュリアを取り戻して手に入れる様を想像しただけで、楽しくなっていた。
戦闘の心地良い疲れが、イノセンタスを容易く眠りへと誘った。


城の居館に戻ったグレイスは、雷撃で窓の割れた部屋に立っていた。
百五十年前から、いじっていなかった部屋だ。天蓋付きのベッドは埃を被っていて、少し焼けた跡があった。
雨と風が吹き込んできて、床に散らばっているぬいぐるみが濡れていた。その一つを拾い、ベッドに乗せた。

「ごめんな」

守ってやれなくて。言葉の続きを飲み込んだグレイスは、埃っぽい部屋の中の空気を少し吸った。
杖を壁に立て掛けて、時間の止まった部屋を見つめた。あの日、彼女が死んでからそのままになっている。
ロザンナの気配が、僅かでも残っている気がした。帰ってきたら、ちゃんと直して掃除してやろう、と思った。
そのためにはまず、レベッカを直してやらねばならない。グレイスは水滴の落ちる髪を、ぐしゃりと掻き上げる。
魂はこちらにあるのだから、死ぬことはない。だが、あれだけの負傷をしてはさすがに堪えているはずだ。
早く直してやらなければ、可哀想だ。グレイスは何が必要なのか考えながら、ロザンナの部屋に背を向けた。
すると、視界の端に白い影が過ぎった。空気よりも軽い重量が肩に掛かり、声のない声で囁いてきた。

 どうしたの、あなたらしくないわ。あの人を引き留めておいても、ただ、最後までの時間が延びるだけなんでしょ。

「ああ、まぁな」

 ねぇ、そんなにあの人が消えるのが嫌なの。未練を果たせば、消えてしまうのは当然なのよ。

「解ってるさ。ただ、なんとなくな」

 ちょっとずるいわ。私はさっさと死んじゃったのに、あの人は長い間残っていられたなんて。

「縛り付けられていただけさ」

 それでも、羨ましいわ。死んだら、何もかもが終わりなんだもの。

「終わりじゃねぇよ」

 だけど、何も始まらないわ。始まったことなんて、何一つないじゃない。

「あんまりオレを困らせるなよ。切りが良いところで、さっさと生まれ変わってこいよ」

 ええ、そうしたいわね。でも、私は未練が一杯なの。あなたの傍を、少しだって離れたくないせいね。

「未練がましいのは、お互い様だ」

 綺麗な黒い髪、切られてしまったのね。長い方が好きだったけど、こっちも割と似合うわね。

「そうか?」

グレイスは笑み、振り向いた。白い影は遠ざかり、薄暗い部屋の中に馴染むように姿を消してしまった。
彼女の姿を、見たことは一度もない。見ようと思えば消えて、声を聞こうと思えば掻き消えてしまう。
時折、自分の幻覚ではないかと思うときもある。だが、確かにうっすらとした情念の気配は残っているのだ。
いつまでもロザンナを引き留めているのは、間違いなく自分だ。断ち切ろうとしても、断ち切れない。
何度も断ち切ってしまおうと思った。霊魂を冥土へと送るための魔法も、掛けてしまおうと思った。
だが、出来なかった。初恋を引き摺りすぎなんだよ馬鹿野郎が、とグレイスは苦笑いしながら廊下に向いた。
すると、白い腕が首筋に絡み付いた。軽くなびいた白い髪が、視界の端でふわふわと揺れている。

 ねぇグレイス、お願いがあるの。

「面倒なのは勘弁だぜ。オレにも限界ってのがあらぁ」

 私を、外へ連れ出して。あなたの言う、あの人の場所に連れていって。

「行ってどうする。あいつがいるのはフィフィリアンヌの、お前も嫌いな竜のいる城だぞ?」

 それでもいいの。一緒に、連れていってもらおうと思って。

「天上へ?」

 ええ。良い考えだと思わない。天上に行けば、きっと生まれ変われるわ。そしたら、また会いに来るわ。

「お前って奴は。とことん他人を利用するんだな」

 だって、私には何の力もないんだもの。誰かを顎で使わなきゃ、何も出来ないわ。

「はっきり言うぜ。だが、なんで今更、生まれ変わろうなんて思うんだよ」

 あの子達を見ていたら、あの女の人を見ていたら、とても羨ましくなったの。私、あなたの子が欲しいの。

「まだ言ってんのか、そんなこと」

 だって、本当なんだもの。それが一番の理由なの。いけないかしら。

「いけなくは、ねぇけど」

 うふふ。じゃあ、決まりね。

白い影はするりと動き、グレイスの胸元へと滑り込む。微かな少女の影は、ペンダントに吸い込まれた。
金色の平たい板を握り締め、グレイスは顔を伏せた。笑おうと思っても笑えず、歪んだ表情にしかならない。

「…一人で勝手に決めやがって」

どん、と扉に背を当てて、ずるりとしゃがみ込んだ。濡れた服が張り付いて冷たかったが、気にならなかった。
握り締めた手を開き、金色のペンダントを見下ろした。うっすらと、消えかけているが魔法陣が刻んである。
考えてみれば、これを作ったのはあの男だ。魔力が少ない代わりにいやに器用で、小細工が得意だった。
呪術に使うために他人の感情を奪う、と言ったら、ほんの数日もせずに作ってしまった。料金は取られたが。
しかし、それぐらいしか関わりはない。あまり深い関係ではないのに、いやに感情移入をしてしまっていた。
彼の未練を果たすのは、彼の最初からの願いだ。あの城の地下に隠してある金塊を代金に、依頼をされたのだ。
見返りの多い仕事だ、とは思う。だがそれ以前に、思っていたよりも失ってしまうものも多そうだった。

「柄でもねぇ」

これ以上感傷に浸っていたら、何も出来なくなってしまいそうだ。いつもと同じだ、と割り切るべきだ。
頬の傷を拭い取り、垂れてきた血を手のひらに移した。赤黒く鉄臭い血の付いた指を、少し舐めてみた。
この血も、忌まわしいばかりだ。なぜ、たかが先祖の恨みを、その子孫が受け継いでいかねばならないのか。
その因縁も、思っていたより根が深かった。関わらなければいい、と思っていたヴァトラスに出会ってしまった。
運命、というのは容易い。だが、ただ単にこちらの情念が並外れて深かっただけだと思っている。
彼は、その中心に据えられていた。家督を次ぐのと同じように、引き継がれた恨みを持って生きていた。
それは血筋の意思であり、彼自身の意思ではない。哀れだ、と思ってしまい、グレイスは額を押さえる。

「あーもうこんちくしょー」

ますます自分らしくない。同情などして何になる。本来起こらないはずの感情が、次々に湧いてくる。
そして、思ってしまった。このまま自分が動かなければ、駒が欠ければ何も進まないのではないか、と。
それはない、とすぐにそれを否定した。多少物事が進むのが遅れるだけで、盤の駒の進行は止められない。
事実、イノセンタスは現れた。そして、ジュリアらをフィフィリアンヌの元へ送った時点で進んでいる。
終焉は近い。グレイスは前髪を握りながら、項垂れた。もう、やれることは何一つなさそうだった。
力なく立ち上がり、グレイスは深く息を吐いた。まずは着替えて、レベッカの修繕道具を出してこなければ。
今頃、フィフィリアンヌはどうしているだろう。相も変わらず淡々とした表情で、事の次第を見守るのだろうか。
それとも、何かしているのだろうか。何もしてねぇんだろうな、とグレイスは内心で笑い、廊下に出た。
空気の冷え切った廊下を歩きながら、グレイスは胸元からメガネを取り出した。掛けていないと落ち着かない。
そして、気合いを入れ直した。今し方までの感情を吹っ切って、いつも通りにへらへら笑っていよう。
それでこそ、グレイス・ルーだ。そう思い直したグレイスは、静かな城の廊下を駆け抜けた。
城の中では、雨音は聞こえてこなかった。




時間は、少々さかのぼる。
人造魔物の兄妹達がグレイスの城で戦っていた頃、フィフィリアンヌの城はひっそりとしていた。
しっとりと雨に包まれて、普段は空や森の色を映している湖が鉛色と化していた。そこに、セイラはいない。
雨の日は城へ、とフィフィリアンヌに言われ、正面玄関先の広間の中にいる。今日は、彼の歌も聞こえてこない。
半開きになった正面玄関の扉から、するりと白い影が出た。両手の間にフラスコを浮かばせて、外へ出る。
屋根の下の乾いた段に、デイビットはフラスコを慎重に置いた。ガラスの球体の中で、スライムが蠢く。

「心地良い湿気と気温である。雨こそ、スライムの生きるべき世界なのであるぞ」

「雨は私も好きですねぇ。なんかこー、妄想を掻き立てられるんですよねぇ」

デイビットは伯爵の隣に、ふわりと腰掛けた。小さな目は、夜のように暗い外を眺めている。

「いい感じですねぇ。落ち着きますよぅ」

「時にデイビットよ」

ごぼり、と伯爵は気泡を吐き出した。うにゅりとフラスコの内側を這い上がり、コルク栓を押し出す。

「貴君は、一体何者なのかね?」

「百年前に滅した貴族、バレッティラス家の婿養子。売れない小説家。それではご不満ですかぁ?」

デイビットは、首をかしげてみせる。伯爵は、コルク栓を揺らす。

「答える気がないのであれば、我が輩は邪推を止めよう。想像は、想像で終わるに限るのである」

「それはそれは。一体、どのような妄想なのですかぁ?」

是非ご拝聴したいですなぁ、とデイビットは頬杖を付いた。伯爵は、透けた横顔に視点を合わせた。
ここ数日巡らせていた想像を、言うつもりにならなかった。恐らく、フィフィリアンヌも既に気付いていることだろう。
だが、フィフィリアンヌがそれを言わないと言うことは、今は言うべきでないということだ。そう、伯爵は判断した。
静観するつもりなのだろう。フィフィリアンヌは、そういう女だ。時に優しいが、基本的には冷徹なのだ。
正面玄関のひさしから、だばだばと水が流れ落ちている。夜明け前から降り始めた雨は、激しくなっていた。
お、とデイビットは少し身を乗り出した。遠くから、雨音に混じって水溜まりを踏む足音が聞こえてきていた。

「お客さんですねぇ」

「うむ」

にゅるりとフラスコに戻り、伯爵はコルク栓を閉めた。きゅっ、と捻りながら細長い口に納められる。
森から現れたいくつかの人影が、次第に近付いてくる。感じ慣れた魔力の気配と足音が、城にやってきた。
それらを見ていたが、伯爵は視点を隣に動かした。デイビットは、いつになく楽しげな顔をしている。
幽霊は口をほとんど動かさずに、雨音に消えてしまいそうな声で呟いた。


「楽しいことが始まりますよぅ」





 



05 7/9