ドラゴンは笑わない




飛翔せよ、カトリーヌ



カインは、いつになく真剣な顔をしていた。


肩幅ほどに開かれた足の下には、間に魔法言語の書かれた二重の円が描かれている。魔力を高める陣だ。
人差し指と親指だけを残して右手を固く握り、左手は広げて足元へ向けられていた。召喚術の、基本姿勢である。
弱い風を孕んだ群青色のマントが、陣の上にゆらゆらと影を落としている。閉じられていた目が、開く。
先程から、三人はカインの召喚術の様子を見守っていた。というより、やる気なく見物していた。
ギルディオスは手にしていたワイングラス、伯爵を足元に置く。少し後ろで、フィフィリアンヌが立っていた。
あまり興味のなさそうな目をしたフィフィリアンヌは、腕を組んで彼を睨み付けながら、時折文句を言っていた。
呪文の発音が違うだの、陣の文字が下手だの、魔力の発現が遅いだの、散々な言われようだった。
当のカインは呪文詠唱に集中しているため、その小言は聞こえていないらしく、黙々と詠唱を続けている。
ギルディオスは魔術師一家に生まれたが、己が魔力を持たないこともあり、魔法にはさっぱり興味がない。
だから、フィフィリアンヌの小言にも、カインの集中する姿も、全くと言っていいほど面白みを感じていなかった。
ギルディオスとしては、昨日から始めた井戸を掘り起こす作業に戻りたいのだが、今は逃げ出せそうになかった。
カインの手が、前に出される。空気の流れが局地的に乱れ、カインの足元からマントを揺さぶっていく。

「我が力となりし、我が影となりし魔性の者よ! 契約の名に置いて、今ここに現れることを令する!」

伸ばされた手が、ぐっと固く握られた。

「出でよ、カトリーヌ!」

カトリーヌ。カインが力強く叫んだ女性名に、ギルディオスは内心で思い切り変な顔をしていた。
町娘のような名のワイバーンがどんなものか、想像は付かない。そんな名を付けたカインのセンスも、解らない。
確かに召喚術師は、召喚契約を果たした契約獣に愛着を持つために、新たな呼び名を付けることが多い。
だが大抵は、その魔物の能力や外見を表す力強い名であることが普通だ。よって、これはかなり妙だった。
戦闘用ではないのかも知れない。そう考えながら、ギルディオスはカインの前に出来た、空間の歪みを見つめた。
歪んだ景色の中から、ダークブルーの鼻先が見える。徐々にその影が濃くなり、魔法陣の上に現れ始めた。
きぃ、と甲高い獣の鳴き声がした。するりと姿を現した魔物は、牙の並んだ口を僅かに開いてみせた。
くすんだ色合いの翼が広げられ、ばしん、と薄い皮が張られる。小さな両前足には、鋭い鉤爪が伸びている。
滑り出るように、全体的にすらりとした尾が最後に引き出された。そこにはなぜか、赤いリボンが結ばれていた。
その者の下に出されたカインの手に、ころんと丸い子供じみた腹が納まった。また一声、ぎぃ、と鳴く。

「小っせぇ…」

召喚されたワイバーンの小ささに、ギルディオスは拍子抜けした。足元では、伯爵がなぜか笑い声を上げていた。
今までに見てきた契約獣は、小さくても人間大だった。無論それは、実戦慣れした、戦場での召喚術師の話だ。
それでも、ここまで小さいのは初めてだった。このワイバーンは、まだ生まれて一年も経っていないようだった。
頭から尾までの身長は、カインの肩幅ほどしかない。成長すれば戦闘も可能だろうが、今は絶対に無理だろう。
フィフィリアンヌは少し首をかしげ、まじまじとカトリーヌと見つめ合う。身を屈めると、そっと手を伸ばした。
大きく口を開いたカトリーヌは、フィフィリアンヌの手へ鼻先を擦り寄せていたが、おもむろに噛み付いた。
血は出ないものの、がぶがぶと牙の跡が付いていく。フィフィリアンヌは怒ることもなく、じっとそれを見ている。
カインも咎めないどころか、むしろ嬉しそうだった。もう一方の手で、カトリーヌの背を撫でてやる。

「良かった、カトリーヌがあなたを気に入ってくれたみたいで」

「なかなか可愛い娘だな。うむ、私もお前を気に入ったぞ、カトリーヌ」

手を引き抜き、フィフィリアンヌはカトリーヌと目線を合わせる。細い指先を、カトリーヌの鋭い牙へ挟む。
カトリーヌの顎に、少し力が加わる。だがやはり甘噛みするだけで、彼女の指を本気で噛むことはなかった。
縦長の鋭い瞳孔を持った薄黄色の目に、フィフィリアンヌが映る。カトリーヌの翼が、徐々に折り畳まれる。
フィフィリアンヌはしばらくカトリーヌを眺めていたが、顔を上げた。少々訝しみながら、カインに尋ねる。

「だが、この子はまだ幼生だ。カインは、なぜこのような幼子と契約しているのだ?」

「カトリーヌは、みなしごなんです」

ちょっと目を伏せ、カインはカトリーヌの背を撫でる手を止めた。ぎしゃあ、と声が上がる。

「母親が、人間に殺されてしまって。この子はその時、卵の状態でお腹の中にいたんです。それを僕が」

「なるほど。引き取って孵化をさせ、契約を果たし、今に至るというわけか」

「ええ。それに、僕は召喚術では戦わないし、どうせなら契約獣にした方が安全かなって思ったので」

フィフィリアンヌと見つめ合っているカトリーヌを見、カインは少し笑う。彼女の赤い瞳が、少し細められた。
ギルディオスは、何の気なしに呟いた。ワイバーンを殺すような輩は、これしか思い当たらなかった。

「ドラゴン・スレイヤーの仕業か」

「貴様、あの低俗な職業に通じているのか?」

振り返ったフィフィリアンヌに睨まれ、ギルディオスは両手を上向ける。

「一度、ちょっと誘われただけさ。断ったがね。オレが殺し方を知ってるのは人間だけさ、ドラゴンじゃねぇ」

「そうか」

少し安心したように、フィフィリアンヌは目線を外す。彼女の背の翼が、眉の代わりにへたりと下げられた。
カインはフィフィリアンヌの横顔と、つやりと銀色に輝くギルディオスを眺めていた。これはこれで、仲は良いようだ。
だが、二人の関係を明確に表す言葉は浮かばない。友人にしては距離があるが、知り合いほど希薄ではない。
カインが思考に浸ろうとしたとき、ごぽん、と水音がした。普段より若干色の濃い伯爵が、体を伸ばしている。

「だがカインよ。カトリーヌの年齢は、肌の色からして半年ほどに見えるが、それにしては小さすぎはしないか?」

「よく解りますね」

「我が輩も、伊達にフィフィリアンヌの近くにいるわけではないのである。翼の発育も、少々悪いように思えるぞ」

にゅるり、と伯爵の先端がカトリーヌの手前へ伸ばされた。警戒したのか、カトリーヌは一声叫ぶ。

「うむ。このままでは、飛行能力が鈍ってしまうのである」

「毒針も伸びが悪いな…」

と、フィフィリアンヌはカトリーヌの細長い尾を持ち上げた。その先端から、先の丸い針が覗いている。
カトリーヌの尾の先端から、にゅっと毒針が伸ばされる。だが毒は出されず、すぐに中に引っ込められた。
ふらふらと動くカトリーヌの尾を下ろしてから、フィフィリアンヌはカインを見上げた。

「カトリーヌには、何を与えている?」

「えっと…カエルの肉に竜眼草の葉と野ウサギの生き血を混ぜたものと、ツチトカゲを日に三匹ほど」

「悪くはないが、それでは足りんぞ。この子には、もう少し食べさせても良い」

体を起こしたフィフィリアンヌは、カトリーヌの顎を指で挟む。するとカトリーヌは、かぱっと口を開く。
大きく開かれた口の中には、毒々しいほどに赤く細長い舌と、尖った白い牙がずらりと並んでいる。
その奧を覗き込んでいたフィフィリアンヌは、んー、と自分の顎へも手を添えて唸る。

「脱皮は?」

「先々週に一度。これで二度目になりますね」

カインが答えると、フィフィリアンヌはカトリーヌのつやりとしたウロコを撫でる。

「となると、あと一週間ほどで幼年期を終えるな。人間で言うところの、歩き始める時期だ」

「まるで小児検診だな」

フィフィリアンヌの背後からカトリーヌを見下ろし、ギルディオスは笑う。この様子が、妙に可笑しく思えた。
開けていた口を閉じ、カトリーヌはギルディオスを見上げて少し首をかしげた。一度、瞬く。
ばさりと翼を広げたが、すぐに閉じてしまった。フィフィリアンヌは、その両翼を持ち上げて広げる。

「骨の成長も皮の張り方も悪くない。そろそろ、飛んでも良いはずなのだが…」

「それなんですよねぇ」

困ったように、カインは眉を下げる。上目に彼を見、カトリーヌはぎゃあぎゃあと叫ぶ。

「僕も飛行訓練をさせてみたけど、まるで飛ぶ気配がないんです。たぶん、飛び方が解らないんじゃないかな」

「それは当然というものだ。翼の動かし方、体の浮かせ方を知るためには、親の飛ぶ姿を見る必要があるからな」

親がいなければ仕方のないことだ、とフィフィリアンヌは付け加えた。言葉が解るのか、カトリーヌはしゅんとした。
気落ちしたその姿に、フィフィリアンヌは少し罪悪感を感じ、顎と首筋を撫でてやる。きゅう、と力ない声がする。
撫でてもらいながら、カトリーヌは鼻先をフィフィリアンヌの手へ押し当てた。もう大丈夫、と言うように。

「あの」

恐る恐る、カインはカトリーヌを差し出してきた。カトリーヌは大きく口を開き、主の手の上から身を乗り出す。
小さな翼を羽ばたかせながら、ぐるぐると尾を振り回す。乗り出しているせいで、手の上から落ちかけている。
カインは訝しげな三人を見回していたが、申し訳なさそうに言った。次第に、その声は小さくなっていく。

「知り合ったばかりなのに、こんなことを頼むのはとっても申し訳ないんですが…」

「言うなら早く言え」

「僕、明後日から親戚周りと旅行に行かなきゃならないんですよ。南方へ、半月ほど。それで」

肩を竦めているカインを、フィフィリアンヌは下から覗き込む。

「つまり、貴様はカトリーヌを私に預かって欲しいと?」

「ええ。家に置いていくわけにも行きませんし、うっかりドラゴン・スレイヤーに見つかったらと思うと…」

「なるほど。なかなか合理的な判断だな」

少し感心したように頷き、フィフィリアンヌは身を引いた。カインは、表情を綻ばせる。

「それじゃあ」

「金は頂くぞ。カトリーヌに与える食事に、少々滋養の薬を混ぜてやらんとだからな」

フィフィリアンヌの手が掲げられると、条件反射のようにカインは懐へ手を入れた。少し臆しながら、尋ねる。

「…いくらですか」

「金貨十七枚」

手を広げたフィフィリアンヌは、それをカインに差し出した。財布を取り出したカインは、その中を探る。
枚数を数えながら取り出した金貨を、一枚ずつ、フィフィリアンヌの小さな手のひらへ落としていく。
かちゃん、と十七枚目が納められる。金貨の乗った手を握り締めながら、彼女は満足げに目元を緩める。
半月の子守にしてはやたら高い値段に、カインは苦笑していた。内訳は解らないが、大半は薬代なのだろう。
だが、カトリーヌの安全には替えることは出来ないんだ、とカインは自分に言い聞かせていた。
やたらと機嫌の良く笑い続ける伯爵の声に、時折、カトリーヌの高い鳴き声が混じった。




新たな住居者は、暖炉の前に居座っていた。
古い布やクッションをカゴにまとめた簡単な寝床に、カトリーヌはとぐろを巻いた格好で納まっている。
カインが帰ったあと、すぐに眠ってしまったのだ。穏やかな寝息と共に、薄灰色の腹がゆっくり上下していた。
ぱたん、とカトリーヌの長い尾が揺れる。そうして何度も床に叩き付けているせいで、赤いリボンが緩んでいる。
ギルディオスはそれを結び直してから、まじまじと幼子を眺めてみた。どこが可愛いのか、まるで解らない。
体は小さいが、本気で噛み付かれてしまえば深傷を負うのは間違いない。鋭さがないとはいえ、毒針も脅威だ。
そんなワイバーンのどこに、カインとフィフィリアンヌは可愛げを見いだしたというのか。見当も付かなかった。
美的感覚の違いってやつかね、と、彼は独り言を呟く。また、ばしん、とカトリーヌの尾が床に振り下ろされる。
井戸掘りの作業に戻ろうと思い、ギルディオスは立ち上がった。すると、フィフィリアンヌに呼び止められた。

「どこへ行く、ギルディオス」

「井戸を掘りに」

ギルディオスは、井戸の方を指す。作業台で調薬をしていたフィフィリアンヌは、試験管で甲冑を指した。

「何を言う。これから貴様には、ヘビを何匹か生け捕って来てもらわねばならん」

「…うぇ」

カエルを潰したような声を出し、ギルディオスは動きを止める。顔があれば、青ざめていたことだろう。
その様子を気にも留めていないのか、薬液の入った試験管を揺らしながら、フィフィリアンヌは平然と言い放った。

「カトリーヌに喰わせる分と、私が喰う分だ。ヘビなど、尻尾を掴めば一発ではないか」

「でもオレ、井戸を」

「あんなもの、いつでも掘り起こせるだろう。カトリーヌが先だ」

「だけどさぁ…」

いつになく気弱な声を出したギルディオスは、じりじりと後退して、フィフィリアンヌとの距離を開いていった。
徐々に遠ざかっていったが、本棚にぶつかって止まってしまった。がしゃりと背を丸め、俯いてしまう。

「…爬虫類だけは嫌い」

「ギルディオス、貴様は今年で三十四だろう。いい歳をして何を言うのだ」

「生理的嫌悪感ってやつだよ!」

「私やカトリーヌは平気なのにか?」

「それとこれとは別なんだよ!」

肩をいからせ、ギルディオスは声を上げる。情けないの恥ずかしいので、半ば自棄になっていた。
ことん、と机に置かれたワイングラスが前進する。伯爵はぐにゃりと体を持ち上げて、甲冑に先端を向ける。

「情けないな三十四歳。それでも、貴君は三十四歳なのであるか?」

「どうとでも言ってくれ。オレは行かねぇぞ、絶対にヘビなんて捕まえてこないからな!」

開き直ったギルディオスは、どっかりと座り込んだ。腕を組み、顔を逸らしてしまった。
フィフィリアンヌはちょっと面食らったような顔をしたが、すぐに表情を元に戻し、試験管を揺らし続けた。
充分に混ぜると、ランプの上に乗せてあるフラスコの中へちゃぽんと投じた。立ち上る湯気の色が、変わる。
フラスコの底へ当たる火を弱めてから、フィフィリアンヌは背後の壁へ立て掛けてある、大きな剣に手を添えた。

「ならばギルディオス、この剣を借金の質草とするぞ」

「え?」

思わず振り向いたギルディオスへ、フィフィリアンヌは淡々と続ける。

「ヘビを捕りに行かねば、貴様の剣を売ってしまうと言っているのだ。銀貨四十枚にはなるだろう」

「え、あ、おいちょっと待てよこら!」

立ち上がったギルディオスは、フィフィリアンヌに詰め寄る。すいっと動き、少女は剣の前に立った。
フィフィリアンヌの吊り上がった瞳が僅かに細められ、ギルディオスを見上げる。そこには、妙な迫力があった。
空いている方の手を挙げ、フィフィリアンヌはヘルムを真っ直ぐに指した。徐々に手を上げて、間合いを詰める。

「さあどうする、三十四歳?」

「やりゃあいいんだろ、やりゃあ。だが、なんで三十四歳を連呼するんだよ、お前らは」

力の抜けた呟きを洩らしながら、ギルディオスは目の前の少女を見下ろす。こればかりは、妥協せざるを得ない。
剣がなければ、剣士とは名乗れない。使い慣れた武器が手元になければ、戦えるものも戦えなくなってしまう。
そうなってしまうくらいであれば、ヘビを捕まえてきた方がマシだ。と、彼は何度も自分に言い聞かせた。
巨大なバスタードソードの前から身を引いたフィフィリアンヌは、また作業台へ戻っていった。

「最初から、そう言っておけばいいものを」

「嫌いなもんは嫌いなの。フィルにもあるだろ、そういうの」

バスタードソードのベルトを袈裟懸けにし、ギルディオスはそれを大事そうに背負った。胸の前で、ベルトを止める。
湯気の立つフラスコの中に、また別の試験管から薬が投下される。青っぽい湯気が、薄緑に変わっていく。
熱せられて泡立っている赤紫の液体を見つめていたが、フィフィリアンヌは思い出したように呟いた。

「私は冒険者が嫌いだ。奴らの思考と趣味だけは、何があっても受け入れられん」

「なんだそりゃ」

「言えと言ったのは貴様だろうが」

怪訝そうに、フィフィリアンヌがギルディオスを見上げる。机の上から、伯爵が笑う。

「はっはっはっはっはっは。ちなみに我が輩は」

「別に伯爵にゃ聞いてねぇよ。とりあえず、ヘビをとっ捕まえて来るわ…」

扉を開け、ギルディオスは背を向けながら力なく手を振る。足を引き摺るようにしながら、外へ出て行った。
フィフィリアンヌはギルディオスが扉を閉めるのを確認してから、すぐに調薬作業へ注意を戻す。
カトリーヌが起きてしまう前に、彼女の食事に混ぜて与える栄養剤を、夕食までに作ってしまわねばならない。
次第に煮詰まり、色の濃くなってきたフラスコの中へ薬草の粉末を入れる。ごぼん、と中身が泡だった。
赤紫から青味が消え、完全なる赤色の液体になった。ランプの火を消すと、赤が薄まって薄紅色に変化する。
フラスコの底で薬草の粉末が煮溶け、ふわりと甘い匂いが漂う。子供向けということもあり、甘い味になっている。
あとは冷ますだけとなったので、フィフィリアンヌは作業台から離れ、机に置いておいたワインを手に取った。
それをグラスに注ぎ、フィフィリアンヌが傾けていると、伯爵は触手のように細長くさせた先端を彼女へ伸ばす。

「フィフィリアンヌよ」

「なんだ」

「随分と、いい材料で薬を作るではないか。それでは、採算が取れんぞ」

伯爵の言葉に、フィフィリアンヌは顔を逸らした。

「気が向いただけだ。それに採算など、元よりあってないようなものだ」

くいっとワインを飲み干したフィフィリアンヌは、カトリーヌへ目線を落とした。幼子の体勢が変わっている。
狭いカゴの中で身を捻って仰向けになり、無防備に小さな腹を晒している。だらしなく、尾が垂れ落ちていた。
フィフィリアンヌはその姿を見つめていたが、ワイングラスを机に置いてから、カゴの前にしゃがみ込んだ。
棘と翼のある背へ手を差し入れ、くるんと裏返してやる。カトリーヌは起きることなく、簡単に俯せになった。
生えかけのヒレが並ぶカトリーヌの背に、フィフィリアンヌの白い指が滑る。こうしてやると、竜族はより深く眠る。
手を動かしながら、フィフィリアンヌはカゴの隣へ座り、カトリーヌを撫で続けた。




数時間ほどして、ギルディオスが帰ってきた。
泥と枯れ草まみれになって、しゃくり上げている。かなり必死に、ヘビを探して駆けずり回ったらしかった。
がしゃん、がしゃん、と肩が上下するたびに鎧がうるさく鳴った。それは、恐ろしく情けない姿だった。
ギルディオスは深く項垂れて、力なく歩いてきた。カトリーヌの隣に座る、フィフィリアンヌの前に立った。
おもむろに右手のガントレットに手を掛け、くるりと回した。がしょん、と繋ぎ目が緩み、作り物の腕が外される。

「…ヘビ」

だらりと下げられた腕の中から、ぼとぼとと十数匹のヘビがなだれ落ちてきた。床に転がり、それらはうねる。
足元に絡み合うヘビから目線を外したギルディオスは、無言でガントレットを元に戻し、あらぬ方向を見上げた。
呆然と立ち尽くすギルディオスから目を外し、フィフィリアンヌは床で暴れ回るヘビをおもむろに一匹捕まえた。
毒牙のある口を開かせていると、腕にうねうねとヘビが絡み付く。テーブルやカトリーヌにも、絡んでいった。
フィフィリアンヌがギルディオスに礼を言おうとすると、ギルディオスは後退り、壁に背を当てると座り込む。
膝を抱えて、かたかたと震える手を胸の前で固く握りしめる。そして、感情を押し殺した声を出した。

「ヘビ嫌いヘビ嫌い怖い怖い怖い」

「本当にダメだったのか」

呆れたようにフィフィリアンヌが呟くと、ギルディオスは半泣きになりながら叫ぶ。

「当たり前だぁ!」

「だが、その嫌いなヘビを体内へ収納して運んでくるとはな。大した根性だぞギルディオス、我が輩は感服した」

どこか可笑しげな口調になりながら、伯爵はワイングラスをギルディオスへ向け、ごとん、と前進させる。
伸ばしていた先端を落とし、たぽん、とスライムが揺れる。元々低い声を潜め、更に低くさせた。

「冷たい爬虫類のうねる感触、ずるずると腕の中を這うヘビ、時折体内より聞こえる威嚇の声…」

「うーわーいーやーぁあ!」

運んでいるときの感覚を思い出したのか、ギルディオスは頭を抱えて左右に振った。もう泣き声だった。
その反応が面白く思え、伯爵は続ける。ここまで反応が激しいと、いじることが楽しくてならない。

「指の先へ入り込む細長い尾、内部を伝って頭部へ近付く鋭い毒牙、ちろちろと甲冑を撫でる先割れの舌…」

「やめてやめてやめてやーめーてーぇええええ!」

更に激しく頭を振るギルディオスへ、伯爵は至極楽しそうに笑った。

「はっはっはっは、何を怯えているのかねギルディオス。我が輩はただ、想像を述べているだけに過ぎないのだぞ」

「いやだもうこわいよこわいよ」

かちかちと細かく震えていたギルディオスは、両手で顔を覆った。三十四歳になる男が、本気で泣き出した。
ヘルムを押さえる指の隙間から、おうちに帰るぅ、と弱々しい言葉が洩れる。フィフィリアンヌは、伯爵を睨んだ。
伯爵は、悪いことをしたとは思っていないようで、機嫌良く笑っていた。彼にとっては、暇潰しの一環に過ぎない。
震え続ける甲冑と、笑い続けるスライム。この異様な光景を、フィフィリアンヌは呆れ果てながら見ていた。
結局、ギルディオスが落ち着きを取り戻したのは、すっかり夜になってしまってからだった。


ギルディオスが必死に捕まえてきたヘビの数匹は、早速、彼女らの夕食になった。
ぶつ切りにされて煮詰められたヘビの肉が入った皿に、カトリーヌは頭を突っ込み、食らい付いていた。
テーブルの上に並べられたフィフィリアンヌの夕食は、珍しく料理が増えていた。といっても、ヘビの丸焼きだが。
訳の解らないスープの隣には、曲がりくねったヘビが突き刺され、こんがりと焼いてある串が置かれている。
ヘビの頭をくわえたフィフィリアンヌは、引っ張るようにして串から外し、頭を噛み砕いた。ばきり、と骨が割れる。
ギルディオスは、その顎の強さに驚いて肩を竦める。ドラゴンの血の力を感じさせる、人外の力だ。
べきべきとヘビの骨を噛んでいたフィフィリアンヌは、ワインで流し込む。頭から下も囓り、飲み込んだ。

「悪くないな。冬眠前のヘビは、脂が多くて良い」

皿の中身の大半を食べてしまったカトリーヌは、顔を上げた。満足しているのか、ぎゃあ、と一声上げた。
膝の上のナプキンを取り、フィフィリアンヌはべたべたに汚れてしまったカトリーヌの口元を拭いてやる。
その間、カトリーヌは大人しくしていた。幼いワイバーンは、すっかりフィフィリアンヌに懐いてしまっている。
まるで姉妹のような絵に、ギルディオスは内心でにやついてしまう。急に現れた女性らしさが、微笑ましい。
フィフィリアンヌはナプキンをまた膝に乗せると、反対側で頬杖を付くギルディオスを見上げた。

「なんだ」

「いんや、別にぃ」

「気色の悪い声を出すな、ギルディオス」

不機嫌そうに言い放ち、フィフィリアンヌはスープへパンを浸した。汁気を吸い込んだ欠片を、口へ放る。
カトリーヌも、また食事に戻った。ぺちゃぺちゃと水音を立てながら、ヘビの血が滲み出たスープを飲んでいく。
パンを食べ終えたフィフィリアンヌは、カトリーヌへ水の入った皿を差し出した。水には、あの栄養剤が混ぜてある。
淡い紅色の付いた水を、カトリーヌは喉を鳴らして飲む。食べるだけ食べたら、喉が渇いてしまったようだ。
カトリーヌを見つめるフィフィリアンヌの目を眺めていたギルディオスは、なんとなく既視感を覚えていた。
暖炉の炎を受けてちらちらと光る、赤く鋭い瞳に浮かぶ表情は、かつて妻が息子に向けたものと同じだった。
優しさと慈しみを混ぜた、母親の眼差しだ。フィフィリアンヌの目は笑うことはないが、愛情は込められている。
カトリーヌもそれを敏感に感じ取っているのか、時折高い声を出している。大方、喜んでいるのだろう。
また一声、きしゃあ、とカトリーヌが喚く。フィフィリアンヌの指先は、幼いワイバーンの鼻先を撫でている。

「フィル」

背を曲げてテーブルへ身を任せ、ギルディオスはフィフィリアンヌの手元とカトリーヌを見下ろす。
暖炉の明るさに照らされたフィフィリアンヌの横顔に、ギルディオスは少し笑う。

「なんつーか、お前も女なんだなぁ」

「そうらしいな」

珍しく否定することもなく、フィフィリアンヌはギルディオスへ返した。
暖炉の逆光の中、赤い瞳が瞼に沈んだ。いつのまにか、カトリーヌが黒いローブの膝に乗っている。
くるんと丸まったカトリーヌの小さな爪先が、ぎゅっと闇色を掴んでおり、放してくれそうになかった。
姿を見ぬ前に失った母親を求めているのか、それとも主人がいない今、目の前の安心に縋ろうとしているのか。
どちらにせよ、フィフィリアンヌはカトリーヌに好かれていることが嬉しかった。表情には、決して出さないが。
がたがたと窓を揺さぶる風は、冬の冷たさを石造りの家に染み込ませていた。暖炉の前以外、ひっそりと寒い。
きゅう、と小さな寝言が、フィフィリアンヌの膝の上から聞こえた。







04 11/15