ドラゴンは笑わない




血と歯車



グレイスは、気を張っていた。


ソファーに身を沈め、机に座る男を睨んでいた。その男は拡大鏡を使い、入念に設計図を覗き込んでいる。
小柄なせいで机が大きいらしく、身を乗り出していた。貧相な体格に、平民の服装がよく似合っていた。
手入れの悪い髪を後頭部で引っ詰めてあり、身なりはあまり良くない。故に、部屋の光景の中では浮いていた。
手の込んだ調度品が並び、上質な敷物が敷いてある。革張りのソファーも、座り心地は悪くなかった。
傍目に見れば、男はこの部屋の世話人のようだった。だが、この部屋と城の主は、間違いなくこの男なのだ。
設計図を細い指でなぞってから、ああ、と男は頷いた。愛想の良い表情を、小さな目に浮かべて笑う。

「これなら造れますよぅ。しかしあなたも冴えていますねぇ、なかなかの出来の設計図だ」

「そりゃどうも」

グレイスは頬杖を付き、にやりとした。男は設計図を丸めてから、両手を広げて何本か指を折り曲げる。

「材料はそちらで調達して頂くとしまして、その辺の経費を差っ引けば金貨二百五十三枚、といったところですね」

男は多少心配げな目になり、グレイスに向いた。反論もしないグレイスに、男は嬉しそうにする。

「ああ、払って頂けるんですね。それならいいですよ、それならば最高ですよぅ。たまにいるんですよねぇ、小さいものを造るんだから大した金はいらないだろうとか言って踏み倒そうとする人が。嫌ですよねぇ、ああいうの」

「了見が狭いのさ。そうでなきゃ、金がないんだろうさ」

グレイスがそっけなく返すと、解ってらっしゃいますねぇ、と男は満足げに頷いた。

「裏の世界の方々は、どうも荒っぽくていけませんよねぇ。いやはや、面倒な世界に住んでいますよ」

「全くだよ」

グレイスは貧相な男を、メガネ越しに見据えた。男はへらへらと笑いながら、設計図を楽しそうに眺めている。
一見しただけでは、正体は掴めなかった。掴み所のない外見をしているし、物腰はどこか弱そうだった。
だが、それは外見だけだ。その内側に流れる血と気配は、確実に同じものだ。グレイスは、それを感じていた。
男はグレイスの目線に気付き、顔を上げる。身を下げて椅子に座り直すと、表情を少しばかり固める。

「そう恐い顔をしないで下さいな。あなたを殺す気はありませんよぅ」

「どうだかね」

グレイスは丸メガネを外し、灰色の服の裾でレンズを磨いた。平たいガラスに、ぺかりと日光が跳ねる。

「仮にも、あんたは親父の後継者だ。跳ねっ返りを殺すのも、その中に入ってる可能性はある」

「いえいえ。今のあなたを敵に回すと、私が死んでしまいます」

「そいつもどうだか。魔導技師ってのは、魔法に頼らない分手先が器用だからな」

グレイスの口調は、警戒心に充ち満ちている。男は、困ったように眉を下げた。

「買い被り過ぎですよ。確かに私は、今でもそこらの暗殺者にだって負けない暗殺技術を持っていますけど、やはり真っ当な呪術には勝てませんよ。あなたの扱うような正攻法の呪術に勝る、殺しの方法はありません」

グレイスに睨まれたまま、男はもう一度頷いた。グレイスはしばらく目を強めていたが、ふいっと顔を背けた。
その不機嫌そうな横顔を、男は入念に眺めていた。骨張った手で頬杖を付き、どこか懐かしげに言った。

「あなたはお父上に似ていますねぇ。私よりも、ずっと」

「馬鹿言え。オレがあの野郎に似てると思うのは、目の色だけだ。他は全部、母さんの血だ」

「いえいえ。鼻筋の辺りとか髪の質とか、骨格の具合とかがよぉく似ていますよぅ。羨ましいほどだ」

目を細めた男に、グレイスは怪訝そうな声を出す。

「羨ましいだと?」

「はい、とても。見ての通り、私はこんなんですからねぇ」

仕事には都合が良いのですが、と男は背後の窓に向いた。目立たない顔立ちの男が、映り込んでいる。

「私も、もう少しお父上に似ていましたら大っぴらにこの家を侵食したんですけどねぇ」

「理屈が良く解んねぇな」

「まぁ要するに、自信がない、ってことですよ」

男は苦笑いしながら、多少色の明るい黒髪をいじった。小さな灰色の目が動き、改めてグレイスを眺め回す。
グレイスはその視線から逃れるように、目を逸らした。男は腕を組み、まだ新しさの残る天井を仰ぐ。

「私もあなたのようでしたら、真っ向からルーを名乗りましょう。ですがそうでないから、名乗らないのです」

「名乗りゃいいだろ。あんたが当主なんだから」

今のところは、とグレイスは付け加えた。すると男は、ちょっと不満げにした。

「その、グリィ。私を名前で呼んで頂けませんかねぇ。どうにもやりづらいんですよ、私としても」

「そうかねぇ」

グレイスとしては、あまりやりづらさを感じてはいなかった。対象者の名を呼ばずにいることなど、よくあるのだ。
呪術師をしていると、敵に名を知られぬように名乗らない場合も多い。名乗ってしまうと、名前を握られるからだ。
名前とは、人間そのものを縛る言葉である。故にどんな呪いも、被術者の名を組み込んで呪いを成し上げている。
だからグレイスは、腹の悪い依頼主から呪い殺されないために、最後まで相手に名乗らないことも多かった。
グレイスという名は本名の略称なので、一応予防線は張っている。それでも、気を付けるに越したことはない。
男はグレイスを見つめていたが、にやりとした。底意地の悪さが滲み出た笑みとなり、声を潜めた。

「あなたがそう来るのであれば、本名で呼んで差し上げましょうか? グレイセンシュタイフ・ラス・ルー」

「解った解った。そこまで言うなら仕方ねぇ、ちゃんと呼んでやるよ。デイヴァレンセント・ルーロン・ルー」

投げやりに言い返し、グレイスはむくれた。長々しい本名で呼ばれることは、あまり好きではない。
そうそうそれでいいのです、と男は表情を元に戻した。立ち上がると、グレイスの向かい側にやってきて座る。

「ですが、その長ったらしいのではあなたもやりづらいでしょうから、略称でお願いしますよ」

「最初っからそうしろよ、デイビット」

腹立たしげに吐き捨て、グレイスはすっかり冷めてしまった紅茶に手を伸ばした。その水面に、指を付ける。
刺激はなく、毒は仕込まれていないようだった。グレイスは紅茶を取ると、少し口に含んで確かめてから呷った。
デイビットは用心深いグレイスに、苦笑いした。そして自分もティーカップを取り、生温い紅茶を傾ける。

「しかし珍しいですねぇ。兄弟から仕事の依頼を受けるとは」

半分ほど中身の減ったティーカップを下ろし、デイビットはグレイスを見上げる。

「時たま、私の立場が羨ましいと言って襲いに来る兄弟もいましたが、あなたはそれではないようですねぇ」

「馬鹿か。誰が好き好んで、偉大なるご先祖の気の触れた呪いを受けたがるかってんだよ」

「まぁ、たまにいるんですよ。私の位置付けを、ルーロンの継承者か何かと間違えて解釈する愚かな兄弟がね」

それに比べて、とデイビットは嬉しそうに笑む。

「グリィは賢い人です。私の位置付けを、最初から何なのか理解している」

「そりゃどうも」

グレイスは、にいっと口元を広げた。デイビットは残った紅茶を飲み干してから、かちゃりとティーカップを置いた。

「長いこと魔導機械をいじっていると、こう思えてくるんですよねぇ。私は、ルーロンの歯車に過ぎないのです」

デイビットの目線が上がり、机に置かれた時計に向いた。古びた置き時計は、磨き上げられて輝いている。
かちり、かちり、かちり、と小さな硬い音がしていた。長針が目盛り一つ分動くと、短針も僅かに動いた。
魔導鉱石の埋め込まれた文字盤を見ながら、デイビットは呟いた。その声に、歯車が噛み合う音が混じる。

「長きに渡るルーロンの呪いを動かすための、小さな歯車の一つに過ぎないんですよねぇ。早々にその仕掛けの中から脱落したグリィは、さしずめ歯の噛み合わない歯車でしょう。あなたはそういうお人だ」

グレイスが答えずにいると、デイビットは続ける。

「ですが、どの歯車とも噛み合わない歯車も、位置付けはちゃあんと存在する。機械というものは粗雑に見えて繊細なのです。どんなに小さな歯車だろうとも、一つでも歯が欠けていたり抜け落ちていたりすれば、少しだって動かなくなってしまうのです」

「何が言いたいんだ」

「グリィも、やはり歯車の一つなのです」

にっこりと笑い、デイビットはティーポットを傾けた。琥珀色の液体がティーカップに満ち、薄い湯気を昇らせる。

「噛み合い続けていた歯車の間から抜け落ちて、巨大なる機械を狂わせるために存在する異端の歯車ですよ」

グレイスは、面白くなさそうにしている。デイビットは二杯目の紅茶を飲んでから、深く息を吐いた。
かちり、とまた時計の針が進んだ。デイビットは目を動かして置き時計を見ていたが、またグレイスに戻す。
グレイスは腰を落とし、ソファーに座り込んだ。肩に乗っていた黒髪の緩い三つ編みが、滑り落ちた。

「薄汚ぇ血で出来た歯車か」

「そういうことです。血に濡れて錆び付いた、軋みの激しい歯車なのです」

デイビットは、やさぐれているグレイスを眺めてみた。極めて機嫌の悪い灰色の呪術師は、窓の方を睨んでいる。
評判通りの男だ、と思った。彼の自尊心を揺らがせるようなことを言ってみても、決して揺らぎはしない。
策謀の裏に動くグレイスの話を、兄弟や同業から聞いていた。そのどれも、彼の実力の高さを示していた。
一見すれば無鉄砲にしか思えない行動も、狂いのない計算と確かな自信に基づいているものなのだ。
初めて会う弟だったが、不思議と親近感が湧いていた。その理由は血縁だけでなく、何か相通ずるものがあった。
グレイスの経歴のせいだろう、と思った。デイビットも、当初はルーロンの命から逃げて生きていた。
ルーの本家の長男は、本来であれば呪術師になるのが筋だ。だがデイビットは、魔導技師の道へと進んだ。
のらりくらりと家柄の呪縛から逃れて、真っ当でない道を歩いていた。それは、とても楽しい日々だった。
父親の命にまともに従ったのは、十年ほど前からだ。父親の死去に伴い、ルーロンの呪いを受け継いだのだ。
最初は、次男にでも押し付けてしまおうと思っていた。だが、押し付ける前に次男は帝国に殺されてしまった。
なので、デイビットは仕方なくこの位置付けにいた。ヴァトラス家に取り入るのも、本意の行動ではなかった。
デイビットは、広い寝室の奧にある扉に目をやった。スイセンの家紋が印された、厚い扉が閉まっている。
珍しく、罪悪感が湧いていた。騙して婚礼を行わせた妻が、思い掛けずに愛してくれているからというのもある。
テーブルに目線を戻すと、綺麗に出来上がった焼き菓子が皿に載っていた。彼女は、客をもてなすのが好きだ。
デイビットはそれを一つ取り、食べてみた。柔らかな甘さとバターの香りが広がり、実においしかった。

「食べたらいかがです。いけますよ」

デイビットは、クッキーの皿をグレイスに押し出した。グレイスはデイビットと皿を見比べたが、顔を背ける。

「生憎だが、オレの趣味じゃない。ごってごてにクリームが付いて甘い方が好きなんでね」

「胃に悪いですよぅ」

「オレは消化出来るからいいんだよ」

そうは言いながらも、グレイスは皿へ手を伸ばした。二三個を掴み取ると、口の中に放って噛み砕いた。
途端に、グレイスの表情が緩んだ。子供のような顔をしてクッキーを食べ続ける彼に、デイビットは変な顔をした。

「なんだかんだで食べているじゃないですか」

「毒がなきゃ喰うさ、なんだって」

グレイスは、更に数個を口に投げ込んだ。デイビットは皿に手を伸ばし、自分の分をいくつか確保した。

「甘い物が好きなら好きと、最初から言えばよろしいのに」

「カッコ悪いじゃねぇか、そういうの」

クッキーを飲み下してから、グレイスは気恥ずかしげに言う。デイビットは、手の中のクッキーを食べ終えた。

「思春期の少年のようなことを言いますねぇ。グリィ、あなたは今年で百四になるはずでしょうに」

「悪ぃかよ」

「いえ、別に悪くはないんですけどねぇ。ただなんか、違和感がありまして」

デイビットは、不可解げに首をかしげる。グレイスはティーポットを取り、自分のティーカップに紅茶を注ぎ込む。

「オレは別にねぇなぁ、気にしてないから。そうか、今年でオレは百四かぁ。早ー」

「自分の歳ぐらい自分で数えて下さいよ」

「面倒くせぇんだもん」

グレイスは紅茶を飲みつつ、興味なさそうに返した。皿に載っていたクッキーの大半は、もうなくなっていた。
それを見、ありゃ、とデイビットは目を丸めた。皿をぐいっと引き寄せながら、不満げな顔をする。

「全部食べちゃわないで下さいよぅ」

「自分から勧めといて、今更引っ込めるんじゃねぇよ」

皿の反対側を、グレイスは掴んだ。デイビットはかなり情けない顔をしながら、皿を徐々に引き寄せていく。
だが、グレイスの手は緩まなかった。それどころか、力を込めて自分の方に引っ張り込もうとしている。
二人の手が皿の両端を握り締めたとき、扉が叩かれた。デイビットは扉と彼を見比べたが、皿から手を放した。
デイビットはソファーから立ち上がり、扉に向かっていった。返事をしながら、重たい扉を引いて開ける。

「はいはい?」

「お菓子、足りているかと思って」

扉の隙間から顔を出したのは、あどけなさの残る女性だった。軽く波打った薄茶の髪が、肩に乗っている。
エプロンドレス姿ではあるが、育ちの良さを感じさせるものがある。どうやら、デイビットの妻のようだった。
デイビットの肩越しに、部屋の中を覗いてきた。クッキーの減り具合を見ると、グレイスに向けて笑ってみせる。

「お気に召したなら、もっと持ってきますわよ。うちの人がこういうの好きだから、一杯作ってあるんです」

「くれるってんなら、遠慮なく頂きたいですな」

グレイスは嬉しそうに笑うと、女性はデイビットへ向き直った。

「ですけど珍しいわ。あなたの元にいらっしゃるお客様って、ほとんど何も食べないで帰ってしまうのに」

「そういえば、そうですねぇ」

デイビットは、妻に笑って返した。グレイスに顔を向けると、彼女を手で示す。

「グリィ、紹介しましょう。私の妻です」

「ナターシャ・ヴァトラスと申します」

礼儀正しい動作で、ナターシャは頭を下げてきた。それに合わせて、グレイスも少し頭を下げてみせた。
ナターシャは顔を上げると、それでは持ってきますね、と足早に廊下を駆けていった。軽い足音が遠ざかっていく。
廊下を駆けていく若い妻の背を、デイビットは見送っていた。その表情は、いやに申し訳なさそうだった。
扉を閉めてから、デイビットは眉を下げた。クセの付いた前髪をいじりながら、妻の去った方に目を向ける。

「あの人も寂しいんですよねぇ。だから、グリィみたいな怪しいのが来ても喜ぶんですよねぇ」

「そりゃあんたのせいだろ」

残ったクッキーを全て掴み取り、グレイスは口の中に押し込んだ。ああ、とデイビットは残念そうに手を伸ばした。

「まぁ、そりゃそうなんですけどね。帝国の皇太子を殺したあとに、彼女の親兄弟も全て殺してしまいましたから」

「んで、あの女も殺すのか」

グレイスはクッキーを食べ終えてから、汚れた指先を舐めた。デイビットは扉に寄り掛かり、頷いた。

「ナターシャはグリィを見てしまいましたし、私の正体に薄々気付いているようですしね。あの人は気を回すのが好きですから、掃除のついでに机を見ているはずです。その時に、私の原稿用紙の下に隠された魔導兵器の設計図や暗殺の手筈を記した書き付け、更には呪いの魔法陣を書いた紙も見てしまっているはずです」

「その確証は?」

「こうして来客があるときに、やたらと顔を出してくるんですよねぇ。色々と、気になっているんでしょう」

デイビットは首の後ろに手を回して、薄い金属の板を取り出した。薄べったい銀色のヤスリを、ぴん、と弾いた。
男の笑みは、物悲しげだった。ルーロンの願いの大半を成し遂げているのに、達成感は少しも見えなかった。
それどころか、後悔しているような雰囲気すらあった。ヤスリの端を指でなぞっていたが、肩を落とす。

「私の商売道具は、こんな使い方をするためのものじゃないんですけどねぇ」

使い込まれて薄くなったヤスリが、鈍く光っていた。所々に浮かんでいる僅かな錆は、血で出来たものだった。
ヴァトラスの血を吸ったヤスリを握り、デイビットは目を伏せている。グレイスは、残った紅茶をカップに注いだ。
グレイスは甘みのない紅茶を飲みながら、気落ちしているデイビットを眺めた。人殺しが、苦手なのかもしれない。
だが、代わりにしてやろうという気にはならなかった。ヴァトラスの一族を滅ぼすのは、デイビットの役目なのだ。
手を出したりしたら、拒絶したはずのルーの血の流れに引き戻されてしまう。それに、これは他人の仕事だ。
他人の仕事に手を出しても、ろくなことがあるはずがない。依頼されれば別だが、されなければやる気はない。
デイビットは、上目になって扉に付けられたスイセンの家紋を見上げた。グレイスを見、力なく笑う。

「あ、ご心配なく。あなたの手は借りません。これは私の仕事ですからねぇ」

デイビットは扉に手を掛け、蝶番を軋ませながら開いた。

「それではグリィ、しばしのお待ちを。妻を殺めてまいりますので」

デイビットは、するりと扉の間を抜けた。グレイスは紅茶を飲み干してから、かちゃりとティーカップを置いた。
雑然とした部屋の中を、見回してみた。机だけでなく、調度品の上にも大振りな置き時計が置いてあった。
かちり、と歯車が噛み合う音がし、長針が動いた。それを眺めながら、デイビットの口振りを思い出していた。
巨大なる機械。ルーロンの組み上げた、ヴァトラスを滅ぼすための機械細工。彼は、その中心となる歯車だ。
だが彼は、それらしくない。デイビットが受け継ぐ前に、呪いの要にいた者達はその位置付けを誇りとしていた。
ルーロンの血を受け継いだことをまず誇り、長男であることを誇ってヴァトラスを侵食することを楽しんでいた。
しかし、デイビットは楽しんでいるようには見えない。体面だけはそう繕っているようだが、内面は違うはずだ。
デイビットの本心は、別にあるはずだ。そう思いながら、グレイスは閉ざされている扉へと目を向けた。
血の匂いが、どこからか漂い始めていた。


グレイスは回廊に出、奥まった場所へと向かった。
カビ臭さの混じる湿った空気に、生々しい鉄臭さが広がっていた。それが、廊下全体を満たしている。
小さな窓から差し込む日光が、照明の役割をしていた。石で造られた床に、赤黒い水溜まりが出来ていた。
淡く柔らかな光に照らされた女が、血溜まりに沈んでいた。床に落ちている皿は砕け散り、菓子が散らばっている。
それを、デイビットは見下ろしていた。右手に握られたヤスリは血に染まっているが、返り血は浴びていない。
女の背後にある壁に背を当てて、立っていた。デイビットはグレイスに気付くと、ふにゃりと表情を崩した。

「多少派手になってしまいますが、確殺するにはこれが一番です。頸動脈は切りやすいですしねぇ」

グレイスは、目を見開いているナターシャの近くにしゃがみ込んだ。華奢な白い首筋に、深い傷口が出来ている。
エプロンドレスの首から下は赤黒く、ぬるりとした光沢を帯びていた。血の匂いには、まだ体温が残っている。
声も上げられなかったのか、唇は半開きになっていた。何があったのか解らない、というような顔だった。
グレイスは割れた皿の上に残ったクッキーを一つ取り、食べた。先程のものと変わらず、優しい味をしていた。

「それなりに気に入っていた方ですと、殺すと寂しいものがありますねぇ」

デイビットは服を探って布を取り出すと、ヤスリを拭った。だらしない笑みを浮かべ、軽い口調で言う。
グレイスはナターシャから目を上げて、デイビットを見上げた。妻を見下ろす彼の目は、愛おしげでもあった。

「さて。もうじき、ヴァトラス家は完全に崩壊することでしょう。本家も乱れに乱れて大半が死に絶えてしまいましたし、分家の最後の女であるナターシャも、こうして死にました。ヴァトラスの跡取りは、もう生まれることはありません」

グレイスは立ち上がり、デイビットに背を向けた。デイビットは、淡々と続ける。

「残すところは、帝国に攻め入ったヴァトラスの息子達ですねぇ。ですが彼らも、近いうちに死んでしまうことでしょう。魔力封じの呪いをいくつか掛けておきましたから、魔法を放てずに戦死してしまうのが目に見えております」

廊下を行く灰色の背を、デイビットは見つめた。

「グリィ。あなたのご注文の品は、近いうちに造りますよぅ。両国の手が、私に届かぬうちにね」

「ああ、頼むわ」

そう返し、グレイスは歩き出した。その背に向けて、デイビットは独り言のように呟いた。

「ルーロンの血で造られた歯車は、綺麗に組み上がってしまっているようです。私もあなたのように、お父上に逆らう気力があれば良かったと思いますよ。途中で呪いを中断することも出来ず、ずるずるとここまで来てしまいました。逃げ出すことも、考えていないわけではありません。ですが、私がこの位置から抜け出したら、せっかく組み上げたヴァトラス崩壊の算段が、狂ってしまいます。むやみに他人を殺めることは好きではありませんが、計算が狂う方がもっと好きではありません。せっかくですから、私はこの位置付けを最後まで全うすることにしますよぅ」

廊下の中程まで歩いたグレイスは、足を止めた。振り返ると、デイビットは笑みを向けていた。

「グリィ。気が向いたらでいいですが、私のお手伝いをお願いしますよ。あなたは、信用に値するお人だ」

「どうだかな。手のひら返すのが得意なんでね」

グレイスは、肩を竦めてみせる。デイビットは、首を横に振る。

「いえいえ、信用しておりますよ。あなたは頼れる人です。いつか、あなたの手を借りる日が来ることでしょう」

グレイスは何も言わずに前に向き、静かに歩き出した。廊下を歩くと、固い壁に硬い音が反響して返ってきた。
ひっそりとした廊下を通り、階段を下りていった。口の中には、甘ったるい菓子の味がありありと残っていた。
幅のある廊下に出ると、回廊に出た。その先には末広がりの階段があり、正面玄関のある広間に降りていた。
グレイスは、足を止めた。階段の先にある正面玄関の、扉の上にはスイセンの浮き彫りが埋め込まれていた。
掃除の行き届いた手すりに手を乗せて、その家紋を見据えた。デイビットの考えは、甘ったるく気に食わない。
デイビットが垣間見せた本心は、位置付けから逃れたがっているようだった。だが、逃れられずにいるようだ。
逆らうなら逆らえ。血の流れに流されることが面白くないのなら、目一杯抵抗してやればいいものを。
歯車になりたくなければ、壊してしまえばいい。グレイスは内心で毒づきながら、ちらりと横に目をやった。
高い位置にある窓に、顔が映っていた。デイビットの言う通り、歳を重ねるごとに父親の面影が出てきている。
老化を押し止めているのは、これ以上父親に似た顔になりたくないからだ。ガラスに映った男の、顔が歪む。
その父親は、二十数年前に手を掛けた。魔法と呪術の実力を付けて挑んでみれば、他愛もなく死んでしまった。
それで、ルーロンの呪いは終わると思っていた。だが呪いは続いていて、長兄がヴァトラスを滅びへと誘っている。
馬鹿げている。先祖といえど、血はあまり混じっていないはずだ。そんな相手の恨みを、連ねる必要がどこにある。
グレイスは、無性に腹が立ってきた。たかが先祖に、そこまで縛りを与えられる権限はないはずだ、と思った。
階段を踏み付けながら、降りていった。半分ほど降りてから、グレイスは足を止めた。真正面に、扉がある。
スイセンの家紋を見据え、笑った。抜け落ちた歯車は、再び機械には戻れない。ならば、抜けたまま動くべきだ。

「敵の敵は、味方ってな」

小さく呟いてから、グレイスは歩いていった。いいことを思い付いたので、すっかり機嫌は良くなっていた。
軽い足取りで、玄関に向かう。扉を開けて外に出ると、鬱蒼とした森に囲まれた庭が真正面に現れた。
玄関先の階段を数段下りてから、グレイスは声を潜めて笑った。兄がヴァトラスを傾けるなら、それを支えてやる。
もう一方のヴァトラス、魔法に長けたヴァトラス家を助けてやろう。そして、ルーロンの呪いを消してやるのだ。
ルーロンの呪いは、ヴァトラスの堕落と崩壊だ。ならばその墜落から掬い上げ、あるべき道を示せばいい。
だが、とグレイスは口の中で言った。どうせ堕とすならとことん堕とし、それから掬い上げても構わないだろう。
現在、魔法のヴァトラスは堕ちつつある。別の兄弟が手がけている呪いによって、価値観を覆されている。
まずは、堕落の果てにある深淵の光景を楽しんでからだ。グレイスはにんまりとしながら、背後の城を見上げた。
長きに渡る呪いを崩壊へと導く様を、深淵に堕ち行くヴァトラスの末路を想像し、ぞくりとした心地よさを感じた。
灰色の呪術師はとても楽しげな笑みになりながら、城に背を向けた。今、やるべきことを頭に巡らせていた。
崩壊を思い描いていると、素晴らしく気分が良い。いつになるかは解らないが、必ず成し遂げると内心で誓った。
裏切りの快楽が、心地良い快感を生んでいた。




異端には、異端の道がある。彼もまた、異端の一人なのである。
穢れた命に背き、あるがままを受け入れず、己の快楽を何よりも望む。
その果てに存在する深淵こそが、彼の居場所であり、心地良き世界である。

そして、裏切りこそが最高の甘味なのである。






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