手の中の戦争




第十二話 北斗七星



屋上は、それほど広くなかった。
特殊機動部隊専用営舎は駐屯地の外れにあり、また一般の営舎や官舎からも遠いので、辺りは真っ暗だった。
光と言えば、一階の事務室の窓からの明かりぐらいなものだ。街明かりも、広大な訓練場の果てにあるだけだ。
時折、風に乗って電車の走る音が聞こえてくる。それ以外は何も聞こえず、ここだけ別の空間みたいだった。
頭上に広がる夜空は、人型兵器研究所で見たものに比べれば大したことはないが、それでも星は良く見えた。
ペガススの四辺形を目安にして、Wを逆にしたようなカシオペヤ座、その傍にあるアンドロメダ座を見つけた。
だが、解るのはそれぐらいだ。私の星座の知識は、小学校の時に授業で行ったプラネタリウムで得た知識だけだ。
もう夏ではないので、夏の大三角や白鳥座などは見えなくなっている。星空も、すっかり季節が過ぎている。
訓練場を走ってきた砂っぽい風が、私の髪を揺らしていった。すぐ後ろにいる北斗も、夜空を仰いでいる。
私は、横目に北斗を窺った。ダークブルーのゴーグルは光を発しておらず、暗視モードにしているのだろう。
屋上にやってきて、北斗はすぐに私を離した。それから、二三メートルほど間を空けた場所に、突っ立っている。
おかしい。明らかにおかしい。いつもであれば、何はなくとも近寄ってくるのに、今日に限ってこれは変だ。
まぁ、私もおかしいのだから、人のことは言えないが。私は北斗から目を外して夜空を仰ぎ、北斗七星を探した。
おおぐま座を成している、柄杓型の七つの星は簡単に見つかった。そこから辿って、北極星も見つけられた。
星をまともに見るなんて、久々だ。私が夜空に見入っていると、北斗が呟いた。こいつにしては、気弱だった。

「自分は、礼子君のことをあまり知らんからな」

「何、いきなり」

私が北斗に振り向くと、北斗は情けなさそうにする。

「だから未だに、礼子君が納得してくれるであろう贖罪の方法を、見つけることが出来ておらんのだ」

「ああ、あのこと」

私は、思い出した途端に恥ずかしくなった。北斗と南斗の飛行試験の時に、スカートをめくられてしまったのだ。
おかげで、公衆の面前にパンツを晒してしまった。真っ先に見た北斗もそうだが、めくった南斗はもっと悪い。
あの後、怒り心頭だった私は北斗に向かって、絶対に許さない、などと言っておきながらこのことを忘れていた。
忘れたかったのもあるし、その直後に神田隊員とすばる隊員がキスするところなんて、見てしまったせいもある。
だから、あの前後の記憶を封じていた。思い出すだけで色々な意味で恥ずかしいし、やりづらいからだった。
だが、北斗は生真面目にも謝ってくれようとしている。私としては、もう、どうでもいいような気がしていた。
過ぎてしまったものは仕方ないし、たかがパンツだ。全裸を晒したわけではないから、一応は許せる範囲だ。
もういいよ、と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。北斗は、見たことないくらい、真面目な顔をしていた。

「礼子君。自分が何をどうすれば、礼子君は自分を許してくれるのかね?」

「そんなに、気にしてたんだ」

私は、北斗の態度が意外だった。北斗は声を張る。

「当たり前ではないか! 礼子君が自分を許さないなどと言ったのは初めてであるからして、自分と南斗は礼子君に余程のことをしてしまったのだ! それ相応の代価を払い、償いをするべきなのだ!」

その言葉の強さに、私はちょっと肩を縮めた。真面目というか、頑固というか、いかにも北斗らしい考え方だ。
でも、私はそこまでしてほしい気はなかった。今更蒸し返すのもなんだし、忘れてしまえばそれでいいと思う。
だけど、それでは北斗の気が済まない。だったら、前回みたいに適当なものでも示して、それをしてもらおう。
そうすれば、北斗の気が済むはずだ。チョコレートじゃない他の何か、と言えば、やはり書籍の類だろうか。
何がいいだろう、と考えようとしたが、私の頭はさっぱり回らない。潤滑油が切れてしまった、機械みたいだ。
北斗と真正面から向き合っていると、夜風で少しだけ落ち着いていた胸の苦しさと熱が、再び蘇ってきていた。
そうだ、そうなんだよ。私と北斗は、二人きりだ。ここには誰も来ないし、敵もいないし、戦いの最中ではない。
こんなことは、初めてだ。私は気付かないうちに力を込めていた手から力を抜いたが、緊張は解れなかった。
重たい足音がしたので、顔を上げた。北斗はいやに慎重に歩いて、私との間を詰めると、私の前に膝を付いた。
もう、距離がない。間が空いていたからなんとか保てていたが、こうなってしまうと、限界が訪れてしまう。
せめてもう少し距離を空けないと、と私が身を下げようとすると、北斗が私の腕を掴んでそうさせまいとした。

「礼子君」

落ち着いた、低いけど優しげな声。そんな声を出さないでくれ、こっちはもう参っているのに、これ以上なんて。
北斗の力には勝てず、私は引き戻された。暗いから良かったけど、明るかったらどんな顔なのかが解ってしまう。
どれだけ、情けない顔をしているのだろう。私が北斗から目を逸らすと、北斗は私の腕を放し、肩を掴んできた。

「自分は兵器であり兵士である以前に、礼子君の友人だ。そして、仲間だ」

「…うん」

真正面にいるから逃れようがなくて、私は小さく頷いた。北斗は、暗闇の中で笑む。

「礼子君は自分達に誠実だ。態度こそ素っ気ないが、決して自分達を見捨てたりせず、ただの機械だと卑下せず、一人の人間として扱ってくれる掛け替えのない女性だ。だから自分も、礼子君には誠実にありたいのだ。故に、償いたいのだ。どんなことでも良い、自分に出来ることであれば、なんであろうとやってやろうではないか」

「うん」

私の声は、自分でも解るくらい強張っていた。言いたくないような、言ってしまいたいような、でも言いたくない。
だけど、言ってしまわなければ。そうしなければ、引き下がってくれた南斗に悪いし、北斗にも悪いのだから。
覚悟を決めて、言ってしまおう。そうしたら、胸を締め付ける苦しさが、ほんの少しは楽になるかもしれない。
あれだけ緊張していたのに、まだ緊張してしまう。泣き出してしまいたいくらい、逃げ出してしまいたいくらいに。
でも、この機会を逃したら、次に言える機会が訪れるのはいつになるか。ずっと、後になってしまうだろう。
そうなれば、この苦しさを持て余してしまうことになる。そんなのには耐えられない、戦闘訓練の方が余程楽だ。
覚悟を決めてしまえ。これは自分だけの戦いだと思って、それに勝つためだと思って、さっさと言ってしまえ。
私は口を開こうとしたが、勇気が足りずに閉じてしまった。北斗がこちらを見ているので、なんか、言いづらい。

「立って」

私は、出来る限り感情を殺して言った。北斗は、怪訝そうにする。

「なぜだ、礼子君。自分としては、その必要性を感じないのだが」

「いいから立て! 命令だ!」

私は照れを紛らわすために、手を勢い良く上に振り上げた。命令、と言われたからか、北斗は即座に立った。

「アイサー!」

掛け声を上げた北斗は、敬礼までしている。私は叫んだことで荒くなってしまった息を整え、北斗に向き直った。
敬礼までする必要はないと思う。骨の髄どころか、ネジの一本にまで軍人気質が染み付いているからなのだろう。

「休めっ!」

教官の指示を真似て、私は声を張った。北斗は私の言葉に従って、両足を肩幅程度に開いて手を後ろで組んだ。
これで良し、これならまだやりやすい。実に動かしやすい男だけど、私も私で、すっかり自衛隊に染まっている。
北斗は、口元をきつく締めている。私は痛いくらい高鳴っている心臓の音を、耳の奧で聞きながら、前に進んだ。
距離にして、およそ一メートル弱。たったそれだけしかないのに、足を進めるのに、馬鹿みたいに気力を使った。
私の視界には、金属で造られた厚い胸がある。高宮重工製人型自律実戦兵器五式、と左胸に刻み込んであった。
足を止めて、その胸の下に額を当てた。身長差がありすぎるせいで、私は北斗の腹の辺りにしか背が届かない。

「顔、見てると、言いづらいから」

こっちの方が、まだ恥ずかしくない。私は足元に目を落とし、私よりも遥かに大きい北斗の足を見下ろした。

「嘘だ、とか、有り得ない、とか、信じがたい、とか、夢だ、とか、とにかくそういうことは言わないでね」

それは全て、私が自分に言ってきたことだ。有り得てたまるか、こんなの嘘だ、信じられるはずがあるか、と。
何度となくそう思って、何度となく否定したけど、そうすればするほど実感してしまって、逃れられなくなった。
ぎち、と金属の軋みが聞こえたので、北斗が頷いたのだろう。私は独り言のように、今までのことを言った。

「いつからなんて解らないんだけど、こうなっちゃってたの。あんたが相手なんて、自分でも信じられないけど」

私は自分の言葉にも照れそうになったが、なんとか我慢した。

「前はなんでもなかったんだけど、触られると苦しくなっちゃって、どうしようもなくなっちゃって。どこがいいんだろう、とか、なんであんたなんだろう、とか、色々考えたんだけど、結局、何も解らなかった。解らないから、嫌になるくらい悩んだんだけど、やっぱり答えなんて出なかった。でも、本当なんだ。嘘じゃ、ないんだ」

北斗の胸に体を押し当てると、北斗の手が私の背を支えた。

「私は、あんたと違って弱いから。あんたもロボットだけど、死ぬ時は本当に死んじゃうから。どっちが先に死ぬかも解らないから。どっちかが死んだら、言えなくなるから」

だから、今、言っておくしかないんだ。



「好き」



ロボットだけど、軍人だけど。私は、北斗が好きだ。言ってしまったら、照れ臭さが堪えきれなくなってしまった。
今、きっと、死ぬほど情けない顔をしている。私はどうしても顔を見られたくなくて、北斗にしがみ付いた。
太い胴に腕を回したが、ぎりぎりだった。引き離されてしまわないように、力一杯、私は自分の手を握り締めた。
どれくらい、そうしていただろう。三十秒だったかもしれないし、五分だったかもしれないし、一時間かもしれない。
時間の感覚が狂うほど、私はどきどきしていた。背に当てられていた北斗の手が外れ、私の後頭部に触れた。

「死にはせん」

頭上から聞こえる彼の言葉は、僅かに震えていた。

「自分が、礼子君を死なせたりするものか!」

「うん」

私は、頷いた。北斗の声には、様々な感情が入り混じっていた。

「そして、自分も死なん。決して死なん。礼子君を守り、共に戦うために、決して滅びはしないと約束する!」

「うん」

「ああ、自分も好きだ、大好きだぞ! 礼子君がこの世で、いや、この宇宙で誰よりも大好きだっ!」

北斗は身を屈めると、私を抱き締めた。耳元で、この上なく嬉しそうな声がする。

「嬉しいぞ礼子君! 自分はなんと幸せなのだろう! 死なせはせんぞ、離しはせんぞ、絶対に!」

「…うん」

私は北斗の大きな肩に、顔を埋めた。こう言ってくれるとは解っていたけど、今までよりもずっと嬉しかった。
色々と言いたいことはあるはずなのに、嬉しいのと照れくさいのと苦しいのが入り乱れ、一向にまとまらなかった。
耳元で小さく、幸せだ、と聞こえてきた。その声は本当に幸せそうで、私を抱き締めている腕に力が込められた。
私も、北斗の背に回した腕に、力を入れた。北斗の胴回りが大きいせいで、途中までしか届いていないけど。
冷たい腕。重たい体。だけど、胸の辺りは熱い。戦闘服を着ていないから、いつになくその熱は強く感じられた。
北斗の腕が、不意に緩んだ。何事かと思うと、北斗は私の両肩を押して引き離した。おいおい、何をする気だ。

「ちょい待ち」

私は北斗が何をしようとしているのか察し、制した。北斗は、毒気を抜かれたようだった。

「しかしだな、礼子君。カンダタは、これをしていたではないか」

まぁ、私も別に、やりたくないってわけではないのだ。だけど、いきなりそこまで至るのはどうかと思ったのだ。
せめて、理由付けが欲しい。私は北斗を真正面から見つつ、考えていたが、物凄く恥ずかしいことを思い付いた。
自分でも恥ずかしすぎるだろうとは思ったが、思い付いてしまったものは仕方ない。一応、理由付けにもなる。

「私さ、まだあのことを許してはいないんだよね」

私がにやりとすると、北斗は表情を引き締めた。

「解っておる」

「だから、まぁ、その、うん。なんていうか、さ、うん」

私は恥ずかしさのあまりに言い淀んでしまったが、気合いを入れて言い切った。

「キスしてくれたら、許さないでもないんだけど」

「すまん、すまん、ちょっと時間をくれ、礼子君」

北斗は顔を押さえて逸らし、肩を怒らせている。

「…嬉しすぎて、エモーショナルリミッターが弾け飛んでしまいそうだ!」

「飛ばさないでよ、そんなもん。ていうか、自分からしようとしたのにそれはないんじゃない?」

私が少し呆れると、北斗は顔を押さえている手を緩め、指の間からゴーグルを覗かせた。

「事実なのだから、仕方あるまい。自分から向かうのと、礼子君から懇願されるのでは、根本的に意味が違うのだ。いやしかし、こういうことが、だが現に、ああどうするべきなのだ自分は!」

「さっさとやっちゃえばいいんじゃないの? 弾け飛んじゃう前に」

私は、悶えている北斗を見上げた。北斗は顔に押し当てていた手を、そろりと外す。

「う…うむ…」

「目、閉じた方がいい?」

「なんでもよい!」

北斗は歓喜の叫びを上げると、私を引き寄せた。その勢いに私は少し戸惑ってしまったが、抵抗せずに従った。
やはり、目は閉じておくべきだ。私は瞼を下げると、体の力を抜いた。どうするのかなんて、知らないからだ。
北斗との距離が、完全になくなる。後頭部を手で押さえられたかと思うと、一瞬の後、唇に何かが接した。
ボディと同じく冷ややかな、金属の感触だった。初めて触れるけど、人間のものと大差のないように感じた。
硬いけど柔らかいような、不思議なものだった。なんだか、気持ち良い。私は、離れるのが惜しいと思った。
北斗の背に回していた腕を外し、太い首に回し、かかとを上げた。しばらくしてから、ようやく私達は離れた。

「…礼子君は」

北斗は私の髪から手を滑らせて、私の頬を指先で撫でた。

「どこもかしこも柔らかだと思っていたが、最も柔らかな部分があったのだな」

「キザい」

私が一蹴すると、北斗はむっとした。

「いいではないか! 自分はそう思ったのだから!」

まぁ、いいか。私は背伸びをして、北斗の首にしがみ付いた。こっちも、感じたことがある。

「北斗ってさ、でかいよね。こうすると、余計にそう思う」

「礼子君はその逆だ、とても小さい。故に、守らねばならん」

北斗は背を曲げて膝も曲げると、屋上に座り込んだ。そのまま、私は北斗の膝の上に座らされてしまった。
どうしようかと思ったが、離れる気はしなかったので、北斗の胸に背を預けた。やっぱり、無駄にでかい。

「死兆星、探す?」

「探すとも。見たら一年以内に死ぬという北斗神拳の伝承を、自分と礼子君で打ち砕いてやるのだ!」

北斗は大きく頷き、意気込んだ。私は馬鹿馬鹿しいと思ったけど、それも悪くないとも思った。

「じゃ、輸送班が来るって連絡が入るまで探そうか、死兆星」

「うむ!」

北斗は、北斗七星が浮かんでいる方角を見上げた。私もその方向を見上げ、北斗七星に寄り添う星を探した。
実際にあるのだから、見つけられないはずはない。でも、私の視力がイマイチなので、良く見えなかった。
見つけたら見つけたで、楽しいかもしれないけれど、やっぱり見つけたくない。まだまだ、死にたくない。
北斗に体重を預けると、北斗は私の体を支えるように腕を添えてきた。それだけでも、私は嬉しくなった。
私と北斗は、どうしようもないほど下らない話をしたりしながら、時間の許す限り、星空を見上げていた。
それから約一時間後に南斗から連絡が入り、二時間後にグラント・Gの輸送班が到着する、とのことだった。
北斗はすぐに気持ちを仕事に切り替えていたけど、私はそう上手く行かず、浮ついた気持ちのままでいた。
だって、仕方ないじゃないか。初めての恋と初めてのキスなんてしたんだから、落ち着けるわけがないんだ。
軍人としては、どうかと思うけど。




それから。私と北斗の関係は、少しだけ変わった。
どうやっても私も北斗も色気なんて持っていないので、目に見えた変化はないけど、それでも変わっていた。
私は、笑うようになった。北斗への照れ隠しと、自分の恋心を誤魔化すためと、顔が緩んでいるせいだった。
といっても、そんなに大したものじゃないけど、北斗がそれをまた大袈裟に喜ぶので、また笑ってしまうのだ。
北斗は、以前にも増して落ち着きを失った。見ていて呆れるくらいに弛緩していて、私にまとわりついてくる。
でも、そんなに嫌じゃない。本当にほんの少しだけだけど、そのことすらも嬉しいと思うようになっていた。
普通のデートは出来ないけど、駐屯地に来た時にしか会えないけど、国家機密だから他人に言えないけど。

それでも、私は、北斗が好きだ。





 


06 8/2