午前中の競技は、滞りなく進んだ。 昼休みになり、生徒達はめいめいの場所で昼食を摂っていた。四人も、揃っていつもの校舎裏に向かった。 当然ながら、鋼太郎と正弘は弁当は持ってきておらず、弁当を持ってきて食べているのは女子二人だった。 百合子が膝の上に広げている弁当箱は、とても小さい。楕円形の二段重ねなのだが、あまり底は深くない。 中身は、色とりどりのおかずだった。量は少ないが、見るからに手を掛けて作ってあるものばかりだった。 透の弁当箱も、やはり小さかった。百合子のおかずは洋風だが、透のものは和風のものが大半を占めていた。 二人とも、そんな量で体が持つのが不思議なほど少なかった。二人とも、燃費が悪く、胃が小さいのだろう。 四人は、透が準備よく持ってきた敷物の上に座っていたが、鋼太郎と正弘は足を地面に投げ出していた。 敷物があまり大きくないため、そうでもしないとはみ出してしまうからだ。大きな体は、時として不便だ。 「あのさ、山下」 鋼太郎に呼ばれ、透は里芋の煮物を食べていたが箸を止めた。 「あ、はい、なんですか」 鋼太郎は透に向き直るように、座り直す。 「お前ってさ、確か兄貴がいるんだよな?」 「はい、います。三つ年上で、十七歳の、お兄ちゃんが。亘、って言うんですけど」 それがどうかしましたか、と透が少し首をかしげると、鋼太郎は言いづらそうにしながら言った。 「うん、それでよ。山下と兄貴って、仲良いんだよな?」 「はい。一応は」 透は弁当箱の上に箸を置き、はにかんだ。鋼太郎は、間を置いてから続けた。 「んで、その。聞いちゃまずいんだったら聞かねぇし、言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど」 視線を彷徨わせるように、鋼太郎は首をしきりに動かした。 「お前がサイボーグになったばっかりの頃って、その…どうだったんだ?」 透は大半を食べ終えた弁当箱に蓋をすると、箸も箸箱に戻した。 「どうして、それを、聞くんですか?」 戸惑いと怯えを入り混ぜた瞳が、鋼太郎を見据える。百合子は、二人の間に入る。 「うん、ちょっとね。鋼ちゃん、サイボーグになってから、前は仲良しだった弟と仲が悪くなっちゃったの」 「あ、そういうことですか」 百合子の説明に、透はほっとした。透は、正座にしていた足を崩す。 「でも、私とお兄ちゃんのことは、あんまり、参考には、ならないんじゃないかと思います」 「いや、それでもいいんだ。なんでもいいから、とりあえず、話せるだけ話してほしいんだ」 鋼太郎は、今朝の銀次郎の態度を思い出して胸苦しくなった。 「あのままじゃ、オレも銀も、しんどいだけだから」 「鋼ちゃんの弟はね、小学三年生で銀次郎君っていうの。妹は小学一年生で、亜留美ちゃんっていうの」 百合子が、すかさず注釈を付ける。そうなんですか、と透は呟いてから考え込むようにしばらく黙っていた。 右手の華奢な指を口元に添えて、目線を落としている。数分間、そうしていたが、顔を上げて口を開いた。 「それは、やっぱり、最初の頃は色々とありました」 思い出したくないこと、言いたくないことを退けながら、透は話した。 「お兄ちゃんとお父さんに、ひどいことを言ってしまったり、ろくに二人の話を聞こうとしなかったり。でも、お兄ちゃんもお父さんも、私を見捨てないでいてくれたから、今の私があるんです」 透の眼差しは、三人ではないどこかを見ていた。 「何があっても、お兄ちゃんは私の傍にいてくれました。お兄ちゃんは、私がこうなってしまった後も、前と変わらずに接してくれました。私は、それが、一番嬉しかったです。変に同情されるよりも、ずっと嬉しかったです。だから、私も、お兄ちゃんとは前と同じように接することが出来たんです。それでいいんだ、って思えたから」 鋼太郎は無意識に、透の澄んだ黒い瞳を眺めていた。 「そういうのが、一番良いって、私は思うんです。何も変わっていないんだって、実感することが」 「うん。そうだよね」 透の話に、百合子が頷く。透の話を聞き終えた鋼太郎は、腕を組む。 「変わらないことか。だとしたら、銀がオレを避けているのは、オレが変わっちまったからなのか? けどよ、オレに変わっちまったところなんてあるか?」 「鋼が気付いていないだけで、あるんじゃないのか。それを、鋼の弟さんは感じているんじゃないのか?」 正弘が言うと、鋼太郎は怪訝そうにする。 「けど、オレには心当たりなんて全然ないっすよ?」 「うん。私も、あんまり思い当たらない。ごめんね」 百合子は、少し申し訳なさそうにした。透も、情けなく眉を下げる。 「あの、その、ごめんなさい。あまり、力になれなくて」 「山下が謝る必要はねぇよ。オレの頭が悪ぃのが悪いんだ」 鋼太郎が手を横に振ると、百合子はにやけながら身を乗り出してきた。 「そーだもんねー、鋼ちゃんは野球以外のことはさっぱりなんだもんねー」 「るせぇな」 鋼太郎は普段通りに百合子をあしらったが、苦いものを感じた。やけに、彼女が煩わしかった。 「オレだって、何も考えていねぇわけじゃねぇよ。けど、いいのが出てこないんだ」 鋼太郎が焦燥感を滲ませると、正弘はゆっくりと首を横に振った。 「焦る必要はないさ。時間は、いくらでもあるんだから」 「そうそう。今すぐに仲良くなれなくたって、きっといつか仲良しに戻れるよ!」 百合子は、声を弾ませる。 「だって、鋼ちゃんと銀ちゃんは兄弟だもん。前はすっごく仲が良かったんだから、戻れないわけがないよ!」 「…るせぇな」 先程感じた引っ掛かりが抜けず、鋼太郎はぞんざいに言い返した。その言い草に、百合子はむっとする。 「何だよお、鋼ちゃん。機嫌でも悪いのかー?」 「まぁ、鋼にも色々とあるんだ。察してやれ」 正弘は、百メートル走の時のことが原因だと思い、百合子を諭した。百合子は、渋々引き下がった。 「ムラマサ先輩がそう言うんなら、仕方ないけど。でも、いきなりそれはないじゃんかー」 鋼ちゃんの意地悪、と百合子がむくれるが、鋼太郎の注意はそちらに向かなかった。代わりに彼女に向いた。 透は、戸惑ったように顔を伏せてしまっている。食べかけの弁当に手を付けることもなく、身を固くしていた。 どうすればいいのか解らずに、困っているようだ。左右で少々大きさの違う肩を縮め、両手を握り締めている。 「別に」 透からも視線を逸らしたくなり、鋼太郎は顔を背けた。 「どうってことねぇよ」 視界の隅で百合子の表情が変わった気がしたが、気にしなかった。どうせ、また子供のように怒っているのだ。 自分でも、不機嫌な理由は今一つ掴めない。百メートル走の時に言われたことは、既に吹っ切ってしまっている。 それとは全く別の、焦燥に似た不可解な感覚が起きた。そして、気が付くと透に気を向けてしまいそうになる。 これは何なのだろう。鋼太郎が思い悩もうとした時、昼休みの終わりを告げるチャイムが、校舎から響いてきた。 もう終わりかー、と残念そうに百合子は立ち上がる。透は、食べかけの弁当を巾着袋の中に入れ、口を絞った。 「次の障害物競走は、一年だけですから、早く行かないと」 敷物の上から全員が出たので、透はビニール製の敷物をばさばさと振って土を払ってから、丁寧に折り畳んだ。 四つ折りにして小さくして脇に抱え、三人に小さく頭を下げてから、透は小走りに校舎裏から駆け出していった。 軽い足音が遠ざかり、グラウンドからは放送部員のアナウンスが聞こえてきた。次の競技の、選手の呼び出しだ。 百合子はどこか不安げに鋼太郎を見上げていたが、その表情をすぐに消し、二人に弁当箱の包みを掲げた。 「じゃ、私、お弁当箱を教室に置いてくるから。また後でね、鋼ちゃん、ムラマサ先輩!」 百合子は二人に手を振ると、走るとまでは行かないまでも、百合子なりに精一杯の速度を出して歩いていった。 長い三つ編みを揺らしながら、小さな背が遠ざかっていく。それが充分離れてから、正弘は鋼太郎に言った。 「鋼。本当に、大丈夫か?」 「何がっすか?」 鋼太郎が不思議そうにすると、正弘は太い腕を組む。 「お前、百メートル走の時以外にも、何か言われたりしたのか?」 「いや、そうじゃないっすよ。別に、なんでもないんす。本当に」 鋼太郎は正弘をはぐらかそうとしたが、正弘は食い下がった。 「だが、ゆっこはお前を励まそうとしてくれたんだぞ。それを、あんなふうに言うのはどうかと思う」 「だから、本当になんでもないんす。気にしないで下さい」 鋼太郎は正弘も煩わしいと思い、強引に話を断ち切って校舎裏から駆け出した。背後から、正弘の声が掛かる。 だが、それも振り払い、走った。校舎裏から離れた昇降口までやってくると、正弘が追ってこないのを確かめた。 自分でも、この態度はおかしいと思った。百合子が鬱陶しいと思ったことはあったが、邪険にはしなかった。 百合子とは友達で、好いてくれているのだから仲良くするべきだと思っていたから、あしらったりはしなかった。 なのに、今は鬱陶しくて鬱陶しくてたまらなかった。正弘に心配されることも、同じように面倒だと感じていた。 こんな感情を覚えてしまう自分が嫌で、自己嫌悪になる。だが、二人に対して感じたものは嘘ではなかった。 何か、変だ。鋼太郎は胸が痛むような錯覚を覚えながら、障害物競走の準備をしているグラウンドに向かった。 平均台などを運んでいる生徒達の間を抜けて、一番右側の赤軍の席がある場所に歩いていたが、足を止めた。 一年生の生徒達に混じって、透の姿があった。元より華奢な体を更に縮めて、騒がしい生徒達から離れていた。 百合子と同じようにヘアバンド状に巻いた赤のハチマキを結び直しているが、その顔からは表情が失せていた。 鋼太郎が立ち尽くしていると、透は鋼太郎の姿を認めて顔を上げた。強張っていた顔が、柔らかく緩んでくる。 あの、儚げな笑みが、鋼太郎に向けられた。 06 11/10 |