非武装田園地帯




第十一話 百合子、葛藤する



 だいすき。だから。


「でよ、透」

 鋼太郎は、グローブの中にボールを投げ入れた。百合子の背後に立っている透が、ひくっと肩を震わせる。
日陰とはいえ屋外なので、相当な暑さがある。にもかかわらず、透は左腕を隠すためにカーディガンを着ている。
 一二秒ほど間を置いてから、透は百合子越しに鋼太郎を見上げた。白い日差しが、華奢な肩を焼いている。

「あ、はい。なんですか」

「お前はさ、タイガースの選手は誰が好きなんだよ?」

 鋼太郎に問われ、透は困惑したように眉根を寄せた。

「私、野球のルールは、少し解るんですけど、他は、さっぱりで。ですから、あんまり、知りません」

「そっか。悪ぃ」

 鋼太郎が平謝りすると、透は首を小さく振った。

「あ、いえ」

 校舎裏に植えられている木に張り付いているアブラゼミが、夏が来たことを教えるように激しく鳴いている。
耳障りなセミの合唱は至るところから聞こえていて、周囲の田んぼでは稲が背を伸ばし、緑の絨毯と化していた。
黒光りするアスファルトからはむっとした熱気が立ち上り、日向と陰の境目ははっきりと切り分けられている。
 今は、七月の中旬。一学期も終盤に差し掛かり、期末テストも終わり、しばらくすれば長い夏休みが訪れる。
春先は生徒達がこぞって遊んでいたグラウンドも、この暑さで人影はほとんどなく、陽炎だけが揺らいでいる。
 百合子は、校舎裏の日陰にいても滲んでくる汗を拭った。こんな日は、何もしなくても暑さにやられてしまう。
透は、見たところ百合子よりも汗は掻いていないようだった。あまり、汗を掻かない性分なのかもしれない。
サイボーグ二人は、言うまでもない。人間よりも熱が多く発生する彼らは、当然廃熱機能は生身より優れている。

「鋼ちゃあん。あっつくなぁい?」

 百合子が暑さに辟易していると、鋼太郎はしれっと返した。

「全然」

「強いて言えば、駆動系の冷却水の消費が春先よりも少し増えたくらいだな」

 正弘が答えると、百合子は透を見やった。

「透君はぁ?」

「えっと、私は、その、体温が、低いんです。それで、結構、冷え性だから…」

 透は、百合子に向けておずおずと右手を差し出した。百合子は彼女の手を掴むと、その冷たさに驚いた。

「うわぁホントだ! 透君、冷たい!」

「冬場は、凄く大変ですけど、夏は、まだ楽なんです」

 百合子に手を握られたまま、透は気恥ずかしげにする。百合子は透の手を引き、鋼太郎と正弘に差し出した。

「ほらほら、鋼ちゃんも先輩も。手のひらなら、温度ぐらいは解るでしょ?」

「ああ、まぁな」

 百合子に言われるがまま、正弘は透の手を軽く握った。百合子の言った通り、透の手はひんやりしている。

「うん、本当だ。ほれ、鋼も触ってみろ。結構凄いぞ、透の手」

「あ、え、でも、大したことないですよ、本当に!」

 正弘に右手を引かれ、透は身動いだ。鋼太郎は正弘が持ってきた透の手に触れようとして、手を止めた。
華奢な体を精一杯縮めている透は、普段は意識して使っていない左手を軽く握り、顔の前に持ってきている。
高い気温と照れくささからか、少し日に焼けた頬が赤らんでいる。鋼太郎は、妙な罪悪感を感じてしまった。
何か、とてもいけないことをしているような。透の反応が大きいだけなのだろうが、それでも、気が引ける。
 鋼太郎が手を伸ばしたままでいると、正弘は不思議そうに首をかしげた。このままでは、変に思われてしまう。
仕方なしに、鋼太郎は透の手に軽く触れた。それだけで透は肩を震わせ、泣きそうに思えるほど目を潤ませた。

「…うん。冷てぇ」

 鋼太郎は、素早く手を引いた。正弘から解放された透は、慌てて右手を下げて後ろに隠した。

「あっ、で、でも、八月になれば、もうちょっと、まともになりますから! いつも、そうだから!」

 三人に手を握られたことで動揺してしまったのか、透はいつにも増して挙動不審になり、目線を彷徨わせる。
鋼太郎はと言えば、透の手を掴んだ右手を意味もなく握ったり開いたりを繰り返し、戸惑いと戦っていた。
しきりに首を動かして、あらぬ方向を見たりしている。正弘は、落ち着きを失った二人を見比べていた。
 体育祭以降、ずっとこんな調子だ。透が困るのは、彼女の性格なので解るが鋼太郎の方が解らなかった。
透と近付いたり、関わるたびに、どれだけ些細なことでも動揺している。あまり、鋼太郎らしくない反応だ。
決して鈍感ではないが、神経は太い男だ。正弘の知っている限りでも、鋼太郎の性格は繊細とは程遠い。
 そんな彼が、いや、そんな彼だからこそ女子に近付くのは不慣れなのだろうが、それにしては反応が大きい。
正弘は不可解さを胸に抱きながら、百合子に目線を向けた。百合子もまた、あらぬ方向に目線を落としている。
 黒い瞳は、寂しげな色を帯びていた。




 その週の土曜日。正弘は、部屋の片付けに追われていた。
 今日の朝、唐突に百合子からのメールが携帯電話に届いた。今日、ムラマサ先輩の家に遊びに行きます、と。
住所は以前に教えてあり、遊びに来られることは一向に構わないしむしろ嬉しいのだが、間が悪かった。
八畳のリビングの床には、静香が缶を蹴り倒して撒き散らしたビールの染みと、脱ぎ捨てられた服があった。
 こんな日に限って、静香は昨夜荒れていた。仕事で嫌なことでもあったらしく、いつも以上に酒を飲んだ。
灰皿に収まりきらなかったタバコの吸い殻がテーブルの下にも零れ落ち、部屋中に煙の匂いが残っている。
ついでにアルコールの匂いも残っているので、換気扇を空けて窓を全開にしているが、まだ抜けなかった。
 だが、当の本人は酔い潰れて眠り、午前十時を過ぎても起きてこなかった。正弘は、苛立ってしまった。

「いい加減に起きて下さいよ橘さん! 昨日着た服とか出して下さいよ、そうじゃないと洗えないんですから!」

 正弘が静香の部屋に叫んでも、物音一つ返ってこなかった。正弘は、途端に疲れを感じた。

「せめて、明日なら良かったんだけどなぁ…」

 ぼやきながらも、正弘は掃除を続けた。怒ったところで、部屋が綺麗になるというわけではないのだから。
タバコの灰が散っているガラステーブルを拭き、床に何度も掃除機を掛け、酒に濡れたソファーカバーを外す。
普通の洗濯物と一緒に洗えないので、これを先に洗ってしまおうと浴室に向かおうとすると、チャイムが鳴った。
 それに驚き、正弘は思わずソファーカバーを取り落としてしまった。慌てて玄関に向かい、扉を開け放った。

「こんにちはー!」

 そこには、案の定百合子がいた。鍔の広い麦わら帽子を被り、半袖シャツを羽織ってサンドレスを着ている。

「ごめん、ゆっこ、もう少しだけ待ってくれないか!」

 正弘が懇願すると、百合子は体を傾けて、玄関から直進したところにあるリビングを覗き見た。

「お酒と、タバコの匂い?」

「まず先に言っておくけど、オレじゃないから。全て、橘さんが悪いんだ」

 少しだけ待っていて、と正弘は百合子にもう一度言ってから、急いでリビングに戻り、掃除機などを片付けた。
出来ることなら、徹底的にやってしまいたかったが、百合子が来てしまったのだから中断せざるを得ない。
ソファーカバーを外したソファーには、カバーの代わりに肌触りの良いラグを掛け、一応体裁を整えた。
隅に追いやっていた酒瓶や空き缶などをキッチンのゴミ箱に詰め込み、窓を閉め、ソファーの位置を直す。
 これなら、百合子を入れても平気だろう。正弘は掃除機を収納棚に入れながら、玄関の百合子に言った。

「ゆっこ。もう入ってきていいぞ」

「お邪魔しまーす」

 百合子は玄関でスニーカーを脱ぐと、扉を閉め、靴をちゃんと揃えてから入ってきた。

「ムラマサ先輩、タチバナさんって誰ですか?」

「平たく言えば、オレの保護者だよ」

 正弘が返すと、百合子は肩から掛けていたポシェットを外してソファーに座った。

「あー、それじゃ、その人がお酒とタバコの主ですか?」

「そうなんだよ。毎度毎度、こんな感じでさぁ」

 参っちゃうよ、と正弘は苦笑しながらキッチンに入った。百合子は、物珍しそうにリビングを見渡す。

「へぇ…。町営住宅の中って、結構広いんですねー」

「一応、3LDKだからな」

 正弘は冷蔵庫を開けたが、閉めた。続いて戸棚を開けたが、また閉めた。そのどちらも、空も同然だった。

「これも橘さんのせいか…」

 あまりの物のなさに正弘が項垂れていると、百合子が首をかしげる。

「どうかしたんですか?」

「昨日の夕方に麦茶を作っておいたはずなんだ。けど、それが全部なくなっていてさ」

 正弘は額を押さえるような気持ちで、ゴーグルを押さえた。

「ついでに言えば、一昨日買ってきたばかりのお菓子も、全部食い尽くされていたんだ。コーヒーは、オレは飲まないけど橘さんはじゃかすか飲むからなくなっていて当然だけど、ココアの粉もどういうわけだか尽きているんだ。もしかしてとは思うけど、舐めたのかな、あの人…」

 まさかな、と正弘は呟いたが有り得ないわけではない。溶かして飲むことすら億劫に思い、したかもしれない。

「あの、私は別に気にしませんよ? 何もなくったって」

 百合子が正弘を慰めると、正弘は急に声を上げた。

「いや、オレが気にするんだ! もう少し待ってくれ、何かあるはずだから!」

 何か一つくらいはあるはずだ。正弘は半ば意地になりながら、冷蔵庫や戸棚の扉を次々に全開にしていった。
引き出しも全て取り出し、一歩引いてぐるりと見回した。何度かそれを繰り返していると、箱が目に付いた。
金色の円い蓋が填っている、金属製の四角い箱だ。英語の書かれた青いラベルが付いている、紅茶の缶だった。
 正弘は、他の引き出しや扉を閉めてからその紅茶の缶を手に取った。念のために調べると、未開封だった。
ひっくり返して底に貼られた賞味期限のシールを確かめると、充分期限内だ。これなら百合子に出せる。

「紅茶があったから、すぐに淹れるよ」

 正弘は指先の角を使い、紅茶の缶の蓋を開けた。中身はティーバッグなどではなく、ちゃんとした茶葉だ。
確か、これは静香が同僚の結婚式の引き出物でもらってきたものだ。そしてそれを、使わずにいたのだ。
 ヤカンに水を三分の一程度入れ、コンロに掛けた。程なくして注ぎ口から湯気が吹き出し始め、沸騰した。
その湯をティーポットとティーカップに入れて温め、双方の湯を捨ててからティーポットに茶葉を入れた。

「それで、今日はどうしてオレのうちになんかに来たんだ?」

 悪いとは言わないけど、と正弘が少し訝しむと、百合子は麦わら帽子を外してソファーに置いた。

「うん。ちょっと」

 百合子の口調からは、いつもの明るさはなくなっていた。その代わりに、物憂げな感情が含まれていた。
きっと、何かあったに違いない。だとしたら、なぜ、鋼太郎や透ではなく自分の元になど来たのだろう。
正弘は疑問を感じながらも、ティーポットに湯を注ぎ入れて蓋を閉じ、茶葉を開かせるために蒸らした。
 アルコールとニコチンタールの匂いはまだ少し残っていたが、その中に品のある紅茶の香りが混じった。
キッチンからでは、百合子の表情は窺えなかった。ソファーに座っているので、横顔しか見えていないせいだ。
正弘は、せめてお菓子は出さないとなぁ、と頭の片隅で考えながらも、意識は百合子に向かっていた。
 気になって、仕方なかった。





 


06 11/12