非武装田園地帯




第十二話 青い経験



 若さよ、迸れ。


 発端は、正弘からの電話だった。
 夏休みが始まって一週間目の金曜日の夜、鋼太郎は、呆れるほど進んでいない宿題と向き合っていた。
机の上に広げてある複数のプリントの項目は真っ白いままで、参考書と教科書は開きっぱなしだった。
小学生の頃から、宿題を先延ばしにして夏休みの終盤で苦しんでいた。だから、今年こそ最初に終わらせる。
 そう思ってはみたものの、急にやる気が起きてくれるわけもなく、今日一日も遊び倒して時間が潰れた。
そして、夜にやればいいと考えたが、そこはやはり自分自身なのですぐに集中出来るほど都合良くはない。
不甲斐ない自分に嫌気が差してきてしまい、うんざりした。すると、机の端で携帯電話が電子音を発した。

「んだよ」

 着信名は、村田正弘。鋼太郎は、携帯電話を耳元に当てる。

「なんすか、ムラマサ先輩?」

『鋼。悪いな、こんな時間に電話して』

「えー、あー、別に平気っすよ。まだ十時っすし、そんなに遅い時間じゃないっすから」

 鋼太郎は、宿題のプリントと参考書を机の奧に押しやってから会話に意識を向けた。

「んで、何か用っすか?」

『まぁ、用というかなんというか…』

 正弘は言葉を濁し、弱めた。鋼太郎は、彼らしくない態度を少し変に思った。

「だから、どうかしたんすか?」

『とにかく、なんだ。明日辺り、会えないかな。外で』

「まぁ、別にいいすけど。外って、どの辺っすか?」

『出来るだけ人のいない場所が良いから、土手の辺りで』

「誰かとケンカでもするんすか?」

『いや、そうじゃない。だが、あまり人に聞かれたくない話なんでな。気が向いたら、でいいんだが』

「はぁ」

 あまりにも正弘の腰が引けているので、鋼太郎は行かなければならないような気持ちになり、承諾した。

「まぁ…予定の類はないし、行きますよ」

『じゃ、明日の十時頃にでも土手に来てくれ。じゃあな、鋼』

 そう言って、正弘は電話を切った。鋼太郎は、正弘の話の不透明さに首をかしげずにはいられなかった。

「だから、何をするんだよ?」

 携帯電話を充電器に差し、鋼太郎は頬杖を付いた。机の左側にある窓は網戸にしてあるので、夜風が入る。
鋼太郎の部屋にも自動空調システムは付いているのだが、人工的に造られた風よりも夜風の方が好きだった。
もっとも、今となってはそれを肌で感じることは出来ないが気分的な問題だ。鋼太郎は、窓の外を見やった。
 鋼太郎の家と真向かいにある百合子の家が見える。その二階の窓、百合子の部屋にも明かりが点いている。
鋼太郎は頭の後ろで手を組んで、体を逸らした。ぎっ、と椅子の背もたれが重たく軋み、嫌な音を立てる。
宿題をやるのはまた明日だ、と鋼太郎は勉強することを潔く諦め、他のことをしようと机の周囲を見回した。
 めぼしい本が手近に見当たらなかったので、自然と目線が背後の押し入れに向いてしまったが、逸らした。
まだ、あれを出すには時間が早すぎる。せめて、夜中になってからでないとダメだ、と無意味に緊張した。
 階下からは、兄弟達の話し声が聞こえていた。




 翌日。鋼太郎は自転車に乗り、土手に向かった。
 正弘が土手のどこにいるのかは解らないが、見晴らしが良く相手も体格が良いので、すぐに見つかるだろう。
土手の上の砂利道をしばらく走っていると、案の定、簡単に見つかった。正弘は、橋に近い場所で待っていた。
鋼太郎と同じように自転車に乗ってきたのか、マウンテンバイクに似たデザインの自転車の傍に立っていた。
 砂利を蹴散らすようにしながら速度を上げ、正弘の元までやってくると、自転車を横滑りさせながら止めた。
ざざっ、と小石と砂が散り、軽く砂煙が舞う。鋼太郎はシルバーの車体の自転車から下り、スタンドを立てた。

「こんちゃっす、ムラマサ先輩」

「悪いな、鋼。急に呼び出して」

 正弘は軽々と自転車を担ぐと、土手の下にある河原を指した。

「ここじゃ車も通るから、下に降りよう」

「それもそうっすね」

 鋼太郎も同じように自転車を持ち上げ、肩に担いだ。こういった重い物を持つ時は、サイボーグボディは便利だ。
揃って自転車を肩に担いだ二人は、土手の斜面を下りて河原にやってくると、がしゃっと自転車を下ろした。
スタンドを立てて止めてから、石があまり転がっていない場所に腰を下ろした。右に正弘、左に鋼太郎が座った。
 正弘は川面を見つめていたが、ふうっと息を吐いた。鋼太郎は彼のマスクフェイスの横顔を見やり、尋ねた。

「んで、何の用なんすか?」

「ああ…」

 正弘は、やけに沈んでいる。鮎野川の対岸では鮎の投げ釣りをしている釣り人がおり、長い竿を振っている。

「笑わないで聞いてくれるか」

「はぁ」

 鋼太郎が生返事をすると、正弘は言った。

「昨日の夜、気付いたんだ」

「何をっすか?」

「オレは、生まれてこの方、スケベな本を読んだことがないんだ」

 さらさらと、鮎野川の水が二人の足先近くを流れていく。水面の下では、流れに合わせて水草がなびいている。
土手の上を、大量の石を載積した大型ダンプが通り過ぎ、轟音と共に激しい砂埃を立てながら遠ざかっていった。
 たっぷり、二分近くは沈黙があった。鋼太郎は、予想もしていなかったことを言われたので心底驚いていた。
まさか、正弘の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったからだ。正弘は、至極真面目な声色で続ける。

「フルサイボーグになったのは小一の時だったから、その手のことに興味を持つような年齢じゃなかったんだ」

「ま、まぁ、そうっすね」

 鋼太郎は、答えに困りながら返した。正弘は、視線を遠くに投げた。

「ついでに言えば、オレの上の兄弟は二人とも姉だったから、そういうものは家の中にないのが当然なんだ」

「あ、まぁ、当たり前っすよねぇ」

「それで、オレには保護者になってくれている人がいるんだが、その人は妙齢の女性なんだ」

「知らなかったっす」

「要するに、オレの周りには、オレにその手のことを吹き込んでくれる年上の男がいなかったんだ」

「はぁ…」

 鋼太郎は、真剣な語り口ながらも内容がかなり馬鹿馬鹿しい話に、多少なりとも呆れてしまった。

「いっそ、健全でいいんじゃないんすか?」

 鋼太郎が茶化すと、正弘は首を横に振った。

「いや、ダメだと思うんだ。この歳になってその手のことに興味がないのも、ある意味では異常だと思うんだ」

 正弘の言っていることも、解らないでもない。だが、そこまで深刻に悩むほどのことだろうかと思ってしまった。

「そこでだ、鋼」

 正弘は改まって、鋼太郎に向き直った。

「お前、そういうのを一つでも持っていたら貸してくれないか? 後学のために」

「それを言うためだけに、オレを呼び出したんすか?」

「そうだ」

 深く頷いた正弘に、鋼太郎は呆れと馬鹿馬鹿しさが一気に押し寄せて吹き出した。そして、笑ってしまった。
一度笑ってしまったら、止められない。声を強引に押さえても肩はふるふると震えてしまい、笑いが漏れる。
鋼太郎は小声で、すんません、と繰り返したが上擦ってしまっていた。正弘は身を引き、ふっと顔を逸らした。

「オレだって、解っている。言っていることがどれだけ馬鹿馬鹿しいか、自覚しているさ」

 正弘は俯くと、マスクを手で押さえた。

「でもな、一度でも興味を持つと、どうしようもないんだよこれが」

「あー、解りますよ、それは」

「だろう?」

 正弘は妙に声を弾ませ、鋼太郎に振り向いた。鋼太郎はその勢いに負け、退く。

「でも、本当に一度も見たことがないんすか?」

「ないんだ」

「ネットにあるエロサイトとかも?」

「全く」

「コンビニにあるエロ漫画とかも立ち読みしたことがないんすか?」

「皆無だ」

 きっぱりと答えた正弘に、鋼太郎は笑いが再発した。

「マジっすかー!」

「だから笑うなって言っただろ! オレだって、他人事なら笑いたい! だが、自分のことだから仕方ないんだ!」

 正弘は、体を折り曲げて笑い転げる鋼太郎に叫んだ。そのうちに河原に転げ、背を丸めて笑っている。
鋼太郎は正弘の真剣さがツボに填ってしまい、なかなか収まらなかった。正弘らしいと言えば、らしいのだが。
うしゃしゃしゃしゃ、と鋼太郎の素っ頓狂な笑い声が辺りに響き渡り、正弘は居たたまれなくなってしまった。
 鋼太郎になど相談しなければ良かったのだが、自分では結論を出せなかったので、鋼太郎を呼び出したのだ。
正弘は、そのことを海溝よりも深く後悔していたが今更どうにもならない。鋼太郎は、まだ笑い続けている。
鋼太郎は笑うのを止めようとしたが、なかなか収まってくれなかった。だが、これ以上は正弘に悪いだろう。
 あー、と笑いの残る声を漏らし、体を起こした。正弘を窺うと、ちょっとふて腐れたのかそっぽを向いている。

「一冊ぐらいなら、構わないっすよ。オレも全然持ってないわけじゃないっすから」

 鋼太郎が言うと、正弘は鋼太郎に向いた。

「そうなのか?」

「近所の大学生の兄ちゃんが、趣味じゃないからっつってオレに寄越してくれたんですよ。それが何冊か部屋にあるんで、明日にでも持ってきますよ」

 鋼太郎は座り直すと、足を投げ出した。正弘は、情けなさで目を伏せた。

「すまん。なんか、悪いな」

「いや、いいっすよ」

 鋼太郎は、手を横に振った。正弘はもう一度、すまん、と言ってからマスクを押さえて項垂れてしまった。
馬鹿なことで悩むなぁ、とは思うが、鋼太郎も正弘のような立場であったら悩んでしまうかもしれないと思った。
下らないことほど、真剣になってしまうものだ。しかし、こんな話は初めて聞いた。いっそ新鮮ですらある。
 鋼太郎は、興味があまりない頃からその手のものに接する機会があったので、悩まずとも深入りしていった。
といっても、世間一般の中学生男子が知り得る範囲の知識でしかないので、あまり大したことはないのだが。
誰かに話したいぐらい馬鹿げた話だが、口外したら正弘の男の沽券に関わるので、黙っておくことにしよう。
 正弘の好きそうなジャンルを考えてみたが、正弘に年上趣味はなさそうなので、人妻系は一番最初に却下だ。
となれば年下、ロリコン系かとも思うが、中学生は平たい子供の体よりも成熟した女の体に欲情するものだ。
無難なところでコスプレかな、と鋼太郎は考えをまとめた。メイドものは特にお気に入りなのでそれ以外だ。
帰ったら、押し入れの天井の穴に隠してある数冊の雑誌を出して、どれを持っていくべきか選別しなければ。
 鋼太郎は、なんだか楽しくなってきた。





 


06 11/15