非武装田園地帯




第十三話 納骨



 翌日。百合子は、再び事故現場に向かった。
 自転車を走らせて橋を渡ると、ガードレールの前に、昨日見たものと同じ車種の白い軽自動車が停車していた。
昨日と同じ軽自動車だ。辺りを窺うと、案の定あの女性も傍にいた。百合子が近付いていくと、彼女も気付いた。
 車が来ないのを確かめてから道路を渡り、ガードレールに近付いた。自転車を降りて、バッテリーの電源も切る。
道路に軽く傾斜が付いているため、押していくのは少し辛いのでその場に自転車を止めてから、歩み寄った。
彼女は、長い髪を首の後ろで一纏めに括っており、真夏に不似合いな長袖の黒のパンツスーツを着ている。

「おはようございます」

 百合子が挨拶すると、彼女は会釈を返してきた。百合子も軽く頭を下げ、名乗った。

「鋼ちゃんの友達の、白金百合子って言います」

 彼女も頭を下げたが、名乗らなかった。悲しげな面差しも変わらなかった。

「あの」

 百合子は、彼女の行動に疑問を感じ、口にした。

「なんで、鋼ちゃんちに行かないんですか?」

「私も、行くべきだとは思っています」

 彼女の声は、掠れ気味で力がなかった。

「黒鉄さんのお宅に訪問して、黒鉄さんに、鋼太郎さんに、きちんと事故の件を謝罪しなければいけないのは解っています。出来ることなら、今すぐにでもそうしたいのですが、ご両親が時間を置いた方が良いだろうって」

 彼女の伏せた目元には、睫毛の陰が落ちている。

「私も、その気持ちは解ります。自分を殺しかけた相手の身内になんて、会いたくもないでしょうから」

「鋼ちゃんちに行くに行けないから、あなたはここに来たんですか?」

 百合子の言葉に、彼女は小さく頷いた。

「はい。それと、兄に会うためでもあります」

「お兄さん、ですか?」

「兄は、ここで死にました」

 ざあっ、と川面から吹き上がった風が二人の髪を乱した。彼女は歪んだガードレールに、視線を落とす。

「病院に運ばれた時には、既に心肺停止していたそうですから」

 心肺停止。百合子はそれに聞き覚えがあった。鋼太郎が撥ねられた日、病院には救急車が二台やってきた。
その一台には鋼太郎が、もう一台には彼女の兄が乗っていたのだ。だが、鋼太郎は生き、運転手は死んだ。
 生死を分けたのは頭部への衝撃の有無だった。百合子が聞いた話では、それが最も大きな要因だったそうだ。
鋼太郎は道路に落下した時、偶然スポーツバッグが頭の下に落ちていて、そのおかげで衝撃が軽減されたのだ。
だが運転手は、衝突の衝撃でシートベルトから飛び出してしまい、顔面からフロントガラスに突っ込んでしまった。
苦しむ暇もなかったことはまだ良かったかもしれないが、結果として死したのだから、救いでもなんでもない。
 兄が死んだだけでなく、その兄は加害者となってしまったのだから、彼女の心労はさぞ凄まじいものだったろう。
百合子が感じた、鋼太郎を失ってしまうかもしれないという喪失感よりも、遥かに大きくまた苦しいものだ。

「…そうですか」

 百合子は彼女に言葉を掛けてやりたかったが、上手い言葉が見つからなかった。同情と共に、憤りも起きる。
彼女の兄が交通事故を起こしたせいで、鋼太郎がサイボーグになった事実は変わらない。許せるはずもない。
誰かを失う苦しみは、百合子も知っている。それがあるというだけで、簡単に同情してしまう自分が嫌だった。
けれど、彼女の謝罪を受け止めなくてはならない。そうしなくては、百合子も、立ち止まったままになってしまう。
 鋼太郎に、彼女と会うべきだ、と言った理由はそこにある。いつまでも、過去に縋っていてはいけないのだ。
まだ一年も経っていないのだから、と躊躇している一方で、もうすぐ一年も経つんだから、と心が急かしてくる。
骨となった彼が墓に入らなければ、鋼太郎が自分自身を先に進めなければ、一生このままになってしまうだろう。
 それだけは、嫌だ。百合子は目線を落としていたが、顔を上げた。彼女を引き留めて、鋼太郎を連れてこよう。

「あの、ちょっとここで待っていてもらえますか!」

 百合子がいきなり声を上げたので、彼女は驚いて目を丸くした。

「え、あ」

「三十分ぐらいで戻ってこられると思いますんで!」

 と、百合子はスタンドを起こして自転車に跨ったが、漕ぎ出さなかった。橋に、見慣れた姿があった。

「あ」

 橋の歩道の脇を通り、こちらに向かってくる自転車がいる。銀色のフレームの、やたらと大きなものだった。
それには、車体の大きさに比例した体格の彼、鋼太郎が乗っていた。百合子を見つけると、片手を挙げてみせる。
 思い掛けないことに戸惑いながらも、百合子も鋼太郎に手を挙げた。鋼太郎は道路を渡って、近付いてきた。
百合子の手前まで来て、自転車から降りた。体格に合わせたサイズの半袖Tシャツと、ハーフパンツを着ている。

「ゆっこ。お前、携帯忘れたろ」

「そうだっけ?」

 百合子は自転車から降りてポケットを探ったが、あ、と声を出した。確かに、携帯電話を忘れていた。

「感謝しろよ。わざわざ持ってきてやったんだからな」

 鋼太郎はポケットからピンクの携帯電話を取り出し、百合子に放った。百合子は、それを受け取る。

「うん、ありがとー。でもなんで、私が携帯忘れてるって解ったの?」

「オレの部屋にあったんだよ。昨日、宿題やったあとに持って帰るの忘れたんだろ」

 携帯だけは忘れんじゃねぇよ、と鋼太郎は言ってから、百合子の背後の人物に気付いた。喪服姿の女だ。
喪服自体は、お盆である今は不自然ではない。だが、日中の最高気温が三十度を超える日に長袖は異様だ。
青白い顔にはうっすらと汗が滲んでいるが、生気は全く感じられず、まるで死人のような雰囲気の女性だ。
彼女は、鋼太郎を見ているが見ていない。目線を落として両手を固く握り締め、悲痛な表情を浮かべている。
 こんな場所に、こんな服装で、そんな表情をして立つ人間など限定されている。恐らく、彼女の素性は。

「ゆっこ」

 鋼太郎は、百合子を見下ろす。

「この人が、昨日言ってた人か?」

「うん」

「帰るぞ、ゆっこ」

 急に、鋼太郎は百合子の腕を引いて歩き出した。引き摺られそうになった百合子は、両足を踏ん張った。

「だっ、ダメだってば!」

「何がどうダメなんだ!」

 鋼太郎の恫喝に、百合子はびくっと肩を跳ねた。

「そうだけど、そりゃそうだけど、でもね!」

「うるせぇんだよ昨日から! いちいち口出すんじゃねぇ!」

「鋼ちゃん…」

 彼の態度の荒さに怯え、百合子がぼろぼろと涙を落とした。鋼太郎は罪悪感を感じ、語気を弱めた。

「それぐらい、自分で決める」

 鋼太郎は百合子の腕を放し、解放した。百合子の細い腕は、強く掴まれたせいで肌が赤らんでいた。

「それに、何でもかんでもゆっこに助けられてばっかりじゃ、情けなくて笑えてくるんだよ」

 百合子は涙の残る目元を拭っていたが、むっとした。

「じゃ、なんで怒るの! 昨日怒ったのも、それだったってわけ?」

「まぁ、そうなるかな。悪ぃ」

鋼太郎が曖昧な返事をすると、百合子は唇をひん曲げる。

「急に怒ったりしないでよお。鋼ちゃんが怒るのって、すっごく怖いんだからね!」

「だから、悪かったっつってんだろうが」

 百合子はもう少し言い返したかったが、彼女がいるのでやめておくことにした。背後へ、そっと振り返る。
彼女は、唇を引き締めて身を縮めている。鋼太郎は百合子との彼女の間に立つと、硬い口調で声を掛けた。

「明日も、ここに来ますか」

「はい」

 細く呟いた彼女に、鋼太郎は返した。

「オレも来ます」

「会って、下さるんですか」

 鋼太郎の答えが意外だったのか、彼女は目を見張った。

「会わなきゃいけないんです」

 それじゃ、と鋼太郎は背を向けて自転車に跨った。百合子も自分の自転車に跨ろうとしたが、止めた。

「あ、そういえば、まだお名前を」

「寺原圭助の妹の、寺原楓と申します」

 彼女が下げていた頭を上げてから、鋼太郎は自転車を漕ぎ出した。百合子は頭を下げ返して、彼に続いた。
橋を渡る間、鋼太郎は黙り込んでいた。百合子も、鋼太郎にどんな言葉を掛ければいいのか、解らなかった。
橋の下にある広い河原には、伸びた稲が青々と茂る田んぼがいくつもあり、風に合わせて緑が波打っている。
 家に着くまで、二人は言葉を交わさなかった。




 家に帰った鋼太郎は、床の間に座っていた。
 胡座を掻いて、一段高い床に置いた骨箱を眺めていた。大きめの長方形の箱が、紫の布の袋に包まれている。
ああ言ったはいいが、決意が鈍ってしまいそうだった。やはり会わなくても、という気持ちが湧いてきてしまう。
しかし、百合子にばかり気を遣わせているのは良くない。ずるずると、彼女に甘えてしまうかもしれない。
 鋼太郎は、箱に触れた。袋の口を開けてずり下げてから、蓋を開き、中に詰まった白い骨片を見下ろした。
からからに乾いた、カルシウムの固まりだ。一番上にある欠片が、どこの欠片なのかなど見当も付かない。
箱に押し込める際に割れてしまった大腿骨や腕骨、頭蓋骨や骨盤などは、元が大きいので原形を止めている。
 肉体と別れるのは、非常に惜しい。この骨が元の体に戻るであれば、どんなことでもやってみせるつもりだ。
胡座を掻いた足の間の箱を乗せ、じっと見つめる。他人のものなら薄気味悪いが、自分のものなので平気だ。
 別れたくない。けれど、肉体とは既に別れてしまった後だ。それを認めたくないがために、骨を残していた。
サイボーグ化した人間の中には、宇宙に散骨する者もいたが、鋼太郎にはその神経が全く理解出来なかった。
かつての自分自身を宇宙にばらまいても、物悲しいだけだ。地球の土に還ってくれた方が、まだ安心出来る。
 だから、墓に入れてやろう。いつか、最後に残った脳髄も死してしまったら、灰にして同じ墓に入れてもらおう。
そうすれば、寂しくない。また、会えるのだから。鋼太郎は骨を眺めていたが、なんとなく手を伸ばしていた。
 ただ、触ろうと思っただけのはずだった。そのはずなのに、小さな一片を掴み取り、左手でマスクを開けていた。
口を開いて、その中に押し込んだ。がぎっ、と咀嚼のための人工歯が硬いものを噛み締めると、渋みが広がる。
ぎりぎりと力を込めて噛んでいくと、不意に砕け散った。最初の破片よりも更に細かくなった破片を、噛み砕く。

「何、やってんだ」

 骨を飲み下してから、鋼太郎はマスクを閉じた。

「オレは」

 嫌悪感はない。嘔吐感もない。あるのは、不思議な充実感と穏やかな気持ちと、決別する寂しさだけだった。
これから、消化液タンクに落ちた自分の骨は消化されて分解され、栄養分と共に人工血液に吸収されて循環する。
ただの老廃物として排泄される可能性もあるが、基本はカルシウムなので、多少は消化されてくれるはずだ。
摂取してしまえば、肉体のほんの僅かな部分かもしれないが、自分の一部となり、また一つになれるのだ。
 そんなことを考えながら、桐の箱の蓋を閉じて元に戻し、床に置いた。ごと、と確かな重みが床を鳴らした。
外からは、亜留美と近所の子供が遊ぶ歓声が聞こえている。外の日差しは眩しいが、床の間は薄暗かった。
 鋼太郎は自分自身の肉体と別れる寂しさを拭うことは出来なかったが、ちゃんと別れられる、と確信していた。
 骨の味は、苦かった。





 


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