非武装田園地帯




第十六話 ブラザー・アンド・ブラザー



 九回裏。六対五。
 八回表で、今まで劣勢だったファイターズが猛攻撃を始め同点に追い付いた。そして、九回で追い抜いた。
それまで出せなかった勢いを解き放つかのように、バッター達はフルスイングし、ヒットを放ち続けた。
八回以前は失敗していた盗塁も成功させ、イーグルスのバッターから三振をいくつも取り、ペースを奪った。
そして、九回表で一番バッターがソロホームランを放ったが、イーグルスのエースピッチャーに押さえられた。
点差を開けないままファイターズはスリーアウトになり、九回は裏に代わり、イーグルスの最後の抵抗が始まった。
 鋼太郎は、内心でにやけていた。実のところあまり期待していなかったのだが、なかなか面白い展開だ。
百合子は暇になってしまったのか、船を漕いでいる。透も、長時間座りっぱなしなので眠そうにしている。
また、銀次郎も心なしかぼんやりしている。鋼太郎は、一人だけ試合をちゃんと見ている正弘に振り返った。

「ちょっと思ったんすけど」

「ん?」

「これって、同好会っぽいことなんすかね?」

 鋼太郎が首をかしげると、正弘は笑った。

「さあな。オレには解らない。けど、たまにはいいじゃないか、こういうのも」

「そうっすね」

 鋼太郎の言葉を最後に、二人の会話は止んだ。スパイクがマウンドを蹴り上げると、土煙がぱっと舞った。
判定はボール。ファイターズはアウトを一つも取っていなかったが、一塁にはランナーが出ていた。
押さえなければ、確実に負ける。マウンドに立つファイターズのピッチャーは、粉に汚れた指で鍔を直す。
キャッチャーが投げ返してきたボールをグローブで受け止めてから、泥の付いた袖で汗の流れる顔を拭う。
 ぎらぎらした日差しに負けないほど、ピッチャーの瞳は強く輝いている。浅い呼吸を繰り返しながら、構えた。
投球。ツーストライク。まだ、辛うじて打たれていない。銀次郎は、右隣の座席に座る長兄、鋼太郎に目を向けた。
のっぺりとしたマスクには日光が反射し、ブルーのゴーグルから滲むほのかな明かりが映り込んでいる。
両耳から伸びた平たいアンテナは鋭く、顎の下から伸びた銀色の首筋は逞しい。正弘と、ほぼ同じ体格だ。
 鋼太郎の両手は、膝の上に置かれている。ジーンズを履いた太い膝を軽く掴んでいて、指が曲がっている。
鋼太郎に話し掛けるチャンスは、今しかない。家に帰ってしまえば、せっかく出てきたやる気が失せてしまう。
だが、何から話せばいい。銀次郎は必死に考えたが全く話題は出てこず、下を向いているしかなかった。
 鋼太郎は、俯いている弟を見下ろした。正弘と透と何を話したのかは解らないが、弟に変化が生まれている。
以前は、隣に座っただけで逃げたのに今はじっとしている。それが嬉しくて、鋼太郎はにやけそうになった。
この状態なら、話し掛けても平気かもしれない。いざ話そうとすると、兄弟が相手なのに緊張してきた。
意識することなんてない、いつも通りにすればいいだけだ、と鋼太郎は気を取り直して銀次郎に声を掛けた。

「なぁ、銀。ムラマサ先輩と透と話したんだよな」

「うん」

 弟は、弱く頷く。鋼太郎は、座席の背もたれに体重を掛けた。ぎっ、と強化プラスチックが軋む。

「野球、面白ぇだろ」

「うん」

「また来ようぜ」

「うん」

「銀」

 鋼太郎は銀次郎の頭に手を伸ばそうとしたが、躊躇い、引っ込めた。

「考えてみれば、オレも悪ぃんだよな」

 白球が打ち上げられ、青空に吸い込まれていく。

「先に、説明すれば良かったんだよな。何も言わないまま、帰ってきたのがまずかったんだよな」

 空に似た青さのゴーグルが、陰る。

「あの時は、オレも大分参っちまっててよ。父さんと母さんとゆっこと医者の先生のおかげで、なんとか持ち直せたんだが、気を回せるぐらいの余裕はなかったんだ。先に、少しでもいいから話しておけば良かったんだよな」

 鋼太郎の声色は、沈んでいる。

「でも、本当に思い付かなかったんだ。毎日毎日、この体に慣れるだけで精一杯だったんだ」

 今では自由自在に動かせる機械の体も、サイボーグ化した当初は上手く使えずに見当違いの動きばかりした。
リハビリを行い、日常生活に戻れるようになった後も、感覚の大半が失せてしまった体に心が馴染めなかった。
そんな状態でも、日常は後ろから追い立ててきて、中学校に行って遅れた分を勉強しなければならなかった。
 笑顔で励ましてくれる百合子を心の支えにして、サイボーグ化したという現実を飲み込まなければならなかった。
生身の頃と同じく懐いてきた亜留美にも、きちんと子供扱いしてくれる両親にも、支えられていたから立っていた。
だから、距離を空けて鋼太郎を毛嫌いするようになった銀次郎に、近付けずにいた。倒れるのが怖かったのだ。
 愛する弟に拒絶されて、現実に打ちのめされるのが恐ろしかった。弟の心よりも、自分の心を優先してしまった。
傷を負い、抉られたのはどちらも同じだ。元に戻りつつあった自分の心を守りたくて、弟を恐れてしまったのだ。
兄が体を失ったという傷のせいで嫌悪を示す銀次郎が、剥き出しの刃のように思えて触れることを躊躇った。
だが、弟は弟だ。刃でもなんでもない。鋼太郎は躊躇いを振り切って心を奮い立たせて、銀次郎と向き合った。

「ごめんな、銀。兄ちゃんが怖かったんだよな」

 鋼太郎は、銀次郎の頭にそっと手を置いた。

「兄ちゃんも、銀から嫌われるのが怖かったんだ。それも、ごめんな」

 兄と同じくスポーツ刈りにしてある硬く汗ばんだ髪を、優しく撫でた。

「本当に、ごめんな」

 手の下で、銀次郎が震えている。鋼太郎が弟を見ると、銀次郎はぼたぼたと涙を落としていた。

「にいちゃんがあやまることなんて、ないんだよう」

 銀次郎は、しゃくり上げる。

「本当は、オレ、鋼兄ちゃんが好きなんだ。でも、嫌だったんだ。兄ちゃんが機械になったのが、嫌だったんだ」

「銀」

 鋼太郎が穏やかに言うと、銀次郎の泣き声は増した。

「でも、好きなんだ。鋼兄ちゃんが好きなんだ。でも、嫌だから、嫌でたまんなかったから、オレ、あんな」

「気にすんな。オレも、気にしてねぇよ」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」

 堪え切れなくなってしまい、銀次郎は大声で泣き出した。鋼太郎の腹の辺りに縋り付いて、背中を上下させる。
その泣き声に、グラウンドで戦っている選手達が動きを止めた。いくつもの訝しげな目線が、兄と弟に向かう。
 正弘は彼らに軽く頭を下げて、気にしないで下さい、と言うと選手達はこちらを気にしながらも試合に戻った。
少年の嗚咽で目を覚ました百合子と透は、何があったのかと顔を見合わせている。鋼太郎は、三人に小さく呟く。

「しばらく、このままにしといてやってくれ」

 百合子と透は、素直に従ってくれた。正弘も銀次郎の様子を窺っていたが、体を戻し、座席にもたれかかった。
銀次郎が泣き止んだのは、試合が終わった頃だった。結果は、点差を死守したファイターズの勝利に終わった。
 帰りのバスの中では、銀次郎は泣き喚いたせいで元気はなかったが表情はすっきりしていて、落ち着いていた。
行きは百合子の隣に座っていたが、帰りは鋼太郎の隣に座っていた。時折、二人は言葉少なに会話をしていた。
当初の目的である、サイボーグ同好会初の同好会っぽい活動が果たされたのかどうかは、定かではない。
 だが、兄弟にとっては有意義な日曜日だった。




 翌週の月曜日。いつものように、二人はキャッチボールで暇を潰していた。
 鋼太郎の投げたストレートが、正弘のグローブにめり込む。間を置かずして、正弘は左足を大きく踏み込んだ。
振りかぶり、左手から速球が放たれる。鋼太郎は真正面からやってきたボールを、左手のグローブに収めた。
革が叩かれる乾いた音と、速度に応じた重みが腕に訪れる。鋼太郎は、グローブの中からボールを取り出す。
手のひらで薄汚れた硬球を回していたが、握り締めて振りかぶる。右足を前に出して踏み込み、一気に投げた。
 正弘は右手のグローブを挙げて鋼太郎の球を受け止めたが、そのボールを左手に持って軽く投げている。
なぜ投げてこないのだろう、と鋼太郎が不思議に思っていると、正弘はボールを持った手をグローブに入れた。

「鋼。銀、どうしてる?」

「ああ、そのことっすか」

 鋼太郎は左手のグローブに、右手を打ち付ける。

「元通り、っつーほど都合良くいかないっすけど、話すぐらいにはなったっすよ」

「そうか」

 正弘は振りかぶり、投げた。ボールを受け止め、鋼太郎も構える。

「ま、そんなもんっすよ」

 鋼太郎が投げた球が収まり、ばすん、と正弘のグローブが威勢良く鳴った。正弘は、左手にボールを握る。

「いいもんだな」

「まぁ…悪いもんじゃないっすね」

 鋼太郎は、照れくさいのかグローブをしきりに叩いている。正弘はボールを手の中で回しながら、彼を見つめた。
男兄弟、というものに憧れはある。正弘の上の兄弟は姉であったし、正弘の下に兄弟が出来ることは絶対にない。
だから尚更、良いと思った。正弘は、弟がいる鋼太郎と兄がいる銀次郎に対する羨望を感じながら、言った。

「大事にしろよ」

「解ってますって」

 鋼太郎は笑っていたが、急に態度を改めた。

「あの、ムラマサ先輩」

「なんだ」

「なんで、ゆっこは、ムラマサ先輩んちに行ったことをオレに黙ってたんすか?」

 不意に、空気が冷え込んだ。正弘はぎりっとボールを握り締め、鋼太郎を見下ろすように睨み付けてきた。

「…自分の胸に聞いてみろ」

 突き放した、険悪な語気だった。正弘は鋼太郎の二の句を封じるかのように、ストレートの球を投げてきた。
鋼太郎は慌ててそのボールを取ったが、正弘の投球にしては珍しく、正面から外れた方向に飛んできた。
百合子の話であるはずなのに、正弘の癪に障るようなことを言ったのだろうか。鋼太郎は、訳が解らなかった。
だが、正弘はそれきり黙ってしまい、淡々とキャッチボールを続けた。鋼太郎も、続けていくしかなかった。
 聞き返そうと思っても、鋼太郎が正弘に話し掛ける前にボールが飛んでくるのでタイミングが掴めない。
鋼太郎が四十七球目のボールを受け止めた瞬間、給食の時間が終わったことを示すチャイムが鳴った。
それを合図に、二人は投球を中断した。程なくして、二階の食堂から廊下に出てきた百合子が二人を呼んだ。

「こーちゃーん! ムラマサせんぱーい!」

 鋼太郎は、グローブを填めた左手を挙げてやった。百合子は窓から身を乗り出して、腕を精一杯振っている。
何の気なしに、百合子がいる窓のほぼ真下の窓、一階の廊下に目を向けた。そこには、透が一人で立っている。
小作りな顔立ちに合わない大振りなメガネのレンズが光を撥ね、その下の目元は見えないが、口元は良く見えた。
 その、口元が動く。ささやかに端を吊り上げて、しっとりとした薄い唇を開いて、何かの言葉を紡いでいる。
鋼ちゃん。音は聞こえないが、形だけで解った。鋼太郎は、今行くね、と駆け出した百合子を見ていなかった。
透から視線が動かせない。透は気恥ずかしげに笑っている。誰でもない、鋼太郎に向けて笑みを見せている。
 その瞬間。全てを、理解した。





 


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