想う。だからこそ。 玄関でスニーカーを履きながら、透は緊張していた。 背後に立っている兄、亘は不安げな様子で透を見下ろしている。透はスニーカーを履き終え、立ち上がった。 肩に掛けたトートバッグを掛け直してから、兄に振り返る。安心させようと笑ってみたが、ぎこちなかった。 やはり、勇気が足りない。透が曖昧な表情のまま目を伏せてしまうと、亘は身を屈めて透と目線を合わせた。 「本当に大丈夫か、透?」 「うん。たぶん」 透は、はあ、と大きく息を吐いた。 「それに、ムラマサ先輩のおうちは、そんなに遠くないし」 「駅前の町営住宅だったら、歩いて五分も掛からないもんな」 亘は、野球で鍛えた太い腕を組む。その眼差しが、少し険しくなる。 「透。もしもってことがあったら、すぐに逃げるんだぞ」 「に、逃げるだなんて、そんな。ムラマサ先輩、だし…」 透は兄の剣幕に戸惑い、口籠もった。確かに、透一人で正弘の家に行くのは不安だがそういう不安ではない。 学校ではなく、相手の私生活に踏み込むことに気が引けているのと、他人の家に上がるのに慣れていないからだ。 発端は、昨夜。透の携帯電話に正弘から電話があり、予定が空いていたら明日来てくれないか、と言われた。 家族で出かける予定もなく、スケッチに行きたい衝動も起きていなかったので、二つ返事でそれを承諾した。 電話があったのは就寝する直前だったので、父親と兄には言わなかった。朝起きたら、父親は仕事に出ていた。 何も言わないで出かけるのは悪いと思い兄に説明したところ、亘は、正弘一人だけなのか、と聞いてきた。 たぶん一人なのだろう、と透が返すと亘はしきりに不安がった。兄として、妹の身を案じているからだ。 心配されるのは悪い気がしないが、あからさまに態度に出されると困ってしまう。透は、玄関の扉を開けた。 「じゃ、いってきます、お兄ちゃん」 「いってらっしゃい、透」 亘は、あまり面白くなさそうだった。透はなんだか可笑しくなってきて、もう、と少し笑ってから外へ出た。 九月の半ばになっても、日差しは一向に弱まらない。玄関から出た途端、汗が吹き出してきて、肌がべたつく。 自転車で行こうかと思ったが、透の家はそれほど駅からは遠くないので、歩きでもあまり変わらないだろう。 そう思い、透は駅前に向かって歩き出した。駅に近付くに連れて商店が増えていくが、どれも寂れている。 唯一賑わっているのは、こぢんまりとしたスーパーだけだ。透は、デトロイトタイガースの野球帽を被り直した。 正弘の自宅には、数分で到着するだろう。 町営住宅の前には、正弘が待っていた。 階段の出入り口に座っていて、透の姿を見つけると片手を挙げた。透はその場に立ち止まり、小さく会釈した。 駅前にある町営住宅は、四階建てのアパートが三棟並んでいる。ぱっと見ただけでは、どれも同じに見える。 外装は青味掛かったグレーで、階段の脇には駐輪場が備え付けられており、いくつも自転車が留まっている。 駐車場は、建物の陰に作られている。遠目には見たことがあったが、近付いたことはないので、物珍しかった。 東京都内に立ち並んでいるマンションのスケールを縮めて造ったような感じだが、建物の間隔に余裕がある。 駅舎のすぐ傍なので、線路が目の前を通っており、線路と町営住宅の敷地の境目には立派な桜の木があった。 どうせなら、春に来たかった。青葉の茂る桜の木を見上げて透が内心で残念がっていると、正弘が近付いてきた。 「ああ、桜か。結構綺麗に咲くぞ」 「出来れば、もっと、早く知りたかったです」 透がちょっとだけ拗ねると、正弘は笑った。 「だったら、来年の春に見に来るといいさ」 「ですね」 「それじゃ行こうか、透」 正弘は歩き出そうとしたが、透の持っているトートバッグに目を留めた。ぱんぱんに膨れている。 「随分重そうだな。持とうか?」 「いえ、平気です」 透が断ると、正弘は、そうか、とだけ言って歩き出した。町営住宅の階段は幅は広かったが、昼でも薄暗かった。 最上階まで昇って、その一番奥の部屋を目指した。四○四、四○三、四○二、と過ぎて四○一号室に到着した。 たったの四階とはいえ、上に来るとそれなりに高さを感じる。透が辺りを見回していると、正弘は扉を開けた。 「入って」 「あ、はい。お邪魔します」 透は正弘に続いて玄関に入り、スニーカーを脱いで揃えた。派手なハイヒールが、至るところに置かれている。 正弘のものであるスニーカーやローファーよりも遥かに数が多く、三和土にあるだけでも十足以上はあった。 いずれもつま先が尖っていて、足が痛くなりそうだ。透がハイヒールに目を奪われていると、正弘が振り向いた。 「ああ、それ。橘さんのだよ。どれも凄いだろ」 「よく、こんなの、履けますね」 と、透はヒールの高さが十センチ近くありそうなハイヒールを指した。正弘は、玄関脇の靴箱を指す。 「靴箱の中もそんな感じだよ。あの人の趣味は、オレには到底理解出来ない。するつもりもないけどな」 「それで、その、タチバナさんは」 透が尋ねると、正弘はリビングに向かいながら答えた。 「今日は休みなんだけど、朝っぱらからどこかに出かけたよ。たぶん、夕方まで帰ってこないだろうな」 正弘を追って、透もリビングに入った。対面式のダイニングキッチンと繋がっていて、ベランダに面している。 ベランダには洗濯物が干してあり、正弘のものよりもその橘さんの持ち物である女物の方が遥かに多かった。 中でも多いのが黒や赤の下着類で、これもまた派手だった。透が目を丸くすると正弘は、すまん、と平謝りした。 「まだ乾いていないから、そのままにしておいたんだ。やっぱり、片付けておけば良かったな」 「じゃ、じゃあ、あの、あれは、ムラマサ先輩、が…」 透の頬が、みるみるうちに赤く染まる。正弘は、苦笑いする。 「仕方ないんだよ、こればっかりは。オレがやらなきゃ、どうしようもないんだ。とりあえず、座って」 「はぁ…」 透は戸惑いながらも、ソファーに腰を下ろした。帽子を外して、トートバッグも下ろす。 「あ、あの」 ダイニングキッチンに向かっている正弘を呼び止めた透はトートバッグを開けて、その中から箱を取り出した。 透が両手で差し出している箱は、モスグリーンで厚みがあり、草書体の字が書かれた紙の帯が巻いてある。 それは、正弘も名前は知っている、一ヶ谷市内にある和菓子屋の箱だった。透は、気恥ずかしげに目を伏せる。 「これ、あの、その、私が」 透は顔も伏せてしまうと、ずいっと箱を突き出した。紙の帯には、特製練り羊羹、とある。 「た、食べようと思って、買っておいたんですけど、せっかくだから、って思って、持って、きたんです」 「…全部をか?」 正弘の呟きに、透はこくこくと頷いた。 「和菓子は、一杯、食べられるんです。不思議、なんですけど」 正弘は、透の手から箱を受け取って開けた。栗羊羹が二本、練り羊羹が二本、芋羊羹と抹茶羊羹が一本ずつ。 長さは二十センチ程度もあり、厚みも充分ある。それが、六本もある。それを透が一人で食べるというのか。 正弘が訝しんでいると、透は照れくさいのか頬を真っ赤にしている。華奢な体を縮めて、顔を背けてしまう。 「でも、本当に、食べられるんです。特に、羊羹は、大好きで」 「渋いな」 透の照れようが可笑しくなり、正弘は半笑いになる。透は、正弘にそっと視線を向ける。 「だから、その」 「解った解った、こいつを切って緑茶でも淹れてやるよ。何がいい?」 正弘は、羊羹の箱を透に向けた。透は、おずおずと挙手する。 「栗羊羹が、一番、好きです」 「了解」 包丁とまな板を取り出した正弘は、栗羊羹の箱を開けて包みを剥ぎ、黒く滑らかな長方形を横たえた。 「あ、あの、余ったものは差し上げます。お土産ですから」 透が立ち上がりかけると、正弘は包丁を持った手で透を制した。 「こんなにあっても、オレも橘さんも食べきれないから持って帰ってくれていい。そんなに気を遣うなよ」 正弘は、三分の二ほど余った栗羊羹を指す。 「これだけ置いていってくれれば充分だ」 「はい」 正弘に押し切られる形で、透は頷いた。正弘は厚めに切り分けた栗羊羹を二つの小皿に載せ、楊枝を添えた。 食器棚の中から急須を取り出したが、湯飲みが見つからないらしく、下の引き出しや棚なども開けている。 透は、そんな正弘の姿を眺めていた。しきりに首をかしげながら、棚という棚の扉を開けたり閉めたりしている。 そのうちに何か思い出したのか、あ、と声を上げた。そしてまた食器棚を開けて、白いカップを取り出した。 どうやら、この家では湯飲みを常用しないらしい。そういう家もあるんだ、と透は意外に思えてならなかった。 山下家は、透はもとい父親も兄も、紅茶やコーヒーよりも緑茶やほうじ茶が好きで、そればかり飲んでいる。 なので、ない方がおかしいとすら思っている。恐らくこの家の主である橘さんがあまり好きではないのだろう。 来客用と思しき白いカップからは、洋風のデザインに不似合いな緑茶の匂いが立ち上り、柔らかな湯気が漂う。 きっと、あれは紅茶用なのだ。透は、我が侭を言ってしまった、と少し後悔したが羊羹のためだと思い直した。 羊羹は、緑茶と一緒に食べてこそおいしいのだから。 正弘は、飲用チューブを出して緑茶を啜りながら、透を窺った。 リビングのソファーは、テーブルを挟んで向かい合わせに配置してあり、正弘は透の真正面に座っていた。 気弱で引っ込み思案な性格のため、いつも困っていたりおどおどしていたりするのだが今ばかりは違っていた。 見ている方も満ち足りてしまいそうなほど、にこにこしながら、持参した栗羊羹を口に運んで味わっている。 和菓子好き、というのは中学生女子にしては珍しい気もするが、思い返してみれば透の弁当は和食だった。 それも、正弘から見ても手の込んだ料理が多かった。恐らく、あの弁当のおかずも透自身が作ったに違いない。 繊細な水彩絵を描けるほど手先が器用なのだから、料理も得意であっても不自然ではなく、むしろ納得出来る。 透は白いティーカップを取って並々と注がれた緑茶を口に含んだが、すぐに離してきゅっと眉間をしかめる。 「熱っ」 「そんなに熱いか? せいぜい、九十度ぐらいじゃないのか?」 正弘は人差し指の先端を緑茶の水面に付け、温度を測った。透は、小さく息を吐く。 「淹れたばかり、ですから、仕方ないとは、思います。でも、ちょっと、お湯の温度が、高いですね」 「そうか?」 「私はいつも、もうちょっと、温いお湯で淹れてますから。その方が飲みやすいし、甘みも出ますから。蒸らす時間も、もう少し長かったら、おいしくなると思います」 透にしては手厳しい意見に、正弘は軽く肩を竦めた。 「覚えておくよ」 お湯の温度など、気にしたこともなかった。緑茶など、来客があった時に淹れる程度だがその来客も少ない。 静香はインスタントコーヒーばかり飲むし、正弘はどちらかと言えば紅茶の方が好きなのであまり淹れない。 湯飲みが手に届くところにないのも、そのためだ。滅多に使わないのに食器棚に入れていても、邪魔だからだ。 今になって、湯飲みの入った箱がどこにあるか思い出した。正弘のクローゼットの奧の、段ボール箱の中だ。 今度出しておこう、と思いつつ正弘は栗羊羹を楊枝に差して食べた。味覚用神経には、甘みが最初に来る。 そして、小豆の風味、栗の食感、栗の味、独特の味わい。あまり和菓子は得意ではないのだが、これはおいしい。 もう一切れを取って食べながら、正弘は上機嫌に栗羊羹を食べる透を窺った。いつ、話を切り出すべきなのか。 彼女を呼び出した理由は、言うまでもない。鋼太郎の透への恋心と、百合子の切ない胸中と、自分自身の思いだ。 この微妙であり危うい状態が長く続けば、友人関係に亀裂が生じるどころかとんでもないことになりかねない。 だが、切り出すタイミングが見つからない。正弘は意味もなくティーカップを振り、底に残った緑茶を回した。 「あの」 すると、正弘より先に透が口を開いた。 「ムラマサ先輩。何か、お話しが、あるんじゃないんですか?」 「ああ」 正弘はティーカップを置き、透と向き合った。 「鋼と、ゆっこのことでな」 やっぱり。言葉には出していなかったが、透の薄い唇はそう動いた。不安と切なさを入り混ぜた目をしている。 彼女は、嫌な予感が的中してしまった、という顔をしている。正弘は、なんともいえない罪悪感が湧いてしまった。 恋愛というものは、人間関係に置いて最もデリケートな問題だ。心の一番深い部分に、関わっているのだから。 透を呼び付けた後も、何度断ろうかと思ったか解らない。はぐらかしてしまおうか、とも思わないでもなかった。 友人とはいえ、他人の恋愛事情を話すのは気が引けてしまうが、最悪の展開を回避するためには仕方ないのだ。 だが、先延ばしにしても、現状は何も変わらないどころか悪化する可能性が高い。だから、躊躇ってはいけない。 正弘は、気を引き締めた。 06 12/19 |