非武装田園地帯




第十八話 正弘、決断する



 足元に、アブラセミの死骸が転がっている。
 七年間の眠りを経て一週間の解放を得た昆虫はその使命を終え、夏の終わりを告げるべく、腹を見せていた。
先端にかぎ爪の付いた六本の足を折り曲げて、艶々とした瞳には何も映さず、土に戻る時を待ち侘びている。
 鋼太郎は、左手に填めたグローブの中に、右手とボールを叩き込んだ。ばすん、と小気味よい音が起きた。
今日はグラウンドの隅ではなく、校舎裏に立っていた。正弘から、話がある、と言われて引き留められたのだ。
背後の校舎からは給食を食べながら雑談する生徒達のざわめきが零れており、意識せずとも聴覚に入った。

「鋼」

 正弘の声に反応し、鋼太郎は正弘に向いた。正弘も、鋼太郎を見ていた。

「ゆっこは、何が好きなんだ?」

「何って、なんすか?」

「まぁ、色々だ。食べ物であったり物であったり、その辺のことを教えてくれないか」

「まぁ、いいっすけど」

 鋼太郎は正弘の隣に寄り掛かると、ごん、と後頭部を壁にぶつけた。

「ゆっこは、そうっすね、ガキみたいなものが好きなんすよ。砂糖がべったり付いたドーナツとか、クリームしかないケーキとか、派手な色のアイスクリームとか、そんなのばっかり喰うんすよ。ゆっこの母さんは、そういうのじゃなくて体に良いものを食べさせたいらしいんすけど、ゆっこは生の果物とか青臭いものが大嫌いなんすよ。火を通したのは大丈夫なんすけど、生のだけは絶対にダメなんすよ」

「そりゃひどい偏食だな」

「もう、マジでとんでもないんすよ」

 鋼太郎は、げんなりしている。

「でも、一応理由はあるんすよ。小さい頃と小学生時代の大半を病院で過ごしたから、当然、食事も病院食ばっかりだったわけっすよ。手術してばっかりだったから、免疫が落ちちゃいけないってことで滅菌室みたいな部屋にずっと入れられてたし、食べる物もそんな感じで、柔らかい物ばっかりだったんすよ。果物とかも感染症を防ぐために火を通したもの、っつーか、缶詰とかのものばっかりで。だから、生のやつはどうしても受け付けないんすよ。気持ち悪くなるんだそうで」

「ああ。だから、ゆっこの弁当の中身があんなに可愛かったのか」

 正弘は、体育祭の時に百合子が食べていた弁当を思い出した。彩りが鮮やかだったが、味も濃そうだった。
ケチャップやマヨネーズやソースなどが多用されていて、ご飯も綺麗なオレンジ色のケチャップライスになっていた。
 恐らく、ああでもしないと食べてくれないのだろう。思い出してみれば、百合子はカレーうどんしか食べなかった。
七月下旬に百合子が訪問してきた時、正弘はカレーうどんと一緒に、適当に作ったサラダも添えてから出した。
静香は出された物は食べる主義なので食べていたが、百合子はちょっと目を向けただけで手も付けなかった。
その時は、量が多かったのだろう、とだけ思ったがそういう理由もあったとは。正弘は、鋼太郎を見やる。

「それで、食べ物以外は?」

「食い物以外っつーと、まずはあれっすかね。少女漫画」

 鋼太郎が口にしたその単語に正弘はぎくりとしたが、辛うじて押さえ込んだ。

「そうなのか」

「暇なのは可哀想だ、ってんで、ゆっこの親御さんが毎月買ってきてくれてたんすよ。でも、コミックスまでは買わないんすよ。一度読んだらそれでいい、っつーかで。他には、そうだなぁ、アニメとか特撮とか見るのが好きだったかな。日曜日に延々とやるのを見たり、月曜日にやるのを見たりして、曜日感覚を作ってたんすよ。長いこと入院していると、そういうのって失せちまうっすからね。オレも似たようなことやったから、解らないでもないっすけど」

「それと?」

「うーん…。後は、なんだったかなぁ」

 鋼太郎はボールを持った右手で、頭を掻いた。

「ああ、そうだ。自転車だ」

「自転車?」

 正弘が聞き返すと、鋼太郎は右手をグローブの中に収めた。

「そうっす、自転車に乗るのが好きなんすよ。歩くよりも速いし遠くまで行けるから、だそうっす。調子が良い時は、用がなくても乗り回してるっすよ。そういや、ゆっこは補助輪がなかなか外れなかったなぁ。普通は低学年の頃に外れるんすけど、体がああだし、運動する時間も制限されてて、転んでケガをしちゃいけないってんで、三年生になっても外してもらえなかったんす。でも、オレが普通に乗ってるのが羨ましかったみたいで、自分で外そうとしたんすけど、外れなくて」

 鋼太郎は、校舎裏に植えられている木々の隙間から青い空を仰ぐ。

「でっかいドライバー持って、ぎゃんぎゃん泣きながらオレのところに来たんす。補助輪外してー、って」

「それで」

「オレに外せるわけないじゃないっすか。オレも小三で、力なんてそんなになかったんすから。それに、スパナを使わなかったから、外れるわけがなかったんす。あれって、ナットで締めてあるから、ドライバーじゃ無理なんすよ。でも、ゆっこの気持ちも解らないでもなかったから、外そうとしたんす。で、ガチャガチャやってたら、オレの手がタイヤのスポークに入って、爪剥がれて。ありゃあ痛かったっすよ、もうちびりそうになるぐらいに。とにかく、ガキなんすよ、ゆっこは」

 ドライバーを勢い良く突っ込んだ手が滑り、細いスポークの間に指が噛まれ、その一つが引っ掛かってしまった。
右手の中指と薬指が引っ掛かったが、爪と肉の間にスポークがめり込んだのは中指で、体重で爪が剥がれた。
前のめりになっていた体がそのまま前に倒れ、指先が曲げられたと思った瞬間、爪が抉られて弾け飛んでいた。
 その後は、良く覚えていない。ずきずきした痛みとちっとも止まらない血と、百合子の泣き声しか覚えていない。
こうちゃんがあこうちゃんがあ、と泣いていて、鋼太郎の傍から離れようとしなかった。余程怖かったのだろう。
自分の血の赤さと、日暮れの空の薄暗さと、絶え間ない激痛。それが、思い出の中心に深く埋め込まれている。
 久々に思い出した幼い日の記憶が懐かしくもあったが、無性に切なくもあり、鋼太郎は目線を足元に下げた。
アブラゼミの死骸の虚ろな瞳と、目が合ってしまった。すると、正弘が言った。とても真剣な硬い口調だった。

「そうでもないぞ? ゆっこは、お前が思っている以上に大人だ」

「ムラマサ先輩。一体何なんすか」

 鋼太郎は、正弘と向き直った。正弘は、ポケットに突っ込んでいた両手を出した。

「鋼。お前はいい奴だよ、本当に。だがな、だからこそ許せないんだ」

 声色は至極落ち着いていたが作ったものであるらしく、若干無理があった。

「お前が透に惹かれる気持ちも解る。でもな、鋼」

 正弘は一歩前に踏み出し、鋼太郎との間隔を狭める。



「透は、お前を見ない」



 真夏に比べて勢いの失せた、だがそれでもやかましいセミの鳴き声が聴覚に染み入る。



「そして、ゆっこもオレを見ない」



 一息に、正弘は言い放った。静かに、優しく、それでいて力の入った言葉が鋼太郎の聴覚に注ぎ込まれる。
普段と何も変わらない正弘の姿に、威圧感がある。身長差は、機体の個体差の二センチしかないはずなのに。
距離もあるはずなのに、真上から見下ろされ、睨み付けられている気がした。鋼太郎は、言葉を絞り出す。

「だから、一体」

「聞いての通りだ」

 正弘の口調は、少し怯んでしまった鋼太郎とは真逆できっぱりとしていた。

「すぐに理解しろとは言わない。だが、そうなんだ。それが事実なんだ」

「だから、一体なんなんすか、ムラマサ先輩!」

 訳が解らなくなってきて、鋼太郎は正弘に詰め寄った。正弘は身動ぎもせずに、声を張る。

「ゆっこを見てやれ! もっと、彼女を知ってやれ! 彼女がどんな思いでお前を見ていたか、知らないだろう!」

 正弘の力強い拳が、鋼太郎の腹部装甲に抉り込まれる。

「教えてやりたいよ、何もかもを! その頭の中に、直接流し込んでやりたいくらいだ!」

 苦しさは感じないはずなのに息苦しさを覚えた鋼太郎は、怒気を込めた叫びを放つ正弘を呆然と見ていた。

「悔しいが、オレにお前の役割は出来ない! オレに出来るのは、せいぜい相談役ぐらいなんだ!」

 正弘の手が鋼太郎の襟元を掴み、強引に押してくる。どん、と重たい音を立て、壁に背がぶつかる。

「鋼、お前は幸せなんだ! お前が思っているよりもずっとな! だから、それを自覚しろ!」

「…ムラマサ、先輩」

 鋼太郎の音声発生装置からは、乾き切った喉から捻り出したかのような掠れた声しか出なかった。

「鋼。オレは、お前のことが好きだ。だから、嫌いになんかなりたくないんだよ」

 正弘の語気が弱まり、悲痛になる。

「オレも、かなり身勝手だと思う。独り善がりだと思う。だが頼む、鋼。もっと、ゆっこを見てやれ。どんな目で、どんな顔で、お前を見ていると思う?」

 彼の無機質なグリーンのゴーグルに、同じく無機質なブルーのゴーグルの色が映り込み、混ざり合っていた。
だが、様子はおかしかった。興奮を静めているのか肩で息をしていて、襟元を掴んでいる手は緩まなかった。
 冷静さを著しく失った頭で、鋼太郎は必死に考えた。正弘が言った言葉を、何度も何度も思い返して反芻する。
透は鋼太郎を見ない。百合子は正弘を見ない。正弘は百合子を見ている。鋼太郎よりも、ずっと優しい眼差しで。
 百合子が鋼太郎を見ている。それは知っている。だが、別の方向を見ていたからどんな顔なのかは知らない。
知ろうと思ったこともなかった。まとわりついてくるのが少し鬱陶しくて、それになんとなく照れくさかったから。
 長い間傍にいたから、見なくても解ると思って、見る必要などないとタカを括っていた。先週の、あの日の朝も。
泣き出すのはいつものことで、下らないことで怒るのもいつものことで、具合が悪くなるのも、いつものことだ。
透にばかり意識が向いていて、透にばかり気を掛けていて、百合子の様子がおかしいのを見なかったことにした。
 それで、いいと思った。百合子にばかり構っていたら、透と接する時間が減る、透を見ていられなくなると思った。
透のことで、頭が一杯だった。百合子の泣き顔の悲しさも、彼女の薄膜のような意地にも、本当は気付いていた。
普通じゃない、と。長い付き合いだから、それぐらい感付いていた。だが、甘い恋心が全てを覆い隠していた。
 それが、正弘を怒らせるとは思ってもみなかった。彼の態度から察するに、正弘は百合子に恋をしている。
だから、正弘は鋼太郎が許せないのだ。焦がれている相手を苦しめているのだから、憎らしくなって当然だ。

「ゆっこは」

 鋼太郎は、力なく漏らした。

「オレには、笑うだけなんすけどね…」

「オレには、泣くだけだ。鋼に見せない代わりに、オレに見せるんだ。そうでもしないと、持たないんだろう」

 正弘の手が緩み、鋼太郎の襟元を解放した。鋼太郎は脱力してしまい、腰を落とした。

「透がオレを見ない、っつーのは、マジっすか?」

「ああ。透には、好きな奴がいるらしい。それが誰なのかは知らないけどな」

 正弘は鋼太郎の歪んだ襟元を見下ろし、すまん、と小さく謝った。鋼太郎は、襟元を正す。

「そうっすか」

「全く、腹立たしいよ。お前も、オレも」

 正弘は荒い仕草で、ポケットに両手を突っ込んだ。

「最初は、もう少しゆっこを大事にしてやれって言うだけのつもりだったんだ。なのに、怒っちまうとはな。だが、収まらなかったんだ。収めようとすればするほど、鋼のことが腹立たしくなって仕方なかったんだ。本当に、すまん」

 鋼太郎は、正弘に何も言い返す気が起きなかった。百合子を思うがあまりの怒りとはいえ、怒りには違いない。
それを真っ向からぶつけられたことで、畏怖すら感じていた。正弘の穏やかな面しか、知らなかったからだ。

「ムラマサ先輩。そんなに、ゆっこのことが好きなんすか?」

「ああ、好きだ。本当に、好きでたまらないんだ。馬鹿みたいだけどな」

 正弘は少々気恥ずかしげであったが、躊躇はなかった。

「ゆっこを、これ以上悲しませたくないんだ。だから、オレは、もうゆっこを見ない」

「え…」

「どうせ、叶わないんだ。思うだけ、無駄だからな」

 正弘は壁から背を外すと、地面に放り投げておいたグローブを取り、校舎裏の陰から日差しの下に出た。

「行くぞ、鋼。まだ時間は余っているからな。三十球ぐらいは投げられるはずだ」

 急かされても、すぐに歩き出せなかった。鋼太郎は野球ボールを右手に握り締めて、立ち尽くしていた。
諦める、ということだろう。そうするべきなのだと正弘が判断したのだろうが、潔すぎて却って不安になる。
彼は、無理をしている。百合子を思うが故に我を忘れるほど怒るほどなのだから、百合子への思いは相当深い。
 鋼太郎は、日差しの中を歩く正弘の広い背を見つめるしかなかった。百合子のみならず、正弘も傷付けている。
ただ、透の笑顔が眩しくて、可憐だと思って、惹かれてしまっただけなのに。それだけのことで二人も痛めた。
 それも、大切な友人達を。鋼太郎はやりきれなくなったが、足を前に出した。ぱきり、と乾いた音がした。
 アブラゼミの死骸が、靴底の下で砕けた。





 


06 12/21