非武装田園地帯




第二十六話 告白



 それから、二人は口数が少なかった。
 透があまり喋らないのは元々だが、いつもは話題を振ってくる亘もあまり喋らず、夕食の時間は静かだった。
食後もそんな感じだったので、早々に風呂に入って眠ってしまおう、ということになり、透が先に風呂に入った。
いつもよりも一時間ほど早かったので、時間を持て余してしまった。だから、眠る前に、デッサンに取り掛かろう。
シクラメンの鉢植えは、既に部屋に運び込んである。湯冷めしてしまわないように、厚い上着と靴下を着込んだ。
 透はつま先立ちで階段を昇り、自分の部屋に入ろうとしたが足を止めた。ぎ、と、廊下の床板が軽く軋んだ。
すぐ後ろには、亘の部屋がある。亘は、今は風呂に入っている。あと、十五分程度は上がってこないだろう。
透は、いけないと思いながらもそちらに向いた。別に悪いことをするわけじゃない、ただ、中を見るだけだ。
今まで、透は兄の部屋に入ったことはなかった。気が引けるのと、用がある時は兄の方から尋ねてきたからだ。
だから、透が兄の部屋に行く必要はなかった。よって、中を少し見たことはあっても踏み入れたことはなかった。
好奇心と罪悪感が鬩ぎ合っていたが、少しだけならいいよね、と透は冷え切ったドアノブに手を伸ばした。
 そっと扉を開けて、隙間から頭を入れた。兄の部屋は、透の部屋よりも広い八畳だったが雑然としていた。
引っ越しの段ボール箱が未だに開けられていないし、洗濯物も折り畳んだまま、タンスに入れずに置いてある。

「ちょっと、だらしないよ」

 透は少し笑い、背中で扉を閉めた。お邪魔します、と断ってから透は畳敷きの床を慎重に歩いていった。
机の上には教科書が積み重ねてあり、宿題の途中だったのか、ノートが広げてある。内容はさっぱり解らない。
一ヶ谷第二、とロゴの入ったユニホームが吊り下げてある。使い込まれた金属バットが、立て掛けてある。
その傍には同じく使い込まれたグローブが転がしてあり、手入れのための道具が箱の中に詰め込まれていた。
見たこともないものばかりで、興味が引かれる。本棚に並んでいる本も、透が読まないジャンルばかりだった。

「あ」

 透は、洋服ダンスの前に掛けてある制服に気付いた。一ヶ谷第二高校のものは、ブレザーが紺で下がグレーだ。
ブレザーの隣には、股下の長いグレーのスラックスが下がっていて、合革製の黒のベルトも引っ掛けてあった。
紺色のブレザーは、着込まれているせいで関節の辺りが少してかっていた。透は、その部分を優しく撫でた。

「直さないと」

 いけない。そう思っても、歯止めが効かなかった。兄のブレザーをハンガーから外し、それを両腕に抱いた。
鼓動が、痛いくらいに速くなる。間近に感じる兄の匂いが透の胸を締め付け、息が詰まりそうなくらいに苦しくなる。
亘が風呂から上がる前に、ブレザーを戻して部屋から出よう。そうすれば元通りになり、何もなかったことになる。
 腕の中にある、サイズの大きなブレザーを離すのが名残惜しくなってきた。このままずっと、こうしていたい。
けれど、それはいけないのだ。透は体を傾け、掛け布団の上に横たわった。気を抜けば、泣いてしまいそうだった。
どうして、こんなに好きになってしまうのだろう。透は目を閉じ、ブレザーから伝わる兄の気配を噛み締めた。
部屋の中は寒かったが、亘が傍にいる気がしてとても心地良かった。だから、気が緩んでしまったのだろう。
 いつのまにか、透は眠りに落ちていた。


 妹が、そこにいる。
 風呂から上がってきた亘は、自分の部屋に入ることが出来なかった。透が、実に安らかな顔で眠っている。
理由は解らないが、亘のブレザーを大事そうに抱き締めている。妹の、微かで可愛らしい吐息の音が聞こえる。
一瞬、据え膳、という言葉が亘の脳裏を過ぎった。しかし、据えてあるからと言って喰うわけにはいかない。
そこまで自制心のない人間ではないし、何より、相手は妹だ。そうだ。透は、亘のただ一人の妹に過ぎない。
だから、何も思うことはないはずだ。亘はそう思い直し、部屋に入った。このままでは、透は風邪を引く。
透の傍に膝を付き、肩に手を掛けようとしたがその手を止めた。透の寝顔は無防備であり、まだ幼かった。
 亘は、思わず身を引いた。夕食の最中は懸命に他のことを考えて気を逸らしていたが、もう限界だった。
透に毛布でも掛けてあげて、ひとまず部屋を出よう。透が起きて出ていくまで、自分は下にいるべきだ。
そうでもしなければ、絶対におかしなことになる。どれだけ自制しても、魔が差さないとは限らないのだから。
していいことと、してはいけないことがある。亘は立ち上がって部屋から出ようとしたが、透が身動きした。
ん、と寝惚けた声を漏らし、身を捩る。メガネを掛けたままの目を擦って瞬きしていたが、その目を開いた。

「あ…」

 透は寝乱れた髪のまま、きょとんとした。が、すぐに頬を紅潮させた。

「ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 透は慌ててずり下がると、精一杯身を縮めた。

「えっと、あの、別に、その、そんな、つもりじゃ、なくて、えっと、ああ、もう、どうしよう」

 ごめんなさい、と繰り返す透は、視線を彷徨わせている。亘は透の狼狽ぶりに困惑したが、とりあえず言った。

「いや、いいよ」

「あうぅ…」

 透は両手で頬を押さえ、顔を逸らしている。

「私、なんて、こと…」

 透は、羞恥で泣きそうだった。兄が来る前に出ようと思っていたのに、心地良さでうっかり寝入ってしまった。
とてつもなく、恥ずかしいことをしていた。いくらなんでも、あれはやりすぎだ。強烈な後悔が、内を駆け巡る。
けれど、とても居心地が良かった。透は亘の様子を見上げて、怒っていないことを確かめると少し安堵した。

「ごめんなさい、お兄ちゃん」

 透は立ち上がると、部屋から出ようとした。

「それじゃ、私、もう」

 擦れ違おうとした妹の左手首を、亘は反射的に掴んでいた。パジャマの布越しに、金属の感触が伝わってくる。
亘は、そうしなければいけない気がした。透は亘の手を振り払おうとはせずに、頬を染めたまま、俯いている。
その時間は、一瞬のようで永遠のようでもあった。亘は透の気恥ずかしげな横顔から、目を離せずにいた。
無意識のうちに、妹の左手首を掴んでいる腕を引いた。あ、と透は驚いたようだったが、抵抗はしなかった。
いつかの時と同じように、背中から抱き竦めた。厚い上着を着ていても、その下の体は相変わらず細かった。

「透」

 頭の下にある透の髪から、シャンプーの甘い香りが立ち上っている。石鹸と、亘のものと思しき匂いもする。

「透…」

 それは恐らく、透が亘のブレザーを抱き締めていたからだろう。その理由を少し考えただけで、煽情されてしまう。
腕を緩めて、透を解放するべきだ。妹は妹の部屋に行かせるんだ。頭では考えていても、体は言うことを聞かない。
守りたくても守れなかった。守る傍から守られた。戦っていたのは、亘ではなく透だった。大事な大事な、妹。
大事だから、何もかもぶつけて壊してしまいたい衝動も起きる。全てを手に入れてしまいたいほど、好いている。
透の肩と腰に回した腕に、力を込めた。透は少し苦しげにしたが、抗うことはなく、亘の力を受け止めていた。

「お兄ちゃん」

 透は動けなかった。背中から感じる兄の熱い体温と体を締め付ける腕の力強さに、くらくらするほど高揚した。
ああ、もうダメだ。この部屋から出たとしても、きっとすぐに戻ってきてしまう。そして、兄を求めてしまうだろう。
だが、求める時は兄ではなく、一人の異性として求めたい。透の兄の亘としてではなく、ただの山下亘として。
そうすれば、少しは背徳感が消える気がした。透は力の入らない手を兄の腕に添えると、小さく呟いた。

「亘、さん」

 兄の腕の力が、強くなった。透は息苦しさを覚えたが、それは物理的なものではなく、胸が詰まったからだ。

「透」

 透は左手を伸ばし、右肩を掴む兄の手に重ねた。機械の手でも充分解るくらいに、その手は熱を持っていた。

「あの、ね」

 勝手に、口から言葉が出ていた。止められなかった。

「お兄ちゃんに、言えなかったことが、あるの」

「オレもだ」

 亘は、左手に重ねられた透の左手の感触を味わっていた。冷たく、硬く、生き物のそれとは懸け離れた偽物だ。
けれど、それもまた妹なのだ。亘は妹の右肩を握り締めていた手を外すと、機械仕掛けの左手に指を絡めた。

「ずっと、前から、いつからなんて、解らないけど」

「ああ。そうだな。気付いたら、そうだったんだ」

「うん。そうなんだよね」

 透は亘により掛かり、体重を預けた。亘は揺らぐこともなく、受け止めた。

「ああ、そうなんだ」

「お兄ちゃんが、お兄ちゃんだから、こうなっちゃったんだと思うの」

 透は顔を傾けて、兄の胸元に頬を当てた。

「そうだな。透が妹だから、こうなんだ。透が妹じゃなかったら、きっと、こうはならなかったはずなんだ」

 亘は、透の髪に頬を押し当てた。

「好きだ」

 耳元で囁かれた微かな言葉に、透は頷いた。同じように、兄にだけ聞こえるように言った。

「うん。好き」

 お互いに、相手が自分と同じ気持ちであったことが嬉しくもあり、またどうしようもなく哀しいことだと悟っていた。
兄と妹で在る限り、どれだけ好きであろうとも叶わないことがある。兄と妹だからこそ、解り合えることもある。
亘の指と絡めた指を解かずに、透は泣いた。声は出さずに目元に滲んだ涙を落としたが、それを拭わなかった。
 兄の手が、拭ってくれたからだ。


 今夜は一緒に寝よう、ということになった。
 壁一枚、扉一枚とはいえ、隔てられたくなかった。本来は一人用の布団なので、二人で入ると少し手狭だった。
透は緊張しながら、メガネを外して枕元に置いた。隣にいる亘は天井を見上げていて、こちらを見ようとしない。
その眼差しはいやに硬く、唇も引き締めている。透は身をずらして亘との間を狭めたが、亘も体をずらした。

「お兄ちゃん?」

 透が不思議に思うと、亘は深く息を吐いた。

「透。悪いけど、あんまり近付かないでくれないか」

「どうして?」

 透が不安げに眉を下げると、亘は額を押さえた。

「どうしてって、そりゃ…。さっきので結構来ちまったから、これ以上はさすがにやばいんだ」

「何が?」

「出来れば、説明したくないな」

 困り果てた様子の亘に、透はその言葉の意味を察して真っ赤になった。

「えっと、それは、つまり、あの、あっちの方の」

「ごめん…」

 亘は、逃げ出したいほど情けなかった。透に気を遣わせてしまったこともそうだが、収まらない自分も、だ。
処理をするために透を追い出したくはないし、離れたくもない。だが、このままでは、堪えているのが辛い。
けれど、その処理を手伝ってもらうなどという、理想を通り越して男の妄想を具現化した展開にはしたくはない。
それでは、透が穢れてしまう。透を横目に見やると、透は布団に顔を埋めていて、上擦った変な声を出している。
亘以上に、恥ずかしがっている。それがなんだか可笑しかったが、亘はそれどころではなくなってしまっていた。
 色々な意味で、限界だ。しかし、相手は妹でまだ十四歳だ。男を受け止められるほど、心身は成長していない。
タイミングを見計らってトイレに行こう、と亘は強く誓った。過ちを犯すくらいなら、情けなくても処理をするべきだ。

「お兄ちゃん」

 透は布団を押し下げ、顔を出した。

「何も、しなくて、いい?」

「絶対にしないでくれ。されたら、たぶん、止まらなくなっちまう」

「そっか」

 透は亘の頑なな態度に、ちょっと残念に思いながらも引き下がった。百合子のように、簡単にはいかないようだ。
知識が少ないのと、男というものがどういうものなのか今一つ把握し切れていないので、亘の苦しさは解らない。
透が抱き締めていたブレザーは、ハンガーに掛けて吊してある。しっかり抱き締めたせいで、シワになっている。
あれは、とても素晴らしかった。世の中にこんなに心安らぐものがあるのか、と驚いてしまうほど気持ち良かった。
ならば、服ではなく亘そのものであればどうだろう。知りたい、そして確かめたい。鼓動が跳ね、欲求が生まれる。
 きっと、亘となら大丈夫。透は亘の腕に手を掛け、体を寄せた。



「でも、キスぐらいなら、いいよね?」





 


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