非武装田園地帯




第二十七話 失恋



 それから、三日後の金曜日。
 静香が帰宅すると、部屋の中は暗かった。手探りで玄関の明かりを付けてブーツを脱ぎ、廊下に上がった。
空気は外気と変わらないほど冷え切っていて、人がいる気配は感じられない。玄関にも、正弘の靴はなかった。
帰ってきていないのか、それとも出掛けたのだろうか。静香は訝しみながらリビングに入り、明かりを付けた。
青白い光に照らされたガラステーブルの上には、朝刊に入っていた広告紙が裏返してあり、字が書かれていた。

  フラれに行ってきます。 正弘

「カッコ付けちゃって」

 静香は暖房を付けてソファーに座り、正弘が書き置きした広告紙を取った。恐らく、百合子の元に行ったのだ。
下校してすぐに出たのだろう、ソファーの傍には通学カバンが転がしてあり、制服も脱ぎっぱなしになっている。
余程緊張していたのか、それとも慌てていたのかは定かではないが、正弘らしくないことであるのは確かだった。
帰ってきたら、一応慰めてやろう。結果が解っているのにわざわざ告白しに行くとは、難儀な性格の男だ。
 静香は広告紙を新聞の束の上に投げてから、ホロビジョンテレビを付けてBGM代わりにし、コートを脱いだ。
部屋の中は、温風と床暖房で徐々に温まってきている。とりあえず酒でも、とキッチンに入って冷蔵庫を開けた。
その中にラップが掛けてある器があり、ラップの上には正弘の字で書かれたメモが置いてある。夕食です、と。

「どこまで気ぃ遣うのよ、あんたって子は」

 静香は、器の中を覗いた。温めるだけですぐに食べられるように、親子丼が拵えてあった。

「全く」

 冷蔵庫を閉めてから、壁掛けのデジタルクロックを見上げる。午後七時過ぎ。帰ってくるとしても、もう少し後だ。
一ヶ谷から鮎野駅方面に向かう午後七時台の電車は、午後七時四十分発しかない。きっと、帰りはそれだ。
それよりも前は午後六時二十四分発と午後六時五十六分発で、それよりも後は午後八時五十五分発しかない。
一ヶ谷市立病院と一ヶ谷駅間を走るバスの時間も含めて考えても、午後七時四十分発が一番都合が良い。
そうなると、正弘が部屋に帰ってくるのは、一時間半以上後になるだろう。夕食は、さっさと先に食べてしまおう。
 正弘が帰ってくるまで、待っている義理はない。




 午後六時過ぎ。正弘は、一ヶ谷市立病院に到着した。
 日が落ちるのが早いので辺りは真っ暗になっていたが、バス停の近くにある病院だけは非常に明るかった。
バス停に貼られているバスの時刻表を見て、帰りのバスの時間を確かめてから、病院へと向かって歩いた。
靴底の下で、乾いた雪がぎしぎしと鳴る。昼間のうちにほんの少し溶けた表面が凍り、踏むと硬い音がする。
 正面入り口の自動ドアを二つ抜け、暖房が効きすぎるぐらいに効いた室内に入った。受付には、まだ人がいる。
面会の制限時間は、午後六時三十分までだ。ぎりぎりだな、と思いながら正弘はロビーを通り抜けていった。
一番手前のエレベーターを呼び出して乗り込むと、特殊外科病棟のある三階のボタンを押し、昇っていった。
すぐに、三階に到着した。エレベーターから出ると、入れ違いに見舞客と思しき人間がエレベーターに乗った。
百合子の病室は、三一三号室だ。正弘は迷わずに歩き、病室の番号と百合子の名前を確かめ、ノックした。
程なくして返事があったが、声は百合子のものではなかった。正弘が一歩身を引くと、引き戸の扉が開かれた。

「あら、正弘君」

 百合子の母親、撫子が顔を出した。正弘は、撫子に頭を下げる。

「遅くにすみません」

「いえ、いいわよ。だけど百合は、丁度眠っちゃった後なの」

 ごめんなさいね、と撫子はベッドに横たわる娘を見やった。正弘も撫子の肩越しに、百合子を見下ろした。

「近頃じゃ、呼吸も弱くなってきて」

 目を閉じている百合子の鼻と口には、チューブが繋がった半透明のカバーが被せられている。酸素マスクだ。

「代われるものなら、代わってやりたいわ」

 撫子は正弘を招き入れると、扉を閉めた。正弘に椅子を勧めてから、撫子はベッドの脇に腰を下ろした。

「本当に、いつもありがとう、正弘君。百合と仲良くしてくれて。鋼太郎君と透さんも、よく来てくれるのよ」

 撫子は優しい手付きで、百合子の乱れた髪を撫でてやった。

「ほら、百合。正弘君が来てくれたわ。ムラマサ先輩よ」

「ゆっこは、起きますか?」

 正弘が尋ねると、撫子は切なげな目をした。

「起きても、最近はぼうっとしていることが多いわ。この子は凄く嫌がったんだけど、やっぱり、モルヒネを使わないと痛みが治まらなくて」

 百合子の腕に繋がれている点滴のパックは以前と同じく二つだったが、片方は見慣れないものに変わっていた。

「あの」

 正弘は、ショルダーバッグの肩掛け紐を握り締めた。

「ゆっこと、話がしたいんです。少しでいいですから、ゆっこと二人にさせて下さい」

「ええ、いいわ。きっと、百合も喜ぶと思うから」

 それじゃ、と撫子はハンドバッグを持って立ち上がった。心労が溜まっているのか、彼女の頬は痩けている。
母親なのだ、辛くて当然だ。正弘は撫子の背に頭を下げてから、立ち上がり、眠っている百合子に近付いた。
酸素マスクの内側に、ほんの少しだけ湿り気がある。それがあるから、百合子がまだ生きているのだと解る。
それさえなければ、死体のようだった。点滴を繋がれている腕は骨と皮だけと化し、唇もからからに乾いている。

「ゆっこ…」

 正弘はベッドの傍らに跪いて、百合子の顔の傍に顔を出した。

「あのな。漫画、刷ってきたんだ。ほら、オレ、描いていただろう? 面白いかどうかは解らないけどさ」

 百合子の目は開かない。青白い肌からは、張りが失われている。

「すぐに読んでもらいたかったんだけど、寝てるんじゃ無理だよな。置いていくから、起きたら読んでくれ」

 正弘はベッドに腕を載せ、項垂れた。

「それだけで、いいんだ」

 言いたいことは、色々とあった。言って欲しいことも、色々とあった。けれど、百合子は眠り込んでいる。
眉間に深くシワが刻まれ、眠っていても痛みの最中にあることが伝わってくる。眠りさえも、苦痛を和らげない。
 先週までは、百合子は良く喋っていた。表情こそ弱々しくなっていたが、笑い声はいつも通りに上げていた。
なのに、それから数日もしないうちに悪化した。起き上がるのが難しくなり、リクライニングに頼っていた。
先日、見舞いに来た時にはあまり喋らなくなっていた。相槌は打つが、自分から話題を振ってこなくなった。
そして、今では起き上がることすら出来なくなった。掛け布団の下からは、カテーテルのチューブが出ていた。

「ゆっこ」

 正弘は、百合子の脂気の抜けた肌に触れた。

「オレは、ゆっこが好きだ。大好きなんだ」

 屋上での邂逅。校舎裏での再会。百合子は正弘に偏見を持たず、普通の男子生徒として接してくれた。

「ムラマサ先輩、なんて呼ばれるの、最初は結構照れくさかったんだぞ」

 それまで、先輩、と呼ばれることすらなかった。下級生からも、呼び捨てにされてばかりだった。

「また、遊びに来てくれよ。カレーうどん、作ってやるから。今度は、ちゃんとお菓子も用意しておくからさ」

 七月のあの日。百合子が部屋から帰ってしまった後、どうしようもなく寂しくなって切ない気持ちになった。

「次の同好会活動は、どうしようか?」

 八月の終盤。サイボーグ同好会と鋼太郎の弟の銀次郎とで行った野球観戦は、本当に楽しかった。

「たまには、オレにも、笑ってくれよ」

 百合子は、正弘には泣き顔ばかり見せる。鋼太郎のことが好き、好きだから苦しい、とそればかりだった。

「なぁ、ゆっこ」

 正弘は、百合子の右手が硬く握り締めているものに気付いた。痛みが激しいためか、爪を食い込ませている。
土に汚れた、古びた野球ボール。下手くそな文字で、コウタロウ、と名が書いてある。鋼太郎のボールだ。

「それ、そんなに大事なのか?」

 正弘の問い掛けに、百合子は答えない。

「そうか」

 正弘は、百合子の手の中にあるボールにそっと触れた。

「ごめんな…」

 何に対しての謝罪なのかは、正弘自身にもあまりよく解らなかった。だが、謝らずにはいられなかった。

「鋼は、ゆっこのことが好きだぞ」

 オレを殴り付けるぐらいに、と正弘は付け加えた。酸素が送り出される音だけが、病室の中を満たしている。

「元気になったら、一高に来るか? そうしたら、また一緒になれるぞ。でも、その前にオレが合格しないとな」

 正弘の声に反応したのか、百合子の瞼が僅かに動き、細く開いた。正弘は、少し身を乗り出す。

「悪いな、起こして。眠いのなら、また寝て良いぞ」

 百合子の乾いた唇が、ぎこちなく動いた。掠れた声が、弱った喉の奥から零れた。

「…こうちゃん」

 百合子の右手が緩み、ボールを落とした。正弘の人差し指に、痩せた指が縋り付いてくる。

「いたいよお」

「大丈夫だ。眠れば治る。だから、眠れ」

 正弘は、声の震えを隠せなかった。百合子は半開きにしていた唇を締め、瞼を閉じてから、深く息を吐いた。
百合子は、再び眠りに落ちたようだった。薬のせいで、正弘のことを鋼太郎だと誤認してしまったのだろう。
正弘は、自分の指を必死に握ってくる百合子の右手を外させ、その手に鋼太郎の野球ボールを入れて握らせた。

「ゆっこが欲しいのは、こっちだろう?」

 百合子は、正弘ではなく鋼太郎を求めているのだから。

「本当に、好きだったんだからな」

 けれど、百合子の心の中に在るのは正弘ではない。

「鋼は、ストレートしか投げられないノーコンだ。だけど、ゆっこにとっては、エースで四番なんだよな。だから、二軍上がりみたいなオレが、勝てるわけがないんだよな。そうだろう、ゆっこ」

 正弘はショルダーバッグの中から三冊のコピー誌を取り出すと、テレビ台を兼ねた棚に置いた。

「じゃ、ここに置いておくから。気が向いたらでいいから、読んでくれよな」

 また来るよ、と百合子に呼び掛けてから正弘は病室を出た。待合室にいた撫子に挨拶して、病院を後にした。
一ヶ谷駅へ向かうバスの車中で、正弘は必死に嗚咽を堪えていた。解っていても、悲しいものは悲しかった。
百合子の心が正弘へ向かないこと、百合子の体が既に限界であること、百合子が自分に鋼太郎を重ねたことが。
 これで、本当に恋は終わったのだ。フルサイボーグとなった百合子が目を覚ましたら、ただの友人に戻ろう。
サイボーグ同好会の一人、ムラマサ先輩として。それはやるせないほど悔しかったが、そうするべきなのだ。
それに、その方が正弘も楽になれる。正弘はバスの車窓から、闇の中に青白く浮かび上がる病院へ振り返った。
どれだけ悲しんでも、涙が出ないことが情けなかった。そして、自分の体が人間ではないことを、痛烈に思い知る。
正弘は病院の建物から目を外し、正面に向いた。乗客がまばらな車内を見つめながら、内心で願っていた。
 どうか、百合子に良い夢を。





 


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