非武装田園地帯




第二話 鋼鉄の先輩



 翌日。鋼太郎は、今日もグラウンドの隅で投げ込みをしていた。
 給食の時間は、常に暇だ。失ったはずなのに忘れられない食欲を紛らわすためにも、体を動かしていたかった。
同じネットばかりに当てていると破れてしまいそうなので、昨日と違うネットを相手に、ボールを投げていた。
時折手を止めて校舎を見てみるも、正弘の姿はない。オレも期待してんのかよ、と鋼太郎は内心で呟いた。
 百合子が正弘に言ったことは、百合子の単なる我が侭に過ぎない。正弘のことを、考えていない言葉だ。
そんなものを、誰が受けるものか。増してそれが、昨日初めて言葉を交わしたばかりの上級生なら尚のことだ。
期待したところで、どうしようもない。だが、また正弘と投げ合いたい、という気持ちはすぐには消せなかった。
 複雑な胸中を発散するためにも、鋼太郎は更に投げた。変化を付けたつもりだったが、球はやはり真っ直ぐだ。
ネットにめり込んだボールは、勢いを失って転げ落ちてきた。鋼太郎は屈んでボールを拾うと、身を下げた。
これで、投げた球数は丁度三十だ。まだ、大したことはない。もっと投げ込まなくては、練習にはならない。
腰を捻って腕を伸ばし、肩から力を伝えてボールを飛ばす。正面の一点だけを見据え、またそれを繰り返す。
 鋼太郎のその姿を、正弘は校舎の影から見ていた。見るべきではないと思っていたのに、つい見てしまう。
これ以上関わらない方がいい、近付かないべきだ、と自分に言い聞かせるも、またやりたい、との気持ちがある。
一晩経っても気持ちは打ち消せず、逆に強くなる。久々に揺れた感情は心を潤わせ、一層忘れられなくなった。
 正弘は校舎にもたれて、木々に覆われた空を仰いだ。定まらない自分が情けなくて、苛立ってしまいそうになる。

「何してるんですか?」

 いきなり話し掛けられて驚き、正弘は身を引いた。声のした方向には、百合子が立っていた。

「…白金さん、こそ」

 正弘は、状況が理解出来なかった。百合子は通学カバンを背負っていて、今し方登校してきたという感じだ。
百合子は正弘の戸惑いを察し、ああ、と頷いた。貧弱な体格に見合った、膨らみのない胸に手を当てた。

「診察に行ってきたんですよ、一ヶ谷の病院に。で、遅刻してきたわけです」

「じゃあ、なんで教室に行かないんだ?」

「鋼ちゃんがいるから」

 百合子が朗らかに笑む。正弘は、彼女を見下ろす。

「黒鉄君の、どこがいいんだ?」

「どこっていうか、なんていうかぁ」

 正弘の問いに、百合子はほんのりと頬を紅潮させた。

「鋼ちゃんだから」

「それは理由になっていないと思うけど」

 正弘が返すと、百合子は眉を下げた。

「でも、それ以外にないんですよお。だって、鋼ちゃんは鋼ちゃんだから、好きなわけで」

「まぁ、確かに、悪い人間ではないと思うけど」

「鋼ちゃんはいい人ですよ。私みたいなのと一緒にいてくれるし、なんだかんだ言って構ってくれるし」

 百合子は、正弘の隣にやってきた。校舎の影から体を出し、投げ込みを続ける鋼太郎を窺った。

「だから、私も、鋼ちゃんと一緒にいるんです」

 正弘は、鋼太郎を見つめている百合子の横顔を見つめた。

「鋼ちゃん、今はああやって普通にしてるけど、サイボーグになったばっかりの頃はすっごく荒れたんですよ。私も、そうだったから。心臓がなくなって、機械の心臓が埋め込まれたんだって解った時には、すっごく泣きました。先輩には解りますよね、こういうの」

「解る。けど、違う」

 正弘は、自分がサイボーグとなった頃のことを思い出さないようにしながら答えた。あの頃は思い出したくない。
百合子は、正弘に振り向いた。露わにされている広い額に、白いヘアバンドから零れた髪が数本落ちていた。

「うん。違います。私も鋼ちゃんも先輩も違います。でも、ちょっとだけかもしれないけど、解るから」

 百合子は、正弘に向き直った。

「だから、鋼ちゃんの傍にいたいんです。鋼ちゃんも、そう思ったから先輩を捜しに行ったんじゃないでしょうか?」

「同情されても、別に」

 正弘が百合子から顔を背けると、百合子はかかとを上げて背伸びをし、正弘との間を詰めた。

「同情かもしれないし、そうじゃないかもしれませんけど、だけど、私も先輩と一緒にいたいって思います。せっかくだから、仲良くなりたいなーって」

「君といい、彼といい、どうしてオレなんかに関わろうとするんだ。同類にしないでくれ」

 正弘は語気を強めた。だが、百合子は怯まず、正弘を見返した。

「先輩こそ。どうしてそんなに、嫌がるんですか? 鋼ちゃんとはキャッチボールしたくせに」

「あれは、物の弾みだ」

 単なる気の迷いだ。正弘が苦々しげにすると、百合子は訝しむ。

「物の弾みで、時速二百キロの剛速球を投げますか?」

「それ、黒鉄君が言ったのか?」

「昨日の帰り道に、鋼ちゃんが話してくれたんです。すっごく強くて、腕が痺れたって。一球だけど、楽しかったって」

「そんなことを言われても、オレは別に」

「球団はどこが好きですか?」

「カープ」

「うあー、渋いですねぇ」

 百合子は、なぜか感心している。正弘は、条件反射で答えてしまったことを後悔した。

「だから、どうしてそんなにオレに絡むんだ。黒鉄君のところに行くなら、さっさと行ったらどうなんだ」

「ちなみに鋼ちゃんは、トラキチってほどじゃないけど、タイガースが好きです。でもって私は、弱い球団を応援したくなります。だから、その年のリーグ戦の最下位球団が好きです」

「それこそ、好きとは言わずに同情と言うんじゃないのか?」

 正弘が言うと、百合子は笑った。

「そうかもしれませんね。でも、それでもいいんじゃないかなーって思うんです」

 じゃあこれで、と百合子は正弘に頭を下げてから、鋼ちゃーん、と投球練習を続けていた鋼太郎に呼び掛けた。
その声に、鋼太郎はぎくっとして投げる手を止めた。彼が振り返ると、百合子はぶんぶんと大きく手を振る。

「こーちゃーん!」

 気合いの入っている百合子とは逆に、鋼太郎はやる気なく手を挙げただけだったが百合子は嬉しそうだ。
鋼太郎の居る場所に向かって、百合子は頼りない足取りで駆け出したが、そのスピードはやたらと遅かった。
本人は走っているつもりなのだろうが、通学カバンの重さと体力のなさからか、歩いているのと変わりない。
 正弘はその後ろ姿を見ていたが、背を向けた。歩き出そうと思ったが、なんとなくそのまま立っていた。

「傍に、か」

 そんなこと、言われたのは初めてだ。正弘は、音声回路を通じて発した自分の声が明るいことに気付いた。
顔があれば、笑っていたのかもしれない。昨日といい今日といい、どちらもとても些細なことなのに。
それが、なぜこんなに嬉しいんだ。鋼太郎の元に辿り着いた百合子は、こちらを指してしきりに話している。
昨日の先輩と話したよ、カープが好きなんだって、渋いよねぇ、鋼ちゃんはトラだけどね、と喋っている。
 鋼太郎はそれを聞いていたが、正弘に向いた。正弘と目が合うと、鋼太郎はグローブを下ろして頭を下げた。
 正弘も軽く頭を下げ、それに返した。




 一週間後。その日の給食の時間も、鋼太郎は投げ込んでいた。
 すっかり、これが習慣と化していた。グローブを填めてボールを手にしているだけで、割と楽しいからでもある。
大きく振りかぶって球を飛ばすと、目の前のネットに食い込み、揺れる。落ちたボールが、足元に転がってきた。
それを拾って、立ち上がる。校舎に目をやると、正弘がいた。彼は鋼太郎から目を逸らしてしまい、顔を背ける。
その仕草は、どことなく気恥ずかしげだった。鋼太郎は視覚に意識を集中させてズームし、正弘の姿を拡大した。
 正弘の右手には、サイボーグの手の大きさに見合ったグローブが填っている。どうやら、サウスポーらしい。

「先輩は左なんすか」

 鋼太郎が声を掛けると、正弘は左手をグローブに叩き込んだ。

「元々、左利きでさ。投げるのはこっちの方が都合が良いんだ」

「じゃ、付き合ってくれるんすか?」

 鋼太郎は、正弘に向けて声を上げた。正弘は左手をグローブに埋めていたが、頷いた。

「先に言っておくが、オレは下手だからな? 期待はするなよ?」

「いいっすよ、なんだって」

 鋼太郎は、投球練習の相手が出来たことと正弘の方から近付いてきたことが嬉しくて仕方なく、声を弾ませた。
 正弘は嬉しそうな鋼太郎に、なかなか目を向けられなかった。いざ行動してみると、これがどうにも照れくさい。
友人にはなれなくても、練習相手にはなれるかもしれない。そう思い、鋼太郎の投球練習に付き合うことにした。
ここに来るまで、馬鹿みたいに悩んでいた。行くべきか行かざるべきか、やるべきかやらざるべきか、と延々と。
だがここ数日、投球練習を黙々と続けている鋼太郎の姿を見掛けるたびに、気持ちが徐々に揺らぎ始めていた。
誰かが誘ってくれることなど、滅多にない。これを逃してしまったら、次はもうないんじゃないかとも思った。
 一人でいるのはやりやすいしれないが、やはり辛い部分はある。それに、意地を張り続けるのも楽ではない。
たまには、楽しいことをしてみてもいいかもしれない。正弘は、グラウンドの隅にいる鋼太郎に近付いた。

「球速、あんまり速くするなよ? オレのグローブは備品だからな」

「先輩の方こそ、力入れすぎないで下さいね」

 鋼太郎は、正弘に向き直った。正弘も、受け止められるように身構える。

「努力するよ」

 鋼太郎は後退して、正弘との距離を広げた。

「じゃ、行きますよ!」

 ざっ、と左足を前に踏み込んで腰を捻りながら、鋼太郎は右手を前に出して投球した。正弘は、一瞬身動いだ。
先日に比べて距離がないので、白球はすぐにやってきた。正弘は左手のグローブを前に出し、それを受け止める。
回転の付いていない真っ直ぐな球が、グローブを殴り付けた。手首から肘、肩までに、重い衝撃が突き抜けた。
 それが、たまらなく心地良かった。久しく味わっていなかった感覚と、感情と、高揚感を、正弘は感じた。
顔はマスクフェイスなので表情には出なかったが、じわりと温かなものが生じ、機械で出来た体に広がった。
 正弘は鋼太郎から受けた球を取り出し、左手に持つと手の中で転がした。収まりの良いところで、握り締める。
 そして、振りかぶった。


 二人が投げ合う様を、百合子は見下ろしていた。
 二階の二年生の食堂から、給食を食べる手を止めて見ていた。だが、百合子以外は二人を見ていなかった。
鋼太郎と正弘は、何か喋っているようだったが距離があるので聞こえない。それが、少しばかり残念だった。
二人は、交互に投げ合っている。どちらの放つ球もとても速く、簡単には打ち取れない球だろうと思った。
グローブにボールが叩き付けられる、ばしっ、という乾いた音が辺りに響き、地面を蹴った際に砂埃が上がる。
 鋼太郎の球が正弘のグローブに収まると、正弘はあまり投げたことはないのか、不慣れな仕草で振りかぶった。
そして、投げた。その球は鋼太郎に向かって飛んでいくかと思われたが、その直前でくいっと横に曲がった。

「あ」

 百合子が声を漏らすと、給食を食べ終えた早紀が振り向いた。

「何見てんの、ゆっこ」

「うん。鋼ちゃんと先輩。さっきね、先輩の球、曲がったの」

 こー、横に、と百合子が手で示すと、早紀は有り得ないとでも言いたげな顔になる。

「サイボーグが変化球なんて投げられるの?」

「だって、あれは」

 百合子は、正弘の次の球を見るために再びグラウンドを見下ろした。早紀も、半信半疑ながらグラウンドを見た。
 正弘は鋼太郎から受けた球を握り、投げた。二本の指から抜けた球は、回転が掛かっているのか曲がっていく。
鋼太郎はそれを取ろうとしたが、グローブに届く手前で擦り抜け、とん、と地面に転がった。見事にカーブだ。

「…マジで?」

 信じがたいのか、早紀は目を丸くした。百合子は、にこにこする。

「ね? 曲がってたでしょ?」

 鋼太郎は地面に転がっているボールとなんだか得意げな正弘を見比べていたが、ボールを拾って悔しがった。
どうして出来るんすか、と鋼太郎が言うと正弘は、力加減だ、とだけ返した。鋼太郎はボールを握り、唸っている。
 鋼太郎は恐らく、なぜ自分には出来ないのか、どこがどう違っているのか、などのことを悩んでいるのだろう。
百合子は、また投げ合いを再開した二人を見つめていた。鋼太郎は、悔しげではあるが本当に楽しそうだった。
 正弘も傍目からでは表情は解らないが、鋼太郎との剛速球キャッチボールを楽しんでいるように見えた。
早紀は嬉しそうな百合子を見たが、身を引き、自分の席に戻った。あまり、興味をそそられなかったらしい。
 百合子は三分の一も食べていない給食の盆を押しやって、頬杖を付いた。二人のピッチャーをじっと眺める。
砂埃で汚れるからか、二人は学ランの袖を捲り上げていて、銀色の逞しい腕を晒した状態で球を投げている。
百合子は、鋼太郎が羨ましいのと先に正弘と仲良くなってしまったことが、ちょっとだけ悔しいと感じた。
だが、嬉しいことには違いない。これからは先輩とも仲良くやっていけたらいいな、と百合子は内心で呟いた。
 正弘の二球目も、横に曲がっていた。





 


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