非武装田園地帯




第七話 透、小さな冒険



 坂を登り終え、鋼太郎は自転車を止めた。
 ブレーキを掛けると両のタイヤの動きが止まり、車体が軽くつんのめった。透が、抑え気味の悲鳴を漏らす。
これぐらいのことで、と鋼太郎は思ったが、気にしないことにした。いちいち気に掛けていたら、きりがない。
 透が自転車を降りてから、鋼太郎も自転車を降りてスタンドを立てた。車道の左側の、ガードレール傍だった。
透は辺りの景色に目をやっていたが、ガードレールの支柱に置かれている花束に気付くと、あ、と声を出した。
鋼太郎も、そちらに目線を向けた。百合子が置いてくれた小さな花束とは違う、菊の花束も供えられていた。
 恐らくこれは、即死した運転手へ供えたものだろう。鋼太郎は、苦い気持ちが込み上げてきたが払拭した。
相手はもう死んでいるんだ、何も思うことはない。そう思い直しながら透に向くと、透は左腕を押さえていた。

「あの」

「ん」

 透が顔を上げたので、鋼太郎は彼女を見下ろした。透は、手袋を填めた左手をきつく握る。

「ここ、ですよね。その、黒鉄君が、撥ねられたのって」

「ああ、まぁな」

 鋼太郎が力なく返すと、透はそれ以上言ってこなかった。気遣っているのか、それとも言えないだけなのか。
どちらにせよ、あまり言及されるよりは良い。鋼太郎は、百合子の供えた花束を見つめて心中を紛らわした。
 透は、トレーナーの袖の下に隠した硬い左腕を力一杯握っていた。言わないべきだった、とすぐに後悔した。
気持ちのいい話でないことは、よく解っている。それなのに、話題が見つからないから言ってしまうなんて。
出来れば、鋼太郎とは話していたい。口調も態度も少々乱暴だが、透を鬱陶しがらず、ぞんざいにしない。
左腕にも触れないでくれているし、大事な友人の一人だ。だから、もっと言葉を交わして、仲を深めたい。
 だが、どういうふうに話せばいいのか、まるで見当が付かない。友人らしくする方法を、ろくに知らない。
だから、何を言えばいいのか迷って、鋼太郎の事故のことを言ってしまった。言わないつもりでいたのに。
言いたいことはちっとも言えないくせに、余計なことを言ってしまうなんて。透は、再び自己嫌悪に陥った。

「山下」

 鋼太郎に呼ばれ、透はそっと顔を上げた。

「…はい」

「気ぃ、済んだか?」

 鋼太郎は、辺りを見渡した。透は本来の目的を思い出し、慌てて景色に気を配った。

「あ、えっと」

 長い坂の頂点から見える景色は、清々しかった。高い空を背景にしている、若葉の萌えた山々が眩しい。
針葉樹の黒々とした色に、芽吹いたばかりの葉の緑が混じる。高圧線の鉄塔が、木々の間からそびえている。
雪解け水によって水量を増した鮎野川は、涼やかな水音を囁きながら、大きく曲がった土手の傍を流れている。
 土手と山の間にある平地には、田植えを終えたばかりで並々と水を張った田んぼが並び、日差しに輝いている。
山々の奧には、一際立派な越後山脈が望めた。まだまだ雪が残っているらしく、山頂は白い部分の方が多い。
いずれの色も、透の持っている水彩絵の具では表現するのが難しいほど、絶妙であり、また美しい色だった。
 透は爽やかな春の情景に感激しながら、鋼太郎を見やった。だが、鋼太郎はそれほど興味がないらしい。
同じ方向を見ているのだが、暇そうだった。ここは彼の通学路なので、常日頃見ている景色だからだろう。
どれだけ素晴らしい景色でも、日常の一部になってしまっては、感激どころか新鮮味などなくなって当然だ。
透は景色を凝視していたが、徐々に衝動が湧いてきた。無性に、絵を描きたくてたまらなくなってきた。
 これでは、描かないわけにはいかない。背負っていたリュックを下ろしてファスナーを開け、色々と取り出す。
愛用のスケッチブック、デッサン用の色鉛筆を出し、座って描くための折り畳み式の小さな椅子を置いた。
それに座って描き始めようとすると、鋼太郎が透を見下ろしていた。そして、リュックの中を覗き込んでいる。

「お前、何、持ってきてんだ?」

「え、おかしいですか?」

 透は、膝の上にスケッチブックを広げてペンケースから色鉛筆を取り出した。鋼太郎は、身を屈める。

「つーか、この中、なんか一杯入ってねぇ?」

「これでも、減らしてきた方なんですけど」

 透は、情けなく眉を下げる。鋼太郎は、ちょっと悪ぃ、と言いながらリュックの口を開けた。

「山下…。お前、どこまで何しに行くつもりだったんだよ」

「え、だから、この辺りの、景色を見に」

「たったそれだけだってのに、こんなに物がいるか? いらねぇだろ?」

 信じがたいとでも言いたげな鋼太郎に、透は心外そうにする。

「いらないものなんてありません。お弁当は後で食べるつもりで作ってきたものだし、屋外に出るんだから救急セットは必需品だし、左腕がバッテリー切れを起こしたりしたら困るから予備のバッテリーを持っておくことはサイボーグのマナーだし、迷子になったらいけないから携帯電話は忘れちゃいけないし、一眼レフのカメラは写真を撮りたくなるかもしれないから持っておかなければならないし、甘いものが欲しくなるかもしれないからお菓子は入れておくべきものだし、急に雨が降ってくるかもしれないからレインコートは準備しておかなければならないし、それに」

「もういい、もう解った!」

 鋼太郎が手で制すると、透はちょっとむっとした。

「まだ、あるんですけど」

「準備がいいっつーか、やりすぎっつーか…」

 鋼太郎が呆れ気味に呟くと、透はデッサンを描く作業に戻った。

「やりすぎて、困ることなんて、ありません」

「どうなんだろうなぁ…」

 鋼太郎は透に意見しようとしたが、具体的な言葉が出てこなかった。透の考え方に、一理あるとは思える。
確かに、何か起きたら困るから準備はしておくべきだろう。だが、何事にも限度というものがあるのではないか。
鋼太郎は透を横目に見つつ、透のリュックを持ってみた。ずしりと重たく、四キロ以上はあるように感じる。
 特に重たいのが、一眼レフのカメラと水筒だ。珍しいことに、デジタルではなくフィルムを使うカメラだ。
所々の塗装が剥げていて、使い込んである。これもまた、透のイメージとは懸け離れているように感じた。
 透は、デトロイトタイガースの野球帽を被ったまま、真剣な眼差しで景色とスケッチブックを交互に見ている。
デッサンを行う手付きは手慣れていて、時折、色鉛筆を真っ直ぐに立てて片目を閉じたりしながら描いている。
 鋼太郎は、手先が器用でないため当然ながら絵も下手だ。簡単な落書きでさえ、意味不明な物体になる。
絵心など皆無なので、透がどうやって絵を描いているのか皆目見当が付かない。だが、上手いことは解る。
真っ白いだけだった画用紙に、山や川が繊細な線で描かれ、家々や田畑も出来、もう一つの景色が生まれる。
 鋼太郎は、素直に感心していた。よくもまぁこんなことが出来るもんだな、と不思議な気持ちですらあった。
集中しているのか、透の横顔は強張っている。唇を締めて、視線と手だけを動かし、画用紙に線を引いていく。
 それは、小一時間続いた。


 気付いたら、時間は午前七時半頃になっていた。
 透の手が止まるまで、鋼太郎はぼんやりとしていた。連日の田植えで、気付かないところが疲れていたようだ。
体は疲れなくても、脳は疲弊してしまう。眠気がまだ残っていたこともあり、意識が薄らぎそうにもなった。
 いっそのこと少し眠ってしまおうか、と思った頃、透が盛大にため息を吐いた。大きく、肩を上下させている。
透の表情には、安堵と疲労が混ざっている。鋼太郎が透の膝の上に目をやると、デッサンは出来上がっていた。
それは、なかなか見事だった。鋼太郎が感心していると、透は鋼太郎の目線に気付き、スケッチブックを閉じる。

「あ、でも、まだ完成じゃないですからね」

「違ぇの?」

 鋼太郎が意外そうにすると、透は色鉛筆をペンケースに戻した。

「当たり前です。このまま、彩色することも、あるけど、別の紙に、起こす時もあるし」

「同じのをもう一度描くってのか?」

「そうする時もあるし、そうしない時だってあります」

 透はリュックを引き寄せてその中にスケッチブックとペンケースを入れ、代わりに水色の水筒を取り出した。

「めんどっちぃな」

 鋼太郎が内心で舌を出すと、透は水筒のキャップに麦茶を入れ、少し飲んだ。

「そうですか? 楽しいと、そういうのはどうでも良くなっちゃうけど」

 冷たい麦茶が喉を潤し、心地良い清涼感が広がる。透はキャップに入れた分を飲み干すと、息を吐いた。
デッサンの出来にはそれほど満足していないが、久々に思う存分絵を描けたことで、晴れやかな気分だった。
 鮎野町に越してきてからは、色々と忙しかった。引っ越しや、新しい生活に慣れることだけで精一杯だった。
だから、あまり外に出られず、描いたところで時間がないので簡単なものしか描けず、少々不満が溜まっていた。
それを、一気に晴らすことが出来た。透は自然と頬が緩んでくるのを感じながら、改めて景色を見渡した。

「綺麗」

「オレには、別に」

 鋼太郎は、また首をかしげた。どこか恍惚としている透の表情は、いつもの暗めの雰囲気など消えていた。
なんとなく、彼女の表情を眺めていた。顔の部品と相まって小作りな顔立ちは、大人びているように思えた。
 言葉のイントネーションもさることながら、些細な仕草にも都会的なものがあり、育ちの違いを感じさせる。
その性格もそうだが、雰囲気も今までに会ったことのないタイプだ。珍しくもあり、また、興味深くもあった。
 透が転校生だということが、今更ながら実感した。そして、彼女の過去を一切知らないことも思い出した。
鋼太郎が兄弟の存在を言うタイミングを逃していたように、透に色々と聞くタイミングも逃してしまっていた。
 聞こうとは思うのだが、百合子が話を始めてしまったり、正弘から透に話し掛けたりして、間が掴めなかった。
だが、今なら聞いても大丈夫だろう。そう思いながら、鋼太郎は透から視線を外すことなく、話を切り出した。

「なぁ、山下」

「はい?」

 透は、鋼太郎を見上げてきた。鋼太郎は、ガードレールに預けていた背を外す。

「お前ってさ、東京のどの辺にいたんだ?」

 突然、ひゅ、と深く息を吸う音がした。

「ごめんなさい…」

 押し殺した、僅かな呟きが聞こえた。透は、項垂れてしまう。

「あまり、聞かないで」

 明らかに、普通ではない。だが、ごく普通のことを聞いただけだ。鋼太郎は戸惑いながらも平謝りした。

「ああ、悪ぃ」

 透は、左腕に爪を立てていた。指に返ってくる感触は硬かったが、それでもそうせずにはいられなかった。
自然と荒くなっていた息を、整える。何度も深呼吸を繰り返して、逆立ってしまった神経を落ち着けさせた。
 大丈夫、ここにいるのだから。透は自分に言い聞かせながら、乾いてしまった喉に、固い唾を飲み下した。
気が静まったのを確かめてから、透は握り締めていた左腕から手を離した。拳を固めていた左手も、開く。
ぎっ、と指の関節が小さく軋んだ。あの頃とは違う、だからそんなに怯えてはダメ、と透は内心で呟いた。
 透は、鋼太郎を見上げた。鋼太郎が心配そうにしていたので、透はなんとか唇を上向けて笑顔を作った。

「ごめんなさい。もう、大丈夫ですから」

「本当か?」

 鋼太郎は背を曲げて、透を覗き込んできた。透は、ちょっと身を引く。

「はい。本当、ですから」

「ゆっこの奴も、そう言って無理しちゃあ具合悪くしやがるんだよ。だから、ちょっとな」

 鋼太郎は、体を起こした。透は、椅子から立ち上がった。

「じゃあ、私はこれで」

「んだよ、もう帰っちまうのか?」

 まだ七時半だぜ、と鋼太郎が言うと、透はスケッチブックを入れたリュックに目をやった。

「いい感じに描けたから、もう、いいと思って。それに、黒鉄君には、これ以上、迷惑は掛けられないから」

「いや、別に、迷惑でもなんでもねぇよ。迷惑を掛けちまったのは、どちらかって言えばオレの方だ。山下をここまで引っ張ってきちまったんだから」

「あ、いえ、全然! その、なんていうか、むしろ、ありがとうございました!」

 透は言葉を詰まらせながらも、礼を言った。動揺と緊張のためか、色の白い頬が心なしか紅潮している。
鋼太郎は、悪ぃことしちまったな、と悔やんだ。透にも、鋼太郎と同じように触れられたくない部分があった。
 どうやら、そこに触れてしまったようだ。もう少し考えれば良かった、と思うのと同時に申し訳なくなった。
せめて、何かしらの償いをしなければ。鋼太郎はしばらく考えていたが、橋の向こうにある山を仰ぎ見た。
橋を越えて坂を登った先には、散々田植えを手伝わされた田んぼがあり、そこからだと更に景色は良い。
生身では二人乗りで傾斜のきつい坂を登るのはかなり辛いが、この体ならば易々と登れることだろう。
 今、透にやれることがあるとしたらそれだけだ。それを確信した鋼太郎は、後ろ手に山の方向を示した。

「もういっちょ、上まで行こうぜ」

「はい?」

 透がきょとんとすると、鋼太郎は気恥ずかしさを紛らわすために顔を逸らす。

「オレ、なんか、まずいこと言っちまったみてぇだからさ。だから、うん、償わねぇとって思ってよ」

「え、あ、そんな、あれは、私が弱いからで…」

 そう言いながら、透は鋼太郎の示した先を見やった。彼の指した山は小高く、長い坂が伸びているのが解る。
となれば、それ相応に景色も良いに違いないだろう。だが、これ以上鋼太郎に甘えてしまうのは、彼に悪い。
だが、連れていってくれると言うのなら連れていってもらいたい。新しい場所に行くのは、やはり楽しい。
 恐怖や戸惑いもあるが、それ以上に喜びもある。透は足元を見つめながらしばらく迷っていたが、心を定めた。

「あの、本当に、本当に、いいんでしたら、お願いしても良いですか?」

「いいから、言ってんじゃねぇかよ」

 鋼太郎は透の声の弱さを掻き消すように、語気を強めた。自転車に跨ると、ばきん、とスタンドを蹴り上げる。

「じゃ、また乗れよ」

「はっ、はい」

 透は椅子を片付けてリュックを背負うと、自転車の荷台部分に腰掛け、一瞬躊躇ったが鋼太郎にしがみ付いた。
兄と二人乗りをする時はいつもこうしていたから、こうするべきものだと思っているし、落ちてしまうのは嫌だ。
次に登る坂は、先程よりも長そうだ。体を支えるために左の手首を右手で掴むと、鋼太郎の背が僅かに動いた。
 透は、今更ながら緊張してきた。考えてみれば、兄以外の男子と二人乗りをしたのは今日が初めてだ。
どうしよう、と困惑していると鋼太郎は黙って自転車を漕ぎ出した。どうやら、彼も緊張しているようだった。
 結局、目的地に着くまで、二人はずっと黙っていた。





 


06 10/29