非武装田園地帯




サニー・デイ・サンデー



 白球に込めるものは、青春の情熱。


 七月末の日曜日。練習試合、当日。
 ぎらぎらした日差しが注ぎ、グラウンドを焼いている。整備を終えたばかりのダイヤモンドを、ぐるりと見渡した。
ベンチに並べた備品や道具を確かめてから、スコアボードを見上げる。一ヶ谷第二、一ヶ谷市立、と書き込んだ。
部員達は、まだ部室で準備をしている。今日の対戦相手、一ヶ谷第二高校の野球部が来るまでもう少し間がある。
 百合子は鋼太郎から借りた大きめのキャップの、鍔を上げた。肌に感じる気温は高く、湿度もそれなりにある。
麦茶をもう少し多めに作っておいても良かったかもしれない。試合となれば、練習時以上に水分を消耗するのだ。
塩も一緒に置いておいた方がいいかもしれない。百合子はクーラーボックスの蓋を開けると、中身を確かめた。
クーラーボックスにはアイシングに使う大量の氷とアイシングバッグが入っている。足りないものは、ないだろうか。
救急箱は先日補充してある、スコアブックもまだ大丈夫。百合子は真剣な顔をしながら、ベンチを睨んでいた。
アナウンス用のマイクは設置済みだ。念のため、スイッチを入れて軽く叩くと、スピーカーから雑音が漏れた。

「いよっしゃ」

 百合子は意気込み、拳を手のひらに叩き付けた。公式試合の時も緊張するが、今回は違った意味で緊張する。
何せ今回は、フルサイボーグだということと守備以外や役に立たないという理由で出られなかった鋼太郎が出る。
鋼太郎は、野球に対する気持ちこそ立派だが本当に下手なのだ。だから、使われるといっても、外野だけだろう。
だが、それだけでも、緊張する。顧問の好意で出させてもらうのだから、少しぐらいは活躍してほしいところだ。
けれど、あまり高望みするのは良くない。鋼太郎に野球の才能がないことは、百合子は誰よりも一番知っている。
鋼太郎を応援することにはするが、普通にでいいだろう。鋼太郎ばかりに気を向けてしまうと、他が疎かになる。
マネージャーは部全体を援護出来てこそ、マネージャーだ。幼馴染みの恋人にばかり、集中してはいられない。

「シロ。そろそろ、二高が来るぞ」

 校舎から出てきたユニホーム姿の顧問が、百合子の背に声を掛けた。百合子は、振り返る。

「あ、はーい。じゃ、皆も来ますね」

「良い天気だなぁ。ボールが見えづらそうだ」

 グラウンドを見渡しながら、顧問の教師は眩しげに目を細めた。彼は、二年生の国語を担当する教師である。
学生時代は野球部に所属していたとかで、その頃の経験を生かして指導しているが、部の実力は変わらない。
それなりに腕の立つ選手もいることにはいるが、英才教育を受けている私立高校の生徒の足元にも及ばない。
部員数も、少ない部類に入る。サッカー部やバスケ部などに一年生を取られてしまい、新入部員も少なかった。
マネージャーも、一学期までは三年生の女子生徒がいたのだが、彼女は大学受験のために引退してしまった。

「シロ。クロの奴、大丈夫か?」

 顧問の教師、藤井浩一は百合子に苦笑する。シロ、とは藤井が百合子の名字の前半分を呼んでいるのだ。
クロ、も同じく、鋼太郎の名字の前半分だ。最初は普通に、白金、黒鉄、と呼んでいたのだが途中から縮んだ。
二人とも後ろ半分の音が同じなので、たまに混同してしまって紛らわしいから、というのが藤井の言い分だった。

「多少気は張ってるみたいですけど、大丈夫っすよ」

 百合子が藤井に返すと、藤井は肩を竦める。

「何事も力みすぎるのが、あいつの悪いクセだよ。それがなきゃ、もうちょっとはまともなんだろうけど」

「鋼ちゃんはぶきっちょですからねぇ」

「不器用にも程があると思うぞ」

 バットを潰されなきゃいいが、と藤井が付け加えると、百合子は笑った。

「そこまではしませんよー、たぶん。それに、バッターボックスに立てるかどうかも解らないっすよー」

「どうだかな。主力の綾瀬が休んじまったからなぁ」

「え、アヤ先輩、お休みですか?」

 百合子が目を丸めると、藤井は頷く。

「土曜の練習の時から調子が悪そうだったんだが、今日になって悪化したらしくてさ」

「夏風邪ですか?」

「それも、腹に来ているんだそうだ。綾瀬は出てくるって言っていたんだが、出るなって強制しておいたよ」

 残念だがね、と藤井は眉を下げた。百合子は鋼太郎から借りたキャップを、頭から外した。

「無理だけはしちゃいけませんからね」

 百合子は、乾いたグラウンドを見渡した。いつもと同じようでいてどこか違っているような、そんな気がした。
鋼太郎が小学生だった頃を、思い出す。少年野球チームに入ったが、レギュラーになれたのは最後の年だった。
それも、今まで外野にいた少年が遠方へ転校して抜けてしまったので、その穴埋めとして配置されただけだった。
それでも、鋼太郎は喜んでいた。いつも以上に自主練習に打ち込んでいて、百合子はその姿をよく目にしていた。
 けれどその頃は、鋼太郎は百合子との距離を置いていたために、話し掛けてもろくな答えが返ってこなかった。
うるせぇ、か、邪魔だ、とそれぐらいだ。だが、鋼太郎の真剣な横顔と荒っぽいフォームを見るのが楽しかった。
だから、鋼太郎に気付かれないように、遠くから見ていたこともある。彼の出場した試合数は、ごく僅かだった。
レギュラーになった時期が遅かったので、練習試合も公式試合も数えるほどしか出場出来ず、悔しがっていた。
 なので、今回の練習試合も、とても楽しみにしていた。顔が顔なので表情は出ないが、態度が浮ついていた。
その嬉しさが自分にまで伝わってきて百合子も浮かれそうだったが、マネージャーである手前、我慢していた。
校舎の中から、部員達が言葉を交わしながらやってくる。百合子は振り返ると、頭を下げて元気良く挨拶した。
 暑くて熱い、一日が始まる。




 先攻、一ヶ谷第二。後攻、一ヶ谷市立。一回表、一ヶ谷第二の攻撃。
 百合子は一ヶ谷第二の選手の名簿をじっくりと眺め、名前の読みと背番号、そして守備位置を確かめていた。
これだけは、決して間違えていけない。一ヶ谷市立の選手達は既に配置に付き、鋼太郎もライトに立っていた。
一ヶ谷第二のマネージャーや選手陣は、鋼太郎の姿を物珍しげな眼差しで見ていた。それが、少し癪に障った。
百合子は一見すれば普通の人間なので、フルサイボーグだと気付かれていないようだが、鋼太郎は別である。
女子生徒のマネージャーに至っては、鋼太郎に対する嫌悪感をあからさまに示していて、顔をしかめている。
だが、文句を言うことはない。それだけ心が狭いのだ、と逆に哀れんでやってから、百合子は名簿を読み上げた。

「一番、ピッチャー、大浜君」

 バッターズサークルにいた選手が歩み出、バッターボックスに入った。マウンドに立つ投手は、表情を固める。
右のバッターボックスに入った選手、大浜孝太は位置付けこそピッチャーだが、バッティングにも定評がある。
油断出来ない相手だ。マウンドに立っている一ヶ谷市立のピッチャー、上田慎吾は、サインをじっと見ている。
百合子の位置からは、そのサインは見えない。慎吾は二三度目で良しとしたのか、頷き、大きく振りかぶった。
 振り上げた右腕を流れるような動きで下ろし、スパイクをマウンドに噛ませ、右手からボールを投げ飛ばした。
外角攻めのカーブ。だが、一番の大浜は迷うことなくバットを振り下ろし、白球に当てた。かぁん、と快音が響く。

「ファウル!」

 審判の声に、百合子はほっとした。大浜のバットに当たった球は跳ね上がり、レフト側のラインを越えていった。
いきなり当てられたことで、慎吾は少なからず動揺している。審判の投げたボールを受け取り、手の中で転がす。
ここで取り乱したら、いきなりペースを掴まれてしまう。藤井からの声援を受けた慎吾は、再び、振りかぶった。
ずばぁん、とキャッチャーミットが鳴った。一瞬ストライクかと思われたが、位置がずれ、ボールになってしまった。
最初にアウトを取っておけば、一ヶ谷市立にペースが向く。慎吾はそれが狙いらしく、外角を攻める投げ方をする。
 三球目、同じくボール。フォアボールで歩かせることだけは避けたい。だが、四球目が、力強く打ち上げられた。
バットを振り抜いた大浜はバットを放り捨てると、駆け出した。高く飛び上がったボールは、空に吸い込まれていく。
バットの芯に当てたらしく、これがまた憎らしいほど伸びていく。ファーストとショートの頭上を、軽々と追い越した。

「取れぇ、鋼ちゃあーん!」

 アナウンス用のマイクを押しやって、百合子は声を荒げた。その声に、鋼太郎は少しだけ鬱陶しさを感じた。
それぐらい、言われなくても解っている。右中間を抜けた白球は鋼太郎のポジション前で、くっと折れ曲がった。
鋼太郎は土を蹴り上げながら駆け出し、グラブを伸ばした。勢いのある衝撃が肘と肩に訪れ、グラブが鳴る。
すかさずボールを取って振りかぶり、ショートの斎藤辰也に投げ渡す。辰也はそのボールを、セカンドに回した。
丁度、大浜は二塁にやってきていたのでアウトになった。幸先の良いスタートだ、と鋼太郎は内心でにやけた。
 始める前はどうしようもないほど緊張していたが、いざ始まってしまうと、楽しさが先立って緊張など失せていた。
だが、一番の大浜でこれでは主力バッターの奈良橋が恐ろしい。慎吾は制球力はあるが、持久力のない投手だ。
打たれ強い方ではあるのだが、踏ん張りが効かなくなってしまう。そうなってしまったら、敵の思うがままになる。
鋼太郎はライトの位置に戻り、マウンドに立つ慎吾の背中越しに、バッターボックスに現れた選手を見据えた。

「二番、キャッチャー、飯原君」

 今度は、左バッターだ。ワンアウトを取れたことで、ほんの少しだけ一ヶ谷市立が優勢だが、それだけだ。
選手の実力は、どう転んでも一ヶ谷第二には及ばない。だから、すぐにアウトの分を取り返されてしまうだろう。
そう思っていたら、またも一球目で打ち上げられた。今度は鋼太郎の頭上も遥かに越えて、越えて、越えた。
 ホームラン。


 一回裏。一ヶ谷市立の攻撃。五対○。
 ホームランをいきなりかっ飛ばされてしまったことで、一ヶ谷市立勢の士気は面白いくらいに落ちてしまった。
特にひどいのが、ピッチャーの慎吾だった。彼なりにプライドがあるのだが、それを木っ端微塵に打ち砕かれた。
マウンドを降りた当初はひどく落ち込んでいたが、他の部員達に引っぱたかれて励まされ、なんとか持ち直した。
 ベンチに集まった選手達は、百合子の差し出したよく冷えた麦茶を飲みながら、今後の作戦展開を話している。
百合子はベンチの隅で大きな体を縮めている鋼太郎の前にやってくると、並々と麦茶を注いだコップを渡した。

「はい、鋼ちゃんも。冷却水は大丈夫?」

「ああ、そいつは平気だ。いやー、強ぇ強ぇ。いきなりホームランなんて、かまされちまうとはな」

 鋼太郎は感心しているようだが、明らかに苛立っていた。百合子は、ベンチの中からダイヤモンドを見やる。

「キャッチャーの人でもホームランだもん。これで主力が出てきたら、どうなっちゃうと思う?」

「どうだろうな。ていうか、一回で五点差はきついな。頑張っていかねぇと」

 凡ミスも許されねぇな、と鋼太郎はいつになく真剣だ。百合子は、鋼太郎に手を振った。

「じゃ、私は仕事に戻るから。出番が来るまで、じっくり冷却してるんだよん」

「あー、おう」

 鋼太郎が生返事をすると、百合子は跳ねるように歩き、次のアナウンスを行うために太陽の下に戻っていった。

「クロ」

 藤井の声に鋼太郎が振り向くと、藤井は腕を組んでいる。

「お前、シロに気を取られるんじゃないぞ?」

「解ってますって。そんなことはしないっすよ」

 鋼太郎はマスクを開けて飲用チューブを出し、冷えた麦茶を啜り上げた。鋼太郎の隣に座る辰也が嘆いた。

「あれでフツーの女だったら、マジ良かったんだけどなー」

「そうそう。胸はでかいし顔はいいし、結構有能だしさ。あれで、体が機械でさえなかったらって思うとなー」

 アイシングバッグを肩と肘に縛り付けている慎吾が、辰也に同調して頷く。

「ついでに言えば、黒鉄がダンナじゃなかったらもっといい」

 セカンドの合川春彦が、恨みがましげに鋼太郎を見る。鋼太郎は麦茶を全て啜り上げ、コップを下ろす。

「機械の女なんて女じゃねー、とか言っていたくせに、今更何を言いやがる」

「機械だろうがなんだろうが、女は女だろーが」

 あーくそ、と春彦は毒突いた。鋼太郎は、可笑しげに笑う。

「なんだよ、どっかの女にフラれでもしたのか?」

 ネクストバッターズサークルでバットを振っていたキャッチャーの柳田孝作の名が、百合子にアナウンスされた。

「二番、キャッチャー、柳田君」

 一番である慎吾は今回はピッチングに集中させよう、という藤井の戦略で、打順を一つ手前に進めてある。
だが、その作戦も有効ではないようだ。マウンドに立っている相手側のエースピッチャーの、眼光は鋭かった。
 一ヶ谷第二のピッチャー、船岡大介の構えは慎吾のものと明らかに違う。立ち姿からして、まず、気迫がある。
船岡は投球した。孝作は躊躇わずバットを振ったが、ストライクゾーンの手前で速球は綺麗に曲がって落下した。
 孝作のバットは、空しく虚空を切り裂いた。程なくして、ストライク、と審判が判定する。至極当然の結果である。
その後も、孝作はバットを振り抜いた。元からどんな球にも手を出すクセがあったので、ボール球にも手を出した。
結果、ファウルすら出すことが出来なかった。孝作が金属バットを振り切った直後、審判の判定が無情に下った。

「三振! バッターアウト!」

 悔しげに頭を振りながら、孝作が戻ってくる。それに続いて、三番目のバッター、ファーストの鈴木海斗が出た。
次もまた、三振。実にあっさりと、ツーアウトになった。塁には一人も出ていないのに、アウトだけが増えていった。
 鋼太郎の打順は八番だ。試合には藤井のお情けで出してもらったので、守備位置にも打順にも文句は言えない。
この分だと、打順が回ってくることは絶対にない。鋼太郎は、四番バッターの合川春彦が立つ打席を見つめた。
 結局、春彦も三振に終わり、一回裏は呆れるほど簡単に終わった。







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