非武装田園地帯




サニー・デイ・サンデー



 練習試合が終わると、校内は静まった。
 百合子は、出した道具や部室の中に散らばったものなどを片付けていた。マネージャーは、一番仕事が多い。
部室の床はスパイクに付いた土が落ちていて、埃っぽい。箒で土や砂を集めてちりとりに入れ、ゴミ箱に捨てる。
アナウンスをするために持ってきた長机とパイプ椅子も、畳んで体育用具倉庫に持っていかなければならない。
 残りの仕事を指折り数えながら床掃除を終え、窓と扉を全開にして、汗臭い上に埃っぽい空気を入れ換えた。
マウンドにはスパイクの足跡とロージンバッグの粉が残っていて、ベース同士を途切れた白線が繋げている。
ボロ負けとはいえ、頑張れるだけ頑張った。百合子は、誰もいなくなった物寂しさと、充実感を噛み締めていた。

「ゆっこ」

 校舎内の廊下からやってきた鋼太郎は、ユニホームからジャージに着替え、スポーツバッグを担いでいる。

「まだ帰らねぇのか」

「うん。もうちょっと。色々と片付けなきゃならないから」

 百合子は、外に出してある長机や白線引きを指した。鋼太郎は、一度、グラウンドに視線を向けた。

「じゃ、さっさとしろよな」

「解ってるってえ」

 部室からグラウンドに出ようとした百合子を、鋼太郎は引き留めた。

「ちょっと待て」

「なんだよお。さっさとしろって言ったのはそっちじゃんかー」

 鋼太郎に右腕を掴まれた百合子は、振り返る。鋼太郎はぐいっと腕を引き、百合子を引き寄せる。

「オレがヒット出したってのに、あれはねぇだろ、あれは」

「だって、ちょっと信じられなかったんだもん。鋼ちゃんが打つなんてさあ」

 百合子は、申し訳なさそうに苦笑した。鋼太郎は百合子の腕を放し、内心で顔をしかめる。

「疑う余地もねぇだろ。目の前で、しっかり打ち上げたんだからよ」

「だって」

 百合子の視線と、鋼太郎の視線が交わる。グラウンドの外からは、街の喧噪とセミの鳴き声が流れてきていた。
薄暗い部室の中では、鋼太郎のブルーのスコープは目立っていた。マスクには、土がうっすらと付着している。

「だってもくそもあるか」

 鋼太郎はまだ拗ねているのか、顔を逸らした。百合子はポニーテールを解いた長い髪に、指に絡める。

「鋼ちゃんが格好良いと、なんか、鋼ちゃんっぽくないっていうかあ」

「それじゃ何か、オレは常に格好悪いってことか?」

「そうじゃないけどお」

 百合子は髪から指を抜くと、グラウンドに面した窓に寄り掛かった。鋼太郎は、スポーツバッグを床に放る。

「そんなに言うなら、もう一度見せてやろうじゃねぇか。ゆっこ、手伝え」

「えぇー、今からやるのお?」

 百合子が戸惑うと、鋼太郎はスポーツバッグの中から汚れたスパイクを出し、スニーカーから履き替える。

「信じてくれねぇんだったら、信じさせてやろうじゃねぇか」

 行くぞ、と鋼太郎はバットを取ってグラウンドに出た。百合子は渋々、その背を追い掛けてグラウンドに出た。

「ノックじゃねぇぞ、ゆっこが投げろ。投げられるよな?」

 途中で立ち止まった鋼太郎は、振り返った。百合子は、とりあえず頷いた。

「うん。上手くは投げられないけど」

「ゆっこがオレから三振取ったら、欲しいもんでも買ってやる。その代わり、オレがホームラン打ったら」

 鋼太郎は、バットで百合子を指した。

「一発ヤらせろ」

 あまりにも直接的な言葉に百合子は目を丸くしていたが、可笑しげに吹き出した。

「なぁにそれー!」

「いいじゃねぇか、こちとら三年以上もお預け喰らってんだぞ! 男心ってもんを理解してくれ!」

 鋼太郎はむきになりながら、声を上げた。百合子は体を折り曲げて、壁をばしばしと叩きながら笑っている。

「鋼ちゃんのえっちー、すけべー、絶倫男ー!」

「…そこまで強くねぇよ」

 鋼太郎はさすがに恥ずかしくなって、顔を伏せた。百合子はまだ笑っていたが、目元を擦りながら体を起こした。

「ま、別にいいけどさー。じゃ、私が勝ったら、エルメスの腕時計でも買ってもらおうかなぁ」

「エルメス?」

「うん。エルメス。この間、橘さんの持ってるのを何本か見せてもらったんだけど、綺麗で可愛いんだぁー。私らには腕時計なんて必要ないけど、やっぱり欲しいんだよね、可愛いから!」

「で、いくらぐらいするんだ?」

「最低でも七八万って言ってた。一番高いのは、二十何万したんだってさ。凄いね、橘さんの浪費ぶりは!」

 百合子はそう言いながら、鋼太郎のグローブを取った。鋼太郎は指折り数えていたが、項垂れた。

「そんな金、あるわけねぇだろ…」

「じゃ、私に勝つことだ! 鋼ちゃんが相手なら、手加減なんてしないよお。私だって、全力で投げれば時速百七十キロぐらいは出せるんだから!」

 うふふふ、とにやけた百合子は鋼太郎のグローブを振り回しながら出てきた。鋼太郎は、俄然やる気が出た。
何がなんでも勝ってやる。貯金とお年玉の余りを含めても五万もないのだから、そんなものを買えるわけがない。
 百合子は、キャッチャーの代わりになるネットをずるずると引き摺って、バッターボックスの後ろに持ってきた。
ボールが入った大きなカゴから三つ取り、ロージンバッグを握って右手に粉を付けてから、マウンドに向かった。
 鋼太郎はバッターボックスに入り、バットを何度も振った。日差しでかんかんに熱した埃っぽい空気を、切り裂く。
じいじいじい、とグラウンドの隅に植えてある木からアブラゼミの声が響き、地面からは陽炎が昇り、揺れている。
マウンドに立つ百合子と、バッターボックスに立つ鋼太郎は睨み合っていた。お互いに、気持ちは息を詰めていた。
 百合子は部員達やプロ野球選手のピッチングフォームを思い出しながら、足を開き、ボールの感触を確かめた。
鋼太郎の使っているグローブなのでサイズが大きく、手首や指の遊びがありすぎて、左手から落ちてしまいそうだ。
とにかく、力一杯投げるだけだ。百合子はボールを持った手を後ろに下げて握り直すと、グローブの中に入れた。
ローファーを履いた足で、マウンドを踏み締める。大きく右足を踏み込んで右腕を伸ばし、力の限りに投球した。

「てぇやっ!」

 百合子の左足がマウンドを蹴り、土埃が舞う。鋼太郎は両足を踏ん張り、真正面からやってきた白球を受けた。
バットを振り抜くと、何の捻りもない球は金属バットの芯に命中した。強引にそれを押し返し、高々と打ち上げる。

「うえっ!?」

 変な声を出した百合子は、空に昇っていくボールを見上げた。鋼太郎はバットを下ろし、舌打ちする。

「ライトフライかよ」

 鋼太郎の言った通り、ボールはライト手前で失速して落下した。数回バウンドして勢いが死に、地面に転がった。

「次、早くしろよ」

「ま、待ってよ、なんで急に打てるようになっちゃったのさ!?」

 百合子は感心するよりも先に、驚いていた。鋼太郎はバットを担ぎ、軽く肩に当てる。

「要するに、オレは人工内耳との付き合い方が下手すぎたみてぇなんだよ。バッティングってのは、体重移動させて打つもんだろ? でも、この体は体重移動すると自動的にバランスを取ろうとしちまうから、バッティングフォームの途中で制動が掛かって腰がぶれちまうんだ。だから、下半身を動かさないでやればまともに打てるんじゃねぇかなーって思ってやってみたら、上手く行ったっつーわけだ。けど、この方法だと、腰の関節と両足にすげぇ負荷が掛かっちまうから、やりすぎるわけにはいかねぇけどな」

 故障起こしちまうから、と鋼太郎はちょっと肩を竦めた。百合子は、面白くなさそうに膨れている。

「鋼ちゃんがそんなに賢いこと言うなんて、絶対に雨が降るう」

「るせぇ。さっさと二球目投げろ」

 鋼太郎が構えたので、百合子は足元に転がしてあるボールを取った。

「今のは打たれたんじゃないんだもん、う、打たせてやっただけなんだから!」

「なんだよそれ」

 鋼太郎は、可笑しげに笑っている。百合子は足を上げたせいでめくれ上がったスカートを直してから、構える。
二球目も、やはりストレートだった。投球練習を一度もしていない百合子が投げられる球種は、これしかない。
だが、多少コントロールがおかしかったらしく、ストライクゾーンど真ん中ではなく外角に逸れながら飛んできた。
 鋼太郎は下半身を固定し、上半身だけを動かす。外角まで伸ばしたバットの中心に球を当て、力一杯打った。
今度は、真正面に向かって飛んでいった。百合子は不愉快そうに眉を吊り上げ、伸びていく打球を見つめた。
一ヶ谷第二のホームランに負けず劣らず、高かった。その勢いは衰えることはなく、バックネットに向かっていく。

「うあー…」

 百合子は力なく嘆いたが、直後、バックネットにボールが当たった。緑色のネットが、ゆらりと大きく揺れた。
これは、紛うことなきホームランだ。バックネットから跳ね返ったボールはグラウンドに落ち、どん、と転がった。
鋼太郎はバットを振り抜いた姿勢から元に戻し、風とは違う揺れ方で動いているバックネットを見、一笑した。

「なんだよ、場外じゃねぇのか」

「あー、なんか超悔しいー!」

 百合子は苛立ち紛れに、グローブを殴り付ける。鋼太郎は、憮然とする。

「ごちゃごちゃぬかすんじゃねぇよ。三回勝負で二回勝ったんだから、オレの勝ちだ。ゲームセットだ」

「まだもう一球あるもん! 勝負は九回裏まで解らないんだい!」

 こんちくしょー、と百合子は最後のボールを手に取った。鋼太郎は内心でにやけながら、構えた。

「そいつは、どうかな」

 最後の一球も、当然ながらストレートだ。鋼太郎は前の二回と同じ動きでフルスイングし、またも打ち上げた。
今度は、バックネットすら越えていった。百合子は忌々しげにボールを見ていたが、ため息を吐いて項垂れた。

「解ったよお。鋼ちゃんはバッティングだけは上手くなったってことだね。うん、理解した」

「じゃ、約束な」

 鋼太郎は、バットで百合子を示す。百合子は、照れ隠しに顔を逸らす。

「学校じゃ、嫌だからね」

「当たり前だ」

 鋼太郎はバットを放ると、マウンドまで進んだ。百合子はグローブを下ろすと、近付いてきた鋼太郎を見上げる。
銀色の太い指が、華奢な顎を持ち上げる。百合子は一瞬身動いだが、強い力で引き寄せられ、かかとを上げた。
砂埃で薄汚れたマスクに、日差しで熱した唇が重なる。鋼太郎は百合子の耳元で、心底嬉しそうに含み笑った。

「ゆっこ。覚悟しとけよ」

 鋼太郎はもう一度百合子にキスをしてから、その手から自分のグローブを取り、ボールを取るべく歩き出した。
マウンドに立ち尽くした百合子は、運動と熱気で熱を持った鋼太郎の温度を感じた唇に触れ、動けずにいた。
これで体が生身だったなら、心臓が破裂しそうなほどに暴れ回り、顔は真っ赤になっていたに違いなかった。
何をどう覚悟しろと言うのだ。百合子は様々な想像が頭の中を駆け巡り、恥ずかしくなったが、嬉しくもあった。
 今まで、なんとなく最後までは踏み込めずにいたのだが、一歩先へ進みたかったのは百合子も同じだった。
ケーブルを接続してバッテリー内の電気を共有するのとは違った意味で、本当の意味で、鋼太郎と繋がれる。
鋼太郎の方こそ、覚悟しておくがいい。徹底的に搾り取ってやる。百合子は、顔の緩みを押さえられなかった。
ヒットとホームランのボールを回収している鋼太郎は、とても満足げだった。百合子は、その姿を見つめていた。
こういう姿は昔と変わらない。けれど、彼も成長している。子供ではなく、また、大人でもない十七歳の少年だ。
 百合子は鋼太郎の名を呼んで、駆け出した。勝負に負けてしまったことは悔しかったが、もう気にならなかった。
鋼太郎は百合子に振り向くと、ボールを二つ持った手を掲げている。三つ目までは、回収出来なかったようだ。
グラウンドの気温は、天気予報で言っていた最高気温よりも暑い。地面も、そして心も焼け付くほど熱している。
 そんな、真夏の日曜日だった。







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