アステロイド家族




スターダスト・メモリー



 銀河系を巡る航海も、終わりが近付いていた。
 十二ヶ月目に入り、ウィンクルム号は与えられた次元探査及び惑星探査を終了し、帰還が最大の任務となった。
だが、まだ油断は禁物だった。帰路に入ったからといって、その航路の安全が確実に保証されたわけではない。
 往路よりも順路の方が余程危うい。任務を果たしたために緩みが生まれ、規律が崩れていく場合も多かった。
どれほど船内が広くとも、宇宙船は宇宙船だ。皆が皆、閉塞感と拘束感に苛まれながらも日常を送っているのだ。
補給のために移民船やコロニーに立ち寄り、数日間の休暇を与えたとしても、ストレスが抜け切るわけではない。
 それは、マサヨシも例外ではない。サチコとの初々しい恋愛に胸を焦がしている間も、船長の責務はのし掛かる。
だが、後二ヶ月程度の航海を経て次元管理局に帰還すれば、船長としての地位を失い、同時に責任も消え去る。
けれど、その後はどうなるのだろう。サチコに恋をしたのは、両肩を押し潰さんばかりの重圧からの逃避なのでは。
 サチコもまた、膨大な仕事を処理する傍ら現実逃避として恋をしたのでは。実際、宇宙船ではそんなことは多い。
航行中や戦闘中に永遠の愛を誓い合っても、宇宙船から降りてしまえば熱が冷めてしまい、別の相手と結婚する。
精神的な負担を軽減させるための自衛手段の一つとして、恋愛は有効だ。自分達もそうでないとは限らなかった。
 一度でもそんなことを考えてしまうとずるずると深みに填り、サチコと同じ時間を過ごしていても不安に苛まれた。
だが、どうすればいいのか解らなかった。答えが出たと思っても、すぐにまた不安に襲われ、眠れぬ夜すらあった。
反面、それだけサチコに思いを寄せている自分に気付いた。それは、サチコが全身で好意を示してくれるからだ。
 勤務中に顔を合わせても眉一つ動かさず、擦れ違っても会釈するだけだが、二人きりになると笑顔を向けてくる。
普段の真面目で堅実な勤務態度からは懸け離れた言動を取り、少女のようにマサヨシに甘えてくることもあった。
それを、愛おしく思わないわけがない。あの笑顔が、華奢な体が、離れてしまうと思うだけで泣けてしまいそうだ。
だが、どうすればいいのか本当に解らなかった。マサヨシは勤務時間外になると船長室に籠もって、悩み続けた。
 いつのまにか、サチコの存在はどんな物質よりも重くなっていた。


 当然、周囲の人間はマサヨシの異変に気付かないわけがない。
 トレーニングルームに来ても、マサヨシは上の空だった。考えることは多いはずなのに、思考は切り替わらない。
機械的にトレーニングをこなすだけで、身は入っていなかった。ここ数日、ずっとそうなので筋力も落ちそうだった。
必要最低限の訓練は終えたが、それ以上は出来る気がせず、マサヨシはぼんやりしながらクールダウンしていた。
飲み下したスポーツドリンクの味も、よく解らなかった。トレーニングマシンの群れを抜け、ラルフが近付いてきた。

「よう、マサ。元気か?」

 ラルフはマサヨシの隣に座ったが、マサヨシは一瞬反応が遅れた。

「よう、ラリー。お前の方こそ、調子はどうだ」

「それなりだな」

 ラルフは首に掛けていたタオルで汗を拭ってから、マサヨシを覗き込んできた。

「お前、どっか具合でも悪いのか?」

「そうじゃないが」

「じゃ、サチコか」

 しれっと言い放ったラルフに、マサヨシはぎょっとした。

「…な」

「俺の部下はパーカー女史の親友だぞ? 情報なんざ、筒抜けなんだよ」

「そうか、レイラの仕業か…。それで、お前はどこまで知っているんだ」

「まあ、概要程度だが、状況を把握するには充分すぎる」

 ラルフはスポーツドリンクのボトルを取り、呷った。

「頼む、他の連中には口外しないでくれ」

 動揺と混乱に襲われたマサヨシが懇願すると、ラルフは笑った。

「そう思うんだったら、最初から手を付けるなよ。船長どの」

「俺もそう思ったんだが…」

 マサヨシは項垂れると、重たく息を吐き出した。気を逸らしていても、いつのまにか彼女が心を埋め尽くしてくる。
無意識に彼女を探し、視線を向けてしまう。微笑みかけられると鼓動が跳ね、触れられると息が詰まってしまう。
頑なだった態度が柔らかくなり、笑顔を知ると他の表情が見たくなり、声を聞かないと不安に襲われ、寂しくなる。
互いの勤務の都合で会えない日が続くと、泣きたい気分になる。傍にいてくれるだけで、何もかもが満たされる。
 いつのまにか、サチコはマサヨシの一部と化した。まるで、ずっと前からそうなることが決まっていたかのようだ。
運命など信じたことはないし、下らない概念だとしか思わなかったが、今ばかりは運命を信じざるを得なかった。

「珍しいな、マサがそこまで女に溺れるなんてよ」

 ラルフは空になったボトルをダストシュートに投げ捨て、ベンチに身を預けた。

「俺はサチコのことはよく知らんが、見かけによらず具合がいい女なのか?」

「そういう良さじゃない」

 マサヨシは友人に意識を戻し、言葉を選びながら話した。

「サチコの良さは、ある程度近付いてみないと解らないさ。真面目だが、その割に自己管理が下手で、仕事に熱中しすぎているせいで女らしいことには無頓着で、掃除は出来るが料理は下手なんだ」

「案外弱点が多いんだな、サチコは」

「そうなんだ。だが、今聞いたことはすぐに忘れてくれ。俺以外に知られるのは面白くないんだ」

「だったら話すな!」

 ラルフは呆れ半分不愉快半分で、マサヨシの後頭部を張り飛ばした。

「すまん」

 後頭部を押さえて、マサヨシは緩んだ笑みを浮かべた。話したくないのは本当だが、話したい気持ちもある。
サチコがどれだけ可愛らしく、素晴らしい女性かを知っているのが、自分一人だけだというのは惜しいと思った。
しかし、自分以外の男がサチコのことを知っていると思うだけで嫉妬心が膨れ上がってしまうのも、また事実だ。
矛盾した感情だが、どうにもならない。ラルフは腹立ち紛れにタバコを吸っていたが、ゆったりと煙を吐き出した。

「んで、人生絶好調のお前の贅沢な悩みってのは何なんだ?」

「そんなに良いものじゃないさ」

 マサヨシはラルフからタバコを一本もらうと、火を灯した。

「これから先、どうしたらいいのか解らないんだ。この船が次元管理局に到着すれば、俺達全員に与えられた任務は解除される。俺もお前も元の場所に戻って、一年前の続きをするだけなんだ」

「まあ、そりゃあな」

 タバコを口元から外したラルフは、ため息混じりの煙を吐き出した。

「マサには、帰還早々に辞令が下ると思ってまず間違いないだろう。木星基地でエースパイロットだった頃から軍部から目を付けられていたわけだし、次元探査航行の成果によっては一足飛びに中佐にまでなるかもしれない。そうなっちまうと、ますますマサが遠くなっちまうな。学生時代が懐かしいぜ。毎日飽きもせずに連んで馬鹿やって、下らないことで一日中騒いで、どうしようもないことでぐだぐだ悩んでたお前が、今となっちゃ船長様だもんな。挙げ句の果てに、品行方正で清廉潔白で頭脳明晰な女に惚れられたんだからよ。そこまで充実しているんだから、何も悩むことなんてないだろうが。やりたいようにやっちまえ、それが一番だ」

「だが…」

 マサヨシが言い淀むと、ラルフは舌打ちした。

「自惚れるくらいの自信を持ったらどうなんだ、マサ。お前には、それぐらいの価値と立場があるんだよ」

「俺は、そこまで立派な人間じゃない」

「そう思うんだったら、尚更胸を張ることだ」

 ラルフは灰皿にタバコを押し付け、火を消した。

「船が着いたって、何も変わりゃしないさ。変わらないって信じろ。むしろ、サチコに信じさせてやれ」

 それが船長の仕事だろうが、と背中を乱暴に叩かれたマサヨシは、思い掛けない衝撃で咳き込んでしまった。
ラルフは次のトレーニングがあると言い残し、立ち去った。マサヨシはタバコを消してから、しばらく考え込んだ。
 サチコの笑顔を曇らせたくない。最初に浮かんできた思いを軸に考えていると、おのずと答えが現れてきた。
しかし、そこまで踏み切る勇気はなかった。心から好きなのに、離したくないのに、肝心なところで心が揺らいだ。
 原因はどちらもまだ若すぎるからだろう。マサヨシは今年で二十四歳になるが、サチコはまだ二十一歳なのだ。
仕事にも慣れ、生活にも慣れ、ようやく馴染んできた頃だ。そんな時に、彼女の人生を変えてしまうべきなのか。
けれど、今、言わなければ機会を逃す。サチコとの恋は、閉塞された世界の中での現実逃避で終わらせたくない。
 彼女との時間を、続けるために。


 そして、ウィンクルム号は一年間に渡る航行を終え、太陽系圏内に突入した。
 ワープ空間を抜けた先に、円筒形のコロニーが浮かんでいた。次元管理局は、一年前と何も変わっていない。
レーダーに捉えられたコロニーの姿を拡大し、全面モニターに映し出すと、ブリッジには安堵と歓喜の声が起きた。
 今、この光景を全ての搭乗員が見ている。一年間に渡る航行を終えた達成感を皆で同時に味わうためだった。
モニターというモニターがブリッジと同じ映像を映しており、次元管理局からの通信も全ブロックに伝わっていた。
きっと、サチコも研究部で見ているはずだ。この時ばかりは、仕事に命を捧げるサチコも手を止めているだろう。
 太陽光が船体に注ぎ、モニターの端が煌めいた。近隣の惑星の重力が掛かり、かすかに船体を軋ませてくる。
新人類は故郷と言うべき惑星は滅びているが、故郷と呼ぶべき宙域はある。闇の深さも、少し柔らかく思える。
マサヨシも安堵感を味わいつつ、船長席からブリッジを見下ろし、管制官同士ではしゃいでいるステラを呼んだ。

「ステラ」

「なんでっか?」

 ステラは素早く顔を上げ、マサヨシを見上げた。

「今から、全ブロックに船内放送をする。船長としての最後の仕事だ」

 マサヨシが立ち上がると、ステラは敬礼した。

「了解や! 最後のお仕事、気張ってくんなましー!」

 ステラはすぐさま手元のコンソールを叩き、マサヨシの元へ船内通信のチャンネルを集中させ、回線を開いた。
マサヨシは船長席に設置されたコンソールを操作し、ホログラフィーモニターを展開し、全回線解放を確認した。
船内通信用の情報端末を通信回線に接続し、細かな調整を終えてから、マサヨシは深く息を吸って声を張った。

「次元探査船ウィンクルム号船長、マサヨシ・ムラタより、一年間生死を共にした全クルーへ告ぐ」

 マサヨシはブリッジを見渡しながら、続けた。

「俺はシーザー・イービス艦長が負傷したために急遽船長に就任したが、統率者としての力もなければ人生経験も浅く、君達にとってはさぞや頼りなく、不安の尽きない船長だっただろう。俺自身もそうだった。そんな俺が、今まで船長としての役目を全う出来たのは、言うまでもなく君達全員のおかげだ。君達が互いを信じ、船を信じ、俺を信じてくれたからこそ、俺は君達を無事に次元管理局まで連れて帰ることが出来た。心から感謝する」

 管制席から、小さく拍手が起きた。ステラや、他の管制官達からだった。

「航海が終われば、君達はまた元の任務に戻り、勤務に戻り、再び在るべき日常へ帰るだろう。だが、この経験が皆の人生にとって身のあるものとなることを信じている。少なくとも、俺にとっては人生が変わる航海となった」

 マサヨシは息を吸ってから、言った。



「結婚しよう、サチコ」



 ブリッジだけでなく、巨大な宇宙船全体が沈黙したように思えた。実際、全てのクルーが呆気に取られただろう。
レイラと同じく事の次第を把握しているらしいステラは真っ赤になっていて、管制官達から問い詰められている。
 ブリッジには次々に通信が入り、入電のアラームが鳴っている。だが、管制官達はステラに夢中で取り合わない。
操舵士達も目を剥き、口々に言葉を交わしている。知っていたか、俺は知らん、サチコってあれかあの電卓女か。
辛うじて仕事は忘れていないようだったが、気もそぞろになっている。マサヨシは、少々自分の行動を後悔した。
だが、もう手遅れだ。マサヨシは手早く操作し、サチコの持つ船内情報端末のシリアルを呼び出し、通信を入れた。

『…マサヨシ』

 小型のホログラフィーモニターに現れたサチコは、今までになく赤面していた。

「すまん、サチコ」

 平謝りしてから、マサヨシは笑いかけた。

「答えから、聞いて良いか?」

『どう答えたらいいのか、解らないわ。あなたから、そんなことを言われるなんて思わなかったから…』

 薄い耳朶まで朱に染めたサチコは俯き、身を縮めていた。

『凄く嬉しいの。けれど、嬉しすぎて、上手く言葉が出てこないの』

「答えは、君の言葉で聞かせてくれ」

『今すぐでなくちゃ、ダメ?』

「出来れば今がいい。俺だって、死ぬほど恥ずかしかったんだからな」

 マサヨシが照れ隠しに笑うと、サチコはちょっと眉根をひそめた。

『だったら、あんなことはしないで。私だって、気絶しそうなくらいに恥ずかしかったんだから』

 サチコは視線を彷徨わせ、口元を押さえ、言葉を選んでいたが、躊躇いのない眼差しでマサヨシを見つめた。
メガネの奥では、青い瞳が潤んでいる。赤らんだ頬の下で薄い唇の端を緩めて、困り顔に似た笑顔を浮かべた。

『あなたとだったら、どこへだって行けるわ。愛しているわ、マサヨシ』

「君がいてくれるなら、どんな星でも楽園になる。愛しているよ、サチコ」

 マサヨシが言葉を続けようとすると、モニターを覗き込んだステラがびくっと飛び跳ね、素っ頓狂な声を上げた。

「なんでオールオンラインのまんまやねーん!」

 と、いうことは。ホログラフィーモニター越しに顔を見合わせたサチコとマサヨシは、数秒後に全てを理解した。
つまり、プロポーズから以降の一部始終が全員に聞こえていたというわけであって。途端に、サチコは沈んだ。
恥ずかしさのあまりに、座り込んでしまったのだろう。マサヨシも、出来ることなら船長席から逃げ出したくなった。
だが、出来るわけもなく、人生で最も紅潮しているであろう顔を隠すために軍帽を引き下げて、深く座り込んだ。
 船内情報端末には、ラルフからの通信が入り、レイラからも通信が入り、次々に通信が飛び込んできていた。
だが、どれも受信出来るわけもなく、マサヨシは船内情報端末の回線を切断して何もかも無視することにした。
オペレーター席からは女達の好奇心に満ちたさえずりが、操舵席からは男達の下世話な話し声が聞こえる。
マサヨシはそのどちらにも耳を傾ける余裕はなく、サチコが返してくれた言葉を何度となく反芻して味わっていた。
 サチコとの時間は、これからも続く。そう考えただけで、先程までの羞恥心が幸福で吹き飛ばされてしまった。
今までは勤務の間を縫って会っていたが、これからはもっと長い時間を共に出来る。人生を、重ねられるのだ。
次元管理局に着いたら、まずは指輪を贈ろう。次に、照れすぎて参っているサチコを慰め、抱き締めてやろう。
そして、いずれは血を繋げよう。彼女と自分の遺伝子を受け継ぐ存在を、広大な宇宙の片隅に残してやりたい。
 この上なく、幸せだ。





 


08 10/30