アステロイド家族




リアル・ワールド



 長い夢を見ていた。
 ひどく生々しく、現実味のある、それでいて嘘臭い夢だった。疲労した脳には、やけに濃い余韻が残っていた。
だが、すぐに現実に意識を引き戻した。両手両足の可動、身体機能の稼働率、生体部品の破損状況を調べた。
手を握って開き、首を起こした。外装に傷が付き、戦闘服は破れていたが、これといった問題はなさそうだった。
安堵のため息を緩やかに漏らしながら、ヤブキは操縦席に身を預けた。モニターの外を過ぎる景色は、宇宙だ。

〈覚醒?〉

 頭上から掛かった彼女の声に、ヤブキは内心で笑みを返した。

「今し方」

 単語だけの返答の後、彼女はケーブルを操ってヤブキのインターフェースに繋ぎ、情報を流し込んできた。

〈現状確認を求める〉

 彼女が伝えてくる情報の数々に、ヤブキは失ったはずの胸が痛んだ。同胞達は、全滅にも等しい状況だった。
火星は制したが、木星までは制することが出来なかった。火星を征服した時点で、既に消耗は激しかったからだ。
その上で木星を攻めるという選択は、危険な賭けだった。だが、受け手に回ってはこれまでの戦いが無駄になる。
攻めて攻めて攻め抜いて統一政府軍を圧倒し、消耗させることが今回の作戦の最大の目的であり、第一段階だ。
征服した惑星を拠点に装備を強化するという第二段階に至るには、まだ早い。だからこそ、攻め入ることにした。
火星を征服された影響で木星の軍備が手薄になったと思っていたが、それは誘い込まれていただけだったのだ。
火星に主力を残したまま木星へと攻め入った自軍は、戦力を隠して待ち構えていた統一政府軍に迎え撃たれた。
そして、数時間に渡る攻防の末、自軍は旗艦を墜とされてしまった。最も足の速い戦艦、ダイアナU世号だった。
ヤブキは彼女が教えてきた戦死者の数を見つめていたが、大きな肩を落とした。これも全て、自分の責任なのだ。

「体勢を立て直すしかない」

 ヤブキが呟くと、彼女が答えた。

〈良策〉

「ひとまず、アステロイドベルト経由で土星のステルスベースに向かう」

〈了解〉

「操縦は俺に預けてくれ。君も疲れただろう、アウティ」

〈大丈夫。問題はない〉

「たまには俺に甘えてくれよ。君は、俺の妻じゃないか」

 操縦桿を取ったヤブキが笑いを零すと、彼女は僅かに恥じらった。

〈…了解〉

「素直で結構!」

 ヤブキは操縦桿を倒し、機体を加速させた。可変型機動歩兵、インテゲル号のイオンエンジンが唸りを上げた。
機体が震動し、星の輝きが伸びていく。アステロイドベルトに散らしたジャミング装置の間を通りながら、進んだ。
遙か彼方に浮かぶ第二のガス惑星、土星の姿が目視出来る。だが、ヤブキは木星に振り返ることはなかった。
敗戦の痛みは、いつもながら重たかった。彼らが散らした命を無駄にしないためにも、ただ前に進むしかない。
 ジョニー・ヤブキ総司令官率いる第三人類軍と、新人類である統一政府軍との戦争が開戦したのは去年だった。
ジョニー・ヤブキは、この宇宙でただ一人、旧人類でありながら宇宙時代に適応した進化した旧人類なのである。
旧人類でありながら新人類として生きるしかないヤブキは、自分の存在に対する違和感に常に悩み、苦しんだ。
唯一ヤブキを理解してくれたのは、火星の研究所で生体コンピューターに改造された女性、アウトゥムヌスだけだ。
ヤブキは自身の生い立ちに苦悩しながら己の心身を磨くために統一政府軍に入隊し、厳しい訓練に明け暮れた。
しかし、訓練すればするほど他の者達との差が開き、苦悩はより深くなった。そして、人種差別も度が過ぎてきた。
それまでは距離を置かれる程度だったが、ヤブキと同期の訓練生達はヤブキを蔑み、事ある事に危害を加えた。
だが、ヤブキはそれを耐えていた。自分さえ耐えていればいい、友人ならばアウトゥムヌスがいる、と思っていた。
けれど、ヤブキが耐えれば耐えるほどに彼らの攻撃は激しさを増し、遂にはアウトゥムヌスにまで及んでしまった。
 その日、アウトゥムヌスは訓練学校帰りのヤブキと待ち合わせをしていたが、その場に訓練生達がやってきた。
彼らはヤブキからの伝言があると出任せを言い、アウトゥムヌスを物陰に連れ込むと、五人掛かりで強姦した。
ヤブキが現れた時には既に遅く、アウトゥムヌスはしきりに謝り、ジョニー君は悪くない、と繰り返すばかりだった。
 当然、ヤブキは同期の訓練生達を訴えたが、証拠がないとして罪に問われることもなく、彼らは兵士になった。
しかし、ヤブキは別だった。アウトゥムヌスを強姦したのはヤブキの方だ、と彼らが証言した途端に拘束された。
即座に逮捕され、有罪が確定する寸前まで行ったが、最後の最後で立証出来ないことが証明されて釈放された。
だが、釈放された時には軍から除隊されていただけではなく、住居も処分され、コロニーの下層送りにされていた。
被害者であるアウトゥムヌスも同様で、狭く汚い部屋で息を殺しながら暮らし、ヤブキが帰ってくる日を待っていた。
 新人類とそうではない人類に対する差別は、遠い昔から続いていたが、新人類はそれを省みることはなかった。
ヤブキのような旧人類の実験体だけでなく、異星人との混血、突然変異による異能者、異形の者達は差別された。
彼らは自分に誇りを持つために第三人類と名乗り、生きているが、統一政府による恩恵は全く受けられなかった。
仕事もなければ金もなく、食糧もなく、あるのは新人類からの侮蔑と双方の居住区を隔てる分厚い壁だけだった。
 最低限の暮らしすら満足に出来ない日々をアウトゥムヌスと共に続けながら、ヤブキはひたすら訓練を続けた。
統一政府軍から横流しされた廃棄寸前の機動歩兵を手に入れ、それに乗って戦う術も身に付け、戦術も学んだ。
最初はアウトゥムヌスすらも怪訝な顔をしており、下層地区に住む者達もヤブキの行動に取り合おうとしなかった。
だが、訓練を続けるうちにヤブキは目に見えた実力を付け、下層地区を荒らしに来る軍人を倒すほどになった。
その頃になると、皆はヤブキを理解した。誰も守ってくれないのなら、己の力で戦うしかないことに気付いたのだ。
しかし、軍人に重傷を負わせた罪でヤブキは逮捕され、釈放された時には回復不可能なほどに痛め付けられた。
サイボーグになったのはその時だった。辛うじて無事だった脳を摘出し、フルサイボーグボディに移植したのだ。
 そして、ヤブキは第三人類の統率者となって軍隊を編成し、差別を滅するために統一政府軍に戦いを挑んだ。
それが、二年前の出来事だ。だが、最初から上手くいくはずもなく、様々な壁に衝突しながら戦いを続けていった。
軍備は在り合わせで、味方する者も少なく、軍勢も少なく、訓練も甘く、軍はヤブキのカリスマだけで出来ていた。
それでも、常に全力で戦った。僅かでも勝機があれば縋り付き、卑怯な作戦も展開し、意地汚く勝ち進んできた。
だが、木星の敗戦で勢いが止まってしまった。しかし、ここで立ち止まってしまっては、全てが無に帰してしまう。
 愚直に、進み続けるしかない。




 土星の環には、無数の小惑星が浮かんでいる。
 そのうちの一つが、第三人類軍の秘密基地だった。ヤブキが通信を送ると、ホログラフィーが消え、姿を現した。
ただの小惑星に偽装するためにカタパルトを隠していた立体映像が消え、岩盤が開いたので、その中に入った。
減速して着地すると、頭上で岩盤が閉じ、再度ホログラフィーが展開された。機体を固定されると、移動を始めた。
 カタパルトから格納庫に入ると、整備兵を始めとした兵士達がずらりと整列し、かかとを叩き合わせて敬礼した。
キャノピーを開いてコクピットからヤブキが出ると、ヤブキの帰還を祝う言葉が叫ばれ、ヤブキは彼らに敬礼した。

「ご無事で何よりであります、ヤブキ総司令!」

 ステルスベース駐留部隊隊長である少佐が、力強く声を張った。

「俺の機体が、連中に追尾されている可能性は大きい。現時刻より警戒レベルはレッドに引き上げ、全センサーを展開し、全ての土星基地に非常事態宣言を発令する。残された全勢力で、統一政府軍を迎え撃て!」

 兵士達を見下ろし、ヤブキが叫ぶと、兵士達は威勢良く声を揃えた。

「イエス、サー!」

 兵士達がそれぞれの持ち場に戻る様を見届けたヤブキは愛機のコクピットに戻り、座席の背もたれを倒した。
その後ろに、一メートル足らずのポッドが埋め込まれていた。卵のような形状で、金属製の外殻に包まれている。
外殻が開くと、緑の液体が満ちた卵が現れた。生体培養液の中で赤銅色の髪が揺らぎ、銀色の瞳が輝いていた。
 アウトゥムヌスだった。戦争初期の戦闘でアウトゥムヌスは搭乗していた機動歩兵を撃墜され、肉体を損傷した。
頭部と胸部は無事だったが、下半身が潰れ、両腕は機体の破片に切断され、両足も機体に挟まれて潰された。
救助されて一命は取り留めたが、首から下の器官を全て失って、声を出すことはおろか食事も出来なくなった。
意識を取り戻したアウトゥムヌスはスピーカーを通じて声を発し、ヤブキ機のコンピューターになることを志願した。
ヤブキは少し動揺したが、すぐに了承した。形はどうあれ、アウトゥムヌスと共に戦い、死ねるのなら本望だからだ。
そして、ヤブキはアウトゥムヌスの援護の元で戦い、アウトゥムヌスはヤブキを守り生かすために戦っているのだ。
アウトゥムヌスは脊髄と卵を繋ぐジョイントを曲げ、透明な卵の殻に顔を近寄せて、愛おしげにヤブキを見つめた。

〈ジョニー君〉

「アウティ」

 ヤブキは湾曲したパネル越しに彼女と口付け、その髪を撫でるように卵を撫でた。

〈もう、むーちゃんとは呼ばない?〉

 少しだけ寂しげに、アウトゥムヌスが瞼を伏せた。ヤブキは、照れ隠しに笑う。

「あれは子供の頃の話だろ、アウティ。俺達はもう、大人になったじゃないか。それに、天下の総司令が自分の妻をちゃん付けで呼べるわけがないじゃないか。部下に示しが付かないからな」

〈不服〉

 薄い唇を尖らせたアウトゥムヌスに、ヤブキは辟易した。可愛らしい小さな我が侭だが、だからこそ困ってしまう。
抱き締めたいと思っても、口付けたいと思っても、指先で触れるだけでアウトゥムヌスを傷付けてしまうのだから。
アウトゥムヌスの肉体は損傷が激しく、ポッドに満たした生体培養液でしか生命活動を維持することが出来ない。
外気に触れただけで皮膚は剥がれ、肉は溶け、骨は砕ける。脳を支えている頭部にも、構造補強手術を行った。
今は美しい顔立ちも、卵から出てしまえば途端に崩壊するだろう。だが、その儚さすらも愛おしくてたまらなかった。
せめてもの愛情表現にと、ヤブキは彼女の顔に触れるであろう位置に手を置き、少しでも距離を狭めようとした。
すると、アウトゥムヌスが顔を上げた。ヤブキが反射的に身構えた直後、格納庫全体に緊急警報が鳴り響いた。
 コクピットから身を乗り出すと、整備兵が射殺された。次々に致命傷を与えられて、血を噴き出して崩れ落ちる。
あっという間にインテゲル号の整備班は全滅し、異変に気付いて現れた兵士達の頭部も、熱線の糸に貫かれた。

〈ジョニー君〉

 アウトゥムヌスの平坦な声色が、少し強張っていた。

〈捕虜、脱走〉

「ああ、見れば解る」

 ヤブキはコクピットに身を隠すと、熱線銃を抜いた。愛機に繋げたままの視界を動かして、捕虜の姿を捉えた。
かなり戦い慣れた動きで兵士達を殺していく敵兵は、数日前に撃墜したスペースファイターのパイロットだった。
回収した機体の中で生存していたので、今後の交渉材料として、或いは情報源として使うために生かしたのだ。
だが、こんなに早く脱走されるとは。ヤブキはインテゲル号のコクピットを閉じ、操縦桿を握って機体を立たせた。
右腕の外装を開き、ビームバルカンの銃身を伸ばす。敵兵の姿を照準に入れたが、途端に姿は失せてしまった。

〈右斜め後方!〉

 アウトゥムヌスの叫声と同時に照準が上向き、敵兵の姿を捉えた。ヤブキはトリガーを引き、光弾を発射した。
内壁に降り注いだ光弾が着弾し、吹き飛んだ。だが、敵の生体反応はある。ヤブキは舌打ちし、目を凝らした。

「反応速度は、上出来だな」

 光弾の着弾地点よりもやや低い位置から立ち上がった敵兵は、軍服が裂けており、銀色の肌を曝していた。

「だが、相変わらず射撃の腕は最低だ。ジョニー・ヤブキ」

 そのサイボーグの肩には、中佐の階級章が付いていた。ヤブキは悔しさと遺恨で呻き、操縦桿を強く握った。
彼の名は、マサヨシ・ムラタ中佐。痛みの記憶しかない従軍時代の教官であり、そして、最も厄介な敵兵だった。
ヤブキが第三人類軍として戦争を起こした当初は退役していたが、すぐさま復帰し、最前線で戦うようになった。
現役時代から冴えていたスペースファイターの腕は、経験を積んだことで磨き上がられ、撃墜数は常にトップだ。
彼を捕虜にした時、勝利を確信した。だが、捕虜になったのは内部から壊すためだったのだとヤブキは悟った。

「降伏しろ、ジョニー。お前に勝ち目はない!」

 マサヨシは近付いてきた兵士を殴り付け、その首をへし折った。

「お前の起こしたこの戦いに、何の意味もない! 火星はお前らに征服されたんじゃない、統一政府が見限って切り捨てたんだよ! その時点で気付いたらどうなんだ、皆殺しにされているだけだってことをな!」

「違う! 俺は正しいことをしているんだ! まともな社会を作るためには必要な犠牲なんだよ!」

 ヤブキは銃口をマサヨシに定め、叫んだ。

「理想に酔って現実を見失った馬鹿ほど、惨めなものはないな。総司令官だかなんだか知らないが、お前は他の馬鹿共に祭り上げられただけなんだよ。お前には統率力なんて欠片もないし、増してや戦術の才は壊滅的なんだよ。お前を心から慕っている部下なんて、本当は一人もいないんじゃないのか? どいつもこいつも、俺達新人類から略奪することしか考えていないじゃないか」

 マサヨシは側頭部のアンテナを叩き、通信を発した。

「サチコ! アウトゥムヌスの頭脳回路に強制接続、生命維持装置を全て切ってやれ!」

〈了解よ、マサヨシ!〉

 快活な女性の声がマサヨシの通信装置に返った直後、インテゲル号が痙攣し、引きつった絶叫が上がった。

〈い、や、あぁああああああああああああっ!〉

 ヤブキが彼女の入った卵に振り返ると、卵の下部が開かれ、コクピット内部に生体培養液が流れ出してきた。
ごぼごぼと泡を立てながら、命を支える水が落ちていく。ヤブキは操縦桿を離し、塞ごうとするが、閉じなかった。
これは本来、生体培養液を循環させるための差し込み口だ。それが、外部からの操作で開かれてしまったのだ。
手を当てて塞ぐが、指の間から溢れていく。その間にも生体培養液は減少し、気泡と共に外気が侵入してきた。

〈や、ああ、あああああああ…〉

 スピーカーから聞こえるアウトゥムヌスの声が濁り、外気に触れた肌がずるりと滑り、頭蓋骨から髪が落ちた。

〈いや…みないで…じょにーくん…〉

 銀色の髪が培養液の水面に落下すると、二つの眼球も零れ落ち、着水した途端に視神経がぶつりと切れた。

〈いや…い、やぁ…〉

 かすかに動いた薄い唇も剥がれ、露わになった歯が崩れ、溶けた肉片が付いた頭蓋骨が自重で揺らいだ。
それを支えていた頸椎が割れると、ごとりと卵の底に落下し、砂糖菓子のように彼女の頭蓋骨が砕け散った。
割れた頭蓋骨の中から、脳髄が流れ出した。ヤブキは彼女の混じった生体培養液に膝を付き、がくがくと震えた。

「アウティ…。むー、ちゃん…?」

「それが現実だ、ジョニー」

 インテゲル号のコクピットに接近したマサヨシは、コクピットのハッチに熱線銃を突き付けた。

「うおおおおおおおおおっ!」

 ヤブキはコクピットを開いて飛び出し、マサヨシに掴み掛かるが、反対に投げ飛ばされて壁に叩き付けられた。
ヤブキが衝撃で呻いていると、マサヨシは脚部のスラスターを開き、急激に加速してヤブキの腹部に膝を入れた。
再度訪れた凄まじい重みに、ヤブキは背を曲げた。首を掴まれて壁に押し付けられ、額に熱線銃が据えられた。

「ジョニー。最後の授業をしてやろう」

 マサヨシは抑揚を変えることもなく、冷淡に言い放った。

「薄汚い劣等種族は、とっとと滅びろ」

「ちがぁうっ!」

 ヤブキはマサヨシの腕を掴み、熱線銃の銃口を強引に上げさせると、左腕を彼の腹部に当てた。

「俺達は劣っていない、劣っているのはお前ら新人類の方だ!」

 左手を握り締め、外装を開いた。内蔵していたレーザーガンをゼロ距離で発射すると、マサヨシは背を曲げた。
その隙に頭部を殴り、胸を蹴り、真下に叩き落とした。格納庫のメンテナンスドッグに落下した彼を、追尾する。
脳震盪に陥っているマサヨシの頭部を最大出力で蹴り付けると、首のシャフトが折れ、人工体液が散らばった。
頸椎に絡むケーブルを乱暴に引き裂いて、首から下の制御を奪ってから、ヤブキはマサヨシの頭部を千切った。

「俺達が何をした!」

 ヤブキはマサヨシの頭部を両手で頭上に掲げ、力一杯握り締める。

「俺達は、ただ生きていたいだけだ!」

 ヤブキの指がマサヨシの頭部の外装にめり込み、ブレインケースに及び、人工髄液が指を伝って流れ落ちる。

「お前ら新人類は、それすらも許してくれなかったんじゃないかぁあああああっ!」

 ヤブキの絶叫と共に、握力が最大になった。ヤブキの手の間でマサヨシの頭部は潰れ、体液が飛び散った。
頭上からぼろぼろと落ちてくるマサヨシの脳髄を浴び、ヤブキは汚れた両手で顔を押さえ、背を丸めて震えた。

「ただ、それだけなんだ…」

 それだけの願いを叶えたいがために、犠牲は増えていく。両手に絡んだマサヨシの脳漿も、その中の一つだ。
マサヨシは、憎らしい人間だった。高圧的で選民意識がひどく、旧人類であるヤブキを心底蔑んでいた男だった。
だが、殺したいほどではなかった。マサヨシが戦争に参加しなければ、こうして手に掛けることもなかっただろう。
しかし、マサヨシは同胞を殺し、最愛のアウトゥムヌスを殺した。だが、それはヤブキがこの戦争を起こしたからだ。
本を正せば、差別意識の抜けない新人類が悪いのだろう。けれど、戦争を起こしたヤブキは、彼らと同罪なのだ。
だから、戦い抜くしかない。ヤブキの犯した罪が現実を塗り替え、差別の壁を破り、新たな世界を造り出すまでは。

「大丈夫。問題はない」

 アウトゥムヌスの口癖を真似、ヤブキは背筋を伸ばした。

「まだ、やり直せる」

 木星での敗北は勝利へと繋がる布石だ。アウトゥムヌスの死は貴い犠牲だ。英霊となり、皆を守ってくれる。
マサヨシの死も、ただの犠牲では終わらせない。良きにせよ悪きにせよ、今後の戦略に有効利用してやるのだ。
正しいことをしているのだから、必ず勝利する。ヤブキは脳漿に汚れた両手を見つめていたが、強く握り締めた。
 あの夢は、妄想が造り出したものだ。そうでなければ、ヤブキがマサヨシと共に笑い合って生活するわけがない。
マサヨシは決してヤブキを受け入れず、最後まで軽蔑していた。そんな男と、暮らしている世界など有り得ない。
異なる種族同士で思いやり、異なる境遇の者同士が居を共にし、憎悪の代わりに信頼と愛を向け合う世界など。
 美しすぎて馬鹿げている。





 


08 11/6